オーディオにとって真の科学とは(コメントを読んで)
(その5)にコメントがあった。
リンクしていても、読む人は少ないのがわかっているから、
paunogeira氏からのコメントを、ここに転載しておく。
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100mを9秒台で走れる人がいるように、「ケーブルで音が変わる」のを聴き取れる人は、おそらく百人に一人か千人に一人かの割合で存在するだろうと思います。しかし、「ケーブルで音が変わる」ことがオーディオ装置を論じる上で見落とせない要素であると主張したいのであれば、
1. 事象が存在しないこと(消極的事実)の証明は大変困難なので、存在を主張する側が証明するというのが、議論をするときの一般的なルールであると考えられること(宇宙人がいないことの証明は実際上できません)。
2. 自己の能力が他人よりも優れていることを主張する場合、優れていると主張する側が説明を尽くすのが礼儀であると考えられること(お前は劣っていると言われる身になってみればわかります)。
以上の二つの観点から、「ケーブルで音が変わる」と主張する立場の方が、証明とまではいかなくてもそれなりに筋の通った説明をつける努力をすべきでしょう。それをしないで「ケーブルで音が変わることはない」と主張する人々を非難するのは、たとえその人々の言説がどんなに低レベルであったとしても、いわゆる逆ギレのように思われます。
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ケーブルに関しては、
《「ケーブルで音が変わる」ことがオーディオ装置を論じる上で見落とせない要素であると主張したい》
わけではない。
この項の(その1)に書いているが、
ケーブルによる音の違いが聴きとれるかどうかは、耳の音の変化に対する閾値の違いであり、
何もこまかな音の違いを聴き分けているから、オーディオでいい音が出せるとは限らないし、
そうでないからといっていい音が出せないわけでもない。
少し誤解があるようなのだが、音の聴き分けに関しても、
ケーブルの音の違いが聴きとれている人でも、違う音の変化にはひどく鈍感なこともある。
音の変化、違いといっても、実にさまざまだ。
あれこれ音を変えながら、誰かに一緒に聴く機会がある人ならば感じているはずだが、
その人その人によって、敏感なところと鈍感なところがあるものだ。
すべてに関して敏感な耳の持主は、私の知るかぎりでは井上先生だけである。
だから、鬼の耳といわれていたわけだ。
こんなことを書いている私も、敏感なところもあれば鈍感なところもある。
要は、それを自覚しているどうかである。
100mを9秒台で走れる人は、確かにすごい。
けれど、100mを9秒台で走れる人が、
どんなことにおいてもすごいかというと、それは違うのと同じことだ。
それから、(その1)で書いていることのくり返しなのだが、
音のこまかな聴き分けができるから、いい音が出せるとは限らない。
違いがわかるだけではだめであって、
細かな音の違いの聴き分けが苦手であっても、いい音は出せるものである。
能力と書かれているから、あえてオーディオマニアとしての能力とするが、
それは細かな音の聴き分けではなく、どういう音を鳴らせるかのはずだ。
書きたいことは、もう少しあるけれど、それらはすでに書いてきていることであり、
そのくり返しになるから、このへんにしておく。
REPLY))
こんなに早くお返事をいただき、ありがとうございます。「オーディオにとって真の科学とは」の1から5までを使ってケーブルを話題にされていましたので、てっきり《オーディオ装置を論じる上で見落とせない要素であると主張したい》のだろうと思ってしまいました。一般的には、大々的に記事に取り上げるからには、それなりに重要な要素なはずですが、そこは違うとのことで失礼しました。
wikipediaから引用しますが、科学の定義として「どのような手段によっても間違っている事を示す方法が無い仮説は科学ではない」というのが割とポピュラーかと思います。(もちろん、wikipediaが正しいとは限らないことは重々承知していますが、この定義は他でも良く目にするのではないかと思います。)
オーディオにまつわる言説には、反証可能なものと不可能なものとがあると思いますから、科学的な部分もあれば、そうでない部分もあるということなのでしょう。