Archive for category オーディオの「美」

Date: 6月 14th, 2017
Cate: オーディオの「美」

人工知能が聴く音とは……(その3)

別項「会って話すと云うこと(その3)」で、
アナログプレーヤーの調整に六時間かけた人に対する印象の違いについて書いた。

この話をしてくれた人は、
調整に六時間もかけて、すごい人だ、オーディオのプロだなぁ、と感心した、ということだった。

私は反対だった。
熱心なオーディオのアマチュアの方だな、と感じていた。

はっきりと記憶していないが、
六時間の調整は、フローティング型プレーヤーのサスペンションの調整だったはず。

四年ほど前に書いたことも、ここでもう一度取り上げているのは、
この項の(その2)で、リンクしている羽生善治氏のインタヴュー記事を読んだからである。

ある意味、サスペンションの調整に六時間かけるということは、
人工知能的といえるような気がした。

コンピューターの処理能力の驚異的な向上により、
わずかな時間でも膨大なシミュレーションが可能になっている。
考えられるかぎりのシミュレーションを行うことは、人間の脳では無理なことであり、
だからこそ、羽生善治氏が述べられているように、
《人間の思考の一番の特長は、読みの省略》があるわけだ。

フローティング型プレーヤーのサスペンションの調整と、
将棋における読みを完全に同一視できないのはわかったうえで、
それでも読みの省略なしに、ただただ順列組合せ的にすべてを試してみるということは、
プロフェッショナルとアマチュアとの根本的な違いそのもの、とも思える。

羽生善治氏のインタヴュー記事を読んでから考えているのは、
省略の美、ということだ。

Date: 4月 4th, 2017
Cate: オーディオの「美」

人工知能が聴く音とは……(その2)

iPhoneにインストールしているGoogleアプリが、
「3月のライオンに興味のある方に」とカードを提示する。

すべてをクリックするわけではないが、いくつかはクリックする。
クリックした先で、また別のリンク先をクリックする。

そうやって今日、興味深い記事を見つけた。
二年前の記事だ。
タイトルは『羽生善治「コンピュータ将棋により人間が培った美意識変わる」』。
ぜひ読んでほしい。

オーディオのことはもちろん出てこないが、
オーディオの将来と聴き手の美意識について示唆的であり、考えさせられる。

後半のところだけ引用しておく。
     *
──より将棋を深められると。いいことばかりですか。
 
「いや、どうしても相容れられない部分もあると思います。人間の思考の一番の特長は、読みの省略です。無駄と思われる膨大な手を感覚的に捨てることで、短時間に最善手を見出していく。その中で死角や盲点が生まれるのは、人間が培ってきた美的センスに合わないからですが、コンピュータ的思考を取り入れていくと、その美意識が崩れていくことになる。それが本当にいいことなのかどうか。全く間違った方向に導かれてしまう危険性も孕んでいます」
 
──長い年月をかけて醸成されてきた日本人の美意識が問われている。
 
「変わっていくと思います。今まではこの形が綺麗だとか歪だと思われていた感覚が、変わっていく……」
     *
同じことはオーディオにもいえよう。

それから《人間の思考の一番の特長は、読みの省略》、
これはそのままオーディオのチューニングにおいてもそうである。

Date: 4月 2nd, 2017
Cate: オーディオの「美」

音の悪食

音の美食家だ、と自身のことをおもっている人は、けっこういそうである。
けれど、音の悪食だ、とおもっている人は、どのくらいいるのだろうか。

かくいう私も、音の美食家とはおもっていないが、
だからといって音の悪食ともおもっていなかった。

けれど、いまごろになって、どうだったのだろうか、とふり返っている。
音の悪食といえる聴き方をしてきだろうか、とおもっている。

Date: 8月 25th, 2016
Cate: オーディオの「美」

美事であること(50年・その2)

見事ではなく美事とすれば、
ステレオサウンドが50年を迎えることは、
オーディオ雑誌として季刊誌としては、見事とはいえようが、
いまの(というかここしばらくの)ステレオサウンドは美事といえるだろうか。

私は美事であってほしいと願っている。
願っているのだから、美事ではないと思っているわけだ。

これを書いている私も、あと10年すれば、
オーディオマニアとして50年を迎えることになる。

Date: 7月 3rd, 2015
Cate: オーディオの「美」

美事であること(50年・その1)

50年を半世紀ともいう。
私も半世紀ちょっと生きている。

ステレオサウンドも来年秋、50年(半世紀)を迎える。
このことはステレオサウンドが創刊されたころ、
すでに世の中に登場していたオーディオ機器も半世紀を迎えるということでもある。

例えばマランツのコントロールアンプ、Model 7も登場して50年以上経っている。
いまもModel 7で聴いている人は少なからずいる。

いまもコンディションのいいModel 7は高値で取り引きされている。
高値で取り引きされているからコンディションがいいわけでは決してないのだが、
そういうコンディションのModel 7も高値がついていたりする。

50年(半世紀)経っているわけだから、
新品を購入し、どれだけ大事に使ってきたとしても、メンテナンスは必要である。
どんなメンテナンスを施されてきたのかでも、コンディションは変ってくる。

いま現在、どれだけきちんとしたコンディションのModel 7があるのか、
はっきりとしたことはわからないけれど、
そういう状態にあるModel 7が、その語、登場した数多くのコントロールアンプよりも、
優れているところを持っているからこそ、いまも愛用する人がいるわけだ。

つまりModel 7は50年生き残っている。
Model 7だけではない、他にも50年生き残っているオーディオ機器がある。

Date: 6月 30th, 2015
Cate: オーディオの「美」

美事であること

素晴らしい、という。
素晴らしい音、素晴らしいスピーカー、そんな使い方をする。

これまで素晴らしいに関して、何の疑問も感じていなかった。
けれど別項の「素朴な音、素朴な組合せ」を書き始めて、
素朴、素晴らしいに共通する「素」の原意を辞書でひくと、
素晴らしいがなぜ、素晴らしいと書くのかがわからなくなってくる。

素晴らしいの意味は、どう書いてあるのか。
大辞林には、こう欠いてある。

(1)思わず感嘆するようなさまを表す。
 (ア)(客観的評価として)この上なくすぐれている。際立って立派だ。「—・い眺望」「—・いアイデア」
 (イ)(主観的評価として)きわめて好ましい。心が満たされる。「—・い日曜日」「—・いニュース」
(2)程度がはなはだしいさまをいう。
 (ア)現代語では,多く好ましい状態について用いられる。驚くほどだ。「—・く広い庭園」「—・く青い空」
 (イ)近世江戸語では,多く望ましくないさまをいうのに用いられる。ひどい。「此女故にやあ—・い苦労して/歌舞伎・与話情」

意外だったのは、近世江戸語では、多く望ましくないさまをいうのに用いられる、とあることだ。
それがいつしか誤解され、現在のような好ましい意味で使われるようになったらしい。

とはいえ、素晴らしいと使うのをやめるべきとは思わないけれど、
以前以上に、素晴らしいと使うことに抵抗を感じるようにはなっている。

となると、素晴らしいではなく、なんと表現するのか。
美事(みごと)を使おう。

みごとは見事と書く。
大辞林で「みごと」をひくと、見事・美事の両方が載っているが、
美事は当て字である、と書いてある。

この当て字がいつから使われるようになったのかは知らない。
けれど、オーディオこそ「美」であると考えれば、
私は、いまのところ素晴らしいよりも美事のほうが、オーディオがどういうものかを深く表していると思っている。

Date: 5月 24th, 2015
Cate: オーディオの「美」

美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない、を考える

美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。

別項「正しい音とはなにか?」の(その8)でもとりあげた。
小林秀雄の有名すぎる一節であり、これまでにいろいな解釈がなされている。

私はオーディオマニアだから、まず「花」を「音」に置き換えて考えてみる。
それでもわかったようなわからないような……。

だが「花」を別のものに置き換えてみたら、どうだろうか。
「月」である。

美しい「月」がある、「月」の美しさといふ様なものはない。
こうなるわけだが、月そのものは、ほんとうに美しいのか、と思う。

夜空に浮ぶ月は、美しいな、と思うことはある。
けれどわれわれは実際の月を写真で見て知っている。
月の表面がどうなっているのかを知っている。

私は月そのものを美しいとは思えない。
けれど遠く離れたここ(地球)にいて、夜空の月を眺めれば美しい、と思う。

となると、美しい「月」がある、「月」の美しさといふ様なものはない、といえるのか。

Date: 3月 22nd, 2015
Cate: オーディオの「美」

人工知能が聴く音とは……(その1)

自動運転の車が現実のモノとなるのは、漠然とずっと遠い未来のことだと思ってきた。
自動運転の車は、映画、マンガ、小説などの世界にはずっと以前から登場していた。
いつかは登場してくるであろうけれど、ずっとずっと遠い未来のことであり、
生きているうちには登場しっこない、と思い込んでいた。

現実は、ある時点から加速していく。
自動運転の車は、すぐそこの未来のモノになっている。

自動運転を可能とするのは人工知能の進化である。
どこまで進化するのはわからないけれど、
自動運転ができるのであれば、人工知能が音を聴いて判断して調整することも、
そろそろ登場してもよさそうに思えてくる。

すでに、その兆しを感じさせるモノはいくつか登場してきている。
ここ数年で加速していくような予感すらある。

人工知能が近い将来そうなっとして、
私が期待したいのは人間とまったく同じ音の聴き方ではなく、
人工知能ゆえの音の聴き方である。

人間と違う聴き方を人工知能ができるようになれば、
それを人間である聴き手に提示してくれることも可能になる。

人工知能が、いままで気づかなかった音の聴き方を示唆してくれる可能性が考えられる。
私は人間とまったく同じ聴き方をする人工知能よりも、
違う聴き方をする人工知能に期待している。

Date: 1月 21st, 2015
Cate: オーディオの「美」

オーディオの「美」(美の淵)

絶望の淵とか死の淵などという。
絶望の淵に追いやられる、死の淵に立たされる、ともいう。

幸いなことに、私はまだ死の淵、絶望の淵に立たされたり追いつめられてはいない。

オーディオは美の淵なのだろうか、とふと思った。

よくオーディオは泥沼だ、といわれる。
いまもそうなのかはよく知らないが、昔はよくいわれていたし書かれてもいた。
その泥沼に喜んで身を沈めていくのがオーディオマニアである、とも。

この項へのコメントを、川崎先生からfacebookにいただいた。
「オーディオの美ではなく、オーディオはすでに美であるべき!」とあった。

オーディオは美であるべきなのに、それを泥沼とも表現する。
泥沼は泥沼である。もがけばもがくなど深みにはまっていく。そして抜け出せなくなる。

けれど、この泥沼はオーディオマニアと自認する人、まわりからそう呼ばれる人にとっては、
案外と居心地のよいところもあるのかもしれない。

でも、それでも泥沼は泥沼である……。

こんなことを考えていた。
そして、この泥沼の淵は美の淵なのだろうか、とも考えた。

いまのところは、美の淵という言葉を思いついただけである。
この美の淵に、オーディオは聴き手を導いてくれるのか。

なにもはっきりとしたことは、まだ書けずにいる。
それでも、美の淵について考えていこう、と思っている。

Date: 1月 17th, 2015
Cate: オーディオの「美」

オーディオの「美」(コメントへの返信・その4)

上野晃一様のコメントは、16日にもあった。
そこに、オーディオ評論の「美」とある。

いますぐというわけではないが、オーディオ評論の「美」もテーマになる。
何か書いていける予感がした。

オーディオ評論の「美」は、オーディオの「美」のひとつでもあるかもしれない。

Date: 1月 17th, 2015
Cate: オーディオの「美」

オーディオの「美」(コメントへの返信・その3)

オーディオ評論家とオーディオ雑誌の編集者。
一般的にはオーディオ評論家の方が編集者よりもオーディオのプロフェッショナルであるように思われている。
当事者たちもそう思っているのかもしれない。

けれど本来はどちらがオーディオのプロフェッショナルとして上ということではなくて、
同等にオーディオ・エンジニアリングに長けていて、
その上でオーディオ評論家とオーディオ雑誌の編集者とでは役割が違うだけのはずだ。

だが実際には……。
この人(たち)は、オーディオのプロフェッショナルなのだろうか、
オーディオ・エンジニアリングに長けているのだろうか。

私はオーディオ評論家、オーディオ雑誌の編集者はオーディオ業界の中心にいると考える。
オーディオ評論家とオーディオ雑誌の編集者がオーディオ業界の主人公というわけではなく、
あくまでも業界の中心にいると見ている。

だから、くり返すが、彼らはオーディオ・エンジニアリングに長けていなければならない。
オーディオのプロフェッショナルとして、である。
つまり圧倒的であってほしいのだ。

圧倒的といえるほど長けている人たちがオーディオ業界の中心にいれば、
彼らに接しているオーディオ業界の人たちも感化・触発・挑発されていくのではないのか。

私がグールドの演奏が残酷だという話をした知人も、オーディオ業界にいた人だった。
彼はいまも自身のことをオーディオのプロフェッショナルと自認・自称している。

私は自称であれ他称であれ、オーディオのプロフェッショナルを名乗っている人に対しては、
はっきりというようにしている。
オーディオマニアの中には、キャリアの短い人やシステムの総額がそれほどでない人を、
オーディオの素人という人もいる。

誰かをオーディオの素人というのであれば、
その人はオーディオの玄人(プロフェッショナル)といっているのと同じである。

認めるところは認める。
けれど、あまりにもいいかげんなことを言っている人(オーディオのプロフェッショナルであるべき人)には、
「あまりにたやすく他者の異論を一蹴する」と思われてしまうことでも書いていく。

オーディオ業界がよくなれば、オーディオの世界はより広くより深く楽しく素晴らしくなっていくはずだ。
なのに、いまのオーディオ業界にははっきりと欠けている「もの」がある。

Date: 1月 15th, 2015
Cate: オーディオの「美」

オーディオの「美」(コメントへの返信・その2)

あるスピーカーの輸入商社の社長に、こんなことを話したことがある。
そのスピーカーは振動板にチタンを採用していた。
そのスピーカーに私は惚れ込んでいた。いまも惚れ込んでいる。

それで「振動板、カーボンもいいはず」と話した。
動作原理からいってカーボンでも動作するはずだし、
チタンとカーボン、どちらが優れているかは現実に製品化されなければなんともいえないものの、
カーボンにはカーボンならではの素材のよさがあるのだから、
チタン採用とはまた違うよさを、そのスピーカーから抽き出してくれるはず、という確信があった。

だが返ってきたのは「カーボンなんてありえない」だった。
どうもカーボンでは動作しないと判断しての即答だった。
それ以上、この件については話さなかった。

その一年後くらいして、そのメーカーからカーボンを採用したヴァージョンが登場した。
チタンがいいのかカーボンがいいのか、それは聴く人に委ねられているわけだが、
やはりカーボンで出してきたな、と思ったけれど、そのことを蒸し返す気はなかった。

オーディオ・エンジニアリングに長けている、長けていようとする人ならば、
そのスピーカーでのカーボンの可能性に気づいて当然である。

以前、「気になっている(その3)」で書いたが、
オーディオ業界に属している人は、オーディオのプロフェッショナルであるべきだ。
けれど、そのスピーカーの輸入元の人は残念ながら違っていた。

カーボンの可能性に気がつかないから、というわけではない。
誰しも気づかないことはある。
だがそれを誰かから指摘されたときに、その人がオーディオのプロフェッショナルであるならば、
すぐに気づかなければならない。

そのスピーカーの輸入商社の社長は、オーディオ業界にいるわけだから、
オーディオ評論家、オーディオ雑誌の編集者といった、
オーディオのプロフェッショナルであるべき人たちと仕事で日常的に接している。

ここで彼らがオーディオのプロフェッショナルであったならば、
輸入商社の社長もオーディオのプロフェッショナルとなっていたようにも思える。

Date: 1月 15th, 2015
Cate: オーディオの「美」
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オーディオの「美」(コメントへの返信・その1)

この項の(その4)へ、上野晃一様のコメントがあった。

グールドの演奏が残酷であると感じたことを、ある人に話した、と書いた。
ここのところは、ある人を否定することにもつながるから、それ以上のことは書かなかった。
言葉足らずなのかはわかっていた。

言葉たらずなのだから、上野様のコメントにあるように、
そういう受けとめ方をされるかも、と思っていたけれど、それはそれでいいかな、と思い、
あえて言葉足らずのままにしておいた。

知人の「あたりまえじゃないですか」の後には、
「彼はプロなんですよ」という言葉が続いていた。
その人とのつきあいは長かった。

彼と話すことといえば、オーディオと音楽の話ばかりだったといってもいい。
それでも、彼に私がいいたかったことは伝わらなかった。
ここで知人との会話の逐一を書いたりはしない。

コメントには、
《グールドのピアノが残酷なのは「あたりまえ」です。
他者に冠絶するがゆえに、彼の人の演奏はかくも美しいのだから。》とある。

知人の「あたりまえ」とコメントにある「あたりまえ」は同じ意味で使われているとは、私には思えない。

知人と私の関係をほかの人は知らないのだから、
それに言葉たらずなのだから、そういうふうに受けとめられてもしかたない。

それでも、「あまりにたやすく他者の異論を一蹴」したのではない。
こんなことをここに書くことではないのだが、
「あまりにたやすく他者の異論を一蹴する」のは知人の方だとつねづね感じていた。

一蹴するのは、別にかまわない。
人の話を禄にきかずに知人はたやすく一蹴する。
そういうことがあって、昨日のプログであった。

コメントには「才能の隔絶による絶望を味わったことが、果たしておありでしょうか?」とある。
オーディオに関する限りはない、と答える。
なんという自惚れといわれても、オーディオに関しては「才能の隔絶による絶望」はまだ味わっていない。
これから先、味わうことになるかもしれない。先のことはわからない。

だからといって才能の差、違いを感じていないわけではない。
私よりも専門知識を持っている人はいる。けっこうな数の人がいる。

たとえばメーカーのエンジニア。
スピーカーのエンジニア、アンプのエンジニア、
そういった人たちのスピーカーに関する専門知識、アンプについての専門知識は私の敵うところではない。
けれど、オーディオの難しいのは、
スピーカーの専門知識をもった人がオーディオの専門家といえるかどうか、
アンプの専門知識をもった人がオーディオの専門家といえるかどうか。

スピーカー・エンジニアリング、アンプ・エンジニアリングが、
オーディオ・エンジニアリングと常に直結しているとはいえない。
だからこそオーディオ評論家の存在が求められるのだと考えてもいる。
そしてオーディオ評論家の活躍の場となるオーディオ雑誌の編集者も、
オーディオ・エンジニアリングに長けていなければならない、とも考えている。

Date: 1月 14th, 2015
Cate: オーディオの「美」
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オーディオの「美」(その4)

もう30年ちかく前のことだ、20代半ばだったころ、グレン・グールドのピアノを聴いていて、
なんて残酷なんだろう……と感じた。

グールドの演奏を聴いていると、ピアノを弾ける、ということは、なんと素晴らしいことだと思える。
人生を最初からもう一度やり直せるのであれば、ピアノを弾けるようになりたい、とも思わせる。

けれど次の瞬間、なんと残酷なんだろう……、となっていた。

たとえピアノが弾けるようになるのに理想的な環境が与えられて、もう一度やり直したところで、
グレン・グールドのようには到底なれない。
一度だけではなく、二度三度やり直せたとしても、絶対に無理だ……。

圧倒的に隔絶したものを、グールドのピアノの音は感じさせていた。
だから、なんて残酷なんだろう……、と感じたのだろう。

この話を、ある人にしたことがある。
彼は「そんなのあたりまえじゃないですか」といった。
説明したけれど、彼の反応は同じだった。

それは彼の音楽の聴き方がそうなのであり、
同じようにグールドの演奏が素晴らしいとふたりともいっていても、違うだけのことだ。

そのときに、この人とは、「美」について真剣に語り合うことはないだろう、と予感した。
この予感は的中した。

Date: 1月 4th, 2015
Cate: オーディオの「美」

オーディオの「美」(その3)

2015年は未年(ひつじ年)である。

以前、美という漢字は、羊+大である。
形のよい大きな羊を表している、と書いた。

そういわれても、なかなか実感はわきにくい。
まず、なぜ羊なのか、と思う。

大きな羊は、人間が食べるものとしてではなく、
神に捧げられる生贄を意味している──。

神饌としての無欠の状態を「美」としている、ときけば、
美という字が羊+大であることへの疑問は消えていく。

となれば、美ということに対しての認識も変ってくる。