美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない、を考える(その3)
(その1)で、「花」を「月」におきかえてみた。
「月」の美しさといふ様なのがあるならば、
月に降りたったとき、月の表面を見ても美しいと思わなければならない──、
そんなふうに考えてみたわけだ。
(その1)では、「花」を「音」におきかえてみると、
わかったようなわからないような……、とも書いている。
では「音楽」におきかえてみたらどうだろうか。
「音」にしても「音楽」にしても、対象が漠然としすぎている。
「音楽」ならば、どれか特定の曲におきかえてみたらどうだろうか。
そう考えた時に、私の場合、真っ先に浮んだのはマーラーの「大地の歌」だった。
1980年代に、レコード芸術の名曲名盤で書かれていたことがずっと残っているからだ。
黒田先生は、「大地の歌」をきけば、いつでも感動する。
十全でない演奏で「大地の歌」をきいても感動する──、
そういったことを書かれていた。
美しい「大地の歌」がある、「大地の歌」の美しさといふ様なものはない。
そう言い切れるだろうか。
「大地の歌」は名曲といわれている。
だからこそレコード芸術の名曲名盤にも毎回取り上げられる。
「大地の歌」は交響曲だから、指揮者とオーケストラによって、演奏の出来は変ってくる。
十全な演奏もあれば,まったく十全とはいえない(思えない)演奏もある。
その十全でない「大地の歌」でも、黒田先生はきけば感動する、と書かれているのを、
どう解釈したらいいのだろうか。
美しい「大地の歌」とは、名演と評される「大地の歌」であり、
十全な演奏の「大地の歌」であるわけだ。
けれど十全でない「大地の歌」は、美しい「大地の歌」ではない。
それでも感動するということは、
十全でない「大地の歌」に、「大地の歌」の美しさを感じとっておられたからではないのか。
「大地の歌」には「大地の歌」の美しさがあるからこそなのではないのか。