人工知能が聴く音とは……(余談)
artificial intelligenceが、AI。
今日、気づいたのは、audio identityも、略すればAIということ。
次に思ったのは、artificial identityも、またAIだということ。
artificial intelligenceが、AI。
今日、気づいたのは、audio identityも、略すればAIということ。
次に思ったのは、artificial identityも、またAIだということ。
一週間前の水曜日、ぴあ分室で行ったaudio wednesdayでは、ダイヤソウルのスピーカーシステムに、少し手を加えたことは、すでに書いている。
それによる音の変化がどうだったのかも触れている。
誰の耳にも、手を加える前よりも良くなったという印象を与えたわけだが、ここで考えていたのは、トリノフ・オーディオのことだった。
ぴあ分室の音はトリノフ・オーディオによって音響補正がかけられている。
そのための測定は、私が手を加える前の音である。
では、いまの状態でトリノフ・オーディオで測定したら補正結果は変ってくるのだろうか。
やってみないことには断言はできないものの、私の予想としては変らない、である。
トリノフ・オーディオの名前を出したが、トリノフ・オーディオだけのことではないはずだ。
同様の機能をもつ機器で行っても、私が手を加える前と後で、測定結果と補正に変化が出てくるとは、いまのところは思えない。
あくまでも、いまのところ、である。
五年後、十年後は、どうなのかはわからない。
そうなってくれれば、面白いことになりそうな気がする。
生成AIで、画像も動画もつくれる時代。
私が知らないだけかもしれないが、オーディオ機器の試聴用音源も、生成AIによるものが出てくるのか。
すでに出ていてもおかしくないと思っている。
高音質音源として生成AIがつくり出すだけでなく、
オーディオ機器のそれぞれの違いが、誰の耳でもはっきりわかるような音源もつくれるはず。
そんな音源が登場したとしよう。
その音源で高い評価を得るオーディオ機器が、
市販されている音源(録音された音楽)を聴いて、どう評価されるのか。
同じ評価となるのか、まったく違ってくるのか。
違ってきたとしても、なぜ違いが生じるのかをフィードバックしていくことで、
生成AIがつくり出す音源は改良されていくだろうし、音質評価の深いところに光が当てられていくかもしれない。
人工知能は、いい音いい音楽を聴いて感動できるのか。
これから先、どんどん進歩し進化していけば、いい音の聴き分けも可能になっていくことだろう。
それこそスマートフォンで音を捉えて、音の良否だけではなく、
どういうところがダメなのか、それを解消するにはどういう手があるのか。
そういったことまで提案してくる日が、いつの日かあるだろう。
そこまでのレベルに到った時、人工知能は、人と同じようにいい音いい音楽に感動できるのか。
どんなに進歩進化しても無理という考えが一般的かもしれない。
けれど、本当にそうなのか──、とも思う。
フルトヴェングラーは、
「感動とは人間の中にではなく、人と人の間にあるものだ」を語っている。
感動とは、そこに存在しているわけではない。
確かなものとして、どこかにある存在でもなく、
うまれてくるもののはずだ。
音楽の場合、演奏家と聴き手の間にあるものであり、
人工知能が感動するいい音いい音楽とは、人が感動するのとはまるで違うのかもしれない。
同じ音楽、演奏を同じ場で聴いても、聴いた人皆が感動するわけではない。
私が深く感動した音楽を聴いても、退屈だと感じる人もいるし、その反対のことだってある。
それに同じく感動したと複数の人が言っても、その感動が同じだとは誰にもわからない。
人工知能が感動するいい音いい音楽が、私が聴いても感動するのか、それとも全く違うのか。
どちらであったとしても、そういう音、音楽は聴いてみたい。
ジョディ・フォスター主演の映画「コンタクト」を観終って、ある映画を思い出した。
ティム・バートン監督の「バットマン リターンズ」だ。
「バットマン リターンズ」では、あるシーンのバットマンをCGで描こうとしていた、と、その時のニュースは伝えていた。
結果は、映画関係者から猛反対を喰らって妥協した──、そんな内容の記事だった。
「バットマン リターンズ」の公開は1992年、
「コンタクト」の公開は1997年。
どちらも映画館で観ている。
「コンタクト」の終盤、ジョディ・フォスター演じる主人公が、地球外知的生命体と出逢うシーンがある。
この時のジョディ・フォスターの表情は、なんと表現したらいいのか。
こういう表情が人にはあるんだ、と思っていた。
そして映画館を出て、こんな表情を生み出すことがCGでは可能なのだろうか、と考えていた。
ジョディ・フォスターだから可能だった表情を、ゼロからCGでつくり出せるのか。
ジョディ・フォスターと同じレベルの演技ができる人ならば、CGでつくり出せるかもしれないが、
そうでない人、どんなにCGの作成に長けた人であっても、あの表情はつくれない、というよりも思いもつかないだろう。
このことを思い出してのは、ここ数日、生成AIによる女優の誕生のニュースが話題になっているからだ。
年に数回ほど、そろそろソーシャルメディアを辞めようか、
もしくは数を減らそうか、と思う。
にも関わらず、いまも続けているのは、まれにそうだったのか、と思える投稿に出逢うからだ。
つい先日もそうだった。
トーマス・ビーチャムの言葉が投稿されていた。
“The English may not like music, but they absolutely love the noise it makes.”
facebookでの投稿で、自動翻訳されていた。
noiseをどう訳すのかで、facebookの翻訳は、やや意味不明だった。
DeepLだと、
《イギリス人は音楽を好まないかもしれないが、音楽が発する音は絶対に好きだ。》
と訳してくれる。
noiseは雑音と捉えがちだが、以前「音」の英訳を調べていたら、
noiseも含まれていたから、DeepLの訳はすんなり受け入れられる。
《イギリス人は音楽を好まないかもしれないが、音楽が発する音は絶対に好きだ。》
これがいつ語られたのかは不明だが、確かにそうかも、と頷けた。
古き良きブリティッシュサウンドは、こういうところから生まれてきたのだろう、と。
(その1)で、「花」を「月」におきかえてみた。
「月」の美しさといふ様なのがあるならば、
月に降りたったとき、月の表面を見ても美しいと思わなければならない──、
そんなふうに考えてみたわけだ。
(その1)では、「花」を「音」におきかえてみると、
わかったようなわからないような……、とも書いている。
では「音楽」におきかえてみたらどうだろうか。
「音」にしても「音楽」にしても、対象が漠然としすぎている。
「音楽」ならば、どれか特定の曲におきかえてみたらどうだろうか。
そう考えた時に、私の場合、真っ先に浮んだのはマーラーの「大地の歌」だった。
1980年代に、レコード芸術の名曲名盤で書かれていたことがずっと残っているからだ。
黒田先生は、「大地の歌」をきけば、いつでも感動する。
十全でない演奏で「大地の歌」をきいても感動する──、
そういったことを書かれていた。
美しい「大地の歌」がある、「大地の歌」の美しさといふ様なものはない。
そう言い切れるだろうか。
「大地の歌」は名曲といわれている。
だからこそレコード芸術の名曲名盤にも毎回取り上げられる。
「大地の歌」は交響曲だから、指揮者とオーケストラによって、演奏の出来は変ってくる。
十全な演奏もあれば,まったく十全とはいえない(思えない)演奏もある。
その十全でない「大地の歌」でも、黒田先生はきけば感動する、と書かれているのを、
どう解釈したらいいのだろうか。
美しい「大地の歌」とは、名演と評される「大地の歌」であり、
十全な演奏の「大地の歌」であるわけだ。
けれど十全でない「大地の歌」は、美しい「大地の歌」ではない。
それでも感動するということは、
十全でない「大地の歌」に、「大地の歌」の美しさを感じとっておられたからではないのか。
「大地の歌」には「大地の歌」の美しさがあるからこそなのではないのか。
小林秀雄が、こう書いている。
《彼はどこにも逃げない、理智にも、心理にも、感覚にも。》
ここでの「彼」とは中原中也のことである。
「山羊の歌」にある「自恃」とは、そういうことなのか。
「人工知能が聴く音とは……」という、このテーマについてぼんやり考えていたら、
中原中也の「山羊の歌」が浮んできた。
*
自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、
ただそれだけが人の行ひを罪としない
*
なぜ浮んできたのかは自分でもわからないが、
とにかく「自恃」が浮んできた。
人工知能に自恃はあるのだろか。
芽ばえるのだろうか。
《美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。》
いうまでもなく小林秀雄の有名すぎる一節であり、
これまでにいろいろな解釈がなされている。
これについては、坂口安吾が「教祖の文学──小林秀雄論──」で、
こんなことを書いてもいる。
*
美しい「花」がある。「花」の美しさというものはない。
私は然しこういう気の利いたような言い方は好きでない。本当は言葉の遊びじゃないか。私は中学生のとき漢文の試験に「日本に多きは人なり。日本に少きも亦人なり」という文章の解釈をだされて癪にさわったことがあったが、こんな気のきいたような軽口みたいなことを言ってムダな苦労をさせなくっても、日本に人は多いが、本当の人物は少い、とハッキリ言えばいいじゃないか。こういう風に明確に表現する態度を尊重すべきであって日本に人は多いが人は少い、なんて、駄洒落にすぎない表現法は抹殺するように心掛けることが大切だ。
美しい「花」がある。「花」の美しさというものはない、という表現は、人は多いが人は少いとは違って、これはこれで意味に即してもいるのだけれども、然し小林に曖昧さを弄ぶ性癖があり、気のきいた表現に自ら思いこんで取り澄している態度が根柢にある。
彼が世阿弥について、いみじくも、美についての観念の曖昧さも世阿弥には疑わしいものがないのだから、と言っているのが、つまり全く彼の文学上の観念の曖昧さを彼自身それに就いて疑わしいものがないということで支えてきた這般の奥義を物語っている。全くこれは小林流の奥義なのである。
*
そうなのかぁ、と思いつつも、
私が考えたいのは、オーディオの「美」についてであり、
それを考えていく上では、《美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。》は、
たとえそれがほんとうに言葉の遊びであっても、無視できることではない。
(その1)は、2015年5月に書いている。
六年半経過して、思い出して書いているのは、
ここ最近たびたび書いている「心に近い(遠い)」ということが、
そして「耳に近い(遠い)」ということが、
《美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない》ということなのかもしれない、
そんなふうに感じ始めているからだ。
美しい「花」が心に近い音なのか、
「花」の美しさが耳に近い音なのか。
心に近い「音」はある、耳に近い「音」というものはない、ということなのか。
それともまったくの逆なのか。
そんなことを思っているところだ。
長島先生はジェンセンのG610Bをはじめて鳴らした時の音を「怪鳥の叫び」みたいだ、
とステレオサウンド 61号で語られている。
そういう音が出たから、といって、
角を矯めて牛を殺す的な鳴らし方を、長島先生はやられてきたわけではなかった。
38号では、
「たとえばスピーカーでいえば、ムチをふるい蹴とばしながらつかっているわけですから」
ともいわれている。
つまり、スピーカーとの格闘であり、
スピーカーの調整というよりも、スピーカーの調教といったほうがぴったりくる。
悪食とは、大辞林には、こうある。
①普通,人が口にしない物を食べること。いかものぐい。「好んで—する」
②粗末な食事。粗食。
③仏教で,禁じられた獣肉を食べること。
長島先生にとって、鳴らしはじめのころG610Bの音、
そのひどい音は、①なのか、②なのか。
粗末な音ではない。
けれどひどい音だったのだから、②に近いともいえる。
怪鳥の叫びみたいな音は、人が聴きたくない音でもあるのだから、①的でもある。
もちろん長島先生は好んで怪鳥の叫びを聴かれていたわけではない。
①、②、どちらの音であっても、耐えながら聴くことは、音の悪食であろう。
いい音になってくれるまでしんぼうして聴く。
しんぼうできない人は、とりあえず聴きやすい音に安易にもっていく。
音の悪食を嫌う鳴らし方をする。
音の悪食なんて、できればしたくない、といえばそうなのだが、
かといって絶対避けたい、とも思っていない。
オーディオに関していえば、無駄になることなどないからだ。
①、②の意味での音の悪食は経験しておくほうがいい。
では③の音の悪食とは──、と考える。
禁じられた音を聴くこと、そういう意味での音の悪食とは、どういうことがあるのか。
NTTが、今日(7月10日)、報道資料として、
「音を認識するために訓練された深層ニューラルネットワークが脳における音の表現と類似した表現を獲得することを発見」というタイトルのPDFを公開している。
読んだからといって、100%理解しているわけではないが、
「音認識のために訓練された深層ニューラルネットワーク(DNN)」は、ひじょうに興味深い。
これから先、どんなふうに発展していくのか。
その発展次第では、なにかが大きく変化していく可能性だってある。
どれだけ進歩し、進化していくのか予想できないけれど、
私が生きているうちに、なにか大きな変化が生れても、まったく不思議ではない。
オーディオ雑誌は、どこも取材しないのか。
再生音、という。
だからなのだろう、再現する、ともいうことがある。
けれど、この再現には心象は必要としないのかもしれない──、
最近そうおもいつつある。
再生音の精度が高くなるにつれて、心象を求めなくなりつつあるのかもしれない。
そんなことも考えながら、心象を必要とするのは、再現ではなく出現なのだろう──、
そう思うようになってきている。
昨晩は、仲良しチーム(今年からディープオーディオ三騎士)で飲んでいた。
メリディアンのULTRA DACの話題から、D/AコンバーターのFPGAへと、
それからartificial intelligence(人工知能)へと移っていった。
そう遠くない将来にFPGAのプログラミングをAIがやる時代がくる──、
Aさんは、そういう。
圧倒的な計算能力で最適解を導き出してくる。
オーディオの信号処理(FPGAのプログラミング)においても、そうであろう。
最初のころは人間にかなわなくても、短期間で追いこしていくであろう。
そうやって開発されたD/Aコンバーターが、そう遠くない将来登場するかもしれないし、
人間による開発は、太刀打ちできなくなる。
おおむねそんな趣旨だった。
ここでは「人工知能が聴く音とは……」というテーマだが、
Aさんが語っていたのは「人工知能が聴かせる音とは……」となる。
いわれてみると、そんなD/Aコンバーターが登場しても不思議ではない。
人工知能が聴かせる音を、われわれは聴く時代を迎えることになるわけだが、
ここで見落してならないのは、Aさんのいうとおりの開発手法だと、
そこでのAiは、音を聴いていない、ということである。
純粋に数学的に最適解を求めた結果としての音であって、
その最適解をはじきだしたAIは、音を聴いているわけではない。
これはなかなかに興味深いことになるはずだ。
そしてAIも、次のステップとして音を聴くようになっていくのだろうか。
オーディオは、基本コンポーネントである。
プレーヤー(アナログでもデジタルでも)、
アンプ、スピーカーシステムが最低でも必要になる。
もっともミニマムなオーディオとしてヘッドフォンがあるにしても、
ここでも携帯プレーヤーとヘッドフォン(イヤフォン)の二つは、最低限必要となる。
たった一つで音を出してくれるわけではない。
アンプは完成品として売られていても、
それだけで音が聴けるわけではない。
スピーカーに関しても同じ、プレーヤーもそうだ。
オーディオはコンポーネントである。
ここでのタイトルは、オーディオの「美」としているが、
オーディオこそ「美」とも捉えている。
オーディオは「美」である──、
ここにはコンポーネントということが大前提としてあるし、
そのコンポーネントから鳴ってくる音こそが、ということがある。
ここを読まれている方で、オーディオコンポーネントを持っていないという人はいないはず。
何らかのシステムを持っていて、すでに音を出している人である。
そういう人がオーディオ店に行き、グレードアップのために何かを購入する。
アンプであったり、CDプレーヤーなのかもしれないし、ケーブルということだってあろう。
アンプを買った、としよう。
憧れのアンプを手に入れることができた。
それは「美」を手に入れた、といえるのか。
「美」を買った、といえるのか。
オーディオ店のスタッフは、客に「美」を売った、と思っているのか。