美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない、を考える(その2)
《美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。》
いうまでもなく小林秀雄の有名すぎる一節であり、
これまでにいろいろな解釈がなされている。
これについては、坂口安吾が「教祖の文学──小林秀雄論──」で、
こんなことを書いてもいる。
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美しい「花」がある。「花」の美しさというものはない。
私は然しこういう気の利いたような言い方は好きでない。本当は言葉の遊びじゃないか。私は中学生のとき漢文の試験に「日本に多きは人なり。日本に少きも亦人なり」という文章の解釈をだされて癪にさわったことがあったが、こんな気のきいたような軽口みたいなことを言ってムダな苦労をさせなくっても、日本に人は多いが、本当の人物は少い、とハッキリ言えばいいじゃないか。こういう風に明確に表現する態度を尊重すべきであって日本に人は多いが人は少い、なんて、駄洒落にすぎない表現法は抹殺するように心掛けることが大切だ。
美しい「花」がある。「花」の美しさというものはない、という表現は、人は多いが人は少いとは違って、これはこれで意味に即してもいるのだけれども、然し小林に曖昧さを弄ぶ性癖があり、気のきいた表現に自ら思いこんで取り澄している態度が根柢にある。
彼が世阿弥について、いみじくも、美についての観念の曖昧さも世阿弥には疑わしいものがないのだから、と言っているのが、つまり全く彼の文学上の観念の曖昧さを彼自身それに就いて疑わしいものがないということで支えてきた這般の奥義を物語っている。全くこれは小林流の奥義なのである。
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そうなのかぁ、と思いつつも、
私が考えたいのは、オーディオの「美」についてであり、
それを考えていく上では、《美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。》は、
たとえそれがほんとうに言葉の遊びであっても、無視できることではない。
(その1)は、2015年5月に書いている。
六年半経過して、思い出して書いているのは、
ここ最近たびたび書いている「心に近い(遠い)」ということが、
そして「耳に近い(遠い)」ということが、
《美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない》ということなのかもしれない、
そんなふうに感じ始めているからだ。
美しい「花」が心に近い音なのか、
「花」の美しさが耳に近い音なのか。
心に近い「音」はある、耳に近い「音」というものはない、ということなのか。
それともまったくの逆なのか。
そんなことを思っているところだ。