Archive for category 理由

Date: 1月 1st, 2023
Cate: 理由

「理由」(その29)

2014年4月に書いたことを思い出している。

日本刀を研ぐ。
研究、研鑽の研と同じ。
音を良くするための行為は、この研ぐと共通するところがあるし、
研ぐにはとうぜん砥石が必要である。

音を研いでいく(磨いていく)には、いったいどういう砥石が必要となるのか。
研師は、そのシステムの所有者である。

研師と砥石があれば、それで研げる(磨げる)わけではない。
水が必ず必要となる。

音を磨いていくのに必要な水、
これはなににあたるのか。

いまだはっきりとした答を出せないでいる。

Date: 10月 27th, 2014
Cate: 理由

「理由」(その28)

白川静氏が書かれている。

【きよし(浄・清)】純粋で美しい。余分のものや汚れのないことをいう。対義語の【きたなし】はもと「形無し」の意で本来の形が崩れること。これに対して「きよし」は、本来の生気を保っている状態をいうものであろう。もとは人の生きざまをいう語であろうが[万葉]では山川についていうことが多い。

ならば「音楽を聴いて、涙した……、浄化された」ということは、
本来の生気を保っている状態になることであるはずだ。
本来の生気を保っている状態以上にはならないのではないか。

「音楽を聴いて、涙した……、浄化された」と頻繁に口にする人の中には、
どうも勘違いされている方がいるように感じる。
浄化を、あたかも本来の生気を保っている状態以上にしてくれるのだ、と。

【きたなし】はもと「形無し」の意で本来の形が崩れることならば、
浄化によって、本来の生気を保っている状態とは、本来の形をとり戻す、ということになるだろう。

本来の形がいびつなものであったなら……、と考えてしまう。
浄化とは、己のいびつな形から目をそらすことではない、と。

Date: 5月 9th, 2012
Cate: 理由

「理由」(その27)

この項の(その25)ではインドの古典「バカヴァッド・ギーター」の一節、
「真の自己にとって浄化された自己は友であるが、浄化されていない自己は敵である」を、
その26)ではシモーヌ・ヴェイユの「純粋さとは、汚れをじっとみつめる力」を、引用した。

浄化されていない自己が敵であるのならば、
「音は人なり」をオーディオの真理と信じている私にとっては、
スピーカーから、浄化されていない自分が音として出てくる、と考えることもできる。
つまりその音は敵ということになる。

それを聴く(耳をすます)力が、求められる音楽とそうでない音楽とあるような気がする。
その力が求められる音楽を聴く、という行為は、音と対決する、ということではないのか。

音楽に涙したから、といって浄化された、と思えるほど、そこまでおめでたくはない。
結局、対決しなければ、と思う。

Date: 3月 27th, 2011
Cate: 理由

「理由」(その26)

「純粋さとは、汚れをじっとみつめる力」だと、シモーヌ・ヴェイユがいっている。

この「力」を得るために、ときに音楽を必要とする、とはいえないだろうか……。

浄化とは、五味先生にとっての、音楽を聴くことでの「浄化」とは、
よくいわれるような浄化と一緒くたにはできないところがあるように感じている。

なぜ五味先生はベートーヴェンを聴かれたのか、
カラヤンのベートーヴェンではなくフルトヴェングラーのベートーヴェンを聴かれ、
そしてポリーニのベートーヴェンに激怒されたのか。

Date: 8月 5th, 2010
Cate: 理由

「理由」(その25)

「真の自己にとって浄化された自己は友であるが、浄化されていない自己は敵である」
インドの古典「バカヴァッド・ギーター」のなかに出てくる一節だ。

だとしたら、いったい音楽は、真の自己にとって、どういう存在となってくるのか。
そして、音楽がこころに響く、とはいったいどういうことなのだろうか。

Date: 7月 15th, 2010
Cate: 理由

「理由」(その24)

過去を受け入れてこそ、浄化はある。

Date: 7月 14th, 2010
Cate: 理由

「理由」(その23)

過去は変らない、変えられないものとされている。
過去の事実は、たしかに変りはしない。

けれど、「浄化」によって、過去の事実は変りはしないものの、
過去の事実がもつ意味合いは変ってきはしないだろうか。

それこそが「浄化」ではないだろうか。

Date: 7月 6th, 2010
Cate: 理由

「理由」(その22)

短絡的な誤解をされる方は居られないと思うが、
なにもカラヤンの全否定しろ、とか、カラヤンの演奏にはまったく価値がない、とか、
そんなことを言いたいわけではない。

フルトヴェングラーの演奏が唯一無二のものだ、といいたいわけでもない。

カラヤンの演奏に聴き惚れていてもいい、
フルトヴェングラーの演奏に価値が見いだせない、好きになれないでもいい、
それは人それぞれの問題だから。

だが、五味康祐にとっての「浄化」を語るのであれば……といいたいだけである。

Date: 7月 6th, 2010
Cate: 理由

「理由」(その21)

ここで大事なのはカラヤンの音楽に感情があるかないか、ではなく、
感情が立ち止まったまま動かない、という表現である。

動かない感情こそ、黒(青)く、どろどろしたものではなかろうか。

立ち止まることなく動いていけば、感情は感性へと昇華されるかは、いまのところよくわからないし、
はっきりそうだとはいえないけれど、なにかつながっている予感ははっきりとある。

なぜ五味先生がカラヤンの演奏を毛嫌いされ(初期の演奏をのぞいて)、
フルトヴェングラーの演奏を聴き続けてこられたのか、
その答えのヒントとなるものが、このあたりにあるのではなかろうか。

五味先生は、カラヤンの音楽では浄化されなかった。
このことを徹底的に考えないで、音楽における「浄化」について、なにが語れるというのか。

Date: 7月 5th, 2010
Cate: 理由

「理由」(その20)

私のTwitterをご覧になっている方はお気づきだろうが、
(その17)で「浄化」について、6月15日のTwitterでも書いている。

そのとき川崎先生からの返事は次のことだった。
     *
音楽は「感性的」なものであり、決して「感情的」ではないと思うのです。
なぜなら、感情の「情」とは古代中国においてこころの中に黒=青、
どろどろしたものが流れ込んでくることを原意だったからでしょう。
     *
これに対する私の返事は下記のとおりだ。

音楽は「感性的」なもの。オーディオを通して、その「感性的な」音楽を聴くときに、
スピーカーには「感情」を、私は、いまは求めようとしています。

スピーカーに「感情」を求めることが正しいことなのかどうかは、
いまのところはっきりした答えは出せないでいる。
それでも、とにかくいまは、はっきり感情を表す鳴らし方が、私には必要だと感じているからだ。

そして今日、あることばと出合った。
「音楽において一番大切なのは、感情を表現することです。感情のない音楽は、音楽ではない。カラヤンの音楽では、感情は立ち止まったまま動かない」
(「証言・フルトヴェングラーかカラヤンか」 川口マーン惠美・著 新潮選書より)

ベルリン・フィルの元ティンパニー奏者だったヴェルナー・テーリヒェン氏が、そう語っている。

Date: 6月 20th, 2010
Cate: 理由

「理由」(その19)

一方で、「真実」は嘘と失敗から生れてくるもの、とも思えてくる。

Date: 6月 20th, 2010
Cate: 理由

「理由」(その18)

「五味オーディオ教室」からはじまった私のオーディオは、いまでもつづいている。

好きな音楽をいい音で聴きたいと想ってきたから、ここまでやっているのではないところがある。
なにか、あるひとつの「真理」にたどり着けそうな予感がするから、というのが、
オーディオをここまでやっている「理由」なのかもしれない。

Date: 6月 19th, 2010
Cate: 理由

「理由」(その17)

五味先生の文章に「浄化」の文字とともに登場する音楽は、
フランクの前奏曲であったり、ラヴェルのダフニスとクローエ、
ときにはヴィヴァルディ、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ作品111でもある。
ベートーヴェンの第九交響曲のときもあれば、モーツァルトであることもある。

これらの音楽が同じように浄化するわけではないのだろうか。
とり除きたいものによって、そのときに聴く音楽はかわっていくだろうことは、容易に想像できる。

つねに同じように心が汚されているわけではない。

音楽による「浄化」とは、単に心のけがれが洗い流されることだけでなく、
澄み切った内面性を確立させていく、構築していくことなのかもしれない、
と、ここにきてやっと、そう感じられるようになってきた。

とくにベートーヴェンの後期の作品においては、そう感じている。

この「澄み切った内面性」こそが、ひとつの「真理」でもあるような気がしている。

Date: 6月 18th, 2010
Cate: 理由

「理由」(その16)

五味先生のリスニングルームには、「浄」の書があった。
五味先生の文章には、「浄化」が幾度か登場する。

「芥川賞の時計」(「オーディオ巡礼」所収)では、こう書かれている。
     *
音楽は私の場合何らかの倫理感と結びつく芸術である。私は自分のいやらしいところを随分知っている。それを音楽で浄化される。苦悩の日々、失意の日々、だからこそ私はスピーカーの前に坐り、うなだれ、涙をこぼしてバッハやベートーヴェンを聴いた。
     *
「ビデオ・テープの《カルメン》」(「オーディオ巡礼」所収)では、こうだ。
     *
聴いてほしい。フランクの前奏曲と、次に〝ダフニスとクローエ〟第二組曲冒頭を聴いてほしい。どんな説明よりもこの二曲にまたがった私なりな青春と、中年男の愛欲とその醜さを如何に音楽は浄化してくれたかを、跡をなぞるごとくに知ってもらえようと思う。少なくとも水準以上の音質を出す再生装置でなら、分るはずだ。自らは血を流さずとも、血を流した男の愛の履歴が眼前に彷彿する、それが音楽を聴くという行為の意義ではないのか。
     *
「英国《グッドマン》のスピーカー」(「オーディオ巡礼」所収)。
レコードを聴きながら小説を書くという風説が私にはあるそうだが、うそだ。いかなる場合も片手間に聴き流すようなそういう音楽の聴き方を私はしていない。筆のとまったあと、いやらしい登場人物を描いてこちらの想念のよごれた時などに、聴くのである。浄化の役割を、すると、これらの音楽は果してくれたし今読み返しても比較的気持のいい小説は、どういうわけかヴィヴァルディや作品一一一を聴いた時に書いている。
     *
「ベートーヴェン《第九交響曲》」(「オーディオ巡礼」所収)。
例年、大晦日にS氏邸で〝第九〟を聴きはじめて二十二年になる。その年その年のさまざまな悔いやら憾みやら苦しみを浄化され、洗われて新年をむかえてきたが、いつも、完ぺきな演奏でそれを聴きたい願望も二十年かさなったわけになる。あと幾年わたしは生きられるのか。ベートーヴェンも〝第九〟ではついに私にそのまったき恩恵をさずけてくれずに、私は死んでゆくのか。それともみな名演なのか?

「ステレオ感」(「天の聲」所収)。
音楽はわれわれをなぐさめ、時に精神を向上させ、他の何ものもなし得ない浄化作用を果してくれる。ベートーヴェン的に言うなら、いい音楽はそのままで啓示であり、神の声である。そういう神への志向に偸盗の喜悦がまぎれ込んでくる。いい道理がない。ぼくらはどこかで罰を蒙らねばならない。

「ワグナー」(「西方の音」所収)。
私の場合は、いわゆるナショナリズムが、孵った雛の殻のようにまだお尻に付いている。戦中派の一人としてやむを得ぬ仕儀だ。時にそういう己れを反省し、うんざりし、考え直す。ワグナーを聴くのはこの自省の時機に毒薬となるかもしれない。しかし一時はいさぎよく毒をあおらねばなるまいと私は思う。それでアタッてしまいそうだとモーツァルトを聴く。この浄化はてき面に効くから羽目をはずさずにいられるのだろう。ワグナーの楽劇には、女性の献身的愛による救済がきまってあらわれるが、男子たる私にとって、この美酒はいつ酌んでも倦むことがない。
     *
他にも「浄化」が登場する文章はあるけれど、これらの文章を読み、
音楽による「浄化」とはなにかについて考え続けてきた。
心のけがれをとりのぞいてくれることだけだろうか。

辞書には、「正しいあり方に戻す」ともある。

Date: 6月 17th, 2010
Cate: 理由

「理由」(その15)

事実から真実、そして「真理」。