Archive for category オーディオマニア

Date: 11月 26th, 2016
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアの覚悟(その5)

死の間際、「悔いのない人生だった」といえるような生き方はしていない。
実際に、その瞬間を迎えないことにはなんともいえないが、
さまざまな悔いを思い出すかもしれない。
忘れてしまっているような悔いまで思い出すかもしれない。

これから悔いのない人生を送ったとしても、
すでに53年間生きているのだから、悔いはある。

だからオーディオマニアとしての悔いだけは残さないようにしている。
それが覚悟だと思っている。

悔いとは、あることから逃げたり避けたり、ズルしたりの記憶でもあるはずだ。
他にも悔いといえることはあろうが、
とにかくオーディオマニアとして、
オーディオに関することから逃げたり、ズルしたりの記憶を持つようなことはしないようにすることが、
オーディオマニアとしての悔いを残さない道であるし、
オーディオと対決する、ということのはずだ。

Date: 7月 12th, 2016
Cate: オーディオマニア

オーディオは男の趣味であるからこそ(アルテック604)

中高域にホーン型を採用した同軸型ユニットがある。
アルテックの604、タンノイのデュアルコンセントリックがよく知られている。
ジェンセンのG610も古くからあった同軸型ユニットだし、他にもいくつかあった。
現行製品として中高域をホーンとした同軸型ユニットはある。

タンノイ、ジェンセンはウーファーのコーン紙をホーンの延長とみなしての設計であるため、
アルテックの604シリーズのように中高域のホーンがウーファーのコーンの前に存在しない。

いまもある同種の同軸型ユニットは、ホーンがアルテックの604のように前についている。
だからといってホーンがついている同軸型ユニットが604と同じとはいえないところがある。

ユニットを保管するとき、前面を下にして伏せておくことが多い。
通常のコーン型ウーファーやフルレンジユニットだと当り前のようにできる置き方だが、
アルテックの604も、同じように伏せておける。

つまり604のホーンはフレームよりも前に出ていないからだ。
けれど最近の同種の同軸型ユニットの中には、こういう置き方はできないモノが登場している。
ホーンがフレームよりも前に張り出しているからである。

同軸型ユニットとして、それも中高域がホーン型の場合、
ホーンを理論通りにしたいのは理解できる。
けれどそうしてしまえば、たいていの場合、ホーンが突き出てしまうことになる。

音のためにそうなってしまいました。
そうメーカーが広告やカタログに謳っていれば、その姿勢は評価されることが多い。
「音のために……」は、まさに男の趣味的でもある。

でもいまの私は「男の趣味」だからこそ、アルテックの604の姿勢を、より高く評価したい。
アルテックの技術者も、
つまりこのユニットのオリジナルの開発に関係していたランシングも、
もしかするともっとホーンを大きくしたいと考えたかもしれない。

ほんとうのところはわからないが、登場したユニットではホーンは突き出すことなく、
節操をもっていること、私は「男の趣味」として高く評価している。

604の、このサイズのホーンゆえに生じている同軸型ユニットとしての弱いところは、
当のアルテックの技術者はわかっていた、と思う。
それでもホーンを、あえてこのサイズとこの位置にまとめている。

そこを充分に理解して使うのが、男のはずだ。

Date: 6月 30th, 2016
Cate: オーディオマニア

どちらなのか(その10)

こうやって書いていくと、
そういえばあれもそういうことだったのか、と憶い出すことが出てくる。

ステレオサウンド 54号の特集。
「いまいちばんいいスピーカーを選ぶ・最新の45機種テスト」の冒頭に、
黒田恭一、菅野沖彦、瀬川冬樹、三氏の座談会が載っている。
試聴のあとの総論と、いくつかのスピーカーを具体的に挙げて話されている。
その中での菅野先生の発言を引用しておく。
     *
菅野 特に私が使ったレコードの、シェリングとヘブラーによるモーツァルトのヴァイオリン・ソナタは、ヘブラーのピアノがスピーカーによって全然違って聴こえた。だいたいヘブラーという人はダメなピアニスト的な要素が強いのですが(笑い)、下手なお嬢様芸に毛の生えた程度のピアノにしか聴こえないスピーカーと、非常に優美に歌って素晴らしく鳴るスピーカーとがありました。そして日本のスピーカーは、概して下手なピアニストに聴こえましたね。ひどいのは、本当におさらい会じゃないかと思うようなピアノの鳴り方をしたスピーカーがあった。バランスとか、解像力、力に対する対応というようなもの以前というか、以外というか、音楽の響かせ方、歌わせ方に、何か根本的な違いがあるような気がします。
     *
シェリングとヘブラーによるモーツァルトのヴァイリオン・ソナタのレコード。
ここに刻まれている情報(あえてこう書いている)を、あますところなく鳴らせたとしたら……。
その結果、ヘブラーのピアノが、下手なお嬢様芸に毛の生えた程度にしか鳴らなかったら、
そういうものだと受けとめてしまうのか。

菅野先生は、バランスとか、解像力、力に対する対応がきちんとしていたとしても、
それだけでヘブラーのピアノが優美に歌うわけではない、というふうに語られている。

ヘブラーというピアニストは、その程度だよ、といってしまうのは簡単である。
けれど、少なくともヘンリック・シェリングと組んで演奏し、録音を残している。

シェリングは、ヘブラーとは違いダメなヴァオリニスト的な要素が強い演奏家では決してない。
そのシェリングと組んでいるだから、
ヘブラーのピアノは、非常に優美に歌って素晴らしく鳴ってくるべきともいえる。

そのためにスピーカーに要求されるのは、
音楽の響かせ方、歌わせ方であり、
ここのところにヘブラーのピアノの鳴らし方の根本的な違いがあるような気がする、とされている。

このヘブラーと同じような経験が、私にとっては(その6)に書いたことである。
また別の経験もしている。
別項「AAとGGに通底するもの(その6)」を中心に、そのときのことを書いている。
グールドは、ヘブラーとは違うタイプのピアニストであり、
ダメなピアニスト的な要素はまったくないにも関わらず、そういうふうに鳴ってしまったのを聴いている。

ステレオサウンド 54号でのヘブラーと、私が経験したグールドとでは、
いくつかのことが違っていて、必ずしもまったく同じこととはいえないし、
音楽的感銘、音楽の響かせ方、歌わせ方、それに音楽性といったことは曖昧な表現である。

そんな曖昧な表現で何がわかるのか、という人は、
測定データを提示しろ、と言いがちだ。
だが、測定データで何がわかるのか、といいたい。

そして「測定データ……」という人には、レコード再生はかろうじてできたとしても、
レコード演奏はまず無理だといっておく。

Date: 6月 29th, 2016
Cate: オーディオマニア

どちらなのか(その9)

五味先生の「五味オーディオ教室」から始まっている私のオーディオにおいて、
瀬川先生の再生アプローチは、
五味先生の再生アプローチと同じである、と感じていた。

「五味オーディオ教室」にこう書いてある。
すでに三回引用しているが、やはりもう一度書いておく。
     *
 EMTのプレーヤーで再生する音を聴いて、あらためてこのことに私は気づいた。以前にもEMTのカートリッジを、オルトフォンやサテンや、ノイマンのトランスに接続して聴いた。同じカートリッジが、そのたびに異なる音の響かせ方をした。国産品の悪口を言いたくはないが、トランス一つでも国産の“音づくり”は未だしだった。
 ところが、EMTのプレーヤーに内蔵されたイクォライザーによる音を聴いてアッと思ったわけだ。わかりやすく言うなら、昔の蓄音機の音がしたのである。最新のステレオ盤が。
 いわゆるレンジ(周波数特性)ののびている意味では、シュアーV15のニュータイプやエンパイアははるかに秀逸で、EMTの内蔵イクォライザーの場合は、RIAA、NABともフラットだそうだが、その高音域、低音とも周波数特性は劣化したように感じられ、セパレーションもシュアーに及ばない。そのシュアーで、たとえばコーラスのレコードをかけると三十人の合唱が、EMTでは五十人にきこえるのである。
 私の家のスピーカー・エンクロージァやアンプのせいもあろうかとは思うが、とにかく同じアンプ、同じスピーカーで鳴らしても人数は増す。フラットというのは、ディスクの溝に刻まれたどんな音も斉しなみに再生するのを意味するのだろうが、レンジはのびていないのだ。近ごろオーディオ批評家の言う意味ではハイ・ファイ的でないし、ダイナミック・レンジもシュアーのニュータイプに及ばない。したがって最新録音の、オーディオ・マニア向けレコードをかけたおもしろさはシュアーに劣る。
 そのかわり、どんな古い録音のレコードもそこに刻まれた音は、驚嘆すべき誠実さで鳴らす、「音楽として」「美しく」である。あまりそれがあざやかなのでチクオンキ的と私は言ったのだが、つまりは、「音楽として美しく」鳴らすのこそは、オーディオの唯一無二のあり方ではなかったか? そう反省して、あらためてEMTに私は感心した。
 極言すれば、レンジなどくそくらえ!
     *
周波数レンジもセパレーションもシュアーに及ばないEMTなのに、
コーラスのレコードをかけると、三十人の合唱が五十人に聴こえる、ということは、
どちらの再生が録音に対して、より正確かといえば、おそらくシュアーだったかもしれない。
EMTで三十人が五十人に聴こえる、ということは、
つまりはEMTによる味つけ、色づけといった演出の結果であろう。

でも、それが「音楽として」「美しく」鳴らしてくれるのであれば、
どちらをとるのか。

私の答は、はっきりしている。
改めて、オーディオは極道、音楽は修道。
このことが、ここに書かれていたと実感している。

Date: 6月 29th, 2016
Cate: オーディオマニア

どちらなのか(その8)

瀬川先生が「いま、いい音のアンプがほしい」に書かれていたことに通じていくことは、
ステレオサウンド 45号にも書かれている。

45号は前号から続いてのスピーカーシステムの総テストで、
KEFのModel 105の試聴記に、
《かなり真面目な作り方なので、組合せの方で例えばEMTとかマークレビンソン等のように艶や味つけをしてやらないと、おもしろみに欠ける傾向がある。》
と書かれている。

ここにも《ゾクゾク、ワクワクするような魅力》を求められていることがあらわれている。
KEFのModel 105は、私も好きなスピーカーのひとつである。
瀬川先生の試聴記にもあるように、
《そこに手を伸ばせば触れることができるのではないかと錯覚させるほど確かに定位する》。

熊本のオーディオ店に来られたとき、
瀬川先生が調整されたModel 105を、そのワンポイントで聴くことができた。
かけてくださったのはバルバラのレコードだった。

バルバラが、まさにスピーカーの中央にいると錯覚できるほどの鳴り方だった。
瀬川先生が45号の試聴記に書かれていることが、よくわかる。

そこにEMTやマークレビンソンを組み合わせて、
《艶や味つけをして》ということは、
それだけEMT、マークレビンソンはそういう性格を強く持ち合わせているということでもあり、
これが瀬川先生の再生アプローチであり、組合せの考えであると、私は受けとっていた。

同時に試聴記は、単なる試聴記に留まっていては、
それはオーディオ評論家の仕事ではない、ということも感じていた。

Date: 6月 27th, 2016
Cate: オーディオマニア

どちらなのか(その7)

レコード(録音物)の再生における音楽的感銘とは、
いったいどこに存在しているのか。

このことを考えるとき決って思い出すのが、
瀬川先生の、この文章である。
     *
 ただ、SG520の持っている独特の色気のようなものがなかった。その意味では、音の作り方はマランツに近い──というより、JBLとマランツの中間ぐらいのところで、それをぐんと新しくしたらレヴィンソンの音になる、そんな印象だった。
 そのことは、あとになってレヴィンソンに会って、話を聞いて、納得した。彼はマランツに心酔し、マランツを越えるアンプを作りたかったと語った。その彼は若く、当時はとても純粋だった(近ごろ少し経営者ふうになってきてしまったが)。レヴィンソンが、初めて来日した折に彼に会ったM氏という精神科の医師が、このままで行くと彼は発狂しかねない人間だ、と私に語ったことが印象に残っている。たしかにその当時のレヴィンソンは、音に狂い、アンプ作りに狂い、そうした狂気に近い鋭敏な感覚のみが嗅ぎ分け、聴き分け、そして仕上げたという感じが、LNP2からも聴きとれた。そういう感じがまた私には魅力として聴こえたのにちがいない。
 そうであっても、若い鋭敏な聴感の作り出す音には、人生の深みや豊かさがもう一歩欠けている。その後のレヴィンソンのアンプの足跡を聴けばわかることだが、彼は結局発狂せずに、むしろ歳を重ねてやや練達の経営者の才能をあらわしはじめたようで、その意味でレヴィンソンのアンプの音には、狂気すれすれのきわどい音が影をひそめ、代って、ML7Lに代表されるような、欠落感のない、いわば物理特性完璧型の音に近づきはじめた。かつてのマランツの音を今日的に再現しはじめたのがレヴィンソンの意図の一端であってみれば、それは当然の帰結なのかもしれないが、しかし一方、私のように、どこか一歩踏み外しかけた微妙なバランスポイントに魅力を感じとるタイプの人間にとってみれば、全き完成に近づくことは、聴き手として安心できる反面、ゾクゾク、ワクワクするような魅力の薄れることが、何となくものたりない。いや、ゾクゾク、ワクワクは、録音の側の、ひいては音楽の演奏の側の問題で、それを、可及的に忠実に録音・再生できさえすれば、ワクワクは蘇る筈だ──という理屈はたしかにある。そうである筈だ、と自分に言い聞かせてみてもなお、しかし私はアンプに限らず、オーディオ機器の鳴らす音のどこか一ヵ所に、その製品でなくては聴けない魅力ないしは昂奮を、感じとりたいのだ。
 結局のところそれは、前述したように、音の質感やバランスを徹底的に追い込んでおいた上で、どこかほんの一ヵ所、絶妙に踏み外して作ることのできたときにのみ、聴くことのできる魅力、であるのかもしれず、そうだとしたら、いまのレヴィンソンはむろんのこと、現在の国産アンプメーカーの多くの、徹底的に物理特性を追い込んでゆく作り方を主流とする今後のアンプの音に、それが果して望めるものかどうか──。
 だがあえて言いたい。今のままのアンプの作り方を延長してゆけば、やがて各社のアンプの音は、もっと似てしまう。そうなったときに、あえて、このアンプでなくては、と人に選ばせるためには、アンプの音はいかにあるべきか。そう考えてみると、そこに、音で苦労し人生で苦労したヴェテランの鋭い感覚でのみ作り出すことのできる、ある絶妙の味わいこそ、必要なのではないかと思われる。
     *
1981年夏、ステレオサウンド別冊の巻頭からの引用だ。

《ゾクゾク、ワクワク》を音楽的感銘と捉えれば、
(音楽的感銘は)録音の側の、ひいては音楽の演奏の側の問題で、
それを、可及的に忠実に録音・再生できさえすれば、ワクワク(音楽的感銘)は蘇る筈だ、
ということになる。確かにこれは理屈だ。正しい理屈のように思える。

そう思っている人も多いのではないだろうか。
そうだとしたら、音楽的感銘をできる限りそこなわないように再生するのが、
正しい鳴らし方ということになる。

けれど瀬川先生がそうであるように、
《オーディオ機器の鳴らす音のどこか一ヵ所に、その製品でなくては聴けない魅力ないしは昂奮を、感じとりたい》
という人もいる。
それがどういうことであるのかは自覚している。
瀬川先生も書かれている。
《結局のところそれは、前述したように、音の質感やバランスを徹底的に追い込んでおいた上で、どこかほんの一ヵ所、絶妙に踏み外して作ることのできたときにのみ、聴くことのできる魅力、であるのかもしれず》と。

それを音楽的感銘といっていいものかどうか。
それはオーディオ的感銘ではないか、という人もいるはず。

けれどオーディオを介在させることで、
音楽的感銘をより高めようというする再生アプローチが、
瀬川先生の《レコードを演奏》するであったのだと、私は思っているし、
私自身がめざしているのも、そこである。

Date: 6月 27th, 2016
Cate: オーディオマニア

どちらなのか(その6)

レコード演奏とは、レコード(録音物)を再生することである。
LPにしろCDにしろ、その他のメディアにしても、
演奏する、といっても、ただ再生しているだけではないか、という反論は以前からある。

レコード演奏、レコード演奏家という表現は菅野先生が提案されているが、
実はそれ以前にも「レコードを演奏する」という表現は瀬川先生によって使われていた。

瀬川先生にとっては、レコードをかける、という行為は、演奏する、ということだったわけだ。

瀬川先生、菅野先生のようにはっきりと言葉にしなくとも、
そういう意識でレコードをかけている人はいるはずだ。

こんな経験をしたことがある。
ある人のリスニングルームで、グレン・グールドのゴールドベルグ変奏曲を聴いた。
グールドのディスクをかける、ということは音が鳴ってくる前からわかっていた。
それでも、鳴ってきた音は、まるでおそまつなテクニックのピアニストのようだった。

ゆったりしたテンポの変奏の場合がそうだった。
音がとぎれとぎれに聴こえてくる。
速いテンポで弾けないから、遅いテンポで弾いている。
そんな感じのする演奏になってしまっていた。

そこには深遠さは、すっかり霧散していた。
どうしてこういう演奏に堕してしまうのか、と思わず言ってしまいたくなるほどだった。

その人のシステムは、かなりのモノを組み合わせていた。
調整も熱心にやられていたように思われた。
オーディオへの思い入れも強いようだった。

それでも……、だった。
そこにグレン・グールドによるゴールドベルグ変奏曲の音楽的感銘はなかった。

オーディオは時として、こういうふうに音楽的感銘を著しくそこなうことがある。

Date: 6月 26th, 2016
Cate: オーディオマニア

どちらなのか(その5)

「五味オーディオ教室」でオーディオにのめり込んでいった私にとって、
五味先生がリスニングルームに来て下さる日を夢見ていた。

その日が何年後かもっと先のことになるのか、
まったく見当つかなかったけれど、その日を夢見てオーディオに精進していこう──、
そう思い始めていたころ、1980年に五味先生が亡くなられた。

五味先生に会えなかった……、
そのショックも大きかった。
五味先生にききたいことは山ほどあった。
いまもある。

けれどもうきくことはできない。何もきけなかった。
だから自分で考えていくしかない。
このブログを書いているのも、だからである。

これでよかったのかもしれない。
と思うとともに、この行為は極めようとしているのか、
修めようとしているのか、どちらなのか。
両方なのだろうか。

Date: 6月 26th, 2016
Cate: オーディオマニア

どちらなのか(その4)

わたしは、自分が録音したものを、完了したあとでは、それこそめったに聴きませんね。わたしの耳はまずい点を拾いあげようとして、やっきになるだけでしょうから。わたしが、自分で過去においてやったものを、全面的に肯定したとするならば、それまでの間に、わたしは何にも学んだものがないということになります。音楽の生活には、〝良い〟という単語は存在しないのです。
(ステレオサウンド 57号「続・レコードのある部屋」より)

ここでの「わたし」とはカルロ・マリア・ジュリーニである。
これを読んで、カルロ・マリア・ジュリーニも極道だと思った。
いうまでもなく、いい意味での極道であり、
この「極道」のあとには、どの字をもってくるか。

極道者ではなく、極道家としたい。
カルロ・マリア・ジュリーニは、静かなる極道家であり、
演奏する側の音楽家は、そうでない演奏者もいるように感じることもあるが、
その意味では音楽を極めようとするはずだ。

では音楽の聴き手側もまた、聴き方を極めようとしているのかもしれない。
そうであれば、音楽の演奏家だけでなく、聴き手側も極道者といえるのか、となると、
やはり音楽の聴き手側は修道である、と思う。

だが、ここで聴き手側であっても、
オーディオマニアという、より積極的に音楽を聴こうとしている者はどうなのか。

レコード演奏家ということばがある。
オーディオマニアみながレコード演奏家とはいわない。

オーディオマニアであってもレコード演奏という考えかたに否定的な人もいる。
けれどレコード演奏という考えかたに肯定的であり、
レコード演奏家たらんとしているオーディオマニア、
音を良くしていくという行為は、そのためのものという意識をもっている聴き手は、
そこで極めようとしている、と断言できる。

そうなると「オーディオは極道、音楽は修道」ということになり、
facebookにもらった川崎先生のコメントのままに行き着く。

ここまで来て、演奏家もまた極道であり修道であることに気づく。
修道が感じられない演奏があるように思うのだ。
そして五味先生がポリーニのベートーヴェンに激怒された理由は、
ここにあるような気もしている。

Date: 6月 21st, 2016
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアの覚悟(その4)

気(き)は「け」とも読む。
ならば気(き)→気(け)→化(け)、
つまり気が化けて鬼(き)となる。

その3)を書いたあとで、そう気づいた。

Date: 6月 15th, 2016
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアの覚悟(その3)

別項で、気が違うからこその「気違い」と書いた。
わかったつもりで留まらず、わかろうと進んでいくのが、結局はマニアということだ。

気が違うからこそマニアであり、
その「気」は、いつしか「鬼(き)」となっていくのではないだろうか。

Date: 6月 7th, 2016
Cate: オーディオマニア

オーディオは男の趣味であるからこそ(おとこだから)

音の子(音子)、と書いて、おとこ。
だから男はオーディオマニア!!

Date: 5月 15th, 2016
Cate: オーディオマニア

オーディオは男の趣味であるからこそ

クレバーなオーディオマニアを自称する人は、
狭い部屋に大型スピーカーを押し込んで鳴らしている人を揶揄する、
プロフェッショナル用機器を家庭で使う人のことも揶揄する、
ホーンは拡声器でしかない、と揶揄する……、
もっと書いていけるけど、このへんにしておく。

こういうクレバーなオーディオマニアを自称する人からすれば、
たとえばアルテックのA7を六畳間で鳴らしている人は、どう映るであろうか。

ナロウレンジの劇場用スピーカーで、エンクロージュアの仕上げもホーンの仕上げも粗いところが残っている。
家庭で使うことなど全く考慮していないスピーカーであるけれど、
日本にはあえて、この劇場用スピーカーを家庭に持ち込んだ人は、けっこういる。

クレバーなオーディオマニアを自称する人は、そういう人のことを、
古い、の一言で切って捨てるであろう。

クレバーなオーディオマニアを自称する人は、A7を六畳間で鳴らしてみた経験を、
同じといえる経験を持っているのだろうか。

ある、と言える人でも、どこまで真剣に取り組んだのだろうか。

音楽出版からCDジャーナル別冊として1996年、「オーディオ名機読本」が出た。
この本の中に、アルテックのA7について書かれた文章がある。
篠田寛一氏が書かれている。
     *
 また、こんなこともあった。
 米国・アルテック本社の人間を連れて何人かのユーザーを訪問した時のことである。その中にA7を使っている学生さんがいた。木造アパートなのであまり大きな音は出せないが、卒業して故郷に持って帰るまでエージングも兼ねて聴いてるのだという。それでもA7ならではのエネルギー感は楽しめるという彼の部屋に入って驚いた。6畳ほどのスペースにレコードプレーヤーをはじめアンプ、それに机や本箱などがところ狭しと置いてある中にA7が鎮座しているのだ。立錐の余地もないとはこのこと。それにしても、一体どこで寝るのだろう。その答えは、天井とA7との間にある1m弱のスペースにあった。棚のように見える間隙を覆っていたカーテンを開けると、何とそこにベッドが置いてあるではないか。ちょうど、2段ベッドの下段にA7を置き、その上段で寝るというパターンである。ベッドに横になって聴いていると体じゅうに適度な振動が伝わってきてなかなか心地よいと笑いながら話してくれた。
 これにはアルテックの人間も唖然とした様子、最初のうちは声も出なかったようだ、業務用のA7を家庭で聴くことすら信じられないうえこの特異なリスニング環境だから声が出ないのも無理はないが、しばらくたってひと言「ファンタスティック」といっていた。もし、クレージーなんて言ったら叱りつけてよろうと思ったが、自社の製品をこれほどまでに熱烈に愛用してくれるユーザーに心から感激した様子だった。
     *
クレバーなオーディオマニアを自称する人は、この人のことをなんというであろうか。
こういう経験をしてきたのだろうか、同じような経験をしてきたのだろうか。

こういう経験をしてこなかったこと、
考えもしてこなかった自分のことを、どう思うのだろうか。

このA7のユーザーがいた、
この人だけではない、他にも同じ人たちがいた時代が、日本にはあった。
熱い時代があったのは、確かなことだ。

Date: 4月 27th, 2016
Cate: オーディオマニア

どちらなのか(その3)

極道は獄道とも書く。
伊藤先生のステレオサウンドの連載は「獄道物語」だった。
「極道物語」ではなかった。

Date: 4月 24th, 2016
Cate: オーディオマニア

どちらなのか(その2)

オーディオという趣味は、音楽に導かれている、といえる。
音楽の後につづいての行為と考えれば、
その行為が、極道なのか修道なのかが見えてくるのではないだろうか。