オーディオマニアとして(圧倒的であれ・その12)
オーディオの力を信じることに圧倒的であれ──、とおもっている。
オーディオの力を信じることに圧倒的であれ──、とおもっている。
つきあいの長い音とは、自分にとって理想の音、最高の音よりも、
ぴったりの音のことなのかもしれない。
つきあいの長い音があれば、つきあいが長すぎる音も、
つきあいが長すぎた音もあろう。
(その10)で触れている知人。
この人に私は近寄らないようにしている。
向うは私のことを嫌ってくれているようなので、会うことはまずないのだけれども、
それでも関わりは持たないようにしている。
特別扱いを暗に要求している(私はそう感じている)知人は、
被害者意識も強いように感じてもいる。
自分の望むことがかなわないと、被害者意識をすぐに持つ。
このことは、特別扱いをしてほしいということだろうし、
自分は特別扱いされるオーディオマニアという意識が、どこかにあるからなのだろう。
この人ほどではないにしても、同じような傾向のオーディオマニアは、
ソーシャルメディアを眺めていると、少なくないようにも感じる。
けれど、そんな態度だから、いろんなことがこじれてしまう。
本人がこじらせているだけなのだが、孤立していくことで、ますます悪化もするようだ。
『オーディオ評論家の「役目」、そして「役割」』というタイトルで、
別項で書いてきている。
元日に、「毎日書くということ(今日決めたこと)」にコメントがあった。
そのコメントに、こう書いてある。
《オーディオ道は、語り継がれるものであり、それを伝承するのは我々オーディオを愛する者の流れではないでしょうか》
『オーディオ評論家の「役目」、そして「役割」』を書いていて思ったことが、これである。
『オーディオマニアの「役目」、そして「役割」』というタイトルで書こうと思いながらも、
これまで書いてこなかったのは、趣味のことなのに……、そんなふうに思う人のほうが多いだろうし、
あえて書くことでもないのかも──、そんなふうに思ったからだ。
けれどCelloのFさんのように、
《オーディオ道は、語り継がれるものであり、それを伝承するのは我々オーディオを愛する者の流れではないでしょうか》
と思う人がやはりいてくれる。
Great Plains Audio(グレート・プレーンズ・オーディオ)は、
1998年にアルテックの資産を受け継いで創業している。
一時期、活動を停止した、というウワサも耳にしたけれど、
いまはまた活動しているようである。
グレート・プレーンズ・オーディオ(GPA)のサイトを見ると、604の最新版がある。
604-8E IIと604-8H IIとがある。
604-8E IIがアルニコ仕様で、604-8H IIがフェライトである。
フレームの形状からいえば、604Eではなく、
604-8Gもしくは604-8Hの後継機となるのだが、そのところはまぁどうでもいい。
私が気になるのは、というか、アルテック時代の604シリーズと大きく違うのは、
ホーンである。
GPAのサイトには604-8E IIと604-8H IIの真横からの写真がある。
ホーンがフレームよりも前面に突き出している。
アルテックの604のホーンはフレームよりも前に出ていない。
だからユニットを下に向けて伏せて置くことができる。
新しい604は、もうできない。
音のため、なんだろう、とは誰だって思う。
音が良ければ、突き出している方がいい、という捉え方もできる。
ホーンがフレームよりも前に張り出している同軸型ユニットは、
604-8E IIと604-8H II以前にも存在していた。
それだから、どうでもいいことじゃないか、と割り切れればいいのだが、
どうも私は、この点が気になる。
GPAの同軸型ユニットのホーンがフレームよりも前に突き出ていてもいいのだけれど、
ならば604という型番ではなく、違う型番にしてほしかった。
八年前、別項で、
美は結論である。
己の結論に節制をもつことが、オーディオマニアとしての「美」である、
と書いた。
いまもそう思っている。
アルテックの604にあって、GPAの604にはないもの、
それに気がついてほしい。
「宿題としての一枚」を一枚も持たない者は、
圧倒的になれないのではないだろうか。
「宿題の一枚」については、別項で書いている。
《オーディオでしか伝えられない》ことをしっかりと持っていてこその、
圧倒的であれ、のはずだ。
つきあいの長い音──、私にとってはボンジョルノのアンプの音となるのか。
つきあいの長い音──、心に近い音であること。ただそれだけである。
選ばなかった途ではなく、結局は選べなかった途がある。
その選べなかった途をもし歩んでいたら──、
どんな生活を、いま送っていただろうか、とは考えていない。
それはきっとオーディオと無縁の途だったはずだからだ。
つきあいの長い音──、私にとってMQAが、すでにそうであると感じさせる。
つきあいの長い音は、くされ縁の音ではない。
オーディオマニアを自認するのであれば、圧倒的であれ──、
というのは、私の本音だけれど、
人によっては、「圧倒的であれ」を変な方向へ誤解する人がいるようにも感じている。
オーディオマニアのなかには、自分を特別扱いしろ、といわんばかりの人がいる。
友人と電話で話していて、共通の知人のことが話題にのぼった。
共通の知人といっても、私は三十年ほど会っていないし、
連絡もとることはない。
特に親しかったわけでもないが、一度、その人の音は聴いている。
その程度の知り合いでしかない。
それでも、この人はほぼ無意識に自分を特別扱いしてほしがっている──、
そんなふうに感じることが何度かあった。
三十年以上前のことだから、若気の至りだったのかもしれない。
けれど、いまもそのようである。
友人の話をきいていると、なんにも変っていないんだなぁ、と思っていた。
特別扱いしてほしいんですか、と訊けば、そんなことはない、というはずだ。
本人は、まったく意識していないのかもしれない。
なのに、その人の言動は、特別扱いを暗に要求している。
圧倒的であれ、とは、そんなことではない。
オーディオマニアを自認するのであれば、圧倒的であれ──、
というのは、私の本音だ。
(その8)で、そう書いた。
圧倒的であれ、は、圧倒的に楽しむ者であれ、でもある。
圧倒的に楽しめる者こそが、周りのオーディオマニアを挑発できる。
圧倒的であれ──、は威圧することではない。