オーディオマニアとして(圧倒的であれ・その13)
人は、好きなスピーカーを必ずしもうまく鳴らせるとは限らない。
こういう音がスピーカーから出てきてほしいと望んでいても、それが必ずしも鳴らせるとは限らない。
つまりオーディオマニアとして、できないことが常にある、と言っていい。
何が「できない」のかをはっきり見極めることは大事だし、その「できない」をしっかりと受け止めて、負けないことも大事である。
「できない」から目を逸らせてしまうと、腐っていくだけだ。
人は、好きなスピーカーを必ずしもうまく鳴らせるとは限らない。
こういう音がスピーカーから出てきてほしいと望んでいても、それが必ずしも鳴らせるとは限らない。
つまりオーディオマニアとして、できないことが常にある、と言っていい。
何が「できない」のかをはっきり見極めることは大事だし、その「できない」をしっかりと受け止めて、負けないことも大事である。
「できない」から目を逸らせてしまうと、腐っていくだけだ。
11月6日のaudio wednesdayでの4343を音を聴きながら、
これは、私にとって「つきあいの長い音」なんだろうな、と思っていた。
熊本のオーディオ店で、瀬川先生が鳴らされる4343の音は、
何度か聴いている。
最後に聴くことができた音、
トーレンスのリファレンスとSUMOのThe Goldでの、
コリン・デイヴィスの「火の鳥」は、
いまもしっかりと私の裡で鳴り続けている、といえるほどだった。
ステレオサウンドで働くようになった頃は、
4344が登場したばかりで、試聴室には、まだ4343があった。
自分で鳴らした4343の音は、ステレオサウンドの試聴室が初めてだった。
しばらくして4343は4344へと交替した。
ステレオサウンドのリファレンススピーカーが、
4343から4344へと交替した時がきた。
それから4343を個人のリスニングルームで聴くことは、
数えるほどだったが、あった。
そういう機会もなくなり、しばらく4343を聴くことはなかった。
次に聴いたのは、2005年ごろだった。
いつのころからか、オーディオ界のブラック・ジャックになりたい──、
そう思うようになっていた。
オーディオ業界からは嫌われても構わない、
ブラック・ジャックのようになれるのならば──。
昨夜、野口晴哉記念音楽室 中秋会での、
ウェスターン・エレクトリックの594Aの音を聴いていて、少しはそうなれたなぁ、とひとり思っていた。
行間を読む前に、まずは活字になっているところをきちんと読む。
そのことがとても大事なことのはずなのに、
世の中は、行間を読むことが、
書いてある文字を読むことより高尚なことみたいに思われがちのようだし、
そう言われているように感じることがある。
行間を読んでいるから──、
なんと都合のよい言い訳だろう。
そういってしまえば、マウントがとれるとでも思っているのだろうか。
五味先生の「オーディオ愛好家の五条件」を読んで、
「真空管を愛すること」を「マッキントッシュを愛すること」に変換してしまった人は、
マッキントッシュ信者ともいえる人だった。
それはそれでいいのだが、怖いのは思い込みである。
思い込みの激しさである。
その人は、マッキントッシュというブランドを信じている(いた)。
おそらくマッキントッシュの製品ならば、どれも素晴らしいと思っていたに違いない。
信じることは、悪いことではない。
スピーカーの使いこなしにおいて、目の前にあるスピーカーを信じないことには、
何も始まらないといえるし、信じずにはじめたところで、中途半端な鳴らし方しかできない。
そして、そのスピーカーとながいつきあいもできない。
ゆえに、信じることは大事であっても、その人の場合は、何が違っていた。
五味先生は、「メーカー・ブランドを信用しないこと」を第一に挙げられている。
五味先生の「オーディオ愛好家の五条件」。
①メーカー・ブランドを信用しないこと。
②ヒゲのこわさを知ること。
③ヒアリング・テストは、それ以上に測定器が羅列する数字は、いっさい信じるに足らぬことを肝に銘じて知っていること。
④真空管を愛すること。
⑤金のない口惜しさを痛感していること。
ここでは④の「真空管を愛すること」について書きたい。
もう三十年ちょっと前の話になるが、あるオーディオマニアと話していた。
その人は私よりも五つぐらい上の人で、有名私大を出ている。
なのに、この人は、唐突に「五味先生もマッキントッシュを愛すること」と、
「オーディオ愛好家の五条件」で書かれているでしょ、と言ってきた。
この人のいうマッキントッシュとは管球式アンプのマッキントッシュではなく、
トランジスター化されたマッキントッシュなのである。
開いた口がふさがらない、とはこういう時のためのものなのか。
ほんとうにそう思ってしまった。
言った本人は大真面目である。
「オーディオ愛好家の五条件」のなかに、マッキントッシュのMC275のことが出てくる。
けれど、だからといって、「真空管を愛すること」がどうすれば、その人のなかでは、
「マッキントッシュを愛すること」に変換されていくのか。
あまりにもアホすぎて、何も言わなかったが、
仮にそうしたら、その人はどう返してきただろうか。
行間を、私は読んでいる──、おそらくそう言ってきただろう。
どんなに何度も読み返しても、
行間から「マッキントッシュを愛すること」を読みとるのは無理である。
先週の土曜日に、audio sharingの忘年会を行った。
参加された方の一人、Kさんが「孤独な鳥の条件」のことを話された。
この項の(その5)で、「孤独な鳥の条件」を引用している。
*
孤独な鳥の条件は五つある
第一に孤独な鳥は最も高いところを飛ぶ
第二に孤独な鳥は同伴者にわずらわされずその同類にさえわずらわされない
第三に孤独な鳥は嘴を空に向ける
第四に孤独な鳥ははっきりした色をもたない
第五に孤独な鳥は非常にやさしくうたう
*
16世紀スペインの神秘主義詩人、サン・フアン・デ・ラ・クルスの詩である。
(その5)は、2017年9月に公開している。
書いている私は、もちろん憶えているけれど、
そんなこと書いてあったっけ? と読み手側はそんな感じだろう。
それでも、Kさんははっきりと憶えてくれている。
そして、孤独な鳥をめざしている、ともいわれた。
孤独な鳥になんてなりたくない──、
そう思うオーディオマニアもいていい。
ただ、いまのステレオサウンドは孤独な鳥のための雑誌では、とっくになくなっている。
オーディオの力を信じることに圧倒的であれ──、とおもっている。
つきあいの長い音とは、自分にとって理想の音、最高の音よりも、
ぴったりの音のことなのかもしれない。
つきあいの長い音があれば、つきあいが長すぎる音も、
つきあいが長すぎた音もあろう。
(その10)で触れている知人。
この人に私は近寄らないようにしている。
向うは私のことを嫌ってくれているようなので、会うことはまずないのだけれども、
それでも関わりは持たないようにしている。
特別扱いを暗に要求している(私はそう感じている)知人は、
被害者意識も強いように感じてもいる。
自分の望むことがかなわないと、被害者意識をすぐに持つ。
このことは、特別扱いをしてほしいということだろうし、
自分は特別扱いされるオーディオマニアという意識が、どこかにあるからなのだろう。
この人ほどではないにしても、同じような傾向のオーディオマニアは、
ソーシャルメディアを眺めていると、少なくないようにも感じる。
けれど、そんな態度だから、いろんなことがこじれてしまう。
本人がこじらせているだけなのだが、孤立していくことで、ますます悪化もするようだ。
『オーディオ評論家の「役目」、そして「役割」』というタイトルで、
別項で書いてきている。
元日に、「毎日書くということ(今日決めたこと)」にコメントがあった。
そのコメントに、こう書いてある。
《オーディオ道は、語り継がれるものであり、それを伝承するのは我々オーディオを愛する者の流れではないでしょうか》
『オーディオ評論家の「役目」、そして「役割」』を書いていて思ったことが、これである。
『オーディオマニアの「役目」、そして「役割」』というタイトルで書こうと思いながらも、
これまで書いてこなかったのは、趣味のことなのに……、そんなふうに思う人のほうが多いだろうし、
あえて書くことでもないのかも──、そんなふうに思ったからだ。
けれどCelloのFさんのように、
《オーディオ道は、語り継がれるものであり、それを伝承するのは我々オーディオを愛する者の流れではないでしょうか》
と思う人がやはりいてくれる。
Great Plains Audio(グレート・プレーンズ・オーディオ)は、
1998年にアルテックの資産を受け継いで創業している。
一時期、活動を停止した、というウワサも耳にしたけれど、
いまはまた活動しているようである。
グレート・プレーンズ・オーディオ(GPA)のサイトを見ると、604の最新版がある。
604-8E IIと604-8H IIとがある。
604-8E IIがアルニコ仕様で、604-8H IIがフェライトである。
フレームの形状からいえば、604Eではなく、
604-8Gもしくは604-8Hの後継機となるのだが、そのところはまぁどうでもいい。
私が気になるのは、というか、アルテック時代の604シリーズと大きく違うのは、
ホーンである。
GPAのサイトには604-8E IIと604-8H IIの真横からの写真がある。
ホーンがフレームよりも前面に突き出している。
アルテックの604のホーンはフレームよりも前に出ていない。
だからユニットを下に向けて伏せて置くことができる。
新しい604は、もうできない。
音のため、なんだろう、とは誰だって思う。
音が良ければ、突き出している方がいい、という捉え方もできる。
ホーンがフレームよりも前に張り出している同軸型ユニットは、
604-8E IIと604-8H II以前にも存在していた。
それだから、どうでもいいことじゃないか、と割り切れればいいのだが、
どうも私は、この点が気になる。
GPAの同軸型ユニットのホーンがフレームよりも前に突き出ていてもいいのだけれど、
ならば604という型番ではなく、違う型番にしてほしかった。
八年前、別項で、
美は結論である。
己の結論に節制をもつことが、オーディオマニアとしての「美」である、
と書いた。
いまもそう思っている。
アルテックの604にあって、GPAの604にはないもの、
それに気がついてほしい。
「宿題としての一枚」を一枚も持たない者は、
圧倒的になれないのではないだろうか。
「宿題の一枚」については、別項で書いている。
《オーディオでしか伝えられない》ことをしっかりと持っていてこその、
圧倒的であれ、のはずだ。
つきあいの長い音──、私にとってはボンジョルノのアンプの音となるのか。