Date: 9月 24th, 2020
Cate: ケーブル

結線というテーマ(その9)

私が働いていたころのステレオサウンドは、六本木五丁目にあった。
ビルの窓から顔を出せば東京タワーが、かなり大きく見える位置にあった。

六本木という繁華街、しかも東京タワーのすぐ近く。
オーディオ的な環境としては、そうとうに悪い。
だからこそ、セッティングに関しては鍛えられた、といえる面もある。

(その8)でちょっと触れたラインケーブルの引き回しの前に、
スピーカーケーブルの引き回しに関しては、
できるかぎり左右チャンネルのケーブルが同じところを通るように注意していた。

つまりFMのT字アンテナのようにスピーカーケーブルは配置する。
たったこれだけのことで、音場感はずいぶん改善される。

こんな引き回しだと左右チャンネルのセパレーションの確保が……、という人もいるだろう。
まったく影響がないとはいわないが、それ以上に、
左右チャンネルのスピーカーケーブルが物理的に離れてしまうことのデメリットが大きい。

蛇のようにくねくねした引き回しで、
部分部分で左右のスピーカーケーブルの距離が広がった狭まったりするようにすると、
とたんに音場感はこわれてしまう。

同じことがラインケーブルでも起るわけである。
ラインケーブルとスピーカーケーブル、どちらもケーブルであることに変りはないが、
スピーカーケーブルはスピーカーシステムに接続されるもので、
スピーカーは左右チャンネルで完全に独立している。

一方ラインケーブルは、コントロールアンプとパワーアンプ、
もしくはCDプレーヤーとコントロールアンプとのあいだを接続するケーブルで、
モノーラルパワーアンプ以外では、アースに関してはシャーシー内部で接続されている。

それでも同じ現象(音の変化)が、ラインケーブルでも起る。
このことで、DINケーブルのもつ優位性に気づくことができた。

Date: 9月 24th, 2020
Cate: ディスク/ブック

SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO(その2)

“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”には期待している。
期待は“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”に対してだけではなく、
“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”に対しても持っている。

“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”はSACDも出ている。
その意味での期待ではなく、“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”の完全版が、
“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”の発売にあわせて出てくるのではないか、という期待だ。

“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”の実際のライヴは、もっと長かったはずだ。
それをすべて聴きたい、とずっとおもってきた。

“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”は、
“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”との組合せで、
いくつかのヴァージョンが出るではないだろうか。

そういうやり方を好まないけれど、
今回はそのことに期待している。

Date: 9月 24th, 2020
Cate: 老い

老いとオーディオ(とステレオサウンド・その7)

出版社とは記事を売る会社で、本という物を売る会社ではない、書いてすぐに、
記事を情報とする人もいるだろうな、と思っていた。

出版社とは情報を売る会社で、本という物を売る会社ではない──
そうだろうか。

記事も情報のうちに含まれる、といえば、否定はしない。
それでも記事と情報を同じに捉えていては、
この二つの境界を曖昧にしたままで、
インターネットに自社サイトを公開しているところがあるように感じている。

インターネット以前は、
海外屋と呼ばれる人たちが、どの業界にもいた、ときいている。
とにかく海外の動向をいち早く知ることが、昔は仕事につながっていっていた。

オーディオの世界も、そういう人たちはいた。
オーディオ評論家と呼ばれている人たちのなかにも、
昔は、海外屋的な人が確かにいた。

音楽評論家のなかにも、海外屋と呼ばれる人は何人かいた。
三浦淳史氏も、その一人であったけれど、
海外屋も、情報だけの人もいれば、三浦淳史氏のように記事(読みもの)として、
読み手に提供してくれる人とに分れていた。

残念なのは、三浦淳史氏のような人が少ないということ。

少なかっただけでなく、情報提供だけの海外屋を求めていた読み手も、
実のところ少なくなかったのではないだろうか。
それはいまも続いているような気さえする。

情報だけでいいんだよ、そんな声があるのか。
いまもSNSで情報提供だけの海外屋的な人を持囃す人たちがいる。
オーディオの世界では、まだまだそうである。

インターネットがこれだけ普及して、
ほとんどの人がスマートフォンをもっている時代であっても、そうである。

スイングジャーナルが売っていたのは、
休刊間際のころに売っていたのは、情報だったのか記事だったのか。

もう情報でもなかった、記事でもなかったのではないだろうか。

Date: 9月 24th, 2020
Cate: 老い

老いとオーディオ(とステレオサウンド・その6)

フィリップス・インターナショナルの副社長の
「なぜならわが社は音楽を売る会社で、ディスクという物を売る会社ではないからだ」は、
出版社にあてはめれば、
出版社とは記事を売る会社で、本という物を売る会社ではない、ということになる。

スイングジャーナルがなくなってしまったのは、
結局のところ、記事を売る会社ではなく、本という物を売る会社のままだったからなのか。

スイングジャーナルの最終号がいつものままのつくりであったことは、
どういうことなのか。

編集部としては、このまま終らせるつもりはない、
復刊させてみせる、という気持があって、
復刊を信じていれば、あえて通常通りの編集を最終号でもやったのかもしれない──、
そういう見方もできる。

でもアドリブが休刊になる前から、
スイングジャーナル社があぶない、というウワサは耳に入ってきていた。

編集部の人たちは、どうだったのだろうか。
このまま消えてしまうのであれば、特別な労力を必要としない、
いつも通りの編集でいいじゃないか──、
そんなどこか投げやりな気持はなかったのか、とも思ってしまう。

どっちでもいいとも思っている。
もし復刊できたとしても、あのままだっただろうから。
復刊できたとしても、いずれまた休刊してしまう。

本という物を売る会社としての出版社。
スイングジャーナルもそうだし、ステレオサウンドもそうなのだが、
どちらも雑誌がメインの出版社である。

ここでの本とは雑誌のことであり、
雑誌を売る会社とは、売る相手は読者だけでなく、広告主もいるということだ。

Date: 9月 23rd, 2020
Cate: 日本のオーディオ

リモート試聴の可能性(その9)

五味先生の「オーディオ巡礼」に「HiFiへの疑問」がある。
そこに、こんなことが書かれている。
     *
 ところで、たとえばここに二つのスピーカーがある。Aは理想的に平坦な周波数特性をもち、Bは周波数帯域に小さな谷や山をずいぶんもっている。山はピークだから、その周波数附近の音は(楽器は)Aに比して、何か強く強調されたようにきこえる、もしくは歪んでひびく。谷の周辺の音は弱く、小さい。
 さて現実に、まったき周波数特性の平坦なスピーカーはまだのぞめないだろう。じつに大小さまざまな山や、谷の特性をもつスピーカーしかない。しかも周波数特性がまったく同じスピーカーなど存在しない。厳密にはだから、レコードにきざまれた音を、大小差異のある音に増幅してぼくらは聴いている。しかもぼくらが家庭で聴くスピーカーは一台である。私の家で鳴っている音と、B君の家とでは或る音域に微少でも必ず差があるわけで、どちらの音がいいかは、厳密には誰にも断言できまい。
 スピーカー一つを例にとってこうである。アンプ、カートリッジ、テープデッキ、ひとつとして同じ鳴り方をするものはない。つまり演奏の同じレコードなど、それが再生される限り、一枚もない理屈になる。ハイフェッツのレコードが五十万枚売れたとすれば、五十万のハイフェッツの演奏がある理屈だ。ことわっておくが、私は理屈をこねているのではない。何十万という異なる再生装置で、異なる演奏を聴きながらレコード愛好家が良否を識別する、その不思議さをおもうのである。肯綮に当っている不思議さを。
     *
(その7)で触れた「PLAYBACK in JAZZ KISSA BASIE」を、どう聴くかは、
これと同じことだろう。

「PLAYBACK in JAZZ KISSA BASIE」を再生することで、
ジャズ喫茶ベイシーの音を、自分のリスニングルームに完全に再現しよう、
と考える人はおそらくいない、と思う。

五味先生が、これを書かれたころからすれば、
スピーカーの周波数特性ひとつとっても、かなり平坦になってきている。

スピーカーの物理特性は変換効率以外は明らかに向上している。
それでも、いまだ一つとして同じ音のするスピーカーは存在しない。
似ている音のスピーカーは存在するようになってきたけれども。

ベイシーの再生システムとまったく同じシステムを揃えている人がいても不思議ではない。
でも、その再生システムで「PLAYBACK in JAZZ KISSA BASIE」を鳴らしても、
ジャズ喫茶ベイシーの音を再現できるわけではない。

「PLAYBACK in JAZZ KISSA BASIE」が何枚売れたのかは知らないが、
仮に一万枚としよう。
そうすれば、一万の「PLAYBACK in JAZZ KISSA BASIE」の演奏がある理屈になる。

そう「PLAYBACK in JAZZ KISSA BASIE」を、
ベイシーの店主・菅原正二氏のレコード演奏として捉えるのであれば、
そうなる道理だ。

Date: 9月 22nd, 2020
Cate: 老い

老いとオーディオ(とステレオサウンド・その5)

ステレオサウンドは老いていっている、
というのが、私の本音である。

そして、そんな老いていくステレオサウンドの、
いわば先輩にあたるのがスイングジャーナルであった、とも思っている。

スイングジャーナルは1947年に創刊している。
ステレオサウンドよりも19年早い創刊である。

スイングジャーナルは,2010年6月発売の7月号で休刊(廃刊)になった。
当時、twitterで休刊のニュースを知った。

特に驚きはなかった。
スイングジャーナル社発行のアドリブが5月に休刊していたし、
そのことがなくても、
休刊までの20年分くらいのスイングジャーナルの内容を知っている人ならば、
休刊やむなし、と思ったであろう。

2010年7月号のスイングジャーナルを、書店で手にとった。
パラパラをめくってみただけだった。

なのではっきりと記憶があるわけでなはい。
60年以上続いた雑誌の最終号とは、誰も思わないであろう、
いつも通りの内容だったな、という印象だけしか残っていない。

ジャズの熱心な聴き手でない私、
スイングジャーナルを定期購読したことはなかった私には、
感慨なんて、最終号を手にしても、まったくなかった。

自然消滅、自然淘汰されたぐらいにしか感じなかった。

ここでのことに関係して思い出すのは、
黒田先生の「聴こえるものの彼方へ」のなかの
「ききたいレコードはやまほどあるが、一度にきけるのは一枚のレコード」に、
フィリップス・インターナショナルの副社長の話だ。
     *
ディスク、つまり円盤になっているレコードの将来についてどう思いますか? とたずねたところ、彼はこたえて、こういった──そのようなことは考えたこともない、なぜならわが社は音楽を売る会社で、ディスクという物を売る会社ではないからだ。なるほどなあ、と思った。そのなるほどなあには、さまざまなおもいがこめられていたのだが、いわれてみればもっともなことだ。
     *
「ききたいレコードはやまほどあるが、一度にきけるのは一枚のレコード」は1972年の文章、
ほぼ50年前の、フィリップス・インターナショナルの副社長のこたえである。

Date: 9月 22nd, 2020
Cate: ディスク/ブック

SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO(その1)

“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”の間違いではなく、
“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”で合っている。

“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”に収められている日だけでなく、
翌日の土曜日も演奏が行われていて、録音が残されていることを知ったのは、
三年ほど前のことだ。

アル・ディ・メオラがfacebookに、そう書いていた。
なんでも、ある一人が発売に反対している、ともあった。

いつ出るのか。
あまり期待せずに待っていた。

ようやく来年発売になるようだ。
延期になる可能性もあるけれど、とにかくいつかは発売されるであろう。
期待は、ずっと大きくなっている。

Date: 9月 22nd, 2020
Cate: ベートーヴェン, 正しいもの

正しいもの(その22)

ステレオサウンド 94号(1990年春)の特集、
CDプレーヤーの試聴で、井上先生はEMTの921の試聴記の最後に、こう書かれている。
《ブルックナーが見通しよく整然と聴こえたら、それが優れたオーディオ機器なのだろうか》と。

私が10代のころ読んでいたステレオサウンドでは、
井上先生がどんな音楽を特に好まれて聴かれているのかがわからなかった。

ステレオサウンドの試聴室で、井上先生の隣で聴くことができてから、
いろんな音楽を聴かれていることがわかった。

実際に会えばすぐにわかることなのだが、井上先生は照れ屋である。
だからだろう、好きな音楽のことをことさらに語られることはされない。

それでも試聴中、ときどきぽろっといわれることがある。
そうとうに音楽を聴いているからこそのひとことである。

《ブルックナーが見通しよく整然と聴こえたら、それが優れたオーディオ機器なのだろうか》、
これに関しても、ほほ同じことを試聴のあいまにきいている。

94号の試聴では、カラヤン/ウィーンフィルハーモニーのブルックナーの八番が、
アバドのロッシーニの「アルジェのイタリア女」、
ボザール・トリオのモーツァルトのピアノ三重奏曲第一番、
バーバラ・ディナーリーンの「ストレート・アヘッド!」といっしょに、
試聴ディスクとして使われている。

これまでも書いているように、私はブルックナーはあまり聴かない。
最近の指揮者のブルックナーは、まったく聴いていない。

もしかすると、最近のブルックナーは《見通しよく整然と聴こえ》るのかもしれない。
そうだとして、そういうブルックナーしか知らない聴き手は、
《ブルックナーが見通しよく整然と聴こえたら、それが優れたオーディオ機器なのだろうか》
という疑問はまったくもたないであろう。

でも、ここではカラヤン/ウィーンフィルハーモニー、
それもカラヤン晩年のブルックナーであり、
1931年生れの井上先生が聴いてのブルックナーである。

Date: 9月 22nd, 2020
Cate: ベートーヴェン, 正しいもの

正しいもの(その21)

瀬川先生が、「あなたはマルチアンプに向くか向かないのか」で書かれている。
     *
 もう何年も前の話になるが、ある大きなメーカーの研究所を訪問したときの話をさせて頂く。そこの所長から、音質の判断の方法についての説明を我々は聞いていた。専門の学術用語で「官能評価法」というが、ヒアリングテストの方法として、訓練された耳を持つ何人かの音質評価のクルーを養成して、その耳で機器のテストをくり返し、音質の向上と物理データとの関連を掴もうという話であった。その中で、彼(所長)がおどろくべき発言をした。
「いま、たとえばベートーヴェンの『運命』を鳴らしているとします。曲を突然とめて、クルーの一人に、いまの曲は何か? と質問する。彼がもし曲名を答えられたらそれは失格です。なぜかといえば、音質の変化を判断している最中には、音楽そのものを聴いてはいけない。音そのものを聴き分けているあいだは、それが何の曲かなど気づかないのが本ものです。曲を突然とめて、いまの曲は? と質問されてキョトンとする、そういうクルーが本ものなんですナ」
 なるほど、と感心する人もあったが、私はあまりのショックでしばしぼう然としていた。音を判断するということは、その音楽がどういう鳴り方をするかを判断することだ。その音楽が、心にどう響き、どう訴えかけてくるかを判断することだ、と信じているわたくしにとっては、その話はまるで宇宙人の言葉のように遠く冷たく響いた。
 たしかに、ひとつの研究機関としての組織的な研究の目的によっては、人間の耳を一種の測定器のように──というより測定装置の一部のように──使うことも必要かもしれない。いま紹介した某研究所長の発言は、そういう条件での話、であるのだろう。あるいはまた、もしかするとあれはひどく強烈な逆説あるいは皮肉だったのかもしれないと今にして思うが、ともかく研究者は別として私たちアマチュアは、せめて自分の装置の音の判断ぐらいは、血の通った人間として、音楽に心を躍らせながら、胸をときめかしながら、調整してゆきたいものだ。
     *
これを読んで、私は勝手に、「ある大きなメーカーの研究所」は、
きっとあそこだな、と思っていた。

40年ほど昔のことである。
10代の私は、あるメーカーのことを思い浮べた。
いまも、そのメーカーのことだろう、と思うが、メーカー名は書かない。

書きたいのは、そこではない。
井上先生のことである。

10代のころの私は、
ステレオサウンドに載っている井上先生の試聴記を読んで、
「この人も、これに近い聴き方をしているんだろうな」と思ってしまっていた。

ものすごく耳のいい人だということは書かれているものからは伝わってくるし、
黒田先生が鬼の耳といわれていたのも知っていた。

それでなんとなく、そんなふうに思い込んでしまった。

けれどステレオサウンドで働くようになって、井上先生の試聴を間近で接していて、
なんという勘違いをしていたんだろう、と気づいた。

Date: 9月 21st, 2020
Cate: ケーブル

結線というテーマ(その8)

自作ケーブルのほうが、いわゆるオーディオ的には優れていた、といえる。
レンジ感も自作のほうが、あきらかにワイドレンジに聴こえる。

もともとのDINケーブルは、なんとなくナローレンジにも感じた。
そのためもあって、センター定位がなんとなく安定しているように聴こえる──、
そんなふうに勝手に解釈してしまったところがある。

けれどアンプの場合、
RCAコネクターは左右チャンネルで分れていても、
アンプ内部ではアース側は結ばれている。

ステレオアンプであるかぎり、ほぼすべてのアンプでそうなっている。
例外はないはずだ。

つまりコントロールアンプ側でもパワーアンプ側でも、
アースは結ばれているわけである。

なのにコントロールアンプとパワーアンプを結ぶラインケーブルでは、
アース(シールド)が、左右チャンネルで分れている。

つまりどういうことなのかといえば、ラインケーブルの両端ではアース側は結ばれていて、
シールド(アース)は、ケーブルの長さの分だけのループを形成している。

もちろんケーブルの両端はアースに接続されいてるわけだから、
同電位であって、見た目上のループが形成されていても、問題がないように感じるし、
むしろ左右チャンネルのケーブル間でのクロストークを考えれば、
シールドは分れていたほうがよいようにも感じる。

けれど、このループの形成がいちど気になってくると、
これでほんとうにいいのだろうか、という疑問に変ってくる。

一度、井上先生の試聴で、こんなことがあった。
コントロールアンプとパワーアンプ間のラインケーブルが、
接続を替えた際に、物理的に少し離れてしまった。
といっても、いちばん広いところで20cmくらい離れたくらいだった。

そこに気づかれた井上先生が、
左右のラインケーブルをくっつけろ(近づけろ)といわれた。

Date: 9月 21st, 2020
Cate: ケーブル

結線というテーマ(その7)

いまではほとんど使われなくなったDINコネクターだが、
1980年代ごろまでは、ヨーロッパのオーディオ機器にはけっこう使われていた。

ラインケーブルの場合、DINは一つの端子でまかなわれる。
RCAコネクターのように、左右チャンネルで分離というわけではない。
なので左チャンネル、右チャンネルのホット側、
それに左右チャンネル共通のアースとなる。

たいていの場合、ケーブルは左右チャンネルを一本ですませる。
二芯シールドであれば、芯線を左右チャンネルのホットに、
シールドをアースに接続すればいい。
それにDINコネクターは、太いケーブルはまず使えない。

RCAケーブルの立派なみかけのケーブルをみなれた目には、
DINコネクターの接続は、たよりなくうつる。

たとえばQUADのパワーアンプの405。
1976年登場の、このアンプの入力端子はDINである。
これをRCAコネクターに改造した人もけっこういるようである。

DINコネクターに、かなり無理をして左右チャンネル独立のシールド線を通した人もいよう。
私も、人に頼まれてずいぶん昔にやったことがある。

そこそこ評判のいいケーブルを使って自作した。
交換すると、音はよくなった、と感じた。
依頼した人も満足していたので、それでよかったのだが、
一つ、その時気になったのはセンター定位のことである。

この点、一点に関しては、もともとのDINケーブル。
つまり左右チャンネルで共通のケーブル(つまり一本)のほうが、
しっかりしているように感じた。

自分のシステムではなかいら、気の済むまでじっくりと、
その点に関して聴き込むことはできなかった。

これが最初の疑問の起りだった。

Date: 9月 21st, 2020
Cate: ヘッドフォン

優れたコントロールアンプは優れたヘッドフォンアンプなのか(その6)

その1)で、瀬川先生の文章を引用した。
スピーカーを鳴らして、いい音を聴かせるパワーアンプが、
ヘッドフォンを鳴らしても、いい音がするとは限らないことがわかる。

ヘッドフォン出力をないがしろにしているからなのかもしれないが、
ここでいえることは、優れたパワーアンプが、必ずしも優れたヘッドフォンアンプではないことだ。

瀬川先生の文章は1978年のものだから、
いまもそうだとはいわないが、少なくともこのころはそうだった、とはいえる。

瀬川先生は、
《ヘッドフォン端子での出力と音質というは、どうやらいま盲点といえそうだ。改めてそうした観点からアンプテストをしてみたいくらいの心境だ》
と書かれているが、その後、ヘッドフォンの試聴は、瀬川先生の時代には行われなかった。

その3)で触れたマッキントッシュとGAS。

1978年という時代、当時のマッキントッシュの製品、
瀬川先生の求める音から考えても、マッキントッシュは候補には入っていなかったはずだ。

GASも、瀬川先生の音の好みから外れている、という点で同じだっただろう。

マッキントッシュのアンプには、いまもヘッドフォン端子がついている。
さすがにパワーアンプからはなくなっているが、
プリメインアンプにもコントロールアンプにもついている。
管球式のコントロールアンプにもついている。

そういうブランドだから、ヘッドフォンアンプも、もちろん製品化している。
このことは、(その3)で書いているように、
機能の重複であって、性能の重複ではない。

GASは、というと、もう会社はない。
ボンジョルノの復活作となったAMPZILLA 2000、
そのコントロールアンプ、AMBROSIA 2000にはヘッドフォン端子が、やはりついている。

Date: 9月 20th, 2020
Cate: 老い

老いとオーディオ(とステレオサウンド・その4)

facebookにコメントをされた方は、
ステレオサウンド・メディアガイドは、広告営業用の媒体資料であろう、
と指摘されていた。私もそう受けとっている。

そして、いまだに殿様商売をやっているのか、という感想をもった、ともあった。
この点も、まったく同じである。

殿様商売がぴったりだ。
まぁ、でもステレオサウンド側に立てば、
うちは殿様商売ができるんだ、ということでもあろう。

私は2014年版と2020年版しか知らないが、
ステレオサウンド・メディアガイドは、これまでに何回出ていたのだろうか。

回数はわからないが、それでもはっきりいえることは、
どれもコピー・アンド・ペーストでつくられていて、
誤植を含めて内容は同じだ、ということである。

このステレオサウンド・メディアガイドを受けとる側は、どう思っているのか。
また今年も来たな、ぐらいの感覚なのだろうか。
また今年も同じ内容のままだ、誤植も同じままだ、なのだろうか。

それでも、オーディオ雑誌のなかで、ステレオサウンドがもっとも広告が多い。
ほかのオーディオ雑誌の広告索引と比較してみてほしい。
ステレオサウンドの一人勝ちといっていい状況は、
これはもうなれ合いでしかない。

殿様商売となれ合い。
これこそ老害ではないか。

老害、老害とくり返す人は、SNSに少なからずいる。
そういっている人は、おそらくある程度若い人たちだろう。

老害というのはいいけれど、
どんなことを老害といっているのかが見えてこないことが多い。

きちんと書いている人もいるのかもしれないが、
検索までして、読みたい、とまったく思っていない。

なので、あくまでも私が目にした範囲では、
老害について具体的なことを書いているのは記憶にない。

老害、老害といっている人が、何を老害と感じているのはわからないが、
いまのステレオサウンドこそ、まさに老害である。

Date: 9月 20th, 2020
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアとして(圧倒的であれ・その6)

再発見する「自分」をなくしてしまったら、
もうオーディオマニアではなくなった、といっていい。

Date: 9月 19th, 2020
Cate: 音楽の理解

音楽の理解(平均律クラヴィーア曲集、ベートヴェンの後期ソナタ・その4)

味わえば味わうほどに、平均律クラヴィーア曲集はますます美しくなる、
味わえば味わうほどに、ベートヴェンの後期ソナタはますます美しくなる。

何度も、このことを書いている。

まず音ありき、だ。
どんな音楽であっても、音ありき、である。
平均律クラヴィーア曲集であっても、
ベートーヴェンの後期ソナタにしても、そうである。

むしろ、味わえば味わうほどに、ますます美しくなる音楽ほど、
まず音ありき、とさえおもうことがある。

私は音を聴いているわけではない、音楽を聴いているんだ──、
どんな人が強く主張しようと、まず音を聴いている。

ベートーヴェンの音楽、
動的構築物といえるベートーヴェンの音楽は、聴き手の裡で動的構築物となる。

常にそう感じられる音を出せているわけではない。
動的構築物と感じられる片鱗すら出せない音と比較すれば、
まだましとはいえても、
菅野先生のところで聴いた児玉麻里/ケント・ナガノによるピアノ協奏曲こそ、
まざまざと、音による動的構築物を私に見せてくれた。
いまのところ、これ以上の経験はない。

この時の菅野先生の音を聴いている私と、
そういうレベルの音をまったく聴いていない人とでは、
おそらく音による動的構築物についての認識は、
そうとうに違ったものになっているのではないだろうか。

そのこと以前に、まず音ありき、という認識がある人とそうでない人でも、
言葉で、音による動的構築物といったり書いたりするだろうが、いうまでもなく、
前者のいう音による動的構築物と後者のいう音による動的構築物が、
どういうことを指しているのか、伝えたいのかは、
これまた受けとる側にも、
まず音ありき、という認識がある人とそうでない人とがいるわけであり、
ここても、菅野先生のところで、
児玉麻里/ケント・ナガノの演奏を聴いている者とそうでない者とがいるわけで、
結局のところ、音による動的構築物の理解は、
人びとのあいだに深まるどころか、広まってもいかないのかもしれない。