Date: 7月 26th, 2017
Cate: オーディオ評論

評論家は何も生み出さないのか(書評のこと)

(その5)にfacebookでコメントがあった。
そこに書評の世界のことが書いてあった。

コメントの内容とは関係のないことだが、
書評は難しい、とステレオサウンドの編集をやっていたころから思っていた。

当時のステレオサウンドには、岡先生による書評のページがあった。
音楽、オーディオに関する本が取り上げられていた。

毎回岡先生の原稿を読むたびに、さすがだな、と感心していた。
大半が未読の本だったが、
中には岡先生の原稿の前に読んでいた本もあった。

そういうときは、ほんとうにかなわないな、と感じていた。
書評を書け、といわれても、こうは書けないどころか、
書評というものをどう書いたらいいのかもわかっていなかった(つかめていなかった)。

日本語で書かれた本を読んで、その本について日本語で書く。
いったい何を書いたらいいのだろうか、途方に暮れる。

書評を依頼されることはないけれど、
時々、この本を紹介するのに、どう書くかは考える。

ステレオサウンドを辞めて25年以上が経っているし、
こうやって毎日書いていても、書評はほんとうに難しい、とおもう。

Date: 7月 26th, 2017
Cate: よもやま

会って話すと云うこと(その13)

2月に大分から来られたUさんと会って飲んでいた。
数日前には、兵庫からのTさんと会っていた。

Uさんと初対面だった。
facebookで知りあった。

Tさんとは30年ぶりだった。
元同僚である。彼も短い期間ではあったが、ステレオサウンドで働いていた。
お互いの連絡先は知らないままだったけれど、facebookのおかげでまた会うことになった。

facebookがなければ、UさんともTさんとも、今年会って飲むことはなかったかもしれない。
facebbokがなくともインターネットはあるわけで、
audio sharingを公開しているし、ブログも毎日書いていて、メールアドレスも載せているので、
facebookがなくとも知りあったり、再会したりという可能性はまったくないわけではない。

でもfacebookがあったから、と感じている。

UさんもTさんもオーディオマニアだ。
2月も数日前も、オーディオの話がほとんどだった。

Tさんと再会する二日前には、友人のAさんと飲んでいた。

会って話すということは、目の前に相手がいる、ということである。
私の前に、誰かが坐ってくれている、ということだ。

Date: 7月 26th, 2017
Cate: 「ネットワーク」

dividing, combining and filtering(その2)

分岐点(dividing)と統合点(combining)、それに濾過(filtering)だ、
と一年ほど前に書いたことを、実感する。

ある音をいま聴いている、とする。
スピーカーから出てくる音すべてを受け止めているわけではない。

もちろん耳には入ってきている。
けれどそこから先のこととなると、人によって違ってくる。

聴く能力の違いがあろう。
訓練してきた耳もあればそうでない耳もある。

音を受け止めるということは、音を判断することでもある。
判断には、それまでの記憶が深く関わってくるはずだ。

その記憶とは、ある種のフィルターともいえる。

Date: 7月 26th, 2017
Cate: 再生音

続・再生音とは……(波形再現・その2)

ステレオサウンド 48号の測定は長嶋先生が行われている。
146ページの囲みも長嶋先生が書かれているのだろう。

そこには《グラフに現われる山の形はカートリッジを替えても変るため、プレーヤーのみならず、他のコンポーネントにも応用できるだろうと考えている。もっと細部まで検討してから発表するつもりでいる。ご期待いただきたい。》
とあった。

それまで測定に使われる信号といえば正弦波ばかりといっていい。
正弦波による測定がわかるのは、いわゆる静特性であり、
実際の音楽信号を使った測定による動特性とははっきりと区別しなければならない。

私は48号の囲み記事を読んで期待していた。
すぐにはないだろうが、ステレオサウンドは48号での測定をさらに検討・発展させ、
動特性の測定を行なってくれるであろう、と。

けれど実際には行われなかった。
測定の難しさが関係してのことかもしれない。

試聴もそうだが、測定も再現性が求められる。
同じ条件で試聴、測定をやって、同じ結果が得られるか、という意味での再現性である。

この再現性が十分に確保されていないと、クレームを受けることにつながってしまう。

ステレオサウンド 48号は1978年である。
CDが登場する三年前であり、それゆえの難しさがあったことは容易に想像できる。

Date: 7月 26th, 2017
Cate: 再生音

続・再生音とは……(波形再現・その1)

ステレオサウンド 48号で、
アナログプレーヤーのブラインドフォールドテストが行われている。
測定も五項目、行われている。

そのひとつにレコードの音楽波形レベル記録というのがある。
実際にレコードを再生して、その波形を記録したもの。

使用されたレコードは、アシュケナージによるベートーヴェンのピアノソナタ第23番、
カートリッジはオルトフォンのSPU-G/E、コントロールアンプはヤマハのC2、
サブソニックフィルターはオンにしての測定結果である。

誌面に掲載されているレベル記録のグラフは横幅10cmくらいで、
そこにアシュケナージの「熱情」の冒頭五分間のレベルが描かれているため、
各プレーヤーによる違いを細部まで比較するには、小さすぎる。

しかもすべての機種の測定結果が同じページに掲載してあれば比較もしやすいが、
それぞれのプレーヤーごとにわかれているため、よけいに比較しにい。

それでもいくつかピックアップして丹念にみていけば、
一見同じようにみえる波形であっても、違いがある。

48号の146ページには、囲みで、拡大したグラフの比較が行われている。
EMTの930stによる波形と、1973年ごろのローコストのダイレクトドライヴ型の波形である。

こちらは拡大してあるのと上下に並べてあるだけに、比較がしやすい。
どちらの波形がより正確かはこれだけではいえない面もあるが、
とにかくふたつの波形が違うことは、想像以上にある、と感じた。

Date: 7月 26th, 2017
Cate: 使いこなし

丁寧な使いこなし(その2)

丁寧であるということが、
なにか間違っている方向に行きつつあるように感じることが増えている、
そんな気がしているから、(その1)でJR東日本のことを書いた。

同じように、オーディオにおいても、丁寧であることが、
どこか間違っている方向に行きつつあるのではないか、と思うことがある。
だから「丁寧な使いこなし」というタイトルにした。

「丁寧な」とつけられることは、使いこなしの他にもある。
それでもここでは使いこなしに絞って考えていきたい。

五年前に「使いこなしのこと(なぜ迷うのか)」を書いている。
オーディオには、あれこれ迷うことがある──、というより多い。
迷うことばかりといってもいいかもしれない。

どのオーディオ機器を購入するかでも迷う。
システムのグレードアップをはかるときにも、
まずどこをグレードアップすべきか、と迷う。

試聴しても迷う。
迷った末に手に入れたオーディオを、いざ自分の部屋で鳴らしてからも、
迷うことから解放されるわけではなく、違う「迷う」が生じてくる。

オーディオには迷うことが求められているようにも感じる。
だからこそ、丁寧であることが使いこなしにおいても必要となるし、
丁寧な使いこなしとは、冷静に迷うことから始まる、とおもう。

Date: 7月 25th, 2017
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の才能と資質(その2)

ここでのテーマは、別項「評論家は何も生み出さないのか」と関係している。
「評論家は何も生み出さないのか」を書き始めたから、このテーマで書き始めたともいえる。

オーディオ評論家を名乗っているのに、
周りからもオーディオ評論家と呼ばれているのに、
スピーカーをうまく鳴らすのが不得手な人が多い。

いまオーディオ評論家と名乗っている人すべてを知っているわけではないから、
全員がそうだ、とは断言できないが、現在の多くのオーディオ評論家が、
スピーカーをうまく鳴らすことに長けているとはいいがたい。

もちろん、自分のリスニングルームにおいて、
自分の好きなスピーカーを鳴らすことに関しては、そうではないだろうけど、
オーディオ評論家は少なくともプロフェッショナルであるわけだから、
それだけではアマチュアと同じでしかない。

十年ほど前か、あるオーディオ評論家から聞いたことがある。
地方のオーディオ販売店に招かれる。
たいてい音が出るように準備されている。

けれど客に聴かせられるようなレベルではないことも少なくないそうだ。
そんなときFMアコースティックスのアンプが店にあると助かる、ということだった。

FMアコースティックスのアンプが置いてある店なわけだし、
オーディオ評論家を招いてイベントを行うくらいだから、
最初のアンプもそこそこの評価の高いモノのはすである。

それをさらに高価なFMアコースティックスにかえる。
そうするとたいていの場合、なんとかなる、ということだった。

この時はアンプについて話していたときであったから、
その流れで、この話をしてくれたのだろう。

そのことはわかったうえで、書いている。
それでも、オーディオ評論家を名乗っている以上、
アンプをFMアコースティックスにかえる前にやれることは、山のようにあるではないか、
そういいたくなる。

おそらく、これに対する返事は、時間がそんなにないから、なのだろう。
そういう事情もわからないほけではない。

それでも……、とやっぱり思ってしまう。

Date: 7月 25th, 2017
Cate: audio wednesday

第79回audio wednesdayのお知らせ(結線というテーマ)

「結線というテーマ」は、4月のaudio wednesdayでやる予定だった。
けれど直前になってマッキントッシュのMA2275が故障になって、
新しくMA7900にかわったのが4月下旬ということもあり、
「結線というテーマ」を伸ばし伸ばしにしていた。

5月、6月、7月とMA7900で音を鳴らしてきて、
同じマッキントッシュのプリメインアンプといっても、
MA2275は管球式で、トランジスター式のMA7900にかわったのだから、
音もかなり変化するのか、と思っていた。

音は変った、といえば、もちろん変っている。
けれどそれまでのMA2275で鳴らしていた音と違和感がまったくなく、
最初から馴染んでいる、と感じている。

なので、このへんで「結線というテーマ」をやろうと思う。
このテーマは一回かぎりではなく、何回か予定している。
今回は、MA7900の出力端子から、ネットワークを含めたスピーカーまでの配線を、
通常のやり方から大きく変えてみる。

とはいってもスピーカーケーブルは、いま使っているカナレのモノをそのまま使う。
新たにケーブルを足すわけでもなく、
あくまでも結線を変えての、ひとつの実験である。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 7月 25th, 2017
Cate: オーディオ評論

評論家は何も生み出さないのか(その6)

もうすこし向坂正久氏の文章から引用しておこう。
     *
 評論とはくり返し書くが、文学の領域の仕事である。そこでは筆者の主観が、あらゆる客観的な事実に勝るのである。たとえ資料が乏しくとも、あるいはそれが不確かでであっても、その筆者のいおうとすることによって、それは枝葉末節にすぎない。ほんとうの幹は筆者の肉体だからである。
 ここでもうひとつの例をあげよう。名高い小林秀雄の「モオツァルト」には今日偽作と断定されている手紙の引用がある。研究論文ならば、すでにそのことで、この評論の価値は減少しよう。しかし、このエッセイの価値はそんなことで微動だにしないのだ。その手紙は小林にとって、ひとつの動機になったにすぎないのだから、そこから織り出していく彼自身の芸術論に価値があるのであって、引用そのものは極端にいえば誰の手紙でも構わないとさえいえるのである。
 論文と評論の差はここにある。そしてまた音楽好きの読者が、ほんとうに求めているのは客観的なものではなくて、より主観的なものであり、その主観を表現し得る技術を磨くことこそ、評論家たちが骨身を削って体得しなければならないことなのである。音楽のジャーナリズムはそのことを忘れているだけでなく、当の評論家たちさえ、そのことに悩むことが少なすぎるのである。
     *
49年前の「音楽評論とは何か」は、
音楽雑誌、レコード雑誌ではなく、オーディオ雑誌のステレオサウンドに載っている。
当時の音楽雑誌、レコード雑誌に「音楽評論とは何か」が載ることはなかっただろう。

向坂正久氏の「音楽評論とは何か」は、
ほぼそのまま「オーディオ評論とは何か」でもある。

いまのオーディオ雑誌に「オーディオ評論とは何か」は載らないであろう。

上の文章を引用していて思い出していたのは、井上先生が岩崎先生について語られたことである。
視聴のあいまに、ぼそっといわれたことを思い出す。

岩崎さんがすごいのは、
たとえばタンノイは整流器の製造からスタートした会社だった、
たったこれだけの書き出しを与えられただけでも、一本のおもしろい文章を書き上げる。
途中から、タンノイは整流器……からはまったく外れてしまったことになるだろうけど、
岩崎さんにしか書けないことを書き上げる。

そんなことを話してくださった。
そのときの井上先生の表情は、どこか羨ましげでもあった。

向坂正久氏が書かれている
《ひとつの動機になったにすぎないのだから、そこから織り出していく彼自身の芸術論に価値があるのであって、引用そのものは極端にいえば誰の手紙でも構わないとさえいえるのである》、
井上先生は、これを話してくれていた、といえる。

Date: 7月 25th, 2017
Cate: オーディオ評論

評論家は何も生み出さないのか(その5)

長島先生が、サプリームNo.144(瀬川先生の追悼号)に書かれたこと。
     *
オーディオ評論という仕事は、彼が始めたといっても過言ではない。彼は、それまでおこなわれていた単なる装置の解説や単なる印象記から離れ、オーディオを、「音楽」を再生する手段として捉え、文化として捉えることによってオーディオ評論を成立させていったのである。
     *
私もそう思っている。
オーディオ評論は、瀬川冬樹から始まった、といえる。
そして、それはステレオサウンドという場が与えられたからだ、とも思っている。

それ以前の、オーディオに関する文章は解説であったり、
研究発表といえるものがほとんどすべてといえる。

そのなかにあって、藝術新潮での五味先生の文章がひときわかがやいていた。
五味先生の文章があったからこそステレオサウンドが誕生し、
瀬川冬樹によるオーディオ評論が始まった。

オーディオ評論は、50年を超えた──、
と書けるのだろうか。

たしかにステレオサウンドが創刊50年なのだから、そうとはいえる。
けれど1977年に岩崎先生が、1980年に五味先生が、1981年には瀬川先生が亡くなられている。

ここでオーディオ評論は終った──、
そうもいえる。
終ったがいいすぎならば、
オーディオ評論が始まって15年目がピークだった、ともいおう。

そんなことはない、いまもオーディオ評論は……、と思う人は、
もういちど長島先生の文章を読みなおしてほしい。

瀬川先生によって、
《単なる装置の解説や単なる印象記》から離れていんて成立したものが、
《単なる装置の解説や単なる印象記》に戻ってしまっているとしか思えない現状。

ステレオサウンド以前の《単なる装置の解説や単なる印象記》とくらべると、
現在のそれは小手先のテクニックによって、表面的にはマシにみえないこともない。

けれど、そこには感動がまったくない。

Date: 7月 25th, 2017
Cate: オーディオ評論

評論家は何も生み出さないのか(その4)

ステレオサウンド 8号には「音楽評論とは何か」という記事がある。
音楽評論家の向坂正久氏による文章である。

四つの見出しがつけられている。
 現在の音楽評論は何故つまらないか
 客観的論文と主観的評論
 批評の尺度にも原典主義
 新しい音楽評論のために

この四つの見出しにわずかでも興味をもった人は、
ぜひ全文を読んでほしい、と思う。

向坂正久氏は1931年生れなので、
1932年生れの菅野先生、山中先生、長島先生、1931年生れの井上先生たちと同世代であり、
ステレオサウンド 8号(1968年発売)は、36か37歳。

少し長くなるが、冒頭のところを引用しておく。
     *
 すすめられるままに、私は大きなテーマを選んで書く。前号の「ナマ・レコード・オーディオ」は全体の序章のようなものだが、そこでも、すでに私は音楽評論の現状について多少の批判を加えたつもりである。自らが住するジャンルを内部批判することは、ある居いは読者から見たら不可解なことに思われるかも知れないが、実は今までこうしたことがなされないために、そのつまらなさを助長させたといってもいい。
 文学畑の人から「音楽評論というのはほとんど解説ですね」といわれたことがあるが、全く演奏会やレコードの個評を除くと、知識の切り売りが圧倒的に多いのが現状である。知識が商品価値をもつのは当然だとしても、それは少くとも評論とはいえないだろう。全くの無知から出発していても、読者を感動させる文章というものがあると同時に、音楽知識をもちあわせぬ読者の心にさえ、ひびく文章というものがなくてはならぬ。評論とは文学の領域なのだから、それを基本に考えねばならないところを、音楽ジャーナリズムは知識から知識へ、言葉をかえれば頭脳から頭脳へという方向だけで、すべて事足れりとしている傾向が強い。実はこれが音楽評論をつまらなくさせている最大の原因なのである。
 音楽を素材にして、人生を語り、人間を論ずるということが、余りにも少なすぎはしないか、まるで音楽は人間が作ったものではなくて神が与えたものだといわんばかりの解説に接していては、愛好家がまともな聴き方ができなくなるのは当り前である。そしてこの五十年間に培ったそういう特殊な読者層だけを対象に音楽雑誌は毎月編集プランを組んでいるのだから、およそ評論らしい評論の載らないのは当然すぎることである。音楽評論家というレッテルをつけられている人が二百人ぐらいはいると思うが、「音楽」の二字をとって評論家として通用する人が、果たして何人いるだろう。力量はあっても音楽ジャーナリズムの要求で、習い性になった人もあり、本質的に学者であり、啓蒙家である人が多すぎる。彼らの仕事も重要だが、無地の読者をも吸収できる評論が、もっと書かれてしかるべきだろう。
 では一体、評論の望ましい型とはどんなものか具体的にあげてみよう。私はオーディオに関して全く無知であるが、本誌の「実感的オーディオ論」を毎号愉しみにして読んでいる。製品名などで、その表現のいわんとするところの幅がわからぬこともないではないが、そこには五味康祐という一人の人間が、オーディオの世界で夢み、苦闘している姿が生きている。ひと言でいえば体臭がある。この体臭とは頭脳だけからは決してしまれない。オーディオという無限の魅惑が、その肉体を通して語られることの、紛れもない証左である。なるほど彼は作家で表現力があるのは当然だ、だからおまえにも面白いのだろうという人があるかも知れない。しかしその論理は逆である。表現力があるから作家になれたのだ。およそ文章で飯を食おうと思う人間は、小説であれ、評論であれ、その基準の第一は文章で人を魅する力があるか、どうかにかかっている。知識や教養は第二の条件だ。それが音楽ジャーナリズムの世界では位置が逆転している。「学」があることが第一なのだが、これでは面白くなろう筈がない。
     *
全文引用したいくらいだが、そういうわけにもいかないので、このくらいしておく。

《五十年間に培ったそういう特殊な読者層だけを対象に音楽雑誌は毎月編集プランを組んでいるのだから、およそ評論らしい評論の載らないのは当然すぎることである》
向坂正久氏は、そう書かれている。

音楽評論はオーディオ評論よりも古くからある。
そのオーディオ評論も、昨秋、ステレオサウンドが創刊50年を迎えた。

Date: 7月 24th, 2017
Cate: スピーカーとのつきあい

スピーカーとのつきあい(その2)

(その1)で、スピーカーを友と書いた。
別項で「スピーカーシステムという組合せ」を書いている。

このことと、スピーカーを友とするのは関係している。
少なくとも私のなかでは。

オーディオというシステムは、
単体のオーディオ機器だけでは音を出せない。

これまでくり返し書いているように、
それにオーディオ雑誌にも昔から書かれているように、
プレーヤー(アナログもしくはデジタル)、
アンプ、スピーカーシステム、
最低でもこれだけのモノが揃わなければ、音は出せない。

どんなに優れた性能のアンプであっても、
それ一台だけでは、音は聴けない。

スピーカーを接ぎ、
入力になんらかの信号が加わらなければ、スピーカーから音は鳴ってこない。

つまりオーディオはコンポーネント(組合せ)の世界である。
このことが、私に、オーディオは道具でなく、意識である、と考えさせている。

オーディオ機器を道具として捉えるよりも、
意識として捉えている。
このことは、以前「続・ちいさな結論(その1)」、「使いこなしのこと(その33)」でも書いている。

オーディオ機器は確かに道具である側面をもつ。
けれど、それだけにとどまらず、組合せにおいて、
というよりも組合せそのものが、鳴らし手の意識である、と認識をもつようになった。

Date: 7月 24th, 2017
Cate: 再生音, 快感か幸福か

必要とされる音(その9)

ステレオサウンド 9号は1968年12月発売なので、
ステレオサウンドで働いている時に読んだ。

《楽器をいじる人にきいてもらうと、演奏のテクニックがいちばんよくわかるという》
という表現は、瀬川先生自身、楽器をいじる人の感想をきいて気づかれたのだろう。

このことは実際に楽器を演奏する人にアルテックのスピーカーを含めて、
他のスピーカーも聴いてもらい確認したい、と思いつつもその機会はなかった。

9号を読んでから何年か経ったころ、
グレン・グールドの録音風景のビデオをみた。

録音スタジオにはふたつのスピーカーがある。
ひとつはミキシングエンジニアが聴くモノで、いわゆるスタジオモニターと呼ばれる。
もうひとつは演奏家が、演奏しているブースで聴くためのププレイバックモニターである。

コロムビアのプレイバックモニターは、アルテックのA7だった。
少し意外な感じがした。

それからしばらくしてマイルス・デイヴィスの録音風景のビデオもみる機会があった。
当然だけれども、そこでもプレイバックモニターはアルテックのA7だった。

A7はいうまでもなく劇場用のスピーカーシステムである。
これをプレイバックモニターとして使うのか、という疑問があった。

グールドとマイルスのビデオを見てから、また月日が経った。
二年前の夏、「ナロウレンジ考(その15)」で、
美空ひばりとアルテックのA7のことについて書いた。

美空ひばりがアルテックのA7を指して、
「このスピーカーから私の声がしている」という記事を何かで読んだことがある、ということだった。

ステレオサウンド 9号を読んだのは1980年代なかごろだった。
それから30年ほどして、ようやく納得がいった。

Date: 7月 23rd, 2017
Cate: 再生音, 快感か幸福か

必要とされる音(その8)

ヴァイタヴォックスの名を出したあたりから、
本来書こうと考えていたところからすこし外れてきてしまっていると思いながらも、
もうすこしヴァイタヴォックスのことを書きたい、という気持がある。

ステレオサウンド 9号で、
《JBL、タンノイとくらべると、アルテックは相当変った傾向の音といえる。楽器をいじる人にきいてもらうと、演奏のテクニックがいちばんよくわかるという》
と瀬川先生が書かれている。

このころの瀬川先生はJBLの自作3ウェイの他に、
タンノイのGRF Rectangular、
アルテックの604Eを最初はラワン単板の小型エンクロージュア、
その後612Aのオリジナル・エンクロージュアに変更されているモノを鳴らされていた。

9号で、JBLとタンノイについて、
《音の傾向はむろん違うが、どちらも控え目な渋い音質で(私の場合JBLもそういう音に調整した)》
と書かれている。

瀬川先生の好まれる音の傾向からすると、
アルテックだけが毛色が違うんだろうな、と納得しつつも、
《楽器をいじる人にきいてもらうと、演奏のテクニックがいちばんよくわかるという》、
この部分は、そうなのか、と思った。

アルテックのすべてのスピーカーがそうであるといえないまでも、
少なくとも、ここでのアルテックとは604Eのことのはず。

604が、JBLよりも演奏のテクニックがよくわかる──、
ということは、このときから常に頭の片隅にいつづけていた。

ここでの演奏のテクニックとは、どの楽器のことなのだろうか、
アルテックの他のスピーカー、たとえばA7、A5もそうなのか、
さらにヴァイタヴォックスも、アルテックとは違う楽器については、
演奏のテクニックがいちばんよくわかるのか、
こんなことを漠然とおもっていた。

Date: 7月 22nd, 2017
Cate: 新製品

新製品(TANNOY Legacy Series・その18)

《伝統のあるオーディオメーカーって止まってしまっているところが多いでしょう。クラシカルなものに淫しているように思う。》

田中一光氏のことばだ。
1993年ステレオサウンド別冊「JBLのすべて」の中で語られている。

S9500のデザインについて語られたあとに、こういわれている。
どのオーディオメーカーとはいわれていない。

私は、タンノイのことだと思った。
タンノイのPrestigeシリーズのことだと思った。
いまもそう思っている。

タンノイのPrestigeシリーズのすべてのモデルがそうだとはいわないが、
《クラシカルなものに淫している》、そういう雰囲気が全体にある。

《クラシカルなものに淫している》、
うまい表現だと思ったし、
こういう表現は自分には無理だな、ともその時思った。

Prestigeシリーズを見て感じていたけれど、
うまく言葉にできずに、ノドの奥にひっかかったままだったものこそが、
《クラシカルに淫している》だった。

クラシカルなデザインが、悪いわけではない。
クラシカルなものに淫していると感じさせてしまうPrestigeシリーズ。

Prestigeシリーズこそタンノイらしい、とおもう人がいる。
だが私は、クラシカルなものに淫しているPrestigeシリーズのデザインは、
タンノイの本来的な音にそぐわない、と感じている人間である。

それともPrestigeシリーズの音も、
クラシカルなものに淫しているのだろうか。
いぶし銀もいまでは、クラシカルなものに淫した音の代名詞となってしまうのか。

Prestigeシリーズの音をすべて聴いているわけではないが、
そうではないと思っている。

Prestigeシリーズ以外のスピーカーシステムもあった(ある)のはもちろん知っている。
でも、どこかPrestigeシリーズに比べると……、というところを感じてしまう。

そこにようやくクラシカルなものに淫していないシリーズが登場した。
Prestigeシリーズに比べると……、と思わずにすむモノが、
Legacyシリーズとして、41年前のArden、Cheviot、Eatonが現代のモデルとして復活する。