Date: 5月 19th, 2019
Cate: ロマン

好きという感情の表現(その2)

魯珈のことう書く気になったのは、
別項「会って話すと云うこと(その24)」でのことがきっかけになっている。

一次会のお終りまぎわに、オーディオという単語に反応した人がいた。
十一人の参加者中、女性は三人。
オーディオに反応した人は、女性(Aさん)だった。

田口スピーカーを、知っています?」という反応だった。
反応があったことも意外だったけれど、
田口スピーカーを鳴らしている、ということも意外だった。

一次会では、その女性と私が坐っていた席は、けっこう離れていた。
音楽好きな人だということは、聞こえてくる会話でわかっていた。
それでも、音に強い関心があるとは、一次会ではわからなかった。

二次会では、たまたま隣の席だった。
Aさんは、iPhoneに収められている写真を見せてくれた。

「これなんですよ」と言いながら見せてくれた写真に写っていたのは、
私が勝手に想像していたスピーカーよりも、ずっと大型というか、
そうとうに大型のフロアー型だった。

しかも専用のリスニングルームといえる空間に、
写真だけ見せられれば、
そうとうなオーディオマニアの部屋だと思ってしまうほどの雰囲気であった。

隣に坐っているAさんは、私よりも二つ下。
小柄であり、そんなふうには見えなかっただけに驚いただけでなく、
Aさんは、写真をいくつか見せてくれながら、楽しそうに語ってくれる。

Aさんは、女性のオーディオマニアなわけではない。

音楽がとても好きで、何かのきっかけで田口スピーカーと出逢い、
衝動買いしてしまった、とのこと。

田口スピーカーのラインナップには、けっこう数がある。
比較的小型のスピーカーがあるのは知っていたから、てっきりそれだと思っていた。

写真にあったのは、オーダーメイドに近いモノのようだった。

Date: 5月 18th, 2019
Cate: 真空管アンプ

Western Electric 300-B(その18)

菅野先生が、こんなことを書かれていた。
     *
 私は食べるのも好きだが、つくるほうにも興味があり、忙中閑ありで、しばしばキッチンに立つが、料理でもう一つ面白いのが味つけの妙である。例えば、塩加減など一発で決めないとうまい料理は絶対にできない。一回塩を入れて、濃かったらもう駄目だ。いくら薄めてもうまい味は出ない。逆に、薄いところに、後で追加しても思い通りの味には絶対ならない。これは書道における一筆描きの如きもので、かすれていようとなぞったら駄目なのと同じことであろう。また、これは私の体験から分ったことだが、よく料理の時間などで、三人前で塩小さじ一杯などというが、では、六人前なら二杯かというと、そうはいかないのだ。これも料理の実に面白いところだと思う。
(「うまい料理」より引用)
     *
「うまい料理」(「音の素描」におさめられている)を最初に読んだ時は、
まだ自炊はしていなかった。
なので、塩加減について、そうものなのかぁ、ぐらいの受け止め方だった。

でも自炊を積極的にするようになってくると、菅野先生が書かれているとおりである。
《一回塩を入れて、濃かったらもう駄目だ》
そのとおりである。薄めてもうまくいかないし、
《薄いところに、後で追加しても思い通りの味には絶対ならない》のもそうである。

塩加減は、一発勝負である。
私の、たいしたものではない料理の腕でも、年に一回ほど、
見事な塩加減ができるときがある。

そういうときは、ほんとうに美味しい。
けれど、料理の素人である私は、その絶妙の塩加減を再現できるわけではない。
まぐれでうまくいくことが、年に一回ほどある、というだけである。

塩加減の、ほんとうにうまくいったといえる範囲というのは、
ワンポイントなのかもしれない、と思う。
ちょっとでも増えたら(減ったら)、もうその絶妙な塩加減から外れてしまう。

外れたからといって、美味しくならないわけではないが、
ぴたっと絶妙の塩加減におさまった味というのは、自炊を続けているから味わえるともいえる。

菅野先生は、上で引用した文章に続けて、こう書かれている。
《私は録音の時、マイクロフォンを〝念じておけ〟という言葉を使う》。

Date: 5月 17th, 2019
Cate: High Resolution

MQAのこと、resoundingのこと

九年前、「音を表現するということ(その3)」で、
“RESOUNDING” ということばを、再生側の立場で、解きほぐしていいかえるならば、
“remodeling(リモデリング)”と”rerendering(リレンダリング)” になり、
RESOUNDING = remodeling + rerendering というより、
RESOUNDING = remodeling × rerendering という感じだ、と書いた。

「音を表現するということ」という別項で、
音のモデリング、レンダリングについて書いた。
さらに「re:code」でも、このことについて触れている。

モデリング、レンダリングにreをつけての、リモデリング、リレンダリングである。
録音されたものをオーディオを介して鳴らすという行為は、
私はこう考えている。

もちろん違う考え方、真逆の考え方をする人もいるわけで、
そういう人たちが、絶対に認めなくないのがMQAなのだろうか。

音を表現するということ(その5)」で書いたことをもう一度書いておこう。

CDよりも、DVD-Audio、SACDのデータ量は多い。
パッケージメディアから配信へと移行していくことは、パッケージメディアの規格から解放されることでもあり、
受けて側の処理能力が高ければ、データ量はますます増えていくはずだ。

だが、どんなにデータ量が、CDとは比較にならないほど大きなものになったとしても、
どこまでいっても、それは近似値、相似形のデータでしかない。

マイクロフォンが変換した信号を100%あますところなく完全に記録できたとしても、
マイクロフォンが100%の変換を行っているわけではないし、
マイクロフォンが振動板が捉えた音を100%電気信号に変換したとしても、
そこで奏でられている音楽を100%捉えているわけではない。

それぞれどこかに取零しが存在する。

なにか画期的な収録・録音方法が発明されないかぎり、
どんな形であれ、聴き手であるわれわれの元に届くのは、近似・相似形のデータだ。
だからこそ、その相似形・近似値のデータを元にしたリモデリング、リレンダリングが、
聴き手側に要求され、必要とされる。

Date: 5月 16th, 2019
Cate: スピーカーとのつきあい

ホーン今昔物語(It’s JBL・その4)

今夏、コンビニエンスストアの雑誌コーナーから、エロ本の類がなくなる、とのこと。
コンビニエンスストアで、この手の本を買うのは、
インターネットをやっていない高齢者ぐらいだ、ともいわれている。

ほんとうにそうなのだろうか。
コンビニエンスストアに、この手の本が置かれるようになって、どのくらい経つのか。
いままで一度も、買っている人を見かけたことがなかった。

見かけたことがなかったからといって、売れていないわけではないはず。
在庫管理は徹底しているはずだから、売れないものは置かれないのがコンビニエンスストアのはずだ。
ずっと置かれている、ということは、そこそこ売れているのだろう。

それでも見かけたことがなかった。
なかった、と書いているのは、3月の終りごろだったか、
初めて買っている人を見た。

確かに年齢は高そうな感じの人が買っていた。
だからといって、その人がインターネットをやっていないのかどうかはなんともいえない。
電車に乗れば、ほとんどの人がスマートフォンを持っている時代である。

その人もスマートフォンも持っていて、自宅にはパソコンもあって、
インターネットで、無修正の、その手のものを見ているのかもしれない。

その上で、コンビニエンスストアで、その手を雑誌を買う。
それは無修整であるかどうか、でもなく、
タダなのか有料なのか、そういうことでもなく、
表紙を見て、買いたい、という衝動にかられたからなのかもしれない。

本人に訊ねたわけではない。
インターネットをやっていないのか、やっていてもなお、そのエロ本を買うのか。

後者だとしよう。
コンビニエンスストアのこの手の本は、中を見ることができないようになっている。
にも関らず買うということは、どういうことなのか。

しかもコンビニエンスストアで買うというのは、少々勇気のいること、とでもいうか、
恥ずかしいことでもあろう。

それでも買う。

こんなこと「It’s JBL」とは何の関係もないじゃないか、といわれそうだが、
こういう人がいなくなってしまうと、
インターネットで得られる情報だけで済ませてしまう人ばかりになってしまうような気もする。

Date: 5月 16th, 2019
Cate: スピーカーとのつきあい

ホーン今昔物語(It’s JBL・その3)

私が初めて買ったステレオサウンドは、定価1,600円だった。
中学生にとって三ヵ月に一度の1,600円は、決して安いとはいえなかった。

だから隅々まで読んでいた。
すべての記事に同じような関心を持てていたわけではなかったけれど、
それでも三ヵ月というスパン、1,600円という金額を多くない小遣いからの捻出、
そんなことから関心度の低い記事も、しっかり読んでいた。

関心度の高い記事は何度もくり返し読む。
そうでない記事は一度だけだったりしたが、一度はすべての記事を読む。

なにしろ周りにオーディオマニアはいなかったし、オーディオ専門店もなかった。
オーディオ専門店まではバスで片道約一時間、バス料金も中学生だと大人料金だから、
これが中学生にとっては、なかなか負担の大きな金額だった。

とにかくオーディオの世界を知るには、本(雑誌)しかなかった。
インターネットもなかった。

でも、これが結果としては良かったのだろう。
いまのように、検索して興味のあることばかり読むのとは違っていたからだ。

小野寺弘滋氏の「It’s JBL」が、もしステレオサウンドに掲載されていたとしよう。
四十数年前だったら、ステレオサウンドを手にした多くの人が、
ホーン型にあまり関心のない人手も、一度は目を通しただろう。

でも、いまはどうだろうか。
インターネットもあって、ある意味、情報だけは氾濫していて、
関心のあることだけを拾っていても退屈しない──、
そんなことに慣れてしまっていては、ステレオサウンドに載っていたからといって、
ホーン型に関心のない人は、「It’s JBL」を読むかといえば、なんともいえない。

それでも読んでもらわないことには、何も伝わらない。

Date: 5月 15th, 2019
Cate: 映画

Alita: Battle Angel(その5)

“STAR WARS episode I”もそうだったけれど、
本編よりも予告編の方が楽しめた、という映画は少なくない。

映画館で予告編を見て、公開されるのを楽しみにして、
いざ映画館で本編となると、観終って「予告編は面白かったのに……」ということが何度もあった。

私にとって、“STAR WARS episode I”は、まさにそうだった。
予告編では、あれだけ期待に胸ふくらませていたのに……、だった。

それほど予告編はよく出来ているものが多い。
すべての見せ場が、予告編に凝縮されていた、というものもあった。

予告編で首を傾げたくなる映画は、たいていそのとおりだった。
期待せずに観て、予告編を大きく上廻っていたというのは、記憶になかった。

それが“GHOST IN THE SHELL”から違ってきた。
“GHOST IN THE SHELL”の原作は、攻殻機動隊であり、
それだけに楽しみにしていた。
予告編の公開も、すぐさま見た。

見て、がっかりもした。
“STAR WARS episode I”の時とは違い、高精細で見られる。
ダウンロードの時間も、ほとんどかからない、といえるほどすぐに見れる。

別項「実写映画を望む気持と再生音(その4)」で書いているように、
“GHOST IN THE SHELL”はIMAXで観た。

予告編では、こんなものか……、と感じていたシーンが、
IMAXで観ると、こんなにもすごいのか、という印象に反転していた。

だから、いまでは予告編で、あれっ? と感じても、
IMAXで上映される映画ならば、観に行きたい、と思うようになった。

“Alita: Battle Angel”も、予告編では、あれっ? と感じていた。
けれど“GHOST IN THE SHELL”での経験がすでにあった。
IMAXでの上映もある。

本編がIMAXで上映されても、本編の前の予告編まではIMAXというわけではない。
でも、そろそろ予告編も IMAXで上映してほしい。

そのくらいIMAXでの上映を前提としている映画の予告編は、
そのおもしろさ、すごさを十分に伝えきれないようになっている、と感じているからだ。

Date: 5月 15th, 2019
Cate: ちいさな結論

ちいさな結論(問いつづけなくてはならないこと)

美しい音を聴きたい、とおもっている。
美しい音を聴くためには、美しく聴く、ということが求められている。

美しく聴く、とはどういうことなのか。
このことを自らに問いつづけなくてはならない。

Date: 5月 14th, 2019
Cate: High Resolution

Hi-Resについて(こんなこともあった、というはなし)

別項「長島達夫氏のこと(その10・余談)」で書いているKさんのこと。
Kさんの話を聞いて、
しばらく(といっても数ヵ月ではなく、もっと開いていた)したころから、
インターネットでも、CDを、CDプレーヤーで聴くよりも、
パソコンにリッピングしてハードディスクから再生した方が音がいい、
ということが目につくようになってきた。

そのころMacだと、iTunesで聴くよりもQuickTime Playerで聴いた方が音がいい、
そんなことがいわれていた頃だ。

QuickTime Playerだと、1トラックずつしか聴けない。
続けて曲を聴きたい時は面倒なわけだが、それでもQuickTime Playerがいい、と主張する人がいた。

これより私の目に留まったのは、
iTunesは音が悪い、iTunesより○○というアプリケーションで聴いた方が、
ずっと音がいい、というのがあった。

しかも、そこにはiTunesは、AIFFでCDを圧縮せずにそのままリッピングした場合でも、
ビットパーフェクトではない、
○○というアプリケーションはビットパーフェクトだ──、
だから○○の方が音がいい、みたいなことも見かけた。

これには続きがある。
誰かが、どこかがなのかは忘れてしまったが、
このウワサをきちんと検証したサイト(海外のサイトだったはず)があった。

ビットパーフェクトだったのは、○○ではなくiTunesだった。
○○を開発していた会社も、○○がビットパーフェクトではなかったことを認めた。
その後のヴァージョンからは、○○もビットパーフェクトになっている。

何をかいわんや、とはこういう時に使うのだろう。

Date: 5月 14th, 2019
Cate: 未分類

いちおうかいておく

毎日ではないものの、月に数回連続して、
このブログに不正ログインしようとしている人が現れる。

以前も時々そんなことがあったけれど、それほど多くはなかった。
けれど昨年から、かなり増えてきている。
今年もけっこう多い。ここ数日続いている。

不正ログインしようとしている人の目的がなんのかはわからないが、
なんとなく想像はつく。

おそらく、こんなことを書いても、やる人はこれからもやるのだろう。
(一応書いておく、IPアドレスはすべて記録されている)

Date: 5月 13th, 2019
Cate:

ふりかえってみると、好きな音色のスピーカーにはHF1300が使われていた(その4)

ほぼ一年前の(その3)で、
グラハムオーディオからLS5/5は復刻されないものか、と書いた。

書いているけれど、あまり可能性はないと思っていた。
ドイツで開催されていたオーディオショウ、
HIGH ENDでのグラハムオーディオのブースの写真が、
グラハムオーディオのfacebookのページで見ることができる。

そこにはLS5/5の復刻版が写っている。
今日現在、グラハムオーディオのウェブサイトには、LS5/5の情報はない。
けれど、期待していい、と思っている。

写真を拡大していくと細部は粗い。
トゥイーターは、いまのところHF1300(もしくはHF1400)の復刻版ではなさそうである。
LS5/8に採用されているトゥイーターの同じようである。

ユニット配置、コーン型ユニットの取り付け方などはLS5/5を踏襲している。
肝心なのは、その音と音色である。

どうなんだろうか。

LS5/5の資料はBBCのウェブサイトから
The design of studio monitoring loudspeakers Types LS5/5 and LS5/6”が
ダウンロードできる。

ラジオ技術選書「スピーカ・システム(山本武夫 編著)」に、LS5/5のことは載っている。
そのころから気になっていたスピーカーである。

なのでどういう構成のスピーカーなのかは、割と知っている。
それでも、LS5/5は、実物を見たことはない。
当然、音を聴いていないし、周りにきいたことのある人もいない。

グラハムオーディオのことだから、いいかげんな復刻モデルではない、と信じている。
グラハムオーディオのLS5/5、どんな音色に仕上がっているのか。

Date: 5月 12th, 2019
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(サービス業なのか・その8)

測定データは、どこまでいっても解説だ、と私は考えている。
つまり測定データが解釈になることはない、とも考えているわけだ。

オーディオ評論とは解説ではなく、解釈のはずだ、本来は。
ところが現実には解説どまりの、名ばかりのオーディオ評論が多い。

解説はオーディオ評論家の仕事ではないのか、と問われれば、
仕事の一つではある、と答える。

技術は進歩している。
新しい素材や素子が登場してくる。
回路もそうだ。

メーカーは、今回の新技術は……、と謳ってくる。
それは、いったいどういう新技術なのか、新素材なのか、
また、メーカーの謳い文句ははどの程度事実なのかどうか、
それを解説するのもオーディオ評論家の仕事の一つといえば、そうだ。

けれどオーディオ評論家のすべての人たちが解説者である必要はない、とも思っている。
解説者は別にいたほうがいい。

ここで名前を出すべきか迷うところだが、
無線と実験を中心に執筆されている柴崎功氏のことを、
私はオーディオ解説者として捉えている。

私が無線と実験を読み始めた1977年ごろから、
柴崎功氏はメーカーの技術者から、カタログに載っていないことを聞き出しては、
記事を書かれていた。

よくここまで調べられているな、と感心するだけでなく、勉強にもなった。
生意気なことをいうようだけれど、中学生のころから、
柴崎功氏の音の評価については、まったく関心がなかった。

そのころはあまりオーディオ評論家的活動はあまりされていなかった、と記憶している。
いまは無線と実験ではオーディオ評論家の一人である。

無線と実験の巻頭カラーは新製品紹介のページである。
技術解説のページがあり、二人の筆者による試聴記がある。

技術解説のところを、私はすべて柴崎功氏が担当してくれれば、と思う。
現実にはそうはいかなくて、他の方も担当されている。

Date: 5月 12th, 2019
Cate: audio wednesday

第101回audio wednesdayのお知らせ(Over The Rainbow)

audio wednesdayは、毎月第一水曜日なのだから、
1日から7日のどこかになるわけで、絶対にそれより後になることはない。

つまり6月10日になることは絶対にないわけだ。
ならば6月ということで、今回のテーマは“Over The Rainbow”を聴くにする。

1922年6月10日は、ジュディ・ガーランドの誕生日である。
今年秋には映画「JUDY」が公開される。

だから今回のテーマの一つとして、
“Over The Rainbow”のさまざまなカバーを持ち寄って聴きたい。

私が持っていくのは、“JUDY AT CARNEGIE HALL”である。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時からです。

Date: 5月 12th, 2019
Cate: ディスク/ブック

音の表現辞典

音の表現辞典」(中村明 著・東京堂出版)を今日、書店で見つけた。
ほとんど行くことのない辞典コーナーで、目に留った一冊だった。

ちょうど別項で「タンノイはいぶし銀か」を書いている。
帯には、
《さまざまな音声・音響をどう語り、微妙なニュアンスの差をどう表現してきたのか? 素のはそうやオノマトペ、比喩表現を中心とする数々の工夫の跡をたどる。》
とある。

読みはじめたところで、読み終ったわけではない。
いぶし銀という表現が出てきそうなところに、さっと目を通しただけだが、
残念ながら、いぶし銀と出てこないようだ。

それでも関連しそうなところがいくつある。

「音の表現辞典」を読んだからといって、
優れたオーディオ評論が書けるようになるわけではないが、
読まないのと読んだのとでは、違ってこよう。

「音の表現辞典」には、【透】と【澄】の項目がある。
このブログでは、瀬川先生が、透明よりも澄明をよく使われいてることを取り上げている。

ステレオサウンド 210号を見ていたら、
山本浩司氏によるメリディアンの218の新製品紹介文のなかに、
この澄明が使われている。

《プライスタグが信じられない切れ味のよい澄明なサウンドを聴くことができ》
とある。

ここでの試聴ディスクは、MQA-CDのようであり、
MQA-CDの音は、確かに透明と書くよりも、澄明と表現したくなるよさがある。

「音の表現辞典」の【澄】のところには、こうある。
     *
 三島由紀夫の『金閣寺』には、「金閣、この不均整な繊細な建築は、濁水を清水に変えてゆくような濾過器のような作用をしていた」と、金閣という建築を「濾過装置」に見立てた奇妙な比喩表現が現れ、次いで、「人々の死後のぞめきは、金閣から拒まれはせずに、吹き抜けのやさしい柱のあいだへしみ入って、やがて一つの静寂、一つの澄明にまで濾過された」と展開する。
     *
【透】のところからも引用したくなるが、
興味のある方は、ぜひ「音の表現辞典」を手にとってほしい。

Date: 5月 11th, 2019
Cate: 老い

老いとオーディオ(なにに呼ばれているのか)

このごろ芽ばえてきた感覚として、なにかに呼ばれてきたのか、というのがある。
そんな気がするというだけであって、なにに呼ばれているのか、はっきりとしない。

それでも呼ばれていた、呼ばれてきたのだろうと思うようになっている。
それがなんなのか、おそらくわからないであろう。

ただそんな気がしている、というだけのことだ。

Date: 5月 11th, 2019
Cate: TANNOY

タンノイはいぶし銀か(その6)

いぶし銀のごとき味わい、とか、いぶし銀といえる音などと表現してあるのを見て、
読み手側は、いったいどんな音を想像しているのか。

いぶし銀を言葉で説明してくれといわれて、
こういう音だとすらすら答えられる人は多いのか少ないのか。

普段からいぶし銀という表現を使っている人でも、
わかりやすく説明してくれ、といわれると、どう答えるのか。

「タンノイの音だよ」という答が返ってくるかもしれない。
なんと具体的で、これほど曖昧な答もない。

それでも答える側は、それでわからないのか、と思っているかもしれない。

なかには「うちの音がそうだよ」と答える人もいよう。
いぶし銀がどういう音なのか、わからなければ、うちの音を聴きに来ればいい、
そんなふうにいってくれる人もいるだろう。

聴きに行ったとしよう。
それでわかるのは、「うちの音がそうだよ」と答えた人が考えているいぶし銀の音でしかない。
その音を、十人に聴かせたら、何人がいぶし銀と感じるのかはなんともいえない。
一人もいないかもしれない。

百人くらい聴いたとしたら、数人は「確かにいぶし銀ですね」というかもしれない。
いぶし銀で表現される音に対する共通認識は、そのくらいではないのか。

タンノイの音を、どこかで聴いて、これがいぶし銀といわれる音なのか……? と感じる。
どこかで聴いたタンノイの音は、百人いれば百人とも違うはずだ。

どこかの販売店で聴いたタンノイ、
オーディオショウで聴いたタンノイ、
オーディオマニアのリスニングルームで聴いたタンノイ、
そして自分の部屋で鳴らしたタンノイ、
どこにいぶし銀といえる音はあるのだろうか。

もう、そこから出てきた音を、そうおもうしかないのか。

オーディオマニアが、心の中に抱きつづけている幻想としての「いぶし銀」。
それは時として、おもわぬ美音を生んでいくかもしれない。