Archive for category 世代

Date: 8月 15th, 2017
Cate: 世代

とんかつと昭和とオーディオ(その1)

BRUTUS 852号の特集、
「とんかつ好き。」を読んでいると、思い出すことがいくつかあった。

ステレオサウンド 42号(私にとって二冊目のステレオサウンド)に、
伊藤先生の真贋物語が載っていた。連載の一回目である。

食べものについて書かれている。
くらえども、という見出しから始まる。
     *
 美食家だの通人だのという人に会ってみると、「あんな廉いものは食えませんな。」とか「お値段が張るだけあって甚だ美味です。」と、自分の口のいい加減なことをその口で説明して金を費っていることをひけらかしているのが多い。未だ未だ修業の段階である。
 食い倒れといって散散食うために贅沢をしつくして貧乏してしまった者でないと味なんてわかるものではない。
 頂上まで辿りついて、ほっとしたときは高みにいることの実感は沸かないが、下って来て翻ってみて、高かったことを沁沁思うものだ。それはどんな事情にしろ別れた女に会いたくなるのと似ている。
(中略)
 当節食品衛生法とかいうものがあって腐敗することを極度に恐れて薬品を用い、黴の生えない味噌醤油などが珍重されたり、幾日店頭に並べて置いても変質しないバターなどが販売されている。その為か腐ったものに対する恐怖も防御も喪失してしまい、動物の最も大切な感覚をなくした植物のような人種が増えて来た。こうした嗅覚の鈍くなった者に味のわかるわけがない。
「食らへどもその味わいを知らず。」というのは勿体ない話だが、「耳、聞けどその音色を知らず」に相似ている。
    *
書き写しながら、ここ数年いわれている草食系の元は、
意外にもこのあたりにあるのかもしれない、と思っていた。

腐ったものに対して恐怖も防御も喪失してしまうという鈍感状態が、
現在の草食系といわれるところにつながっているのかもしれない。

42号は1977年春号である。
40年のあいだに、コンビニエンスストアがものすごく増えた。
いまも増えている。

そこで売られている食べものは、腐敗ということを心配することなく、いつでも買える。

Date: 8月 6th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(昭和は遠くになりにけり……か・その9)

誰かと一時間一緒に過すと、その何倍かの時間だけ独りになる必要がある。
孤独は人間の幸福に書かせない要素だ。

グレン・グールドが、そんなことをいっていたと記憶している。
グールドが、ここでいっている人間の幸福とは、
美を知ることのような気がする。

美を知る者は孤独──、
そう捉えるのは間違いだろうか。

物分りのいい人ぶって徒党を組みたければ組めばいい。
そうやって美から遠ざかり、音をきいていればいい。

Date: 8月 6th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(昭和は遠くになりにけり……か・その8)

facebookへのコメントに、
ブルーノ・ワルターの「不寛容に寛容であってはならない」とあった。

思い出した。
「たいていのことは寛容であれば解決するが、不寛容に対してだけは寛容であってはならない」
たしかにブルーノ・ワルターはそういっている。

ワルターは1876年にドイツで生れている。
父親はドイツ系ユダヤ人、母親はユダヤ人である。
これ以上は書く必要はないだろう。

ワルターがいうところの不寛容とは、そのことであろう。
でも、それだけではない、と、その時代から70年以上が経ってもそう思う。

コメントに、今日は8月6日だ、とあった。
1945年の8月6日と9日、
この日のことに寛容であってはならない。

Date: 8月 5th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(昭和は遠くになりにけり……か・その7)

物分りのいい人ぶっている知人をみていて感じるのは、
矛盾することをいっているように思われるだろうが、不寛容な人だということだ。

もしかすると、この知人だけのことではないのかもしれない。
不寛容な人が増えてきている、といわれているが、
その人の多くはもしかすると、物分りのいい人ぶっているのかもしれない。

Date: 8月 5th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(昭和は遠くになりにけり……か・その6)

オーディオって、好きな音楽をいい音で聴く趣味であって、
鍛えるとか鍛えられるとか、そんなこと無関係の世界ではないの?

ほんとうにオーディオはそれだけの世界にとどまる趣味なのか、と私は思う。
鍛える、鍛えられるとは、
オーディオにおいてはどういうこと? と思われる人もいよう。

鍛える(鍛えられる)とは、オーディオつにアとしての純度を高めていくことだ。

好きな音楽をいい音で聴きたいだけなのか、
己の裡にある何ものかの純度を高めていきたい、と思うのかどうか。

好きな音楽をいい音で聴きたいと思っている人でも、
オーディオマニアでない人とオーディオマニアである人の違いは、ここにもあると思う。

どんなにオーディオにお金をかけていても、オーディオマニアでない人がいる、と、
別項で書いているのは、ひとつにはそういうことである。

オーディオは迎合しない男の趣味と書いたのも、そういうことである。

「楽しめればそれでいいじゃないか」、
でも、それだけでは行けない領域があるのを知っている人と知らない人がいる。

「たのしい」には、楽しいと愉しいとがある。
オーディオの楽しさ、オーディオの愉しさ。
混同しないことだ。

Date: 8月 5th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(昭和は遠くになりにけり……か・その5)

物分りのいい人ぶっているのは知人だけではない。
物分りのよさをアピールしている人は、増えている、と感じている。
そんな人が増えていくのにつれて、真意が伝わりにくくなってきている、とも感じている。

もちろん昔から伝わらない人にはどんなことをしても伝わらないところがあった。
そういうのとは違う。
あきらかに真意が伝わり難くなっている。
少なくともオーディオを趣味としたり仕事としたりしている人だけに限っては、
確かにそうだといえる。

なぜなのかはよくわからないが、
物分りのよさをアピールしてくる人が増えてきていることと比例しているようだ。

そんな人たちがオーディオの世界でも増えてきた。
彼らは若い人たち、オーディオに感心を持ち始めた人たちに何ができるのかといえば、
何もできない、と思う。

そういう人たちは、ほんとうのところがわかっていない人が多い。
インターネットの普及によって、知識だけはぶくぶくと身につけている。
その知識が、人の体でいえば骨格となり筋肉となっていればいいのだが、
贅肉としかなっていない人が、これまた多いように感じる。

実際の体形であれば、ぶくぶくと太ってきたことは鏡をみればすぐにわかる。
けれどオーディオのことに関してはそうはいかない。
ただただ知識だけを得ても体系化できずに、ぶくぶくと太っていくばかり。

そんな人は自身も鍛えられないし、誰かを鍛えることもできない。

私は、こちらから若い人のところに降りていくことはしない。
けれど、鍛えられたいと望む若い人を鍛えることはできるし、
そのことに出し惜しみをするつもりは毛頭ない。

Date: 8月 4th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(昭和は遠くになりにけり……か・その4)

40を超えたころに、ある人からいわれた。
「オーディオ界をよくしてくれ」と。

そのときにいくつかいわれたことがある。
そのひとつだけを書いておく、
「若い人のところに降りていくな」だった。

誰なのかはあえて書かない。
「若い人のところに降りていくな」の前後を詳細に書いたところで、
その人の名前を出しただけで否定的にとらえてしまう人がいるのを知っているし、
「若い人のところに降りていくな」だけが一人歩きしてしまうこともある。

話してくださった方に迷惑をかけたくないので、誰なのかは書かないが、
「若い人のところに降りていくな」をきいて、
やはりそうなんだ、間違ってなかった、と思った。

いっておくが、若い人を蹴落とせ、とか、頭を押さえつけろ、とか、そういったことではない。
ただただ「「若い人のところに降りていくな」である。

「絶対に降りていってはいかん」とつけ加えられた。

物分りのいい人ぶっている知人は、真逆のことをいう。
もう人は人である。それぞれであるから、知人は知人でやっていけばいいだけのことで、
私は私で、「若い人のところに降りていくな」をきいてから十年、
これから先も、降りていくことは決してない、と断言できる。

Date: 8月 4th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(昭和は遠くになりにけり……か・その3)

迎合しない昭和の男の趣味だ、と一度書いて直したのには、いくつかわけがある。

まずひとつは迎合しない昭和の男としてしまうと、
昭和の男が全員迎合しないとも受け止められるかもしれないから、
平成の男でも迎合しない人はいるからだ。

それから昭和と区切ってしまうことの、ある種の乱暴さは私も感じている。
オーディオは迎合しない昭和の男の趣味だ、と書いて、
こまかく説明していこうとも思っていたが、それでも誤解する人はするからやめた。

にも関わらず、ここで結局は書いてしまっている。
オーディオは迎合しない昭和の男の趣味だ、というのは私の本音である。

くどいようだが、昭和の男がみな迎合しない、といっているわけではない。
迎合しない男で昭和の男の趣味だ、ということだ。

昭和といってしまうと昭和生れ、昭和育ちということか、となる。
昭和気質とでもいったらいいのか。
そういう意味も含めての、昭和の男である。

こんなことを書くと、
若い人たちがオーディオへ興味をもつことの障壁となるのでは? と思われる方もいよう。
そうだろうか、と私は思っている。

物分りのいい人ぶっている知人がいる。
ことさら若者に対して理解を示そうとする。

すこし厳しいことをいおうものなら、
「そんなこといまの若い人にいったらだめですよ」とか、
そんなことを返してくる。

「若いオーディオマニアにはやさしくていねい親切、わかりやすくおしえてあげない、と」
ともいってくる。

そういう男は、「あげる」という言い方をよくする。
こういう物分りのいい人ぶっている男が、私はとにかく嫌いだ。

私にいわせると、こういう物分りのいい人ぶっている男こそが、
オーディオをだめにしている(オーディオに限らないと思う)。

Date: 8月 3rd, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(昭和は遠くになりにけり……か・その2)

こんなことを書き始めたのにはきっかけみたいなことがある。
ひとつは5月に開催されたOTOTENでのダイヤトーンのブース。
ここでの音出しをしきっていたダイヤトーンの社員の方を見ていて、
ステレオサウンドに入ったばかりのころ、こういう感じの人たちが、
オーディオ業界にはいっぱいいたな、と思い出していた。

別項でも書いているように、昭和のおじさんである。
あのころは昭和だったから、昭和のおじさん、とは思わなかった。
けれど平成も来年には30年になる。

平成生れのオーディオマニアもいる、
昭和生れ、平成育ちのオーディオマニアもいる。
ということは、業界の人もいる。

先月下旬、オーディオ仲間で友人のAさんと飲んでいた時に、
そんな時代の、各メーカーの個性ある人たちのことを話していた。

A社のBさん、C社のDさん、E社のFさん、とか。
Aさんが、「A社のBさん、ね」という。

彼は10代の終りごろ、秋葉原にあったオーディオ店でアルバイトをしていた。
そこで、私が会ったことのある人たちと、彼もまた会っていた。

よく「キャラが濃い」という。
あのころの人たちは、キャラが濃かった。

平成生れの人でもキャラが濃い人はいるだろうが、
なにか本質的に違うところがあるように感じてもいる。

数日前に「オーディオは男の趣味であるからこそ(もっといえば……)」を書いた。
そこに、オーディオは迎合しない男の趣味だと書いた。

最初は、迎合しない昭和の男の趣味だ、と書いていた。

Date: 8月 3rd, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(昭和は遠くになりにけり……か・その1)

先週の金曜日は、プレミアムフライデーだった。
2月24日から始まったプレミアムフライデーだけど、
2月、3月までは周りに
「今日はプレミアムフライデーだから……(笑)」という人が何人かいたのに、
私の周りでは誰もいわなくなってしまった。

私も7月のプレミアムフライデーは翌日に、昨日は……、と気づいた。

そのプレミアムフライデーが始まる三日前に、
大分から来られたUさんと会っていた。
会うのは初めてだったけれど、
16時半ごろから22時まで、あれこれ話していた。
もちろんオーディオのことがメインだった。

その時に井上先生のことを話した。
私にとって、最初の井上先生の試聴のことを話した。

以前も書いているように、新製品の試聴だった。
担当は先輩編集者のSさん。

試聴の準備を午前中に終えて、
午後からは試聴室で待機していた。
試聴の時はたいてい編集部のあるフロアーではなく、
試聴室のあるフロアーに直接来られる方がほとんどだったからだ。

まだ明るいうちから試聴室で、井上先生が来られるのを待っていた。
Sさんは、相当待つよ、的なことをいわれていた。
それでも……、と思いながら待っていた。

暗くなっても来られない。
記憶に間違いがなければ22時ごろ来られた。

それが当然のように試聴は始まる。
しかもあれこれ使いこなしをやられていく。
試聴が終ったのは、とっくに日付が変っていた。

いま、井上先生のような試聴をする人はいないだろう。
こういう仕事のやり方は、いまは認められないどころか、
ブラック評論家と云われかねないだろう。
こんなやり方を認めていたら編集部も、ブラックということになるであろう。

当時はブラック○○という表現はなかった。
あったとしても、そんなふうにはまったく思わなかったはず。
楽しかった、興味深い時間だったからだ。

それでもいまでは認められない仕事のやり方になるのだろう。
プレミアムフライデーという制度が生れてくるくらいだから。

昭和の時代に、ステレオサウンドで仕事をしていた、ということを、
最近あらためて実感している。

Date: 8月 2nd, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(次世代を育てる……)

すべての分野において、次世代を育てていくことが求められている、と思う。
けれど次世代を育てることはできるのだろうか、とも思う。

オーディオという分野、
もっといえばオーディオ評論という世界を眺めてきて感じているのは、
次世代を育てるのは実際のところ無理だった、ということと、
それは次世代ではなく次々世代なのかもしれない、ということである。

現世代が育てられるのは、次世代ではなく次々世代なのかもしれない。
それも育てるのではなく、鍛える、である。

次々世代を鍛える、
それが必要なこと、できることなのかもしれない。

Date: 8月 1st, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(略称の違い・その4)

ステレオサウンドの創刊は1966年、
現会長であり創刊者の原田勲氏は、記憶違いでなければ1935年生れ。
31歳のころの創刊である。

瀬川先生も1935年生れ、
菅野先生、長島先生、山中先生は1932年、井上先生は1931年、
岩崎先生は1928年だから、みな30を超えたばかりくらいである。

五味先生は1921年12月だから、44歳。
みな若かった。

作り手だけが若かったわけではない。
そのころのステレオサウンドの読者も、若かった。
もちろん作り手よりも年上の読者もいても、
中心層は作り手側と同じか若い世代だったはずだ。

ステレオサウンドが創刊10年を迎え、20年、30年……といくごとに、
作り手も読者もあわせて歳をとっていく。
これは単なる推測ではない。

ステレオサウンドが三年前に発表した資料によれば、
19才未満が2%、20〜29才が3%、30〜39才が11%で、この世代の合計は16%にすぎない。
のこり84%は40才以上であり、60〜69才が28%といちばん多く、
80才以上も19才未満と同じ2%である。

作り手も歳をとっていく、と書いたが、
歳をとっていく作り手もいれば、編集者は入れ替りが当然あり、
読者やステレオサウンド誌とともに歳をとっているわけではない。

いまのステレオサウンド編集部の平均年齢がいくつなのかは知らないが、
30代から40くらいまでが中心のように感じている。

創刊当時の50年前とは、この点が大きく違ってきている。

Date: 7月 30th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(略称の違い・その3)

出版不況といわれているし、雑誌が売れない、ともいわれている。
売れないからだろうか、たとえばMac雑誌。

私がMac雑誌を読みはじめたころは、
Mac Japan、Mac Power、Mac Life、Mac Worldが月刊誌として出ていた。
それから数年後、Mac JapanがMac Japan ActiveとMac Japan Brosに分れた。
Mac Powerの姉妹誌としてMac Peopleが出て、
日経Mac、Mac User、Mac fanも創刊された。

これだけのMac雑誌があり、
コンビニエンスストアでもMac Powerが、
私鉄沿線の小さな駅の売店でもMac Peopleが売られているのを見ている。

それがいまではMac fan一冊のみである、残っているのは。
そういうMac雑誌に比べれば、オーディオ雑誌はまだマシということになるのか。

それでもオーディオ雑誌も売れなくなってきていることは、書店に行けば感じられる。
感じられる、というより、はっきりとわかる。
ながいこと書店でオーディオ雑誌の扱いをみてきた人ならば、わかっていることだ。

よく出版社が発表している発行部数をもとに、いや売れている、と主張する人がいる。
けれど、その発行部数は公称発行部数であって、実際に印刷した部数ではない。

このことを指摘すると、今度は公称発行部数は印刷部数の数倍だから……、という。
だが公称発行部数は印刷部数の何倍とか何倍までしか発表できないわけではない。

実売に近い公称発行部数もあれば、数倍程度の公称発行部数、
中には十倍以上の公称発行部数もある。
公称発行部数では何もわからない。

証明書付き印刷部数を発表している雑誌以外の発行部数は、その程度のものでしかない。
それより書店に行ってみるほうが、確かだ。

もちろんネット通販で買う人がいるのも知っている。
電子書籍版を買う人もいる。
その分だけ書店での扱いが減っただけ、と考えることもできるが、
それだけとは考えられない。

なぜ減っているのか。
オーディオ雑誌だけに限っていえば、
編集者と読者との年齢の差が開きつつあるから、とまずいえよう。

Date: 7月 30th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(略称の違い・その2)

数ヵ月前、書店に手にしたオーディオ雑誌に、
「みんな、アニソンを聴いてきた」、
そんなふうなタイトルがつけられていた記事があった。

アニソンとはアニメソングの略である。
ここで書きたいのはアニソンという略称についてではなく、
「みんな、アニソンを聴いてきた」という見出しについて、である。

この記事は、いまおじさんと呼ばれている世代も、
子供のころはアニソンと呼ばれる音楽を聴いていた、というものだった(はずだ)。

確かに聴いていた。
いまではクラシックを聴いている時間がながい私も、
小学生のころからそうだったわけではない。

だから「みんな、アニソンを聴いてきた」という趣旨は、
そのとおりである、と同意しても、その世代の者はアニソンとは呼んでいなかった。

アニメだけを見ていたわけではなかった。
子供向けの番組には実写ものも多かった。

ウルトラマン・シリーズや仮面ライダー・シリーズなどもあった。
これら特撮ものと呼ばれるもの以外の実写ものもあった。

それらの主題歌をすべてアニソンと言い切ってしまうところに、
反撥したくなるし、なにかひと言いいたくなる。

そのころの子供は、アニソンなんて言葉はつかっていなかった。
アニメソングでもなかった。
テレビ主題歌といっていた。

「みんな、アニソンを聴いてきた」の編集者は、若い人なのだろう。
それはそれでもいいのだが、なぜ、周りの、そのころの世代の人たちに確認しないのか。

中には、私と同世代であっても「アニソン、聴いていた」と答える人もいようが、
「聴いていたけど、アニソンとはいわなかったな」と答える人も必ずいる。

ほんのちょっとした手間を省いて、記事をつくってしまっている。
どこか細部をなおざりにしたまま記事をつくっている、という印象を受ける。

自分たちの世代だけの考え・感性だけで、
「みんな、アニソンを聴いてきた」といわれても、
同世代に向けての記事でしかない。

Date: 6月 21st, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(略称の違い・その1)

オーディオ関係のウェブサイトを見ていて、
時代が違うんだな、とか、世代が違うのか……、と感じるのは、
略称においてである。

見出しには文字数の制約がある。
長いブランド名は略されることが多い。
この略の仕方が、違ってきたな、と感じる。

たとえばマークレビンソン。
私がステレオサウンドにいたころは、略するのであればレビンソンだった。
最近、ウェブサイトでよく目にするのは、マクレビである。
レビンソンとマクレビ、文字数の違いは一文字。

レビンソンのほうが、わかりやすいと思うのだが、いまでは違うのだろうか。

それからオーディオテクニカ。
テクニカと略すことはあった。
それにテクニカといえば、オーディオテクニカのことを指していた。
だからオーディオマニア同士の会話でも、テクニカで通用する。

でもこれも最近ではオーテクである。
テクニカとオーテクでは、どちらも同じ四文字。
なぜ、オーテクと略すのか、正直、理解できない。

世代の違い? センスの違い?
なんなのだろうか。