Archive for category 世代

Date: 11月 18th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(その表現・その9)

機械(オーディオ機器)にふりまわされるな。
私がオーディオに興味をもった40年以上前も、このことはいわれていた。

正しい、といえば、そうである。
それでも、一度は、機械にふりまわされてみよう、といいたい。

機械にふりまわされるな、という人は、
使い手(人)が主で、オーディオ機器(道具、機械)は従の関係だ、ともいう。

これも正しい。間違ってはいない。
それでも、これに対しても、若いうちに、この主従関係を逆転させた時期を体験してほしい。

そうやって、オーディオの美の世界に、どっぷり溺れてほしい。
溺れないように、溺れないように……、
そんな及び腰でオーディオをやっていても、中途半端な楽しみでしかない、と私は思う。

溺れることを怖れずに飛び込んでこそのオーディオである。
インターネットは、溺れないための浮袋ではない。

Date: 11月 13th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(その表現・その8)

私が10代、20代のころ、
インターネットに接続できる環境はなかったし、
SNSも当然なかった。

オーディオについて何かを書いたとしても、
それを不特定多数の人に向けて発表できる場はなかった。

いまは違う。
スマートフォンがあれば、いつでもどこでも接続できるし、
SNSもあるから、書くだけで公開できる、という環境が揃っている。

オーディオマニアも世代によって、違っている、ともいえるし、そうでもないといえるし、
世代による違いよりも、結局は個人の違いのほうが大きい、ともいえる。

それでもオーディオを始めたころから、
SNSがある世代とそうでなかった世代とでは、明らかな違いがあるようにも感じている。

いつでも、思ったこと、感じたこと、考えていることなど、
公開した、と思えば、すぐにできる。

そこに、「いいね」がついたりする。
会ったこともない人たちからの反応がある。

そういう世代のすべての人たちが──、とはいわないが、
一部の人たちは、反応を意識してのSNSの利用なのではないか。
そんな気がしてならないのだ。

他人の目(評価)なんて、まったく気にせずにオーディオを楽しめばいいのに──、
そう思うのだ。

SNSに捕われてしまっていることに気づかないままでいいのか。

Date: 11月 12th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(その表現・その7)

(その6)にfacebookで、若い方からのコメントがあった。
私よりも二回りほど若い人である。

そこには、
オーディオ側から「どう、このいい音は」と言われているような音が好きではない、
だからそういう音にしないようにしている──、
そう書いてあった。

好き嫌いは誰にでもあることだから、第三者の私がとやかくいうことではない。
それはわかったうえで書くのは、
そういう音を、自在にだせるだけの力量を身につけているのか、である。

若いのだから、いろいろな音を出していってほしい、と思う。
コメントの人だけではない。
若いのだから、もっとのびのびオーディオをやってほしい。

好き嫌いもある時期無視してでも、
そこ(オーディオ)から出せる音の幅の広さを、とことんしゃぶりつくしてほしい。
なんという不徹底ぶりなのか、とも感じてしまうし、
中途半端なオーディオを、若い人がやるものじゃない、とも思う。

若いうちから老成ぶって、そういうことをいうのは早い、といっておく。
大人ぶることはないのだ。

大人ぶった子供(あえてそう書いておく)になぜなろうとするのか。
子供じみた大人(大人といえないのだろうが)にでもなってしまいたいのか。

Date: 11月 12th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(その表現・その6)

オーディオでも、フツーにいい音、という表現が使われているのだろうか。
耳にしたことはある。

といって、私の周りではほとんど使われていない。
けれど人が変れば、フツーにいい音、という表現はよく使われているのか。

そういえば、普通の音、という表現もある。
この普通の音が使われるのは、
どこといって特徴のない音、際立ったところのない音、魅力のない音、
そういった音に対して使われることもある。

一方で、さりげない、なにげない、けれどいい音に対しても、
普通の音という表現は使われる。

そして後者の場合、普通の音を出すのが難しい、というふうにもつけ加えられることがある。
こうなると普通の音は褒め言葉である。

フツーと普通。
こうやって文字で表現すると、カタカナと漢字の違いもあるし、
フツウではなくフツーと、あえてしているわけで、音引きがつくかつかないのか、もある。

フツーにいい音、とはいうが、普通にいい音とは、まずいわない。
普通の音は、それ自体が、いい音である、ということを含んでいる場合があるからだ。

ただ普通の音こそだすのが難しい──、
こういったことをきくと、どのくらいの世代の人がいっているかによって、
私のなかでは、そういうことは、もっと歳をとってからにしようよ、といいたくなることがある。

いいたくなるだけで、いったりはしないし、
コメントに書いたりはしない。

それでも若い人が、普通の音こそだすのが難しい、といっているのをきくと、
若いのだから……、とおっせかいをいいたくなる。
余計なお世話といわれるのはわかっているが、
若いうちにしか出せない音があるのに、
若いうちから「普通の音こそだすのが難しい」といっている人も、
歳をとってから気づくのではないだろうか。

Date: 10月 24th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(老害、独断と分断・その1)

老害とは、
企業や政治の指導者層の高齢化が進み,円滑な世代の交代が行われず,組織の若返りがはばまれる状態、
と大辞林には、そう書いてある。

オーディオの世界でも、老害について書かれていることを、
SNSでもみかける。
割と多いのではないか、とさえ思うほど、頻繁にそうであったりもする。

それほど熱心にSNSをチェックしなくなったので、
たまたまみかけた、そう書き込みについての印象でしかないのだが、
この人が指摘している老害は、ほんとうに老害なのだろうか、
と一言返したくなることもないわけではない。

面倒なので返信したりしないのだが、
老害といっておけば、それに賛同する人が必ず現れるというのが、
SNSの、オーディオに関する投稿ではないのか。

五年前に、twitterに、
《年寄りの話をきちんと聞けない、年寄りと会話できない人はオーディオに向いてない、と断言できる。》
と投稿した。

これに数年後、書いたことを忘れたころに返信があった。
見知らぬ人、フォローもしていない人からだった。

そこには、老人の話ばかりを有難がって、
若者の意見に耳を貸さないのは老害である──、
そんなことが書かれてあった。

どんな人なのかは、まったくわからなかったけれど、
おそらく私よりも若い人なのだろう、かなり若い人なのかもしれない。

その人の返信を読みながら、こんなふうにとらえるのか、とがっかりもした。

Date: 9月 15th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(略称の違い・その5)

オーディオの世界に若い人を──、
ということが今年のOTOTENのテーマとなっていた。

そして、こういうテーマになると、老害についてSNSにて発言する人が増える。

オーディオの世界における老害について、こまかく書いていこうとは考えていない。
ただ、ここでのテーマに沿って書けば、ないわけではない、と思っている。

その1)で、世代による略称の違いについて触れた。
マークレビンソンを、以前は略すならばレビンソンだった。
いまではマクレビである。

オーディオテクニカはテクニカだった。
いまではオーテクである。

こんなふうに略すのが、いまの若い人のセンスなのか。
私や私の周りでは、センスのない略のしかただな、と思っているわけだが、
ここで、私が老害と考えるのは、
そんな若者にすんなり迎合してしまう人たちである。

老害といわれなくないのか、
若者に、妙な理解を示す人たちが少なからずいる。

でも、これは理解なのか、と思う。

Date: 9月 9th, 2019
Cate: デザイン, 世代

世代とオーディオ(とデザイン)

ソニーがIFA2019で、SA-Z1を発表している。
ニアフィールド用のアクティヴ型スピーカーシステムである。

どういう製品なのかは、PHILE WEBAV Watchの記事をお読みいただきたい。

面白そうだな、と思うと同時に、なぜ? とも思っていた。
SA-Z1の写真を見ていると、どうにもブラウン管型のテレビを連想してしまう。

写真のアングルにもよるが、ブラウン管型のテレビ、
それも後側から眺めているような形が、なぜ? につながってしまう。

もう勝手な想像でしかないのだが、
SA-Z1をデザインした人は、テレビといえば液晶の薄型しか知らない世代なのか、と思う。
だから、こういう形にしても、なんとも思わないのか。

それとも、まったく逆なのか。
SA-Z1のデザイナーは、私と同じくらいの世代なのだろうか。
テレビといえば、ブラウン管型。
そういう人が、あえて、こういう形に仕上げたのか。

発売は2020年春(欧州において)。
それまでにデザインは変更されるのか、このまま登場するのか(その可能性は高い)。

Date: 8月 17th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(若い世代とバックナンバー・その3)

ここでのテーマとは関係ないが、バックナンバーということでは、
SNSで、一年に一度あるかないかくらいではあるが、
ステレオサウンドのとても古い号を手に入れた、
しかもとても四十年以上前のバックナンバーとは思えないほど状態がいい──、
そんな投稿を目にすることがある。

ステレオサウンドのバックナンバーは、かなり高い値がついていたこともある。
最近では、昔ほどの高値ではなくなっていても、
一桁の号数のステレオサウンドとなると、安くはない。

それに五十年前後立っているわけだから、美本といえるわけではない。
それでも、中には、非常に状態のいい古いステレオサウンドが、
古書店に並んでいることもある。

一桁の号数とまでいかなくとも、
20号から40号くらいまででも、きれいな状態のステレオサウンドはある。

古本を絶対に手にしたくない、という人の気持もわからないわけではない。
それでも古いステレオサウンドを読みたければ、
知っている人から直接譲ってもらわないかぎり、
誰が読んだかわからないステレオサウンドを買うしかない。

誰だってきれいなステレオサウンドを手にしたい。
私だって、そういう気持がないわけではない。

それでも、いざそういうステレオサウンド、
一度も読まれていないのではないか、
そう思いたくなるほどきれいなステレオサウンドもあったりする。

そんな時に、ラッキーと思う気持もあれば、
読まれなかったであろう、目の前にある古いステレオサウンドの号をみて、
さびしく思う気持もある。

本は読まれなくてもいい、
売れればいい、
そういう気持で本をつくっているのであれば、
きれいな古いステレオサウンドをみても、何も思わない、感じないのかもしれない。

Date: 8月 16th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(若い世代とバックナンバー・その2)

視野の狭い、未熟な意見、考えを、新鮮な意見、考えと思う人もいようが、
私はそうではない。

もちろん若い人の意見、考えすべてが未熟だとはいわない。
けれど、今回の1979年当時の七万円台のプリメインアンプを、
中級機ではなく高級機と捉えるのは、はっきりと狭く未熟でしかない。

当時の初任給に目を向けてはいても、
残念なことに、ここでは数時にのみ目を向けている、としかいいようがない。

少々きついことを書いているとは、私は思っていない。
なぜ彼は、自分の意見、考えに反論をしないのか、と思う。

七万円台のプリメインアンプを高級機ではないか、と思ったのならば、
自分自身で、自分の、その考えに対して反論をいくつか考えてみるべきである。

当時の初任給と七万円台という価格、
それだけで中級機ではなく高級機としたのは、そのままでは単なる思いつきでしかない。

しかも、このことを書いた若い人は、
瀬川先生の「コンポーネントステレオのすすめ」を読んでいる。
「コンポーネントステレオのすすめ」を読んでいるのならば、
そこに「コンポーネントステレオの経済学」、
「費用と性能の関係」があるのを思い出すはずだ。

読んでいる、ということはそうことである。
単に文字だけを追っただけで、書かれていることが頭に入っていなければ、
それは読んだとはいわない、眺めただけである。

ここに「標準的な価格」ということばが出てくる。
瀬川先生を、それをどう説明されているか、
「コンポーネントステレオのすすめ」を見なければ思い出せないというのならば、
何度でもいう,それは読んでいない、のは同じだ。

Date: 8月 15th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(若い世代とバックナンバー・その1)

ぎりぎり20代の人が、ステレオサウンドのバックナンバーを熱心に読む。
悪いことではない。

そう思いながらも、今日、facebookでみかけたことはちょっと気になった。
ステレオサウンド 52号はアンプの特集号だ。
セパレートアンプとプリメインアンプの総テストを、53号と二号にわたって行っている。

若い読み手は、七万円台のプリメインアンプを、
当時の初任給からすれば、中級機ではなく、高級機ではないか、としていた。

価格だけをみれば、そういえないことはない。
けれど視野は広くもってほしい、とつくづく思う。

中級機とか高級機とか、そういった位置づけは、
単に価格によって決るわけではない。

その時代時代に、アンプなら、どういった製品があったのかによって位置づけられるものだからだ。
七万円台のアンプのメーカーは、他にどんなプリメインアンプを出していたのか、
そこに目を向けるだけで、七万円台のプリメインアンプは、
そのメーカーにとって高級機という位置づけではないことはすぐにわかる。

他社製のプリメインアンプも含めて眺めれば、もっとはっきりとしてくることだ。

それでも当時七万円台のプリメインアンプは、大学卒の初任給の大半を注ぎ込まなければ買えない。
高級機ではないか、と、そうとらえることは可能だろうか。

単に当時のプリメインアンプがどういうモノがあったのか、
そういうことを抜きにしても、思いだしてほしいのは、
七万円台のプリメインアンプは、いわゆる単品コンポーネントである。

この時代、各社からシスコン(システムコンポーネント)が出ていた。
シスコンが流行っていた時代でもある。

シスコンの一つ前の段階としてはラジカセもあった。
家庭で音楽を聴く機器として、
ラジカセがあり、シスコンがあった。

つまり単品コンポーネントそのものが、いわば贅沢品である。
このことを忘れてしまっていての位置づけは意味をなさない。

1979年当時、七万円台のプリメインアンプは、
単品コンポーネントという贅沢品のなかでの位置づけは、中級クラスということになる。

若い人が、生れる前のステレオサウンドのバックナンバーを読むことは、
悪いことではない、としたのは、良いことだ、とはいえないことがあるからだ。

Date: 8月 11th, 2019
Cate: 世代

とんかつと昭和とオーディオ(その10)

古川緑波の「下司味礼讃」に天丼のことが出てくる。

読んでいると、おいしいとうまいの違いについて考えていることに気づく。
おいしいは美味しい、と書く。
うまいは、旨いとも美味いとも書くが、ここでのうまいは旨いのほうである。

どちらも満足して食べているのは同じだ。
それでも天丼とかカツ丼、カツカレーなどには、
うまいのほうがしっくりくることが多いように感じている。

天丼ではなく天ぷらをコースで味わうのであれば、おいしいのほうだろう。
どっちでもいいじゃないか、
そんなこまかなことどうでもいいじゃないか、と誰かにいわれそうだが、
例えば酢豚。

まだ熊本にいたころ、酢豚をどこかで食べるとしたら、そこにはパインが入っていた。
あのころ食べた酢豚でパインの入ってなかったのは記憶がない。

酢豚にパイン。
パインが入っている理由は肉を柔らかくするため、とかいわれていた。
東京に来てからの酢豚では、パインが入っていることはほとんどなかった。

いわゆる町中華と呼ばれている店での酢豚ではなく、
中華料理店とよばれる本格的な店での酢豚には、パインは入ってなかった。

パインの入っている酢豚なんて……、という人はけっこういる。
そういいたくなるのもわからなくはないが、
パインの入っている酢豚も、私は好きだし、友人のAさんとも、
パインの入った酢豚の話をして盛り上ったりしている。

さしずめパインの入った酢豚は、下司味なんだろう。
一般的にいって、パインの入っていな酢豚のほうが高級なんだろう。

酢豚もパインが入らなくなっただけでなく、
豚の銘柄、酢も黒酢使用を謳ってたりする。

そういう酢豚もAさんも私も好きである。
おいしい酢豚も好きだし、うまい酢豚も好きである。

どちらかを選ぶ必要はあるのだろうか。

Date: 6月 25th, 2019
Cate: 世代

“NO MUSIC, NO LIFE.”に感じていること(その3)

貪欲であることは、かっこわるいといわれれば、確かにそうである。
そうであっても、何かひとつのことに貪欲でなかったならば、
それは趣味とはいえないように思う。

オーディオ、音楽に限れば、
音、音楽に対して貪欲だった時期が、
少なくともオーディオマニア、音楽マニアを自称・自認している人ならば、
かつてあったはずだ。

いまでも、あからさまにしないだけで、貪欲なことに変わりない人も、
きっといるはずだ。

貪欲さから逃れられないからこそマニアなのだろう。

このあたりで手を打とう、
この辺で、もう充分じゃないか、
そんなふうに、そこで割り切ってしまえる人は、
以前はマニアだったのかもしれないが、
そこで手を打ってしまったら、その時点でマニアを卒業ということになるのか。

それでもくすぶっているものを持ち続けていれば、
何かのきっかけで再燃することだってあるはず。
となれば、マニアのままだったといえるのだろうか。

こんなことをぐだぐた考えていわけだが、
ここでのカテゴリーは、世代である。

世代の違いということで、すべてを語ってしまえれば楽なのだが、
そうではないことぐらいはわかっているつもりである。

それでも、世代の違いなのかぁ……、と感じてしまうことがある。

音に対しての貪欲さ、オーディオに対しての貪欲さは、
本人があからさまにしないようにしていても、
いっしょに音を聴いていれば、
それもそこで音を変えていくようなことをやってみれば、
はっきりと感じとれる。

Date: 6月 16th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(OTOTEN 2019・その9)

オーディオの世界に若い人を──、
ということがテーマとなると、老害について言う人がいる。
それから、若い人をOTOTENに来てもらおうと考えるのとともに、
若い人が集まるところに、なんらかの行動をおこすべきでは──、
そういったことが目に留る。

コミケ(コミックマーケット)にブースを出してみるというのも、
やってみておもしろいのかもしれない。

日本オーディオ協会に若い人を入れるべき、という意見も、
そうかもしれない、と思いつつも、
本音をいえば、総入れ替えでなければ、何も変らない──、
そう思っている。

私の世代も含めて、いまの50代より上の世代がみなくたばって、
オーディオ業界が総入れ替えされれば、若い人たちがどっと押し寄せてくるような気がする。

みな若かった、と書いた。
その人たちがみな老いてきている。

オーディオ業界が老いてきている。
新陳代謝を期待しても、そう簡単にはおこらないだろう。

けれど、そうなってしまうと、断絶が生じよう。
いまでも、断絶を感じてしまう。

そんなこと、ずっと以前にいわれてきたことでしょう──、
それをさも新発見したかのように、書いたり喋ったりする人たちが少なからずいる。

何度同じことをくり返すのか。
少しは、昔をふり返ろうよ、といいたくもなる。

いまでもそうなのだから、総入れ替えがおこったなら、
もっと大きな断絶が生じるのかもしれない。

Date: 6月 16th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(OTOTEN 2019・その8)

菅野先生が「音の素描」で、ポルシェについて書かれている。
     *
 私の考えている自動車の完成度ということから見た結論が、一方ではポルシェ、一方ではメルセデスベンツということで、この二つの車には畏敬の念を禁じ得ない。ポルシェとメルセデスベンツを持つということは、私が社会人になりたてのころに描いた他愛のない夢であり、当時の目標は一生のうちにポルシェとメルセデスを買うということであった。そのように決めたきっかけは、私の知っているフランス帰りの音楽関係の人間がポルシェに乗って私の前に現われたことである。
 それ以前にオーディオのことで知り合っていた外国の友人にフェルディナント・ポルシェ博士の発明家・エンジニア、そして天才的な自動車の設計者としての素晴らしい話を聞いていた。全部は読みきれなかったが、ドクター・ポルシェのバイオグラフィーを原書で読んだこともあり、私の頭の中には自動車の神様としてのポルシェ博士の名前が大きくふくらんでいたわけだ。ところが実際にはポルシェという車を写真以外では見たことがなかった。フォルクスワーゲンはポルシェがつくったものだということと、ルノーの2CVはポルシェの息がかかっているということも聞いていたが、本物のポルシェはそれまで見たことがなかった。だから初めて知人の乗るポルシェ356を目の前に見た時には、これが憧れのポルシェ博士が、自分の名前をつけた車かということで、大きな感動を受けたのを今もって忘れない。
 その当時はポルシェなどは自分の手の届く存在だとは思ってもみなかったし、いくらするかということを調べようともしなかった。おそらく途方もない値段という感覚しかなかった。しかしその時に「いまに見ていろ俺だって」と生意気にも決心をして、一生のうちに絶対に自分で買って運転するぞと意気込んだものである。
 ポルシェ博士のヒストリーの中でベンツをより詳しく知った。一九三〇年代にポルシェ博士がベンツの技師長をしていて、ベンツのSSKという素晴らしい名車を設計したことや、ダイムラー・ベンツという会社はゴットフリート・ダイムラーという人とカール・ベンツという二人の合併でつくった会社であり、それぞれが自動車の発明家として本当のパイオニアであって、このダイムラー・ベンツ社は現存する世界最古の歴史をもったメーカーであることもそのときに知ることができたのである。
 ポルシェというのは純然たるスポーツ・カーで、現在のベンツはスポーツ・カーも出しているがより実用的なセダンがむしろ主力車種だ。おそらく乗用車では、メルセデスベンツは最高のレベルにあるものだということを想像したし、スポーツ・カーとしてはポルシェが大変に素晴らしいものであると思い、当時の若僧はこの二つを人生の目標としたのである。豊臣秀吉のように百姓の子供に生まれながら天下をとったことから考えるとき、きわめてちっぽけで幼稚な夢だが私にしてみればそのころとしてはとても実現の可能性すら考えられないことであった。
     *
憧れがあるからこそ、
「いまに見ていろ俺だって」という気持か生れてくる。

その気持を萎えさせるようなことだけは、誰もやってはいけない。
私は、オーディオ店に過大な期待はしていない。

いい店員がいるのはきいて知っている。
でも、それ以上はどうしようもない店員が多いことも、またきいて知っている。

運良く、いい店員が近くいることはあるだろう。
でも、そうでない場合もある。

Date: 6月 16th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(OTOTEN 2019・その7)

いまはどちらもやめてしまっているが、
2015年、ユキムとタイムロードは、学割キャンペーンを始めた。

学割キャンペーンを始めたころの、
facebookにあるウルトラゾーンのページには、
《君たちの年頃に聴いた音楽は後々までずうっとこころに残るもの。だから、始めました。》
とあった。

10代のころに聴いた音楽は、後々までずうっとこころに残る、
同じころにきいた「音」も後々までずうっとこころに残る──、
私が10代のころ、
熊本のオーディオ店が定期的に瀬川先生を招いての試聴会で聴いた音は、
いまも、私のこころに残っている。

そのオーディオ店は、決していい店とはいえなかった面もある。
特にステレオサウンドで働くようになって、
その店の悪評(実態)を聞いた。

そういう店だったのか、とがっかりもした。
それでも、その店(寿屋本庄店)には、感謝の気持をいまも持っている。

この店が、瀬川先生を呼んでくれなかったら、
瀬川先生と会えなかったかもしれないし、
そこで聴いたLNP2の音、The Goldの音、
Referenceの音、BCIIの音など、
さまざまな音が、いまも心に残っているし、
憧れということの大事さを、ここでの試聴会がなければ、
いまのかたちで知ることはなかったかもしれない。

寿屋本庄店は、当時高校生だった私を門前払いすることはなかった。