Archive for category 世代

Date: 7月 18th, 2018
Cate: 世代

とんかつと昭和とオーディオ(その9)

とんかつが好物だという人と話をしていて、
カツカレーのことを話題にすると、途端に不機嫌な顔をする人がいる。

とんかつもカレーも好物だけど、カツカレーはいけません、とそういう人はいわれる。
とんかつの美味しさをカレーをかけることで台無しにするし、
カレーの美味しさをとんかつのころもが台無しにする、と。

確認しなかったけど、きっと、こういう人はカツ丼も認めないんだろうな、と思ったりする。

カツカレーもカツ丼も、私は好きである。
カツカレーがダメだ、という理由はわからないでもない。
でも、食べてみよう、と言いたくなる。

すべてのカツカレーが美味しいわけではないし、
その人はたまたまひどいカツカレーに出合っているだけかもしれない。

とんかつが美味しい店だからと、カツカレーも期待していると、意外に期待外れだったりする。
反対の例も少なくない。
それでもカツカレーがメニューにあると、一度は食べている。

カツカレーはB級グルメなんだな、と思いつつも、
そういえば数年前に3500円のカツカレーのことが話題になっていた。
こうなるとB級グルメとはいえなくなる。

それだからこそ、私としてはB級グルメの範疇としてのカツカレーが食べたい。
3500円のカツカレーはさしずめA級グルメ、
3500円よりも高価なカツカレーも探せばありそうだ。
そうなると、A級の上のS級グルメとなるのか。

そんなカツカレーを食べる機会はないと思っているが、
何かの機会に食べれば、美味しいと思うに違いない。

それでもカツカレーはやっぱりB級グルメであってほしい、と思うし、
B級とランク分けするからこそ、A級とかS級とかにつながっていくわけで、
別の言い方はないのかと思っていると、下司味というのがあるのを知る。

古川緑波の「下司味礼讃」。

Date: 7月 17th, 2018
Cate: 世代

とんかつと昭和とオーディオ(その8)

とんかつとご飯。
こんなことを書いているけれど、
もっともとんかつを食べていた20代のころ。

いいかえれは浅草の河金に頻繁に通っていたころ、
いわゆるとんかつ定食的な食べ方はしていなかったことを思い出した。

とんかつと豚汁と白いご飯の組合せ、という意味でのとんかつ定食的である。
河金には、いわゆるとんかつ定食はなかった、と記憶している。

とんかつを単品で頼んで、白いご飯を頼む人もいれば、
20代の私のように、ご飯物(つまりオムライスとかカレーライス)を頼む客もいた。

いま思い返しても、河金で白いご飯を食べた記憶がまったくない。
河金が、とんかつ屋ではなく、洋食屋だったことも関係してのことか。

河金の次によく食べていたのは、銀座の煉瓦亭。
ここでも白いご飯を食べた記憶がない。

とんかつと白いご飯の組合せは、やはりとんかつ屋での食事となる。
20代の、あのころは、とんかつの味ももちろん重要だったけれど、
それ以上に白いご飯よりも、そうでない炭水化物を好んでいた。

いまは、むしろとんかつと白いご飯である。
いまもし河金があったなら(浅草の本店はないが支店にあたる河金はある)、
とんかつと白いご飯かな、と思う。

Date: 7月 12th, 2018
Cate: 世代

とんかつと昭和とオーディオ(その7)

友人(オーディオマニアでもある)のAさんと、
先月も今月も、とんかつを食べにいっていた。

とんかつ屋で飲み、あれこれ食べて、最後に定食。
そしてデザート、コーヒーというのが、二人の間で流行っている。

そんなことができるとんかつ屋は、東京でもそう多くはないはずだ。
それに、あまり遠くに出掛けるのも億劫だし。

とんかつ屋も、やはりブームのようである。
つい先日も、二軒のとんかつ屋に行列ができていた。
どちらも予定していた店である。

飲んで食べてデザートまで、という店は、
最高のとんかつの提供を掲げている店ほどではない。

気軽に入れる店で、美味しい店だから繁盛するのもわかる。
最高のとんかつの提供を掲げている店も、行列はすごいのは知っている。

長い行列に並んでまで、という気持は二人ともない。
入ろうとしていたとんかつ屋が行列だったから、違う店に入り少しばかり飲み食いして、
行列がなくなったころをみはからって、ふたたびとんかつ屋に向う二人である。

東京で話題になっている最高級のとんかつ屋にはまだ行っていない。
そこでのとんかつがどういうものなのか、食べてないのだから何も言えないのだが、
先日Aさんと二人で食べたとんかつは、ご飯とよく合うのだ。

これは嬉しい驚きである。
とんかつだけを食べるよりも、ご飯といっしょに食べたくなるとんかつである。

もしかすると、最高級のとんかつ屋のとんかつは、
とんかつだけで食べた方が美味しいのかもしれない……、
そんなことを勝手に思いながら味わっていた。

今回食べたとんかつ屋のとんかつよりも、もっと美味しいとんかつはあるだろうし、
ご飯にしても、もっと美味しいご飯を出すところはあるはずだ。

けれど、とんかつとご飯をいっしょに食べての美味しいは、
個々のとんかつ、ご飯が美味しければ、それで味わえるとはかぎらない。

スピーカーとアンプの組合せは、そこはまったく同じである。

伊藤先生が《ラーメンと共に日本人に好かれる食いもの》とされるとんかつは、
ご飯と合うからこその《日本人に好かれる》わけだろう。

Date: 5月 7th, 2018
Cate: ヘッドフォン, 世代

世代とオーディオ(スピーカーとヘッドフォン・その2)

先日、ヘッドフォンで比較試聴する機会があった。
ヘッドフォンの比較試聴ではない。

いわゆるPCオーディオ(それにしても他にいい表現はないのか)での、
再生ソフトによる音の違いを、ヘッドフォンで比較試聴した。

差はある。
ここで書きたいのは、再生ソフトによる音の違いについてではなく、
ヘッドフォンでの比較試聴について、である。

ヘッドフォンゆえによくわかる違いもあるのだろうが、
ふだんヘッドフォンを聴かない私は、
ヘッドフォンゆえによくわからない違いがあることの方が気になってきた。

ヘッドフォンで聴きながら、ここはスピーカーで聴いたら、こんな感じになって、
もっと違いがはっきりでるんじゃないのか、とか、
ヘッドフォンで聴いているがゆえに、微妙なところで、もどかしさを感じたりもした。

このへんは慣れなのだろう、とは思うが、
それでもどこまでいってもスピーカーとヘッドフォンは、はっきりと違う。

スピーカーはステレオフォニックであり、ヘッドフォンはバイノーラルである。
この決定的な違いが、比較試聴に及ぼす影響は小さくはない。

いいヘッドフォン(イヤフォン)を求めて、
ヘッドフォン(イヤフォン)の比較試聴をするのに、もどかしさはまったく感じない。
だが、ヘッドフォン(イヤフォン)で、比較試聴をするとなると、
ヘッドフォン慣れしていない私は、少しばかりを時間を必要とすることになるだろう。

ということはこれまでずっとヘッドフォン(イヤフォン)で聴いてきている人が、
逆の立場におかれたら、どう感じるのだろうか。

つまりスピーカーでの比較試聴をやってもらったら、
違いがわかりにくい、ということになるのか。

Date: 4月 18th, 2018
Cate: 世代

世代とオーディオ(その表現・その1)

「菅野録音の神髄」のためにステレオサウンド 47号を、開いている。
47号の特集はベストバイで、
瀬川先生が「オーディオ・コンポーネントにおけるベストバイの意味あいをさぐる」を書かれている。

こんなことを書かれている。
     *
 これもまた古い話だが、たしか昭和30年代のはじめ頃、イリノイ工大でデザインを講義するアメリカの工業デザイン界の権威、ジェイ・ダブリン教授を、日本の工業デザイン教育のために通産省が招へいしたことがあった。そのセミナーの模様は、当時の「工芸ニュース」誌に詳細に掲載されたが、その中で私自身最も印象深かった言葉がある。
 ダブリン教授の公開セミナーには、専門の工業デザイナーや学生その他関係者がおおぜい参加して、デザインの実習としてスケッチやモデルを提出した。それら生徒──といっても日本では多くはすでに専門家で通用する人たち──の作品を評したダブリン教授の言葉の中に
「日本にはグッドデザインはあるが、エクセレント・デザインがない」
 というひと言があった。
 20年を経たこんにちでも、この言葉はそのままくりかえす必要がありそうだ。いまや「グッド」デザインは日本じゅうに溢れている。だが「エクセレント」デザイン──単に外観のそればかりでなく、「エクセレントな」品物──は、日本製品の中には非常に少ない。この問題は、アメリカを始めとする欧米諸国の、ことに工業製品を分析する際に、忘れてはならない重要な鍵ではないか。
     *
 ひと頃、アメリカのあるカメラ雑誌を購読していたことがある。毎年一回、その雑誌の特集号で、市販されているカメラとレンズの総合テストリポートの載るのがおもしろかったからだ。そのレンズの評価には、日本ではみられない明快な四段階採点方の一覧表がついている。四段階の評価とは 1. Excellent 2. Very Good 3. Good 4. Acceptable で、この評価のしかたは、何も右のレンズテストに限らず、何かをテストするとき、あるいは何かもののグレイドをあらわすとき、アメリカ人が好んで用いる採点法だ。
 私自身の自戒をこめて言うのだが、ほかの分野はひとまず置くとしてまず諸兄に最も手近なオーディオ誌、レコード誌を開いてごらん頂きたい(もちろん日本の)。その中でもとくに、談話または座談の形で活字になっているオーディオ機器や新譜レコードの紹介または批評──。
 ちょっと注意して読むと、おおかたの人たちが、「非常に」あるいは「たいへん」といった形容詞を頻発していることにお気づきになるはずだ。
 むろん私はここでそのあげ足とりをしようなどという意味で言っているのではなく、いま手近なオーディオ誌……と書いたが少し枠をひろげて何かほかの専門誌でも総合誌あるいは週刊誌や新聞でも、似た内容の記事を探して読めば、あるいは日常会話にもほんの少しの注意を払ってみれば、この「非常に」「たいへん」あるいは4とても」といった、少なくとも文法的には最上級の形容詞が、私たちの日本人の日常の会話の中に、まったく何気なく使われていることが、まさに〝非常に〟多いことに気付く。
 この事実は、単に言葉の用法の不注意というような表面的な問題ではなく、日本という国では、もののグレイドをあらわす形容が、ごく不用意に使われ、そのことはさかのぼって、ものを作る姿勢の中に、そのグレイドの差をつけようという態度のきわめてあいまいな、あるいは本当の意味でのグレイドの差とは何かということがよくわかっていないことを、あらわしていると私は考えている。さきにあげたジェイ・ダブリン教授の言葉も、まさにこの点を突いているのだと解釈すべきではないか。
     *
47号は1978年だから、40年前だ。
《ちょっと注意して読むと、おおかたの人たちが、「非常に」あるいは「たいへん」といった形容詞を頻発していることにお気づきになるはずだ》
とある。

いまはどうだろう。
フツーにうまい、とか、フツーにかわいい、といった表現が頻繁に使われている。

Date: 12月 30th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(JBL 4301・その22)

話がすこしそれてしまったが、
4301には時代の軽量化と感じなくて、Control 1には感じるのか。

別項「時代の軽量化(その2)」で、
時代の軽量化とは、
残心なき時代のことのようにも感じている、と書いた。

[残心]
武道における心構え。一つの動作が終わってもなお緊張を解かないこと。剣道では打ち込んだあとの相手の反撃にそなえる心の構え、弓道では矢を射たあとその到達点を見極める心の構えをいう。
(大辞林より)

武道における心構えとしての残心とはすこし違っていても、
4301には残心を感じ、Control 1には感じない。

たしかに、これははっきりといえる。

Date: 12月 29th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(1963年生れと4343)

1963年生れのAさんと私が知りあったのは、12年前のインターナショナルオーディオショウだった。
そのとき、ふたりは42歳。
よくふたりで会って食事をして飲むことがあった。

翌年、ふたりとも43歳になった。
ふたりあわせて4343だ、と言って笑いあっていた。

2017年は54歳。ふたりあわせると、ゴシゴシだね、とまた笑いあっていた。
ゴシゴシとしごかれた一年から、
来年はゴーゴー(55)だからイケイケだ、と、バカをいう仲だ。

ふたりとも中学生、高校生のころに4343という存在があって、
4343に強く憧れていたから、43歳になったときに「4343だ」といって、
笑って喜べたわけだ。

生れる時代は選べない、といわれる。
そうかもしれないし、いい時代に生れたのかそうでもないのか──。
とにかくふたりあわせて4343だ、といえる世代に生れたことだけは確かだ。

Date: 12月 25th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(その18)

《エア・チェックのスゴサ》を感じながらも、
音では、(その15)で書いたようなことが、現実に行っていた。

当時はCDはまだ登場していなくて、LPだった。
FM放送で、持っているLPがかかることはわりとあったことだ。

同じLPを再生しているのに、
アナログプレーヤーで聴くよりもFMの方が音がいい。
理屈としてはありえないことであるが、そんな質問が、FM誌やオーディオ雑誌に載っていた。

長島先生はFM放送(受信)の仕組みを、リプロダクションシステムと考えることができる、と書かれている。

同じLPなのにFMの方がよく聴こえるのであれば、
アナログプレーヤーのクォリティの問題か、設置・調整の不備である。

では、クォリティに問題がなく、設置・調整にも問題がなければ、
FMの方がよく聴こえる、ということは、起り得ないのか。

どんなチューナーを使い、アンテナはどうなのか、
電波状況は……、そういった要素が絡んでのことなので、一概にいえないが、
可能性として、部分的によく聴こえる、ということはあるのかもしれない。

そういう体験はしていないが、だからといって、可能性を完全否定はできない。
だからこそ、《放送局が送り出している元の音より美しいと話題になったこと》があったのだろう。

ではテレビの場合はどうなのか。
放送されている番組を見ていて、
放送局が送り出している元の映像より美しい、と感じたことはない。
元の映像を見たわけではないけれど。

Date: 12月 25th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(その17)

カラヤンの来日公演は、二回聴いている。
1981年と1988年。
どちらもベルリンフィルハーモニーで、東京文化会館だった。

1981年は、アンネ=ゾフィ・ムターも一緒だった。
ベートーヴェンの交響曲第五番とヴァイオリン協奏曲だった(と記憶している)。

1988年は最後の来日となった。
ベートーヴェンの交響曲第四番とムソルグスキーの「展覧会の絵」だった。

1981年の公演は、TBSがテレビ放映していた。
1988年の公演は、CDになって出ている。

記録として残されている。
1981年の公演を録画した人は、けっこういる、と思う。
いまも残している人も少なくないのではないか。

カラヤンは1989年2月に、ウィーンフィルハーモニーとニューヨーク公演を行っている。
東京はベルリンフィルハーモニーで、ニューヨークはウィーンフィルハーモニーか、
と、このニュースを知った時に思わないわけではなかった。

カラヤンとウィーンフィルハーモニーとの公演は、いまになって聴きたかった、と思う。
でも、いつの間にか、すっかり忘れてしまっていた。

昨晩、マイク野上さんのお宅に行っていた。
額縁に収められて飾られていた二枚の写真と一枚のチケット。
見て、びっくりした。

カーネギーホールでのカラヤン/ウィーンフィルハーモニーのブルックナーを聴いていた人が、
身近にいた、ということにびっくりした。

検索してみると、マイナーレーベルからCDが出ていることもわかった。
ただし、いまのところ入手困難のようだ。

動画を検索してみると、四分ほどのニュースを録画したものが、
YouTubeで、やはり公開されていた。
《エア・チェックのスゴサ》を実感している。

Date: 12月 22nd, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(JBL 4301・その21)

JBLのControl 1を、BOSEの101の後追いしての製品、という書き方をしたが、
二番煎じ、とは書かなかった。

1978年ごろ、オーラトーンから5Cというキューブ型の小型スピーカーが登場した。
12.5cm口径のフルレンジユニットを、
外形寸法W16.5×H16.5×D14.6cmのエンクロージュアにおさめたもので、
価格は二本一組で33,000円だった。

けっこう売れていた。
類似製品も登場した。二番煎じといえる製品である。
けれど、5Cよりも売れていた、とは思えない。

成功したのは5Cのみで、二番煎じで成功といえたモノはなかった、と記憶している。

BOSEの101は101は11.5cm口径のフルレンジ。
エンクロージュアは、木製ではなく樹脂製で、
サイズも形も5Cとは違う。

後追いといえば後追いといえる101だが、5Cの二番煎じとはいえない。
そう思っていた人は少ない、と思う。

101を5Cの二番煎じだとすれば、Control 1は5Cの三番煎じということになるのか。
誰もそんなバカなことはいわないだろう。

5Cと101は、はっきりと違う。
101とControl 1も、はっきりと違う。

4301には、登場時、高校生だった私は思い入れがある。
101には思い入れはない、Control 1も同じだ。

Control 1が登場したとき、私もがっかりした。
JBLも、この手の製品を出すようになったのか、と思った。

けれど時が経ち、4301への思い入れを切り離して見ることができるようになって、
Control 1をふり返ってみれば、そうとうに考えられたスピーカーかもしれない、と思える。
安易な二番煎じとは映らない。

Date: 12月 19th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(JBL 4301・その20)

(その19)に、facebookでコメントがあった。
4301とControl 1の違いは、製品がもつ矜恃の違いみたいなものかも……、とあった。

このコメントに同意される方もいよう。
少なくないかもしれない。

矜恃とは、自信と誇り、と辞書にはある。
さらに、自信や誇りを持って、堂々と振る舞うこと、ともある。

4301とControl 1。
どちらのスピーカーに、矜恃があるかといえば、
見方を変えればControl 1といえる。

Control 1は、それまでのJBLのラインナップにはなかった。
価格的にも、だが、それ以上に製品としてのコンセプトも、従来のJBLとは違う。

BOSEの101の成功を、JBLが後追いしての製品、という見方もできるが、
それだけで果していいのだろうか。

Control 1は成功した。
単なる後追いの製品ではなかったからだ。
だからControlシリーズが展開していった。

4301は、というと、コンシューマー用モデルのL16が、
4301の登場の数年前からある。
4301は、L16をベースにしたプロフェッショナル用ともいえる。

4331、4333といったスタジオモニターには、
L200、L300といったコンシューマー用モデルがあった。

L200、L300があっての4331、4333ではなかった。
4301は、そこが違う。

こういったところを冷静に見ていくと、製品の矜恃をどう捉えるかによっても違ってくるが、
一概にControl 1に矜恃がない、とはいえないし、
このことで4301とControl 1の違いを考えていくのは、少しばかり危険ではないだろうか。

Date: 12月 19th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(JBL 4301・その19)

答は、価値か意味かの違いにあるような気がする。

いわゆる一般的な価値だけでみるならば、4301も時代の軽量化となるかもしれない。
けれど意味(この意味の定義も必要となるが)でみるならば、
4301は時代の軽量化ではない、ということになる。

ならばControl 1も、同じなのではないか──、
そう問われれば、違う、と即答しよう。

4301とControl 1には、微妙ではあるが、はっきりとした違いがあるのを感じているが、
いまのところ、うまく言葉で表現できないもどかしさも感じている。

Date: 12月 19th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(JBL 4301・その18)

モノーラルのころからオーディオをやっていた世代の人たちからすれば、
4301も時代の軽量化を感じさせる、ということになるのかもしれない。

ハーツフィールドやハークネス、オリンパス、パラゴンといったJBLのスピーカーを、
その時代時代で、見て聴いて体験してきた人からすれば、
4301をみて、JBLも……、と嘆くのだろうか。

かもしれない、という気持が半分と、
いやそうじゃない、という気持が半分ずつある。

ただ4301は、時代の軽量化ではないと思うのは、
JBLのバッジのついた商品というのではなく、
JBLの音が聴けるモノだから、である。

Control 1はJBLの音がしないのか。
しないとは言い切らないが、ここまでをJBLの音といっていいのだろうか──、
という気持が常に残る。

4301には、それはない。

ハーツフィールドやパラゴンなどのスピーカーは、
いまではヴィンテージといわれることがある。
それだけの歳月が経っているわけだが、
4301も同じくらいの歳月を経たとしても、ヴィンテージとはならない。
少なくとも私は4301をヴィンテージJBLとか、そういういい方はしない。

それこそ時代の軽量化ではないのか、と問われれば、
いまのところ答に窮するところがあるのは自分でもわかっている。

なのに4301は違う、と思ってしまう理由を見つけたいから、
この項を書いている、ともいえる。

Date: 12月 18th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(その16)

エアチェックという言葉が、昔よく使われていた。
(その12)で書いているように、
本来は放送局からの電波が正しく送信されているのかをチェックするから、
エアチェックなのであって、主に放送に携わっている人たちが使う言葉だった。

それがFM放送を受信して録音することに使われるようになっていった。
私が高校生だったころ、エアチェックという言葉は、
オーディオマニアでなくとも使っていた。

電波を受信して録音することをエアチェックといっていたということは、
TV放送をビデオデッキで録画するのも、エアチェックであるわけだ。

その13)で、瀬川先生の別冊FMfanでの発言を引用している。
     *
 最後に一つ、お話しておきたいのは、この前、「週刊朝日」だったかで明治時代の写真を日本中から集めたことがありましたよね。
 要するに、家の中に眠っている写真を何でもいいから、日本中から集めて。そうしたら、しまっていた人でさえ気がつかなかったようなすばらしい資料がたくさん集まったわけですね。
 今エア・チェックでやっていることって言うのはそれに似ていると思うんですよ。一人一人は何気なく自分が聴きたいから、あるいは、そういう意志もなしに、習慣でテープのボタンを押してしまって、録っちゃったみたいなこともある。これだけFM放送がはんらんしてくると、それぞれ、みんな録る番組が違うと思うんですよ。しかし、どこかにみんな焦点が合っている。これから十年、二十年たって、あるいは五十年くらいたって、かつてこんな番組があったのか、誰かこれ持ってないかなと言うときに、ちゃんと残っていたら、これは大変な資料になると思うんです。
 エア・チェックには楽しさの他に、そうした意義があると思う。そこに、エア・チェックのスゴサみたいなものをぼくは強く感じるわけです。
     *
1976年のことだから、家庭用ビデオデッキの普及はまだ先のことだった。
1980年代に入り、ビデオデッキが急速に普及してくる。

まだまだテープが高価だったから、
録画しては消去して、また録画・再生という使い方がよくされていた。

それでも、昔録画したテープを保管している人もいる。
そうやって残っていったテープからの動画が、いまYouTubeにアップロードされている。

まさに瀬川先生が語られていた《エア・チェックのスゴサ》が、
インターネットのおそろしいほどの普及によって、この時代、強く感じられるようになった。

Date: 11月 25th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(JBL SE408Sを見ながら・その2)

目の前にあるSE408Sを、どうメインテナンスするのか。
それを考えるのは、実に愉しい。

電解コンデンサーは、電源部の平滑コンデンサーを含めてすべて交換する予定だ。
アンプ部のプリント基板には、チューブラ型のコンデンサーが使われている。

修理といって、よく見かけるのは、このコンデンサーをラジアル型に交換している例だ。
これは、個人的に絶対やりたくない。

SE408Sは外装がないだけに、コンデンサーの形状の違いは、
そのまま見た目の大きな違いとなってくるからだ。

耐圧、容量が同じで、品質的にも同じがより良いコンデンサーであれば、
形状の違いは気にしない──、そういう考えで修理されているJBLのアンプは少なくない。

そういう修理のアンプを、完全メインテナンス済みと謳われていても、
私は信用しないし、そういうオーディオ店も信用しない。

ただチューブラ型であっても、SE408S当時(ほぼ50年ほど前)のコンデンサーと、
現在のコンデンサーでは耐圧、容量が同じならば、サイズはちいさくなる。

私としては、容量は同じにして、耐圧が高いチューブラ型を選択して、
極力サイズが変らないようにする。

問題は色である。