Archive for category 世代

Date: 6月 25th, 2019
Cate: 世代

“NO MUSIC, NO LIFE.”に感じていること(その3)

貪欲であることは、かっこわるいといわれれば、確かにそうである。
そうであっても、何かひとつのことに貪欲でなかったならば、
それは趣味とはいえないように思う。

オーディオ、音楽に限れば、
音、音楽に対して貪欲だった時期が、
少なくともオーディオマニア、音楽マニアを自称・自認している人ならば、
かつてあったはずだ。

いまでも、あからさまにしないだけで、貪欲なことに変わりない人も、
きっといるはずだ。

貪欲さから逃れられないからこそマニアなのだろう。

このあたりで手を打とう、
この辺で、もう充分じゃないか、
そんなふうに、そこで割り切ってしまえる人は、
以前はマニアだったのかもしれないが、
そこで手を打ってしまったら、その時点でマニアを卒業ということになるのか。

それでもくすぶっているものを持ち続けていれば、
何かのきっかけで再燃することだってあるはず。
となれば、マニアのままだったといえるのだろうか。

こんなことをぐだぐた考えていわけだが、
ここでのカテゴリーは、世代である。

世代の違いということで、すべてを語ってしまえれば楽なのだが、
そうではないことぐらいはわかっているつもりである。

それでも、世代の違いなのかぁ……、と感じてしまうことがある。

音に対しての貪欲さ、オーディオに対しての貪欲さは、
本人があからさまにしないようにしていても、
いっしょに音を聴いていれば、
それもそこで音を変えていくようなことをやってみれば、
はっきりと感じとれる。

Date: 6月 16th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(OTOTEN 2019・その9)

オーディオの世界に若い人を──、
ということがテーマとなると、老害について言う人がいる。
それから、若い人をOTOTENに来てもらおうと考えるのとともに、
若い人が集まるところに、なんらかの行動をおこすべきでは──、
そういったことが目に留る。

コミケ(コミックマーケット)にブースを出してみるというのも、
やってみておもしろいのかもしれない。

日本オーディオ協会に若い人を入れるべき、という意見も、
そうかもしれない、と思いつつも、
本音をいえば、総入れ替えでなければ、何も変らない──、
そう思っている。

私の世代も含めて、いまの50代より上の世代がみなくたばって、
オーディオ業界が総入れ替えされれば、若い人たちがどっと押し寄せてくるような気がする。

みな若かった、と書いた。
その人たちがみな老いてきている。

オーディオ業界が老いてきている。
新陳代謝を期待しても、そう簡単にはおこらないだろう。

けれど、そうなってしまうと、断絶が生じよう。
いまでも、断絶を感じてしまう。

そんなこと、ずっと以前にいわれてきたことでしょう──、
それをさも新発見したかのように、書いたり喋ったりする人たちが少なからずいる。

何度同じことをくり返すのか。
少しは、昔をふり返ろうよ、といいたくもなる。

いまでもそうなのだから、総入れ替えがおこったなら、
もっと大きな断絶が生じるのかもしれない。

Date: 6月 16th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(OTOTEN 2019・その8)

菅野先生が「音の素描」で、ポルシェについて書かれている。
     *
 私の考えている自動車の完成度ということから見た結論が、一方ではポルシェ、一方ではメルセデスベンツということで、この二つの車には畏敬の念を禁じ得ない。ポルシェとメルセデスベンツを持つということは、私が社会人になりたてのころに描いた他愛のない夢であり、当時の目標は一生のうちにポルシェとメルセデスを買うということであった。そのように決めたきっかけは、私の知っているフランス帰りの音楽関係の人間がポルシェに乗って私の前に現われたことである。
 それ以前にオーディオのことで知り合っていた外国の友人にフェルディナント・ポルシェ博士の発明家・エンジニア、そして天才的な自動車の設計者としての素晴らしい話を聞いていた。全部は読みきれなかったが、ドクター・ポルシェのバイオグラフィーを原書で読んだこともあり、私の頭の中には自動車の神様としてのポルシェ博士の名前が大きくふくらんでいたわけだ。ところが実際にはポルシェという車を写真以外では見たことがなかった。フォルクスワーゲンはポルシェがつくったものだということと、ルノーの2CVはポルシェの息がかかっているということも聞いていたが、本物のポルシェはそれまで見たことがなかった。だから初めて知人の乗るポルシェ356を目の前に見た時には、これが憧れのポルシェ博士が、自分の名前をつけた車かということで、大きな感動を受けたのを今もって忘れない。
 その当時はポルシェなどは自分の手の届く存在だとは思ってもみなかったし、いくらするかということを調べようともしなかった。おそらく途方もない値段という感覚しかなかった。しかしその時に「いまに見ていろ俺だって」と生意気にも決心をして、一生のうちに絶対に自分で買って運転するぞと意気込んだものである。
 ポルシェ博士のヒストリーの中でベンツをより詳しく知った。一九三〇年代にポルシェ博士がベンツの技師長をしていて、ベンツのSSKという素晴らしい名車を設計したことや、ダイムラー・ベンツという会社はゴットフリート・ダイムラーという人とカール・ベンツという二人の合併でつくった会社であり、それぞれが自動車の発明家として本当のパイオニアであって、このダイムラー・ベンツ社は現存する世界最古の歴史をもったメーカーであることもそのときに知ることができたのである。
 ポルシェというのは純然たるスポーツ・カーで、現在のベンツはスポーツ・カーも出しているがより実用的なセダンがむしろ主力車種だ。おそらく乗用車では、メルセデスベンツは最高のレベルにあるものだということを想像したし、スポーツ・カーとしてはポルシェが大変に素晴らしいものであると思い、当時の若僧はこの二つを人生の目標としたのである。豊臣秀吉のように百姓の子供に生まれながら天下をとったことから考えるとき、きわめてちっぽけで幼稚な夢だが私にしてみればそのころとしてはとても実現の可能性すら考えられないことであった。
     *
憧れがあるからこそ、
「いまに見ていろ俺だって」という気持か生れてくる。

その気持を萎えさせるようなことだけは、誰もやってはいけない。
私は、オーディオ店に過大な期待はしていない。

いい店員がいるのはきいて知っている。
でも、それ以上はどうしようもない店員が多いことも、またきいて知っている。

運良く、いい店員が近くいることはあるだろう。
でも、そうでない場合もある。

Date: 6月 16th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(OTOTEN 2019・その7)

いまはどちらもやめてしまっているが、
2015年、ユキムとタイムロードは、学割キャンペーンを始めた。

学割キャンペーンを始めたころの、
facebookにあるウルトラゾーンのページには、
《君たちの年頃に聴いた音楽は後々までずうっとこころに残るもの。だから、始めました。》
とあった。

10代のころに聴いた音楽は、後々までずうっとこころに残る、
同じころにきいた「音」も後々までずうっとこころに残る──、
私が10代のころ、
熊本のオーディオ店が定期的に瀬川先生を招いての試聴会で聴いた音は、
いまも、私のこころに残っている。

そのオーディオ店は、決していい店とはいえなかった面もある。
特にステレオサウンドで働くようになって、
その店の悪評(実態)を聞いた。

そういう店だったのか、とがっかりもした。
それでも、その店(寿屋本庄店)には、感謝の気持をいまも持っている。

この店が、瀬川先生を呼んでくれなかったら、
瀬川先生と会えなかったかもしれないし、
そこで聴いたLNP2の音、The Goldの音、
Referenceの音、BCIIの音など、
さまざまな音が、いまも心に残っているし、
憧れということの大事さを、ここでの試聴会がなければ、
いまのかたちで知ることはなかったかもしれない。

寿屋本庄店は、当時高校生だった私を門前払いすることはなかった。

Date: 6月 15th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(OTOTEN 2019・その6)

今年のOTOTENでは、若い人を集めようとするいくつかの試みがなされる。
それらがうまくいって、若い人が例年よりも多く来場した、とする。

来場した若い人の何割かがオーディオに興味をもってくれた、とする。
それらの人たちが次に進むステップとして、オーディオ店に行くことがある。
オーディオ雑誌を買うことも、ここでのステップだろう。

若い初心者に対して、どちらも優しいだろうか。
優しくなければならない、とは私は思っていない。

私が中学生、高校生のころだって、
オーディオブームでもあったけれど、決して店員が優しかったわけではない。

それでも門前払いのような扱いだけはなかった。
(その5)で書いたガレージメーカーの社長のような人は、
少なくともいなかった。

たまたま私が運がよくて、そんな人と出あっていなかっただけなのか。
そうなのかもしれないけど、そうでないのかもしれない。

とにかく、ガレージメーカーの社長のような態度の人が、
オーディオ店にいたら、どうなるか。
そこにOTOTENに行き、オーディオにいくらかの関心をもった若い人が行ったら──、
書くまでもないだろう。

OTOTENに若い人を集めるだけではなく、その先こそが大事だと思う。

別項「LOUIS VUITTONの広告とオーディオの家具化」で書いているBさん夫妻は、
オーディオ専門店ではなく、量販店で購入している。

別項の(その13)で長岡鉄男氏の文章を引用しているが、
こんなオーディオ店の店主もいた(いる)わけだ。

日本オーディオ協会としては、若い人を一人でも多く、
OTOTENに来てもらえれば、それでいいのかもしれない。
目標達成ということなのかもしれない。

OTOTENは今月の29日、30日である。
終ってから、日本オーディオ協会が、
若い人が大勢来場されました、なんてことを得意げに発表したりするようでは、
何も変らない。

Date: 6月 14th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(OTOTEN 2019・その5)

以前、「2014年ショウ雑感(ヘッドフォン祭)」でヘッドフォン祭は、
ヘッドフォンオーディオ祭という名称ではないことを書いた。

ヘッドフォンオーディオ祭だったら──、
そこにオーディオとつくことで、若い人(特に女性の若い人)は来なくなるのかもしれない。

私はオーディオという言葉が好きなのだが、
世間一般ではどうなのだろうか。

オーディオマニアはバカにされる、
オーディオマニアだと誰にもいえない、
これらは極端な例なのだろうか。

どうもそうではないような気がする。
そんな気がする、というだけで、確かめているわけではない。

けれど、(その3)と(その4)に書いたことは実際にあったことだ。
日本オーディオ協会の人たちは、そういうことが実際にある、ということを知っているのか。

若い人たちにも参加してほしい──、
これはオーディオ業界だけでなく、他の業界でもそうだろう。
先細りなのははっきりしている。

けれど、若い人でも、昔にくらべるとずっと少なくなってきているとはいえ、
オーディオに関心をもつ人はいる。

いるけれど、今回の小川理子理事長の発言にSNSでコメントしている人の中に、
とあるガレージメーカーの社長に、
「学生にはトップモデルは聴かせられない」と拒否された、というのがあった。

学生が買えるようなものしか聴かせない。
買えないような高価な製品を聴かせても、時間、労力の無駄、と、
そのガレージメーカーの社長は判断しての発言なのだろう。

そういう人がいる一方で、
とあるオーディオ店のある店員は、
学生相手にも、そんなイヤミをいうことなく、ハイエンドオーディオを試聴させてくれる、らしい。

Date: 6月 14th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(OTOTEN 2019・その4)

北海道の若いオーディオマニアの件は、
この人一人だけの特別な例なのだろうか。

別項『「オーディスト」という言葉に対して(その25)』へのfacebbokでのコメントも、
同じといえる例でもあった。

四年ほど前に、とあるミュージックバーに行き、
幼いころから音に関心があって、いまではオーディオマニアになった──、
そんな話をしたら、バーの店員から散々バカにされたそうである。

このバーは、ミュージックバーを名乗っているくらいで、
トーレンスのアナログプレーヤーを使っていることを売りにしている、そうである。

そういうバーの店員でも、オーディオマニアをバカにしている。

北海道の若いオーディオマニアが、
オーディオマニアだ、と周りの人にいうことは、カミングアウトすることに近いのだろう。

若い人たちではないが、私より少し上の世代の人たちも、
そんな空気を感じとっているのかもしれない。

まったくオーディオと関係なく会った人と話しているうちに、
こちらがオーディオマニアだ、とわかると、
「いやー、実は私も……」と言ってくる人(といっても数人なのだが)がいた。

同世代の女性の知人は、中学生のころから、
絶対にオーディオマニアとは結婚しない、と決めていた、という。
彼女が中学生のころは、オーディオがまだブームだったころだ。

Date: 6月 14th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(OTOTEN 2019・その3)

あのころはみんな若かった。
編集者だけではなく、筆者もそうだった。

私が最初に手にしたステレオサウンド 41号。
1976年12月発売の号だから、
1932年9月生れの、菅野先生、山中先生、長島先生は44歳、
1935年生れの瀬川先生は41歳。

あのころはそんなふうに感じたことはなかった。
けれどステレオサウンドを辞めて、三十年経つと、
みんな若かった、ということの実感が日増しに強くなってくる。

こんなふうに書いていると、若ければいいのか、と言う人があらわれそうである。
(その2)で、若ければいいなんていいたいのではない、と書いても、そう受けとる人がいたりする。

くり返すが、若ければいいわけではないし、歳をくっているからいいわけでもない。
ただただ、あのころはみんな若かった、このことだけを強調したいのと、
結局のところ、オーディオ業界もあのころは若かったといえるし、
あまり新陳代謝が行われなかったのか、
そのままみんなして同じように歳をとってしまった(老いてしまった)。

このことを実感している。
みんな一緒に歳をとってしまったから、気づきにくかったのか。

どうも私より下の世代は、オーディオに関心をもつ人は、急激に減っていったような気がする。

菅野先生からきいた話がある。
確か北海道の、若いオーディオマニアの話だった。

そのころ20代だったはずだ。
彼は、けっこう熱心なオーディオマニアらしい。
彼が行きつけのオーディオ店では、彼がいちばん若い常連客だった。

でも彼は、友人、知人に趣味がオーディオだ、とは言っていない。
バカにされることがわかっているから、らしい。

友人、知人にオーディオマニアだということを告白することは、
カミングアウトするようなもの、らしい。

Date: 6月 13th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(OTOTEN 2019・その2)

ステレオサウンド編集部も若かった──、
とつい書いてしまったが、
現編集部の年齢を知っているわけではない。

それでも私がいたころよりは平均年齢は上なのではないだろうか。
それに私がいたころ、平均年齢は少し下っていった。
SさんがHiVi編集部へ移り、Iさんが辞めたからだ。

それからJr.さん(Nさん)も辞めて、Nさんも辞めて、
一時期、黛さんと私、それに若いアルバイトの三人ということもあった。

そうなって平均年齢はさらに下っていた。

現編集長の染谷一氏の年齢は知らないが、
20代、30代ということはないだろう。
40代かな、と勝手に思っている。

奥付にある編集部員の名前で、知っているのは武田昭彦氏だけ。
彼は私より少し年下のはず。

編集協力の藤 康一郎氏の年齢は以前きいていたけれど忘れてしまった。
それでもそんなに若いわけではない。

副編集長の北川和広氏は、前編集長の小野寺弘滋氏のころからいる人だから、
やはり若くはないはずだ。

別に編集部の平均年齢が若ければいいなんていいたいのではない。
ただ、あの時代、みんな若かった、といいたいだけである。

SNSのコメントを読んでいて、このことを思い出していた。

Date: 6月 13th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(OTOTEN 2019・その1)

昨日と今日、SNSに、
オーディオ関係の、このニュースにコメントしているのをいくつかみかけた。

AV WATCHの記事にリンクしているが、
PHILE WEBでも取り上げられているから、読まれた方は多いだろう。

日本オーディオ協会の小川理子理事長が、
「今月末のOTOTENでは、今までのオーディオマニアの方だけでなく、若い人達にも参加して欲しい」
と発言したことへの、SNSでのコメントであった。

どうすれば、若い人たちがOTOTENの会場にやってくれるのか。
オーディオブームのころ、どの出展社も、
オーディオフェアでそんなことを考えていなかったのではないだろうか。

日本オーディオ協会も考えていなかったのではないだろうか。

それでもオーディオブームのころは、若い人たちが大勢、集まっていた。
何故なんだろうか。

ステレオサウンドで、1982年に始まった菅野先生のベストオーディオファイル。
ベストオーディオファイルに登場する人たちの年齢の若いことを、
それほど不思議には思わなかった。

20代、30代の人もけっこう登場しているし、
けっこうなオーディオシステムだったりする。

きちんと統計をとったわけではないが、
どちらかといえば若い人のほうが多い印象だ。

それから三十数年。
その人たちも50代、60代になっている。
この年代あたりが、いまのステレオサウンドの中心読者層になっている。

ベストオーディオファイルに登場する人たちだけが若かったのではない。
編集部も若かった。

私が編集部で働きはじめたのは、19の誕生日の約一週間前で、
ぎりぎり18だった。

私の七つ上に、Jr.さん(Nさん)がいた。
十上に、編集次長だった黛さんがいて、
同じ歳のNさんがいた。
ここまでが20代である。

それからSさんとIさんが、黛さんよりも少し上で30代前半だった(はず)。
1980年代のはじめ、ステレオサウンド編集部も若かった。

Date: 5月 5th, 2019
Cate: 世代

“NO MUSIC, NO LIFE.”に感じていること(その2)

人には人それぞれの優先順位がある。
オーディオマニアを自称している人であっても、優先順位は人それぞれである。

オーディオマニアであっても、オーディオが最優先事項であるわけはないだろう。
これも人それぞれである。
そんなことはわかっているつもりだ。

それでも、音楽に対する姿勢・態度、
オーディオ(音・響き)に対する姿勢・態度を、
世代によって……、と乱暴に語ってしまうことはしたくない──、
そう思いながらも、こんなことを書いている。

レコード(録音物)で音楽を聴く行為を、もっと大切にしてほしい、
そんな趣旨のことを言ったり書いたりする人はいる。

私もその一人だし、他にもいる。
けっこうなことだと、これについても思いながらも、
まったく違和感を覚えない、といえば嘘になる。

音を出しているスピーカーの前に坐っていれば、
傍目には聴いていることになる。
本人もそう思っているはずだ。

けれど、audio wednesdayで音を鳴らすようになって,三年以上が経つと、
「聴いていないだろう」と言葉として発したくなることがある。

みればわかるというか、なんとなく感じられる。
「あぁ、聴いていないなぁ」と。

これは聴き方が未熟とか、そんなことではない。
聴き方の姿勢・態度についてのことである。

これも人それぞれなのだろう。
私がそう感じていたとしても、
聴いている本人が「聴いている」と確信しているのであれば、
とやかくいうことではない。

けれど、私が「聴いていないなぁ」と感じてしまうのは、
そこに貪欲さを感じないからなのだろう。

Date: 5月 5th, 2019
Cate: 世代

“NO MUSIC, NO LIFE.”に感じていること(その1)

タワーレコードのキャッチフレーズである“NO MUSIC, NO LIFE.”。
タワーレコードによると、これはコーポレート・ ボイスであり、
「音楽があることで 気持ちや生活が豊かになる」という意味が込められているようだ。

直訳すれば、
音楽なくして人生なし、
音楽のない人生なんてありえない、とかになる。

“NO MUSIC, NO LIFE.”
そこに音楽への飢餓感が欠けてしまっているように、
最近感じてしまうことがある。

本来としては、そこには音楽への飢餓感が込められている、と思っている。
少なくとも、タワーレコードのキャッチフレーズとしてではなく、
英語の表現としての“NO MUSIC, NO LIFE.”には、そういうことが込められている、
と私は勝手に解釈している。

私は、私より上の世代の方たちが書かれたものに導かれてきたところがある。
伊藤先生は明治、五味先生は大正、
菅野先生、岩崎先生などのオーディオ評論家は、昭和一桁、
瀬川先生は昭和十年の生れである。

この人たちの書かれたものには、音楽への飢餓感、
飢餓感という言葉に抵抗を感じるのであれば、強い渇望とするが、
そういうものが感じられたし、読みとれた。

そういうものを読んで育ってきたわけだ。
昭和三十八年生れの私が、同じくらいの飢餓感を感じていたとはいわないが、
それでも、いまの時代のように好きな音楽、聴きたい音楽をすぐに聴けたわけではなかった。

いまの時代に、飢餓感なんていう表現を、音楽に対して持ち出してくのは、
時代錯誤と受け止められてもしかたない──、とは思っている。

それでも……、とどうしても思ってしまう。

Date: 4月 4th, 2019
Cate: 世代

とんかつと昭和とオーディオ(余談・その1)

先日、あるところにいたら、男性二人組のラーメンの会話がきこえてきた。
二人の会話に出てくるラーメン店は、私も以前食べたことがある。

普段利用することのない駅の近くにある店だから、
わざわざ、そのラーメン店だけを目的で行こうとまでは思わないものの、
近くに行く用事があったら、もう一度寄ってみたい(食べたい)と思う味である。

きこえてきた会話は、一人が、その店のラーメンを、すべてがものたりない、という評価に、
もう一人が、そうかなぁ、という内容だった。

きこえてくるものだから聞くともなしに聞いていると、
どうやら「ものたりない」と感じている一人は、
いわゆるラーメンライスが好物な人のようだった。

白いご飯に合うか合わないかが、彼のラーメンの判断基準の大きなところを占めている。
もう一人は、ラーメンだけを食べて、おいしいかそうでないかを基準としているようだった。

一人が「ものたりない」と感じているラーメンは、
そのラーメンをおかずに白いご飯を食べたくなるものではない。
あくまでもラーメン単体で食べて、おいしいと感じる仕上がりである。

会話をしていた二人はそのことに気づいていないのか、
どちらも納得していないように見えた。
つい横から、赤の他人の私が口出ししたくなる会話だったが、
こういうすれ違いのようなことは、音に関する会話でも生じているのかもしれないなぁ、
と聞きながら思っていた。

伊藤先生は、ステレオサウンド 42号「真贋物語」で、
《とんかつぐらいラーメンと共に日本人に好かれる食いものはない。何処へ行っても繁昌している。生の甘藍(きゃべつ)がこれほどよく合う料理もないし、飯に合うことは抜群である》
と書かれている。

ただしここでのラーメンは、白いご飯と合うことで挙げられているのではないだろう。
あくまでもとんかつが、飯に合うわけである。

白いご飯に合う、といえば、知人もそうである。
彼はステーキよりも焼肉が好きだ、という。
その理由は焼肉は白いご飯がすすむからだ、という。

彼は焼肉店に行くと、肉と一緒にご飯も頼む男である。
彼が焼肉を好む理由は、わかる。

焼肉でも、白いご飯をいっしょに食べたくなる店(味)がある。
肉だけを食べておいしい店も好きだし、ご飯といっしょに食べたくなる店も好きである。

Date: 3月 21st, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(埋められないのか・その2)

三年前に「あるスピーカーの述懐」の(その8)と(その9)を書いた。

そこで「手強い」スピーカーと「難しい」スピーカーの違いについて書いた。
この違いをわからなければ、私がいいたい「毒」についてはわかってもらえないような気がする。

その違いを理解するには、結局、「手強い」スピーカーと出逢い、
自分の手で鳴らしてみるしかない。

Date: 3月 21st, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(埋められないのか・その1)

ひとつ前の「AXIOM 80について書いておきたい(その17)」へのコメントがfacebookであった。

コメントの内容をここでは引用しないが、
「AXIOM 80について書いておきたい(その17)」での毒についての捉え方が、
読む人によって、こうも違ってくるのか、と感じている。

コメントをくれた人は若い。まだぎりぎり20代である。
そうなると、これまで聴いてきたオーディオ機器は、その若い人と私とでは大きく違っていよう。
数も違えば、内容も違う。
違って当然である。

けれど聴いてきた音によって、培われるところがある以上、
ここに世代の違いを感じてしまう。

世代の違いが生じるのが悪いわけでもないし、それだから面白いところもあるわけだが、
それでもオーディオの毒、音の毒、そういったことでの毒の捉え方そのものに違いを感じてしまうと、
こちらの文章力の未熟さは棚上げして、埋められないものがあるのを、感じてしまう。

これは「AXIOM 80について書いておきたい(その17)」だけではない。
EMTの930stについて、そのことを最近強く感じて書いている。

いくら930stについて書いても、ある世代より下の人たちは、
930stの音を聴いていない人が圧倒的に多い。

それでも930stというプレーヤーというモノは、中古であれば残っている。
けれど、そういう中古の930stを聴いて、どれだけきちんとしたところが伝わるのか、と思うからだ。

程度のいい930stを聴く機会は、稀であってもあろう。
それでも、どの時代に聴いてきたのか、どの年齢で聴いてきたのか、
そういったことによっても感じとれるものは違ってくるはずだ。

それに私と同世代であっても、930stを同じ場所で同じ音を聴いても、
人によってこんなに感じ方、捉え方が違うのか、と驚くことはある。

そういう驚きとは反対に、こうも一致するのか、という驚きも、またある。
だから一概に世代の違いだけを理由にしてはいけないことはわかっている。

それでも、毒の捉え方の違いは、また別のところにある問題のようにも感じている。