Archive for category 世代

Date: 3月 21st, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(埋められないのか・その2)

三年前に「あるスピーカーの述懐」の(その8)と(その9)を書いた。

そこで「手強い」スピーカーと「難しい」スピーカーの違いについて書いた。
この違いをわからなければ、私がいいたい「毒」についてはわかってもらえないような気がする。

その違いを理解するには、結局、「手強い」スピーカーと出逢い、
自分の手で鳴らしてみるしかない。

Date: 3月 21st, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(埋められないのか・その1)

ひとつ前の「AXIOM 80について書いておきたい(その17)」へのコメントがfacebookであった。

コメントの内容をここでは引用しないが、
「AXIOM 80について書いておきたい(その17)」での毒についての捉え方が、
読む人によって、こうも違ってくるのか、と感じている。

コメントをくれた人は若い。まだぎりぎり20代である。
そうなると、これまで聴いてきたオーディオ機器は、その若い人と私とでは大きく違っていよう。
数も違えば、内容も違う。
違って当然である。

けれど聴いてきた音によって、培われるところがある以上、
ここに世代の違いを感じてしまう。

世代の違いが生じるのが悪いわけでもないし、それだから面白いところもあるわけだが、
それでもオーディオの毒、音の毒、そういったことでの毒の捉え方そのものに違いを感じてしまうと、
こちらの文章力の未熟さは棚上げして、埋められないものがあるのを、感じてしまう。

これは「AXIOM 80について書いておきたい(その17)」だけではない。
EMTの930stについて、そのことを最近強く感じて書いている。

いくら930stについて書いても、ある世代より下の人たちは、
930stの音を聴いていない人が圧倒的に多い。

それでも930stというプレーヤーというモノは、中古であれば残っている。
けれど、そういう中古の930stを聴いて、どれだけきちんとしたところが伝わるのか、と思うからだ。

程度のいい930stを聴く機会は、稀であってもあろう。
それでも、どの時代に聴いてきたのか、どの年齢で聴いてきたのか、
そういったことによっても感じとれるものは違ってくるはずだ。

それに私と同世代であっても、930stを同じ場所で同じ音を聴いても、
人によってこんなに感じ方、捉え方が違うのか、と驚くことはある。

そういう驚きとは反対に、こうも一致するのか、という驚きも、またある。
だから一概に世代の違いだけを理由にしてはいけないことはわかっている。

それでも、毒の捉え方の違いは、また別のところにある問題のようにも感じている。

Date: 2月 7th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(昨晩のaudio wednesday)

昨晩のaudio wednesdayは、常連の方ふたりは仕事や旅行で参加されず。
21時半すぎに別の常連のKさんが来られたが、
それまでは私をいれて三人だった。

三人だったけれど、楽しかった。

喫茶茶会記に「John Coltrane & Johnny Hartman」のSACDがある。
借りて鳴らした。

一曲目から、いい感じで鳴ってくれる。
三人とも聴き入っていた。

1963年録音であるから、私と同じ歳(年)ということになる。
男三人が、50数年前の演奏(録音)をしんみりと聴いている。

「男三人で聴くのもなんですね……」といってみた。
「男三人だからいいんだよ」と返ってきた。
「女にはわからない音楽なんだから」とも。

こんなことを書くと、女性蔑視とか、あれこれいわれるだろうが、
昨晩、喫茶茶会記の空間で鳴り響いていた歌は、男のための音楽とおもえた。

三人の年齢は、20代、50代(私)、70代である。
世代ははっきりと違う三人、
世代だけではなく、いろんなことが違っている男三人が、
(たぶん)同じおもいで、ジョニー・ハートマンの歌を聴いていた。

オーディオは素晴らしい、とこういうときしみじみとおもう。

Date: 2月 3rd, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(一代限りなのか……)

オーディオは一代限りなのか……、と思うことが最近ある。
オーディオの○○とは、あえてしなかった。

ただただ、オーディオは一代限りなのか、と感じているからだ。

オーディオの輸入元であるエレクトリはヒビノ、ノアは完実電気の子会社となった。
マークレビンソンの輸入元であったRFエンタープライゼスは、いまはもうない。
あれだけ優れたオーディオ機器を輸入していたのに……、と思う。

それから川村電気研究所。
日本で最初にJBLを輸入し、ノイマン、EMT、KEF、UREIなども取り扱っていた。

これらの輸入元は個人会社といえる。
だから一代限りなのか……、と感じている。

後継者の問題といいかえられよう。
その意味では、次はあそこか、と勝手に予想している。

会社そのものがなくなることだってあろうし、
どこか大きな会社の子会社になってしまうことだって十分考えられる。

しかも次はあそこか、は一社だけではない。

一代限りなのは、輸入元だけではない、と感じている。

Date: 1月 27th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(その表現・その5)

家族にとっては、新しい生命の誕生は、確かにOnly oneである。
けれど「世界の一つだけの花」の歌詞は、《もともと特別なOnly one》である。

Only oneの前に「特別な」がつく。
「特別な」がつく以上、
マーク・トウェインがいうように《なぜ生れてきたかを見出し》てこそのである。

マーク・トウェインの
“The two most important days in your life are the day you are born and the day you find out why.”
あなたの人生で最も重要な二つの日は、あなたが誕生した日と、なぜ生れてきたかを見出した日である。
このことばを知らない人であっても、
《もともと特別なOnly one》という歌詞に、素直に首肯けない人は少なからずいたのではないのか。

《もともと特別なOnly one》、
そんなことあるわけないじゃないか──、
そんな声ならぬおもいが、
「フツーにおいしい」とか「フツーにかわいい」というところに滲んできているように感じる。

フツーと特別は、いわゆる対語の関係である。

《もともと特別なOnly one》、
この歌詞で一時は慰められたとしても、
一歩社会に出れば、そうじゃない……、とは肌で感じられるものだ。

《なぜ生れてきたか》を見出せていないことを自覚している人もいれば、
見出せていると錯覚している人もいよう。

私だって、錯覚しているだけなのかもしれない。
それゆえ《もともと特別なOnly one》のところに反撥しているのかもしれない。

それに見出せている人よりも、
「世界の一つだけの花」をきいてなぐさめられたり、元気をもらった、といえる人のほうが、
ずっとシアワセかもしれない。

そういえばいま書店に並んでいる文藝春秋に、
「SMAPと平成に最も愛された歌『世界に一つだけの花』が教えてくれた」というタイトルの、
槇原敬之、水野良樹の対談が載っている。

電車の吊り広告で知った。
読む気はない。

文藝春秋の読者層は、かなり高いと思っている。
たぶん高いはずだ。
そんな文藝春秋が、2002年にリリースされた「世界の一つだけの花」を取り上げている。

「世界の一つだけの花」は、広い年齢層に受け入れられているということなのか。

Date: 1月 8th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(その表現・その4)

フツーにおいしい、とか、フツーにかわいい、とか、
そんな表現が一般的に使われるようになったのはいつからなのだろうか。

インターネットで検索すると、2008年頃には使われていたようである。
どこから広まってきたのだろうか。
テレビで、誰かが使ったからなのか、
それともまったく別のところから使われるようになったのか。

この「フツー」が生れてきた背景には、
SMAPの「世界の一つだけの花」が関係してきているようにも感じている。

歌詞に《もともと特別なOnly one》とある。
私は、この歌詞をきいて、なんとバカな……、と思った人間だ。

「世界の一つだけの花」という歌を否定する気はないし、
この歌が好きという人のことをとやかくいうつもりはない。

ただ《もともと特別なOnly one》には、反撥したい。
歌詞の、この部分に救われた、とうい人がいるという話もきいている。

本当だろうか、と訝るとともに、本当にそういう世の中になってきたのか……、とも思う。

私は、ここでも、マーク・トウェインの、別の言葉を思い出す。

“The two most important days in your life are the day you are born and the day you find out why.”
あなたの人生で最も重要な二つの日は、あなたが誕生した日と、なぜ生れてきたかを見出した日である。

《もともと特別なOnly one》は、
重要な二つの日のうちのひとつだけの世界にしか思えない。
なぜ生れてきたかを見出してこそ、オンリーワンのはずなのに、
ただ誕生してきた日、その一つの日だけで《もともと特別なOnly one》とは、
どうやってもそうは思えない。

Date: 12月 17th, 2018
Cate: 世代

世代とオーディオ(その表現・その3)

別項『「新しいオーディオ評論」(その12)』で、
 ①替えの利かない〝有能〟
 ②替えの利く〝有能〟
 ③替えの利かない〝無能〟
 ④替えの利く〝無能〟
と書いた。

これを正方形の四つのマス目に並べる。
 ②①
 ④③
こんなふうになる。

上段の①と②は有能、下段の③と④は無能、
左側の①と③は替えの利かない、右側の②と④は替えの利く、となる。

替えの利く利かないは、別の言葉にすれば、特別と普通である。
①と③が特別、②と④が普通。

こう考えたとき、(その2)で書いているフツーが何を指しているのかがわかった。

フツーにかわいい、とか、フツーにおいしい、とか、
そんな表現を聞くようになった。

なぜおいしい、かわいいにフツーをつけるのかが理解に苦しむところだった。
けれど替えの利く利かないをここにあてはめると、
フツーにおいしい、とか、フツーにかわいいなどは、
いわゆる替えの利くおいしさ、かわいらしさということなのだろう。

フツーに、という表現を使っている人たちが、そこまで意識しているのかどうかはわからないが、
無意識に、そういうことだ、と感じとっているのだとしたら、
この「フツーに」はなかなかどころか、そうとうに興味深い。

Date: 10月 27th, 2018
Cate: ヘッドフォン, 世代

世代とオーディオ(スピーカーとヘッドフォン・その3)

今日から開催のヘッドフォン祭に行ってきたから、というわけではないし、
以前から書こうと思っていたことのひとつが、
いま別項で書いている再生における肉体の復活には関することである。

どんなにヘッドフォン(イヤフォン)に優れたモノをもってきても、
ヘッドフォンアンプ、D/Aコンバーターを良くしていっても、
プログラムソースを、どんどんハイレゾ化していったも、
そこでの音に、肉体の復活を、聴き手は錯覚することができない。

少なくとも私は、できない。
これから先、技術は進歩していくことだろう。
それでも、肉体の復活を、ヘッドフォンでの再生音に感じることはない、といえる。

だからヘッドフォンはスピーカーよりも劣る、といいたいのではなく、
ヘッドフォンでばかり音楽を聴いて育った聴き手は、
スピーカーからの再生音にも、肉体という夾雑物のない音を求めていくのか。

Date: 10月 6th, 2018
Cate: 世代

世代とオーディオ(その表現・その2)

「フツーにかわいい」と「かわいい」の違いはあるのだろうか。

かわいい(kawaii)について書かれたものが、川崎先生のブログに、ある。
アニメキャラクターとそのグッズにあるkawaii」、「kawaiiからわび・さびまでは相当に遠い」などがある。

「フツーにかわいい」と「かわいい」。
何が違うのか。

単に世代の違いだけなのか。
個人的には「フツーにかわいい」とはまず使わない。

けれど「フツーにかわいい」はよく耳にする。
変らないの……、
表現が世代によって違うだけなのか、と思いつつも、
「フツーにかわいい」と「かわいい」について考えていると、
それは無垢なところを持っているかどうかではないか、と思うようになってきた。

無垢なところがあるからこその「かわいい」であって、
無垢なところを持たない、表面だけでしかないものが「フツーにかわいい」なのかもしれない。

「フツーにかわいい」をよく使う人が、
「かわいい」と「フツーにかわいい」を使い分けているのかどうかは知らない。

使い分けているとしたら、無意識のうちに、
無垢なところがあるのかないのかを見極めてのことかもしれない──、とも思っている。

Date: 7月 27th, 2018
Cate: 世代

世代とオーディオ(ゲーテ格言集より)

《才能は静けさの中で作られ、性格は世の激流の中で作られる。》

ゲーテ格言集(新潮文庫)に、そう書いてある。
別項をほぼ毎日書いていて、このことを実感しているのは、
書くことによって、私のなかにバイアスが形成されているからなのか、
それともゲーテの言葉が真実だからなのか、
どちらにしても才能も性格も、そうやって作られるのだろう。

Date: 7月 18th, 2018
Cate: 世代

とんかつと昭和とオーディオ(その9)

とんかつが好物だという人と話をしていて、
カツカレーのことを話題にすると、途端に不機嫌な顔をする人がいる。

とんかつもカレーも好物だけど、カツカレーはいけません、とそういう人はいわれる。
とんかつの美味しさをカレーをかけることで台無しにするし、
カレーの美味しさをとんかつのころもが台無しにする、と。

確認しなかったけど、きっと、こういう人はカツ丼も認めないんだろうな、と思ったりする。

カツカレーもカツ丼も、私は好きである。
カツカレーがダメだ、という理由はわからないでもない。
でも、食べてみよう、と言いたくなる。

すべてのカツカレーが美味しいわけではないし、
その人はたまたまひどいカツカレーに出合っているだけかもしれない。

とんかつが美味しい店だからと、カツカレーも期待していると、意外に期待外れだったりする。
反対の例も少なくない。
それでもカツカレーがメニューにあると、一度は食べている。

カツカレーはB級グルメなんだな、と思いつつも、
そういえば数年前に3500円のカツカレーのことが話題になっていた。
こうなるとB級グルメとはいえなくなる。

それだからこそ、私としてはB級グルメの範疇としてのカツカレーが食べたい。
3500円のカツカレーはさしずめA級グルメ、
3500円よりも高価なカツカレーも探せばありそうだ。
そうなると、A級の上のS級グルメとなるのか。

そんなカツカレーを食べる機会はないと思っているが、
何かの機会に食べれば、美味しいと思うに違いない。

それでもカツカレーはやっぱりB級グルメであってほしい、と思うし、
B級とランク分けするからこそ、A級とかS級とかにつながっていくわけで、
別の言い方はないのかと思っていると、下司味というのがあるのを知る。

古川緑波の「下司味礼讃」。

Date: 7月 17th, 2018
Cate: 世代

とんかつと昭和とオーディオ(その8)

とんかつとご飯。
こんなことを書いているけれど、
もっともとんかつを食べていた20代のころ。

いいかえれは浅草の河金に頻繁に通っていたころ、
いわゆるとんかつ定食的な食べ方はしていなかったことを思い出した。

とんかつと豚汁と白いご飯の組合せ、という意味でのとんかつ定食的である。
河金には、いわゆるとんかつ定食はなかった、と記憶している。

とんかつを単品で頼んで、白いご飯を頼む人もいれば、
20代の私のように、ご飯物(つまりオムライスとかカレーライス)を頼む客もいた。

いま思い返しても、河金で白いご飯を食べた記憶がまったくない。
河金が、とんかつ屋ではなく、洋食屋だったことも関係してのことか。

河金の次によく食べていたのは、銀座の煉瓦亭。
ここでも白いご飯を食べた記憶がない。

とんかつと白いご飯の組合せは、やはりとんかつ屋での食事となる。
20代の、あのころは、とんかつの味ももちろん重要だったけれど、
それ以上に白いご飯よりも、そうでない炭水化物を好んでいた。

いまは、むしろとんかつと白いご飯である。
いまもし河金があったなら(浅草の本店はないが支店にあたる河金はある)、
とんかつと白いご飯かな、と思う。

Date: 7月 12th, 2018
Cate: 世代

とんかつと昭和とオーディオ(その7)

友人(オーディオマニアでもある)のAさんと、
先月も今月も、とんかつを食べにいっていた。

とんかつ屋で飲み、あれこれ食べて、最後に定食。
そしてデザート、コーヒーというのが、二人の間で流行っている。

そんなことができるとんかつ屋は、東京でもそう多くはないはずだ。
それに、あまり遠くに出掛けるのも億劫だし。

とんかつ屋も、やはりブームのようである。
つい先日も、二軒のとんかつ屋に行列ができていた。
どちらも予定していた店である。

飲んで食べてデザートまで、という店は、
最高のとんかつの提供を掲げている店ほどではない。

気軽に入れる店で、美味しい店だから繁盛するのもわかる。
最高のとんかつの提供を掲げている店も、行列はすごいのは知っている。

長い行列に並んでまで、という気持は二人ともない。
入ろうとしていたとんかつ屋が行列だったから、違う店に入り少しばかり飲み食いして、
行列がなくなったころをみはからって、ふたたびとんかつ屋に向う二人である。

東京で話題になっている最高級のとんかつ屋にはまだ行っていない。
そこでのとんかつがどういうものなのか、食べてないのだから何も言えないのだが、
先日Aさんと二人で食べたとんかつは、ご飯とよく合うのだ。

これは嬉しい驚きである。
とんかつだけを食べるよりも、ご飯といっしょに食べたくなるとんかつである。

もしかすると、最高級のとんかつ屋のとんかつは、
とんかつだけで食べた方が美味しいのかもしれない……、
そんなことを勝手に思いながら味わっていた。

今回食べたとんかつ屋のとんかつよりも、もっと美味しいとんかつはあるだろうし、
ご飯にしても、もっと美味しいご飯を出すところはあるはずだ。

けれど、とんかつとご飯をいっしょに食べての美味しいは、
個々のとんかつ、ご飯が美味しければ、それで味わえるとはかぎらない。

スピーカーとアンプの組合せは、そこはまったく同じである。

伊藤先生が《ラーメンと共に日本人に好かれる食いもの》とされるとんかつは、
ご飯と合うからこその《日本人に好かれる》わけだろう。

Date: 5月 7th, 2018
Cate: ヘッドフォン, 世代

世代とオーディオ(スピーカーとヘッドフォン・その2)

先日、ヘッドフォンで比較試聴する機会があった。
ヘッドフォンの比較試聴ではない。

いわゆるPCオーディオ(それにしても他にいい表現はないのか)での、
再生ソフトによる音の違いを、ヘッドフォンで比較試聴した。

差はある。
ここで書きたいのは、再生ソフトによる音の違いについてではなく、
ヘッドフォンでの比較試聴について、である。

ヘッドフォンゆえによくわかる違いもあるのだろうが、
ふだんヘッドフォンを聴かない私は、
ヘッドフォンゆえによくわからない違いがあることの方が気になってきた。

ヘッドフォンで聴きながら、ここはスピーカーで聴いたら、こんな感じになって、
もっと違いがはっきりでるんじゃないのか、とか、
ヘッドフォンで聴いているがゆえに、微妙なところで、もどかしさを感じたりもした。

このへんは慣れなのだろう、とは思うが、
それでもどこまでいってもスピーカーとヘッドフォンは、はっきりと違う。

スピーカーはステレオフォニックであり、ヘッドフォンはバイノーラルである。
この決定的な違いが、比較試聴に及ぼす影響は小さくはない。

いいヘッドフォン(イヤフォン)を求めて、
ヘッドフォン(イヤフォン)の比較試聴をするのに、もどかしさはまったく感じない。
だが、ヘッドフォン(イヤフォン)で、比較試聴をするとなると、
ヘッドフォン慣れしていない私は、少しばかりを時間を必要とすることになるだろう。

ということはこれまでずっとヘッドフォン(イヤフォン)で聴いてきている人が、
逆の立場におかれたら、どう感じるのだろうか。

つまりスピーカーでの比較試聴をやってもらったら、
違いがわかりにくい、ということになるのか。

Date: 4月 18th, 2018
Cate: 世代

世代とオーディオ(その表現・その1)

「菅野録音の神髄」のためにステレオサウンド 47号を、開いている。
47号の特集はベストバイで、
瀬川先生が「オーディオ・コンポーネントにおけるベストバイの意味あいをさぐる」を書かれている。

こんなことを書かれている。
     *
 これもまた古い話だが、たしか昭和30年代のはじめ頃、イリノイ工大でデザインを講義するアメリカの工業デザイン界の権威、ジェイ・ダブリン教授を、日本の工業デザイン教育のために通産省が招へいしたことがあった。そのセミナーの模様は、当時の「工芸ニュース」誌に詳細に掲載されたが、その中で私自身最も印象深かった言葉がある。
 ダブリン教授の公開セミナーには、専門の工業デザイナーや学生その他関係者がおおぜい参加して、デザインの実習としてスケッチやモデルを提出した。それら生徒──といっても日本では多くはすでに専門家で通用する人たち──の作品を評したダブリン教授の言葉の中に
「日本にはグッドデザインはあるが、エクセレント・デザインがない」
 というひと言があった。
 20年を経たこんにちでも、この言葉はそのままくりかえす必要がありそうだ。いまや「グッド」デザインは日本じゅうに溢れている。だが「エクセレント」デザイン──単に外観のそればかりでなく、「エクセレントな」品物──は、日本製品の中には非常に少ない。この問題は、アメリカを始めとする欧米諸国の、ことに工業製品を分析する際に、忘れてはならない重要な鍵ではないか。
     *
 ひと頃、アメリカのあるカメラ雑誌を購読していたことがある。毎年一回、その雑誌の特集号で、市販されているカメラとレンズの総合テストリポートの載るのがおもしろかったからだ。そのレンズの評価には、日本ではみられない明快な四段階採点方の一覧表がついている。四段階の評価とは 1. Excellent 2. Very Good 3. Good 4. Acceptable で、この評価のしかたは、何も右のレンズテストに限らず、何かをテストするとき、あるいは何かもののグレイドをあらわすとき、アメリカ人が好んで用いる採点法だ。
 私自身の自戒をこめて言うのだが、ほかの分野はひとまず置くとしてまず諸兄に最も手近なオーディオ誌、レコード誌を開いてごらん頂きたい(もちろん日本の)。その中でもとくに、談話または座談の形で活字になっているオーディオ機器や新譜レコードの紹介または批評──。
 ちょっと注意して読むと、おおかたの人たちが、「非常に」あるいは「たいへん」といった形容詞を頻発していることにお気づきになるはずだ。
 むろん私はここでそのあげ足とりをしようなどという意味で言っているのではなく、いま手近なオーディオ誌……と書いたが少し枠をひろげて何かほかの専門誌でも総合誌あるいは週刊誌や新聞でも、似た内容の記事を探して読めば、あるいは日常会話にもほんの少しの注意を払ってみれば、この「非常に」「たいへん」あるいは4とても」といった、少なくとも文法的には最上級の形容詞が、私たちの日本人の日常の会話の中に、まったく何気なく使われていることが、まさに〝非常に〟多いことに気付く。
 この事実は、単に言葉の用法の不注意というような表面的な問題ではなく、日本という国では、もののグレイドをあらわす形容が、ごく不用意に使われ、そのことはさかのぼって、ものを作る姿勢の中に、そのグレイドの差をつけようという態度のきわめてあいまいな、あるいは本当の意味でのグレイドの差とは何かということがよくわかっていないことを、あらわしていると私は考えている。さきにあげたジェイ・ダブリン教授の言葉も、まさにこの点を突いているのだと解釈すべきではないか。
     *
47号は1978年だから、40年前だ。
《ちょっと注意して読むと、おおかたの人たちが、「非常に」あるいは「たいへん」といった形容詞を頻発していることにお気づきになるはずだ》
とある。

いまはどうだろう。
フツーにうまい、とか、フツーにかわいい、といった表現が頻繁に使われている。