Archive for 10月, 2017

Date: 10月 31st, 2017
Cate: ワーグナー

ワグナーとオーディオ(その4)

ステレオサウンド 47号掲載「イタリア音楽の魅力」から、
ワグナーとヴェルディのオペラについて語られているところを引用しておく。
     *
河合 そういえますね。たとえばイタリアのカンツォーネでいうと、もちろん歌い手さんがうたう旋律もすばらしいんだけれど、その伴走にもすばらしい対旋律が、みごとなアレンジで聴かれるんです。そこで、これは歌ぬきでもいけるんじゃないかと思って、同じアレンジャーにインストルメントだけのアレンジを依頼すると、出来上ったものがひとつとしてよくない。という経験があるんですよ。
 結局 歌い手の旋律という主役をもりたてる、脇役としてのアレンジはとてもすばらしいのに、それを主役にしようとするととたんに輝きも魅力もなくなってしまうわけです。イタリアというのは、やっぱり歌の国だし、歌の国民だなと、つくづく思いましたね。
 それにひきかえ、お隣のフランスではあれだけすばらしいオーケストラのアレンジが生み出されているわけでしょう。
 ポール・モーリアに代表されるようにね。
河合 ええ。主役をオーケストラがとっても、あれだけすばらしいものになる。ところがイタリアでは、どうもうまくいかないんですよ。
黒田 そのことはポピュラーの分野だけにかぎらないんですよ。たとえばオペラでいえば、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の「前奏曲と愛の死」の「愛の死」の部分は、ほんらいはうたわれるんだけど、オーケストラだけで演奏されることも多いでしょう。ところがヴェルディのオペラでは、声をはずしてしまってオーケストラで演奏されるかといえば、まずそういうことはない。たとえば『オテロ』の、オテロとデスデモーナの二重唱は、歌のパートも、バックも、すばらしくよく書けていて、たいへん美しいけれど、そこから声をとってしまって、それでも十分にたんのうして聴けるかというと、そうじゃあないんですね。やっぱり声を聴きたくなるわけで、そのへんがワーグナーとはちがうんですよ。
 だから、レコードで『ワーグナー管弦楽曲集』というものが成り立つんだけど、ヴェルディのほうは『序曲/前奏曲集』というものしか成り立たないようなところがあるんです。いいかえると、ヴェルディの音楽の基本には、やはり〈歌〉があるということがいえるように思います。
     *
読んで気づいた、
たしかにワーグナーには管弦楽曲集のレコードがあるのに、
ヴェルディでは序曲/前奏曲集であって、ヴェルディの管弦楽曲集はないことに。

そしてイタリアオペラのハイライト盤は数多くつくられていても、
ワーグナーのハイライト盤は、ひじょうにつくりにくい、ということに語られていく。

Date: 10月 31st, 2017
Cate: スピーカーとのつきあい

スペンドールのBCIIIとアルゲリッチ(その11)

「コンポーネントの世界」からはあとひとつだけ、
岡先生の発言を引用しておく。
     *
 いやそうではなく、ぼくの場合は欲が深いというか、なんでも聴いてやれという主義でずっときたからですよ。そういう考え方は、いい音楽なんてレコード以外では聴けなかったころからレコードを聴いていたために、ひとりでに身についてしまったんでしょうね。だからこのレコードに他のレコードと違うところがあるとすれば、それはなんだろう。そのよさはどこにあるんだろう。どんなレコードからだって、ぼくはそういうものを発見したいのです。いいかえると、自分が一歩退いたかたちで、受け身のかたちで、レコードを聴いているんです。瀬川さんはそうてはなく、ずっとアクティヴなレコードに対する考え方をもっていると思いますね。
     *
レコードの聴き手として、岡先生と瀬川先生は、その姿勢に違いがある。
瀬川先生は、菅野先生がレコード演奏、レコード演奏家という表現を使われる以前から、
レコードを演奏する、という表現を使われていた。

「コンポーネントの世界」でも、
菅野先生のレコード演奏家論に通じる発言もされている。

一歩退いて受け身のかたちでレコードを聴かれる岡先生、
ずっとアクティヴなレコードに対する考え方をもって、レコードを聴かれる瀬川先生。

スペンドールのBCIIIの、岡先生と瀬川先生の評価は、
そのことを抜きにしてしまっては、オーディオ評論のおもしろさがわかってこないし、
BCIIIという、一度も聴いたことのないスピーカーのことを、
こうやって書いている理由も、そこである。

Date: 10月 31st, 2017
Cate: スピーカーとのつきあい

スペンドールのBCIIIとアルゲリッチ(その10)

「コンポーネントの世界」の座談会での試聴には、下記のスピーカーが登場している。

ボザーク B410 Moorish
アルテック A7-500
タンノイ Rectangular GRF
JBL 4320
ダイヤトーン 2S305
QUAD ESL
タンノイ IIILZ
アコースティックリサーチ AR3a
ビクター SX7
ヤマハ NS690
ダイヤトーン DS303
KEF Model 104
ブラウン L810
JBL L26
フェログラフ S1

「コンポーネントの世界」から引用したいところはいくつもあるが、
すべてを引用していると、脱線しかねないし、
瀬川先生の著作集「良い音とは、良いスピーカーとは?」といまも入手可能だし、
そこで全文読めるので、最少限にしておきたい。
     *
瀬川 ぼくのさっきの居直りといういいかたを、岡さんにそう受けとられたのだったら、こんどはほんとうに居直っちゃう。つまりぼくは、こまかく分析してみると岡さんと同じなのですよ。岡さんがぼくと何年も付き合ってくださっているのに、ぼくをいちばん誤解している面だと思うのは、たとえばスピーカーで意見が対立したときに、岡さんはいつも、いちばんこれが自然に再生できる、というような言葉で反論なさるでしょう。ぼくだって、ぼくの好きなスピーカーがいちばん自然だと思っているんです。すごく挑発的ないいかたをすると、ARの音なんて、レコード制作者の意図した音とまったく違うとさえ思っているわけ。
 そこの違いを、ぼくのほうからいいますと、ぼくはまったく瀬川さんと反対のことを考えているわけなのですね。つまりあなたがKEFで鳴っている音をいい音だという、KEFで鳴っている音をいい音だという、ぼくはそれは間違いだと思っている。
瀬川 そうでしょう。ぼくだってやはり同じことを思っているわけ。だからそこうずっとつきつめてゆくと、さっきの頭の中のイコライザー論になってしまう……。
(中略)
瀬川 そこでいまいい議論になったと思うのですが、じつはぼくも岡さんが思っていらっしゃるほど、そういう聴き方をしているのではないのです。いろいろなスピーカーで、チェンバロの音やファゴットの音の出方を聴いていて、ぼくはARのときにすごくいらいらしました。もちろんフェログラフはよくなかったけれど、他のわるいスピーカーはもちろん、ARのときになにかいらいらしたんです。それがKEFにかえたときに、ああ、ぼくにはこれがちょうどいいバランスで出ているなと思ったんですね。だからぼくだって、けっしてうわずみだけを聴いているわけではない。ぼくにとっては、ARのバランスだとどうもだめなのです。
 ぼくはARの場合、同じピッチで鳴っているファゴットとチェロとコントラバスのセパレーションが、とにかくわかるのですね。
瀬川 だから、岡さんの耳のイコライザーAR向きにできているのですよ。ところがぼくのイコライザーはARではぜんぜん動かなくなるのです。ARだと、もやもやもやっと聴こえてしまうわけ。
     *
これはほんの一例であって、
岡先生と瀬川先生のオーディオ機器の評価、
特にスピーカーシステムにおいては、こうなることは珍しいわけではない。

Date: 10月 31st, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その16)

ステレオサウンドの創刊が1966年。
ここをオーディオ雑誌の始まりとして、
51年間に多くの人がオーディオ雑誌に文章を書いてきている。

いったい何人になるのかはわからない。
多くの人が書いてきた、としかいえない。

その中で、○○教といわれているのは、長岡鉄男氏だけではないだろうか。
長岡鉄男氏が教祖で、その読者が信者である。

長岡教の信者が、教祖様の文章を読む以上に、
私は、他の人の文章を読んできた、といえる。

けれど、○○教の信者だとは思っていない。
五味先生の文章をそれこそ熱心に読んできたわけだが、
五味教なんてものはないし、五味教の信者とも思っていない。

五味先生を教祖だとおもったことは一度もない。
五味先生だけではない。

瀬川先生の文章も、熱心に読んできた。
けれど瀬川教はないし、瀬川教の信者でもない。

同じことは他の人にもいえる。
これは私だけのことではないはずだ。

五味先生の文章を熱心に読んできた人は、
私より上の世代には多くいる。

その人たちが五味教の信者かというと、そうではないはずだ。

長岡鉄男氏だけが教祖と呼ばれている。
その熱心な読者は、自身のことを長岡教の信者ともいう。

Date: 10月 30th, 2017
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その35)

オーディオの想像力の欠如した人は、「変る」は時として「留まる」と同義語であることに気づかない。

Date: 10月 30th, 2017
Cate: スピーカーとのつきあい

スペンドールのBCIIIとアルゲリッチ(その9)

岡先生が、ステレオサウンド 61号に書かれている。
     *
 とくに一九七五年の「コンポーネントステレオの世界」で黒田恭一さんを交えた座談会では、徹底的に意見が合わなかった。近来あんなにおもしろい座談会はなかったといってくれた人が何人かいたけれど、そういうのは、瀬川冬樹と岡俊雄をよく知っているひとたちだった。
     *
1975年の「コンポーネントの世界」の座談会は読みたかった。
といってもバックナンバーは手に入らず、
読むことができたのはステレオサウンドで働くようになってからだ。
といっても二ヵ月ほどしか経ってない。
(岡先生は「コンポーネントステレオの世界」と書かれているが、
1975年版は「コンポーネントの世界」で、’76年以降「コンポーネントステレオの世界」となる)

おもしろかった。
岡俊雄、黒田恭一、瀬川冬樹、三氏の座談会は、
「コンポーネントステレオの世界」’76年度版でも行われている。

「コンポーネントの世界」でのタイトルも、
’76年の「コンポーネントステレオの世界」でのタイトルも、
「オーディオシステムにおける音の音楽的意味あいをさぐる」である。

この座談会で、「頭の中のイコライザー」という表現が出てくる。
瀬川先生の発言の中に、出てくる。
     *
たとえばこの試聴のようにいろんなスピーカーを聴いてみると、それぞれ違った音の鳴り方をします。その音が、われわれ三人の耳もとまでは、客観的に違った音色でとどいているんだけれど、それぞれの頭の中に入ってしまうと、岡さんがARで聴かれた音と、ぼくがKEFで聴いた音とが、じつは同じような音になっているのではないのか、という気がしてならないわけです。極論すれば、ひとりひとりの頭の中にイコライザーがあって、それが人によってAR向きにできていたり、JBL向きにできていたりしているんではないのか。したがって耳もとまできた音と、それぞれの人の頭の中に入った音とは、じつは全然違ったものになっているのではないのかという気がするんです。しかも、頭で聴きとった音をつぎに口でいい表わしてみると、たとえばどんな音がいいのかといったことをいうとき、いい音というのがいいにくいとしたら、少なくともどんな音は避けたいということを言葉でいってみると、三人ともあまり違わないのではないか。そんな気がしてなりませんね。
     *
この座談会は、「良い音とは、良いスピーカーとは?」で読むことができる。

Date: 10月 30th, 2017
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その34)

オーディオの想像力の欠如した人は、前に進めない。
貫けないからだ。

Date: 10月 29th, 2017
Cate: 組合せ

スピーカーシステムという組合せ(その6)

スピーカーシステムにおけるクロスオーバー周波数とカットオフ周波数は、
必ずしも同じ値とは限らない。

クロスオーバー周波数が仮に800Hzのスピーカーシステムの場合、
ウーファーのカットオフ周波数もトゥイーターのカットオフ周波数も800Hzが、
いわば教科書的設計であるが、
一方でウーファーのカットオフ周波数を低域側に下げて、
トゥイーターのカットオフ周波数を高域側に上げても、
クロスオーバー周波数を800Hzにすることはできる。

こういう手法を、クロスオーバー周波数付近の特性を薄くする、という。
ウーファーとトゥイーターの、クロスオーバー周波数付近での重なりぐあいが、
こうすることで少なくなる(薄くなる)からで、昔からある手法のひとつである。

私は井上先生から、この話をきいている。
この手法が有効なのは、ウーファーがコーン型で、
トゥイーターがホーン型のように、大きく違ってくるときである。

ウーファー、トゥイーターともにコーン型であっても、
振動板の素材が大きく違っていたり、口径差が大きい場合にも、
つながりがスムーズになる傾向がある。

上下帯域を受けもつふたつのユニットの重なりぐあいが多く(厚い)ほど、
ふたつのユニットの音の混ざりぐあいはよくなりそうだ、と中学生のころは、
確かめもせずに、そんなふうに考えていたこともある。

井上先生の話、それに自分でやってみると、中学生のころの予想とは逆だと気づく。
重なりぐあいを厚くすると、実際の音の印象は反対になってしまう。
つまり聴感上はクロスオーバー付近の音が薄く感じてしまう。

Date: 10月 29th, 2017
Cate: 岩崎千明

537-500と岩崎千明氏(その2)

ステレオサウンド 35号の特集は、ベストバイ。
この35号がいまも続いているベストバイの第一回である。

35号のベストバイの選者は、
井上卓也、岩崎千明、上杉佳郎、大塚晋二、岡俊雄、菅野沖彦、瀬川冬樹、
三井啓、山中敬三の九氏(大塚、三井の両氏はテープデッキのみ)。

選者もがらっと変ってしまったが、
ベストバイ・コンポーネントのジャンルにも変更がある。
35号ではスピーカーユニットのベストバイも選ばれている。

第二回の43号では、スピーカーユニットはなくなっているから、
35号だけのベストバイ・コンポーネントであった。

スピーカーユニットは、
フルレンジ、ウーファー、スコーカー、ドライバー、ホーン、トゥイーターは細分化されている。

スピーカーユニットのベストバイは、43号でもやってほしかった、と思う。
いまの時代、スピーカーユニットのベストバイはやれていことはないだろうが、
無理が出てくるであろう。

スピーカーユニットのベストバイは、
スピーカーシステムのベストバイと併せて読むことで、おもしろさは増す。

35号は1975年に出ている。
このころ、537-500はJBLのホーンのラインナップからなくなっていた時期のはずだ。
HL88の登場は、少し後になるため、
537-500(HL88)は35号には登場していない。

ホーンのところでは、1217-1290と2305が、
スコーカーのところではLE175DLHが選ばれている。

1217-1290といっても、いまではどんなホーンなの? という人の方が多い。
1217-1290はLE175DLHのホーン/レンズのことである。

2305は1217-1290のプロフェッショナル版で、ホーン長が2.6cmほど長くなっている。
当時の価格は、1217-1290が19,300円、2305が24,300円(いずれも一本の価格)。

1217-1290は井上卓也、岩崎千明、上杉佳郎の三氏、
2305は岩崎千明、菅野沖彦、瀬川冬樹の三氏、
LE175DLHは井上卓也、上杉佳郎、菅野沖彦、山中敬三の四氏によって選ばれている。

このことからわかるのは、蜂の巣と呼ばれる音響レンズを、
岩崎先生は認めてられている、ということであり、
実際175DLHはD130と組み合わせて、Harknessにおさめられていたのだから。

ステレオサウンド 38号の95ページの写真にも、1217-1290が写っている。

Date: 10月 29th, 2017
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その33)

オーディオの想像力の欠如した人は、貫くことができない。

Date: 10月 29th, 2017
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その32)

オーディオの想像力の欠如した人ほど、変ろうとする。

Date: 10月 29th, 2017
Cate: 使いこなし

丁寧な使いこなし(その3)

「使いこなし」のテーマで「他者のためのセッティング・チューニング」を書いた。
ここでの音の判断は、私ではなく、ブラジル音楽のディスクを持ってこられたHさん。

どこかをいじる。
その音をHさんが聴いての感想をきいて、次のことにうつる。

まず最初にいじったのは、トーンコントロールだったことは書いている。
このトーンコントロールの調整のときに何を考えていたかというと、
次の手をどうするかだった。

トーンコントロールをいじっている段階では、当然音は出ていない。
いじった音をHさんが聴いての感想を受けての、次の手を考えるのではなく、
Hさんの感想を受けて、すぐに次の手を実行できるように、いくつか考えている。

どこかをいじる。
その結果出てきた音を聴いて、次をどうするかを考える。
こんなふうにオーディオの調整・使いこなしを行われているのではないだろうか。

いじっているときに、次の手をいくつか考えておくやり方よりも、
音を聴いて、次の手を考えるのは、その分時間がかかる。

いじっているときに、次の手をいくつか考えていれば、
出てきた音を聴いて、すぐに次の手を選択し聴き終るとともに、次の手を試せる。

オーディオの調整・使いこなしは、ひとつふたつをいじってオシマイではなく、
いくつものことを限られた時間内にやっていく。

聴いてから次の手を考えて試して……、
時間をその分必要とする、こちらのやり方のほうを丁寧な使いこなしと思う人もいるだろう。

いじっているうちに次の手を考えて、すぐに次の手にうつる……、
パッパッとやっていける、こちらのやり方を丁寧とは感じない人もいるだろう。

私は時間をかけてやるのが、決して丁寧な、とは思わない。

Date: 10月 28th, 2017
Cate: スピーカーとのつきあい

スペンドールのBCIIIとアルゲリッチ(その8)

ステレオサウンド 44号の試聴以来、
瀬川先生もBCIIIを高く評価されている。

43号のベストバイではBCIIIに票は入れられてなかった。
47号のベストバイでは、星二つに、
《媚びのない潔癖な品位の高さ。ただし鳴らしこみに多少の熟練を要す。》
と書かれている。

瀬川先生はBCIIには星三つ、
岡先生は反対で、BCIIIが星三つに、BCIIが星二つ。

岡先生も瀬川先生も高く評価されているが、
だからといってまったく同じに評価されているわけではない。

ステレオサウンドがおもしろかったころからの読み手ならば、
岡先生と瀬川先生の音の好みはまったく違っている。
音楽の好みも全く違っている、といってもいい。

岡先生も瀬川先生もそれを承知しながら、互いに理解し合っていた、といえる。
そのことはしばしば、特にスピーカーの評価に、はっきりとあらわれる。

たとえばアコースティックリサーチ(AR)のスピーカーシステム。
岡先生はAR3が日本に入ってきたとき、その第一号を購入されている。
AR3は、その後AR3aになり、LSTへとなっている。

ステレオサウンド 38号に、こんなことを書かれている。
     *
 おかげでおいつはAR屋だと見られているわけだけれど、ぼくはAR−LSTがベストのスピーカーだと思っているわけではない。リスニングルームのスペースやシステムをおける条件その他いろいろなことう睨みあわせ、またいろいろなレコードをきいていて、ぼくのうちではいまのところこのシステムが一ばん安定して鳴っているように自分では思っているだけのことで、充分に満足しているわけではない。
     *
瀬川先生は、AR嫌い、といってもいい。

Date: 10月 28th, 2017
Cate: アンチテーゼ

アンチテーゼとしての「音」(audio wednesdayでの音・その14)

10月4日だったから、グレン・グールドのゴールドベルグ変奏曲をかけた。
グールドのハミングが、よくきこえることに驚かれた。

私の中では、CDが登場して一年後あたりから、ハミングはかなりよくきこえるという認識でいた。
うまく鳴った時は、まるでワンポイントマイクロフォンで録音したかのように、
耳障りではなく、気持ち良く鳴ってくれる。

一枚十万円以上もするガラスCDではなく、
普通に販売されているゴールドベルグ変奏曲のCDでの話だ。

「グールドって、いい声ですね」という感想もあった。
グールドの録音の中には、ハミングを極力録らないように工夫しているものもあるが、
1981年録音のゴールドベルグ変奏曲は、そうではない。

グールドは、いい声をしている。
気持良さそうにハミングしている。

特別なディスクでなくても、
そう鳴ってくれる。

Date: 10月 27th, 2017
Cate: アンチテーゼ

アンチテーゼとしての「音」(audio wednesdayでの音・その13)

こちらの目を覚ましてくれた、と書いた。
それには、もうひとつ意味合いがある。

それまでのDLM2の時の音よりも、明らかに明るいからである。
075といえば、ギラギラとした明るさを想像する人もいるだろう。
そういう明るさではない。
カットオフ周波数がかなり高いことも影響しているはずで、
まぶしいとか、ギラギラしているとか、そういう陰翳のない類の明るさではなく、
聴感上のS/N比が良くなることによる明るさであり、
その明るさは、ここちよい朝日のような明るさのようにも、私は感じていた。

075の位置を10cm以上下げたからといって、全体の音色が変化したわけではない。
それまでの位置での音は、10cm以上下げた音と比較すると、
微妙なニュアンスが打ち消されているようでもある。
だから音楽の表情が、ややフラットになってしまう。

あれこれ調整して音が変る、というわけだが、
その音が変るとは、音楽の表情が変る、ということである。
表情が豊かになっていくのか,乏しくなっていくのか、
表情の幅がどういう方向にひろがっていくのか、
そういう違いがある。

この当り前すぎることを、075の位置を変化させた音は改めて気づかせてくれた。

だからといって、十全な音が鳴ってくれた、というわけではない。
最初に書いているように、ドライバーが左右で違っているし、
075の前後位置の目安はついたけれど、その置き方に関しては、これから詰めて行く必要があるし、
アルテックのドライバーと075を、これからどういうふうにクロスオーバーさせていくのか、
とにかくやっていくこと(やりたいこと)は、けっこうある。

それでも今回の音は、ひとつの成果があった、といえる。
それは私自身の感想ではなく、音を鳴らしていた隣の部屋、
つまり喫茶茶会記の喫茶室に来ていた人(顔見知りの常連の方)が、
「ライヴを聴いているようでした」といってくれた。

喫茶室とは壁とドアによって隔てられている。
完全防音されているわけでないから、けっこうな音量で音はもれている。
そのもれきこえてくる音が、隣でライヴをやっているように響いたということは、
それだけ音の浸透力が増したということでもある。