ワグナーとオーディオ(その4)
ステレオサウンド 47号掲載「イタリア音楽の魅力」から、
ワグナーとヴェルディのオペラについて語られているところを引用しておく。
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河合 そういえますね。たとえばイタリアのカンツォーネでいうと、もちろん歌い手さんがうたう旋律もすばらしいんだけれど、その伴走にもすばらしい対旋律が、みごとなアレンジで聴かれるんです。そこで、これは歌ぬきでもいけるんじゃないかと思って、同じアレンジャーにインストルメントだけのアレンジを依頼すると、出来上ったものがひとつとしてよくない。という経験があるんですよ。
結局 歌い手の旋律という主役をもりたてる、脇役としてのアレンジはとてもすばらしいのに、それを主役にしようとするととたんに輝きも魅力もなくなってしまうわけです。イタリアというのは、やっぱり歌の国だし、歌の国民だなと、つくづく思いましたね。
それにひきかえ、お隣のフランスではあれだけすばらしいオーケストラのアレンジが生み出されているわけでしょう。
坂 ポール・モーリアに代表されるようにね。
河合 ええ。主役をオーケストラがとっても、あれだけすばらしいものになる。ところがイタリアでは、どうもうまくいかないんですよ。
黒田 そのことはポピュラーの分野だけにかぎらないんですよ。たとえばオペラでいえば、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の「前奏曲と愛の死」の「愛の死」の部分は、ほんらいはうたわれるんだけど、オーケストラだけで演奏されることも多いでしょう。ところがヴェルディのオペラでは、声をはずしてしまってオーケストラで演奏されるかといえば、まずそういうことはない。たとえば『オテロ』の、オテロとデスデモーナの二重唱は、歌のパートも、バックも、すばらしくよく書けていて、たいへん美しいけれど、そこから声をとってしまって、それでも十分にたんのうして聴けるかというと、そうじゃあないんですね。やっぱり声を聴きたくなるわけで、そのへんがワーグナーとはちがうんですよ。
だから、レコードで『ワーグナー管弦楽曲集』というものが成り立つんだけど、ヴェルディのほうは『序曲/前奏曲集』というものしか成り立たないようなところがあるんです。いいかえると、ヴェルディの音楽の基本には、やはり〈歌〉があるということがいえるように思います。
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読んで気づいた、
たしかにワーグナーには管弦楽曲集のレコードがあるのに、
ヴェルディでは序曲/前奏曲集であって、ヴェルディの管弦楽曲集はないことに。
そしてイタリアオペラのハイライト盤は数多くつくられていても、
ワーグナーのハイライト盤は、ひじょうにつくりにくい、ということに語られていく。