audio teach-in(その8)
生成AIとの会話、それも承認欲求を満たすためだけの会話は、
静慮とは全く無縁の行為でしかないからこそ、やっている本人には楽しいことなのかもしれない。
生成AIとの会話、それも承認欲求を満たすためだけの会話は、
静慮とは全く無縁の行為でしかないからこそ、やっている本人には楽しいことなのかもしれない。
適切な技術書や解説の文章があって、
それをきちんと理解するために生成AIを利用するのは、いい使い方だと思う。
オーディオにおける生成AIを全否定はしない。使い方次第、使い手次第な面はあるけれどもだ。
使い手次第なのだ。
オーディオ雑誌でのベストバイ的なもの、賞、そういった記事が載った号が売れるのは、
いくつかの理由があろうが、大きな理由として、自分が使っているオーディオ機器が選ばれている──、
このことによる間接的な承認欲求が満たされるからではないのか。
生成AIは、間接的な承認欲求ではなくて、直接的な承認欲求をも満たしてくれる。
そういう使い方をすれば、であるのだが、そんなことをやって何が楽しいのか、嬉しいのか、と私は思うけれど、
世の中は人さまざまなのだから、生成AIによる承認欲求を必要とする人もいるのだろう。
このことも、その人がそれで良ければ、第三者がとやかくいうことではない、と思いつつも、
こわいのは、そうやって生成AIとの会話を重ねることで、聴かずに音の判断をくだしてしまう愚かさをやってしまうことだ。
この項で触れている人は、ある方式と別の方式との比較を生成AIに訊ねている。
そして、ある方式は聴くに値しないという判断をくだした。
聴いた上で、それがたとえ十全とはいえない試聴ではあっても聴いての判断であれば、
私と全く正反対の評価であっても、そうですか、という。
けれど聴かずして判断して、そして聴く気もないと言ってくる。
生成AIに訊く前に、とにかく、その音を聴こうよ、と言いたいだけだが、もうそれすら、その人の耳には届かないようだ。
生成AIは使い手を愚かにすることもある。
生成AIにオーディオに関することを質問すると、面白いことに音についても語ってくれる。
つい先日、ある真空管について、プレート電圧はこのくらいで、バイアスはこのくらいで動作させたらローレベルのリニアリティについてきいたところ、
返ってきたのはリニアリティについてだけでなく、その場合の音についても返してきた。
これをすごいな、と感心して信じ込める人もいる。
でも少し考えれば、現時点で生成AIは音を聴くことができない。
もちろん音を判断することもできない。
にも関わらず、
この動作の音質的特徴
非常に低歪み: 動作の直線性が非常に高く、上品で繊細な音色になります。
ボーカルや室内楽に最適: 2A3や300Bのような華やかさよりも、芯が強く、中域に艶がある音になります。
と答える。
笑うしかないと私は思うけれど、そうでない人もいる。
私が訊ねたような動作例でアンプを作っている人を、私は見つけられなかった。
同じようなことを考える人は、他にもいるのは承知しているが、それでもそれほど多くはないはず。
なのに、その動作例での音について生成AIは答える。
オーディオの世界は、世の中の悪いところを先取りする。
こう言われたのは菅野先生。
もう二十年以上前に、これを聞いている。
当時も、本当にそうだ、と思い書いていた。
残念なことに、いまもそうでありこれからもそうなのだろう。
生成AIの使い方にしてもそうである。
それにしても、オーディオの世界は、これほどまでに世の中の悪いところを先取りするのか。
先ほどの(その3)で取り上げた人は、これから先増えてくるのではないだろうか。
そうなった場合、オーディオ雑誌にとって、非常に厄介な読者となる可能性も高い。
オーディオ雑誌は、早いうちに生成AIをきちんと検証する記事を作った方がいい、と私は思っている。
(その3)で触れている人は若い人ではない。私よりも年上の人だ。
世代は関係ないようにも感じている。
生成AIは道具であって使い方次第とはいっても、どんなレベルの人が使っても、それなりに使えてしまうところが怖い。
そうやって偏った人がさらに偏っていく。
そんな人が読者となったりもする。
オーディオにとっても、オーディオ雑誌にとっても、とんでもない未来がすぐそこに来るのかもしれない。
もちろんきちんと使い、自身のオーディオへの理解を深めている人もいるのはわかっている。
でも、存在を無視できないほどに、使い方によっては害悪を垂れ流しているに近い、とも感じている。
生成AIは、オーディオをダメにしていくかもしれない──、今朝、ある人からのメールを読んで、そう感じた。
その人は、生成AIとオーディオについての会話を楽しんでいる。そのこと自体は否定することではないが、
生成AIはどういう質問の仕方をするかによって、返ってくる答が違ってくる。
オーディオの理解を深めるために、その人も使っているのかもしれないが、メールを読む限り、自身の考え、感性が正しいことを生成AIに認めてもらいたいだけ。
私には、そうとしか思えないくらいに、こんな質問の仕方をどうしても繰り返すのか──。
オーディオはややもすると自分の臍だけを見つめてしまいがちな面も持つ。
それが悪いまでは言わないけれど、その人は、その方向に躊躇わず進むために生成AIとの会話を重ねていっている。
オーディオにはいろんな方式、技術、製品がある。
それらの音を聴かずに生成AIと会話して、こういう音だと思い込む。
思い込むのも、その人の自由というか勝手である。やりたければずっと続けていけばいい。
けれど、その行為はオーディオへの理解を深めることではなく、どこか片隅に自分自身を追いやって、
自分の臍だけを見つめて過ごすことでしかない。
この人だけがそうなのか。他にも同じような人がいるようにも思える。
偏ったオーディオの知識を持った人が、生成AIとの会話を重ねていくことでますます偏る。
オーディオの未来は、どうなっていくのだろうか。
こういう人が極々少数派であればいいのだが……。
先ほどメールが届いた。
そのメールには、アポジーのスピーカーシステムを低能率と書いているのは間違いだ、という指摘だった。
その人はアポジーのStage Oneのスペックを挙げている。
Stage Oneの出力音圧レベルは、107dB SPL Peak@4mとある。
一般的なスピーカーシステムの出力音圧レベルは、スピーカーとマイクロフォンの距離は1m。アポジーのStage Oneは4m。
四倍の距離があるにも関わらず、107dBという高い値。
むしろ高能率スピーカーではないか──、というものだった。
この人は、さらに生成AIに質問している。1mでの換算値は119dBになる、と。
アポジー発表のスペックは、107dB/W/mではない。
一般的な出力音圧レベルには、/W/mとつくことが多い。
多いからといって、それを省略して表記することはあまりない。
アポジーの出力音圧レベルに/W/mがついていない意味を考えれば、アポジーのスピーカーの能率が高いのが低いのかは、すぐにわかる。
アポジーの出力音圧レベルは、Peakとあることからもわかるように、最大出力音圧レベルである。
この人は、生成AIに訊くことを間違えているともいえる。Peakと表記されていることを訊けば、
おそらく生成AIも、最大出力音圧レベルのことだと答えてくれただろう。
オーディオの理解に生成AIを使うのはいいが、質問の仕方によって、こういうことが起こる。
瀬川先生が、熊本のオーディオ店に定期的に来られていた試聴会の名称は、オーディオ・ティーチイン(audio teach-in)だった。
先日、ある方からのメールに、《宮﨑さんのナレッジを基礎的な部分だけでも講義してくれませんか》とあった。
そう思ってくれる人は少数だろうが、来年のaudio wednesdayでは、audio teach-in的なことを含めてやっていければと考えている。
(その6)で、オーディオ歴がながいにもかかわらず、
私は初心者と、ずっとそう言い続ける大人がいて、
彼は謙虚なわけではなく、覚悟がないから、逃げているだけだ。
だから、一本の柱も持つことができないままだ。
ずっとこれまでも、これからも──、
そんなことを書いた。
自尊心だけのオーディオマニアも同じだ。
一本の柱も持つことができない。
テレビ好きの友人が、以前は東京に住んでいた。
とにかくテレビが好きで、しかも仕事をほとんどしていなかったので、
かなりの数の番組を見ていた。
そのなかから、私が気に入りそうな番組を教えてくれると同時に録画してくれていた。
なので、月に一回ほどその友人宅を訪ねてはテレビを見ていた。
その彼も十数年前に故郷に帰ってしまった。
それからはテレビを見る機会がさらに減っている。
その減ってしまった十数年のあいだに感じていることがある。
清楚系の女優として紹介されることが、わりとある。
テレビはさっぱり見なくなったので、雑誌とかインターネットの記事で、
そういうキャッチコピーとともに、女優の写真が載っているわけだが、
毎回、この女優が清楚? と感じることがほとんどである。
私がテレビを見ていたころ、清楚といわれる女優は、
確かに清楚と感じていた。
それがいつのまにか、清楚の基準が変ってしまったのか──、
そんなふうに思うほどに、ほんとうに皆、この女優を清楚なひとと思っているのか、
そんな疑問すらわいてくる。
この十数年間、ずっとテレビを見てきていたら、
いまの清楚の基準にも納得しているのかもしれない。
「初心者ですよ」と、オーディオ歴がながいにもかかわらず、
ずっとそう言い続ける大人がいる。
謙虚なわけではない。
覚悟がないから、逃げているだけだ。
だから、一本の柱も持つことができないままだ。
ずっとこれまでも、これからも。
別項「ふりかえってみると、好きな音色のスピーカーにはHF1300が使われていた(その13)」で、
セレッションのDitton 15のネットワークには、
トゥイーター側にたいてい挿入されるアッテネーターがないことを書いた。
アッテネーターがないのはDitton 15だけなのか。
Ditton 25やDitton 66はどうなのか。
インターネットがここまで普及していると、
ほんとうに便利になったと思う。
「ditton 66 crossover」で検索すれば、
すぐにDitton 66のネットワークの写真、回路図が見つかる。
Ditton 25に関してもそうだ。
Ditton 25にもDitton 66のネットワークにもアッテネーターはない。
いうまでもなくマルチウェイのスピーカーシステムで、
変換効率が低いのはたいていの場合ウーファーであり、
システムとして出力音圧レベルを揃えるために、
ウーファーよりも能率の高いスコーカー、トゥイーターにはアッテネーターが挿入される。
このアッテネーターをどう処理するのか。
連続可変型にするのか、固定型にするのか。
回路構成はどうするのか、どういう部品を使うのか。
それでもアッテネーターはないほうがいい。
ただこのへんはスピーカーの捉え方によっては、
ウーファーの能率にスコーカー、トゥイーターの能率を合わせて、
アッテネーターを省略するよりも、
スコーカー、トゥイーターの磁気回路をケチらずに、できるだけ高能率として、
アッテネーターで調整したほうがいい、という考え方もある。
どちらが正しい、というわけではなく、
そのスピーカーシステムの価格、ユニット構成、目指しているところなどによって、
どちらが好適なのかは違ってこよう。
Dittonシリーズを積極的に展開していったころのセレッション。
そのセレッションがDittoシリーズで目指していた音と、
アッテネーターが存在しないということは、
見落せないポイント(共通の鍵のようなもの)だと思う。
吉祥寺のハードオフにあるセレッションのUL6は、
トゥイーターが別メーカーのモノに交換されている、という情報を、
ある方からいただいた。
つまりオリジナルそのままではない、ということだ。
トゥイーターが断線していた状態での買い取りだったのか。
セレッションの同型のトゥイーターの入手は、いまではそうとうに難しいだろうから、
単売されているトゥイーターから、使えそうなモノを選んでくる。
そうやって整備されたモノなのだろう。
オリジナル至上主義の人は、そんなこと絶対に許されることではない、というだろう。
人それぞれの主義主張があるから、それはそれでいい。
でも、実際にその音を聴いて、いいと感じたのであれば、
トゥイーターが、他社製のモノに交換されていようと、それはそれでいいじゃないか、
そんなふうに思えないのだろうか。
オリジナル至上主義の人のなかには、転売で儲けるのが目的の人もいる、ときく。
そんな人にとっては、資産価値が落ちた、というふうにみるのだろう。
昨晩、書いているようにじっくり聴いているわけではない。
いわゆるちょい聴き程度でしかない。
それでも、トゥイーターが交換されたであろうUL6は、
心地よい音で鳴っていた、と感じた。
このことは、トゥイーターを適切に選べば、
こういう結果を得られる可能性がある、そういうことである。
これはこれで、おもしろいな、と受け止めている。
夕刻、バスに乗っていた。
吉祥寺行きのバスで、緊急事態宣言が出ているのだから、
どこにも寄らずまっすぐ帰るつもりだったので、途中下車はまったく考えていなかった。
けれど、吉祥寺にあるハードオフの真ん前の停留所でバスが止まった。
しばらく行ってなかったハードオフ、たまには寄ってみるか、と結局途中下車。
オーディオコーナーの三階にあがると、心地よい音が流れているのが耳にはいってきた。
なにかおもしろいモノがないかとくるっと見回ったあとに、
どのスピーカーが鳴っているのか確認したら、セレッションのUL6だった。
10代のころに、やはりオーディオ店で鳴っているのをきいたきりだから、
ほぼ四十年ぶりに聴くUL6だった。
聴いた、といっても前回も今回もじっくり、というわけではない。
それでもあらためてUL6は、いいスピーカーだな、と思いながら聴いていた。
昔聴いた音は、美化されがちである。
だから、ずいぶん時間が経ったあとに聴くと、がっかりすることもままある。
けれど今回はむしろ逆で、UL6の心地よい音が、ほんとうに魅力的でもあった。
家庭で音楽を聴くために必要充分な音とは──、ということを考えさせる音でもある。
しかもついていた値段も、割と安く感じられるものだった。
もう少し聴いていたい、と思いながらも、聴き続けていると、
絶対に欲しくなるから、ぱっときりあげて、店をあとにした。
こまかな採点表をつくって、スピーカーの音をチェックして点数をつけていく──、
そんな聴き方をするのであれば、UL6よりも優秀なスピーカーはいくつもあろう。
でもくり返すが、家庭で音楽を聴くということは、
家庭で音楽を美しく響かせることだと思うから、UL6の音を聴くと、
UL6からここまでの約40年間に得られた音と失われた音、
音といようりも音楽の表情といったほうがいいかもしれないが、
そんなことをどうしても考えてしまう。
セレッションにしてもUL6の数年後に、SL6を発表する。
SL6は、SL600へと発展して、SL700を生み出していった。
SL6の音に驚き、SL600を買って鳴らしていた時期がある。
オーディオ評論家のなかには、SLシリーズ以前のセレッションを、
ひどく低い評価しかしない人がいた。
Dittonシリーズ、ULシリーズを前時代のスピーカーとでもいいたげであった。
でも、ほんとうにそうなのか。
どの世代にも、自称オーディオに詳しい、という人はいる。
だから「誰かオーディオに詳しい人、知らない?」と周りにきけば、
「オレ、詳しいよ」という人がいたり、
「○○さんは詳しかったはず」となったりするであろう。
そういう人に相談したとして、答が得られるのだろうか。
たとえばアンプを買いたい、と相談したとしよう。
自称オーディオに詳しい人は、自分が買うんだったら、と判断しがちのところがある。
自分で欲しくないモノを人にすすめることはできない──、
それは確かにそうなのだが、自分の好きなモノ、使いたいモノだけをすすめて、
相談している人にとって、いい結果となるのだろうか。
自称オーディオに詳しい人と相談している人の違いがあるにもかかわらず、
このアンプがいいよ、と、海外製の個性的なアンプをすすめたりする例を、
いくつか知っている。
そのアンプをすすめたくなる気持はわからないでもない。
でも、そのアンプを使う人がどういう人なのかを、ほんとうに考えての推薦機種なのか。
故障した場合のことを考えての機種なのか、と思うことがけっこうあった。
アンプを複数台持っている人にすすめるのであれば、そういうアンプでもかまわないことがある。
そのアンプが故障したとしても、代用のアンプがあるのだから。
しかし、相談している人は、これからアンプを買おうとしている。
ほかのアンプなんて持っていない。
そういう人に海外製のアンプをすすめることは、私はよほどのことがないかぎりしない。
故障した際のアフターサービスの体制の違いが、
国産アンプと海外アンプでは、やはりあるからだ。
海外製のアフターサービスのすべてが国産のそれよりも劣っているわけでなはい。
それでも時間がかかることが多いケースを知っているからだ。
それに輸入元がなくなってしまったらどうするのか。