レコード芸術ONLINE(その3)
レコード芸術が休刊になり、レコード芸術ONLINEに移行して一年。
有料会員は増えているのかどうかはわからないし、関心もない。
関心があったのは、紙の本からインターネットになっても、レコード・アカデミー賞を続けるのかどうかだった。
新レコード・アカデミー賞として、またやるという。
これを聞いて、有料会員になろうという人がいるのだろう。
でも私は、有料会員になろうとは、もう思わない。
レコード芸術が休刊になり、レコード芸術ONLINEに移行して一年。
有料会員は増えているのかどうかはわからないし、関心もない。
関心があったのは、紙の本からインターネットになっても、レコード・アカデミー賞を続けるのかどうかだった。
新レコード・アカデミー賞として、またやるという。
これを聞いて、有料会員になろうという人がいるのだろう。
でも私は、有料会員になろうとは、もう思わない。
定番モデルを持つメーカーは、それによる安定した収益によってできる冒険がある、と書いたけれど、
同じことはオーディオ雑誌にも当てはまる、と思っている。
定番の記事があればこその記事が作れる──、そう思っている。
そして、この定番といえる記事は、各オーディオ雑誌によって違ってくる。
オーディオ雑誌の個性(カラー)が、鮮明になる。
けれど実際はどうだろうか。
今のオーディオ雑誌に、それぞれの定番といえる記事があるだろうか。
昔からオーディオ雑誌を読んできたといえる人は、そういう視点で振り返ってみてほしい。
昭和のころは、確かにあった、そうだった、と思い出すはずだ。
別項で「偏在と遍在」を書いているが、
いま書いていることは「偏在と遍在」とも関係してくることだろう。
現在のオーディオ雑誌の編集部の人たちがどういう人たちなのかは、全く知らない。
それでもオーディオ雑誌を、ほぼ五十年間眺めてきてなんとなく感じることは、
昭和の編集部の方が、いわば偏っていた人たちの集まりだった、ということだ。
これもどちらがいいとか悪いとかではなく、
個性というか癖のある人たちは、昔の方が多かったのではないのか。
このことはオーディオ雑誌の編集者だけに言えることではなく、
オーディオメーカーの人たちも同じではないだろうか。
そういう人たちは、いまの時代、これからの時代、お呼びでないということなのか、とも思う。
山之内正氏の名を挙げるが、山之内正氏に負の感情は持っていないことは最初に、はっきりさせておく。
以前、別項で土方久明氏をオーディオ評論家(仕事人)と書いた。
山之内正氏も、同じくオーディオ評論家(仕事人)だと感じている。
山之内正氏の、オーディオ業界での評判はとても高い、と聞いている。
そうだろう、と山之内正氏の文章を読んでいると思う。
山之内正氏は、ステレオサウンド、オーディオアクセサリー、ステレオ、
それぞれのオーディオ賞の選考委員をされている。
このことをどう捉えるか。
以前のオーディオ雑誌には、偏りがあった。
この偏りが、それぞれのオーディオ雑誌の個性(カラー)につながっていた。
これはいいことなのか、悪いことなのか。
一般的には、偏りがあるのだから悪いことになるだろうが、
オーディオ雑誌においても、そうだと言えるのか。
オーディオ機器の評価のためには、偏りなんてあってはならない──、
果たしてそうなのか。
それぞれのオーディオ雑誌の偏りをなくしていく方向になってしまったら、
そして偏りをほぼ完全に無くすことができたなら、
オーディオ雑誌は一つでいい、ということになる。
偏りをなくしていくのは、オーディオ雑誌の編集者としての善意と言えるのか、それとも悪意なのか。
二年前の(その9)で、いまのステレオサウンドの見出しならば、
ChatGPTにまかせてもいいぐらいと書いたし、
さらに編集作業のいくつかはChatGPTにまかせたほうがクォリティが高くなるくらいには、
なっていてもおかしくない、とも書いている。
Googleのおせっかいな機能が、ステレオサウンド・オンラインの記事を表示した。
《惚れ惚れするような余韻の細かさと美しさ。Qobuzの真価、魅力をさらけ出す!》とある。
普段ならば、アクセスすることはしないが、
《さらけ出す!》を、こういう見出しに使うのか、
誰が書いているのか知らないが、本文にも《さらけ出す!》とあるのか。
それが気になって本文を読んでみた。
どこにも《さらけ出す!》は、ない。
ステレオサウンド・オンラインの編集者が、《さらけ出す!》としたのだろう。
見出しは何も本文中にある言葉だけを使うものではない。
とはいえ《さらけ出す!》は、ないだろう。
さらけ出すは、曝け出すと書く。
この漢字が、どういう意味なのか、どういう使い方なのかを表している。
ずいぶん前から、耳障りを、耳ざわりとして、耳ざわりのいい音という使い方をする人がいる。
言葉は変っていくものだから、さらけ出すも、そういうふうになっていくのもしれないが、
まだいまのところは、いい意味での使われ方はわざわざではないだろうか。
《さらけ出す!》と、ステレオサウンド・オンラインの編集者が、見出しとする。
それがそのまま公開される。
ステレオサウンド・オンラインには編集長はいないのか。
誰もチェックしないのか。
ChatGPTならば、《さらけ出す!》と、見出しにつけるだろうか。
書き手だけでなく、それぞれのオーディオ雑誌のリファレンス機器にも、個性、カラーはあらわれていた。
スピーカーシステムは、ステレオサウンドはJBLの4343、
1980年代になり後継機の4344だったが、
他のオーディオ雑誌は違っていた。
それが良かった。いまはどうだろうか。
優秀なスピーカーシステムならば、どのオーディオ雑誌でもリファレンス機器とする──、
そういう見方、捉え方もできるが、
何も優秀なスピーカーシステムは一つだけではない。
他のブランドにも、優秀なスピーカーシステムはある。
なのに、いまのオーディオ雑誌は、とあえて指摘するまでもないだろう。
昔はスピーカーシステムが違えば、アンプも違っていた。
このことですぐさま頭に浮ぶのは、Lo-Dのパワーアンプ、HMA9500である。
MOS-FETを出力段に採用したアンプは、長岡鉄男氏が高くて評価されてたし、
自宅でも使われていたから、長岡鉄男信者、長岡教信者の間では、
高い人気と評価を得ていたが、ステレオサウンドでは、その熱気がウソのような取り上げられ方だった。
HMA9500は、だから中古市場でも人気のようだが、
私はそのことを傍観者として眺めている。
HMA9500が優れていたとかそうでなかったとか、言いたいのではなく、
HMA9500は、オーディオ雑誌によって、取り扱われ方の熱気が違っていた、ということだ。
私がオーディオ雑誌を初めて手にしたのは1976年の終りごろだった。
まずステレオサウンドがあった。
ステレオがあった、オーディオピープルが、サウンドメイトが、別冊FM fan、ステレオ芸術、サウンドレコパルが、オーディオアクセサリーなどがあった。
それぞれに、その雑誌を代表すると言える書き手(オーディオ評論家)がいた。
この雑誌しか書かないという専属制ではなかったけれど、
ステレオサウンドならば、菅野沖彦、瀬川冬樹の二人を中心に、
井上卓也、上杉佳郎、岡 俊雄、長島達夫、山中敬三といった顔ぶれだった。
これらの人たちが、他の雑誌には書かないわけではなかったけれど、
活動の中心としてステレオサウンドがあった、と言える。
他のオーディオ雑誌には、それぞれの人たちがいた。
ステレオ、別冊FM fanには長岡鉄男がいた。
オーディオアクセサリーには江川三郎がいた。
他の人たちも、どれかのオーディオ雑誌を活動の拠点としていた。
そのことが、それぞれのオーディオ雑誌の個性(カラー)を生んでいた。
それが、いまはどうだろうか。
書き手の顔触れだけで、どのオーディオ雑誌なのか、昔はすぐにわかったものだが、この点に関しても、いまはどうだろうか。
前回、書いた「編集者の善意」について考えていて思い出す記事がある。
ステレオサウンド 95号の特集、
「最新スピーカーシステム 50機種 魅力の世界を聴く」の巻頭座談会である。
菅野沖彦、長島達夫、山中敬三、三氏による座談会の最後の方で語られていることだ。
*
──たとえばJBLのK2が『ステレオサウンド』誌上で高く評価されていますね。タンノイしかり、エレクトロボイスしかり。一方あたらしく出てきた平面型スピーカーのように、K2ほどには評価が高くないのは……。
菅野 人によってものすごく評価してるよ。
長島 視点の違いですよ。
菅野 つまるところは人間なんですよ。その人の音の世界、音楽の美の世界にとっては、もう素晴らしいものになる。たとえばアポジーの好きなX氏にとっては、おそらくアポジーと出会うことによって、オーディオの世界が完成したと思うんだよ。X氏は意識しないうちに、あの世界を彼の理想のオーディオ世界としてイメージしていたんだろうと思いますよねそれは人によってみんなちがうんだ。世の中うまくしたもので、理想の異性の顔って、一人として同じということはない。
山中 だからうまくいっている。
菅野 スピーカーもそれと同じだと思うんですよ。
レベルの差じゃない。X氏にとって、あれはほんとうに理想の世界なんですよ。たまたまX氏と同じような感性の人が少ないだけ……。
長島 ここの場にはね(笑)。
山中 それだけのことなんです。雑誌の好みといってもいい。この雑誌に関わっている人たちの好みが反映しているかもしれない。
長島 それは雑誌として非常に大事なことだね。
菅野 雑誌のカラーだからね。
長島 普遍的なほうがいいという一般論があるけど、これは違うと思う。
菅野 雑誌はやっぱりひとつの主張とカラーがないと意味がない。特にこういう趣味の雑誌が八方美人だったら困る。
*
編集者が八方美人になることは、編集者の善意なのだろうか。
この座談会が行われた時代は、まだオーディオ雑誌それぞれに「雑誌のカラー」が残っていた。
この項を書き始めた時から、同時に考えているのは、編集者の善意である。
誌面から感じられるものなのだろうか。
先週、映画「キャプテン・アメリカ:ブレイブ・ニュー・ワールド」を観てきた。
そろそろ大スクリーンでの上映も終りになるころだろうから、
それにちょうど時間も空いたので、観た。
主人公は、タイトルが示す通りキャプテン・アメリカ。
初代のキャプテン・アメリカではなく、二代目のキャプテン・アメリカ。
二代目は、初代とは違い、血清による超人的な力は持っていない。
それでもキャプテン・アメリカなのだが、観ているうちにキャプテンとリーダーの違いについて、なんとなく考え始めていた。
「キャプテン・アメリカ:ブレイブ・ニュー・ワールド」中でのリーダーは、
ハリソン・フォード演ずるアメリカ大統領である。
だからキャプテン・アメリカはアメリカのリーダーではないのか、
キャプテンとつくぐらいなのだから、キャプテンなのか。
リーダーとキャプテンの違いは──、
この項で書いているオーディオ・ジャーナリズムにおけるリーダーとキャプテンとは?
そんなことを考えるようになっていた。
今年、レコード芸術ONLINEがスタートした。クラウドファンディングを利用しての開始であった。
金額は達成していたけれど、
私が気になったのは、支援者数だった。
大口の支援者が何人かいての達成よりも、
レコード芸術ONLINE的なものでは、支援者の数が、
その将来をある程度握っているのではないだろうか。
集まった金額が同じならば、
小口の人ばかりであっても、その数が多い方が、
継続へとつながっていくはずだ。
私は、そんなふうに考えているから、
レコード芸術ONLINEのクラウドファンディングの支援者の数は、
はっきり言って少ない、と感じている。
これだけしかいないのか──、
クラウドファンディングで支援せずとも有料会員になる人が大勢いれば、
いいわけだが、そううまくいくものなのか……。
無料で読める記事もある。
それを読んでみても、有料会員になろうとは思えなかった。
私のような人もいるし、反対の立場の人もいる。
どちらが多いのか、今のところ判明していない。
オーディオの想像力が欠如した者は、自尊心しか持てないのだろう。
ソーシャルメディアを眺めていると、
時々、ファッションモデルと女優の比較写真が表示される。
ファッションモデルも女優も、同じドレスを着ているから、
その着こなしの違いが、はっきりと出ている。
こうも違うのか、
と一流のいわれるファッションモデルの着こなしは見事だ。
ドレスが主役なのか、着ている自分が主役なのか、
その意識の違いも関係してのことなのだろうが、
それにしても女優の着こなしは……、そんなふうに感じてしまうほどだ。
こんなことを書いているのは、オーディオ評論家は、
立場としてどちらなのか、だ。
スピーカーというドレスを、どう鳴らすのか。
(その1)で、ステレオサウンド 211号の119ページ掲載の写真について書いた。
ステレオサウンド編集部は、なぜ、この写真を選んで掲載したのか。
昔のフィルム時代であれば経費節減で、撮影のカット数を減らすということもあろうが、
いまはデジタルカメラの時代だし、カット数を気にすることは、まずない。
とれるだけ撮って、その中から、いい一枚を選んで掲載すればいい。
なのに、こんな写真をあえて選んで掲載する。
ステレオサウンド 231号の250ページ掲載の写真を見て、
同じことを思ってしまった。
なぜ、編集部はこの写真を選んで掲載したのか、と。
同じようなアングルでの写真が、254ページにあるから、
よけいに、そう思ってしまう。
こんな写真を、あえて掲載する。
いまのステレオサウンド編集部には、なにか大事なことが欠けているのではないのか。
昨年7月に休刊となったレコード芸術。
先月、レコード芸術2023年総集編というムックが出た。
おっ、と思い手にとったけれど、買わなかった。
このムック、どれだけ売れたのだろうか。
意外に売れたのかもしれないと思ったのは、
レコード芸術ONLINEのクラウドファンディングが発表になったからだ。
受付開始は4月10日からで、目標金額は15,000,000円である。
けっこうな金額である。
これだけの金額、集まるのだろうか。
レコード芸術の休刊が発表になって、継続の署名が始まった。
「老いとオーディオ(とステレオサウンド・その18)」で、
署名を集めるよりも、レコード芸術の名称を音楽之友社と交渉して買い取り、
オンラインのレコード芸術をスタートするためのクラウドファンディングを募らないのか、
と書いた。
そのとおりになったわけだが、微妙だな……、と感じるところもある。
レコード芸術ONLINEに期待したい、望むのは過去の記事のアーカイヴ化である。
もちろん新しい記事も読みたい気持はある。
けれど、それ以上に七十年ほどの歴史をもつレコード芸術の記事を、
インターネットで公開してほしい。
今回のクラウドファンディングの発表とともに、主な特徴が掲載されている。
そこに、アーカイヴ連載とある。
*
創刊から70余年の月刊誌『レコード芸術』が蓄積した潤沢なアーカイヴから、いま読んでも新鮮な記事を発掘、再掲載していきます。
読者アンケートなどでリクエストも募る予定です。
*
ものたりなさを感じてしまう。
すべてをアーカイヴ化しようとは、なぜ考えないのだろうか。
七十年ほどということは、これまでに840号ほどあるわけだ。
これをすべてオンラインで読めるようにしてほしい。
十年ほどで、すべてを公開するようなペースで。
一週間に二冊ほど公開していくのは、さほど無理なことではない。
そのくらいの意気込みを示してくれれば、よし、私も、という気になる。
けれど、そんな意気込みは、いまのところ感じとれない。
それに個人的には記事だけではなく、当時の広告も見たい。
今回のクラウドファンディングが成立するのかどうか。