Archive for category ジャーナリズム

Date: 10月 15th, 2019
Cate: ジャーナリズム, 広告

「タイアップ記事なんて、なくなればいい」という記事(その3)

(その2)で、「タイアップ記事なんて、なくなればいい」へのアクセス数が、
10%に届かないことを嘆いた。

(その2)によって、少しアクセスは増えたけれど、
それでもトータルで10%に満たない。

私のブログだけなのか、と思っていたら、
多くの、しかも大手のサイトでもリンク先をクリックする人は、ほんとうに少ない──、
というコメントをfacebookでもらった。

そういうものなのか……、と諦めなければならないのだろうか。
「タイアップ記事なんて、なくなればいい」という記事を読んでいない人の方が、
圧倒的に多いわけで、そういう人たちに対して書くのか、
どうやって書こうかな、と思っていたら、数ヵ月経っていた。

オーディオ業界では、いま、デノンのタイアップ記事を、
夏ごろからいろんなところで見かけるようになっている。

プリメインアンプのPMA-SX1 LIMITED EDITIONと、
SACDプレーヤーのDCD-SX1 LIMITED EDITIONのタイアップ記事である。

オーディオ雑誌だけでなく、
オーディオ関係のウェブサイトでも、デノンのタイアップ記事は行われている。

もちろんオーディオ評論家を巻き込んでのタイアップ記事である。
そのどれかを目にされていることだろう。

このタイアップ記事を、タイアップと思わずに読んだ人はどのくらいいるのだろうか。

Date: 8月 31st, 2019
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その21)

ステレオサウンド 87号のころ、編集者でなく、純粋な読者だったとしたら、
87号のマッキントッシュのXRT18の試聴記を読んで、
ステレオサウンド編集者の人たちは、何をやっているんだろうか、
さらには、XRT18に、もしくはマッキントッシュに、さらには輸入元のエレクトリに、
何か悪意、それに近いものを持っているのかも……、
そんなことを思ったであろう。

読者は、試聴の準備の、こまかな事情はまったく知らないわけだ。
そういう読者が、なにがしかの悪意、それに近いものを感じたとしたら、
ステレオサウンド 87号のXRT18の試聴には、悪意があった、ということになるのか。

重ねていうが、誰も悪意は持っていなかった。
けれど、誌面に載った試聴記は、その時、ステレオサウンド試聴室で鳴った音で書かれる。
そのことは百も承知なのだから、試聴の準備はできるだけきちんとやるようにしていた。

XRT18の、87号のボイシングはきちんとやれていたのか。
エレクトリの担当者と編集部見習いのKHさん。
この二人だけにまかせたことが、そもそもきちんとやれていなかった、ということになるのか。

もう一人、編集者がボイシングに立ち合っていれば、まったく違った結果になった可能性は確かにある。
けれど、エレクトリの担当者とKHさんは親しい間柄だったし、
KHさんは、エレクトリの担当者のボイシングに、担当者に対しても、
ある種の敬意を抱いていたと、まわりの編集者は感じていたし、
ならば、二人だけで思う存分にボイシングをやってもらったほうが、
いい結果が出るのではないか──、そういう考えがあった、と記憶している。

なぜボイシングが失敗したのか。
あれほどダメな音になってしまったのか、
その理由について、ここでは書かない。
いずれ書くことになるだろう。

ただ、ひとつだけいえば、音は人なり、ということに結着する。

Date: 8月 25th, 2019
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その20)

試聴記も見出しも、オブラートに包んだといえる表現だ。
この日、XRT18の音は、ほんとうにひどかった。

そのひどい音に対して、もっと辛辣な言葉が試聴室内では交された。
そのくらい、ひどい音だったわけだ。

これなら、ボイシングの経験のない私がやった方が、
ずっとまともな音を出せたのでは──、そんなことを思ってしまうほどだった。

このひどい音の原因は、ボイシングの明らかな失敗である。
誰の耳にもはっきりとしている。

エレクトリの担当者は、ボイシングの初心者ではない。
全国の、XRT20、XRT18の購入者のリスニングルームに行き、
ボイシングを何例もやってきた人である。

それに自社扱いのスピーカーの音を、わざとひどくしてしまう理由はない。

ボイシングをいっしょにやったKHさんも、
前述したようにXRT20のユーザーであり、
マッキントッシュの信者といっていいくらいの人である。

この試聴で、XRT18の順番を三日目の最初にもってくるように調整した、
特集の担当編集者にしても、少しでもXRT18をきちんと鳴らそうとしてのことだ。

ようするに、誰にも悪意といえるものはない。
けれど、実際に鳴ってきた音は、どうしたら、ここまでひどい音にできるのかと思えるほどだった。

こういう事情を知らない読者からすれば、
ステレオサウンド 87号でのXRT18の試聴結果から、
誰かが悪意をもっていたのかも……、そんなふうに思う人がいても不思議ではない。

くり返すが、この試聴に関係している人は、誰もXRT18に悪意を持っていたわけではない。
それでも、結果は違った。

Date: 8月 25th, 2019
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その19)

アンプやCDプレーヤーのセッティングは、前日までのままであり、
これは私が行っていた。

XRT18を試聴室に運び込んで、スピーカーケーブルを接続するまでは、やった。
それから先は、エレクトリの担当者と、編集部の一人が立ち合ってのこと。

この編集者は、編集後記のKHさんである。
ちょうど、このころ編集部に見習い、というか、アルバイトというか、
そんな感じで来ていた人である。

KHさんは、XRT20のユーザーである。
エレクトリの担当者とも親しい。

そういうことで、この二人にまかせてしまった。
このころのステレオサウンドは10時から始まる。
はっきりと憶えていないが、割と早くから二人で試聴室にこもってのボイシング作業である。

二時間以上は、たっぷりとボイシング作業をやっていたはずだ。
二時間程度は、完全なボイシングは行えていのはわかっているが、
それでも他のスピーカーシステムは、試聴室に搬入・設置・結線して、
すぐに音を鳴らしての試聴であるのに、
XRT18は午前中たっぷりと鳴らした上での試聴であり、
他のスピーカーよりもそうとうに有利な条件である。

エレクトリの担当者とKHさんは、ボイシングの結果には満足そうだった。
うまくいかなかった、とか、時間が足りなかった、とか、そんなことは言っていなかった。

かなた期待できそうな音が鳴ってくれる──、
そう思っていたら、試聴記にあるように、ひどい音だった。

井上先生は《スルーの方がバランスが良いくらいである》、
柳沢氏は《輸入元にこの調整をしてもらったのだが、これがさらに結果を悪くすることになったようだ》、
ボイシングの結果について、そう書かれている。

Date: 8月 25th, 2019
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その18)

このテーマで取り上げるかどうか、少し迷ったけれど、
編集者の悪意について考えてゆくうえで、これも興味深い例の一つであるから、あえて書こう。

ステレオサウンド 87号の特集は、スピーカーの総テストである。
そこにマッキントッシュのXRT18が登場している。
228〜229ページに、XRT18が載っている。

試聴記の見出しは、
 ボイシングの調整不足。独特気プレゼンスは魅力。(井上卓也)
 柔軟さ、しなやかさが特徴。設置、調整は難しい。(菅野沖彦)
 明らかに調整ミス。淡泊で焦点のぼけた音だった。(柳沢功力)
試聴記を読まずとも、87号でのCRT18の音がうまく照らなかったことはわかる。

ちなみに、この見出しをつけたのは私である。
でも、この見出しのつけ方が、悪意があるとうそうでないとかではなく、
なぜ、こういう試聴結果になったのかである。

XRT20、XRT18は、壁面に設置するスピーカーシステムであり、
ボイシングが必要となるシステムである。

輸入元のエレクトリは、購入者へボイシングの出張サービスを行っていた。
ボイシングは、ユーザーが聴感だけで簡単に行えるものではない。

ボイシングの大変さ、難しさ、その重要性は、
菅野先生がステレオサウンドに書かれているので、それをぜひお読みいただきたい。

とにかくXRT20、XRT18にしても、それまでのスピーカーの総テストと同じやり方では、
真価を発揮し難いスピーカーシステムであることは、編集部も十分わかっていた。

だからXRT18のボイシングの時間をきちんととっていた。
試聴は数日にわたって行われる。

XRT18は、試聴三日目(だったはずだ)の最初に鳴らすスピーカーになるようにした。
試聴は午後からである。

三日目の午前中に、エレクトリからボイシングの担当者に来てもらい、
設置・調整をしてもらう。

そうやって午後から始まる試聴の一番目にXRT18を聴いてもらえば、
問題はない、はずだった。

Date: 8月 5th, 2019
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その17)

沢村とおる氏、
それから74号でマーク・レヴィンソンにインタヴューした人が、
結果として誌面に掲載された記事を見て、どう思ったのかは、全く知らない。

沢村とおる氏とは一度も会っていない。
74号の人とは、その後も顔を合せ話もしているが、
74号のことについて何かいわれたことはない。

ただ、どちらの記事にしても、私が担当編集者だったわけではないから、
担当編集者には、なんらか反応があったのかもしれないが、
担当編集者から、そのことをきかされてもいない。

二人とも、私がやったことを、編集者の悪意と捉えているのかどうか。
どうでもいいことである。

私にしてみれば、こんなつまらない原稿を、平気な顔して編集者に渡してしまえる方が、
そこには悪意に近いものがある、と思う。

この人たちは、どこを向いて原稿を書いているのだろうか。
少なくとも読者を向いているとは思えない。

思えなかったからこそ、私は、ここに書いてきたことをやった。
ただそれだけのことである。

編集者も読者なのである。
いまならばインターネットで原稿は、パッと送信できるし、
すぐにコピーもできるから、原稿が届けば、
複数の編集者が読むこともできる。

でも私がいた時代は、原稿を取りに行っていた時代だ。
原稿を受けとって、会社に向う電車のなかで読む。

最初の読者なわけだ。
これこそ編集者の特権ともいえるわけだが、
ここでは編集者としてよりも、ステレオサウンドの読者、
オーディオマニアとしての読者として読んでいた。

Date: 7月 14th, 2019
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その16)

ステレオサウンド 74号掲載の記事は、
Celloを興したばかりのマーク・レヴィンソンへのインタヴューである。

ここには筆者名がない。
ほんとうは筆者名(オーディオ評論家)が入るはずだった。

マーク・レヴィンソンにインタヴューしたのは、その人であった。
記事をまとめて原稿を書いたのは、その人である。
けれど、記事には筆者名がないのは、
これも〆切りをすぎてあがってきたうえに、ひどい内容だったからだ。

書き直してもらう──、
その選択肢は時間的余裕がすでになくて無理だったし、
ここでも書き直してもらったからといって、よくなる可能性は低かった。

結局、どうしたかというと、私が書くこと、まとめなおすことになった。
筆者に渡していたテープ起しのワープロ原稿と録音したカセットテープとがある。

このテープ起しは、編集部で行ったのではなく、テープ起し専門の会社に依頼したものだった。
以前から、この会社に依頼していて、
担当もその都度かわるのではなく、専門用語が出てくることもあって、
同じ人がやってくれていたようだったが、それでもオーディオに関心のない人には、
荷が重い作業のはすだ。

テープを、今度は私が聞いてワープロで文字にしていった。
そのうえで新たに記事としてまとめたのが、74号に載っているものである。

この記事も私が担当ではない。
けれど時間が迫っていればそんなことはいってられない。

それに私が新たに書いたもののほうが、ずっと濃い内容になっている。
というか、なぜ、あそこまで薄い内容にまとめられたのかが、不思議なほどである。

ここまで読まれた人のなかには、
沢村とおる氏の名前は出していて、
74号の記事では、誰なのか書かないのか、と疑問に思われるかもしれない。

沢村とおる氏の場合は、不本意ながらそのまま原稿が記事になっているから、
記事に沢村とおる、とある。

けれどCelloの記事は、私の原稿だから、
編集部原稿となってしまったから、筆者名はない。
だから、ここでの誰なのかは書かないだけである。

Date: 7月 14th, 2019
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その15)

いまになって、三十年も前のことを、
具体的に書く必要があるのか、と疑問に思う人もいていい。

沢村とおる氏をダメな書き手と思われる人もいるだろうし、
私に批判的な人もいよう。

この項を読まれて、どう思われるのか。それは読み手の自由であって、
私は、編集者の悪意とは何か、について考えてもらいたいだけである。

沢村とおる氏の原稿を、担当者から「なんとかしてくれ」と渡されるまで、
こんな記事があったのを知らなかった。

アンケートの項目についても、どうも沢村とおる氏にまかせっきりだったようだ。
ステレオサウンドは70号の管球式アンプの特集でも、
国内外の管球アンプのメーカーにアンケートを送っている。

そこでの質問は、すべて編集部で話しあいながら決めたものだった。
私が出した質問も、二、三採用された。

こんな原稿になったのは、沢村とおる氏だけの責任ではない、とも思う。
それでも〆切りをすぎて、この程度の原稿である。
書き直してもらう時間も、書き直してならったからといって、よくなる保証はない。

せめてメーカーからアンケートへの回答が手元にあれば、まだどうにかできた可能性はあったが、
それすらない。
あるのは〆切りをすぎた程度の低い原稿のみである。

同じことは別の筆者でも、以前にあった。
74号(1985年春号)掲載の、
「Cello by Mark Levinson ミュージックレストアラー〝オーディオパレット〟登場」
がそうである。

Date: 7月 14th, 2019
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その14)

ステレオサウンド 88号で、
沢村とおる氏は、
《ユニットとエンクロージュアを相互に考えながら、一体化して考えていく》のが、
スピーカーの専門家(いわばメーカー)の考え方であって、
《ユニット構成に基づいて、それに一番適合したエンクロージュアを考える》のは、
アマチュアの考え方として書かれているが、
それはあくまでも沢村とおる氏の目にうつっている範囲内でしかない。

海外のスピーカーメーカーに目を向ければ、そうでないことは誰の目にも明らかなのに、である。
ここでのテーマは、
海外のスピーカーメーカーと日本のメーカーの、
スピーカー開発における考え方・手法の違いについて述べることではないので、
これ以上詳しくは書かないが、
JBLにしてもタンノイにしても、それからKEFもそうなのだが、
日本のメーカーが、新しいスピーカーを開発するにあたって、
新しいユニット、さらには新しい素材による振動板から開発するのに対して、
海外のメーカーは、既存のユニットをベースに、システムを組み立てていく。

もちろん、そこには既存のユニットであっても、
《ユニットとエンクロージュアを相互に考えながら、一体化して考えて》いっているはずであり、
アマチュアであっても、それは同じである。

もちろんアマチュアにはユニットを開発していくことは無理ではあるが、
既存のユニットを選び使い、
《ユニットとエンクロージュアを相互に考えながら、一体化して考えていく》ことは可能である。
なかには、そうでないアマチュアも少ないないとは思うが、
だからといって、沢村とおる氏の捉え方は、狭すぎる。

何かについて書くにあたって、
すべてのことを書くことは、まず無理である。
どこかで情報の取捨選択を迫られる。

それに書き手が、書くテーマについてすべてを知っていることなんて、
まずありえない。

意図的な取捨選択、そうでない取捨選択が常にあるのが原稿といえよう。

Date: 6月 28th, 2019
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その13)

沢村とおる氏の原稿を読んで、カチンときたところ以外にも、
不満をおぼえたところはまだある。

不満,だけではない、いったいこの人は、どういう立場で原稿を書いているのだろうか──、
そういう疑問もいっしょにくっついてきてのものである。

沢村とおる氏は《われわれアマチュア》という表現を複数回使われている。
なぜ、こんな表現を使うのか。

わざとへりくだっての《われわれアマチュア》なのだろうか。
けれど、いかにもアマチュアとしか思えない箇所もある。

 スピーカーシステムの商品化に当たって、汽車ではエンクロージュアの設計をどのようになさっていますか?
 (イ)ユニット構成に基づいて、それに一番適合したエンクロージュアを考える。
 (ロ)エンクロージュアのアイデアを生かしながら、合ったユニットを選ぶ。
 (ハ)ユニットとエンクロージュアを相互に考えながら、一体化して考えていく。

このアンケートについて、沢村とおる氏は、次のように書かれている。
     *
 これに対する解答は、無解答の1社を除いて、全メーカーが(ハ)と答えている。これは当然こうなるだろうと、予想していた通りの結果だが、分かっていることをなぜ尋ねたのかというと、われわれアマチュアがスピーカーシステムを自作する時は、そうではないからである。たいていは(イ)のケースがほとんどで、例えばJBLのユニットが良さそうだから、それを使おう。それに合ったエンクロージュアは、どんな形式で、どんな大きさのものがいいか? といったふうに、ユニットを決めてから、それに適合したエンクロージュアを選んでいくのが普通である。時にはエンクロージュアの面白さから(ロ)になることもあるが、(ハ)ということは、まずあり得ないといっていいだろう。これがアマチュアと、専門家であるメーカーの考え方の違うところである。
     *
確かに、このころの国産スピーカーメーカーは(ハ)であった。
けれど、だからといって、これだけで、
《これがアマチュアと、専門家であるメーカーの考え方の違うところ》と言い切れるものだろうか。

ここで思い出してほしいのは、海外のスピーカーメーカー、
この時代のJBL、タンノイといったメーカーのスピーカーづくりについて、である。

Date: 6月 28th, 2019
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その12)

1988年は、オーディオブームがすでに去っていたとはいえ、
まだまだオーディオ雑誌はいくつもあった。

いまよりも、オーディオ雑誌には、それぞれの個性といえそうなものがまだあった。
沢村とおる氏が書かれているように《重さには関心が持たれるようになった》のは事実だが、
それは一部のオーディオ雑誌のことであり、
その雑誌のすべての読者がそうであった、とまではいえない。

それをさもステレオサウンドでもそうであるように、
ステレオサウンドの読者もそうであるように、
つまり十把一絡げ的ものの捉え方であり、語り方をしている。

私は、だからタンノイのオートグラフとヴァイタヴォックスのCN191の写真を選んだ。
写真の扱いも大きくしてもらっている。

写真のネーム(説明文)は、
沢村とおる氏の本文に添う内容ではない。

ここでのネームは、ステレオサウンドが、それまで語ってきたことである。

この写真とネームを、沢村とおる氏はどう思われただろうか。
私は、この記事以降も、一度も沢村とおる氏とは会ったことがない。
どう思われたのかは、まったく知らない。

それにだ、可能性としては、記事そのものを読まれていないかもしれない。
ステレオサウンドの、それまでの記事をきちんと読んでいるのであれば、
こんな内容の原稿の元となった認識のひどさは生れなかったであろうから。

仮に読んでいた、としよう。
なんて編集者だ、と怒りを覚えられたかもしれない。
編集者の悪意だ、と思われたかもしれない。

Date: 6月 27th, 2019
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その11)

沢村とおる氏は、「スピーカーエンクロージュアづくりの秘密をさぐる」の冒頭に、
次のようなことを書かれている。
     *
 にもかかわらず、一般ユーザーの人々には、エンクロージュアの重要性は、まだそれほど認識されていないように思われる。確かに、重量化競争のせいで、重さには関心が持たれるようになったが、これは単に重ければいい、というものではないのはもちろんで、そこにどんなコンセプトがあり、どれだけのノウハウが注ぎ込まれているかに注目する必要があるのである。
     *
私は、この箇所で、まずカチンときた。
沢村とおる氏が、どういう経歴の人なのかは知っていたし、
菅野先生から、どんな人なのかも少しはきいていた。

菅野先生と沢村とおる氏とのスイングジャーナルでのやりとり、
というか、対立、もしくは喧嘩に近い的なことかあったのも知っていた。

とはいえ、沢村とおる氏とは一度も会ったことはなかった。
どんな人なのかは、白紙に近いところもあったわけだが、
この箇所を読んだだけで、こういう認識の人が、
スピーカーの開発に携わっているのか──、
まともなスピーカーが生まれるはずがない、
読んだ瞬間、そういう認識になってしまった。

ステレオサウンドを古くから読んでいる人ならば、
沢村とおる氏が、まったくステレオサウンドを読んでいないことは明白だろう。
本人は、しっかりと読んできた、というかもしれないが、
原稿を読めば、そうでないことはバレてしまう。

この人の、読んできたは、眺めてきたくらいものなのだろう。
別にステレオサウンドをしっかり読み込んでいなくてもいい、といえばそうだ。
書いたものが面白ければ、それでいい。

実際はそうではなく、認識不足も甚だしい。
この人は、オーディオマニア、
つまり自分が勤めている会社の客を、この程度と高を括っているとしか思えない。

Date: 6月 27th, 2019
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その10)

ステレオサウンド 87号(1988年夏号)の特集は、
「世界のスピーカー その新しい魅力を聴く」であり、
特集の最後には、沢村とおる氏による
「スピーカーエンクロージュアづくりの秘密をさぐる」という、
国産メーカー各社へのアンケート調査結果をまとめた記事がある。

沢村とおる氏は、スイングジャーナルの読者だった方は、
誌面で氏の名前をよくみかけられていたはず。

沢村とおるはペンネームで、よく知られている国産メーカーの人であった。
ちなみに沢村は、奥さんの旧姓である。

「スピーカーエンクロージュアづくりの秘密をさぐる」は、私の担当ではなかった。
けれど、担当者から、原稿を渡され、どうにかならないか、といわれた。

読むと、これを載せるのか、と思った。
担当者が困り果てているのもわかる。
しかも〆切りをすぎての原稿で、その程度の出来でしかなかった。

もっと早くにあがってきた原稿ならば書き直しというのがいいわけだが、
そんなことはいってられない。

結局どうしたかといえば、記事を読まれた方ならばわかるように、
沢村とおる氏による本文と、
記事で掲載した写真の説明文とは、正反対の内容になっているところがある。

どの写真を使うか、その写真の説明文は私がやっている。

編集作業も終り近くになっての青焼き校正で、
担当者と私以外の編集者も、本文と写真を同時に見る(読む)ことになる。と
そこで、Sくんが
「本文とネーム(写真の説明文)、まるで逆のことをいっているじゃないですか」
と訊いてきた。

私は「それでいいんだ」と答えた。

Date: 6月 21st, 2019
Cate: ジャーナリズム, 広告

「タイアップ記事なんて、なくなればいい」という記事(その2)

(その2)をすぐ書こうと考えていた。
けれど、「タイアップ記事なんて、なくなればいい」へ、どれだけの人がアクセスするのか、
それが気になっていた。

これまでもいくつものリンクをしてきたけれど、
ほとんどの人はリンク先のウェブページを見ていないことはわかっている。

ほんとうに少ない。
ほとんどの場合、1%を切る。
10%ではない、1%に届かないのである。

今回は、いつものよりは多かった。
かなり多かったといえる。
それでも10%に届かない。

これまででいちばん多かった時でも、だいたいそのくらいだったから、
今回もそのくらいかも……、とはある程度は予想していた。

でも、「タイアップ記事なんて、なくなればいい」は、多くの人に読んでもらいたい記事である。
それでも10%に達してない。

このブログを読んでいる人であっても、
こういうことには関心をもたないのか……。

タイアップ記事がなくならない原因の一つは、そういうところにあるのかもしれない。

結局、ほとんどの人は、オーディオ雑誌に何の期待もしていないのか。
そんなふうにも思えてくる。

期待していないから、不満もないのか。

そんなことなどをおもいながら、(その3)以降をどう書こうかな、とぼんやり考えている。

Date: 6月 18th, 2019
Cate: ジャーナリズム, 広告

「タイアップ記事なんて、なくなればいい」という記事(その1)

どちらかというと眺めているだけに近いのが、
いまの私のSNSとの接し方である。

facebookは毎日眺めているけれど、
twitterは、しばらく前は一ヵ月に一度くらい、
いまは一週間に一度くらい眺めて程度になっている。

それでもどちらかでつながっている人が、おもしろい記事をリンクしてたりする。
今日も、そうやって一本の記事を読むことができた。

タイアップ記事なんて、なくなればいい」である。

楠瀨克昌氏が書かれている。
上記記事は、楠瀨克昌氏による「JAZZ CITY」のなかの一本である。

楠瀨克昌氏がどういう方なのかは、
「タイアップ記事なんか、なくなればいい」を読んでいくとはっきりしてくる。

雑誌がどうやってつくられていくのかを理解していない人が書いた文章ではない。
広告が入っている雑誌の記事なんて信用できない、
そういう人は少なくない。

そういう人こそ、「タイアップ記事なんか、なくなればいい」を、
じっくり読んでほしい。

《メディアの記事には編集記事と純広告、この2つしか存在しない》
とある。
これが雑誌の本来のあり方であって、
そうであれば、広告が入っている雑誌の記事なんて……、という意見は、
なくなることはないにしても、そうとうに減ってくるであろう。

なのに実際のところ、編集記事と純広告、
この二つしかない雑誌なんて、オーディオ雑誌にはない。