Archive for category 「本」

Date: 5月 7th, 2018
Cate: 「本」

雑誌の楽しみ方(書店の楽しみ・その3)

数週間前に山下書店の渋谷店が閉店になることを書いたばかりなのに、
今日は、六本木の青山ブックセンターが閉店になる、というニュースだ。

最後に六本木の青山ブックセンターに行ったのは、一年近く前。
それも青山ブックセンターが目的ではなく、
ほかの用で六本木に行ったついでに寄っただけなのだから、
6月25日に閉店する、というニュースを知っても、とても残念だ、という気持があるわけではない。

それに青山本店は今後も営業していくのだから。
それなのにこんなことを書いているのは、
今回のニュースで初めて知ったのだが、
青山ブックセンターの六本木店がオープンしたのは1980年。
AXISビルが1981年で、WAVEが1983年にオープンしている。

私がステレオサウンドで働くようになったのが1982年1月。
それ以前の六本木を知っているわけではない。
私が知っている六本木は、1982年からの六本木である。

このころ六本木は少し変っていったのではないだろうか。
いまは、すごく変っているけれど。

青山ブックセンター、AXIS、WAVE。
この三つは、六本木で働きはじめた田舎出身の私には、
六本木を象徴する存在のようでもあった。

最初にWAVEが消えていった。
もうじき青山ブックセンターも消える。

だから、ちょっとだけ寂しい気持はある。

Date: 4月 19th, 2018
Cate: 「本」

雑誌の楽しみ方(書店の楽しみ・その2)

2月に、渋谷の山下書店にのことを書いた。
田舎で馴れ親しんだ書店らしい書店だと感じていた。

ステレオサウンドは、私がいたころは六本木にあった。
青山ブックセンターも六本木にあった。

ステレオサウンドで働くことで、青山ブックセンターを知った、といってもいい。
これが東京の書店なのか、と、
三省堂や紀伊國屋書店に初めて入ったときとは、また違う感想をもったものだった。

山下書店と青山ブックセンターは、ずいぶん違う。
あのころ青山ブックセンターは深夜まで営業していた。
山下書店の渋谷店も、一時期まで24時間営業だった。

あるときから青山ブックセンターのコピーのような書店が、東京に増えてきた。
そのすべてとはいわないが、スカした書店が増えてきた。
スカした書店は、スカした品揃えで、スカした客が集まる。

優れた本でも、スカした書店で、スカした品揃えのように並べられると、
スカした客の手に渡る。

こうしたスカした書店は、エロ本は当然のことながら、置いてない。
エロ本がないからスカした書店なわけではない(念のため)。

スカした客が集まる書店では、
いったい誰が買うんだろう……、という本もある。
私が何度か目にした範囲では、スカした客が手にしていた。

話は飛躍するが、こうしたスカした人たちが、
デザインのパクリを平然とやっているように見えるのだ。

渋谷の山下書店は、4月26日で閉店する。
このあたりは渋谷の再開発に含まれるのだろうか。

渋谷から山下書店がなくなる。
こういう書店は減っていくだけなのか。

Date: 4月 13th, 2018
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その11)

株式会社ファーストリテイリングの単独スポンサーによって「考える人」は、
新潮社から出ていた。

単独スポンサーゆえに、その会社が降りてしまえば、
そして次のスポンサーが見つからなければ、それで終りとなる面ももつが、
「考える人」のオーディオ版は、やはり無理なのか、とずっと思っていた。

「考える人」だから単独スポンサーがついた、ともいえる。
オーディオ雑誌に、単独スポンサーがつくだろうか。

オーディオメーカーが単独スポンサーについたのでは、意味がない。
オーディオと関係のない会社で、オーディオ雑誌の単独スポンサーになるところ、
そんな会社、あるわけがない──、と思い込んでいた。

先月のKK適塾が終って、数日後、ふと思いついた。
もう完全に妄想の領域であるし、可能性としてはゼロではないだろうが、
限りなく近いこともわかっている。

わかったうえで書いている。
川崎先生が編集人・発行人としてのオーディオとデザインの雑誌ならば、
DNPが単独スポンサーになることだって、可能性としてはまったくゼロではないはずだ。

Date: 2月 6th, 2018
Cate: 「本」

雑誌の楽しみ方(書店の楽しみ・その1)

渋谷駅の南口に山下書店がある。

以前はよく渋谷にも出掛けていたが、ここ十年ほどは、めっきり足が向かなくなった。
以前ならばタワーレコードがあるし、東急ハンズもあるし、ということだけで渋谷に出掛けていた。

たまに渋谷に行ってもタワーレコードに寄って、
そのまま原宿まで歩いて電車に乗る、といった感じだ。

山下書店がある側にはほんとうに行かなくなっていた。
昨年12月、山下書店の前を通ることが数回あった。

特に買いたい本があったわけではないが、
ひさしぶりだな、と思って入った。

ぐるっと店内を一周して思ったのは、
山下書店には成人雑誌(ようするにエロ本)のコーナーがあった。

書店には小学生のころから行っている。
私が住んでいた熊本のイナカ町の書店にも、エロ本が置かれているコーナーがあった。
むしろ、この手の本をまったく置いてない書店はなかったように記憶している。

書店(というより本屋)は、そういうものだという認識が私にはある。
そんな私だから、山下書店にその手の本のコーナーがあって、いい本屋さんだな、と思った。

いまでは個人経営の書店からも、この手の本のコーナーはなくなりつつある。
いつごろからそうなっていったのだろうか。

雑誌がつまらなくなっているように感じはじめたころと、
書店からエロ本が排除されるようになってきたころというのは、無関係なのだろうか。

Date: 8月 7th, 2017
Cate: 「本」

雑誌の楽しみ方

とんかつこそ男の好物だ、
そう思っている私。

いま書店に並んでいるBRUTUS 852号
特集は「とんかつ好き。」

すぐに手にとりたくなる企画、
でもすこし待った。

とんかつ好きの男、
それも編集経験がある男。

「とんかつ好き。」の特集、
どういう内容にするのか、考えた。

考えたあとに、インターネットで、
「とんかつ好き。」の目次をみた。

これは買おう、と思った。
明日にでも買うつもりだ。

こんなふうにして、オーディオ雑誌をみてみるといい。
これは買おう、と思わせてくれないのばかりだ。

Date: 7月 12th, 2017
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオ評論の本と呼ぶ理由(その1)

これまで何度か、ステレオサウンドはオーディオ評論の本だった、と書いている。
残念なのは過去形でしか書けないことだが、
いまのステレオサウンド編集部は、
おそらくステレオサウンドを、オーディオ評論の本とは思っていないだろう。

私は見ていないのだが、いま書店に並んでいるステレオサウンド 204号の編集後記に、
ある編集者が、ステレオサウンドを「オーディオの本」としている、らしい。

少し前に、ステレオサウンドはオーディオ評論の本、と書いたことに対し、
facebookにコメントがあり、ステレオサウンドは雑誌コードがついている雑誌であり、
コメントをくださった方は、出版に関係する仕事をされていて、
私が、ステレオサウンドを「本」と称することが気になっていた、とある。

ステレオサウンドはオーディオ雑誌である。
それは私も、そう思っている。
だから、いまのステレオサウンドを、オーディオ評論の本とは絶対に書かないし、
オーディオの本とも思っていない。
あくまでもオーディオ雑誌として捉えている。

本という言葉は単行本を、まずイメージさせる。
単行本と雑誌、どちらが出版物として上位かということは関係ない。
上も下もない。

どちらも本であるわけだが、
本はbookであり、bookからイメージされるのは単行本であり、
雑誌はmagazineであり、magazineからは単行本がイメージされることはない。

ここまで書いていて、ふと思い出したのが、黒田先生の文章である。
     *
 最近はあちこちに書きちらしたものをまとめただけの本ばかりが多くて——と、さる出版社に勤める友人が、あるとき、なにかのはずみにぼそっといった。もうかなり前のことである。その言葉が頭にこびりついていた。
 その頃はまだぼくの書いたものをまとめて出してくれる出版社があろうとは思ってもいなかった。なるほど、そういうこともいえなくはないななどと、その友人の言葉を他人ごとのようにきいた。
 三浦淳史さんが強く推薦してくださったために、この本が東京創元社から出してもらえることになった。むろん、うれしかった。ところが、それこそあちこちに書きちらしたものをいざ集める段になって、かの友人の言葉が頭の中で去来しはじめた。作業を進めながら、うれしくもあったが、気が重かった。
 最初に雑誌のために文章を書いたのは一九五九年である、と書いて自分でも驚いているところである。四半世紀近くも書いてきたことになる。もうそんなになるのか。信じがたい。
 書いたものの整理はまったくしていなかった。この本をまとめるために、やむをえずある程度は整理しなければならなかった。雑誌の切りぬきをまとめてみたら、ダンボール箱に五箱あった。へえーと、これまた驚かないではいられなかった。
     *
東京創元社から出ていた「レコード・トライアングル」のあとがきからの引用だ。
ここでの本とは、「レコード・トライアングル」のことでり、それは雑誌ではなく単行本である。

Date: 3月 30th, 2017
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その10)

(その10)を書こうと思いながらも、
他のことを書くことを優先していたら、(その9)から一年半以上経っていた。

この一年半のあいだに、大きく変ったことがある。
「考える人」の休刊が、今年2月15日に発表になった。
4月4日発売の2017年春号で休刊となる。

「考える人」のメールマガジンを読んでいる。
そこに、こうある。
     *
 先日、ばったり顔を合わせた同年代の編集仲間に冷やかされました。「考える人」みたいな雑誌を作ってしまうと、病みつきにならないか? 一度この味を覚えたら、忘れなくなるだろう、というのです。たしかに、そういう面は否定できません。1世紀以上の歴史と伝統を持つ出版社の基盤の上で、高いスキルを持った編集スタッフの力を借りながら、だ一戦の人たちの寄稿を仰ぎ、また創刊以来、単独スポンサーとして支援して下さった株式会社ファーストリテイリングの伴走を得て、思う存分に作ってきた雑誌です。手前みそになりますが、WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の日本チームを率いて戦うような醍醐味を満喫できたのは、編集者として大変に恵まれたことだったと思います。この後の「考える人」ロスが心配です。
     *
《病みつきにならないか? 一度この味を覚えたら、忘れなくなるだろう》、
ここだけ抜き出せば、なにか麻薬のことをいっているようにも聞こえる。

「考える人」という雑誌は、そのくらい編集者にとっては、
雑誌の編集者にとっては、これ以上は求められないくらいの環境である。

株式会社ファーストリテイリングの単独スポンサーということのウェイトは、大きい。
大きすぎた、ようにも、いまは思う。

創刊15年で、「考える人」は休刊となる。

Date: 10月 21st, 2016
Cate: 「本」

オーディオの「本」(読まれるからこそ「本」・その3)

私が小学生、中学生のころは、
田舎町にも書店は何軒もあった。
それから貸本屋もけっこうあった。

貸本にはハトロン紙というのだろうか、半透明の白い紙のカバーがつけられていた。
東京にも貸本屋があるのを意外に感じたのは、30年以上の前のこと。
東京も貸本屋は少なくなってきた。

いま住んでいるところには、徒歩10分ほどのところに一軒ある。
客はあまり見かけないが、ずっと続いているから需要はあるのだろう。
個人経営の書店は近辺で三軒なくなったが、この貸本屋は残っている。

AmazonのKindle Unlimitedは、インターネット上の貸本屋と思う。
そういう時代を生きてきたからなのかもしれないが、
Kindle Unlimitedという横文字の名称であっても、
毎月定額で読み放題の貸本屋がインターネットにあるのと同じである。

貸本には半透明の紙のカバーがついていた。
そのカバーを外して読むことは出来なかった。
だから書店で買ってきた本とは感触が微妙に違う。

この感触の違いはKindle Unlimitedにもある。
紙の本とは違う感触が、そこにある。

Date: 10月 21st, 2016
Cate: 「本」

オーディオの「本」(読まれるからこそ「本」・その2)

少し前に、講談社、小学館などの雑誌、人気書籍が、
突然、それも一方的に削除されたニュースがあったAmazonのKindle Unlimited。

月額980円で登録されている本は読み放題というサービス。
最初のラインナップを見て、会員にはならなかった。

今日知ったのだが、ステレオサウンドがKindle Unlimitedにある
いまのところ188号から最新の200号までが会員になれば読める。
HiViもあるし、菅原正二氏の「聴く鏡 II」、和田博巳氏の「ニアフィールドリスニングの快楽」もある。

ステレオサウンドの他に、音元出版もある。
無線と実験、ラジオ技術はいまのところない。

Kindle Unlimitedの会員であれば読み放題であるけれど、
会員をやめれば読めなくなる。
会員のあいだに読んだ本を自分の本にできるわけではない。
所有ではなく読む権利が、月額980円で得られるからだ。

ステレオサウンドだけを読むだけが目的なら、Kindle Unlimitedは高くつく。
ステレオサウンドは三ヵ月に一冊だから、980円の三ヵ月分はステレオサウンドよりも高くなる。

けれどステレオサウンドしか読まないという人はまずいないだろうから、
安い、ということになる。
Kindle Unlimitedへの誘導なのだろう、
ステレオサウンド 199号のKindle版は今なら99円になっている。

私はステレオサウンドがKindle Unlimitedで読めるようになるとは思っていなかった。
正直、意外な感じがした。

本は読まれなければ「本」ではない。
ページをめくるのは、紙の本も電子書籍も指である。

Date: 8月 27th, 2015
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その9)

私がステレオサウンドにいたころ、編集顧問のYさんから聞いた話がある。
Yさんは中央公論やマガジンハウスの仕事も当時されていた。

正確な日付はおぼえていないが、1980年代の終りごろ聞いている。
マガジンハウスが新雑誌を創刊する際の話だった。

マガジンハウスとステレオサウンドでは出版社としての規模が大きく違う。
オーディオマニアでなければステレオサウンドの名前は知らない人の方が多いだろうが、
マガジンハウスの名前を知らない人はそう多くはないだろう。

話の中でもっとも驚いたのは、予算についてだった。
金額ははっきりとおぼえているけれど、ここで書くようなことではない。

1980年代後半はバブル期に入りはじめたころということもあっただろうが、
そんなに多いのか、と唖然とした。

その予算は新雑誌をつくるためだけでなく、新雑誌の広告にも使われるとのことだったけれど、
それだけの潤沢な予算があれば、新雑誌づくりにかかわる人たちもかなりの数なのだろう。

ステレオサウンドが創刊されたのは、その話の約20年前のことだ。
時代が違うとはいえ、ステレオサウンドの創刊には潤沢な予算はなかったことは聞いていた。

ステレオサウンドの創刊号(1号)の表紙は、2号以降の表紙とは趣が異る。
ロゴも違うけれど、写真が大きく、それ以降の写真とは異る雰囲気のものである。

ステレオサウンドの創刊は、ほんとうに大変だったと原田勲氏から聞いている。
表紙の件についても聞いたことがある。

ほんとうは、こんな表紙にはしたくなかった、そうだ。
けれど予算が尽きて、窮余の策としてとあるメーカーの写真を採用することになった、と。
つまり表紙を売らなければ、ステレオサウンド創刊号を世に送り出すことはできなかったそうだ。

すべての雑誌にとって、創刊号の表紙は大事である。
原田勲氏の頭の中では、まったく別の表紙のプランがあったはずだ。

けれど創刊号を出せるかどうかの瀬戸際では、そんなことはいってられない。
なんとしてでも創刊号を出す。

ステレオサウンド創刊号の表紙は、その顕れである。
もし別の選択をされていたら、ステレオサウンドは世に出なかったかもしれないのだから。

Date: 8月 25th, 2015
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その8)

ステレオサウンドが創刊された昭和41年(1966年)はどうだったのか。
私は昭和38年生れだから、この時代のことを肌で知っているわけではない。

活字で、そしていろいろな人の話を聞いて知っているにすぎない。
1966年は、どうだったのか。
     *
 ぼくは、「ステレオサウンド」が創刊された昭和四十一年以前には、ほんとうの意味でのオーディオ専門誌というのは、存在しなかったと認識しているんです。もちろん、だからといってオーディオファンが存在しなかったわけではありません。ただ、その当時までのオーディオファンというのは、電気の知識をもっていて、自分でアンプを組み立て、スピーカーも組み立てる、というタイプが圧倒的に主流を占めていたわけですね。いいかえると、自分で作れないひとは、だれかそういうファンに再生装置一式を製作してもらわないことには、ロクな装置が手に入らないという時代だった。
 そして、そろそろメーカーが、今日でいうところのコンポーネント、むろん当時はまだコンポーネントという言葉がなかったわけだけれど、そういうパーツを製作しはじめていたんです。しかしそれにもかかわらず、自作できないレコード愛好家やオーディオ愛好家と、そうしたメーカーとの間を橋渡しする役目のジャーナリズムというはなかったと思います。たぶん世の中では、そういうものを欲しがっていた人たちが増えてきているということに、鋭敏な人間はすでに感じていたと思うんですけれどもね。
 いまふりかえってみると、この昭和四十一年という年は、たいへんおもしろい年だったと思います。たしかこの年に、雑誌「暮しの手帖」が卓上型ではあったけれども、はじめてステレオセットを取り上げてテストをしているんです。それからもうひとつ、なんと「科学朝日」がステレオの特集をやって、ぼくも原稿を書いているんですね。もちろんこの雑誌の性格から、ステレオの原理とかそういった方向での記事だったわけですけれど、ともかくステレオを特集して取り上げている。さらには「ステレオ芸術」誌の原型にあたるといえる雑誌が、「ラジオ技術」誌の増刊というかたちで、「これからのステレオ」というタイトルで発刊されているんです。つまり、いろいろな雑誌がオーディオを取り上げるようになった、さらにはオーディオ専門誌を作ろうという動きが具体化してきた、それがこの昭和四十一年という年に集中したわけですね。
 そうした動きのなかで、この「ステレオサウンド」誌が創刊されたということです。
     *
ステレオサウンド 50号の巻頭座談会
《「ステレオサウンド」誌50号の歩みからオーディオの世界をふりかえる》での、瀬川先生の発言だ。

瀬川先生の、ステレオサウンド以前に、ほんとうの意味でのオーディオ専門誌というのは、存在しなかった──、
この認識は正しい。
そしてもうひとつ言えることは、既存の出版社が既存の雑誌でオーディオ(ステレオ)を取り上げたり、
既存の出版社が、オーディオの別冊を出しているわけだが、
ステレオサウンドは、既存の出版社から創刊されたわけではないということだ。

ステレオサウンドを出版するために、ステレオサウンドという会社がつくられた。
その意味でステレオサウンドという《ほんとうの意味でのオーディオ専門誌》は、
出版社からの創刊ではなく、原田勲という出版者による創刊だった。

けれどいまは、株式会社ステレオサウンドという出版社からの出版物のひとつになってしまっている。

Date: 8月 24th, 2015
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その5への補足)

その5)に、
ステレオサウンドが出版している過去の記事をまとめたムックについて、
過去の記事を一冊の本にまとめることが、過去を大きな物語として語ることではない、と書いた。

このムックは、いまのところ編集部の人が記事を選び編集している。
これをステレオサウンドの執筆者の責任編集としてみたら、どうだろうか。

柳沢功力氏、傅信幸氏、和田博巳氏、小野寺弘滋氏、三浦孝仁氏、
この人たちに、ひとり一冊のムックの責任編集を行ってもらう。

そのムックに載せる記事は、何も当人が書いた記事に限らない。
他の人の記事を選んでもいい。

とにかく、その人が考える「過去を大きな物語として語る」ために必要な記事を選んでもらう。
それだけでは過去を大きな物語として語ったことにはならないから、
選んだ記事をどう並べていき、
どこに物語として語るために必要なことを書いてもらう。

その文章をどこに挿入するのかも、その人の自由である。
記事と記事のあいだなのか、すべての記事をはさむように巻頭と巻末におくのか、
いくつかのやり方があり、ムックの構成を含めての責任編集である。

これは面白いムックになると思う。
責任編集をする人のバックグラウンドがはっきりしてくるはずだからだ。

Date: 8月 23rd, 2015
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その7)

季刊誌ステレオサウンドは、株式会社ステレオサウンドから出ている。
株式会社ステレオサウンドは、来年秋に創立50年を迎える出版社である。

私がステレオサウンドを読みはじめたころ、
株式会社ステレオサウンドは、季刊誌ステレオサウンドのほかは、
隔月刊誌のテープサウンド、それと半年に一度のHI-FI STEREO GUIDEだけが定期刊行物だった。
私が働きはじめたころは、月刊誌サウンドボーイが加わっていた。

現在の株式会社ステレオサウンドはもっと多くの定期刊行物を出している。
サウンドボーイはHiViになり、
テープサウンドはプロサウンドに変り、
管球王国、ビートサウンドなどいくつもの定期刊行物を創刊・発行している。

いまでは季刊誌ステレオサウンドは、
株式会社ステレオサウンドという出版社が発行している雑誌である。

こんなことを書くのは、私が読みはじめたころは違っていた。
少なくとも私の感じ方は違っていたからだ。

ステレオサウンドは、ひとつのブランドという認識だった。
だからテープサウンドもHI-FI STEREO GUIDE、サウンドボーイも、
ステレオサウンドというブランドが発行するオーディオ関係の雑誌・本という受けとめ方をしていた。

もちろん株式会社ステレオサウンドが出版社であることは、いまも昔も変らない。
それでもいまから40年ほど前、ステレオサウンドはブランドといえた。

私が書きたいのは、そのことではない。
もっと以前のこと、ステレオサウンド創刊のころである。

Date: 8月 23rd, 2015
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その6)

このブログは2008年9月に始めた。
その約一年後に、”the re:View (in the past)“を始めた。

このブログのために必要だと思い始めた。
川崎先生が書かれているように、《ジャーナリズムというのは、基本は日々の記録》であり、
それはどんなに速報性が高かろうと、記録する時点で過去である。
ならば、過去の日々の記録も求められるのではないか。

始めたころは、いまのように時系列順に並べていたわけではなかった。
ブログは紙に印刷して読むものではない、
パソコンのディスプレイ、スマートフォンやタブレットで読む。
そのことを考えると、時系列に並べる必要性それほど感じなかったからである。

けれど、広告という日々の記録も”the re:View (in the past)”で公開しようと思い立ち、
時系列順に並び替えることにした。

ブログは日々の記録に向いている。
この「向いている」性質は、過去の日々の記録にもいえることだ。

ブログは公開日時を自由にできる。
10年前、20年前の日付でも簡単に設定できる。

ある程度つくったところで時系列順に並べ替えることはけっこうな手間だったけれど、
やってよかったと思っている。

今日の時点で”the re:View (in the past)”でオーディオの広告を、1600点以上公開している。

昨年から”JAZZ AD!!“で、
スイングジャーナルに掲載されたレコード会社の広告も公開しはじめた。

広告ページをスキャンするために、本をバラす。
そのままスキャンすると、昔の雑誌は紙が薄いこともあって反対側の印刷がすけて一緒にスキャンされる。
これを少しでも防ぐために黒い紙を用意する。
それでも完全に防げるわけではない。そして昔の本は紙が黄ばんでいることが多い。
それから傾いて印刷されているのも少なくない。

これらをレタッチで修整していく。
簡単に処理が終ることもあれば、意外に手間どることもけっこうある。
面倒だな、と感じることもないわけではない。

にも関わらず続けているのは、小さな発見があるからだ。
先日も、この項に関係する、小さな発見があった。

スイングジャーナル1972年2月号の、日本コロムビアの広告である。
ここに「注目のカルダン・レコード第一弾!」とある。

ジャズに詳しい人ならば知っていることなのだろうが、
私はピエール・カルダンがレコード・レーベルをもっていたことを、この広告で知った。

レコードも出版の形態のひとつと考えれば、
(その1)で紹介したWIREDの記事《出版の未来は「出版社」ではなく「ブランド」にある》の例といえよう。

この記事は本の出版に関してだが、レコードという種パンに関してもそういえるのではないか。
これについては、いずれ書いていきたい。

ここで書いていくのは、本の出版に関してであり,
ステレオサウンドという本は、出版社から始まったわけではない、ということだ。

Date: 8月 23rd, 2015
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その5)

川崎先生のブログ《広報誌がまだジャーナリズムである》には、こう書いてある。
     *
ジャーナリズムというのは、基本は日々の記録であり、
それはナラシオンから離脱した大きな物語から小さな物語が、
出版そのものの革新性が求められているという重大な事に、
いわゆる雑誌というメディアはHP辺りでうろうろしていることです。
まず、過去を大きな物語として語れる編集者は消滅しました。
     *
《過去を大きな物語として語れる編集者》の消滅は、
ステレオサウンドを見ていても強く感じている。
別にステレオサウンドだけではない、他のオーディオ雑誌も同じなのだが。

そんなことはないだろう、
ステレオサウンドは別冊として、過去の記事まとめたムックをけっこうな数出版しているんじゃないか、
そんな反論が返ってきそうだが、
過去の記事を一冊の本にまとめることが、過去を大きな物語として語ることではない。

ただ思うのは、《過去を大きな物語として語れる編集者》の消滅は、
ジャーナリズム側だけの問題なのだろうか、という疑問だ。
《過去を大きな物語として語れる編集者》が消滅していたのは、
物語を読みとろうとする読者が消滅しつつあるからなのかもしれない、と思うからだ。

もっともこの問題は、鶏卵前後論争にも似て、
《過去を大きな物語として語れる編集者》が消滅していったから、読者もそうなっていったのかもしれないし、
読者がいつのまにか雑誌から物語を読みとろうとしなくなってきたから、
《過去を大きな物語として語れる編集者》が消滅していったのかもしれない。
オーディオの雑誌に関するかぎり、そのようにも感じてしまう。

そういうおまえはどうなんだ、と問われたら、
《過去を大きな物語として語れる編集者》としてはまだまだと答えるしかないが、
それでもこのブログを、私は自己表現とは考えていない。
別にこのブログだけではなく、文章を書くことが自己表現だとは考えていない。

私自身が読みとった・気づいた小さな物語をいくつも書いている。