Archive for category 「本」

Date: 10月 21st, 2016
Cate: 「本」

オーディオの「本」(読まれるからこそ「本」・その3)

私が小学生、中学生のころは、
田舎町にも書店は何軒もあった。
それから貸本屋もけっこうあった。

貸本にはハトロン紙というのだろうか、半透明の白い紙のカバーがつけられていた。
東京にも貸本屋があるのを意外に感じたのは、30年以上の前のこと。
東京も貸本屋は少なくなってきた。

いま住んでいるところには、徒歩10分ほどのところに一軒ある。
客はあまり見かけないが、ずっと続いているから需要はあるのだろう。
個人経営の書店は近辺で三軒なくなったが、この貸本屋は残っている。

AmazonのKindle Unlimitedは、インターネット上の貸本屋と思う。
そういう時代を生きてきたからなのかもしれないが、
Kindle Unlimitedという横文字の名称であっても、
毎月定額で読み放題の貸本屋がインターネットにあるのと同じである。

貸本には半透明の紙のカバーがついていた。
そのカバーを外して読むことは出来なかった。
だから書店で買ってきた本とは感触が微妙に違う。

この感触の違いはKindle Unlimitedにもある。
紙の本とは違う感触が、そこにある。

Date: 10月 21st, 2016
Cate: 「本」

オーディオの「本」(読まれるからこそ「本」・その2)

少し前に、講談社、小学館などの雑誌、人気書籍が、
突然、それも一方的に削除されたニュースがあったAmazonのKindle Unlimited。

月額980円で登録されている本は読み放題というサービス。
最初のラインナップを見て、会員にはならなかった。

今日知ったのだが、ステレオサウンドがKindle Unlimitedにある
いまのところ188号から最新の200号までが会員になれば読める。
HiViもあるし、菅原正二氏の「聴く鏡 II」、和田博巳氏の「ニアフィールドリスニングの快楽」もある。

ステレオサウンドの他に、音元出版もある。
無線と実験、ラジオ技術はいまのところない。

Kindle Unlimitedの会員であれば読み放題であるけれど、
会員をやめれば読めなくなる。
会員のあいだに読んだ本を自分の本にできるわけではない。
所有ではなく読む権利が、月額980円で得られるからだ。

ステレオサウンドだけを読むだけが目的なら、Kindle Unlimitedは高くつく。
ステレオサウンドは三ヵ月に一冊だから、980円の三ヵ月分はステレオサウンドよりも高くなる。

けれどステレオサウンドしか読まないという人はまずいないだろうから、
安い、ということになる。
Kindle Unlimitedへの誘導なのだろう、
ステレオサウンド 199号のKindle版は今なら99円になっている。

私はステレオサウンドがKindle Unlimitedで読めるようになるとは思っていなかった。
正直、意外な感じがした。

本は読まれなければ「本」ではない。
ページをめくるのは、紙の本も電子書籍も指である。

Date: 6月 24th, 2016
Cate: 「本」

「聴覚の心理学」

先日「聴覚の心理学」という本を手に入れた。
共立出版株式会社の現代心理学体系の一冊であり、昭和32年(1957年)に出版されている。

私が手に入れたのは昭和39年の初版第三刷。
ずいぶん前の本であり、しかも注文伝票(しおり状のもの)がついたままなのだから、
どこかの書店に売れずに残ったものだったのかもしれない。

著者は黒木総一郎氏。
奥付の著者紹介には、こう書いてある。
     *
大正3年神戸市に生る。
昭和12年東京大学文学部心理学科卒業後、同大学文学部副手、助手、嘱託を歴任、その間東京市立聾学校、陸軍航空通信学校嘱託などを兼任。
戦後外務省嘱託、相模女子大講師などを経て、昭和25年日本放送協会に入り、現在同協会技術研究所音響効果研究室主任。なお昭和25年夏から一年余米国に留学、アイオワ大学およびハーヴァード大学大学院学生として、またMIT電子工学研究所客員として音響心理学を専攻した。
     *
ほとんど忘れかけていた本である。
この本のことを知ったのは、ラジオ技術の別冊に武末数馬氏が書かれていたからだ。
そのころ手に入れようといくつか古書店を探しても見つからなかった。
それでいつしか忘れかけていた。

それをたまたま思い出して(といっても書籍名だけである)、検索してみた。
うろ覚えに近かったけれど、インターネットは便利になったと、こういうときに感じる。
筆者名もすぐに出てくる。そしてインターネットで注文した。

読み終えたわけではないから、目次だけを書き写しておく。

第1章 聴覚刺戟の性質
 第1節 音波
 第2節 音の波形
 第3節 音響スペクトル
 第4節 周波数の測定
 第5節 音の強さ
 第6節 デシベル
第2章 聴覚の生理学
 第1節 耳と聴覚
 第2節 外耳
 第3節 中耳
 第4節 内耳
 第5節 聴神経
 第6節 聴覚中枢
 第7節 聴覚異常
第3章 音の心理物理学
 第1節 音ときこえ
 第2節 可聴範囲
 第3節 マスキング
 第4節 弁別限
 第5節 音の周波数と高さ
 第6節 音の強さと高さ
 第7節 両耳効果と音の定位
 第8節 音の変化の知覚
 第9節 音色の知覚
第4章 音のない世界 ──ろうと難聴──
 第1節 聴力とは
 第2節 各種聴力検査法の比較
 第3節 純音聴力検査
 第4節 骨導聴力の検査
 第5節 語音聴力の検査
 第6節 各種聴力検査と補聴器
 第7節 年齢と聴力
 第8節 騒音と聴力
第5章 音だけの世界
 第1節 聴覚と通信
 第2節 言葉の伝送
 第3節 音楽の伝送
 第4節 Hi-Fiの問題

 附録1 オージオメーター(規格)
 附録2 指示騒音計(規格)
 附録3 簡易騒音計(規格)
 附録4 デシベル換算表

これを見て興味を持つ人もいれば、まったく持たない人もいよう。 

Date: 11月 8th, 2015
Cate: 「本」

「音楽と音響と建築」

1972年に鹿島出版会から「音楽と音響と建築」という本が出ている。
レオ・L・ベラネク(Leo L. Beranek)の本である。

この本の存在を知ったのは、ステレオサウンドに入ってからである。
バックナンバーを読んでいて、こういう本があるのか、
買おうと思っていたのが見つけられずに、そのまま忘れてしまっていた。

それを思い出したというか、
調べものをするためにステレオサウンド 26号をひっぱりだしていた。
調べたいこと(というより確認したかったこと)はすぐにすんだ。
ぱらぱらページをめくっていた。

そして「音楽と音響と建築」の存在を知った記事にふたたび出あった。
保柳健のレコード時評という記事で、26号の回には「無形の価値」というタイトルがついている。

26号は1973年に出ている。
このころ、三菱地所が東京・内幸町のNHK会館跡地を落札したことが話題になっていた(らしい)。
「無形の価値」のそのことから始まる。

「音楽と音響と建築」は、ここに登場してくる。
その部分を引用しておく。
     *
 もう一つ、わたしに〝音響〟というものがいかに大切であるかを教えてくれたのは、レオ・L・ベラネクという人が書いた「音楽と音響と建築」という本だった。これは鹿島建設技術研究所の長友宗重さんと、寺崎恒正さんによって訳され、鹿島出版会から発行されている。
 内容は、音楽とそれが演奏される場とのかかわり合い、それもバロック以前から現代までの、むしろ音楽史的な考察。バルビロリ、ラインスドルフ、シェルヘン、ボールド、マルケビッチ、ミュンシュ、オーマンディ、クーセヴィッキーライナー、ワルター、サージェント、ギブソン、スターン、ソロモン等々の各国の演奏者たち、あるいは数多くの評論家やジャーナリストなどの、音楽と音響についての対話。
 そして圧巻は、世界の代表的な音楽会場──例えばブエノスアイレスのコロン劇場、ウィーンの楽友協会大ホール、パリの国立歌劇場、バイロイトの祝祭劇場、ボンのベートーヴェン・ホール、ロンドンのロイヤル・フェスティヴァル・ホールなど、十五ヵ国、五十四ヵ所──のデータ、それも建築音響的というより、実際にそのホールで音楽を鑑賞した感覚的な報告を主体にした部分である。
 著者はさらに、ホールがもつ数々の感覚的な要素──聴覚的ばかりでなく、視覚的、あるいはもっと皮膚感覚的なものまで含めて──、それをいかに言葉で表現するかに最新の注意をはらい、もう一歩を進めて、音響建築技術的な数値のデータに置き換える大変な作業にまで発展させている。例えば〝音の暖かさ〟についてだけでも、実測データと多くの人の証言、あるいは使用されている建築材料などを細かく突き合せて、五ページにわたって記述するとともに、それを数値化している。
     *
このあとに保柳氏は、ベラネクが「音楽と音響と建築」が書かれた動機に感動した、と続けられている。
ここから先に興味のある人はステレオサウンド 26号を読んでいただきたい。

とにかく、今日、この本を思い出した。
インターネットですぐさまこの本の古書が探し出せて注文ができてしまう。
ほんとうに便利な世の中だと思う。
「音楽と音響と建築」が届くのが待ち遠しい。

Date: 10月 16th, 2015
Cate: 「本」

「レコードと暮らし」

夏葉社から「レコードと暮らし」という本が出ている。
筆者の田口史人氏は東京・高円寺で「円盤」というレコード店を営まれている、とある。

夏葉社のサイトに書いてある紹介文には《音楽というよりも、レコードという「もの」の本です》とある。
「レコードと暮らし」に登場する235枚のレコードは、音楽ではなく、
《農協からのお知らせや、企業からの宣伝や、我が母校の校歌や、アイドルのひそひそ話など》をおさめたレコードだ。

紹介文の最後に《おもしろいです。》とある。
たしかにおもしろい。

そしてジョン・ケージの
「音楽は音である。コンサートホールの中と外とを問わず、われわれを取り巻く音である。」を思い出せる。

これはオーディオ機器の音にも深く関係している。
別項でいずれ書いていくが、
そのオーディオ機器を生み出した空間はどこなのか。

オーディオメーカーの試聴室なのか、
開発者のリスニングルームなのか、
それともオーディオメーカーの実験室なのか。

Date: 8月 27th, 2015
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その9)

私がステレオサウンドにいたころ、編集顧問のYさんから聞いた話がある。
Yさんは中央公論やマガジンハウスの仕事も当時されていた。

正確な日付はおぼえていないが、1980年代の終りごろ聞いている。
マガジンハウスが新雑誌を創刊する際の話だった。

マガジンハウスとステレオサウンドでは出版社としての規模が大きく違う。
オーディオマニアでなければステレオサウンドの名前は知らない人の方が多いだろうが、
マガジンハウスの名前を知らない人はそう多くはないだろう。

話の中でもっとも驚いたのは、予算についてだった。
金額ははっきりとおぼえているけれど、ここで書くようなことではない。

1980年代後半はバブル期に入りはじめたころということもあっただろうが、
そんなに多いのか、と唖然とした。

その予算は新雑誌をつくるためだけでなく、新雑誌の広告にも使われるとのことだったけれど、
それだけの潤沢な予算があれば、新雑誌づくりにかかわる人たちもかなりの数なのだろう。

ステレオサウンドが創刊されたのは、その話の約20年前のことだ。
時代が違うとはいえ、ステレオサウンドの創刊には潤沢な予算はなかったことは聞いていた。

ステレオサウンドの創刊号(1号)の表紙は、2号以降の表紙とは趣が異る。
ロゴも違うけれど、写真が大きく、それ以降の写真とは異る雰囲気のものである。

ステレオサウンドの創刊は、ほんとうに大変だったと原田勲氏から聞いている。
表紙の件についても聞いたことがある。

ほんとうは、こんな表紙にはしたくなかった、そうだ。
けれど予算が尽きて、窮余の策としてとあるメーカーの写真を採用することになった、と。
つまり表紙を売らなければ、ステレオサウンド創刊号を世に送り出すことはできなかったそうだ。

すべての雑誌にとって、創刊号の表紙は大事である。
原田勲氏の頭の中では、まったく別の表紙のプランがあったはずだ。

けれど創刊号を出せるかどうかの瀬戸際では、そんなことはいってられない。
なんとしてでも創刊号を出す。

ステレオサウンド創刊号の表紙は、その顕れである。
もし別の選択をされていたら、ステレオサウンドは世に出なかったかもしれないのだから。

Date: 8月 25th, 2015
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その8)

ステレオサウンドが創刊された昭和41年(1966年)はどうだったのか。
私は昭和38年生れだから、この時代のことを肌で知っているわけではない。

活字で、そしていろいろな人の話を聞いて知っているにすぎない。
1966年は、どうだったのか。
     *
 ぼくは、「ステレオサウンド」が創刊された昭和四十一年以前には、ほんとうの意味でのオーディオ専門誌というのは、存在しなかったと認識しているんです。もちろん、だからといってオーディオファンが存在しなかったわけではありません。ただ、その当時までのオーディオファンというのは、電気の知識をもっていて、自分でアンプを組み立て、スピーカーも組み立てる、というタイプが圧倒的に主流を占めていたわけですね。いいかえると、自分で作れないひとは、だれかそういうファンに再生装置一式を製作してもらわないことには、ロクな装置が手に入らないという時代だった。
 そして、そろそろメーカーが、今日でいうところのコンポーネント、むろん当時はまだコンポーネントという言葉がなかったわけだけれど、そういうパーツを製作しはじめていたんです。しかしそれにもかかわらず、自作できないレコード愛好家やオーディオ愛好家と、そうしたメーカーとの間を橋渡しする役目のジャーナリズムというはなかったと思います。たぶん世の中では、そういうものを欲しがっていた人たちが増えてきているということに、鋭敏な人間はすでに感じていたと思うんですけれどもね。
 いまふりかえってみると、この昭和四十一年という年は、たいへんおもしろい年だったと思います。たしかこの年に、雑誌「暮しの手帖」が卓上型ではあったけれども、はじめてステレオセットを取り上げてテストをしているんです。それからもうひとつ、なんと「科学朝日」がステレオの特集をやって、ぼくも原稿を書いているんですね。もちろんこの雑誌の性格から、ステレオの原理とかそういった方向での記事だったわけですけれど、ともかくステレオを特集して取り上げている。さらには「ステレオ芸術」誌の原型にあたるといえる雑誌が、「ラジオ技術」誌の増刊というかたちで、「これからのステレオ」というタイトルで発刊されているんです。つまり、いろいろな雑誌がオーディオを取り上げるようになった、さらにはオーディオ専門誌を作ろうという動きが具体化してきた、それがこの昭和四十一年という年に集中したわけですね。
 そうした動きのなかで、この「ステレオサウンド」誌が創刊されたということです。
     *
ステレオサウンド 50号の巻頭座談会
《「ステレオサウンド」誌50号の歩みからオーディオの世界をふりかえる》での、瀬川先生の発言だ。

瀬川先生の、ステレオサウンド以前に、ほんとうの意味でのオーディオ専門誌というのは、存在しなかった──、
この認識は正しい。
そしてもうひとつ言えることは、既存の出版社が既存の雑誌でオーディオ(ステレオ)を取り上げたり、
既存の出版社が、オーディオの別冊を出しているわけだが、
ステレオサウンドは、既存の出版社から創刊されたわけではないということだ。

ステレオサウンドを出版するために、ステレオサウンドという会社がつくられた。
その意味でステレオサウンドという《ほんとうの意味でのオーディオ専門誌》は、
出版社からの創刊ではなく、原田勲という出版者による創刊だった。

けれどいまは、株式会社ステレオサウンドという出版社からの出版物のひとつになってしまっている。

Date: 8月 24th, 2015
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その5への補足)

その5)に、
ステレオサウンドが出版している過去の記事をまとめたムックについて、
過去の記事を一冊の本にまとめることが、過去を大きな物語として語ることではない、と書いた。

このムックは、いまのところ編集部の人が記事を選び編集している。
これをステレオサウンドの執筆者の責任編集としてみたら、どうだろうか。

柳沢功力氏、傅信幸氏、和田博巳氏、小野寺弘滋氏、三浦孝仁氏、
この人たちに、ひとり一冊のムックの責任編集を行ってもらう。

そのムックに載せる記事は、何も当人が書いた記事に限らない。
他の人の記事を選んでもいい。

とにかく、その人が考える「過去を大きな物語として語る」ために必要な記事を選んでもらう。
それだけでは過去を大きな物語として語ったことにはならないから、
選んだ記事をどう並べていき、
どこに物語として語るために必要なことを書いてもらう。

その文章をどこに挿入するのかも、その人の自由である。
記事と記事のあいだなのか、すべての記事をはさむように巻頭と巻末におくのか、
いくつかのやり方があり、ムックの構成を含めての責任編集である。

これは面白いムックになると思う。
責任編集をする人のバックグラウンドがはっきりしてくるはずだからだ。

Date: 8月 23rd, 2015
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その7)

季刊誌ステレオサウンドは、株式会社ステレオサウンドから出ている。
株式会社ステレオサウンドは、来年秋に創立50年を迎える出版社である。

私がステレオサウンドを読みはじめたころ、
株式会社ステレオサウンドは、季刊誌ステレオサウンドのほかは、
隔月刊誌のテープサウンド、それと半年に一度のHI-FI STEREO GUIDEだけが定期刊行物だった。
私が働きはじめたころは、月刊誌サウンドボーイが加わっていた。

現在の株式会社ステレオサウンドはもっと多くの定期刊行物を出している。
サウンドボーイはHiViになり、
テープサウンドはプロサウンドに変り、
管球王国、ビートサウンドなどいくつもの定期刊行物を創刊・発行している。

いまでは季刊誌ステレオサウンドは、
株式会社ステレオサウンドという出版社が発行している雑誌である。

こんなことを書くのは、私が読みはじめたころは違っていた。
少なくとも私の感じ方は違っていたからだ。

ステレオサウンドは、ひとつのブランドという認識だった。
だからテープサウンドもHI-FI STEREO GUIDE、サウンドボーイも、
ステレオサウンドというブランドが発行するオーディオ関係の雑誌・本という受けとめ方をしていた。

もちろん株式会社ステレオサウンドが出版社であることは、いまも昔も変らない。
それでもいまから40年ほど前、ステレオサウンドはブランドといえた。

私が書きたいのは、そのことではない。
もっと以前のこと、ステレオサウンド創刊のころである。

Date: 8月 23rd, 2015
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その6)

このブログは2008年9月に始めた。
その約一年後に、”the re:View (in the past)“を始めた。

このブログのために必要だと思い始めた。
川崎先生が書かれているように、《ジャーナリズムというのは、基本は日々の記録》であり、
それはどんなに速報性が高かろうと、記録する時点で過去である。
ならば、過去の日々の記録も求められるのではないか。

始めたころは、いまのように時系列順に並べていたわけではなかった。
ブログは紙に印刷して読むものではない、
パソコンのディスプレイ、スマートフォンやタブレットで読む。
そのことを考えると、時系列に並べる必要性それほど感じなかったからである。

けれど、広告という日々の記録も”the re:View (in the past)”で公開しようと思い立ち、
時系列順に並び替えることにした。

ブログは日々の記録に向いている。
この「向いている」性質は、過去の日々の記録にもいえることだ。

ブログは公開日時を自由にできる。
10年前、20年前の日付でも簡単に設定できる。

ある程度つくったところで時系列順に並べ替えることはけっこうな手間だったけれど、
やってよかったと思っている。

今日の時点で”the re:View (in the past)”でオーディオの広告を、1600点以上公開している。

昨年から”JAZZ AD!!“で、
スイングジャーナルに掲載されたレコード会社の広告も公開しはじめた。

広告ページをスキャンするために、本をバラす。
そのままスキャンすると、昔の雑誌は紙が薄いこともあって反対側の印刷がすけて一緒にスキャンされる。
これを少しでも防ぐために黒い紙を用意する。
それでも完全に防げるわけではない。そして昔の本は紙が黄ばんでいることが多い。
それから傾いて印刷されているのも少なくない。

これらをレタッチで修整していく。
簡単に処理が終ることもあれば、意外に手間どることもけっこうある。
面倒だな、と感じることもないわけではない。

にも関わらず続けているのは、小さな発見があるからだ。
先日も、この項に関係する、小さな発見があった。

スイングジャーナル1972年2月号の、日本コロムビアの広告である。
ここに「注目のカルダン・レコード第一弾!」とある。

ジャズに詳しい人ならば知っていることなのだろうが、
私はピエール・カルダンがレコード・レーベルをもっていたことを、この広告で知った。

レコードも出版の形態のひとつと考えれば、
(その1)で紹介したWIREDの記事《出版の未来は「出版社」ではなく「ブランド」にある》の例といえよう。

この記事は本の出版に関してだが、レコードという種パンに関してもそういえるのではないか。
これについては、いずれ書いていきたい。

ここで書いていくのは、本の出版に関してであり,
ステレオサウンドという本は、出版社から始まったわけではない、ということだ。

Date: 8月 23rd, 2015
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その5)

川崎先生のブログ《広報誌がまだジャーナリズムである》には、こう書いてある。
     *
ジャーナリズムというのは、基本は日々の記録であり、
それはナラシオンから離脱した大きな物語から小さな物語が、
出版そのものの革新性が求められているという重大な事に、
いわゆる雑誌というメディアはHP辺りでうろうろしていることです。
まず、過去を大きな物語として語れる編集者は消滅しました。
     *
《過去を大きな物語として語れる編集者》の消滅は、
ステレオサウンドを見ていても強く感じている。
別にステレオサウンドだけではない、他のオーディオ雑誌も同じなのだが。

そんなことはないだろう、
ステレオサウンドは別冊として、過去の記事まとめたムックをけっこうな数出版しているんじゃないか、
そんな反論が返ってきそうだが、
過去の記事を一冊の本にまとめることが、過去を大きな物語として語ることではない。

ただ思うのは、《過去を大きな物語として語れる編集者》の消滅は、
ジャーナリズム側だけの問題なのだろうか、という疑問だ。
《過去を大きな物語として語れる編集者》が消滅していたのは、
物語を読みとろうとする読者が消滅しつつあるからなのかもしれない、と思うからだ。

もっともこの問題は、鶏卵前後論争にも似て、
《過去を大きな物語として語れる編集者》が消滅していったから、読者もそうなっていったのかもしれないし、
読者がいつのまにか雑誌から物語を読みとろうとしなくなってきたから、
《過去を大きな物語として語れる編集者》が消滅していったのかもしれない。
オーディオの雑誌に関するかぎり、そのようにも感じてしまう。

そういうおまえはどうなんだ、と問われたら、
《過去を大きな物語として語れる編集者》としてはまだまだと答えるしかないが、
それでもこのブログを、私は自己表現とは考えていない。
別にこのブログだけではなく、文章を書くことが自己表現だとは考えていない。

私自身が読みとった・気づいた小さな物語をいくつも書いている。

Date: 8月 22nd, 2015
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その4)

雑誌の理想は、広告なしだ、という意見が昔からある。
私もそう思っていたことがある。
広告に頼らない雑誌をやっていくにはどうしたらいいんだろうか、と考えたこともある。

日本にも広告をいっさい掲載しない雑誌がいくつかある。
有名なところでは「暮しの手帖」がある。

「暮しの手帖」のジャーナリズムのありかたとして、広告なしで始まった。
だから「暮しの手帖」の影響が大きいのだろうと思う、
日本で広告なしの雑誌こそ理想のあり方だ、と受けとめられがちなのは。

けれど雑誌は、時代を反映しているモノである。
それは記事だけでなく、むしろ記事以上に時代を反映しているモノは広告ともいえる。

いい雑誌は、そして「時代を批評する鏡」でもある。
いい広告もまた「時代を批評する鏡」でもある、と思っている。

だから広告のない雑誌は、その心意気は素晴らしいと思うし、
同時代に読む雑誌としては広告なしもいいとは思う。

だが雑誌は振り返って読むモノでもある。
一年前、二年前の雑誌のバックナンバーを読めば、もっと古いバックナンバーを探しだして読む人もいる。

雑誌を読むということは、その雑誌とともに時代を歩むとともに、
その雑誌のバックナンバーを手に入れ読むことで、時代を溯っていくことを同時に体験できる。

ステレオサウンドで働けてよかったことのひとつは、
ステレオサウンドのバックナンバーをどれでもすぐに読めることがある。

編集部にいて最新のステレオサウンドをつくっていくと同時に、
私が読みはじめる前のバックナンバー(40号以前)を溯りながら読んでいけた。

これは他では体験することはできない。
この体験から、私は現在のステレオサウンド編集部の人たちに、
バックナンバーをもっともっとしっかりと読み込むべきだといいたいのである。

Date: 8月 22nd, 2015
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その3)

どんな雑誌でもいい、書店に並んでいるさまざまな雑誌の中の一冊。
これを手に取ってページをめくっていく。

本の判型(大きさ)、厚さ(ページ数)、紙の質、
カラーページの量、広告の量と質……、そういった事柄を総合的に判断して、
このくらいの値段かな、というおおよその見当はつく。

記事の内容も大きく関係してくるが、広告も大きな目安である。
どんな広告が入っているのか。
その広告のクォリティはどはの程度なのかも判断材料だけれど、
むしろあまり程度のよくない広告がどれだけ入っているかも判断材料のひとつである。

雑誌の巻頭には見映えのする広告を集めていても、
巻末には、この雑誌にこの広告? といいたくなる類の広告をまとめている雑誌もある。

広告出稿の以来があれば原則としてことわらないという出版社もあれば、
その雑誌にそぐわない広告は拒否するという出版社もある。

そんなことを含めて本好きの人は、手に取った雑誌の値段の見当をつけている。
そして広告は、その雑誌の実情を間接的に語ってもいる。

たとえば中古オーディオを中心に扱っている販売店の場合。
昔はステレオサウンドに広告を毎号出していた。
けれどインターネットの普及、ウェブサイトをもつことで、広告を出さなくなったところもある。

なぜ出さなくなったからといえば、広告を出すことのメリットがなくなったからである。

中古オーディオの場合、広告を見て問合せの電話がある。
ステレオサウンドの○○号の広告に掲載されていたか○○はまだありますか、といったふうにである。

私も昔はよく広告を丹念に見ては問合せの電話をかけていたから、よくわかる。

こういう電話は、必ず、どの広告を見たのかを電話の主は販売店に伝える。
ところがある時期から、こういう電話の問合せがパタッとなくなった。
電話の問合せは、インターネットを見て、とか、ウェザサイトに掲載されている……、といったものに変っていった。

これは何も私の作り話ではない。
実際に以前は出していたけれど、いまはもう広告を止めてしまったオーディオ店の方から聞いた。
もっとも聞かなくとも、その販売店が広告を出さなくなった理由はわかっていたけれども。

そうやって広告の常連だったところが消えていく。
同時に新しいところの広告も入ってくる。
その入れ替りによって、その雑誌の印象もまた変ってしまう。

Date: 8月 20th, 2015
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その2)

「考える人」をはじめて買ったのは、2005年春号だった。
特集は「クラシック音楽と本さえあれば」だった。

表紙にはそれだけでなく、「内田光子ロングインタビュー」の文字もあった。
これは買うしかない、と思い、レジに持っていった。

帰宅後、中を開けばすぐに気づいた。
広告が非常に少ないこと、それもユニクロの広告だけだったことに。

「考える人」2005年春号のページ数は256ページで、価格は1333円(税込み1400円)だった。
広告が極端に少ないから、256ページのうちほとんどが記事である。
カラーページもある。
新潮社が出していることもあって、執筆陣も多彩である。

広告がまったくない雑誌というのもないわけではない。
広告を載せない(とらない)ことで、理想の雑誌づくりを目指す──、
そういったことはほんとうに可能だろうか。

「考える人」をまったくの広告なしで、となったら、定価はいったいいくらになるのか。
定価が高くなれば買う人も少なくなる。
売れる部数が少なくなれば定価はさらに高くなる……。

ここが本・雑誌とレコードとの違いである。
レコードは、どんなに録音制作費がかかったものでも、
一枚のレコードの価格はほぼ決っている。レコードには広告がはいらない。

本はそうではない。
本好きの人ならば、書店でその本を手に取りパラパラめくれば、
その本のおおよその定価は見当がつくはずだ。

Date: 8月 19th, 2015
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その1)

WIREDの先月の記事に《出版の未来は「出版社」ではなく「ブランド」にある》があった。

今月、川崎先生のブログに《広報誌がまだジャーナリズムである》があった。

このふたつを読んで共通して思い浮べたのは、「考える人」という、
新潮社が出している季刊誌のことだった。

「考える人」を手にしたことのある人は、気づいているかもしれない。
でも、私の周りで「考える人」を買ったことのある人で気づいていた人はいなかった。

「考える人」の広告は、すべてユニクロのものだけである。
そのことを指摘すると、ほんとだ! とびっくりされる。

数多くの雑誌が出版されているけれど、
「考える人」のような出版形態は他に例があるのだろうか。
少なくとも、私が書店で手にする雑誌に、こんな例はなかった。

「考える人」は新潮社が出している。
新潮社は出版社である。
けれど、これは《出版の未来は「出版社」ではなく「ブランド」にある》のひとつのカタチともいえる。

「考える人」に載る広告がユニクロだけということは、
ユニクロが新潮社につくらせている雑誌という見方もできなくはない。
この見方をあてはめれば、「考える人」はユニクロの広報誌でもある、といえるのか。