自己表現と仏像(その13)
自尊心を満たすためだけのオーディオであるならば、
それは確かに「自己表現」といえよう。
そして、そんなオーディオは、自分のためだけのオーディオともいえる。
オーディオは音楽を聴くため、
つまりは自分のためのものであることはそうなのだが、
自分のためだけのものなのか、と問いたい。
誰かのためなのか。
これも、はっきりそうとは言えない。
自分のため、誰かのため、その狭間にあるのだろうか──、思いつつも、なぜ仏像なのかに、もう一度還ることになる。
自尊心を満たすためだけのオーディオであるならば、
それは確かに「自己表現」といえよう。
そして、そんなオーディオは、自分のためだけのオーディオともいえる。
オーディオは音楽を聴くため、
つまりは自分のためのものであることはそうなのだが、
自分のためだけのものなのか、と問いたい。
誰かのためなのか。
これも、はっきりそうとは言えない。
自分のため、誰かのため、その狭間にあるのだろうか──、思いつつも、なぜ仏像なのかに、もう一度還ることになる。
誰かのリスニングルームに入る。
たいていの場合、最初に目に留まるのはスピーカーだろう。
オーディオというシステムの主役は、やはりスピーカーである。
オーディオマニアすべてが、そう考えているわけでないことは知っている。
今も昔も、このアンプに合うスピーカーはなんですか、ということが言われている。
オーディオ雑誌の記事でも、いまもそうである。
そこにオーディオ雑誌の編集部のポリシーは感じられない。
主役はスピーカーだからこそ、
別項で「終のスピーカー」をテーマとして書いている。
主役であるスピーカーが、
ここでのテーマであるオーディオ・システムのデザインの中心か、言えば、
私はシステムのデザインの中心は、コントロールアンプと考える。
セパレートアンプならばコントロールアンプで、
プリメインアンプならば、そのプリメインアンプである。
そう考えているからこそ、ずんぐりむっくりのプロポーションのアンプは、
何を考えての、このずんぐりむっくりなのか、と問い詰めたくなる。
《いわばシグナル・トランスデューサーの概念に対してアコースティック・トランスデューサーの概念で作られたものなのだ。》
スイングジャーナル 1977年7月号のSJ選定新製品で、
菅野先生が901 Series IIIについて、そう書かれている。
シグナル・トランスデューサーの概念、
アコースティック・トランスデューサーの概念、
いまでは、というよりも、いまもなのだが、
世の中の大半のスピーカーシステムは、シグナル・トランスデューサーの概念によるモノであり、
アコースティック・トランスデューサーの概念によるモノは、
どれだけあるだろうか。
BOSEの901は、その型番が示すように9基のユニットからなるスピーカーシステム。
101MMは、フルレンジ型ユニットが1基のみだから、型番は101である。
901と101の共通点は使用ユニットだ。
どちらも口径11.5cmのフルレンジ型で、基本的には同じといえる。
101MMではインピーダンスは8Ω、
901のユニットは9基すべて直列接続の状態で、一般的な8Ωにするため、
個々のユニットのインピーダンスは0.9Ωとなっている。
901では9基のユニットを、前面に1基、後面に8期と、
比率的に1:8になるように配置されている。
901は間接音重視のため、間接放射型のスピーカーとして受け止めている人もけっこういる。
本当にそうだろうか。
間接放射型のスピーカーシステムは、以前から数はそれほど多くはないものの、
いくつかあったし、いまも製品としてある。
だからといって、それら間接放射型スピーカーすべてを、
アコースティック・トランスデューサーの概念によるモノとして括っていいのか。
901と同じと捉えていいのか。
ここのところが曖昧のまま、901は市場から姿を消してしまった。
昨日の昼に入った飲食店でも、BOSEの101MMが鳴っていた。
101MMは2010年ごろに製造中止になっている。
発売は1982年ごろだから、かなりのロングラン《ロングセラー》でもある。
BOSEの定番モデルであったわけだ。
昨日、久しぶりに耳にした101MMの音は良かった。
飲食店のスピーカーが何なのか、常に気にしているわけではない。
いい感じで鳴っているな、と感じた時は、どのスピーカーなのかを確認する程度なのだが、
昨日の音は、そんな感じだった。
たぶん店主の好きな音楽をかけているんだろう、と思ったのは、
少しBGMとしては音量が大きめだったから。
一昨日に901 Series Vを運んで、昨日101MMが鳴っていた飲食店にたまたま入った。
それだけのことだけど、早く901 Series Vの音を聴きたくなっている。
101MMの音は、どこかで耳にしているはず。
そのくらい売れていたスピーカーであり、
BOSEの名を広めたモデルでもある。
けれどBOSEのフラッグシップモデルは、901である。
なのに901がどんなスピーカーなのかは知っているけど、
聴いたことはないし、関心もない──、
なんともったいないことか、と私は思っているし、
そのおもいは少しずつ大きくなってきてもいる。
BOSEの901は、ずっとロングランを続けていたモデルだった。
最初の901は1968年に登場している。
その後、何度も改良が加えられてきた。
私がオーディオに興味を持ち始めたころは、Series IIIになっていた。
ステレオサウンドで働くようになって初めて901の音を聴いた。
すでにSeries IVになっていた。
最初の901、その次の901、これらを聴いている人はどのくらいいるのだろうか。
おそらくごくわずかな気がする。
そのころのBOSEの輸入元はラックスだった。
当時のBOSEの日本での広告を見ると、
901という独特なスピーカーを、いかに理解してもらうか、
そのことが伝わってくる。
輸入元がかわってからも、そのことは同じだったと言える。
手法は違っていても、901は決してキワモノのスピーカーではないことを訴えようとしていた。
それでもSeries IIIになってからの901を聴いている人もまた少ないように感じている。
1980年代中頃からだったか、
カフェバーとスタイルの店が数多くできてきた。
このカフェバーでよく使われていたのが、BOSEの101MMだった。
型番末尾のMMは、Music Monitorの頭文字。
この店もあの店も、スピーカーは101MMという時代が確かにあった。
10月2日のaudio wednesdayは、
すでにお伝えしているように、radio sessionということで、
これまでと趣向を少しばかり変えての会となる。
本来行う予定だったテーマで使うBOSEの901 Series Vだが、
今日持ち込んでいる。
なので10月2日でも、最後の方でちょっとだけ鳴らそうと考えている。
部屋によってスピーカーの音は大きく左右されるのを、
実際に体験してもらおうという意図である。
使用器材がまったく同じわけではないし、
日を改めて、部屋をかえて鳴らすわけなので、
厳密な比較試聴にはならないが、部屋の影響ははっきりと感じられるはずだ。
三年前に、SAEのMark 2500を毎日眺めていると、
四十年前は大きく感じられたのが、
いまではコンパクトな感じがする、と書いている。
Mark 2500は、登場時は物量投入型のアンプという位置付けだった。
300W+300Wの出力は、当時としてはコンシューマー用アンプとして、
最大出力でもあった。
そういうアンプだったMark 2500が、いまでは小さく感じられるのは、
現行製品のアンプが相当に大型化しているためである。
先日、別項で触れているように、アキュフェーズを持って帰ってきた。
今回初めてGASのTHAEDRAと並べて置いている。
Mark 2500と同じ印象を、ほぼ毎日感じている。
THAEDRAも、当時は物量投入型のコントロールアンプという印象だった。
それなのにいまではコンパクトだな、と感じている。
それに持っても軽い、と思ってしまう。
アキュフェーズが大きいのか、
THAEDRAが小さいのか。
どちらを自分の基準とするのか。
それによってどちらかになるし、
アキュフェーズのDC330とTHAEDRAとでは、
内部構成が大きく違い、部品点数も数である。
大きく作ろうとして大きくなっているわけではないことはわかっている。
それでもいまではTHAEDRAは、かわいいアンプだな、と感じている。
こんなふうに受けとめ方が変化するとは、
四十年前には全く予想しえなかった。
そのことが不思議と新鮮でもある。
すでに告知しているように、
11月の会ではJBLの4343を鳴らす予定でいる。
アンプはどうするか。
瀬川先生の命日の前日に鳴らすのだから、
マークレビンソンのLNP2、ML2が用意できればいいけれど、
それは無理そうである。
まだ、どのアンプで鳴らすのかは決めていない。
用意できなければ意味はない。
仮にマークレビンソンのアンプが用意できたとしても、
瀬川先生が鳴らされていたであろう音を再現したいわけではない。
瀬川先生に聴いてもらいたい音を鳴らしたい、とおもっている。
10月20日、野口晴哉記念音楽室で、中秋会が開催される。
5月の音楽鑑賞会のスピーカーは、シーメンスのオイロダインだったが、
今回の中秋会では、ウェスターン・エレクトリックの594Aを中心としたシステムとなる。
昨年5月とほぼ同じシステムだが、アンプがメンテナンスされている。
アナログプレーヤーも一部違うので、音も違ってくる。
「回想の野口晴哉 ─朴歯の下駄」に、こう記してある。
*
先生が亡くなる年の正月のこと……。
夜、一人の見知らぬ男の人が訪ねて来た。
「スピーカーを買ってくれないか」ということだった。
全く不思議なのは、そのスピーカーこそ、ウェスタン・エレクトリック594と、ランシングの先代が作ったという戦前のもの──先生が長い長い間、欲しくて手に入らなかったものだった。
「これで欲しいものが全部揃った。もう何も欲しいものがない」
そういって、先生は微笑(みしょう)した。
それは三十年間共に暮らして、一度も見たことのない微笑だった。
*
野口晴哉氏にとって、ウェスターン・エレクトリックの594Aは、
ずっと憧れの存在だったのかもしれない。
野口晴哉氏は、594Aは、すでに所有されていたが、
残念なことに一本だけだった。
モノーラル再生でのみ、その音を聴かれていた。
おそらく、その音の浸透力は他のスピーカーのどれも敵わないものだったはずだ。
モノーラルでは聴ける。素晴らしい音で聴ける。
ならば594Aをペアで揃えてステレオて聴いたならば──。
オーディオマニアならば誰もそう思うはずだし、
野口晴哉氏もそうだったはずだ。
けれど594Aに限らずウェスターン・エレクトリックの製品は、お金があっても買えなかった
。映画館をはじめとする劇場へのレンタルのみだったからだ。
1980年代に入り、商売になるとみた業者が増えたので、
お金を積めば買える時代が、一時期あったけれど、
野口晴哉氏の時代はそうではなかったからこそ、
《微笑(みしょう)》されたのだろう。
昨年の音楽鑑賞会で鳴っていたのは、594Aを中心としたシステムだったが、本領発揮とはいえなかった。
理由はいくつもあるが、一つ挙げると電源の問題がある。
594Aは、永久磁石ではなく電磁石によって動作する。
そのための電源を必要とするわけだが、
この電源のクォリティによって594Aの音は大きく変化する。
野口晴哉氏はセレン整流器による電源を使われていた。
モノーラルで鳴らされていた時のモノのはず。
だからすでに作られてから五十年以上経っている。
去年の音を聴いた時から、電源の出力電圧が低下しているのでは……、
そんなふうに感じていた。
先日、電源電圧をチェックしたところ、
25V必要なのに14.5Vと、四割も低い値だった。
だからといってセレン整流器の電源を修理することは、
今の時代、ほぼ無理といえる。
新しい電源、594Aに相応しい電源を用意しなければならないが、
容易くはない。時間もかかる。
今回はスイッチング電源を使う。
594Aにそんな電源を、言われるだろうが、
まずは594Aを規定の電圧で鳴らす。ここから始めていく。
野口晴哉氏が描かれていたであろう594Aの音を実現する。今回は、その一歩目の音である。
上記リンクをクリックすれば詳細が表示される。
今回、私は裏方で、594Aの音を去年よりも良く鳴らしたい、
そのことだけをやる。
とは言え、まだ594Aをスイチッング電源での音は聴いていない。
野口晴哉氏は1976年6月に亡くなられている。
だから没後五十年の2026年までには、納得のいく音に仕上げたいと考えている。
その意味での、「一歩目の音」だ。
10月2日のaudio wednesdayは、
現代音楽をBOSEの901 Series Vで聴く予定だったが、
クーラーの故障のため、部屋をいつも使っているところではなく、
隣の和室に変更になった。
来られたことのある方ならば、休憩の時に使っている部屋だ。
三方の壁が襖のこの部屋で、901がうまく鳴ってくれるとは思えない。
第九夜は中止ではなく、クーラーを必要としなくなったころ、
10月中旬以降に延期になる。
10月2日は、だから隣室の天井に取り付けられているタンノイを鳴らす。
天井から床に向けてあるが、単にそのままなわけではなく、
間接的な放射になるよう工夫されている。
タンノイは、15インチのMonitor Red(のはず)で、モノーラル。
この他にジョーダン・ワッツのJumbo(こちらも一本だけ)も用意できる。
動作確認はまだだが、問題なければアンペックスの可搬型モニターもある。これも一本のみ。
これらのスピーカーを鳴らすわけだが、テーマとしては、
真空管時代のラジオを聴く感覚で、
現代のラジオといえるストリーミングで音楽を聴く、だ。
TIDALとApple Musicを音源として使い、
システムとしてもできれば小さくまとめたいので、
iPhoneを使うつもりでいる。
歌を中心とした選曲で、雑談を交えながらの感じの夜としたい。
今回はそういうことなので、参加費は1,000円となる。
ラジオ技術が出ない。
月刊誌から隔月刊誌になったものの、まともに出版されなくなった。
いまの感じだと年刊誌である。
ラジオ技術は、個人的に楽しい雑誌だけれど、
そろそろ終りが近づいているのか。
ラジオ技術のライバル誌は、無線と実験なのだが、
こちらは月刊誌から季刊誌になっている。
年12冊から4冊になったのだから、
一冊の読み応えは増すものだ、と期待していたけれど、
残念なことにそうではない。
月刊誌の内容のまま、季刊誌にになってしまったとしか思えなくて、
このまま続けていくのか──、それとも──、
そんなことを思わなくもない。
こんなことを書いているけれど、
ラジオ技術も無線と実験も休刊(廃刊)になってしまったら──、
その時のことを想像してみてほしい。
そうなった時、残ったオーディオ雑誌が、
ラジオ技術、無線と実験が担ってきた役割を引き継ぐのか。
TIDALがMQAの配信をやめて、ほぼ二ヵ月。
TIDALでMQAで聴くことはできなくなったのかといえば、
実はそうではない。
新譜がMQAで配信されることは、確かになくなった。
けれどこれまでMQAで配信されていたアルバムは、
いまもけっこうな枚数がMQAで聴ける。
少なくともroonでTIDALを検索すると、そのことがわかる。
これまでは、一目でMQAということがわかるマークがついていたが、
これはなくなっている。
いまもMQAで聴けるアルバムの大半にはついていない。
まだついているアルバムは、少なくなってきているがある。
だからMQAがなくなったような印象を受けるが、
いまのところ、そうではない。
ただし、この状況がいつまでなのかは、まったくわからない。
七年前、別項でステレオサウンド 48号掲載の901の広告について書いた。
この頃(1970年代後半)のBOSEの広告には、901を導入した演奏家が登場していた。
48号の広告には、山田一雄氏が登場されている。
キャッチコピーは、こうだ。
*
背中で聴いたBOSE
この小さな箱がホールの広さを表現するとは…《山田一雄》
*
山田一雄氏のリビングルーム(と思われる)に置かれた901と、
ロッキングチェアに坐っている山田一雄氏の写真が、カラー見開きで大きく扱われている。
この写真の下に、こうあった。
*
元来、私はあまりレコードを聴かない。つまり「鑑賞する立場の人」とは反対の立場に立っているからかも知れない。音楽を創る立場の身にとっては、雑念なしに他人の音楽に没頭して聴くことは難事であるからだ。
家族が新しいオーディオ装置を欲しがっていることもあって、友人のレコーディング・ディレクターのすすめで《BOSE-901》を手に入れる。そんな私だから、正直なところオーディオとやらのシカケには恥かしいほど無頓着で、無理解だとよく叱られている。
ともあれ、女房子供のおつき合いのつもりで聴いたところが、鳴り出した瞬間から大袈裟にいって「新しい発見」と「開眼」をする。
さて、指揮者というものは客席に背を向けているくせに、常に背中で音を聴いているものだ。つまり、その広さと音のまわり具合いを身体で感じながら演奏している。演奏が巧くいっているときには、音が張り出すというのだろうか、ステージ上の音よりもむしろ客席の方で暖く鳴っているのを私は感じる。
《BOSE-901》での私の「新しい発見」とは、私の家のサロンで、音が背中にまわり込む外国のコンサート・ホールでの、アノえもいえぬ味を味わえたことである。この設計者はよほどの感性をもって音楽を聴き込んでいるのであろう。音楽が生まれる場所の状況を極めて正確にわきまえている。
それにこのスピーカーは、「音出し機械」然としていないところが良い。小型にもかかわらず、生演奏なみのヴォリュームを上げても、ガナリ立てる感じにならない点も大変気に入っている。
これからは、もう少しレコードを聴くとしようか……。
*
《音楽の生まれる場所》とある。
《音楽が生まれる場所の状況」とある。
そんな901だから、現代音楽を聴いてみたいわけだ。
BOSEは、今年で創立60年。
だから今回901を鳴らすわけではなく、たまたまでしかない。
しかもBOSEの創立が1964年ということを知ったのは昨晩だった。
60年なのか──、と思い出すのは、井上先生と901のことである。
ステレオサウンド別冊「コンポーネントの世界」での発展的組合せで、
井上先生はベースとなるスピーカーに901を選ばれている。
最終的には、901を四段スタックして、サブウーファーとスーパートゥイーターを追加するという、
かなりすごいし、井上先生以外でこんな組合せをつくる人はいない──、
そう言いきれるほど、この組合せのインパクトは強かった。
聴いてみたかった組合せだし、井上先生に、
その音について訊ねてもいる。
このこともあるから、901は私にとって忘れられない存在となっている。
10月のaudio wednesdayでは、1ペアしか901は用意できないから、スタックは無理。
けれどトゥイーターは用意できる、というか、すでに用意している。
井上先生はピラミッドのリボン型のT1を使われた。
私が今回使うのは、エラックのリボン型。
うまくいくと思っている。
901はいうまでもなく、ユニット配置が独自のものだから、
水平方向が無指向性のエラックの方が向いていよう。
チューナーは一台持っている。
パイオニア Exclusive F3だ。
岩崎先生が使われていたモノを譲っていただいた。
FM放送を聴くことはほとんどない。
それにいま住んでいるところは受信状態がいいわけでもない。
専用アンテナもたてられない。
なのでExclusive F3の性能を活かしきっているとは到底言えない。
そんな状況で、二台目のチューナーが要るのか。
誰でも必要ないと答えるはず。
私もそうだ。
なのに先ほどヤフオク!で、オーレックスのST720を落札した。
この価格で? と思うほどあっけない落札だった。
さほど広くない部屋にチューナーが二台。
しかもほとんど使う機会はない。
それでもST720は、実機を手元に置きたい──、
中学生の頃からのおもいだった。