Archive for category 価値・付加価値

Date: 4月 19th, 2023
Cate: 価値・付加価値

オーディオ機器の付加価値(電子書籍のこと・その1)

レコード芸術休刊について書いたことに、facebookでコメントがあった。

そこには、
紙の雑誌では実現できない付加価値を出す努力を、電子書籍でやってほしい、
そう書いてあった。

同じように思っている人もいるだろうし、少なくないように思う。
けれど、それはほんとうに付加価値なのだろうか。

オーディオ雑誌、レコード雑誌だけに絞って書くけれど、
昔からさんざんいわれているように、誌面からは音は出ない。

音も音楽も目に見えない。
誌面から音が出てくれれば、音楽が鳴ってくれれば──、
そんなことを考えなかった編集者もいないと思う。

1980年代にCDマガジンが創刊された。
いまでいう空気録音を行ない、附録のCDに収録していた。

レコード芸術も1990年代に、CDを附録にしていた。
新譜の聴きどころをおさめたサンプラーである。

CDマガジンは、早い時期に休刊になった。
レコード芸術の附録CDも、そう長くは続かなかった、と記憶している。

いまの時代、電子書籍がCDマガジンが試みたことはすぐに行える。
レコード芸術の附録CDに関しても同じだ。

それは電子書籍の付加価値なのだろうか。
そう考えてしまうところに、雑誌の衰退があったと考えるのではないのか。

電子書籍にはページ数という制約もない。
電子化できる素材であれば、なんでも収録できる。

紙の本からすれば、それは電子書籍の付加価値のように見えるだろうが、
そうやってなんでも収録できる電子書籍側から紙の雑誌をみれば、どうだろうか。

Date: 1月 13th, 2023
Cate: 価値・付加価値

オーディオ機器の付加価値(その16)

高校生だった私が、いつかはリファレンスという夢を持てたのは、
リファレンスが限定生産ではなかったからだ。

あのころ、私が憧れていたオーディオ機器は、
JBLの4343、マークレビンソンのアンプ、スレッショルドのSTASIS 1、
トーレンスのリファレンスにEMTの927Dstなど、どれもそうだった。
現行製品で、限定生産品ではなかった。

このことは、とても重要だ。
高価なモノになれはなるほど、限定生産かどうかは、さらに重要なこととなってくる。

作り続けられていれば、いつかは自分のモノとすることができる──、
そういう夢を持てる。

けれど、限定数十台とか、最近の特に高価なオーディオ機器はそんなだったりする。
おいそれとは手を出せない価格というだけでなく、
すぐに決心しないと、買えなくなってしまいますよ、といわんばかりの売り方、
そんなふうに思ってしまうののは、買えない者の僻みとは思っていない。

もちろん、高価なオーディオ機器はずっとつくり続けなければならないとはいわない。
けれど、限定生産ということはやらないでほしいし、
一年や二年で製造中止にすることもやめてほしいだけである。

オーディオ機器は、一部の人にとっては投資の対象となっているようだ。
以前、この項で取り上げたナカミチのTX1000の例は、まさにそうだといえる。

2019年にヤフオク!に8,500,000円で出品した人、
8,500,000円で落札した人、
2020年に10,000,000円で出品している人がいる。

TX1000のアナログプレーヤーとしての実力を知っているならば、
この価格がいかに法外か、ということはわかる。

けれど、そんな実力とは無関係なところで、投資の対象となってしまえば、
こんなことになってしまう。

Date: 1月 12th, 2023
Cate: 価値・付加価値

オーディオ機器の付加価値(その15)

瀬川先生がステレオサウンド 56号のリファレンスの記事の最後に、
こう書かれている。
     *
であるにしても、アーム2本、それに2個のカートリッジがついてくるにしても、これで〆めて358万円、と聞くと、やっぱり考え込むか、唸るか。それとも、俺には無縁、とへらへら笑うことになるのか。EMT927までは、値上げになる以前にどうやら買えたが、「リファレンス」、あるいはスレッショルドの「ステイシス1」あたりになると、近ごろの私はもう、ため息も出ない、という状態だ。おそろしいことになったものだ。
     *
56号は1980年秋号である。もう四十年以上前のことではあるけれど、
オーディオ機器ひとつの価格が3,580,000円というととんでもない価格であり、
「おそろしいことになった」と私も感じながらも、
それでもいつの日か、リファレンスを買える日が来るのではないか、とも思っていたのは、
単に高校生で、アルバイトはやっていたものの、
社会人としてお金を稼ぐことがなかったためだろうか。

トーレンスのリファレンスは買えなかったけれど、
EMTの927Dst(すでに製造中止になっていたので中古だったが)は買える日が来た。

このころは3,580,000円がオーディオ機器の最高価格といえた。
いまならいくらぐらいに相当するのか。

2021年夏に、四十年のうちに、
同クラスといえる製品の価格帯は二倍から三倍あたりに移行している──、
大雑把に、そう捉えてもいいであろう、と書いた。

だいたいそのくらいだと感覚的にもそう判断している。
だとすると、リファレンスはいまでは8,000,000円前後となる。

いまでも、この価格はそうとうに高価だ。
けれど、実際には、もっと高価なアナログプレーヤーがあるし、
アンプにしても、スピーカーシステムにしても、
その数倍、もしくは十倍以上の価格のモノがある。

しかも、その非常に高価な製品が、いくつも登場してきているのは、どうしてなのだろうか。
売れるから、なのだろう。

けれど、あのころのトーレンスのリファレンスやスレッショルドのSTASIS 1と、
いまの非常に高価な製品の違いは──、と考えると、
リファレンスもSTASIS 1も、限定生産ではなかったことだ。

Date: 8月 21st, 2021
Cate: 価値・付加価値

オーディオ機器の付加価値(その14)

さっきtwitterを眺めていたら、
大滝詠一の「A LONG VACATION」のゴールドCDが、
30万円ちょっとヤフオク!で落札されて驚いた、という投稿が目に入ってきた。

1980年代後半、ゴールドCD(金蒸着CD)が話題になった。
私も何枚か買った。

確かに、通常のアルミ蒸着CDよりも、こういっていいならば、音がよかった。
あのころは、好きなディスクがすべてゴールドCDになってほしい、と思っていた。

いまもマイルスの一枚だけは持っている。
ゴールドCDの音質的なメリットは、理屈はともかくとしてある。

すでに廃盤になってしまったゴールドCDの中古相場が高くなるのもわかる。
それにしても限度というものがある──、といいたくなる。

「A LONG VACATION」のゴールドCDは聴いていない。
通常のCDよりも、どれだけ素晴らしいのかは知らない。

ゴールドCDを一度でも聴いてしまうと、アルミ蒸着のCDは聴けなくなってしまう──、
そのくらいの違いがあったとしても、30万円なのか……、と思ってしまう。

30万円で落札した人は、それだけ大滝詠一に思い入れがあるのか、
「A LONG VACATION」に忘れ難い青春の想い出があるのか。

私には理解できないほどの深い思い入れのある人が、
30万円を出してでも手に入れたかった──、というのであれば、
周りがとやかくいうことではない。

でも、30万円で落札した人は、聴くのだろうか。
ここが知りたい。

大滝詠一のアルバムは、TIDALでMQA Studioで聴ける。
「A LONG VACATION」もそうだ。

MQAの良さというのは、ゴールドCDに類似するよさともいえる。

Date: 5月 13th, 2021
Cate: 価値・付加価値

オーディオ機器の付加価値(その13)

(その11)、(その12)は少し脱線してしまったので、
話を元にもどして(その10)の続きである。

私が高校生のころ、
私にとってステレオサウンドのステート・オブ・ジ・アート賞は、
賞本来の輝きを放っていた、とこれまで書いてきている。

いまのステレオサウンドのステレオサウンド・グランプリには、
その輝きはない。
ステレオサウンドの賞だけでなく、ほかのオーディオ雑誌の賞に関してもそうだ。

私が小学生のころ、
大晦日に行われていたレコード大賞は、まだ賞としての輝きを放っていたように思う。
小学生が感じていたことだから、実際のところはどうだったのか、
大人はどう感じていたのかはまではなんともいえないが、
それでも高校生になったぐらいのころから、出来レースだというウワサもあった。

いまでは、すっかり賞としての輝きはなくなっているのではないか。
賞がそうなっていくのは、オーディオの世界だけではないようだ。

そして賞が輝きを失っていくとともに、
付加価値が使われてくるようになった、といえないだろうか。

たとえばステレオサウンドのステート・オブ・ジ・アート賞の一回目は49号。
二回目は53号。

49号ではステート・オブ・ジ・アート賞だけが特集だった。
53号では52号からの続きで、
アンプの総テストとステート・オブ・ジ・アート賞の二本が特集だった。

ステート・オブ・ジ・アート賞のページ数は、49号からぐんと減った。
当然である。

49号は一回目だから、現行製品すべてが対象となるのに対して、
53号では49号以降の一年間で新発売になった機種のみが対象なのだから、
ステート・オブ・ジ・アート賞に選ばれるモデルは、ぐんと減る。

毎年毎年、ステート・オブ・ジ・アート(State of the art)の意味にふさわしい製品が、
そんなにポンポンと登場してくるわけがない。

ステート・オブ・ジ・アート(State of the art)をどう捉えるかにもよるが、
厳密に、真剣にステート・オブ・ジ・アート(State of the art)ということで選考していったら、
今年は該当機種なし、ということだって十分ありうる。

Date: 7月 21st, 2020
Cate: 価値・付加価値

オーディオ機器の付加価値(その12)

昨年、TX1000を8,500,000円で出品した人、
8,500,000円で落札した人、
今回10,000,000円で出品している人、
彼らは、TX1000にそれだけの、オーディオ機器としての価値があると考えているのだろうか。

TX1000には、そんな価値はないと考える。
オーディオ機器として、それだけの価値はないと断言するけれど、
私には理解できない価格で売買する人がいるのは事実であり、
こうなると投資目的なのか、と思いたくなる。

昨年、TX1000を8,500,000円で出品した人、
8,500,000円で落札した人、
今回10,000,000円で出品している人は、資産価値でオーディオ機器を見ているのか。

オーディオ機器を買う際に資産価値を検討する──、
そういったことを聞いたのは、ステレオサウンドで働いていたころだった。
あるオーディオ評論家が、そういっていた。

それまでそういったことでオーディオ機器を選んだことはなかったし、
そんなことをきいたから、といって、資産価値は、ということで選んだことはない。

でも、そんな人たちが昔からいたのも事実である。

私だって、使ってきたオーディオ機器を手離すとなったら、
できれば少しでも高く売れれば、と思う。
それでも買った値段よりも高くなることなんて、まったく期待していない。

けれど資産価値を気にする人たちは、そうではない。
そんな人たちにとって、資産価値とは、そのオーディオ機器の付加価値として捉えているのか。
それとも本来価値として捉えているのか。

Date: 7月 21st, 2020
Cate: 価値・付加価値

オーディオ機器の付加価値(その11)

(その10)の続きを書く予定でいた。
けれど先日ヤフオク!で、びっくりするような値がつけられた出品をみて、これを書いている。

ナカミチのTX1000のことである。
1981年に登場したTX1000は1,100,000円だった。
レコードの芯出しという、それまでのアナログプレーヤーにはなかった機能を搭載していた。
アブソリュート・センター・サーチ・システムと名づけられていた。

その機能による音の変化は小さくないが、いつも同じ変化量というわけでもない。
レコードのかけかたがうまい、ということには、
レコードの芯出しをどのくらいうまく出せるかも含まれている。

スピンドルの先端でレーベルをこすってしまった線状のあとのことをヒゲという。
ヒゲをつけているようでは、その人のレコードの扱いはぞんざいであって、
芯出しのことなんてまったく考慮していないはずだ。

けれど自分のプレーヤーでなれてくると、意外にも芯出しはうまく行えてくるものだ。
毎回ぴたっときまるわけではないが、ひどくズレることはそうとうに減ってくる。
レコードの芯出しは、何度かかけかえれば、うまくいくものである。

それを自動的に行ったのがTX1000であり、
TX1000はレコードの芯出しの重要性を広めたプレーヤーでもある。

そういうTX1000なのだが、私はアナログプレーヤーとしてはまったく評価していない。
私の評価なんて気にすることはもないのだが、
世の中には、TX1000をおそろしい(むしろおかしな)ほどに高く評価する人がいるようだ。

ヤフオク!にTX1000の未使用品が、10,000,000円で出ている。
ゼロの打ち間違いではなく一千万円である。

未使用のTX1000だから、そのくらいの価値があると考える人もいれば、
私は、未使用であっても、当時の定価でも高いと感じる者もいる。

いまアナログプレーヤーに一千万円出せる人ならば、
別のアナログプレーヤーを買った方がいい。
そちらのほうが音がいいからだ。

TX1000はアナログプレーヤーとしては、よくいって未完の大器でしかない。
アブソリュート・センター・サーチ・システム以前に、
アナログプレーヤーとしての音を、高く評価することはできないからだ。

そんなTX1000が、一千万円である。
誰が買うのだろうか、と思っていたら、
昨年、やはり未使用品が8,500,000円で落札されている、とのこと。

Date: 7月 10th, 2020
Cate: 価値・付加価値

オーディオ機器の付加価値(その10)

私がステレオサウンドにいたころは、
はっきりと賞の効果というのが、売上げに関係している、ときいていた。

ステート・オブ・ジ・アート賞、名称が変ってコンポーネンツ・オブ・ザ・イヤー賞、
これらの賞に選ばれたオーディオ機器は売れる、ということは、
そのころは確かに賞の影響力があった時代だ。

私だって、高校生のころはそうだった。
高校生ではステート・オブ・ジ・アート賞に選ばれたーディオ機器を、
そう次々と購入できるわけではなかった。

なのでベストバイに選ばれている、ということ。
私にとっては、瀬川先生がベストバイに選んでいるオーディオ機器というのは、
ステート・オブ・ジ・アート賞とほぼ同じくらいだった。

あのころは純真だった……、というつもりはまったくない。
「オーディオ機器の付加価値」というタイトルの、この項で書いているくらいである。

AU-D907 Limitedを手にした時は、
限定品であること、ステート・オブ・ジ・アート賞に選ばれたこと、
これらのことを付加価値とはまったく考えなかった。

むしろ価値そのものだ、と受け止めていたところもある。
変れば変るものだ、と自分でも思う。

私も、高校生のころ、40年前とは変ってきている。
オーディオ雑誌の賞のありかたも変ってきた。

1980年代前半までのころのような賞が放っていた輝きは、
すでになくなった、と私は感じている。

どのオーディオ雑誌も年末に賞を発表する。
あきらかに冬のボーナスをターゲットにした企画といえる。

もちろん編集者はそんなことはいわない。
一年をふりかえっての──、というはずだ。

意外に思われるかたもいるだろうが、
コンポーネンツ・オブ・ザ・イヤーは、一時期6月発売の号の特集だった時期もある。
ステート・オブ・ジ・アート賞のころは冬号だったのに、である。
そのころは、冬のボーナスよりも夏のボーナスのほうが消費をもりあげていた。

Date: 6月 30th, 2020
Cate: 価値・付加価値

オーディオ機器の付加価値(その9)

高校二年の時に、サンスイのAU-D907 Limitedを買った。
修学旅行に行かずに、その積立金と新聞配達のアルバイトで貯めたのとをあわせて、
なんとか、この限定販売のプリメインアンプが買えた。

高校生にとって、175,000円のアンプはそうとうに大きな買物だった。
しかも、くり返すが限定のアンプである。

この限定という言葉に、弱い。
私だけでなく、マニアならば多くの人がそうであろう。

もしAU-D907 Limitedが、
AU-D907IIといった型番で登場し、限定でなかったとしたら……。
もちろん中身はまったく同じだとして、あの時、手に入れた喜びに変りはないのか──、と思う。

ここでのLimited(限定)ということは、付加価値だったのか。

それだけでなくAU-D907 Limitedは、ステレオサウンド 53号で、
「第2回ステート・オブ・ジ・アート賞に輝くコンポーネント17機種の紹介」に登場している。
菅野先生が書かれている。

実をいうと、この53号の菅野先生の文章を読んだことで、
ますますAU-D907 Limitedが欲しくなっていた。

第2回ステート・オブ・ジ・アート賞に選ばれているプリメインアンプ。
49号の一回目で、プリメインアンプは何も選ばれていない。

AU-D907 Limitedが、プリメインアンプとして初めて選ばれたわけである。
当時の私は、このことがすごく嬉しかったというよりも、なんだか誇らしかった。

そういうプリメインアンプを自分は使っている、ということ。
しかも限定であるから、そんなに多くの人が使っているわけでもない。
まして高校生で、ということになると、ほんとうに少なかったはずだ。

そのことがなんとか誇らしく感じていたわけだ。
いまふり返ってこうやって書いていると、バカだなぁ、と思うけれど、
高校二年の私は、本格的なオーディオ機器を手にした、自分のモノにした、ということが、
嬉しくて嬉しくて、ノートにAU-D907 Limitedのスケッチ(落書き)をよくしていた。

賞に選ばれたプリメインアンプ。
そのことは、当時の私にとって大事な付加価値だったのかもしれない。

Date: 7月 8th, 2019
Cate: 価値・付加価値

オーディオ機器の付加価値(買い方によって……・その4)

「このアンプはデザインで損している」とか「このスピーカーはデザインで得している」とか、
そういった評価にもならないことを聞くことがままある。

こんなことをいう人は、デザインを理解していない、と言えるし、
デザインを付加価値としてしか捉えていない。

「付加価値が……」男も、そう捉えている。
だから、損している、得している、といったことをいうのだろう。

つまり「付加価値が……」男は、得している、損しているといった次元で、
付加価値を捉えている(考えている)ともいえる。

そう考えると、秋葉原のヘッドフォン、イヤフォン専門店で、
二時間も試聴して、気に入ったモデルを見つけたにもかかわらず、
より安く買えるamazonでの購入を選んだ男も、
得した、損した、という次元でのものの考え方の範疇から抜け出せないのかもしれない。

損とか得とか、付加価値とは本来そういうものではないはずだ。
今回のイヤフォン購入の件で思うのは、この人はおそらく若い人であろう。

twitterは匿名だし、年齢がわかるわけでもないけれど、
いくつかのこの人のツイートを読めば、若い人だと思う。

若者は経済的余裕がない、
だから少しでも安いところから買う──、
そのことがわからないわけではないが、
それにしても……、と思うわけだ。

店で二時間も試聴しても、気に入ったモデルが見つからなかったのであれば、
買わずに店を出てもいい。

けれどそうではない。
目先の損得で、買わずに店を出ている。
しかもamazonで買ったことを、ツイートする。

イヤフォン、ヘッドフォンの専門店の店員が、そのツイートを偶然見つけたら、
あぁ、あの人か……、ということになろう。

Date: 7月 7th, 2019
Cate: 価値・付加価値

オーディオ機器の付加価値(買い方によって……・その3)

二言目には「付加価値が……」というオーディオマニアを知っている。
この「付加価値が……」男は、
差別化のためには「付加価値が……」というし、
デザインも付加価値だ、という。

こんな男と付加価値について話し合う気はまったくなくて、
「付加価値が……」男の考える付加価値とは、いったいどういうものなのか、
私は理解していないし、理解する気はまったくない。

それでも思うのは、「付加価値が……」男は、
おそらく付加価値とは、多くの人に共通するものだと考えているのではないか、である。

けれど付加価値とは、一人ひとり違う、と私は考える。
付加(附加)とは、読んで字の通りである。
つけ加えることである。

何を、誰がつけ加えるのか。
「付加価値が……」男は、メーカーがつけ加えるものとして考えているのではないか。

そうではない。
付加価値とは、一人ひとり違うものと考える私には、
それを手にした人によって、手にした状況によって、
そこにつけ加わるものである。

その2)で書いている買い方をした人にとっては、
付加価値よりも、少しでも安く買えることが優先されることなのだろう。

二時間もの試聴につきあってくれた店員は、
客(?)の顔を憶えていることだろう。

amazonで買わずに、この店で購入していれば、
その店員との関係が、なんらかの形で生れてきたはずだ。

このことが付加価値につながっていくはずだ。

Date: 7月 6th, 2019
Cate: 価値・付加価値

オーディオ機器の付加価値(買い方によって……・その2)

amazonの日本語サイトが公開されたのが2000年。
一、二年経ったころ、インターネットで見かけるようになったのは、
書店で立ち読みして欲しい本を見つけたら、amazonで買う、というものだった。

そのころのamazonは書籍のみだったが、取り扱い品目は増えていった。
いまや何でも売っている。

そうなってくると、オーディオに限っても、
量販店や専門店で試聴して、インターネットで価格のいちばん安いところ調べ、そこで買う──、
そういう人が登場してきた。

今日、twitterを眺めていたら、フォローしている人がリツィートしている投稿が目に留った。

秋葉原にあるヘッドフォン、イヤフォン専門店で、
約二時間試聴して、気に入ったイヤフォンを見つけた。
それは三千円のイヤフォンであった。

気に入ったイヤフォンがいくらであってもかまわない。
試聴の二時間、一人の店員がつきっきりだったそうだ。

店員の心境はわからない。
気に入るイヤフォンが見つかってよかった、
その役に立てた、と喜んでいたかもしれない。

けれど、それはその人がその店が買ってくれれば、の話だろう。
二時間試聴した人は、そこでは買わずamazonで買った、そうである。

そんなことをツイートしているわけである。
少しでも安いところで買いたい、という気持はわからないわけではない。
それでも三千円が、どんなに安いところで買ったとしても、
半額になることはまずない。

せいぜい数百円の違いではないだろうか。
それでも、その人は二時間もの試聴を快く許してくれた店では買わなかった。

この人は、二時間の試聴につきあってくれた店員になんといって店を出たのか。
しかも、そのことを恥ずかしげもなくツイートする。

この投稿をリツィートしていた人は、
エントリークラスの商品が先細った理由の一つか? とコメントされていた。

Date: 2月 15th, 2019
Cate: 価値・付加価値

オーディオ機器の付加価値(その8)

付加価値の彼は、付加価値だけでなく、
名器という言葉も頻繁に使う。

あのアンプは名器ですから、とか、
このスピーカーは名器ですよね、とか、よく使っている。

なるほど、確かに、それは名器だな、と同意できることは少ない。
なぜ、そのアンプ、そのスピーカーまで名器というのか、疑問に思うことが多かった。

自分が使っているオーディオ機器以外を、ボロクソに貶す人がいる。
なんでも名器としてしまう付加価値の彼は、そんな人よりはいいように見える。

けれど、付加価値の彼が名器とするモノを聞いていると、
それこそミソモクソモイッショにしているとしか思えない。

そういえば、付加価値の彼は、どんなオーディオ評論家に対しても、先生をつける。
私が先生と呼ぶ人も、私がオーディオ評論家(商売屋)としか見ていない人にも、
等しく先生とつけて呼ぶ。

ここでも、私はミソモクソモイッショにするな、と強くいいたくなるが、
安易に名器と呼んだり(本人はそうではないと反論しそうだが)、
すべてのオーディオ評論家(職能家、商売屋どちらも)を先生と呼ぶことは、
根っこは同じなのだろう、と勝手に思っている。

彼のそんなミソモクソモイッショにしてしまうところが、
付加価値を頻繁に使うことと深いところで絡んでいるのではないのか。

Date: 2月 5th, 2019
Cate: 価値・付加価値

オーディオ機器の付加価値(その7)

付加価値が口ぐせのようになっている人にも、
オーディオに夢をみていたことがあったのか──、
というコメントがfacebookであった。

そういうことを、その彼と話したことはない。
もう何年も会っていないし、これからも会うことはないはず。

オーディオのことを話したことは何度かあったけれど、
付加価値の彼とは、つっこんだことを話したことはない。
なのであくまでも憶測でしかないが、
彼は彼なりに、なんらかの夢はあった(ある)だろう。

いい音を出したい、という夢はあったはずだ。
けれど、ここからが憶測になるわけだが、
その「いい音」とは、周りから「いい音ですね」と言われたいがための「いい音」なのかもしれない。

昨年トロフィーオーディオということを書いている。
彼にとって、オーディオとはそういう側面をもっていたのかもしれない。

「A社の○○を鳴らされているですか、すごいですね」
そんなふうに周りからいわれたいのかもしれない。

彼は数度会ったぐらい、さほど親しくなっていない人に対して、
「スピーカーは何を鳴らされているんですか」ときいてくるそうだ。

彼が鳴らしているスピーカーよりも、安い、もしくは世評の低いスピーカーだったりすると──、
あくまでもきいた話なので、このへんにしておこう。

一時の優越感に浸れる。
自分よりも高価なスピーカー、世評の高いスピーカーを相手が鳴らしていると、
その人たちの仲間になろうと積極的にくいこんでいく。

彼にとっての価値とは、そういうことなのかもしれない。

Date: 2月 4th, 2019
Cate: 価値・付加価値

オーディオ機器の付加価値(その6)

そういえば──、と思い出すのは、
付加価値を頻繁に口にするオーディオマニアの彼は、
製品の差別化のためにも付加価値は必要だ、的なこともいっていた。

出来上った製品が、他社製のモノとたいして代り映えしない。
そんなときに他社製のモノと区別するためにも、
もっといえば同じような製品であっても、自社製品のほうもをよくみせるためにも、
なんらかの付加価値が必要──、
おそらくそんな考えなのかもしれない。

こんなことを書いていて思い出すのは、
ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」サンスイ号の、
永井潤氏の「サンスイ論」の冒頭である。
     *
 サンスイの社内誌(さんすい)に目を通しているうちに、「山水の社風を考える」という座談会に出会い、そしてつぎのような言葉を見つけた。「個性の商品化を考えなければいけない。商品は山水らしい個性を持ったものでなければいかんということです。」サンスイの創設者、前社長菊池幸作氏の言葉であるが、この種の発言は随所にみられ、しかも繰り返し強調されている。私は直感的にサンスイ像に迫る手がかりがここにあると思った。
 ここでまず私の注意を引いたのは、商品の個性化でなく、個性の商品化という点である。要するに「山水」という個性があって、商品はその反映であり表現である、ということになっている。
     *
付加価値、付加価値とバカのひとつ憶えのようにいう彼は、
結局のところ、商品の個性化しか考えていないのかもしれない。
そういう見方でしかオーディオ機器を捉えるしかできないのだろう。

彼には個性の商品化ということが見えていないのかもしれない。
私の勝手な憶測でしかないが、こう考えるとすっきりと彼のことが見えてくる感じはある。

そうだったのか、と思いあたることがいくつか思い出されもする。