Archive for category 作曲家

Date: 1月 2nd, 2020
Cate: マーラー

マーラーの第九(Heart of Darkness・その13)

昨晩のaudio wednesdayでは、最後の曲に、
バーンスタイン/ベルリンフィルハーモニーのマーラーの第九をかけた。

常連のHさんからのコメントが、facebookで(その12)に対してあった。
とても美しい演奏が聴くことができた体験、とそこにはあった。

マーラーの第九は、ほんとうに美しい。
美しいけれど、その美しさは、半端なきれいな音からはとうてい鳴ってこない。
まったく、こちらの心に響いてこない。

バーンスタインのベルリンフィルハーモニーとのマーラーの第九の第一楽章の冒頭は、
空虚な音でしか鳴ってこないことが多すぎるように感じている。

そういう録音だろ、といってしまえれば、オーディオマニアとしてこれほどラクなことはない。
そんな人がいても不思議ではない。

それでもいおう、バーンスタインの、このマーラーはほんとうに美しい。
そのことに気づかずに終ってしまう音を聴いていることにこそ気づかない──、
そのことに対してかける言葉はない。

Date: 1月 1st, 2020
Cate: マーラー

マーラーの第九(Heart of Darkness・その12)

今日(1月1日)のaudio wednesdayでは、
バーンスタイン/ベルリンフィルハーモニーによるマーラーの第九を鳴らす。

新年早々、マーラーの第九なのか、という気持はない。
聴きたいから鳴らす。
自宅では、求める音量では鳴らし難いこともある。

しかもバーンスタインの、このライヴ録音のマーラーは、MQA-CDがある。
これまでSACDではかけてきた。

今日、初めてaudio wednesdayで、MQAでバーンスタインの、このマーラーをかける。
SACDとMQA-CD、どちらがいいのか、ということにはさほど興味がない。

それぞれの環境で選択すればいいことである。
それにマーラーの聴き方だって、人によってずいぶん違うことを、
これまで感じてきているから、選択肢が一つ、
といっても、私にとってそうとう魅力的な選択肢が増えた、とはいえる。

私は、ドイツ・グラモフォンでのバーンスタインのマーラーの再録音を、
CBSでの最初の録音りよも、ずっと高く評価している。
よくぞ、残してくれた、とさえ思っている。

それでも1980年代の録音ゆえに、これから先もフォーマット的にはそのままである。
ベルリンフィルハーモニーとのライヴ録音は、
いまになってみると幸にもアナログ録音だ、といえる。

だからこそSACDにもなり、MQA-CDにもなっている。

Date: 12月 11th, 2019
Cate: バッハ, マタイ受難曲

リヒターのマタイ受難曲(その2)

こちらが歳をとってしまったからなのか、
カール・リヒターのマタイ受難曲に関しては、
旧盤よりも新盤のほうを聴きたい、と思うことが増えてきている。
といっても、頻繁に聴いているわけではないが。

どちらもCDでの話だ。

リヒターの旧盤は、e-nokyoでMQAで配信されている。
192kHz、24ビットである。

こうなってくると話は違ってくるだろう。
新盤はCD、旧盤はMQAとなると、
どちらを聴くことが増えていくか。

旧盤(MQA)な気がする。

Date: 12月 8th, 2019
Cate: バッハ, マタイ受難曲

アーノンクールのマタイ受難曲

五年前に書いている。
美という漢字について、である。

美という漢字は、羊+大である。
形のよい大きな羊を表している、といわれても、
最初は、なかなか実感はわかなかった。
まず、なぜ羊なのか、と多くの人が思うだろう、私も思った。

大きな羊は、人間が食べるものとしてではなく、
神に捧げられる生贄を意味している──。

神饌としての無欠の状態を「美」としている、ときけば、
美という字が羊+大であることへの疑問は消えていく。

羊+大としての「美」。
それは英語のbeautyとイコールではない。

もう何度か、同じことを書いてきている。
なのに、いまごろになって気づいたことがある。

アーノンクールのマタイ受難曲のジャケットのことだ。
このディスクが出たのは2000年。

そのころは、「美」という漢字のもつ意味を知らなかった。
だから特に気づくこともなかった。

アーノンクールのマタイ受難曲のジャケットには羊の写真が使われている。
生贄としての羊と思われる写真である。

いまごろになって気づいて、
アーノンクールのマタイ受難曲を聴きたい、と思うようになった。

Date: 11月 16th, 2019
Cate: ワーグナー

ワグナーとオーディオ(その5)

ワグナーのハイライト盤はあまりない。
ワグナーの楽劇は、かなり長い演奏時間を要するにも関らず、である。

つまりワグナーの楽劇を聴くのであれば、ほぼ全曲盤を聴く、ということになる。
最初から最後まで一気に聴きとおさなければならない──、
そういいたい気持はあるけれど、現実にはなかなかそれだけの時間を確保するのが難しい。

私も、ワグナーの楽劇を一気に最後まで聴いたことは、そうそうない。
どこかで休憩をいれるか、
もしくは二日に分けて聴くこともあるし、途中まで、もしくは途中から、という聴き方もする。

LPからCDになり、ワグナーの楽劇は、途中で盤面を変えることが減った。
単に回数が減っただけでなく、幕の途中でのディスクのかけかえも減っている。

この点では、LPよりCDのほうが、ワグナーの楽劇の鑑賞に適している、ともいえる。
このことはCDが登場したときから思っていたけれど、
だからといって、一気に聴く時間がのびたかというと、必ずしもそうとはいえなかった。

厳密な比較ではない。
感覚的な比較でしかないのだが、
CDだと、聴きとおすしんどさが増しているように感じていた。

LPだと20数分で盤面をかえる必要があるから、
わずかな時間とはいえ、息抜きのようなことができるが、そのおかげとは思えなかった。

CDだと、なぜだが息苦しさ的なことを、LPよりも強く感じてしまう。

──実は、ここまでは(その4)のあとに書いたままにしていた。
二年経って、続きを書き始めた。

書き始めた理由はMQAにあり、
なので、なんとなく、こんなことを書こうかな、と決めていたことと、
少しばかり変ってきている。

この一年MQAを聴いて感じていることの一つが、
ワグナーの楽劇を聴くためのフォーマットのようにも感じていることだ。

Date: 6月 21st, 2019
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その22)

別項「ベートーヴェン(動的平衡)」でも、
挑発するディスク(余談・その4)」でも、
ベートーヴェンの音楽を、動的平衡の音の構築物とした。

私は、ベートーヴェンの音楽の最大の特徴は、ここにあると考えているし、
動的平衡の音の構築物として、ベートーヴェンの音楽のレコード演奏を目指している。

そういう捉え方、聴き方をしているわけだから、
ベートーヴェンの音楽から、何かを取りのぞくことは不可能だとも考えている。

ベートーヴェンの「第九」から歓喜の歌を取りのぞいたら──、
もしそんなことが可能になったら、
もうそれはベートーヴェンの音楽ではなくなる。

つまり動的平衡が崩壊してしまう。
もう音の構築物でもなくなってしまう。

もちろん、これは私の聴き方であって、
そんなふうには聴かない聴き手がいる。

どちらがベートーヴェンの音楽をよく理解しているとか、そういうことではなくて、
ベートーヴェンの音楽の聴き手であっても、
動的平衡の音の構築物という捉え方をまったくしていない聴き手もいる、というだけのことだ。

動的平衡の音の構築物という捉え方をまったくしていないベートーヴェンの音楽の聴き手であれば、
「第九」から……、という発想が出てきても、なんら不思議ではないし、
動的平衡が歓喜の歌を取りのぞくことで失われてしまっても、
ベートーヴェンの音楽のままなのだろう。

Date: 6月 15th, 2019
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その21)

ベートーヴェンの「第九」、私は名曲だと思っているけれど、
音楽を聴く人のすべてが、
「第九」を名曲だと思っていなければならないと考えているわけではない。

「第九」をつまらない曲と思っている人がいてもかまわない。
それでも、こんなこんなことを書いているのは、
「第九」から歌を取りのぞけば──、そういう発想をする人がいることに、
少々驚いているからだ。

「第九」の四楽章から歌を取りのぞく、
そんなことを考えたことは一度もなかった。

なかっただけに、
「歌が入っていなければ、いい曲なのに……」という発言の裏には、
「第九」の四楽章から、
歌を取りのぞける(取りのぞけたら)という考えがある、というふうに受け止めてしまう。

歌は、オーケストラの演奏と一体となっている。
いままでこんなことを考えてみたことがなかっただけに、
「歌が入っていなければ、いい曲なのに……」を聴いて、
よけいに一体となっていることを改めて感じた。

それだけに「歌が入っていなければ、いい曲なのに……」、
四楽章で歌が入ってくることでだいなしに、しかも演歌にしている──、
そういったことを聞いたり読んだりすると、
この人たちは、「第九」に涙したことはないんだな、と思う。

私が小澤征爾/ボストン交響楽団の「第九」を聴いて涙したのは、
四楽章の歌が始まってからだったし、
年末に刑務所で「第九」を聴いて号泣した受刑者も、たぶんそうであろう。

受刑者の、その人は、おそらく「歓喜の歌」のことはまったく知らなかったのではないか。
ドイツ語もまったく理解していなかったのではないか。

それでも「第九」の四楽章で、
“O Freunde, nicht diese Töne!”(「おお友よ、このような音ではない!」)と、
バリトン独唱が歌う、そのところで涙したのではないのか。

そして、そこからは最後まで涙していたようにおもう。

そういう力が「第九」にはある。

Date: 6月 11th, 2019
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その20)

6月5日のaudio wednesdayでは、
フリッツ・ライナー指揮シカゴ交響楽団によるベートーヴェンの「第九」も鳴らした。

ライナーの「第九」のことは、(その1)で触れている。
1989年の映画「いまを生きる」(原題はDead Poet Society)で使われていた。

この映画を観ていて、ライナーの「第九」と出逢えた。
私はステレオ録音の「第九」では、ジュリーニ指揮ベルリンフィルハーモニーの録音とともに、
このライナー盤を聴きつづけてきている。

今回は四楽章だけを鳴らした。
鳴らし終って、常連のKさんが「歌が入っていなければ、いい曲なのに……」といわれた。

Kさんと同じことを、ある雑誌でもみかけたことがある。
どの雑誌で、どの人が書いたことなのか記憶しているけれど、ここでは書かない。

その人もまた、四楽章で歌が入ってくることで、
「第九」をだいなしにしている。
さらには、演歌にしてしまっている──、
そんなことを書かれていた。

音楽の聴き方も、ほんとうに人によって、大きく違ってくる。
もう人さまざまという言葉だけでは足りないとおもえるほどに、
こうまで違ってくるものか、ともう諦めるしかないのか。

30代なかばだったら、ムキになって説得しようと試みただろうが、
いまは、もうつもりはない。

一応、反論めいたことはちょっと言ったけれど、
それ以上はあえて言うまい。

でも、(その10)で書いている、昔の新聞で読んだ記事のことを思い出す。

年末に受刑者に「第九」を聴かせた、という話だ。
受刑者の一人が剛球した、という内容だった。

「第九」をもっと以前に聴いていれば、
罪を犯すことはなかっただろう……と。

私も、ベートーヴェンの「第九」を、
小澤征爾指揮ボストン交響楽団の演奏で、人見記念講堂で聴いたとき、
四楽章でバリトンが歌い出したところから、もう涙が止まらなかった経験がある。

Date: 3月 21st, 2019
Cate: バッハ, マタイ受難曲

ヨッフムのマタイ受難曲(その4)

ヨッフムのマタイ受難曲。

いまでは多くのマタイ受難曲がCDとなっている。
でも、私がマタイ受難曲を初めて聴いたとき、
マタイ受難曲のLPの数は少ないとはいわないが、多くはなかった。

名演といわれていたのはリヒターであり、
クレンペラーも高い評価を得ていた。
あとはメンゲルベルク、カラヤン、リリングなどの演奏があった。

ヨッフムのマタイ受難曲は、さほど注目されていなかった、と記憶している。
レコード芸術の恒例の特集となった名曲名盤の企画。

私が20代のころ、ヨッフムのマタイ受難曲に点を入れている人は佐々木節夫氏だけだった。
そういうものなのか、と思ったから、いまもはっきりと憶えている。

私は五味先生の影響で、ヨッフムのマタイ受難曲を最初に聴いている。
そうそう頻繁に聴くわけではないが、こちらが歳をとるとともに、
ヨッフムのマタイ受難曲の美しさが、いかに深いかを感じる。

その3)は二年半ほど前に書いた。
(その4)を思い出したように書いているのは、
メリディアンのULTRA DACで聴きたい一枚だからだ。

Date: 2月 10th, 2019
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その27)

ここでの組合せは、カラヤンの「パルジファル」を聴くためだけのシステムである。
このことを、コントロールアンプ選びに迷っているときに思い出した。

ならばコントロールアンプはなくてもいいじゃないか。
マッキントッシュのMC2301にぴったりと合うコントロールアンプは、
私の感覚ではマッキントッシュのラインナップにはない。

他社製のコントロールアンプも、あれこれ思い浮べてみた。
帯に短し襷に長し、という感じがどうしても残る。

実際に試聴してみれば、そんな感じは消えてしまうのかもしれないが、
MC2301すら聴く機会がないのだから、コントロールアンプをあれこれ替えての試聴は期待できない。

ではどうするのか。
ここでのCDプレーヤーには、
オラクルのCD2000 mkⅢとメリディアンのULTRA DACの組合せをもってきたい。

ULTRA DACを聴く以前は、別のD/Aコンバーターを考えていた。
その場合はコントロールアンプがどうしても必要になる。

ULTRA DACは内蔵のDSPで、ボリュウムコントロールとともにトーンコントロールも可能になっている。
ULTRA DACの、この機能を使えばいい。

これで組合せがまとまった。
スピーカーシステムはBrodmann AcousticsのVC7(以前のベーゼンドルファーのVC7)、
パワーアンプはマッキントッシュのMC2301、
CDトランスポートがオラクルのCD2000 mkⅢに、
D/AコンバーターがメリディアンのULTRA DAC。

このシステムで、カラヤンの「パルジファル」を聴きたい。
この組合せで、カラヤンの「パルジファル」を聴く機会はおそらく訪れない。

にも関らず、ここでの組合せをまじめに考えて、ここまで書いてきた。
無駄なことだ、と思う人もいるだろうけれど、
私は無駄とは思わない人間だ。

Date: 2月 9th, 2019
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その26)

健康な心を持った聴き手のため、というアンプの選択。
スピーカーを現行製品から選んでいるから、
アンプも現行製品から選びたい。

現行製品で、そういうアンプ(ここではパワーアンプ)はあるだろうか。
前回(その25)は二年前。
二年間、アンプを何にするか考えていたわけではない。

割とすんなり見つけた。
ただ、そのアンプの音を聴く機会がなかった。
聴いてから続きを書こうと思っていたら、二年間が過ぎていた。

けれど、その二年の間に聴く機会はなかった。
そのアンプはいまも現行製品である。
新製品ではもちろんない。
二年前でも、すでに新製品ではなかった。

私が、ここでの組合せで選んだのは、マッキントッシュのMC2301である。
KT88の4パラレルプッシュプルで300Wの出力をもつ。

しかもMC2301は以前まとめて書いているように、
それまでのマッキントッシュのパワーアンプのコンストラクションを一新している。

発売になって約十年。
いまも現行製品である。

いいアンプに違いない、といまも思っている。
正直300Wという出力は要らない、と思っている。

半分の出力にしてくれて、コンストラクションはそのまま、
出力管のKT88の本数を半分の四本にしてくれたら、いいのになぁ、と思っている。

でも300Wの出力を、そこまで必要とはしないけれど、
ぐっと音量を絞った状態で、VC7を鳴らしたい。
底知れぬ余裕を秘めた鳴り方をしてくれるのではないだろうか。

MC2301には決めていても、
コントロールアンプもマッキントッシュにしたい、とは思っていない。
コントロールアンプを何にするか、決めかねていたのも、
(その25)から、ここまで間があいた理由でもある。

Date: 8月 21st, 2018
Cate: ワーグナー

ワグナーとオーディオ(マランツかマッキントッシュか・その12)

《何々である、で結ぶ文体を偉ぶったように思うのは、多分思う方が弱くイジケているのだろうと》
そう五味先生は書かれている。
私もそう思う。

いまでは「上から目線で……」と、すぐさま口にする人が増えてきたようだ。
「上から目線でいわれた」と感じる方が弱くてイジケているのだろう、と思う。

弱くてイジケている人は、上の人が自分がいまいるところまで降りてきてくれる、と思っているのか。
弱くてイジケている人は、自分よりも下にいると思っている人のところまで降りて行くのか。

上にいる者は、絶対に下に降りていってはダメだ、と菅野先生からいわれたことがある。
そう思っている。

下にいる人を蹴落とせ、とか、
上に上がってこようとしているのを拒む、とか、そういうことではない。
上にいる者は、目標としてしっかりと上にいるべきであり、
導くことこそ大事なことのはずだ。

Date: 8月 21st, 2018
Cate: ワーグナー

ワグナーとオーディオ(マランツかマッキントッシュか・その11)

「西方の音」に「少年モーツァルト」がある。
そこに、こうある。
     *
 私は小説家だから、文章を書く上で、読む時もまず何より文体にこだわる。当然なはなしだが、どれほどの評判作もその文体が気にくわねば私には読むに耐えない。作家は、四六時中おなじ状態で文章が書けるわけはなく、女を抱いた後でつづる文章も、惚れた女性を持つ作家の文章、時間の経過も忘れて書き耽っている文章、またはじめは渋滞していたのが興趣が乗り、夢中でペンを走らせる文章など、さまざまにあって当然だが、概して女と寝たあとの文章と、寝るまでの二様があるように思える。寝てからでは、どうしても文体に緻密さが欠けている。自他ともに、案外これは分るものだ。女性関係に放縦な状態でけっしてストイックなものが書けるわけはない。ライナー・マリア・リルケの『マルテの手記』や、総じて彼の詩作は、女性を拒否した勤勉な、もしくは病的な純粋さで至高のものを思わねばつづれぬものだろう、と思ったことがある。《神への方向》にリルケの文学はあるように思っていた。私はリルケを熟読した。そんなせいだろうか、女性との交渉をもったあとは、それがいかほど愛していた相手であれ、直後、ある己れへの不潔感を否めなかった。なんという俺は汚ない人間だろうと思う。
 どうやら私だけでなく、世の大方の男性は(少なくともわれわれの年代までに教育をうけた者は)女性との交渉後に、ある自己嫌悪、アンニュイ、嘔吐感、虚ろさを覚えるらしい。そういう自己への不潔感をきよめてくれる、もしくは立ち直らせてくれるのに、大そう効果のあるのがベートーヴェンの音楽ではなかろうか、と思ったことがある。
 音楽を文体にたとえれば、「ねばならぬ」がベートーヴェンで、「である」がバッハだと思った時期がある。ここに一つの物がある。一切の修辞を捨て、あると言いきるのがバッハで、あったのだったなぞいう下らん感情挿入で文体を流す手合いは論外として、あるとだけでは済ませぬ感情の盛り上がり、それを、あくまで「ある」でとどめるむずかしさは、文章を草してきて次第に私にも分ってきた。つまり、「ある」で済ませる人には、明治人に共通な或る精神の勁さを感じる。何々である、で結ぶ文体を偉ぶったように思うのは、多分思う方が弱くイジケているのだろうと。──なんにせよ、何々だった、なのだった、を乱用する作家を私は人間的に信用できなかった。
 シューベルトは、多分「だった」の作曲家ではなかろうかと私は思う。小林秀雄氏に、シューベルトの偉さを聞かされるまではそう思っていたのである。むろん近時、日本の通俗作家の「だった」の乱用と、シューベルトの感情挿入は別物だ。シューベルトの優しさは、だったで結べば文章がやさしくなると思う手合いとは無縁である。それでも、ベートーヴェンの「ねばならぬ」やバッハにくらべ、シューベルトは優しすぎると私には思えた。女を愛したとき、女を抱いたあとにシューベルトのやさしさで癒やされてはならぬと。
 われながら滑稽なドグマであったが、そういう音楽と文体の比喩を、本気で考えていた頃にもっとも扱いかねたのがモーツァルトだった。モーツァルトの音楽だけは、「ねばならぬ」でも「である」でもない。まして「だった」では手が届かない。モーツァルトだけは、もうどうしようもないものだ。彼も妻を持ち、すなわち妻と性行為はもったにきまっている。その残滓がまるでない。バッハは二人の夫人に二十人の子を産ませた。精力絶倫というべく、まさにそういう音楽である。ベートーヴェンは女房をもたなかったのはその音楽を聞けば分る。女房ももたず、作曲に没頭した芸術家だと思うから、その分だけベートーヴェンに人々は癒やされる。実はもてなかったといっても大して変りはないだろう。
     *
《ある己れへの不潔感》、《アンニュイ、嘔吐感、虚ろさ》、
そういったことをまったく感じない男がいる、ということも知っている。

そんな男にかぎって、ストイックな文章を書こうとしているのだから、
傍から見れば滑稽でしかない、とおもうことがある。

《概して女と寝たあとの文章と、寝るまでの二様があるように思える》とある。
ならば自己への不潔感を感じる者と、感じない者との二様がある、のだろう。

感じない者が大まじめに、ストイックな文章であろうとするのだから、
やはり、滑稽でしかない、と感じる。

ワグナーは、どちらだったのか。

Date: 8月 15th, 2018
Cate: ワーグナー

ワグナーとオーディオ(マランツかマッキントッシュか・その10)

ワグナーとオーディオというタイトルなのに、
書いていることはワグナーと五味康祐になっている。

五味先生とワグナーということで、
私と同世代、上の世代で熱心にステレオサウンドを読んできた人ならば、
2号での小林秀雄氏との音楽談義を思い出されるはずだ。

そこで五味先生は、いわれている。
     *
五味 ぼくは「トリスタンとイゾルデ」を聴いていたら、勃然と、立ってきたことがあるんでははぁん、官能というのはこれかと……戦後です。三十代ではじめて聴いた時です。フルトヴェングラーの全曲盤でしたけど。
     *
「勃然と、立ってきた」とは、男の生理のことである。
この五味先生の発言に対し、小林秀雄氏は「そんな挑発的ものじゃないよ。」と発言されている。

そうかもしれない、と考えるのが実のところ正しいのかもしれない。
それに音楽、音、オーディオについて語っているところに、
こういった性に直結する表現が出てくることを非常に嫌悪される人がいるのも知っている。

以前、ステレオサウンドで、菅野先生が射精という表現をされた。
このことに対して、
ステレオサウンドはオーディオのバイブルだから、そんな言葉を使わないでくれ、
そういう読者からの手紙が来たことがあった。

私の、このブログをオーディオのバイブルと思っている人はいないだろうから、
気にすることなく書いていくけれど、世の中にはそういう人がいるというのは事実である。

そういう人にとっては、
小林秀雄・五味康祐「音楽談義」での《勃然と、立ってきたことがある》は、
どうなんだろうか。

《勃然と、立ってきた》とはあるが、その後のことについては語られていない。
だから、かろうじて、そういう人にとっても許容できることなのだろうか。

三十代ではじめて聴いて《勃然と、立ってきた》とあるから、
タンノイのオートグラフ以前のことだ。

五味先生のところにオートグラフが届いたのは1964年である。
五味先生は42歳だった。

Date: 8月 14th, 2018
Cate: ワーグナー

ワグナーとオーディオ(マランツかマッキントッシュか・その9)

五味先生はステレオサウンド 50号のオーディオ巡礼で、
森忠輝氏のリスニングルームを訪ねられている。
     *
森氏は次にもう一枚、クナッパーツブッシュのバイロイト録音の〝パルシファル〟をかけてくれたが、もう私は陶然と聴き惚れるばかりだった。クナッパーツブッシュのワグナーは、フルトヴェングラーとともにワグネリアンには最高のものというのが定説だが、クナッパーツブッシュ最晩年の録音によるこのフィリップス盤はまことに厄介なレコードで、じつのところ拙宅でも余りうまく鳴ってくれない。空前絶後の演奏なのはわかるが、時々、マイクセッティングがわるいとしか思えぬ鳴り方をする個所がある。
 しかるに森家の〝オイロダイン〟は、実況録音盤の人の咳払いや衣ずれの音などがバッフルの手前から奥にさざ波のようにひろがり、ひめやかなそんなざわめきの彼方に〝聖餐の動機〟が湧いてくる。好むと否とに関わりなくワグナー畢生の楽劇——バイロイトの舞台が、仄暗い照明で眼前に彷彿する。私は涙がこぼれそうになった。ひとりの青年が、苦心惨憺して、いま本当のワグナーを鳴らしているのだ。おそらく彼は本当に気に入ったワグナーのレコードを、本当の音で聴きたくて〝オイロダイン〟を手に入れ苦労してきたのだろう。敢ていえば苦労はまだ足らぬ点があるかも知れない。それでも、これだけ見事なワグナーを私は他所では聴いたことがない。天井棧敷は、申すならふところのそう豊かでない観衆の行く所だが、一方、その道の通がかよう場所でもある。森氏は後者だろう。むつかしい〝パルシファル〟をこれだけ見事にひびかせ得るのは畢竟、はっきりしたワグナー象を彼は心の裡にもっているからだ。〝オイロダイン〟の響きが如実にそれを語っている。私は感服した。あとで聞くと、この数日後アンプの真空管がとんだそうだが、四十九番あたりの聴くに耐えぬ音はそのせいだったのかも知れない。
 何にせよ、いいワグナーを聴かせてもらって有難う、心からそう告げ私は森家を辞したのである。彼の人となりについては気になる点がないではなかったが、帰路、私は満足だった。本当に久しぶりにいいワグナーを聴いたと思った。
     *
40号代のステレオサウンドには、森忠輝氏の連載が載っていた。
オイロダインとの出合い、アナログプレーヤー、アンプの選択と入手についての文章を読んでいた。

森忠輝氏のアンプはマランツのModel 7とModel 9である。
森忠輝氏の心の裡にあるワグナー像を描くには、
森忠輝氏にとってはマランツのアンプしかなかったのだろう。

けれど、忘れてならぬのは天井桟敷の俯瞰である、ということだ。

ここでひとつ五味先生に訊ねたいことがある。
森忠輝氏のオイロダインで、クナッパーツブッシュのパルシファルは、どこまで聴かれたのだろうか。
レコードの片面だけなのか、まさかとは思うが、五枚全面聴かれたのか。

森忠輝氏の音量は、かなり小さい、と書かれている。
小さいからこそマランツなのか、と思うし、
おそらく聴かれたのはレコード片面なのだろう──、とそんなことを考えている。