Archive for category 作曲家

Date: 3月 10th, 2024
Cate: ワーグナー

ワグナーとオーディオ(その10)

今年から音を鳴らしているaudio wednesdayは、
開始は19時からだが開場は18時で、すでに三回行っているが、
18時から来られた方に音を聴いてもらっている。

あくまでも本番は19時からなのだが、
システムのウォーミングアップや全体の調子をはかるうえでも、
本番では鳴らさないであろう曲を主にかけている。

3月の会では、カラヤンの「パルジファル」をかけた。
三十分ほど鳴らしていた。
そのまま続けて鳴らしたい(聴いていたい)と思ったけれど、
ワグナーの「パルジファル」を一方的に最後まで聴かせるというのは、
ある種の暴力に近いのかもしれない。

そんなことを思うから、途中でボリュウムを下げることになるわけだが、
それでもいつかは「パルジファル」か「トリスタンとイゾルデ」を、
最初から最後まで通してかけたい。

やりたいとは考えているものの、やることはないだろう。

Date: 3月 8th, 2024
Cate: マーラー

マーラーの第九(Heart of Darkness・その15)

3月6日は、
バーンスタイン/ベルリンフィルハーモニーによるマーラーの第九をかけた。
部屋を暗くして鳴らした。

当日まで、バーンスタインかジュリーニかで迷っていた。
MQAということで、バーンスタインにした。

次に迷ったのは、どの楽章をかけるかだ。
第一楽章にするか第四楽章にするか。

かける寸前まで迷っていた。
かけたのは第一楽章だ。

部屋を暗くしての約三十分間。
マーラーの音楽をあまり聴いていない人にとっては、しんどい時間だったかもしれない。

一楽章が終る──、
このまま第二楽章、第三楽章、第四楽章までかけたい──、
そう思っていた。

けれど会の最後にはカザルスの無伴奏チェロ組曲をかけると決めている。
時間の余裕はない。

マーラーの第九を最後までかける、ということはしなかった。
けれど、会が終って、お礼の言葉をくださった方は、
この録音を、こういう音で聴けるとは思ってもいませんでした、
第四楽章まで聴きたかった、ともいわれた。

個人的には、まだまだと感じていた点は多々ある。
それでも、そういってくださる人がいるということは、
マーラーの音楽として鳴り響いていたことは間違いないはずだ。

Date: 2月 29th, 2024
Cate: 「オーディオ」考, モーツァルト

artificial mozart

2006年、金沢に向う電車の車内広告に、目的地であった21世紀美術館の広告があった。
そこには、artificial heartの文字があった。
artificialのart、heartのartのところにはアンダーラインがあった。

artificial heartは、artで始まりartで終ることを、この時の広告は提示していた。
この時の目的地であった21世紀美術館では川崎先生の個展が開かれようとしていた。

2015年12月に「eとhのあいだにあるもの(その5)」の冒頭に、そう書いている。

artificial heartを見て以来、artで始まりartで終るものには、
他に何があるのかを、あれこれ考えていた。

あるとき、これもartで始まりartで終ると気づいた。

artificial mozart。
アーティフィシャル・モーツァルト。

そのころはただ思いついただけだったけれど、
ここ数年、artificial mozartは私にとって、別の意味ももつようになってきている。

Date: 2月 23rd, 2024
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(20世紀の場合と21世紀の場合・初演200年)

二年前の春、オクサーナ・リーニフについて少しだけ書いている。
いまのところ、オクサーナ・リーニフ指揮のベートーヴェンの第九は聴けそうにない。
一日でも早く聴ける日(つまり彼女が指揮する日)が訪れることを祈っている。

今日、TIDALで新しく配信されることになった第九がある。
Keri-Lynn- Wlson指揮Ukrainian Freedom Orchestraによる第九である。

ケリ=リン・ウィルソン、ウクライナ・フリーダム・オーケストラについては、
彼女本人のサイトを読んでほしい。

この第九は、ドイツ語による歌唱ではなくウクライナ語によるものだ。
このことについても、彼女のサイトに載っている。

今年は第九の初演から200年である。
いくつもの第九の録音が登場することだろう。

Date: 11月 4th, 2023
Cate: バッハ, マタイ受難曲

ヨッフムのマタイ受難曲(その7)

少し前に、クレンペラーによるバッハのロ短調ミサ曲が、
2023年リマスターでTIDALで、MQAで聴けるようになっていた。
なので、そろそろクレンペラーによるマタイ受難曲も2023年リマスターで聴けるようになるはず。
あと少しだ、と首を長くして待っていた。

ようやく昨日の午後からTIDALで配信されるようになった。
これまでもクレンペラーによるマタイ受難曲はMQAで聴けていた。
44.1kHzでMQAだった。

今回の2023年リマスターは、192kHz、24ビットでMQA Studioである。
昨晩、インターナショナルオーディオショウから遅くに帰宅してその後入浴。
日付がかわる少し前に、マタイ受難曲を見つけた。

最初だけを少し──、そんなふうにして聴き始めたら、
第一部を聴き終っていた。

途中で止めることはできるのに、聴いていた。
第二部も聴きたかったけど、寝不足になってしまうのであきらめた。

五味先生は、クレンペラーのマタイ受難曲について書かれている。
     *
バッハの『マタイ』は、ペテロをワルター・ベリイにうたわせるクレンペラー盤と、同じペリイがイエスで登場するオイゲン・ヨッフム盤があり、マザー(注:晃華学園校長マザー・メリ・ローラ)はそのどちらも拙宅で聴いた。レコードとしては、いつもながらテンポののろい、体質的に私などにはその勿体ぶった重厚さの我慢ならないクレンペラー盤が、この『マタイ』に限っては、かえって崇高感の横溢した〝偉大なバッハ〟を聴かせてくれる。ベートーヴェンの『ミサ・ソレムニス』と共に《勿体ぶり屋クレンペラー》の数尠ない名指揮の一に挙げられるだろう。それでも、ヨッフム盤を一度でも聴いてしまえば現代感覚では、クレンペラーはもう過去形でしか語れない。まるまるレコード一枚分、クレンペラーの方がテンポがのろく、しかもバッハ音楽の神性の流露でヨッフムに劣る。マザーもこれに同意見である。ただ、前のペテロの登場に限っては、ヨッフムのペテロはクレンペラーのそれよりもさらに弱々しい。醇朴だが気の荒い漁師ではなく、まるでインテリの声だ。ことわるまでもないが、ナザレの大工の息子を支持したのはインテリでなかった。知識階級には、蔑みの眼で見られた人たちだった。いつの時代にも神の子はインテリに嘲られ、付和雷同する民衆には石もて追われ、最底辺の極貧の人々にのみ慕われる。ペテロをインテリにしたのでは当時のイエズス・キリストの悲劇は分らない。この点、ペンデレツキは正しかった。
     *
勿体ぶり屋クレンペラー、たしかにそう感じることはある。
クレンペラーを、だからそれほど多く聴いてはこなかった。

それでもマタイ受難曲は早いうちに買って聴いていた。

Date: 10月 29th, 2023
Cate: ワーグナー

ワグナーとオーディオ(マランツかマッキントッシュか・番外)

マランツのModel 7とマッキントッシュのC22。
同時代の管球式コントロールアンプであり、
どちらも製造中止になってからでも、その評価は高い。

中学生の私にとって、どちらも憧れの存在だった。
それからしばらくすると、Model 7のほうが魅力的に思えてくるようになった。

マッキントッシュの管球式パワーアンプ、
たとえばMC275を持っているならば、Model 7ではなくC22を選ぶ。

マランツの管球式パワーアンプを持っていれば、C22を選ぶことはない。
やはりModel 7である。

そういう組合せ前提の選択ではなく、
コントロールアンプ単体としての完成度で選ぶとなったら、
迷うことなくModel 7である。

多くの人がそうなのだろう。
だからこそModel 7の中古市場での値上りは、すごいことになっている。
C22は、それほどではないから、このことからもModel 7の人気の高さがわかる。

先日、あるところでC22を見て触ってきた。
天板と底板をとって内部をじっくり見てきた。

一度もメインテナンスされていないにも関わらず、
六十年ほど前の器械とはおもえないほどきれいだった。

カップリングコンデンサーの外側にひび割れはまったくなかった。
イコライザーアンプ部の初段のカソードのバイパスコンデンサーが、
白く粉を吹いた状態だったぐらいで、あとは驚くほどだった。

ボロボロになっていてもおかしくない。
にも関わらず、新品の状態をほぼ維持している。
外観は多少古びているだけに、その内部のきれいさは、
こうやって書いていても驚きしかなかった。

そういうC22を目の当りにすると、とたんにC22が魅力的に思えてくる。
不思議なものだ。

Date: 12月 5th, 2022
Cate: バッハ, マタイ受難曲

ヨッフムのマタイ受難曲(その6)

12月1日に、レコード芸術のレコード・アカデミー賞の受賞ディスクが発表になった。
今年の大賞は、ラファエル・ピション指揮のマタイ受難曲である。

4月に発売になっている。
出ていたのは夏ごろに気づいていたが、聴いてはいなかった。
レコード・アカデミー賞大賞ということで、12月1日に聴いた。
TIDALにあったからだ。

聴いてすぐに、ヨッフムのマタイ受難曲を聴きたくなった。
それでもしばらくはピションのマタイ受難曲を聴いていたけれど、
途中で聴くのをやめてしまった。

今日、ふたたびピションのマタイ受難曲を聴いた。
やはりヨッフムのマタイ受難曲を聴きたくなった。
今回は、ヨッフムのマタイ受難曲を聴いた。

ピションのマタイ受難曲にケチをつける気は毛頭ない。
レコード芸術だけでなく、Googleで検索すると、
聴いた人は高い評価をしていることがわかる。

そうだろうな、とは思う。
けれど、それは現象としてのマタイ受難曲としての完成度の高さであり、
素晴らしさのような気がする。

録音にしても、ヨッフムのマタイ受難曲よりもよい。
ヨッフムとピションとのあいだには五十年ほどの隔たりがあるのだから、
録音ひとつとっても大きな違いがあって当然であり、
そのことも現象としてのマタイ受難曲の素晴らしさを際立てている、ともいえる。

けれど心象としてのマタイ受難曲として、私の心に響いてくるのは、
ヨッフムのマタイ受難曲である。

だからといって、ピションのマタイ受難曲が心象のマタイ受難曲として素晴らしくはない、
そういうことではないはずだ。
ピションのマタイ受難曲が、聴き手の内奥に迫ってくる、と評価している人もいたのだから。

だから、あくまでも私にとって、ということである。

Date: 11月 5th, 2022
Cate: ワーグナー

ワグナーとオーディオ(その9)

夜おそく、ひとりでワグナーをヘッドフォンで聴いていると、
ふとした拍子に、ルートヴィヒ二世よりも、
われわれ現代人は贅沢かもしれない──、とおもう。

ルートヴィヒ二世はワーグナーの作品の上演のためだけの劇場、
バイロイト祝祭劇場の建築を全面的に援助したバイエルン国王なのだが、
そのバイロイト祝祭劇場で、
たったひとりでワグナーを聴くことはかなわなかったのではなかろうか。

特等席といえるところで、周りに人を寄せ付けずにワグナーを聴いていただろうが、
それでも劇場には多くの人がいる、それらの人が視界に入ってくるし、
人の気配も感じてしまう。

ルートヴィヒ二世は、たったひとりでワグナーを聴きたかったのではないのか。
そんなことをふとおもってしまう。

そうおもうと、たとえヘッドフォンであったとしても、
たったひとりで好きな時間にワグナーを、たったひとりで聴ける。

このことは、とても贅沢なこと、そのことに気づく。

Date: 10月 24th, 2022
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(20世紀の場合と21世紀の場合・さらにその後)

3月10日に、オクサーナ・リーニフのことを書いた時点では、
TIDALにはリーニフ指揮のアルバムはなかった。

先日、検索してみたら、今度はあった。
一枚だけだがある。

ドヴォルザークの交響曲第九番である。
“Dal nuovo mondo”が聴ける。

くり返すが、オクサーナ・リーニフはウクライナ出身だ。

Date: 10月 7th, 2022
Cate: ワーグナー

ワグナーとオーディオ(その8)

別項で書いているように、先月まではシューベルトをよく聴いていた。
他の作曲家の作品も聴いていたけれど、
シューベルトの作品を聴かない日はない、ぐらいによく聴いていた。

いまは、というと、シューベルトをぱったり聴かなくなったわけではないが、
頻度はかなり低くなって、ワグナーをよく聴くようになってきている。

ワグナーの作品は、当然ながら長い。
なのに聴きはじめると、ついつい聴き続けている。

たいていは、このブログを書き終ってから聴きはじめるので、
夜ある程度の時間になっている。
なのでスピーカーからのワグナーを聴くわけにもいかず、ヘッドフォンで、
TIDALでMQAでのワグナーを聴くことがほとんどだ。

聴いていると、もう、こんな時間、ということになる。
最後まで聴きたいけれど、翌日のことを考えると、途中であきらめるしかない。

幕の途中でやめることはしたくないので、それでもワグナーを聴くということは、
それなりに時間をとられる。

若い頃のワグナーはいいな、と、
いま、この齢になってのワグナーはいいな、と同じではない。

だからといって、若い頃ワグナーを敬遠して聴いていなかったら、
いま、ワグナーはいいな、とは感じなかっただろう。

そんなことを思ったりしているのだが、
それ以上に、ワグナーを聴くためだけに、いいヘッドフォンが欲しいな、とおもう。

Date: 9月 6th, 2022
Cate: モーツァルト

続・モーツァルトの言葉(その6)

その2)で、
バーンスタインの晩年の演奏にある執拗さは、
バーンスタインの愛なんだろう、と思える。
それも、あの年齢になってこその愛なんだ、とも思う、
と書いている。

老人の、執拗な愛によるマーラーを聴きたい──、
そう思う一方で、執着と愛は違うわけで、
執着と愛をごっちゃにしてしまうほど、こちらももう若くないわけだが、
では、執拗と執着は、どう違うのか、と考える。

執拗を辞書で引くと、
しつこいさま、とある。
それから、意地を張り、自分の意見を押し通そうとするさま、ともある。

しつこいを引くと、
一つのことに執着して離れようとしない,とある。
ここに執着が出てくるからといって、執拗と執着が同じとは思っていない。

辞書には、しつこいの意味として、もう一つある。
(味・香り・色などが)濃厚である。不快なほど強い、とある。

私がバーンスタインのマーラーを、
《老人の、執拗な愛によるマーラー》と感じたのは、まさにこれである。

執着とは、辞書には、
ある物事に強く心がひかれること、心がとらわれて、思いきれないこと、とある。

バーンスタインの晩年のマーラーを聴けば、わかる。
執着と愛は違う、ということが。

老人(バーンスタイン)の、執拗な愛によるマーラーは、
人によっては不快と感じるのであろう。

Date: 7月 24th, 2022
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(20世紀の場合と21世紀の場合・その後)

四ヵ月前に「ベートーヴェンの「第九」(20世紀の場合と21世紀の場合)」を書いた。

昨日、ボローニャで、オクサーナ・リーニフがベートーヴェンの第九を振っている。

Date: 6月 4th, 2022
Cate: ワーグナー, 映画

ワグナーとオーディオ(とIMAX 3D)

6月1日に「トップガン マーヴェリック」を観てきた。
IMAXで観てきた。

今年観た映画のなかで、ダントツに楽しかった。
映画って、いいなぁ、と素直におもえるほどよかった。

映画館で観てよかった映画だ、とも思っていた。
この十年くらいか、映画館が輝きを取り戻したような感じを受けている。

私が、再び積極的に映画館で映画を観るようになったきっかけは、
ドルビー・アトモスの登場である。

別項「トーキー用スピーカーとは(Dolby Atmos・その1)」で書いているように、
2013年12月1日、船橋まででかけて観に行った。

その時観たのは「スタートレック イントゥ・ダークネス」で、
ドルビーアトモスと3Dによる上映だった(IMAX 3Dではない)。

船橋まででかけたのは、
Dolby Atoms(ドルビーアトモス)を日本で初めて導入した映画館で、
まだ船橋にしかなかったからだ。

船橋からの帰りの電車のなかでおもっていたことは、(その3)に書いている。

ジョン・カルショウがいま生きていたら、
3D映像とドルビーアトモスを与えられたら、
どんな「ニーベルングの指環」をわれわれに提示してくれるであろうか──。
そんなことをぼんやりとではあるが考えていた。

それから九年ほど経って、IMAX 3Dが登場した。
別項「Doctor Strange in the Multiverse of Madness(その1)」で、
「Avatar: The Way of Water」の予告編を観た、と書いた。
この予告編もIMAX 3Dで、そのクォリティの高さは、また一つ時代が変った、
そう思わせるほどのものだ。

「ニーベルングの指環」。
最新のCGによる制作とIMAX 3Dでの上映。
観たい。

Date: 5月 7th, 2022
Cate: ベートーヴェン, 正しいもの

正しいもの(その23)

井上先生の
《ブルックナーが見通しよく整然と聴こえたら、それが優れたオーディオ機器なのだろうか》、
ここにある井上先生の問いかけに関連して思い出すのは、
五味先生の、この文章である。
     *
ベートーヴェンのやさしさは、再生音を優美にしないと断じてわからぬ性質のものだと今は言える。以前にも多少そんな感じは抱いたが、更めて知った。ベートーヴェンに飽きが来るならそれは再生装置が至らぬからだ。ベートーヴェンはシューベルトなんかよりずっと、かなしい位やさしい人である。後期の作品はそうである。ゲーテの言う、粗暴で荒々しいベートーヴェンしか聴こえて来ないなら、断言する、演奏か、装置がわるい。
(「エリートのための音楽」より)
     *
《粗暴で荒々しいベートーヴェン》でなくとも、
見通しよく整然と聴こえてきたベートーヴェンであったとしても、
ベートーヴェンのやさしさが聴こえてこないのならば、
ベートーヴェンに飽きがくるのであれば、
それは優れたオーディオ機器であろうか。

ここでの、装置が悪い、いい、というのは、
オーディオ雑誌における評価とは関係のないところでのいい、悪いである。

Date: 3月 10th, 2022
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(20世紀の場合と21世紀の場合)

20世紀の場合、
ベルリンの壁の崩壊の約一ヵ月後の1989年12月25日に、
バーンスタインがベートーヴェンの「第九」を指揮した。

21世紀の場合を考えてしまう。
オクサーナ・リーニフ指揮の「第九」がそうなってほしい。

オクサーナ・リーニフは、2021年、バイロイト音楽祭で「さまよえるオランダ人」を指揮している。
バイロイト音楽祭初の女性指揮者である。

オクサーナ・リーニフはウクライナの女性。
リーニフ指揮の「第九」がウクライナで響き渡る日。

私は、そんな21世紀の「第九」を聴きたい。
そういう日がくることを祈っている。