Archive for category 作曲家

Date: 1月 1st, 2018
Cate: バッハ

待ち遠しい(2018年を迎えて)

昨年春「老いとオーディオ(齢を実感するとき・その5)」で、内田光子のバッハについて書いた。

内田光子は1948年12月20日生れだから、今年の終りに70になる。
70でバッハを、といっていたのだから、きっと録音してくれるだろう、と期待している。

2019年には、内田光子のバッハが聴けるようになる──、
そう信じている。

Date: 12月 16th, 2017
Cate: マーラー

マーラーの第九(Heart of Darkness・その8)

12月6日のaudio wednesdayから10日経った。
今日も、気がつくとマーラーの二番の第一楽章を口ずさんでいる。

これまでだってマーラーの音楽は数え切れないほど聴いてきている。
聴いた直後はそういうこともあったが、10日経っても……、ということは今回が初めてだ。

口ずさみながら、いくつかのことを思い出す。
ステレオサウンドの試聴室で聴いたマーラーのことなどを思い出す。

最初にステレオサウンドの試聴室で聴いたマーラーは、
ハインツ・レーグナーの第六番だった。
ドイツ・シャルプラッテンから出ていた。

1981年録音で、1982年に聴いている。
まだベルリンの壁があった時代で、
ドイツ・シャルプラッテンは東ドイツのレコード会社だった。

デジタル録音だった。
まだCDが登場する数ヵ月の前のことだから、LPだった。

その数年後のインバルのマーラーほど回数を聴いたわけではなかったが、
一楽章の途中までとはいえ、くり返しくり返し何度も聴いたマーラーだった。

自分でもマーラーのディスクは、少しずつ買い始めたころだった。
まだ九曲すべてのレコードを持ってはいなかった。

六番はまだだった。
レーグナーのディスクは試聴室にあるわけだから、
聴きたければ、最後まで聴けたわけだが、
一楽章は最後まで聴いたことが一度あるが、
二楽章以降は聴いていない。

私が最初に買った六番は、テンシュテットのLPだった。

Date: 12月 11th, 2017
Cate: マーラー

マーラーの第九(Heart of Darkness・その7)

五味先生が「マーラーの〝闇〟とフォーレ的夜」に、
マーラーの音楽について書かれている。
     *
よりよい音への貪欲さによることだが、貪らんで執拗な行為が、稚気を感じさせるには天性の童心がなくてはかなうまい。フォーレには、そういう童心はなかったとおもう。フォーレも執拗にパリ音楽院校長の職をはなれまいとし、きこえぬ耳で演奏会場に立った。だがマーラーとフォーレでは執念ぶかくとりついたその対象が、まるでちがう。マーラーの稚気はここに由来する。一皮剥けば、どろどろの血が奔き出してくる稚気だ。本来、執念深いユダヤ人がマーラーの中でいなくなることは、片時だってないのである。マーラーの交響曲をどれでもいい、聴いてみるといい。金管楽器の斉唱が必ずある。耳をつんざく咆哮で、どうしてそういつもむきに吹き鳴らすのかと言いたいほどだが、やがてつづく弦の旋律のこよない美しさは独特だ。時に耽美的で、悲痛で、全曲をそれは有機づけ、くさぐさなモチーフを敷衍させるうちにオーケストラが幾つかの動機でこれに絡みつく。動機はさまざまに変形され、響きわたると茫漠とした一つの世界がそこに展開される。そして突如、沈黙がおとずれヴァイオリンのソロが、トレモロで得もいえぬ甘美な、感傷的な調べをかなでる。それは木管に受けつがれ、絶妙な調和がそこにある、と、又もや冒頭の金管の動機がはげしく吹き鳴らされ、やや急しく弦楽器がこれにからみ、追いつき、さまざまな動機を飽和して曲は昂揚の頂点へのぼってゆく……そんなパタンのくり返しだ。本来淡泊な日本人のわれわれには、もうわかった、もう充分わかったと制したくなるほどだが、マーラーは止めない。執拗に執拗にパタンをくり返し、金管を咆哮させる。時には不協和音を殊更きかせるつもりかと怪しみたいくらい、弓ですべての弦を(それも強く!)こすらせる。マーラーならどの作品番号を取りあげてもこの執拗な——稚気などカケラもない〝闇〟が、ある。
     *
まさに、このとおりの音楽である、マーラーの交響曲は。
第二番の第一楽章もそうである。

マーラーは、くり返す。
くり返すから、長くなる。
二番の第一楽章も20分前後の時間を必要とする。

マーラーは苦手、マーラーは嫌い、
マーラーは聴きたくない、という人がいても、そうだろうと思うことだってある。

まして空気を揺らし、時には部屋をも揺らすような音量で鳴らすのだから、
マーラーを苦手とする人は、その部屋から逃げ出しても、そうだろうと思う。

それでも音量を下げようとは、微塵も思わない。

アルマ・マーラーは、もっと端的に語っている。
「形成を告知する混沌」だと。

だから、そこには尋常ならざるエネルギーが、どちらにも要求される。

Date: 12月 10th, 2017
Cate: マーラー

マーラーの第九(Heart of Darkness・その6)

12月のaudio wednesdayの音を聴いたHさんが、
「今日の音、いつもより明るいですね?」といわれた。

別項で書いたように、今回はファインメットコアを使ったコモンモードノイズフィルターを、
CDプレーヤーの電源に挿入している。
それからスピーカーのまわりもちょっといつもと違うセッティングにしている。

アルテックのドライバーの下には角材をかましている。
その向きと位置を変えただけであるが、それだけであっても音の変化は小さくない。

細部まで、光が当るようになった音ということでは、
明るくなった、という表現はそのとおりである。

だからといって能天気な明るさであったり、
まぶしすぎたり、細部まであからさまにするような、そんな明るさではない。

これまでの音より明るくなることで、音楽の表情は豊かに出るようになった、といえる。
瑕疵のない音であっても、表情に乏しい音は、いくらでも聴いている。

細かい音まで聴けるスピーカー、
つまりそういう細かな音を出してくるスピーカーだからといって、
音楽の表情も豊かになるわけではない。

音が全体に明るくなった──、
マーラーの〝闇〟から遠ざかった──、
そう単純なものではない、音の世界というのは。

Date: 12月 9th, 2017
Cate: マーラー

マーラーの第九(Heart of Darkness・その5)

12月のaudio wednesdayで、ショルティ/シカゴ交響楽団によるマーラーの二番を、
かなりの大音量で鳴らした。

瑕疵のまったくない音ではなかった。
人によっては、聴くに耐えぬ音と思うかもしれない。
それでもマーラーの音楽の本質は出していたと言い切れるし、
ショルティの演奏の本質についても、同じことをいう。

瑕疵がまったくない音を聴きたいわけではない。
私が心の中で描くマーラーの「音」を聴きたいのである。

二番は一楽章だけを鳴らした。
全楽章鳴らしたい気持はあったけれど、マーラーを聴くことがテーマだったわけでもないから、
一楽章だけでがまんした。

これが水曜日の夜のことだ。
それから今日まで、頭のなかで何度も、二番のフレーズがリフレインしている。
その度に、マーラーという男は、どこか狂っている、と思う。

この旋律から、なぜ、こういう展開になっていくのか。
何度も聴いている曲とはいえ、あらためてマーラーという男の頭の中は、
いったいどうなっているのか、覗けるものなら覗いてみたいと思うほどに、
強烈な展開をしていく。

聴き終って、五味先生の文章を思い出してもいた。
     *
 ところでマーラーの愛情にはウェーバー夫人も充分こたえた。知られていることだがウェーバーの未完の遺作『三つのピント』は、このときのマーラーと夫人との協力で完成された。(もっとも、どう見てもウェーバーのものではなく、マーラーの音楽で、なんといってもつぎはぎ細工の域を出ず、舞台にのせられる代物ではなかったと、アルマは書いている)この仕事にたずさわったことがしだいに二人を燃えあがらせ、ついに駆落ちを決意させる。アルマは書くのだ——「夫人に対するマーラーの愛はきわめて深かったが、最後の一歩をふみ出すことへの恐怖もそれにおとらず強かった。彼は一文無しだったし親兄弟を養わねばならぬ身だった、というわけで——彼の話によれば——マーラーと一緒に逃げるつもりでいた夫人を乗せずに汽車がすべり出したとき、彼は深い安堵の溜息をついたのだ!」——この記述がどれほど真実をつたえているかは怪しい。アルマと結婚するとき、「おれは年をとりすぎていないか?」とマーラーは自問し苦悩した。このときのマーラーは四十男だ。それが二十歳年下の女性と結婚して、思い出話に夫人との恋を語ったのである。四十男の述懐である、わずかにアルマの軽妙な筆致のおかげで、ユーモアの感じられるのがマーラーのためにも救いだろう。有体に言えば、二十八歳のそれも「禁欲者マーラー」(アルマ)が人妻と恋におち、駆落ちを決意した。その相手が駅に現われなくてホッとなどするわけがない。大袈裟に言えば絶望したにちがいない、おのれの人生に。貧しいということに。たいへん大胆な言い方をすれば、だが、そういう夫人との恋だったから〝巨人〟はあの程度の作品にとどまった。つまり大して傑作にはならなかった。真にマーラーの才能にふさわしい相手が夫人だったら、駆落ちは実行されたろう。〝巨人〟はもっと燃焼度の高い傑作になったろう。その代り、マーラーのその後の人生は変っていたろう。
〝巨人〟を聴くたびに私はそう思う。人生の出会いの重みを考える。天才に運命はない、というのが私の持論だが、マーラーほどの天才にしてウェーバー夫人との出会い、アルマとの結婚がその創作とわかちがたく結びついていること、個々の才能を超えた何ものかの摂理のもとに吾人はまだ在ることを、おもわざるを得ない。フルトヴェングラーを私は熱愛してやまないが、フルトヴェングラーの十七歳の写真がある、髭をはやし、長髪で、今のヒッピースタイルの若者と異らぬ風貌ながら、実にいい顔をした写真だ。(カルラ・ヘッカー女史の『フルトヴェングラーとの対話』—音楽之友社刊—に掲載されているから見た人も多いとおもう)私はこの写真を眺める度に、この若者ハインリッヒ・グスタフ・エルンスト・マルティーン・ヴィルヘルム・フルトヴェングラーが、今世紀最大の指揮者となり、ぼくらのフルトヴェングラーとして死んでいった六十八年の歳月を考えるのだ。いろいろなことがフルトヴェングラーにはあったし、指揮者としての彼の偉大さは、とりもなおさず作曲家であることのおかげで、「もし作曲家の立場がなかったらフルトヴェングラーは、その指揮する傑作の深奥にまで入りきることはできなかったろう」とフランク・ティースがフルトヴェングラーの書翰集を編んだ序文で書いているが、生前フルトヴェングラーと親しかったある人に言わせると、あれほど厳粛な感動を味わせてくれたぼくらの指揮者も、女性問題には至ってだらしがなかったそうだ。
 いろいろなことが人にはあるのだ。歳月がそれを浄化し、時に消去してくれる。マーラーが人妻と何をしようと、結局、マーラーの人生を語るのは彼の作品で、〝巨人〟はマーラーのものとしてはつまらない、と私は言いきる。〝巨人〟の擱筆ののちでなければ〝闇〟ははじまらないと。
(「マーラーの〝闇〟とフォーレ的夜」より)
     *
第二番から、マーラーの〝闇〟は始まっている、と。

Date: 10月 31st, 2017
Cate: ワーグナー

ワグナーとオーディオ(その4)

ステレオサウンド 47号掲載「イタリア音楽の魅力」から、
ワグナーとヴェルディのオペラについて語られているところを引用しておく。
     *
河合 そういえますね。たとえばイタリアのカンツォーネでいうと、もちろん歌い手さんがうたう旋律もすばらしいんだけれど、その伴走にもすばらしい対旋律が、みごとなアレンジで聴かれるんです。そこで、これは歌ぬきでもいけるんじゃないかと思って、同じアレンジャーにインストルメントだけのアレンジを依頼すると、出来上ったものがひとつとしてよくない。という経験があるんですよ。
 結局 歌い手の旋律という主役をもりたてる、脇役としてのアレンジはとてもすばらしいのに、それを主役にしようとするととたんに輝きも魅力もなくなってしまうわけです。イタリアというのは、やっぱり歌の国だし、歌の国民だなと、つくづく思いましたね。
 それにひきかえ、お隣のフランスではあれだけすばらしいオーケストラのアレンジが生み出されているわけでしょう。
 ポール・モーリアに代表されるようにね。
河合 ええ。主役をオーケストラがとっても、あれだけすばらしいものになる。ところがイタリアでは、どうもうまくいかないんですよ。
黒田 そのことはポピュラーの分野だけにかぎらないんですよ。たとえばオペラでいえば、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の「前奏曲と愛の死」の「愛の死」の部分は、ほんらいはうたわれるんだけど、オーケストラだけで演奏されることも多いでしょう。ところがヴェルディのオペラでは、声をはずしてしまってオーケストラで演奏されるかといえば、まずそういうことはない。たとえば『オテロ』の、オテロとデスデモーナの二重唱は、歌のパートも、バックも、すばらしくよく書けていて、たいへん美しいけれど、そこから声をとってしまって、それでも十分にたんのうして聴けるかというと、そうじゃあないんですね。やっぱり声を聴きたくなるわけで、そのへんがワーグナーとはちがうんですよ。
 だから、レコードで『ワーグナー管弦楽曲集』というものが成り立つんだけど、ヴェルディのほうは『序曲/前奏曲集』というものしか成り立たないようなところがあるんです。いいかえると、ヴェルディの音楽の基本には、やはり〈歌〉があるということがいえるように思います。
     *
読んで気づいた、
たしかにワーグナーには管弦楽曲集のレコードがあるのに、
ヴェルディでは序曲/前奏曲集であって、ヴェルディの管弦楽曲集はないことに。

そしてイタリアオペラのハイライト盤は数多くつくられていても、
ワーグナーのハイライト盤は、ひじょうにつくりにくい、ということに語られていく。

Date: 8月 27th, 2017
Cate: ワーグナー

Parsifal

ワーグナーのパルジファル。
本音をいうと、クナッパーツブッシュ(フィリップス盤)と、
カラヤン(ドイツグラモフォン盤)の二組があれば、私は充分である。

実をいうと、最初から最後までパルジファルを聴いたのは、この二組だけである。
他にもパルジファルのディスクは、いくつも出ている。
そのうちのいくつかは聴いている。
部分的に聴いているだけであり、最初から最後まで聴きたいと思わなかったから、
買うにはいたっていない。

聴いていないパルジファルのディスクの中に、
そこにはこれから発売されるパルジファルのディスクも含まれるわけだが、
いま20代くらいの若造だったら、新しい録音のパルジファルを聴いてやろう、と思うかもしれない。

でも、現実には50を過ぎている。
かといって、クナッパーツブッシュの演奏の中で、
最高のパルジファルを聴いて見つけ出す気力もない。

去年だったか、クナッパーツブッシュのバイロイトでの全録音(フィリップス盤は除く)が、
CDボックスで発売になった。
手頃な価格だった。
手を伸ばしそうに、少しはなった。
手に入れたとしても、それだけでお腹いっぱいになりそうだし、
結局はほとんど聴かずじまいになることは、わかっていた。

そういう態度(聴き方)で、パルジファルの何がわかるのか。
そう問われれば、答に窮するだろう。

何もわかっていないのかもしれない。
いいわけめくが、だからといって、積極的にパルジファルの録音のあれこれを聴いたところで、
いったい何がわかるのか、とも言葉に出して反論しなくとも、そうおもう。

むしろそういったことよりも、ショーペンハウアーを読むことのほうが、
パルジファルの理解には近いようにも感じている。

Date: 5月 21st, 2017
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その25)

その15)で黒田先生の、ステレオサウンド 59号の文章を引用している。

もう少し、別のところを引用したい。
     *
 なんといったらいいのでしょう。すくなくともぼくがきいた範囲でいうと、これまでマーク・レヴィンソンのコントロールアンプのきかせた音は、適度にナルシスト的に感じられました。自分がいい声だとわかっていて、そのことを意識しているアナウンサーの声に感じる嫌味のようなものが、これまでのマーク・レヴィンソンのコントロールアンプのきかせる音にはあるように思われました。針小棒大ないい方をしたらそういうことになるということでしかないのですが。
 アメリカの歴史学者クリストファー・ラッシュによれば、現代はナルシシズムの時代だそうですから、そうなると、マーク・レヴィンソンのアンプは、まさに時代の産物ということになるのかもしれません。
 それはともかく、これまでのマーク・レヴィンソンのコントロールアンプをぼくがよそよそしく感じていたことは、きみもしっての通りです。にもかかわらず、きみは、雨の中をわざわざもってきてくれたいくつかのコントロールアンプの中に、ML7Lをまぜていた。なぜですか? きみには読心術の心得があるとはしりませんでした。なぜきみが、ぼくのML7Lに対する興味を察知したのか、いまもってわかりません。そのことについてそれまでに誰にもいっていないのですから、理解に苦しみます。
(中略)
 ML7Lの音には、ぼくが「マーク・レヴィンソンの音」と思いこんでいた、あの、自分の姿を姿見にうつしてうっとりみとれている男の気配が、まるで感じられません。ひとことでいえば、すっきりしていて、さっぱりしていて、俗にいわれる男性的な音でした。それでいて、ひびきの微妙な色調の変化に対応できるしなやかさがありました。そのために、こだわりが解消され、満足を味ったということになります。
     *
黒田先生が、よそよそしく感じられたマークレビンソンのアンプとは、
LNP2やJC2のことである。

59号で聴かれているML7は、回路設計がジョン・カールからトム・コランジェロにかわっている。
JC2(ML1)とML7の外観はほぼ同じでも、
回路構成とともに内部も大きく変化している。

そこでの大きな変化は、とうぜん音への変化となっていあらわれている。
黒田先生が「マーク・レヴィンソンの音」と思いこまれていた
《自分の姿を姿見にうつしてうっとりみとれている男の気配》、
こういう音を出すアンプが、健康な心をもった聴き手に合うか(向いているか)といえば、
《すっきりしていて、さっぱりしていて、俗にいわれる男性的な音》のML7の方がぴったり合うし、
黒田先生がML7に惚れ込まれ購入されたのも、至極当然といえよう。

Date: 5月 20th, 2017
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その24)

小林利之氏の文章を読んですぐには、そうとは思えなかった。
カラヤン好きの知人がいて、彼を見ていると、どうにもそうは思えないことも関係していた。
数年後、1987年1月、ウィーン・フィルハーモニーのニューイヤーコンサートにカラヤンが登場した。

それまではマゼールだった。
ボスコフスキーが1979年秋にニューイヤーコンサートを辞退してからの七年間、マゼールだった。
私がNHK中継で見るようになったのも、マゼールの時代だった。

いつまでマゼールなのだろうか、と思いながら見ていた。
そこにカラヤンの、いきなりの登場だった。

このころのカラヤンは相当に体調が悪かったともきいている。
それでもカラヤンは登場している。
カラヤンのニューイヤーは、これ一回きりである。

カラヤンもそうなるとわかっていたのかもしれないし、
ウィーン・フィルハーモニーのメンバーもそう思っていたのかもしれない。

1987年のニューイヤーコンサートから、録音も再開されるようになったし、
毎年リリースされるようになった。

カラヤンのニューイヤーコンサートを聴いて、
小林利之氏の文章を思い出してもいた。
確かに、カラヤンの演奏が、健康な心を持った聴き手のため、ということに、
完全ではないものの同意できるようになった。

カラヤン好きの知人は、そういえばクーベリックはほとんど聴いていなかったなぁ、と思い至った。
小林利之氏は、クーベリックの演奏もカラヤン同様に、と書かれていた。
カラヤンとクーベリックの演奏を、好んで聴く人は、健康な心を持っているのかもしれない。

ならば、ここでの組合せに選ぶアンプも、そういうアンプを持ってこよう。

Date: 5月 19th, 2017
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その23)

スピーカーは決った。
次に決めるのはアンプである。

何を持ってくるか。
スピーカーは現行モデルだから、妄想組合せとはいえ、
アンプも現行モデルの中から選びたい。

どのアンプがぴったりくるであろうか。
想像するしかないのだが、楽しい時間である。

昔、瀬川先生が、アンプ選びが難しいのは、
人にたとえればスピーカーはその人の外面であり、
アンプは人の内面に関係してくるようなものだから、といわれた。

そういうところは確かに、アンプの違いによる音の違いには、ある。
ここで、またふと思い出すのは、小林利之氏が書かれていたことだ。

ステレオサウンド 30号で、
クーベリック/ベルリンフィルハーモニーによるドヴォルザーク交響曲全集について書かれている。
その最後に、こうある。
     *
カラヤンと同様にクーベリックも健康な心を持ったファンに推めたい演奏をする指揮者である。ということは、心にかげりを持つタイプの聴き手には、あまりにもそれらは美しく優しいから屢屢たえがたい苦痛を覚えさかねないのである。そして音楽は、いつも健康な心の人のためだけあるものではないのだから、いろんなタイプの演奏が求められてしかるべきだ。クーベリックがあれば、あとはいらぬなどと言い切ることは、したがって不可能なことなのである。
     *
ずっと以前に読んでいて、記憶にのこっていた。
でもステレオサウンドの何号に載っているのか思い出せずにいた。
別項のために30号をひっぱり出していて、あぁ、ここだった、と、やっと続きを書けるようになった。

カラヤンの演奏が、健康な心を持った聴き手のため、ということに、
完全には同意できないけれど、なるほどそうかもしれない、と思う気持もある。

Date: 1月 14th, 2017
Cate: ベートーヴェン

パウル・クレー「造形思考」

パウル・クレーの「造形思考」のことは、
川崎先生のブログで知った。

ちくま学芸文庫から上下二巻で出ている。

目次のあとに、あった。
     *
アングルは静止を秩序づけたといわれる。
わたしはパストを越えて
運動を秩序づけたいと思う。

パウル・クレー 1914年9月
     *
ベートーヴェンを理解するためにも読むべき本だと思った。

Date: 12月 30th, 2016
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その18)

《人は幸せになるために生まれてきたのではない。自らの運命を成就するために生まれてきたのだ》

ロマン・ロランがベートーヴェンをモデルとしたといわれている「ジャン・クリストフ」に出てくる。

「歓喜の歌」の歓喜とは、そういうことなのか、とも思う。

Date: 12月 14th, 2016
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その17)

これからなされていく「第九」の録音で、私が聴きたいと思う演奏(指揮者)は、
もう現れてこないかもしれない──、そんな予感とともに、
パブロ・カザルス指揮のベートーヴェンの「第九」は聴きたい。
どうしても聴きたい。

録音は残っている、という話は聞いている。
ほんとうなのかどうかはわからない。
残っているのであれば、たとえひどい録音であろうと、カザルスの「第九」はぜひとも聴きたい。

カザルスの第七交響曲を聴いて、打ちのめされた。
第八交響曲もよく聴く。

第七、第八と続けて聴くこともある。
続けて聴くと「第九」を聴きたいという気持は高まる。
どうしようもなく高まっていく。

それはカザルスの演奏だから、いっそうそうなるともいえる。

カザルスのベートーヴェンの交響曲を聴いていると、
「細部に神は宿る」とは、このことだと確信できる。

カザルスとマールボロ管弦楽団によるベートーヴェンの交響曲は、
細部まで磨き抜かれたという演奏ではない。
むしろ逆の演奏でもある。

なのに「細部に神は宿る」は心底からそう思うのは、
細部までカザルスゆえの「意志」が貫かれているからだ。
細部まで熱いからだ、ともいえる。

音が停滞することがない。
すべての音が、次の音を生み出す力をもっている、と感じるから、
カザルスのベートーヴェンを聴いて、
「細部に神は宿る」とはまさしくこの演奏のことだと自分自身にいいきかせている。

Date: 12月 11th, 2016
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その16)

ジュリーニ/ベルリンフィルハーモニーのあとも、「第九」の新譜は聴いてきた。
すべてを聴いていたわけではない。
聴きたいと思った指揮者の「第九」は聴いてきた。

けれど2011年のリッカルド・シャイー/ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団、
2012年になって輸入盤が入ってきたクリスティアン・ティーレマン/ウィーンフィルハーモニー、
これ以降なされた録音の「第九」を聴いていない。

ベートーヴェンの「第九」を聴いてみたいという指揮者がいないというのが、
シャイー、ティーレマンで留っている理由である。

聴いてみたい、と心が動かない。
そうなってしまったのは、老化なのだろうか、とも思う。

このまま、新しく録音された「第九」を聴かずに、
いままで聴いてきた「第九」をくり返し聴いていくのだろうか。

Date: 11月 30th, 2016
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その15)

(その9)で引用した五味先生の文章を、もう一度読んでほしい。
     *
ベートーヴェンのやさしさは、再生音を優美にしないと断じてわからぬ性質のものだと今は言える。以前にも多少そんな感じは抱いたが、更めて知った。ベートーヴェンに飽きが来るならそれは再生装置が至らぬからだ。ベートーヴェンはシューベルトなんかよりずっと、かなしい位やさしい人である。後期の作品はそうである。ゲーテの言う、粗暴で荒々しいベートーヴェンしか聴こえて来ないなら、断言する、演奏か、装置がわるい。
(「エリートのための音楽」より)
     *
ソニーのポーダブルCDの音は、決して優美な音ではなかった。
安っぽい音といってはいいすぎだが、価格相当の音でしかなかった。

それでもジュリーニの「第九」に涙した。
ソニーのポータブルCDの音は、優美な再生音ではなかったけれど、
それまでの私は、優美な再生音を出そう、優美な再生音でベートーヴェンを聴きたい、
その一心でオーディオをやってきた。

優美な再生音が出せていたのかよりも、
出そうとつとめてきた日々があったからこそ、といえる。

だから音楽を聴いてきてよかった、
ベートーヴェンを聴いてきてよかった、とともに、
オーディオをやってきてよかった、ともおもっていた。