Archive for category 作曲家

Date: 5月 21st, 2017
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その25)

その15)で黒田先生の、ステレオサウンド 59号の文章を引用している。

もう少し、別のところを引用したい。
     *
 なんといったらいいのでしょう。すくなくともぼくがきいた範囲でいうと、これまでマーク・レヴィンソンのコントロールアンプのきかせた音は、適度にナルシスト的に感じられました。自分がいい声だとわかっていて、そのことを意識しているアナウンサーの声に感じる嫌味のようなものが、これまでのマーク・レヴィンソンのコントロールアンプのきかせる音にはあるように思われました。針小棒大ないい方をしたらそういうことになるということでしかないのですが。
 アメリカの歴史学者クリストファー・ラッシュによれば、現代はナルシシズムの時代だそうですから、そうなると、マーク・レヴィンソンのアンプは、まさに時代の産物ということになるのかもしれません。
 それはともかく、これまでのマーク・レヴィンソンのコントロールアンプをぼくがよそよそしく感じていたことは、きみもしっての通りです。にもかかわらず、きみは、雨の中をわざわざもってきてくれたいくつかのコントロールアンプの中に、ML7Lをまぜていた。なぜですか? きみには読心術の心得があるとはしりませんでした。なぜきみが、ぼくのML7Lに対する興味を察知したのか、いまもってわかりません。そのことについてそれまでに誰にもいっていないのですから、理解に苦しみます。
(中略)
 ML7Lの音には、ぼくが「マーク・レヴィンソンの音」と思いこんでいた、あの、自分の姿を姿見にうつしてうっとりみとれている男の気配が、まるで感じられません。ひとことでいえば、すっきりしていて、さっぱりしていて、俗にいわれる男性的な音でした。それでいて、ひびきの微妙な色調の変化に対応できるしなやかさがありました。そのために、こだわりが解消され、満足を味ったということになります。
     *
黒田先生が、よそよそしく感じられたマークレビンソンのアンプとは、
LNP2やJC2のことである。

59号で聴かれているML7は、回路設計がジョン・カールからトム・コランジェロにかわっている。
JC2(ML1)とML7の外観はほぼ同じでも、
回路構成とともに内部も大きく変化している。

そこでの大きな変化は、とうぜん音への変化となっていあらわれている。
黒田先生が「マーク・レヴィンソンの音」と思いこまれていた
《自分の姿を姿見にうつしてうっとりみとれている男の気配》、
こういう音を出すアンプが、健康な心をもった聴き手に合うか(向いているか)といえば、
《すっきりしていて、さっぱりしていて、俗にいわれる男性的な音》のML7の方がぴったり合うし、
黒田先生がML7に惚れ込まれ購入されたのも、至極当然といえよう。

Date: 5月 20th, 2017
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その24)

小林利之氏の文章を読んですぐには、そうとは思えなかった。
カラヤン好きの知人がいて、彼を見ていると、どうにもそうは思えないことも関係していた。
数年後、1987年1月、ウィーン・フィルハーモニーのニューイヤーコンサートにカラヤンが登場した。

それまではマゼールだった。
ボスコフスキーが1979年秋にニューイヤーコンサートを辞退してからの七年間、マゼールだった。
私がNHK中継で見るようになったのも、マゼールの時代だった。

いつまでマゼールなのだろうか、と思いながら見ていた。
そこにカラヤンの、いきなりの登場だった。

このころのカラヤンは相当に隊長が悪かったともきいている。
それでもカラヤンは登場している。
カラヤンのニューイヤーは、これ一回きりである。

カラヤンもそうなるとわかっていたのかもしれないし、
ウィーン・フィルハーモニーのメンバーもそう思っていたのかもしれない。

1987年のニューイヤーコンサートから、録音も再開されるようになったし、
毎年リリースされるようになった。

カラヤンのニューイヤーコンサートを聴いて、
小林利之氏の文章を思い出してもいた。
確かに、カラヤンの演奏が、健康な心を持った聴き手のため、ということに、
完全ではないものの同意できるようになった。

カラヤン好きの知人は、そういえばクーベリックはほとんど聴いていなかったなぁ、と思い至った。
小林利之氏は、クーベリックの演奏もカラヤン同様に、と書かれていた。
カラヤンとクーベリックの演奏を、好んで聴く人は、健康な心を持っているのかもしれない。

ならば、ここでの組合せに選ぶアンプも、そういうアンプを持ってこよう。

Date: 5月 19th, 2017
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その23)

スピーカーは決った。
次に決めるのはアンプである。

何を持ってくるか。
スピーカーは現行モデルだから、妄想組合せとはいえ、
アンプも現行モデルの中から選びたい。

どのアンプがぴったりくるであろうか。
想像するしかないのだが、楽しい時間である。

昔、瀬川先生が、アンプ選びが難しいのは、
人にたとえればスピーカーはその人の外面であり、
アンプは人の内面に関係してくるようなものだから、といわれた。

そういうところは確かに、アンプの違いによる音の違いには、ある。
ここで、またふと思い出すのは、小林利之氏が書かれていたことだ。

ステレオサウンド 30号で、
クーベリック/ベルリンフィルハーモニーによるドヴォルザーク交響曲全集について書かれている。
その最後に、こうある。
     *
カラヤンと同様にクーベリックも健康な心を持ったファンに推めたい演奏をする指揮者である。ということは、心にかげりを持つタイプの聴き手には、あまりにもそれらは美しく優しいから屢屢たえがたい苦痛を覚えさかねないのである。そして音楽は、いつも健康な心の人のためだけあるものではないのだから、いろんなタイプの演奏が求められてしかるべきだ。クーベリックがあれば、あとはいらぬなどと言い切ることは、したがって不可能なことなのである。
     *
ずっと以前に読んでいて、記憶にのこっていた。
でもステレオサウンドの何号に載っているのか思い出せずにいた。
別項のために30号をひっぱり出していて、あぁ、ここだった、と、やっと続きを書けるようになった。

カラヤンの演奏が、健康な心を持った聴き手のため、ということに、
完全には同意できないけれど、なるほどそうかもしれない、と思う気持もある。

Date: 1月 14th, 2017
Cate: ベートーヴェン

パウル・クレー「造形思考」

パウル・クレーの「造形思考」のことは、
川崎先生のブログで知った。

ちくま学芸文庫から上下二巻で出ている。

目次のあとに、あった。
     *
アングルは静止を秩序づけたといわれる。
わたしはパストを越えて
運動を秩序づけたいと思う。

パウル・クレー 1914年9月
     *
ベートーヴェンを理解するためにも読むべき本だと思った。

Date: 12月 30th, 2016
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その18)

《人は幸せになるために生まれてきたのではない。自らの運命を成就するために生まれてきたのだ》

ロマン・ロランがベートーヴェンをモデルとしたといわれている「ジャン・クリストフ」に出てくる。

「歓喜の歌」の歓喜とは、そういうことなのか、とも思う。

Date: 12月 14th, 2016
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その17)

これからなされていく「第九」の録音で、私が聴きたいと思う演奏(指揮者)は、
もう現れてこないかもしれない──、そんな予感とともに、
パブロ・カザルス指揮のベートーヴェンの「第九」は聴きたい。
どうしても聴きたい。

録音は残っている、という話は聞いている。
ほんとうなのかどうかはわからない。
残っているのであれば、たとえひどい録音であろうと、カザルスの「第九」はぜひとも聴きたい。

カザルスの第七交響曲を聴いて、打ちのめされた。
第八交響曲もよく聴く。

第七、第八と続けて聴くこともある。
続けて聴くと「第九」を聴きたいという気持は高まる。
どうしようもなく高まっていく。

それはカザルスの演奏だから、いっそうそうなるともいえる。

カザルスのベートーヴェンの交響曲を聴いていると、
「細部に神は宿る」とは、このことだと確信できる。

カザルスとマールボロ管弦楽団によるベートーヴェンの交響曲は、
細部まで磨き抜かれたという演奏ではない。
むしろ逆の演奏でもある。

なのに「細部に神は宿る」は心底からそう思うのは、
細部までカザルスゆえの「意志」が貫かれているからだ。
細部まで熱いからだ、ともいえる。

音が停滞することがない。
すべての音が、次の音を生み出す力をもっている、と感じるから、
カザルスのベートーヴェンを聴いて、
「細部に神は宿る」とはまさしくこの演奏のことだと自分自身にいいきかせている。

Date: 12月 11th, 2016
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その16)

ジュリーニ/ベルリンフィルハーモニーのあとも、「第九」の新譜は聴いてきた。
すべてを聴いていたわけではない。
聴きたいと思った指揮者の「第九」は聴いてきた。

けれど2011年のリッカルド・シャイー/ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団、
2012年になって輸入盤が入ってきたクリスティアン・ティーレマン/ウィーンフィルハーモニー、
これ以降なされた録音の「第九」を聴いていない。

ベートーヴェンの「第九」を聴いてみたいという指揮者がいないというのが、
シャイー、ティーレマンで留っている理由である。

聴いてみたい、と心が動かない。
そうなってしまったのは、老化なのだろうか、とも思う。

このまま、新しく録音された「第九」を聴かずに、
いままで聴いてきた「第九」をくり返し聴いていくのだろうか。

Date: 11月 30th, 2016
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その15)

(その9)で引用した五味先生の文章を、もう一度読んでほしい。
     *
ベートーヴェンのやさしさは、再生音を優美にしないと断じてわからぬ性質のものだと今は言える。以前にも多少そんな感じは抱いたが、更めて知った。ベートーヴェンに飽きが来るならそれは再生装置が至らぬからだ。ベートーヴェンはシューベルトなんかよりずっと、かなしい位やさしい人である。後期の作品はそうである。ゲーテの言う、粗暴で荒々しいベートーヴェンしか聴こえて来ないなら、断言する、演奏か、装置がわるい。
(「エリートのための音楽」より)
     *
ソニーのポーダブルCDの音は、決して優美な音ではなかった。
安っぽい音といってはいいすぎだが、価格相当の音でしかなかった。

それでもジュリーニの「第九」に涙した。
ソニーのポータブルCDの音は、優美な再生音ではなかったけれど、
それまでの私は、優美な再生音を出そう、優美な再生音でベートーヴェンを聴きたい、
その一心でオーディオをやってきた。

優美な再生音が出せていたのかよりも、
出そうとつとめてきた日々があったからこそ、といえる。

だから音楽を聴いてきてよかった、
ベートーヴェンを聴いてきてよかった、とともに、
オーディオをやってきてよかった、ともおもっていた。

Date: 11月 29th, 2016
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その14)

ベートーヴェンの前に出ていた、ウィーンフィルハーモニーとのブラームスも素晴らしかった。
だからベルリンフィルハーモニーとのベートーヴェンも期待していた。
期待していたからこそ、無理をしてでもCDと聴くためのポータブルCDを購った。

ソニーのポータブルCDだった。
質屋にあったくらいだから最新機種でもなく、普及クラスの型落ちモデルである。
どんな音なのかはまったく期待していなかったし、その通りの音しかしてこなかった。
それでも、聴いていて涙がとまらなかった。

男は成人したら、涙を流していいのは感動したときだけだ、と決めていた。
つらかろうが、くやしかろうが、涙は流さないのが大人の男だと思っていた。

こんなにも涙は出るものか、と思うほどだった。
一楽章がおわり、二楽章、三楽章と聴いて、四楽章。
バリトンの独唱がはじまると、もっと涙が出た。

大切なもの、大事にしてきたものがほとんどなくなってしまった狭い部屋で、
ひとりでいた。ひとりできいていた。

音楽を聴いてきてよかった、と思った。
ベートーヴェンを聴いてきてよかった、とも思っていた。

Date: 11月 27th, 2016
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その13)

1990年8月に左膝を骨折した。
一ヵ月半ほど入院していた。

真夏に入院して、退院するころは秋だった。
退院したからといって病院と縁が切れるわけではなく、
リハビリテーションがあるから毎日通院していた。

骨折して脚が一時的ではあるが不自由になると、
健康なころには気づかないことが多々在ることを知らされる。

普段何気なく歩いていのはどこにも故障がないからである。
片膝が曲らないだけで、歩き難さを感じる。

道の断面が平らではないから、端を歩くのが大変だし、
歩道に電柱があったりする。
そういう歩道に限って狭いのだから、電柱をよけるのもいやになる。

階段もそうだ。
昇るのが大変だと思われがちだが、昇りはゆっくり進めばいいだけで、
怖いのは降りである。

昇りのエスカレーターはあっても、降りのエスカレーターはない駅が大半だった。
なぜ? と思う。

リハビリに通い始めのころは歩くのも遅かった。
高齢の方に追い越されもした。

そんな日々が一ヵ月以上続いた。
リハビリから戻ってきても、部屋には何もなかった。
音楽を鳴らすシステムが何もなかった。

それでもリハビリからの帰り道、ジュリーニ/ベルリンフィルハーモニーの「第九」の新譜をみかけた。
聴きたい、と思った。
といっても聴くシステムがないから、
当時住んでいた西荻窪駅近くの質屋でポータブルCDがあったのを買った。

(その6)で書いたことを、また書いているのは、
この時のジュリーニの「第九」は不意打ちだったからだ。

ジュリーニの「第九」だから買った。
期待して聴いた。
それでも不意打ちのような感動におそわれた。

そのときの私は、仕事をしていなかった。
ひとりでいた。
リハビリだけの日々。

日常生活を送っていた、
とはいえ、みじめな生活といえばそうである。
どことなく社会から取り残され隔離されているように感じていたのかもしれない。

ポータブルCDだから付属のイヤフォンで聴いた。
少し大きめの音で聴いた。

Date: 11月 23rd, 2016
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その22)

BBCモニターのLS3/5Aは好きなスピーカーである。
いまも好きなスピーカーといえる。

私にとってのLS3/5Aとは、ロジャース製の15ΩインピーダンスのLS3/5Aである。
そのLS3/5Aを初めて聴いた時から、
この音のまま、サイズが大きくなってくれたら……、
そんな無理なことを考えたし、LS3/5Aと共通する音色を聴かせてくれるスピーカーが登場すると、
これはLS3/5Aの延長線上にあるスピーカーかどうかを判断するようになっていた。

メリディアンのM20。
LS3/5Aと同じ口径のウーファーを上下二発配し、中間にトゥイーター。
ユニットのそのものはLS3/5Aのそれと近い。

M20はパワーアンプを内蔵していたアクティヴ型だった。
専用スタンド(脚)が最初からついていた。

M20をメリディアンのCDプレーヤーと接いで鳴ってきた音には、ころっとまいってしまった。
私には、LS3/5Aの延長線上にはっきりとあるスピーカーと感じた。

LS3/5Aよりも音量も出せるし、その分スケールもある。
反面、小さなスケールから感じる精度の高さはやや薄れたように感じても、
音色は共通するところがあり、この種の音色に当時の私は弱かった。

M20はずいぶん迷った。
買いたい、と本気で考えていた。
買っておけばよかったかな、と思ったこともある。

その後、数多くのスピーカーが登場し、そのすべてを聴いたわけではないが、
めぼしいモノは聴いてきた。
LS3/5A、M20、ふたつのスピーカーがつくる線上に位置するスピーカーは、
私にとってはひさしく登場しなかった。

同じLS3/5AとM20がつくる線上であっても、
人によって感じる良さは共通しながらも違ってくるだろうから、
あのスピーカーは延長線上にある、という人がいても、
私にとってはベーゼンドルファーのVC7まではなかった。

VC7を初めて聴いた時、LS3/5A、M20の延長線上にある。
しかもずいぶん時間がかかったおかげか、
LS3/5AとM20の距離よりもずっと離れた位置にVC7はいるように感じた。

Date: 8月 22nd, 2016
Cate: マーラー

マーラーの第九(Heart of Darkness・その4)

音は空気をともなう。
つねに空気をともなう。

空気があるから、われわれは音を聴くことがてきるわけだから、
当り前すぎることを書いているのはわかっている。

それでも、こういうことを書いているのは、
いわゆる音の違いは、この空気がどれだけ、そしてどのように音についてくることに、
深く関係しているように感じている。

音に空気がついてくる、ともいえるし、音が空気を巻き込む、ともいえる。

よく「低音の量感が……」という。
スピーカーによって変るのは当然だとしても、
低域特性がフラットなアンプによっても、量感は変ってくる。
このへんのことも、音にどれだけ空気がついてくるに関係しているように思っている。

音楽も、また同じように感じることがある。
空気をいっぱいつれてくる音楽もあれば、
空気をいっぱいつれてくる演奏もある。

ブルックナーを「長い」と感じてしまうのは、
私の場合、どうもこのことと無関係ではないようなのだ。

マーラーの音楽(ひとつひとつの音)がつれてくる空気は、多い。
多いがゆうえに濃い。
もちろんそうでないマーラーの演奏もある。そんなマーラーの演奏を、私はいいとは感じない。

ブルックナーだと、曲の構成に対して、音がつれてくる空気が足りないような気がする。
その足りない分を、何かで増している。
だから水増しして聴こえるのかもしれないし、「長い」と感じるのかもしれない。

Date: 8月 22nd, 2016
Cate: マーラー

マーラーの第九(Heart of Darkness・その3)

誰の演奏(指揮)で聴くのかは大事なことだ。
だからブルックナーも、長いと感じながらも゛何人かの指揮者の演奏を聴いた。

私がいたころのステレオサウンドのオーディオ評論家では、
長島先生がブルックナーをお好きだった。

「長くないですか」、そんなことを長島先生にぶつけたことがある。
「若いなぁ」と返された。
シューリヒトのブルックナーを教えてくださった。

もちろん買った。
あのころは国内盤LPしかなかったと記憶している。

20代前半ということもあったのか、それでも長い、と感じた。
ジュリーニのブルックナーも、もちろん聴いている。
フルトヴェングラーでも聴いているし、あと数人聴いている。
あのころとしては新譜だったシノーポリのブルックナーも聴いた。

シノーポリのブルックナーに関しては、ちょど来日していたこともあり、
サントリーホールに聴きに行った。
それでもブルックナーに感じる水増ししたような長さを、
私の中からなくすことはできなかった。

マーラーも凡庸な指揮者とオーケストラの、凡庸な演奏な演奏を聴いたら、
長い、と思うかもしれない。

以前にも書いているように、もうインバルのマーラーは聴かない。
さんざんステレオサウンドの試聴室で聴いたのが、その大きな理由である。
インバル指揮のマーラーの第四と第五は、数えきれないほど聴いた。

あのころのインバルのマーラーは、フランクフルト放送交響楽団とだった。
いま東京都交響楽団とのSACDが出ている。

オーディオ的な関心で聴いてみたい気がまったくないわけではない。
それにフランクフルト放送交響楽団との第五では、
補助マイクなしのワンポイントマイクだけの録音もCDになっているから、
そういう聴き比べという意味では、まったく関心がないとはいわない。

でもそういうことを抜きにして、聴いてみたいとは思わない。
そんなこともあってインバルのマーラーは、第一、第四と第五だけしか聴いていない。
第九は聴いていない。聴いたら、長いと感じるのか。

感じたとして、その「長い」はブルックナーの交響曲に対しての「長い」と同じなのか。
完全に同じではないにしても、何か共通するものがあるとも感じている。

Date: 8月 4th, 2016
Cate: Carlo Maria Giulini, マーラー

マーラーの第九(Heart of Darkness・余談)

昨夜の最後にかけたカルロ・マリア・ジュリーニのマーラーの第九。
タワーレコードがSACDとして9月に発売するというニュースが、今日あった。

昨夜も、これがSACDだったら、いったいどんな鳴り方・響き方になるのだろうか。
この音楽が、どう聴き手であるこちらに迫ってくるのか。
それを考えずにはいられなかった。

一夜明けたら、SACDのニュース。
すごいタイミングである。

喫茶茶会記には、いまのところSACDプレーヤーはないけれど、
来年の新月のどこかで、また「新月に聴くマーラー」をやりたいと思ってしまった。
そのときにはなんとかSACDプレーヤーを用意しておきたい。
そして最後にかけるのは、やはりジュリーニの第九、第四楽章である。

ジュリーニのマーラーだけでなく、
キリル・コンドラシンのシェエラザードもSACDになる。

Date: 8月 4th, 2016
Cate: マーラー

マーラーの第九(Heart of Darkness・その2)

長いといえば、ブルックナーの交響曲も長い。
こんなことを書いたら、ブルックナーの熱心な聴き手の方から、
お前はブルックナーがわかっていない、お前の理解できないところに良さがある、
などといわれそうだが、私はブルックナーを長いと感じてしまう。

五味先生の表現を借りれば、水増ししていると感じる。
だから長いと感じてしまう。

歳をとれば感じ方も変ってくるのか、と思っていたけれど、
50を過ぎたいまもそう感じてしまう。
私は、ブルックナーのほんとうの良さを味わうことなく終ってしまうかもしれない。

でも、そのことに何かを感じている、というわけではない。
そういう音楽の聴き方をしてきた結果であるし、
むしろブルックナーを長いと感じてしまうことに関心がある。

知人にカラヤンのブルックナーを絶賛する男がいる。
でも彼はマーラーをほとんど聴かない。
カラヤンにはベルリンフィルハーモニーとの1982年のライヴ録音のマーラーの第九が残っている。

カラヤンは’79年から’80年にかけてドイツ・グラモフォンにスタジオ録音している。
にも関わらず、わずかの間に、ドイツ・グラモフォンから、マーラーの第九が登場した。

スタジオ録音とライヴ録音の違いはあるにしても、
これだけの大作のレコードをわずかの期間のあいだにリリースしたということは、
それだけの演奏だということであり、カラヤンの1982年のマーラーの第九は、
カラヤンに対して否定的なところをもつ聴き手であっても、黙らせてしまうであろう。

カラヤンの残したもののなかでも、屈指の名盤であると思っているし、
多くのカラヤンの熱心な聴き手がそうであるとも思っていた。

知人はカラヤンの熱心な聴き手である。
にも関わらず、彼の口から、このマーラーの第九については、まったく出てこなかった。