Archive for category 作曲家

Date: 6月 21st, 2019
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その22)

別項「ベートーヴェン(動的平衡)」でも、
挑発するディスク(余談・その4)」でも、
ベートーヴェンの音楽を、動的平衡の音の構築物とした。

私は、ベートーヴェンの音楽の最大の特徴は、ここにあると考えているし、
動的平衡の音の構築物として、ベートーヴェンの音楽のレコード演奏を目指している。

そういう捉え方、聴き方をしているわけだから、
ベートーヴェンの音楽から、何かを取りのぞくことは不可能だとも考えている。

ベートーヴェンの「第九」から歓喜の歌を取りのぞいたら──、
もしそんなことが可能になったら、
もうそれはベートーヴェンの音楽ではなくなる。

つまり動的平衡が崩壊してしまう。
もう音の構築物でもなくなってしまう。

もちろん、これは私の聴き方であって、
そんなふうには聴かない聴き手がいる。

どちらがベートーヴェンの音楽をよく理解しているとか、そういうことではなくて、
ベートーヴェンの音楽の聴き手であっても、
動的平衡の音の構築物という捉え方をまったくしていない聴き手もいる、というだけのことだ。

動的平衡の音の構築物という捉え方をまったくしていないベートーヴェンの音楽の聴き手であれば、
「第九」から……、という発想が出てきても、なんら不思議ではないし、
動的平衡が歓喜の歌を取りのぞくことで失われてしまっても、
ベートーヴェンの音楽のままなのだろう。

Date: 6月 15th, 2019
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その21)

ベートーヴェンの「第九」、私は名曲だと思っているけれど、
音楽を聴く人のすべてが、
「第九」を名曲だと思っていなければならないと考えているわけではない。

「第九」をつまらない曲と思っている人がいてもかまわない。
それでも、こんなこんなことを書いているのは、
「第九」から歌を取りのぞけば──、そういう発想をする人がいることに、
少々驚いているからだ。

「第九」の四楽章から歌を取りのぞく、
そんなことを考えたことは一度もなかった。

なかっただけに、
「歌が入っていなければ、いい曲なのに……」という発言の裏には、
「第九」の四楽章から、
歌を取りのぞける(取りのぞけたら)という考えがある、というふうに受け止めてしまう。

歌は、オーケストラの演奏と一体となっている。
いままでこんなことを考えてみたことがなかっただけに、
「歌が入っていなければ、いい曲なのに……」を聴いて、
よけいに一体となっていることを改めて感じた。

それだけに「歌が入っていなければ、いい曲なのに……」、
四楽章で歌が入ってくることでだいなしに、しかも演歌にしている──、
そういったことを聞いたり読んだりすると、
この人たちは、「第九」に涙したことはないんだな、と思う。

私が小澤征爾/ボストン交響楽団の「第九」を聴いて涙したのは、
四楽章の歌が始まってからだったし、
年末に刑務所で「第九」を聴いて号泣した受刑者も、たぶんそうであろう。

受刑者の、その人は、おそらく「歓喜の歌」のことはまったく知らなかったのではないか。
ドイツ語もまったく理解していなかったのではないか。

それでも「第九」の四楽章で、
“O Freunde, nicht diese Töne!”(「おお友よ、このような音ではない!」)と、
バリトン独唱が歌う、そのところで涙したのではないのか。

そして、そこからは最後まで涙していたようにおもう。

そういう力が「第九」にはある。

Date: 6月 11th, 2019
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その20)

6月5日のaudio wednesdayでは、
フリッツ・ライナー指揮シカゴ交響楽団によるベートーヴェンの「第九」も鳴らした。

ライナーの「第九」のことは、(その1)で触れている。
1989年の映画「いまを生きる」(原題はDead Poet Society)で使われていた。

この映画を観ていて、ライナーの「第九」と出逢えた。
私はステレオ録音の「第九」では、ジュリーニ指揮ベルリンフィルハーモニーの録音とともに、
このライナー盤を聴きつづけてきている。

今回は四楽章だけを鳴らした。
鳴らし終って、常連のKさんが「歌が入っていなければ、いい曲なのに……」といわれた。

Kさんと同じことを、ある雑誌でもみかけたことがある。
どの雑誌で、どの人が書いたことなのか記憶しているけれど、ここでは書かない。

その人もまた、四楽章で歌が入ってくることで、
「第九」をだいなしにしている。
さらには、演歌にしてしまっている──、
そんなことを書かれていた。

音楽の聴き方も、ほんとうに人によって、大きく違ってくる。
もう人さまざまという言葉だけでは足りないとおもえるほどに、
こうまで違ってくるものか、ともう諦めるしかないのか。

30代なかばだったら、ムキになって説得しようと試みただろうが、
いまは、もうつもりはない。

一応、反論めいたことはちょっと言ったけれど、
それ以上はあえて言うまい。

でも、(その10)で書いている、昔の新聞で読んだ記事のことを思い出す。

年末に受刑者に「第九」を聴かせた、という話だ。
受刑者の一人が剛球した、という内容だった。

「第九」をもっと以前に聴いていれば、
罪を犯すことはなかっただろう……と。

私も、ベートーヴェンの「第九」を、
小澤征爾指揮ボストン交響楽団の演奏で、人見記念講堂で聴いたとき、
四楽章でバリトンが歌い出したところから、もう涙が止まらなかった経験がある。

Date: 3月 21st, 2019
Cate: バッハ, マタイ受難曲

ヨッフムのマタイ受難曲(その4)

ヨッフムのマタイ受難曲。

いまでは多くのマタイ受難曲がCDとなっている。
でも、私がマタイ受難曲を初めて聴いたとき、
マタイ受難曲のLPの数は少ないとはいわないが、多くはなかった。

名演といわれていたのはリヒターであり、
クレンペラーも高い評価を得ていた。
あとはメンゲルベルク、カラヤン、リリングなどの演奏があった。

ヨッフムのマタイ受難曲は、さほど注目されていなかった、と記憶している。
レコード芸術の恒例の特集となった名曲名盤の企画。

私が20代のころ、ヨッフムのマタイ受難曲に点を入れている人は佐々木節夫氏だけだった。
そういうものなのか、と思ったから、いまもはっきりと憶えている。

私は五味先生の影響で、ヨッフムのマタイ受難曲を最初に聴いている。
そうそう頻繁に聴くわけではないが、こちらが歳をとるとともに、
ヨッフムのマタイ受難曲の美しさが、いかに深いかを感じる。

その3)は二年半ほど前に書いた。
(その4)を思い出したように書いているのは、
メリディアンのULTRA DACで聴きたい一枚だからだ。

Date: 2月 10th, 2019
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その27)

ここでの組合せは、カラヤンの「パルジファル」を聴くためだけのシステムである。
このことを、コントロールアンプ選びに迷っているときに思い出した。

ならばコントロールアンプはなくてもいいじゃないか。
マッキントッシュのMC2301にぴったりと合うコントロールアンプは、
私の感覚ではマッキントッシュのラインナップにはない。

他社製のコントロールアンプも、あれこれ思い浮べてみた。
帯に短し襷に長し、という感じがどうしても残る。

実際に試聴してみれば、そんな感じは消えてしまうのかもしれないが、
MC2301すら聴く機会がないのだから、コントロールアンプをあれこれ替えての試聴は期待できない。

ではどうするのか。
ここでのCDプレーヤーには、
オラクルのCD2000 mkⅢとメリディアンのULTRA DACの組合せをもってきたい。

ULTRA DACを聴く以前は、別のD/Aコンバーターを考えていた。
その場合はコントロールアンプがどうしても必要になる。

ULTRA DACは内蔵のDSPで、ボリュウムコントロールとともにトーンコントロールも可能になっている。
ULTRA DACの、この機能を使えばいい。

これで組合せがまとまった。
スピーカーシステムはBrodmann AcousticsのVC7(以前のベーゼンドルファーのVC7)、
パワーアンプはマッキントッシュのMC2301、
CDトランスポートがオラクルのCD2000 mkⅢに、
D/AコンバーターがメリディアンのULTRA DAC。

このシステムで、カラヤンの「パルジファル」を聴きたい。
この組合せで、カラヤンの「パルジファル」を聴く機会はおそらく訪れない。

にも関らず、ここでの組合せをまじめに考えて、ここまで書いてきた。
無駄なことだ、と思う人もいるだろうけれど、
私は無駄とは思わない人間だ。

Date: 2月 9th, 2019
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その26)

健康な心を持った聴き手のため、というアンプの選択。
スピーカーを現行製品から選んでいるから、
アンプも現行製品から選びたい。

現行製品で、そういうアンプ(ここではパワーアンプ)はあるだろうか。
前回(その25)は二年前。
二年間、アンプを何にするか考えていたわけではない。

割とすんなり見つけた。
ただ、そのアンプの音を聴く機会がなかった。
聴いてから続きを書こうと思っていたら、二年間が過ぎていた。

けれど、その二年の間に聴く機会はなかった。
そのアンプはいまも現行製品である。
新製品ではもちろんない。
二年前でも、すでに新製品ではなかった。

私が、ここでの組合せで選んだのは、マッキントッシュのMC2301である。
KT88の4パラレルプッシュプルで300Wの出力をもつ。

しかもMC2301は以前まとめて書いているように、
それまでのマッキントッシュのパワーアンプのコンストラクションを一新している。

発売になって約十年。
いまも現行製品である。

いいアンプに違いない、といまも思っている。
正直300Wという出力は要らない、と思っている。

半分の出力にしてくれて、コンストラクションはそのまま、
出力管のKT88の本数を半分の四本にしてくれたら、いいのになぁ、と思っている。

でも300Wの出力を、そこまで必要とはしないけれど、
ぐっと音量を絞った状態で、VC7を鳴らしたい。
底知れぬ余裕を秘めた鳴り方をしてくれるのではないだろうか。

MC2301には決めていても、
コントロールアンプもマッキントッシュにしたい、とは思っていない。
コントロールアンプを何にするか、決めかねていたのも、
(その25)から、ここまで間があいた理由でもある。

Date: 8月 21st, 2018
Cate: ワーグナー

ワグナーとオーディオ(マランツかマッキントッシュか・その12)

《何々である、で結ぶ文体を偉ぶったように思うのは、多分思う方が弱くイジケているのだろうと》
そう五味先生は書かれている。
私もそう思う。

いまでは「上から目線で……」と、すぐさま口にする人が増えてきたようだ。
「上から目線でいわれた」と感じる方が弱くてイジケているのだろう、と思う。

弱くてイジケている人は、上の人が自分がいまいるところまで降りてきてくれる、と思っているのか。
弱くてイジケている人は、自分よりも下にいると思っている人のところまで降りて行くのか。

上にいる者は、絶対に下に降りていってはダメだ、と菅野先生からいわれたことがある。
そう思っている。

下にいる人を蹴落とせ、とか、
上に上がってこようとしているのを拒む、とか、そういうことではない。
上にいる者は、目標としてしっかりと上にいるべきであり、
導くことこそ大事なことのはずだ。

Date: 8月 21st, 2018
Cate: ワーグナー

ワグナーとオーディオ(マランツかマッキントッシュか・その11)

「西方の音」に「少年モーツァルト」がある。
そこに、こうある。
     *
 私は小説家だから、文章を書く上で、読む時もまず何より文体にこだわる。当然なはなしだが、どれほどの評判作もその文体が気にくわねば私には読むに耐えない。作家は、四六時中おなじ状態で文章が書けるわけはなく、女を抱いた後でつづる文章も、惚れた女性を持つ作家の文章、時間の経過も忘れて書き耽っている文章、またはじめは渋滞していたのが興趣が乗り、夢中でペンを走らせる文章など、さまざまにあって当然だが、概して女と寝たあとの文章と、寝るまでの二様があるように思える。寝てからでは、どうしても文体に緻密さが欠けている。自他ともに、案外これは分るものだ。女性関係に放縦な状態でけっしてストイックなものが書けるわけはない。ライナー・マリア・リルケの『マルテの手記』や、総じて彼の詩作は、女性を拒否した勤勉な、もしくは病的な純粋さで至高のものを思わねばつづれぬものだろう、と思ったことがある。《神への方向》にリルケの文学はあるように思っていた。私はリルケを熟読した。そんなせいだろうか、女性との交渉をもったあとは、それがいかほど愛していた相手であれ、直後、ある己れへの不潔感を否めなかった。なんという俺は汚ない人間だろうと思う。
 どうやら私だけでなく、世の大方の男性は(少なくともわれわれの年代までに教育をうけた者は)女性との交渉後に、ある自己嫌悪、アンニュイ、嘔吐感、虚ろさを覚えるらしい。そういう自己への不潔感をきよめてくれる、もしくは立ち直らせてくれるのに、大そう効果のあるのがベートーヴェンの音楽ではなかろうか、と思ったことがある。
 音楽を文体にたとえれば、「ねばならぬ」がベートーヴェンで、「である」がバッハだと思った時期がある。ここに一つの物がある。一切の修辞を捨て、あると言いきるのがバッハで、あったのだったなぞいう下らん感情挿入で文体を流す手合いは論外として、あるとだけでは済ませぬ感情の盛り上がり、それを、あくまで「ある」でとどめるむずかしさは、文章を草してきて次第に私にも分ってきた。つまり、「ある」で済ませる人には、明治人に共通な或る精神の勁さを感じる。何々である、で結ぶ文体を偉ぶったように思うのは、多分思う方が弱くイジケているのだろうと。──なんにせよ、何々だった、なのだった、を乱用する作家を私は人間的に信用できなかった。
 シューベルトは、多分「だった」の作曲家ではなかろうかと私は思う。小林秀雄氏に、シューベルトの偉さを聞かされるまではそう思っていたのである。むろん近時、日本の通俗作家の「だった」の乱用と、シューベルトの感情挿入は別物だ。シューベルトの優しさは、だったで結べば文章がやさしくなると思う手合いとは無縁である。それでも、ベートーヴェンの「ねばならぬ」やバッハにくらべ、シューベルトは優しすぎると私には思えた。女を愛したとき、女を抱いたあとにシューベルトのやさしさで癒やされてはならぬと。
 われながら滑稽なドグマであったが、そういう音楽と文体の比喩を、本気で考えていた頃にもっとも扱いかねたのがモーツァルトだった。モーツァルトの音楽だけは、「ねばならぬ」でも「である」でもない。まして「だった」では手が届かない。モーツァルトだけは、もうどうしようもないものだ。彼も妻を持ち、すなわち妻と性行為はもったにきまっている。その残滓がまるでない。バッハは二人の夫人に二十人の子を産ませた。精力絶倫というべく、まさにそういう音楽である。ベートーヴェンは女房をもたなかったのはその音楽を聞けば分る。女房ももたず、作曲に没頭した芸術家だと思うから、その分だけベートーヴェンに人々は癒やされる。実はもてなかったといっても大して変りはないだろう。
     *
《ある己れへの不潔感》、《アンニュイ、嘔吐感、虚ろさ》、
そういったことをまったく感じない男がいる、ということも知っている。

そんな男にかぎって、ストイックな文章を書こうとしているのだから、
傍から見れば滑稽でしかない、とおもうことがある。

《概して女と寝たあとの文章と、寝るまでの二様があるように思える》とある。
ならば自己への不潔感を感じる者と、感じない者との二様がある、のだろう。

感じない者が大まじめに、ストイックな文章であろうとするのだから、
やはり、滑稽でしかない、と感じる。

ワグナーは、どちらだったのか。

Date: 8月 15th, 2018
Cate: ワーグナー

ワグナーとオーディオ(マランツかマッキントッシュか・その10)

ワグナーとオーディオというタイトルなのに、
書いていることはワグナーと五味康祐になっている。

五味先生とワグナーということで、
私と同世代、上の世代で熱心にステレオサウンドを読んできた人ならば、
2号での小林秀雄氏との音楽談義を思い出されるはずだ。

そこで五味先生は、いわれている。
     *
五味 ぼくは「トリスタンとイゾルデ」を聴いていたら、勃然と、立ってきたことがあるんでははぁん、官能というのはこれかと……戦後です。三十代ではじめて聴いた時です。フルトヴェングラーの全曲盤でしたけど。
     *
「勃然と、立ってきた」とは、男の生理のことである。
この五味先生の発言に対し、小林秀雄氏は「そんな挑発的ものじゃないよ。」と発言されている。

そうかもしれない、と考えるのが実のところ正しいのかもしれない。
それに音楽、音、オーディオについて語っているところに、
こういった性に直結する表現が出てくることを非常に嫌悪される人がいるのも知っている。

以前、ステレオサウンドで、菅野先生が射精という表現をされた。
このことに対して、
ステレオサウンドはオーディオのバイブルだから、そんな言葉を使わないでくれ、
そういう読者からの手紙が来たことがあった。

私の、このブログをオーディオのバイブルと思っている人はいないだろうから、
気にすることなく書いていくけれど、世の中にはそういう人がいるというのは事実である。

そういう人にとっては、
小林秀雄・五味康祐「音楽談義」での《勃然と、立ってきたことがある》は、
どうなんだろうか。

《勃然と、立ってきた》とはあるが、その後のことについては語られていない。
だから、かろうじて、そういう人にとっても許容できることなのだろうか。

三十代ではじめて聴いて《勃然と、立ってきた》とあるから、
タンノイのオートグラフ以前のことだ。

五味先生のところにオートグラフが届いたのは1964年である。
五味先生は42歳だった。

Date: 8月 14th, 2018
Cate: ワーグナー

ワグナーとオーディオ(マランツかマッキントッシュか・その9)

五味先生はステレオサウンド 50号のオーディオ巡礼で、
森忠輝氏のリスニングルームを訪ねられている。
     *
森氏は次にもう一枚、クナッパーツブッシュのバイロイト録音の〝パルシファル〟をかけてくれたが、もう私は陶然と聴き惚れるばかりだった。クナッパーツブッシュのワグナーは、フルトヴェングラーとともにワグネリアンには最高のものというのが定説だが、クナッパーツブッシュ最晩年の録音によるこのフィリップス盤はまことに厄介なレコードで、じつのところ拙宅でも余りうまく鳴ってくれない。空前絶後の演奏なのはわかるが、時々、マイクセッティングがわるいとしか思えぬ鳴り方をする個所がある。
 しかるに森家の〝オイロダイン〟は、実況録音盤の人の咳払いや衣ずれの音などがバッフルの手前から奥にさざ波のようにひろがり、ひめやかなそんなざわめきの彼方に〝聖餐の動機〟が湧いてくる。好むと否とに関わりなくワグナー畢生の楽劇——バイロイトの舞台が、仄暗い照明で眼前に彷彿する。私は涙がこぼれそうになった。ひとりの青年が、苦心惨憺して、いま本当のワグナーを鳴らしているのだ。おそらく彼は本当に気に入ったワグナーのレコードを、本当の音で聴きたくて〝オイロダイン〟を手に入れ苦労してきたのだろう。敢ていえば苦労はまだ足らぬ点があるかも知れない。それでも、これだけ見事なワグナーを私は他所では聴いたことがない。天井棧敷は、申すならふところのそう豊かでない観衆の行く所だが、一方、その道の通がかよう場所でもある。森氏は後者だろう。むつかしい〝パルシファル〟をこれだけ見事にひびかせ得るのは畢竟、はっきりしたワグナー象を彼は心の裡にもっているからだ。〝オイロダイン〟の響きが如実にそれを語っている。私は感服した。あとで聞くと、この数日後アンプの真空管がとんだそうだが、四十九番あたりの聴くに耐えぬ音はそのせいだったのかも知れない。
 何にせよ、いいワグナーを聴かせてもらって有難う、心からそう告げ私は森家を辞したのである。彼の人となりについては気になる点がないではなかったが、帰路、私は満足だった。本当に久しぶりにいいワグナーを聴いたと思った。
     *
40号代のステレオサウンドには、森忠輝氏の連載が載っていた。
オイロダインとの出合い、アナログプレーヤー、アンプの選択と入手についての文章を読んでいた。

森忠輝氏のアンプはマランツのModel 7とModel 9である。
森忠輝氏の心の裡にあるワグナー像を描くには、
森忠輝氏にとってはマランツのアンプしかなかったのだろう。

けれど、忘れてならぬのは天井桟敷の俯瞰である、ということだ。

ここでひとつ五味先生に訊ねたいことがある。
森忠輝氏のオイロダインで、クナッパーツブッシュのパルシファルは、どこまで聴かれたのだろうか。
レコードの片面だけなのか、まさかとは思うが、五枚全面聴かれたのか。

森忠輝氏の音量は、かなり小さい、と書かれている。
小さいからこそマランツなのか、と思うし、
おそらく聴かれたのはレコード片面なのだろう──、とそんなことを考えている。

Date: 8月 14th, 2018
Cate: ワーグナー

ワグナーとオーディオ(マランツかマッキントッシュか・その8)

長島先生は、最初からマランツのModel 7とModel 2の組合せだったわけではない。
ステレオサウンド 61号で語られているが、
最初はマッキントッシュである。真空管アンプではなくトランジスターアンプである。
     *
長島 つぎにアンプのマッチングを考えました。そのときマッキントッシュのMC2105を使っていたんですが、これはやさしいアンプですが、スピーカーが慣れてくるにしたがって、力量不足がはっきりしてきたわけです。そこでつぎにMC275に切りかえました。MC275でもエイジングがすすんでくるにつれて、こんどは甘さが耳についてきました。その甘さがほくには必要じゃない。だから、もっと辛口のアンプをということでマランツ2になり、ずうっと使ってきたマッキントッシュのC26プリアンプをマランツ7に変え、それでやっとおちついているわけです。
     *
長島先生が鳴らされていたスピーカーは、ジェンセンのG610Bなのはよく知られている。
G610Bの前は、タンノイだった。
GRFだった、と記憶している。

そのタンノイについて、61号では、
タンノイのやさしさが、もの足りなかった、と。
タンノイは、だから演奏会場のずうっと後の席で聴く音で、
長島先生は、前の方で聴きたい、と。

だから長島先生にとってG610Bであり、Model 7+Model 2なのである。

そういう長島先生なのだが、ステレオサウンド 61号の写真をみた方ならば、
マランツのModel 2の隣にMC275が置いてあるのに気づかれたはず。

使っていないオーディオ機器は手離す長島先生であっても、
MC275だけは手離す気になれない、とある。

簇生の美しさを出すためにぼかす甘さを求める聴き方もあれば、
簇生する花の、花弁の一つひとつを、くっきり描いていくため甘さを拒否する聴き方もある。

それによってアンプ選びは違ってくる。
ここで書きたいのは、マッキントッシュとマランツの、どちらの真空管アンプが優秀か、ではない。
こういうことを書いていくと、わずかな人であっても、
マッキントッシュが優秀なんだな、とか、やっぱりマランツなんだな、と決めてかかる人がいる。

書きたいのは、なぜ五味先生がマッキントッシュだったのか、
その理由について考察なのである。

Date: 8月 14th, 2018
Cate: ワーグナー

ワグナーとオーディオ(マランツかマッキントッシュか・その7)

長島先生はステレオサウンド 37号で、
《レコードに入っている音が、細大洩らさず、あるがままの形で出てくる》といわれている。

五味先生はMC275とMC3500を聴き比べて、次のように書かれている。
     *
 ところで、何年かまえ、そのマッキントッシュから、片チャンネルの出力三五〇ワットという、ばけ物みたいな真空管式メインアンプ〝MC三五〇〇〟が発売された。重さ六十キロ(ステレオにして百二十キロ——優に私の体重の二倍ある)、値段が邦貨で当時百五十六万円、アンプが加熱するため放熱用の小さな扇風機がついているが、周波数特性はなんと一ヘルツ(十ヘルツではない)から七万ヘルツまでプラス〇、マイナス三dB。三五〇ワットの出力時で、二十から二万ヘルツまでマイナス〇・五dB。SN比が、マイナス九五dBである。わが家で耳を聾する大きさで鳴らしても、VUメーターはピクリともしなかった。まず家庭で聴く限り、測定器なみの無歪のアンプといっていいように思う。
 すすめる人があって、これを私は聴いてみたのである。SN比がマイナス九五dB、七万ヘルツまで高音がのびるなら、悪いわけがないとシロウト考えで期待するのは当然だろう。当時、百五十万円の失費は私にはたいへんな負担だったが、よい音で鳴るなら仕方がない。
 さて、期待して私は聴いた。聴いているうち、腹が立ってきた。でかいアンプで鳴らせば音がよくなるだろうと欲張った自分の助平根性にである。
 理論的には、出力の大きいアンプを小出力で駆動するほど、音に無理がなく、歪も少ないことは私だって知っている。だが、音というのは、理屈通りに鳴ってくれないこともまた、私は知っていたはずなのである。ちょうどマスター・テープのハイやロウをいじらずカッティングしたほうが、音がのびのび鳴ると思い込んだ欲張り方と、同じあやまちを私はしていることに気がついた。
 MC三五〇〇は、たしかに、たっぷりと鳴る。音のすみずみまで容赦なく音を響かせている、そんな感じである。絵で言えば、簇生する花の、花弁の一つひとつを、くっきり描いている。もとのMC二七五は、必要な一つ二つは輪郭を鮮明に描くが、簇生する花は、簇生の美しさを出すためにぼかしてある、そんな具合だ。
     *
マッキントッシュのMC3500よりも、
マランツのModel 9のほうが、より《簇生する花の、花弁の一つひとつを、くっきり描いている》だろう。

けれど五味先生はMC3500ではなくMC275なのである。
《必要な一つ二つは輪郭を鮮明に描くが、簇生する花は、簇生の美しさを出すためにぼかして》描く、
そういうMC275を選ばれている。

簇生の美しさを出すためにぼかす──、
ここを忘れては、何も語れない。

Date: 8月 13th, 2018
Cate: ワーグナー

ワグナーとオーディオ(マランツかマッキントッシュか・その6)

SPA1HLによって、長島先生にとってModel 7がどういう存在なのかをはっきりと知った。
マッキントッシュ、マランツの真空管アンプを新品で聴くことはできなかった世代であっても、
SPA1HLを長島先生といっしょに、しかも解説つきでじっくりと聴くことができたからだ。

長島先生はステレオサウンド 38号で、
《決して神経を休めるという傾向の音ではありません》といわれている。
確かにそうである。
SPA1HLもそういうアンプである。

同じことを井上先生もいわれていたし、
ステレオサウンド別冊「音の世紀」でも、同じ意味あいのことを書かれている。
     *
 心情的には、早くから使ったマランツ7は、その個体が現在でも手もとに在るけれども、少なくとも、この2年間は電源スイッチをONにしたこともない。充分にエージング時間をかけ音を聴いたのは、キット版発売の時と、復刻版発売の時の2回で、それぞれ約1ヵ月は使ってみたものの、老化は激しく比較対象外の印象であり、最新復刻版を聴いても、強度のNFB採用のアンプは、何とはなく息苦しい雰囲気が存在をして、長時間聴くと疲れる印象である。
     *
決して神経を休めるという傾向の音ではないModel 7、
何とはなく息苦しい雰囲気が存在をして、長時間聴くと疲れる印象のModel 7。

どちらも同じことを語っている。
ただ聴き手が違うだけの話である。
音楽の聴き方の違いが、そこにある。

五味先生はワグナーをよく聴かれていた。
毎年NHKのFMで放送されるバイロイト音楽祭を録音されていたことはよく知られているし、
《タンノイの folded horn は、誰かがワグナーを聴きたくて発明したのかも分らない。それほど、わが家で鳴るワグナーはいいのである》
とも書かれているくらいだ。

ワグナーは長い。
どの楽劇であっても、長い。
その長さゆえ、五味先生はマランツを選ばれなかったのではないのか。

Date: 8月 13th, 2018
Cate: ワーグナー

ワグナーとオーディオ(マランツかマッキントッシュか・その5)

SMEのSPA1HLは最初オルトフォン・ブランドで登場した。
プロトタイプというか、プリプロモデルだったのか、
とにかくオルトフォンのSPA1HLを聴いている。

オルトフォンのSPA1HLとして登場した時、このフォノイコライザーアンプの事情は何も知らなかった。
オルトフォンの技術者が設計した真空管のフォノイコライザーアンプだと素直に信じていた。
だからオルトフォンのカートリッジに持っている音のイメージを、期待していた。

鳴ってきた音は、その意味では期待外れともいえたし、
期待外れだからといって、このフォノイコライザーアンプに魅力を感じなかったわけではない。
おもしろいアンプが登場してきた、と思った。

それからしばらくして、今度はSMEブランドで現れた。
ここで初めて、このフォノイコライザーアンプの事情を知る。

SMEのSPA1HLは長島先生といっしょに聴いた。
SPA1HLについて長島先生の詳しいこと詳しいこと。

思わず「長島先生が設計されたのですか」と口にしそうになるくらいだった。
そうなんだということはすぐにわかった。
パーツ選びの大変さも聞いている。

それに長島先生自身、SMEのアンプは、マランツの#7への恩返し、といわれていた。
オルトフォン・ブランドであろうとSMEブランドであろうと、
SPA1HLに、そのオーディオ機器ならではの音色の魅力というものは、
まったく感じなかった。

この点で期待外れと、最初の音が鳴った時に感じても、さまざまなレコードをかけていくと、
SPA1HLの実力は高いと感じてくる。

ただそれでもオーディオ機器固有の音色にどうしても耳が向いてしまう人には、
SPA1HLは不評のようだった。

SPA1HLをある人とステレオサウンドの試聴室で聴いている。
その人は、ほんとうにいいアンプだと思っています? ときいてきた。
その人にとってSPA1HLはどうでもいい存在のようだった。

私はSPA1HLを、何度もステレオサウンドの試聴室で聴いている。
SPA1HLを聴いて、
長島先生がマランツのModel 7をどう聴かれていたのかを理解できた、と思った。

Date: 8月 13th, 2018
Cate: ワーグナー

ワグナーとオーディオ(マランツかマッキントッシュか・その4)

話をすすめていく前にひとつ書いておきたいのは、
長島先生、山中先生、瀬川先生だけでなく、同時代のオーディオ評論家の人たちは、
そして五味先生もそうなのだが、
みな、マッキントッシュやマランツの真空管アンプが現役のころからオーディオに取り組まれている。

つまりみな新品のマッキントッシュのアンプの音、マランツのアンプの音、
真空管アンプではないが同時代のJBLのアンプの音などを聴かれている。

このことは後に生まれた世代にはかなわぬことである。
長島先生、山中先生は1932年、瀬川先生は1935年、
私は約30年後の1963年生れである。

同世代の人たちよりは程度のいいマッキントッシュやマランツを聴いているのかもしれないが、
それでも30年という時間のひらきは、なにをもってきてもうめられない。

完全な追体験は無理なのだ。
完全メインテナンスを謳っていようが、
それがどの程度なのかは、だれが保証してくれるのか。

周りに、マッキントッシュ、マランツの真空管アンプを新品の状態で聴いたことがある、
しかも耳の確かな人がいればいい。
けれど、そういう人がどのくらいいるか。

いわゆる自称は、ここでは役に立たぬ存在だ。

私がこうやって古いマッキントッシュやマランツの音に関することを引用しているのを読んで、
いや、そういう音じゃないぞ、と思われる人もいよう。
そのことを否定しない。

その人が聴くことができたマッキントッシュやマランツの真空管アンプは、
そういう音を出していたのだろうから。

でも、それが新品での音とどのくらい違ってきているのか。
そのことを抜きにして、自分が聴いた範囲だけの音で語るのは、私はやらない。