Archive for category 作曲家

Date: 12月 5th, 2022
Cate: バッハ, マタイ受難曲

ヨッフムのマタイ受難曲(その6)

12月1日に、レコード芸術のレコード・アカデミー賞の受賞ディスクが発表になった。
今年の大賞は、ラファエル・ピション指揮のマタイ受難曲である。

4月に発売になっている。
出ていたのは夏ごろに気づいていたが、聴いてはいなかった。
レコード・アカデミー賞大賞ということで、12月1日に聴いた。
TIDALにあったからだ。

聴いてすぐに、ヨッフムのマタイ受難曲を聴きたくなった。
それでもしばらくはピションのマタイ受難曲を聴いていたけれど、
途中で聴くのをやめてしまった。

今日、ふたたびピションのマタイ受難曲を聴いた。
やはりヨッフムのマタイ受難曲を聴きたくなった。
今回は、ヨッフムのマタイ受難曲を聴いた。

ピションのマタイ受難曲にケチをつける気は毛頭ない。
レコード芸術だけでなく、Googleで検索すると、
聴いた人は高い評価をしていることがわかる。

そうだろうな、とは思う。
けれど、それは現象としてのマタイ受難曲としての完成度の高さであり、
素晴らしさのような気がする。

録音にしても、ヨッフムのマタイ受難曲よりもよい。
ヨッフムとピションとのあいだには五十年ほどの隔たりがあるのだから、
録音ひとつとっても大きな違いがあって当然であり、
そのことも現象としてのマタイ受難曲の素晴らしさを際立てている、ともいえる。

けれど心象としてのマタイ受難曲として、私の心に響いてくるのは、
ヨッフムのマタイ受難曲である。

だからといって、ピションのマタイ受難曲が心象のマタイ受難曲として素晴らしくはない、
そういうことではないはずだ。
ピションのマタイ受難曲が、聴き手の内奥に迫ってくる、と評価している人もいたのだから。

だから、あくまでも私にとって、ということである。

Date: 11月 5th, 2022
Cate: ワーグナー

ワグナーとオーディオ(その9)

夜おそく、ひとりでワグナーをヘッドフォンで聴いていると、
ふとした拍子に、ルートヴィヒ二世よりも、
われわれ現代人は贅沢かもしれない──、とおもう。

ルートヴィヒ二世はワーグナーの作品の上演のためだけの劇場、
バイロイト祝祭劇場の建築を全面的に援助したバイエルン国王なのだが、
そのバイロイト祝祭劇場で、
たったひとりでワグナーを聴くことはかなわなかったのではなかろうか。

特等席といえるところで、周りに人を寄せ付けずにワグナーを聴いていただろうが、
それでも劇場には多くの人がいる、それらの人が視界に入ってくるし、
人の気配も感じてしまう。

ルートヴィヒ二世は、たったひとりでワグナーを聴きたかったのではないのか。
そんなことをふとおもってしまう。

そうおもうと、たとえヘッドフォンであったとしても、
たったひとりで好きな時間にワグナーを、たったひとりで聴ける。

このことは、とても贅沢なこと、そのことに気づく。

Date: 10月 24th, 2022
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(20世紀の場合と21世紀の場合・さらにその後)

3月10日に、オクサーナ・リーニフのことを書いた時点では、
TIDALにはリーニフ指揮のアルバムはなかった。

先日、検索してみたら、今度はあった。
一枚だけだがある。

ドヴォルザークの交響曲第九番である。
“Dal nuovo mondo”が聴ける。

くり返すが、オクサーナ・リーニフはウクライナ出身だ。

Date: 10月 7th, 2022
Cate: ワーグナー

ワグナーとオーディオ(その8)

別項で書いているように、先月まではシューベルトをよく聴いていた。
他の作曲家の作品も聴いていたけれど、
シューベルトの作品を聴かない日はない、ぐらいによく聴いていた。

いまは、というと、シューベルトをぱったり聴かなくなったわけではないが、
頻度はかなり低くなって、ワグナーをよく聴くようになってきている。

ワグナーの作品は、当然ながら長い。
なのに聴きはじめると、ついつい聴き続けている。

たいていは、このブログを書き終ってから聴きはじめるので、
夜ある程度の時間になっている。
なのでスピーカーからのワグナーを聴くわけにもいかず、ヘッドフォンで、
TIDALでMQAでのワグナーを聴くことがほとんどだ。

聴いていると、もう、こんな時間、ということになる。
最後まで聴きたいけれど、翌日のことを考えると、途中であきらめるしかない。

幕の途中でやめることはしたくないので、それでもワグナーを聴くということは、
それなりに時間をとられる。

若い頃のワグナーはいいな、と、
いま、この齢になってのワグナーはいいな、と同じではない。

だからといって、若い頃ワグナーを敬遠して聴いていなかったら、
いま、ワグナーはいいな、とは感じなかっただろう。

そんなことを思ったりしているのだが、
それ以上に、ワグナーを聴くためだけに、いいヘッドフォンが欲しいな、とおもう。

Date: 9月 6th, 2022
Cate: モーツァルト

続・モーツァルトの言葉(その6)

その2)で、
バーンスタインの晩年の演奏にある執拗さは、
バーンスタインの愛なんだろう、と思える。
それも、あの年齢になってこその愛なんだ、とも思う、
と書いている。

老人の、執拗な愛によるマーラーを聴きたい──、
そう思う一方で、執着と愛は違うわけで、
執着と愛をごっちゃにしてしまうほど、こちらももう若くないわけだが、
では、執拗と執着は、どう違うのか、と考える。

執拗を辞書で引くと、
しつこいさま、とある。
それから、意地を張り、自分の意見を押し通そうとするさま、ともある。

しつこいを引くと、
一つのことに執着して離れようとしない,とある。
ここに執着が出てくるからといって、執拗と執着が同じとは思っていない。

辞書には、しつこいの意味として、もう一つある。
(味・香り・色などが)濃厚である。不快なほど強い、とある。

私がバーンスタインのマーラーを、
《老人の、執拗な愛によるマーラー》と感じたのは、まさにこれである。

執着とは、辞書には、
ある物事に強く心がひかれること、心がとらわれて、思いきれないこと、とある。

バーンスタインの晩年のマーラーを聴けば、わかる。
執着と愛は違う、ということが。

老人(バーンスタイン)の、執拗な愛によるマーラーは、
人によっては不快と感じるのであろう。

Date: 7月 24th, 2022
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(20世紀の場合と21世紀の場合・その後)

四ヵ月前に「ベートーヴェンの「第九」(20世紀の場合と21世紀の場合)」を書いた。

昨日、ボローニャで、オクサーナ・リーニフがベートーヴェンの第九を振っている。

Date: 6月 4th, 2022
Cate: ワーグナー, 映画

ワグナーとオーディオ(とIMAX 3D)

6月1日に「トップガン マーヴェリック」を観てきた。
IMAXで観てきた。

今年観た映画のなかで、ダントツに楽しかった。
映画って、いいなぁ、と素直におもえるほどよかった。

映画館で観てよかった映画だ、とも思っていた。
この十年くらいか、映画館が輝きを取り戻したような感じを受けている。

私が、再び積極的に映画館で映画を観るようになったきっかけは、
ドルビー・アトモスの登場である。

別項「トーキー用スピーカーとは(Dolby Atmos・その1)」で書いているように、
2013年12月1日、船橋まででかけて観に行った。

その時観たのは「スタートレック イントゥ・ダークネス」で、
ドルビーアトモスと3Dによる上映だった(IMAX 3Dではない)。

船橋まででかけたのは、
Dolby Atoms(ドルビーアトモス)を日本で初めて導入した映画館で、
まだ船橋にしかなかったからだ。

船橋からの帰りの電車のなかでおもっていたことは、(その3)に書いている。

ジョン・カルショウがいま生きていたら、
3D映像とドルビーアトモスを与えられたら、
どんな「ニーベルングの指環」をわれわれに提示してくれるであろうか──。
そんなことをぼんやりとではあるが考えていた。

それから九年ほど経って、IMAX 3Dが登場した。
別項「Doctor Strange in the Multiverse of Madness(その1)」で、
「Avatar: The Way of Water」の予告編を観た、と書いた。
この予告編もIMAX 3Dで、そのクォリティの高さは、また一つ時代が変った、
そう思わせるほどのものだ。

「ニーベルングの指環」。
最新のCGによる制作とIMAX 3Dでの上映。
観たい。

Date: 5月 7th, 2022
Cate: ベートーヴェン, 正しいもの

正しいもの(その23)

井上先生の
《ブルックナーが見通しよく整然と聴こえたら、それが優れたオーディオ機器なのだろうか》、
ここにある井上先生の問いかけに関連して思い出すのは、
五味先生の、この文章である。
     *
ベートーヴェンのやさしさは、再生音を優美にしないと断じてわからぬ性質のものだと今は言える。以前にも多少そんな感じは抱いたが、更めて知った。ベートーヴェンに飽きが来るならそれは再生装置が至らぬからだ。ベートーヴェンはシューベルトなんかよりずっと、かなしい位やさしい人である。後期の作品はそうである。ゲーテの言う、粗暴で荒々しいベートーヴェンしか聴こえて来ないなら、断言する、演奏か、装置がわるい。
(「エリートのための音楽」より)
     *
《粗暴で荒々しいベートーヴェン》でなくとも、
見通しよく整然と聴こえてきたベートーヴェンであったとしても、
ベートーヴェンのやさしさが聴こえてこないのならば、
ベートーヴェンに飽きがくるのであれば、
それは優れたオーディオ機器であろうか。

ここでの、装置が悪い、いい、というのは、
オーディオ雑誌における評価とは関係のないところでのいい、悪いである。

Date: 3月 10th, 2022
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(20世紀の場合と21世紀の場合)

20世紀の場合、
ベルリンの壁の崩壊の約一ヵ月後の1989年12月25日に、
バーンスタインがベートーヴェンの「第九」を指揮した。

21世紀の場合を考えてしまう。
オクサーナ・リーニフ指揮の「第九」がそうなってほしい。

オクサーナ・リーニフは、2021年、バイロイト音楽祭で「さまよえるオランダ人」を指揮している。
バイロイト音楽祭初の女性指揮者である。

オクサーナ・リーニフはウクライナの女性。
リーニフ指揮の「第九」がウクライナで響き渡る日。

私は、そんな21世紀の「第九」を聴きたい。
そういう日がくることを祈っている。

Date: 10月 28th, 2021
Cate: ワーグナー

ワグナーとオーディオ(その7)

フルトヴェングラー生誕135年ということで、
2021年リマスターが発売になっている。

192kHz、24ビットでのリマスターで、
CDは44.1kHz、16ビットでしか聴けないわけだが、
e-onkyoでは192kHz、24ビットで、flacとMQA Studioで配信を開始している。

TIDALでも、MQA Studio(192kHz)で聴ける。
それでも「トリスタンとイゾルデ」はe-onkyoで購入した。

TIDALでも聴けるわけだが、e-onkyoを応援したいから、である。

そのフルトヴェングラーの「トリスタンとイゾルデ」を聴いていると、
これだけはステレオで聴きたい、と思う気持がわきおこってくる。

フルトヴェングラーのステレオ録音は、いまのところない。
私は、あるのではないか、と思っているけれど、表には出てこない。

もし願いがかなって、神様が、どれか一つだけステレオにしてくれる、というのであれば、
「トリスタンとイゾルデ」をいまは選ぶ。

若いころだったら、「トリスタンとイゾルデ」は選ばなかっただろうが、
いまは違う。

Date: 10月 12th, 2021
Cate: マーラー

マーラーの第九(Heart of Darkness・その14)

20代のころが、いろんな指揮者でマーラーをいちばん聴いていた。
バーンスタインのドイツ・グラモフォンで新録音を聴いてからは、
手あたり次第聴くということはしなくなっていた。

いまは、というと、TIDALがあるので、けっこう手あたり次第、
いろんな指揮者のマーラーを聴いている。

そうやって聴いていて、
《マーラーの〝闇〟は、闇を怖れていたのは誰よりもマーラー自身なのである。怕さを知らぬ者にマーラーの音楽などわかるものか》、
五味先生の、この文章を思い出していた。

「マーラーの〝闇〟とフォーレ的夜」に出てくる。

《怕さを知らぬ者》になってしまう、ということを怖れなければならない。

Date: 9月 24th, 2021
Cate: ベートーヴェン

シフのベートーヴェン(その10)

アニー・フィッシャーを聴いたのはハタチの時だった。
来日したアニー・フィッシャーのコンサートに行ったのが最初だった。

それまでアニー・フィッシャーというピアニストを知らなかった。
コンサートに行けば、入口のところで、コンサートのチラシの束を配っている。

その一枚がアニー・フィッシャーのコンサートのもので、
それで、こういうピアニストがいるのか、と知った。

それでも大きな期待を持っていたわけではなく、
とにかくハタチのころ、ベートーヴェンの後期のピアノ・ソナタを、
コンサートで聴きたかった。

それでたまたまアニー・フィッシャーのコンサートが、
料金も高くなくて、私にとってぴったりだった、というのが、
聴きに行った理由ともいえる。

チラシには、どのコンサートのものでもそうなのだが、
悪いことは一切書いてない。
いいことしか書いてない。

それを鵜呑みにして勝手に期待をふくらませて行けば、
がっかりすることもあろう。

アニー・フィッシャーのチラシになんて書いてあったのか、
まったくいっていいほど憶えていない。

音楽の感動は、意外と不意打ちでやってくるものだ。
アニー・フィッシャーの演奏がそうだった。

ハタチの私に、ベートーヴェンの後期のピアノ・ソナタの真髄がわかっていたわけではない。
それでもアニー・フィッシャーのベートーヴェンは凄い、と感じていた。

そんな私の凄いはあてにならない、といわれれば、反論はしない。
アニー・フィッシャーのコンサートの前に、ベートーヴェンの後期のピアノ・ソナタを、
じっくりと何度も聴いていたかというと、それほどではなかった。

それでもアニー・フィッシャーのベートーヴェンは、何か違う、とも感じていた。
初めてのコンサートでのベートーヴェンのピアノ・ソナタだから、そう感じたのかもしれない。

そう自問自答することが、何度かあった。
でもここ最近、TIDALでアニー・フィッシャーをよく聴いている。

ベートーヴェンだけでなく、
ほとんど聴かないシューマンのピアノ協奏曲なども聴いている。

アニー・フィッシャーを初めて聴いたときからほぼ四十年。
ハタチの私の耳は、けっこう確かだった、と自信をもって、いまはいえる。

Date: 6月 1st, 2021
Cate: ワーグナー

ワグナーとオーディオ(その6)

前回の(その5)以降、
ヘッドフォンで音楽を聴く時間が、そうとうに増えている。

ここにきて、ワグナーの楽劇を聴くためのヘッドフォンを欲しくなってきた。
ワグナーの楽劇は長い。

長い時間かけていても負担とならないかけ心地のヘッドフォン、
そしてワグナーの楽劇にふさわしい音色と音質、
それから私の場合は、MQAでの再生。

ワグナーも、TIDALのおかげでけっこうな数の演奏をMQAで聴ける。

これらの条件が満たされれば、ワグナーをずっと聴き続けられそうな気がしないでもない。
周りに気兼ねすることなく、ワグナーの時間に浸りたいのだ。

Date: 3月 30th, 2021
Cate: バッハ, マタイ受難曲

ヨッフムのマタイ受難曲(その5)

オイゲン・ヨッフムのマタイ受難曲をMQAで聴きたい、とずっと思っている。
MQA-CDでもいいし、e-onkyoでの配信でもいい。

ヨッフムのマタイ受難曲をMQAで聴けたら、どれだけしあわせだろうか。
リヒター、アーノンクールのマタイ受難曲は、MQAで聴ける。

ヨッフムがMQAで聴ける日は来るのだろうか。
TIDALを始めて、すぐに検索したのがヨッフムのマタイ受難曲だった。

ヨッフムのブルックナーはMQAで聴ける。
けれど、数ヵ月前、ヨッフムのマタイ受難曲は、MQAどころかTIDALでも配信されていなかった。

二週間ほど前に検索したときもなかった、と記憶している。
今日、しつこく検索してみたら、ヨッフムのマタイ受難曲があった。
MQAではないが、とにかくTIDALで聴けるようになった。

一歩前進したような気がした。

Date: 3月 19th, 2021
Cate: モーツァルト

続・モーツァルトの言葉(その5)

ジェイムズ・レヴァインとメトロポリタン歌劇場管弦楽団とのワーグナー、
かなり期待して買って聴いたものだった。
もう三十年以上の前のことだ。

ひどくがっかりしたことだけを憶えている。
こちらの聴き方が悪いのか、と思い、聴き直しても印象は変らなかった。

特にケチをつけるような出来ではなかった。
だからといって、いいワーグナーを聴いた、という感触もなかった。

高く評価する人もいるのは知っている。
私の片寄った聴き方では、レヴァインとMETによるワーグナーはつまらなかった。

レヴァインの「ワルキューレ」にがっかりした私は、
そこでレヴァインを聴くのをやめてしまった。

熱心な人は、「ラインの黄金」、「ジークフリート」、「神々の黄昏」も聴いたのだろうが、
私はそこまでの情熱はもう持てなかった。

やめてしまったのに、ある理由がある。
ちょうどそのころ黒田先生が「最近のレヴァインはやっつけ仕事だ」といわれていた。
それは軽い感じで話されたのではなく、
怒りがこもった「最近のレヴァインはやっつけ仕事だ」だった。

「ワルキューレ」以前のレヴァインも、それほど熱心に聴いていたわけではなかったから、
黒田先生のいわれる《最近のレヴァイン》は聴いていなかった。

なので、黒田先生がそこまで強い口調でいわれるのをきいて、
少しとまどいもあった。

でも「ワルキューレ」は、そうだった、と思った。
やっつけ仕事である。

だからといって雑な演奏なわけではない。
才能のある人のやっつけ仕事であるわけだから、始末が悪い。

やっつけ仕事になってしまった理由は、モーツァルトのいうとおりだろう。
     *
天才を作るのは高度な知性でも想像力でもない。知性と想像力を合わせても天才はできない。
愛、愛、愛……それこそが天才の魂である。
     *
レヴァインから愛が消えてしまったと捉えているのは私ぐらいかもしれないにしてもだ。