Archive for category 「ネットワーク」

Date: 3月 18th, 2025
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNS = SESか・その25)

《いまは、恥じらいなどというものがまるでない、しったかぶりと自己宣伝全盛の時代である。》

ステレオサウンド 61号(1981年12月発売)、
「さらに聴きとるものとの対話を 内藤忠行の音」で、黒田先生が書かれている。

1981年は四十年以上前。
恥じらいなどというものがまるでない、しったかぶりと自己宣伝全盛の時代が、いまも続いているどころか、
ひどくなっている。

恥じらいが失われつつあるからなのか。
だとしたら、なぜそんなふうになっていったのか。

そして、このことは人に限ったことでもない。
オーディオ機器、それもハイエンドオーディオ機器の中には、
そう感じてしまうモノがないわけではない。

音のためだったら──、なんでもやっていいのだろうか。

Date: 2月 22nd, 2025
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(おさなオーディオ・その9)

内輪だけの関係を、どう捉えるのかは人によって違ってきて当然だし、
ネガティヴに捉える人もいるだろうが、
この内輪だけの関係は、同じ志をもつ人たちが、少人数だからこそ、
互いに精進、切磋琢磨していく関係性でもある、と私は捉えている。

そして、この内輪だけの関係は、とてもオーディオと相性がいい、とも思っている。

けれどそれがオーディオ雑誌の取材、
そしていまではインターネット、ソーシャルメディアによって、
内輪だけの関係に留まることに、かなりの無理を生じさせているのではないか。

多くのオーディオマニアの音を聴いてまわること。
多くのオーディオマニアと知り合うこと。
さらに、その輪を広げていくこと。

悪いこととまでは言わないが、本当にいいことなのだろうか。

内輪だけの関係を大切にしたままであればいい。
けれど、どうもそうではないように、私の目にはうつる。

Date: 2月 19th, 2025
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(おさなオーディオ・その8)

『オーディオと「ネットワーク」(SNS = SESか・その6)』で、
オーディオクラブのことにちょっとだけ触れた。

1980年代のステレオサウンドで、いくつかのオーディオクラブを取材して記事にしている。

これらのオーディオクラブのいくつかは、
記事で紹介されてしばらくしたら、解散してしまった、と聞いている。

その原因も少しだけ聞いているけれど、どこまで本当なのかは、確認していない。

ただ記事になってから解散したという事実だけである。

オーディオ雑誌では昔からマニア訪問記があった。
オーディオクラブを紹介したのは、あまりなかったはずだ。

思うに、オーディオクラブは、元々内輪だけの世界を大切にした人間関係だったはずだ。
それがオーディオ雑誌で取り上げられる。
しかもステレオサウンドで、カラーで取り上げられる。

こうなると、もう内輪だけのことでは済まなくなってきたはず。
ぜひ聴かせてほしい、という人もけっこういただろう。
私も、そのクラブに加わりたい、という人もいたことだろう。
記事になって最初のころは、その反響に驚いていたはずだ。

けれど、その反響は内輪だけの関係を毀していったのではないのか。
それまでクラブ内の序列なんてものはなかったのに、一度記事になってしまうと、
徐々に内からも外からも序列のようなものが形成されていく──、
そんな気がしてならないし、それが解散の原因になっていったのか。

ソーシャルメディアを頭から否定はしないけれど、
当時のオーディオクラブがオーディオ雑誌に取り上げられなくて、
内輪だけの関係を大事にしていったとしても、
ソーシャルメディアにオーディオクラブのまま、一歩でも踏み入ってしまえば、
同じことになってしまうだろう。

Date: 2月 15th, 2025
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(おさなオーディオ・その7)

人は誰しも弱さがある。
なに一つ弱さなんてもったいないと豪語できる人はいるのかもしれないが、
だからと言って、本当にそうなのかは誰にもわからないことだろう。

その弱さを誰かに見られる(見せられる)のは、悪いこととも何とも思わないが、
インターネットの普及、ソーシャルメディアの普及、
スマートフォンの普及、
これらによって増えてきたと感じているのは、
自分の弱さを誰かに見せつける人である。

世間一般で、そんなふうに感じるようになってきているが、
オーディオに限っても、同じに感じている。

弱さを誰かに見せつけているとしか思えない人は、慰めて欲しいのか。
特別扱いして欲しいのか。

いい歳した大人のオーディオマニアがそうだったりすると、
これもおさなオーディオなんだなぁ……、と思うだけでなく、オーディオは元々内輪だけの世界だったところに、
外向きといえるインターネットが登場したことに、
いまだうまく対応できていない人が多いのかもしれない──、
そんなふうに思料したところで、
何が変って良くなっていくことがあるのか。

Date: 1月 21st, 2025
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNS = SESか・その24)

兵庫県で、ここ一年ほどのあいだに起こっている事象は、
悪意をベースにしたSES(Social Experiment System)のように思えてしかたない。

SNS(Social Networking Service)を中心とした実験場で、
何かが浮き彫りになるのだろうか。

Date: 12月 30th, 2024
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNS = SESか・その23)

ソーシャルメディアを眺めていると、フォローしていない人の投稿でも、
ソーシャルメディア側のおせっかいで表示される。

オーディオのことに関しても、そんなふうにほぼ毎日、何かしらの投稿が表示される。

そんな投稿とコメントを読んでいると、この人は何も確認しないのか──、と思うことがしばしばある。

具体的にどういうコメントだったのかを挙げるのはやめておくが、
製品知識として広く知られていることですら、
そこではなかったことのように語られていて、
おかしな方向に話が進むことが少なくない。

しかもコメントしている人の誰も、そのことを指摘しない。
ならばお前がコメントしろ、と言われだろう。
しようかな、と思いつつも、もういいや、という気持もあって、
何もせずに、ここで触れているだけだ。

これも集合知である。

Date: 11月 21st, 2024
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNS = SESか・その22)

インターネットでの検索に熱心な人がいる。
関心のあることをインターネットでずっと検索している。

彼は何を検索しているのか。
真実を追求しているのだ、と彼は答えるだろう。
そう思い込んでいるのだから、
彼に対して、いえることは何もない。

彼は真実だと思い込んでいる。
けれど、それは真実ではなく、彼が信じている事であって、
それは真実というよりも信実でしかない。

そのことに彼が気づく日が来るのかは、わからないし、
インターネットにも、その答は存在しない。

Date: 7月 25th, 2024
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNS = SESか・その21)

不気味の谷。
この言葉を目にするたびに最近おもうのは、
不寛容の谷である。

不気味の谷の横軸は写実性だが、
不寛容の谷の横軸は、利便性ではないだろうか。

Date: 4月 9th, 2024
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNS = SESか・その20)

 ひとは誤った見解を得るために戦い、論争しているようなものだ。そして世界は、その間じっと沈黙していて、これらの見解に一瞥すらあたえない。言い換えれば、ひとは戦いの身がまえに執着してはならない。あらゆる論争はとどのつまり非生産的であり、また非生産的にする。
     *
「フルトヴェングラー 音楽ノート」に、そう書いてある。
フルトヴェングラーの時代に、もちろんソーシャルメディアはなかった、
インターネットもなかった。

フルトヴェングラーは、いまの時代を、どう見るのだろうか──、
と問う必要はないだろう。

Date: 2月 16th, 2024
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(おさなオーディオ・その6)

(その4)で引用している五味先生の文章。
ここでもう一度引用しておく。
     *
 私に限らぬだろうと思う。他家で聴かせてもらい、いい音だとおもい、自分も余裕ができたら購入したいとおもう、そんな憧憬の念のうちに、実は少しずつ音は美化され理想化されているらしい。したがって、念願かない自分のものとした時には、こんなはずではないと耳を疑うほど、先ず期待通りには鳴らぬものだ。ハイ・ファイに血道をあげて三十年、幾度、この失望とかなしみを私は味わって来たろう。アンプもカートリッジも同じ、もちろんスピーカーも同じで同一のレコードをかけて、他家の音(実は記憶)に鳴っていた美しさを聴かせてくれない時の心理状態は、大げさに言えば美神を呪いたい程で、まさしく、『疑心暗鬼を生ず』である。さては毀れているから特別安くしてくれたのか、と思う。譲ってくれた(もしくは売ってくれた)相手の人格まで疑う。疑うことで──そう自分が不愉快になる。冷静に考えれば、そういうことがあるべきはずもなく、その証拠に次々他のレコードを掛けるうちに他家とは違った音の良さを必ず見出してゆく。そこで半信半疑のうちにひと先ず安堵し、翌日また同じレコードをかけ直して、結局のところ、悪くないと胸を撫でおろすのだが、こうした試行錯誤でついやされる時間は考えれば大変なものである。深夜の二時三時に及ぶこんな経験を持たぬオーディオ・マニアは、恐らくいないだろう。したがって、オーディオ・マニアというのは実に自己との闘い──疑心や不安を克服すべく己れとの闘いを体験している人なので、大変な精神修養、試煉を経た人である。だから人間がねれている。音楽を聴くことで優れた芸術家の魂に触れ、啓発され、あるいは浄化され感化される一方で、精神修養の場を持つのだから、オーディオ愛好家に私の知る限り悪人はいない。おしなべて謙虚で、ひかえ目で、他人をおしのけて自説を主張するような我欲の人は少ないように思われる。これは知られざるオーディオ愛好家の美点ではないかと思う。
(「フランク《オルガン六曲集》より」
     *
《おしなべて謙虚で、ひかえ目で、他人をおしのけて自説を主張するような我欲の人は少ないように思われる》、
けれど、ソーシャルメディアを眺めていると、
現実はずいぶんと違うようだ、と思わざるをえない。

どうしてなのか。
我欲のかたまりの人は、おそらく心に近い音を聴いていない、
知らない、そんな音を求めていないのではないのか。

いつまでも耳に近い音だけを求めている。
おさなオーディオの域に居続けている人たちなのだろう。

Date: 3月 24th, 2023
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNS = SESか・その19)

○○○の△△△とあったら、
それがオーディオについてのことだったら、
○○○はブランド(メーカー)、△△△には型番が入るとも、ふつうは思う。

JBLの4343とかジャーマン・フィジックスのTroubadour 40といったふうにだ。

ところが、数日前にソーシャルメディアに表示された投稿を見ていたら、
△△△のところが価格になっていた。

○○○の百万円のアンプとか、○○○の百五十万円のCDプレーヤー、
そんな書き方だった。

○○○の百万円のアンプでも、それがどの製品なのかはわかる。
過去の製品も含めると、百万円のアンプは数機種がそこにあてはまったするが、
現行製品もしくは近年の製品となると、どの製品なのかはわかる。

型番を書いていることと同じことといえば、そうなのだが、
ならばなぜ、この投稿者はこんな書き方をするのだろうか、と思う。

素直に型番を書けばすむところを、型番ではなく価格を書くのはどうしてなのか。
それだけ高価なオーディオ機器をいくつも、自分は所有していると自慢したいのか。

それならば、素直に型番を書けばいいことだ。
ブランド名と型番が書いてあれば、その製品がいくらなのかは、
たいていのオーディオマニアはすぐにわかることなのだから。

高価なオーディオ機器を購入するのは、本人の努力の証しともいえる。
なのだから、自分はこんなオーディオ機器を持っている、
それらのオーディオ機器で聴いていることを自慢したい気持はわかるし、
そのことをとやかくいうつもりはない。

くどいようだが、なぜ型番ではなく価格を、そこに書くのか。
どんな理由が、どんな意味があるのだろうか。

Date: 1月 11th, 2023
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNS = SESか・その18)

その17)で書いたことは、
別項『オーディオマニアの「役目」、そして「役割」』と、
私のなかでは深く関係していることだ。

Date: 1月 9th, 2023
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNS = SESか・その17)

オーディオ雑誌の読者相談コーナーが、
インターネット(ソーシャルメディア)に移っただけ、と書いたのは、
相談内容だけが当時とあまり変らないと感じたからであるし、
その回答についておもうことがあるからだ。

昔のオーディオ雑誌にあった読者相談コーナーは、
ステレオサウンドの編集という仕事柄、目は通していた。

すべてに目を通していたとはいえないけれど、
編集部に届く雑誌の、そのコーナーは眺めていた。

けれど、感心するような質問があったという記憶はない。
質問内容がそうなのだから、回答も推して知るべしだった。

ソーシャルメディアでの相談も、そうだ。
なぜ、こんな質問をするのか──、とつい思ってしまう。
まわりに、誰もオーディオのことを話せる相手がいないのか。

そういえば、以前、菅野先生からきいたことを思い出す。
地方の若い世代の人は、友人知人にオーディオに関心がある、といえないとのことだった。
カミングアウトにも近いものを感じて、のことなのだそうだ。

いまはそうなのかもしれない。
そうだとしたら、ソーシャルメディアで、そんな質問をする人も、
友人知人にオーディオに関心があるといえないのかもしれない。

関心があると周りにいえる人でも、周りにオーディオに関心がある人先輩はいない可能性は、
いまの時代、ないとはいえない。

だからソーシャルメディアを利用するのか。
ただ感じるのは、回答のレベルの低さというか、
なんとなげやりな回答なのか、と思うこともある。

そんな回答をするぐらいならば黙っておけ、といいたくなる。
そんななげやりな回答をした本人は、明快な答を返したとでも自惚れているのか。

こんなレベルだったら、まだ昔のオーディオ雑誌の相談コーナーのほうがましだ。

Date: 12月 31st, 2022
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNS = SESか・その16)

別項でも引用したことを、ここでもしておこう。
スイングジャーナル 1972年8月号のオーディオ相談室に、こんな質問が読者から寄せられている。
     *
質問:トリオPC300、TW61でサンスイSP100を6畳洋間にて鳴らす。20万円台でグレード・アップしたいが、アンプとスピーカーをそろえたいと思っています。店でジムテックの音を聴いてみて、好みにあった音なのでNo.1000を予定。ラックス507Xに組み合わせようと思いますが、SJでジムテックをとりあげないのはなぜでしょうか。音も評判もいいと思いますが。
回答:組み合わせに対してのお答えは、キミがイイと思ったらそれが一番イイ。ひとにいいといわれたってその気になれるもんじゃないし、やはり自主性、主体性がなにより先決なのは人生すべてそう。
「ジムテック」についても自主性、主体性の欠如が問題なのであって、音の良し悪し以前の問題。商品として、金をとって売る品物としての自主性が完全に欠如しているのでは? ひとの名声の無断借用的根性が、SJをしてとりあげさせない理由だろう。音楽にひたる心のふれあいのひとときを演出するのが、ハイファイ・パーツ。そこに気になるものがわずかなりとも存在することに平気なら、どうぞジムテックを。何10万もする高価な海外製品を使うのも心の安らぎと、ぜいたくに過ごしたいという夢からなのだ。ハイファイというのはそういうぜいたくが必要なのである。しかし、それはたとえ少しでもまがい者的ではいけないのだ。
     *
回答者は岩崎先生である。
こんなふうに答えてくれる人は、あまりいなかった。
ゼロとはいわないけれど、
オーディオ雑誌の読者相談コーナーの担当オーディオ評論家は、
こういう質問に対して、岩崎先生のような答をする人は、ほぼいなかった。

たいていは、その組合せはいい、とか、アンプ(もしくはスピーカー)は別のモノにしたほうがいい、
そんな感じの回答が大半だった。

あのころはオーディオ雑誌には、読者相談コーナーはあたりまえのようにあった。
このコーナーが消えていったのはいつごろからなのだろうか。

なくなってよかった、と私は思っている。
けれど、オーディオ雑誌からはなくなっていたが、
結局、インターネット(ソーシャルメディア)に移っただけのようだ。

回答するのはオーディオ評論家ではない。
そのソーシャルメディアに参加しているオーディオマニアの人たちだ。
といっても、回答する人の顔ぶれは決っているようでもある。

私は、ソーシャルメディアのオーディオのグループには、
海外の自作関係のいくつかとSAE、GAS関係のもののいくつかには参加しているけれど、
日本のオーディオのグループには参加していない。

それでもソーシャルメディアでつながりのある人が、
そういうグループで投稿したりコメントしたりする表示される。

そういう投稿とコメントを、今年は何回か見た。
見たかったわけではないが、表示されるので眺める。

Date: 6月 29th, 2022
Cate: 「ネットワーク」

dividing, combining and filtering(その4)

ステレオサウンド 223号の「オーディオの殿堂」で殿堂入りした製品を眺めていると、
分岐点(dividing)と統合点(combining)、それに濾過(filtering)、
これらの視点が編集部には欠けているのだな、と感じてしまう。