オーディオと「ネットワーク」(SNS = SESか・その24)
兵庫県で、ここ一年ほどのあいだに起こっている事象は、
悪意をベースにしたSES(Social Experiment System)のように思えてしかたない。
SNS(Social Networking Service)を中心とした実験場で、
何かが浮き彫りになるのだろうか。
兵庫県で、ここ一年ほどのあいだに起こっている事象は、
悪意をベースにしたSES(Social Experiment System)のように思えてしかたない。
SNS(Social Networking Service)を中心とした実験場で、
何かが浮き彫りになるのだろうか。
ソーシャルメディアを眺めていると、フォローしていない人の投稿でも、
ソーシャルメディア側のおせっかいで表示される。
オーディオのことに関しても、そんなふうにほぼ毎日、何かしらの投稿が表示される。
そんな投稿とコメントを読んでいると、この人は何も確認しないのか──、と思うことがしばしばある。
具体的にどういうコメントだったのかを挙げるのはやめておくが、
製品知識として広く知られていることですら、
そこではなかったことのように語られていて、
おかしな方向に話が進むことが少なくない。
しかもコメントしている人の誰も、そのことを指摘しない。
ならばお前がコメントしろ、と言われだろう。
しようかな、と思いつつも、もういいや、という気持もあって、
何もせずに、ここで触れているだけだ。
これも集合知である。
インターネットでの検索に熱心な人がいる。
関心のあることをインターネットでずっと検索している。
彼は何を検索しているのか。
真実を追求しているのだ、と彼は答えるだろう。
そう思い込んでいるのだから、
彼に対して、いえることは何もない。
彼は真実だと思い込んでいる。
けれど、それは真実ではなく、彼が信じている事であって、
それは真実というよりも信実でしかない。
そのことに彼が気づく日が来るのかは、わからないし、
インターネットにも、その答は存在しない。
不気味の谷。
この言葉を目にするたびに最近おもうのは、
不寛容の谷である。
不気味の谷の横軸は写実性だが、
不寛容の谷の横軸は、利便性ではないだろうか。
ひとは誤った見解を得るために戦い、論争しているようなものだ。そして世界は、その間じっと沈黙していて、これらの見解に一瞥すらあたえない。言い換えれば、ひとは戦いの身がまえに執着してはならない。あらゆる論争はとどのつまり非生産的であり、また非生産的にする。
*
「フルトヴェングラー 音楽ノート」に、そう書いてある。
フルトヴェングラーの時代に、もちろんソーシャルメディアはなかった、
インターネットもなかった。
フルトヴェングラーは、いまの時代を、どう見るのだろうか──、
と問う必要はないだろう。
(その4)で引用している五味先生の文章。
ここでもう一度引用しておく。
*
私に限らぬだろうと思う。他家で聴かせてもらい、いい音だとおもい、自分も余裕ができたら購入したいとおもう、そんな憧憬の念のうちに、実は少しずつ音は美化され理想化されているらしい。したがって、念願かない自分のものとした時には、こんなはずではないと耳を疑うほど、先ず期待通りには鳴らぬものだ。ハイ・ファイに血道をあげて三十年、幾度、この失望とかなしみを私は味わって来たろう。アンプもカートリッジも同じ、もちろんスピーカーも同じで同一のレコードをかけて、他家の音(実は記憶)に鳴っていた美しさを聴かせてくれない時の心理状態は、大げさに言えば美神を呪いたい程で、まさしく、『疑心暗鬼を生ず』である。さては毀れているから特別安くしてくれたのか、と思う。譲ってくれた(もしくは売ってくれた)相手の人格まで疑う。疑うことで──そう自分が不愉快になる。冷静に考えれば、そういうことがあるべきはずもなく、その証拠に次々他のレコードを掛けるうちに他家とは違った音の良さを必ず見出してゆく。そこで半信半疑のうちにひと先ず安堵し、翌日また同じレコードをかけ直して、結局のところ、悪くないと胸を撫でおろすのだが、こうした試行錯誤でついやされる時間は考えれば大変なものである。深夜の二時三時に及ぶこんな経験を持たぬオーディオ・マニアは、恐らくいないだろう。したがって、オーディオ・マニアというのは実に自己との闘い──疑心や不安を克服すべく己れとの闘いを体験している人なので、大変な精神修養、試煉を経た人である。だから人間がねれている。音楽を聴くことで優れた芸術家の魂に触れ、啓発され、あるいは浄化され感化される一方で、精神修養の場を持つのだから、オーディオ愛好家に私の知る限り悪人はいない。おしなべて謙虚で、ひかえ目で、他人をおしのけて自説を主張するような我欲の人は少ないように思われる。これは知られざるオーディオ愛好家の美点ではないかと思う。
(「フランク《オルガン六曲集》より」
*
《おしなべて謙虚で、ひかえ目で、他人をおしのけて自説を主張するような我欲の人は少ないように思われる》、
けれど、ソーシャルメディアを眺めていると、
現実はずいぶんと違うようだ、と思わざるをえない。
どうしてなのか。
我欲のかたまりの人は、おそらく心に近い音を聴いていない、
知らない、そんな音を求めていないのではないのか。
いつまでも耳に近い音だけを求めている。
おさなオーディオの域に居続けている人たちなのだろう。
○○○の△△△とあったら、
それがオーディオについてのことだったら、
○○○はブランド(メーカー)、△△△には型番が入るとも、ふつうは思う。
JBLの4343とかジャーマン・フィジックスのTroubadour 40といったふうにだ。
ところが、数日前にソーシャルメディアに表示された投稿を見ていたら、
△△△のところが価格になっていた。
○○○の百万円のアンプとか、○○○の百五十万円のCDプレーヤー、
そんな書き方だった。
○○○の百万円のアンプでも、それがどの製品なのかはわかる。
過去の製品も含めると、百万円のアンプは数機種がそこにあてはまったするが、
現行製品もしくは近年の製品となると、どの製品なのかはわかる。
型番を書いていることと同じことといえば、そうなのだが、
ならばなぜ、この投稿者はこんな書き方をするのだろうか、と思う。
素直に型番を書けばすむところを、型番ではなく価格を書くのはどうしてなのか。
それだけ高価なオーディオ機器をいくつも、自分は所有していると自慢したいのか。
それならば、素直に型番を書けばいいことだ。
ブランド名と型番が書いてあれば、その製品がいくらなのかは、
たいていのオーディオマニアはすぐにわかることなのだから。
高価なオーディオ機器を購入するのは、本人の努力の証しともいえる。
なのだから、自分はこんなオーディオ機器を持っている、
それらのオーディオ機器で聴いていることを自慢したい気持はわかるし、
そのことをとやかくいうつもりはない。
くどいようだが、なぜ型番ではなく価格を、そこに書くのか。
どんな理由が、どんな意味があるのだろうか。
(その17)で書いたことは、
別項『オーディオマニアの「役目」、そして「役割」』と、
私のなかでは深く関係していることだ。
オーディオ雑誌の読者相談コーナーが、
インターネット(ソーシャルメディア)に移っただけ、と書いたのは、
相談内容だけが当時とあまり変らないと感じたからであるし、
その回答についておもうことがあるからだ。
昔のオーディオ雑誌にあった読者相談コーナーは、
ステレオサウンドの編集という仕事柄、目は通していた。
すべてに目を通していたとはいえないけれど、
編集部に届く雑誌の、そのコーナーは眺めていた。
けれど、感心するような質問があったという記憶はない。
質問内容がそうなのだから、回答も推して知るべしだった。
ソーシャルメディアでの相談も、そうだ。
なぜ、こんな質問をするのか──、とつい思ってしまう。
まわりに、誰もオーディオのことを話せる相手がいないのか。
そういえば、以前、菅野先生からきいたことを思い出す。
地方の若い世代の人は、友人知人にオーディオに関心がある、といえないとのことだった。
カミングアウトにも近いものを感じて、のことなのだそうだ。
いまはそうなのかもしれない。
そうだとしたら、ソーシャルメディアで、そんな質問をする人も、
友人知人にオーディオに関心があるといえないのかもしれない。
関心があると周りにいえる人でも、周りにオーディオに関心がある人先輩はいない可能性は、
いまの時代、ないとはいえない。
だからソーシャルメディアを利用するのか。
ただ感じるのは、回答のレベルの低さというか、
なんとなげやりな回答なのか、と思うこともある。
そんな回答をするぐらいならば黙っておけ、といいたくなる。
そんななげやりな回答をした本人は、明快な答を返したとでも自惚れているのか。
こんなレベルだったら、まだ昔のオーディオ雑誌の相談コーナーのほうがましだ。
別項でも引用したことを、ここでもしておこう。
スイングジャーナル 1972年8月号のオーディオ相談室に、こんな質問が読者から寄せられている。
*
質問:トリオPC300、TW61でサンスイSP100を6畳洋間にて鳴らす。20万円台でグレード・アップしたいが、アンプとスピーカーをそろえたいと思っています。店でジムテックの音を聴いてみて、好みにあった音なのでNo.1000を予定。ラックス507Xに組み合わせようと思いますが、SJでジムテックをとりあげないのはなぜでしょうか。音も評判もいいと思いますが。
回答:組み合わせに対してのお答えは、キミがイイと思ったらそれが一番イイ。ひとにいいといわれたってその気になれるもんじゃないし、やはり自主性、主体性がなにより先決なのは人生すべてそう。
「ジムテック」についても自主性、主体性の欠如が問題なのであって、音の良し悪し以前の問題。商品として、金をとって売る品物としての自主性が完全に欠如しているのでは? ひとの名声の無断借用的根性が、SJをしてとりあげさせない理由だろう。音楽にひたる心のふれあいのひとときを演出するのが、ハイファイ・パーツ。そこに気になるものがわずかなりとも存在することに平気なら、どうぞジムテックを。何10万もする高価な海外製品を使うのも心の安らぎと、ぜいたくに過ごしたいという夢からなのだ。ハイファイというのはそういうぜいたくが必要なのである。しかし、それはたとえ少しでもまがい者的ではいけないのだ。
*
回答者は岩崎先生である。
こんなふうに答えてくれる人は、あまりいなかった。
ゼロとはいわないけれど、
オーディオ雑誌の読者相談コーナーの担当オーディオ評論家は、
こういう質問に対して、岩崎先生のような答をする人は、ほぼいなかった。
たいていは、その組合せはいい、とか、アンプ(もしくはスピーカー)は別のモノにしたほうがいい、
そんな感じの回答が大半だった。
あのころはオーディオ雑誌には、読者相談コーナーはあたりまえのようにあった。
このコーナーが消えていったのはいつごろからなのだろうか。
なくなってよかった、と私は思っている。
けれど、オーディオ雑誌からはなくなっていたが、
結局、インターネット(ソーシャルメディア)に移っただけのようだ。
回答するのはオーディオ評論家ではない。
そのソーシャルメディアに参加しているオーディオマニアの人たちだ。
といっても、回答する人の顔ぶれは決っているようでもある。
私は、ソーシャルメディアのオーディオのグループには、
海外の自作関係のいくつかとSAE、GAS関係のもののいくつかには参加しているけれど、
日本のオーディオのグループには参加していない。
それでもソーシャルメディアでつながりのある人が、
そういうグループで投稿したりコメントしたりする表示される。
そういう投稿とコメントを、今年は何回か見た。
見たかったわけではないが、表示されるので眺める。
ステレオサウンド 223号の「オーディオの殿堂」で殿堂入りした製品を眺めていると、
分岐点(dividing)と統合点(combining)、それに濾過(filtering)、
これらの視点が編集部には欠けているのだな、と感じてしまう。
昨年12月、「2021年をふりかえって(その17)」を書いた。
オーディオマニアがオーディオ機器を購入する。
そのオーディオ機器が自宅に届くことを、着弾と表現するのは、
違和感をおぼえることでしかなかった。
そのことを書いている。
昨年は着弾を目にすることが多かった。
私がソーシャルメディアでフォローしている人もだが、
そのフォローしている人がリツイートしている投稿でも、何度も見かけた。
今年は、それが増えていくことだろう……、と昨年末は思っていた。
いまのところ、あまり見かけていないどころか、
2月24日以降、まったく見かけていない。
私が眺めている範囲においてではあるのだが、着弾という表現を使う人はいない。
facebookページの「岩崎千明/ジャズ・オーディオ」。
去年の夏以降、「いいね!」の数が増えてきている。
更新もさっぱりやっていないので、それ以前は、
新たな「いいね!」がつくことは、まずなかった。
夏以降、更新を再開したわけでもない。
なのに「いいね!」が数件ある日もあれば、
数日続いての「いいね!」があったりする。
理由はわからないけど、いいことではある。
《卑怯者は、安全な時だけ威たけ高になる》
ゲーテ格言集(新潮文庫)に、そうある。
ゲーテの時代から、何も変っていない。
インターネット以前は、あることに関する情報が、
どこにあるのかを知っているだけで、そのことの専門家とみられることがあった。
情報のありかはどうなのか。
インターネット以前は、そのことから調べなくてはならないことが多かった。
ここまでインターネットが普及しただけでなく、
SNS(ソーシャルメディア)の普及は、情報をありかを調べる(探す)ことは、
ほとんどなくなった、といっていい。
インターネット以前は、だから情報のありかを知っているだけの人が、
偉そうにしていたことすらあった。
ほかの世界ではどうだったのかは知らないが、オーディオの世界ではそうだった。
でも、情報のありかを知る人みながそうだったわけではない。
いとも簡単に教えてくれる人も、また多かった。
もったいぶるだけもったいぶって教えない、というのは問題外なのだが、
情報のありかをなかなか教えない、という人を、全面的に否定したいわけではない。
少なくとも、その人は調べる(探す)ことに、それなりの努力をしているわけだ。
いまでは、そうではなくなりつつある。
情報のありかを調べる(探す)能力を、
ほぼ失いつつある人が増えてくる(増えている)だろう。
情報のありかはすぐにわかるのだから、
そんな能力は、これから先は必要ではなくなる──、
ほんとうにそうなのだろうか。
そして、私が知識過剰だと感じる人は、
実のところ、情報のありかを自分で探し出すことができない人のような気がする。