オーディオと「ネットワーク」(ゲーテ格言集より)
《卑怯者は、安全な時だけ威たけ高になる》
ゲーテ格言集(新潮文庫)に、そうある。
ゲーテの時代から、何も変っていない。
《卑怯者は、安全な時だけ威たけ高になる》
ゲーテ格言集(新潮文庫)に、そうある。
ゲーテの時代から、何も変っていない。
インターネット以前は、あることに関する情報が、
どこにあるのかを知っているだけで、そのことの専門家とみられることがあった。
情報のありかはどうなのか。
インターネット以前は、そのことから調べなくてはならないことが多かった。
ここまでインターネットが普及しただけでなく、
SNS(ソーシャルメディア)の普及は、情報をありかを調べる(探す)ことは、
ほとんどなくなった、といっていい。
インターネット以前は、だから情報のありかを知っているだけの人が、
偉そうにしていたことすらあった。
ほかの世界ではどうだったのかは知らないが、オーディオの世界ではそうだった。
でも、情報のありかを知る人みながそうだったわけではない。
いとも簡単に教えてくれる人も、また多かった。
もったいぶるだけもったいぶって教えない、というのは問題外なのだが、
情報のありかをなかなか教えない、という人を、全面的に否定したいわけではない。
少なくとも、その人は調べる(探す)ことに、それなりの努力をしているわけだ。
いまでは、そうではなくなりつつある。
情報のありかを調べる(探す)能力を、
ほぼ失いつつある人が増えてくる(増えている)だろう。
情報のありかはすぐにわかるのだから、
そんな能力は、これから先は必要ではなくなる──、
ほんとうにそうなのだろうか。
そして、私が知識過剰だと感じる人は、
実のところ、情報のありかを自分で探し出すことができない人のような気がする。
私が知識過剰だと感じる人は、どうして攻撃的なところを、
インターネットで見せるのだろうか──、
その理由のはっきりとしたところはわからないけれど、
ただ感じているのは、その人からは、いわゆる力を感じないことと関係しているように思う。
ここでの力とは、オーディオの力ということになるが、
ではオーディオの力とはどういうことなのか、となると、難しい。
例えば高価なオーディオ機器を次々と買える人は、経済力という力がある。
重量級のオーディオ機器をひょいと持ちあげる人は、文字通りの力持ちである。
ここでいう力とは、そういう力ではない。
オーディオ力と書いてしまうと、よけいに混乱させてしまうだろうが、
私がいいたいのは、そういうことである。
その人の音を聴かなくとも、何度かオーディオのことを話す機会があれば、
感じとれるものだ。
オーディオ力は、最初からあるわけではない。
オーディオに興味をもったばかりの人が、オーディオ力を持っていなくても当然であり、
そういう人を知識過剰とは感じない。
知識過剰と感じてしまうオーディオマニアは、
オーディオのキャリアも長くて、
オーディオに関することさまざまなことに積極的でありながらも、
いざ話してみると、底の浅さが透けて見えてしまう人といったらいいのだろうか。
本人が、そのへんのところはいちばんに感じているのかもしれない。
強がっているようなところを感じるからだ。
その強がるところを、インターネットは補強してくれる、武装してくれる──、
そしてますます知識過剰になっていく。
力を身につけることなく、である。
その個人サイトの主宰者は、私よりもひとまわりくらい若かったはずだ。
マスコミ関係ということも、自身のサイトのプロフィール欄に、会社名があった。
誰もが知る、大手のマスコミである。
さらにそのころ、あるオーディオ雑誌に執筆もしていた。
でも二号ぐらいで、それ以降は、その人の名前は目にしなくなった。
前後してサイトも閉じられたようだ。
何があったのかは知らない。
本業が忙しくなっただけなのかもしれない。
副業が認められない会社だったのかもしれない。
何がいいたいのかというと、その人は、おそらく有名大学を卒業して、
大手マスコミに就職。その人の文章は破綻のない、きちんとしたものだった。
そういう人でも、間違った情報を信じてしまっている、ということである。
自分が信用している人のいっていることを、どこまでも信用するという姿勢は、
ある意味立派といえるけれど、少なくとも二人の第三者が違っている、と指摘したことを、
自分で調べることなく、信用している人のいっていることだから、を譲らない。
どんな人にも記憶違いや間違いはあるはずなのにだ。
マスコミ関係といっても、検証することが強く求められている会社のはずだ。
そういう会社に勤務していても、仕事では検証、再検証されていたのかもしれないが、
趣味の分野となると、そうではなくなるのだろうか。
趣味だから、個人の勝手、自由だろう、と開き直ることもできる。
けれど、その人は短期間とはいえ、オーディオ雑誌に執筆していた。
ニュースで、いろんな詐欺事件のことが流れてくる。
なかには、こういう詐欺に騙される人がいるのか、と思うこともあるけれど、
案外、意外なところで人は騙されてしまうのかもしれない。
その人に、A80のことを話した人に騙すつもりはなかったはずだ。
でも結果としてウソを教えていることになり、
そのウソをひたすら信じ込んでいる人がいた、ということ。
こんなことはどうでもいいことなのだろうか。
このことは、たまたま知っているだけなのだが、
こういう事例は意外にも多いのではないだろうか。
そういえば、と思い出したことがひとつある。
インターネットを始めて二年くらいの時だったか、
まだaudio sharingをつくる前のことだったから、1998年か99年のころだったはずだ。
それまで少なかったオーディオの個人サイトも増え始めてきた。
そのころは、そういった個人サイトを見てまわるのが楽しみだった。
facebookもtwitter、ブログもまだだったころの話だ。
そのころの個人サイトの多くには掲示板が設けられていることも、また多かった。
その個人サイトにも、掲示板はあった。
ある個人サイトを見つけた。
マスコミ関係の人が公開していたサイト(いまはなくなっている)で、
個人サイトにしては、きちんとつくられた感じがしていた。
ここにも掲示板はあった。
そこでスチューダーのA80のことが話題になっていた。
その個人サイトの主宰者は、A80のエレクトロニクス関係は、
マーク・レヴィンソンによる設計だ、と書いていた。
スチューダーのA80と、
A80のトランスポートを利用して、エレクトロニクスをつくりかえたマークレビンソンのML5とが、
完全にごっちゃになっての記述だった。
気になったので、ML5のことを説明しておいた。
すると、そんなことはない、あなたが間違っている、という返事が、主宰者からあった。
なんでせ、その人がもんとも信用しているオーディオに詳しい人がそういっていたから、
というのが、その人の主張だった。
別の方が、主宰者がいっているのはML5のことですよ、と書き込まれた。
それでも主宰者は、A80のエレクトロニクスはマーク・レヴィンソンの設計だ、と譲らない。
しかもマーク・レヴィンソンはエンジニアではない、と説明してもだ。
これ以上書いても時間のムダ、と判断して、書き込むことはやめた。
一週間ほどして、どうなったのかなぁ、その人が信用している人に確認したのかも、
と思ってのぞいてみたら、
私と、Ml5ですよ、いっていた人の書き込みが削除されていた。
オーディオについて、けっこう知識を持っている人は少なくない。
でも、そんな人と話していると、「この人は知識過剰だな」と感じることがある。
知識量が豊富だから、そんなふうに感じるとはかぎらない。
同じくらいの知識量をもっていると思われる別のオーディオマニアと話していると、
そんなふうに感じないことがあるからだ。
もちろん、二人のオーディオマニアの、本当の知識量が正確に把握できているわけではない。
話していることから、なんとなく感じているだけのことなのだが、
それでも、「この人も知識過剰だな」と感じることがあるのは、なぜなのだろうか。
知識量が同じでも、知識の質が違うから、そう感じるのではないように思う。
オーディオの経験量と知識量のバランスがとれていないから、そう感じるのだろうとは思っている。
知識過剰と感じさせる人は、結局、器が小さいのだろう。
と同時に、知識過剰だな、と感じさせる人は、どちらかといえば攻撃的なのではないだろうか。
面と向かって話している時はそうではなくても、
インターネットを介しての、顔をみえない、名前もわからない状況下だと、
やたら攻撃的な人がいるけれど、そういう人は知識過剰なのかもしれない。
といっても、インターネット上で攻撃的な人が、どんな人なのかは、
パソコン、スマートフォンの画面越しではなにひとつわかっていない。
なので、私の勝手な想像でしかないのだが、それでも、そういう人のものの言い方をながめていると、
知識過剰なのかも……、と感じてしまう。
そう感じてしまうのは、実際に、そういう人を知っているからである。
誰なのか特定できるような書き方はしたくないが、
その人は知識量は豊富である。
いろんなオーディオ機器を手に入れている。
SNSでも、多くのオーディオマニアとのつながっているし、
つながることにとても積極的である。
いまどきの、熱心なオーディオマニアと、多くの人の目には映るであろう。
SNSでも書き込みも、多くは常識的な範囲のことが多いのだが、
ふとしたきっかけで、非常に攻撃的な書き込みをするのを、何度か見たことがある。
豹変するとまではいかないものの、
この人には、こんな側面があったのか、と少々驚くほどではある。
一人のオーディオマニアの人生も、
分岐点(dividing)と統合点(combining)、それに濾過(filtering)だ、とおもう。
一人で暮らしていると、それは自由と思われがちだし、自由といえることも多い。
あれこれやる時間がたっぷりとある。
でも、それをやるためには、一人でできることもあればそうでないこともある。
一人でできること、とおもえていることであっても、
実のところ、ほんとうに一人でできているのかもなんともいえない。
今年の4月と5月はひとりで過ごすことが大半だっただけに、
このことを強く実感する。
私にとってのオーディオの原点といえる「五味オーディオ教室」。
この本に、
《今日のような情報過多の時代には、情報を集めるより容赦なくそいつを捨てる方向にこそ教養というものが要る》
と書いてある。
「五味オーディオ教室」は1976年に出ている。
1976年より2020年のいまは、もっともっと情報過多の時代である。
情報を集めることは、1976年よりもずっと簡単、手軽になっている。
しかも1976年のころの情報といえば、おもに文字による情報だった。
いまも文字による情報がそうだといえるが、
インターネットは文字だけでなく写真も動画も音も、
電気信号に変換できるものであれば、
スマートフォンの画面とスピーカー、パソコンの画面とスピーカーで伝えることができる。
ということは、それらの厖大な情報を捨てる方向で要る教養は、
1976年のころよりも、ずっと求められることでもある。
では、その教養を身につけるためには、どうするのか。
インターネットに頼る──のか。
誰が読んでいるのかわからない、いいかえると、
どれだけの知識や経験をもっているのかまったく不明な人たちに向けて書くのであれば、
きちんとしたオーディオの知識を身につけておくべきである。
こう書いてしまうと、たいしたことではないように受け止められるかもしれないが、
では、きちんとしたオーディオの知識とは、いったいどの程度のレベルのことなのか。
どれだけの知識をもっていればいいのか。
そのことについて書いていくのは、なかなか難しい。
「重量級のCDプレーヤーは、回転の慣性質量も大きくなるんですかね」の人も、
オーディオの勉強を、まったくしていなかったわけではないだろう。
少なくとも慣性質量という言葉は知っているのだから。
でも、その知識があまりにも断片すぎるのではないのか。
そんな気がする。
断片すぎる、ということは、知識の量が圧倒的に少ない、ということなのか。
そうともいえるし、これは以前書いていることなのだが、
知識の量だけでは理解には到底近づけない。
知識の有機的な統合があってこその理解である。
これはどういうことかというと、
これも以前書いていることのくり返しなのだが、
分岐点(dividing)と統合点(combining)、それに濾過(filtering)だ。
「重量級のCDプレーヤーは、回転の慣性質量も大きくなるんですかね」は、
あきらかに間違いだから即座に否定したわけだが、
もし私が悪意で「そうだよ」といったとしたら、
その人は、「やっぱり! そうですよね!」と大きな声で喜んだはずだ。
オーディオにおいて仮説を立てるのはよくあることだ。
仮説を立てて、検証していくことで学べることはある。
「重量級のCDプレーヤーは、回転の慣性質量も大きくなるんですかね」も、
その人にとっての仮説であったのだろう。
ずいぶん稚拙な仮説ではあっても、その人にとっては大事な仮説だったのかもしれない。
でも、仮説を立てるにも、ある程度の知識は必要となる。
CDの回転がどういう性質のものなのか、大ざっぱにわかっているだけで、
そして慣性とはどういうことなのかを、これも大ざっぱにわかっているだけで、
「重量級のCDプレーヤーは、回転の慣性質量も大きくなるんですかね」という仮説は、
仮説ですらないことに気づくものだ。
私が「そうだよ」といって、周りにいた人が誰も否定しなければ、
その人は、SNSやブログなどに、その仮説は正しかった、と書いたのかもしれない。
インターネット普及前は、こんなことは起らなかった。
間違った仮説を発表できる場は、なかったといえよう。
せいぜいが、その人の親しい人とか、その人にオーディオのことを訊いてくる人に、
話すくらいでしかなかった。
けれど、インターネット普及後は違う。
ここで考えることがある。
オーディオをやっていくうえで、技術的な知識は必要なのか。
私は基本的には必要ない、と考えている。
オーディオのプロフェッショナルになるのであれば技術的知識は必要だが、
そうでなければ、所有しているオーディオ機器を自分で接続して使えるだけの知識があればいい。
ずっとそう思ってきた。けれど状況はインターネットの普及によって変ってきた。
その人が間違っている仮説を、さも正しいことのようにインターネットで公開した、としよう。
ほとんどの人が、まったく相手にしない。
けれどほんのわずかでも、それを信じてしまう人がいる。
そんな人はいないだろう、と思われるかもしれないが、
この項の前半で例に挙げた人は、
CDは角速度一定、アナログディスクは線速度一定という間違いを書いているサイトを、
大半のサイトが正しいことを書いているにも関らず、信じてしまった。
ごく少数ではあっても、あきらかな間違いを信じてしまう人がいる。
しかもインターネットは不特定多数の人に向けての公開である。
母数は、周りにいる人だけの時代よりもずっと大きい。
ある人がCDプレーヤーを、数ヵ月前に買い替えた。
その人は、重量級のCDプレーヤーを購入した、と喜んでいる。
その人が、それまで使っていたCDプレーヤーよりも重量があるから、
その人にとっては確かに重量級といえる(感じる)のだろうが、
重量という数値だけで判断するならば、傍からみれば、それほど重量級ではない。
かといって軽量級ではないのも確かだから、本人が喜んでいることに水を差すことはいわずにいた。
でも、その人がこんなことをいった。
「重量級のCDプレーヤーは、回転の慣性質量も大きくなるんですかね」
CDプレーヤーでもターンテーブル(スタビライザー)をもつモノがある。
エソテリックの製品がそうだし、
47研究所の4704/04 “PiTracer”もそうだ。
古い製品では、パイオニアがPD-Tシリーズもそうだった。
これらの製品であれば、ターンテーブルプラッターの分だけ慣性質量は増す。
けれど、それ以外の大半のCDプレーヤーは、センターをクランプしているだけでディスクを回転させる。
CDプレーヤー本体の重量がどれだけあろうと、
ディスクの回転に関する慣性質量にはまったく関係ない。
それにCDプレーヤーにおいて、
つまり線速度一定の回転系において、慣性質量が増すことのデメリットはある。
もちろんターンテーブルプラッターをもつことで、
ディスクの回転のブレを抑えられるというメリットもある。
「重量級のCDプレーヤーは、回転の慣性質量も大きくなるんですかね」の発言には、
その場にいた複数の人から、つっこみがあった。
その人は「重量級のCDプレーヤーは、回転の慣性質量も大きくなるんですかね」であって、
「重量級のCDプレーヤーは、回転の慣性質量も大きくなるんですよね」ではなかった。
いちおう疑問形になっていたのだから、まだいいほうなのかもしれない。
でも、その人のなかでは、確信に近かったのではないか、とも感じた。
誰にも勘違いというのはある。
それでも、その人は、(その4)で書いている人と同じにみえる。
同じ人ではない。
(その4)の人と、ここで書いている人は、30以上齢が離れている。
世代はずいぶん離れている。
それでも、どの世代にもいる、ということなのか。
それともたまたまなのか。
オーディオ・マニアというのは実に自己との闘い──疑心や不安を克服すべく己れとの闘いを体験している人、
そこからはるか遠いところにいる人たちが、自身のことをオーディオマニアという。
このことは、ある世代に共通していえることなのか、
それともすべての世代に、こういう人がいるのか。
どうもすべての世代に、少しずついるように感じている。
その人たちの割合が多いのか少ないのかまではわからないが、
そういう人たちが老いていくほどに、ますます遠いところへ向っていく。
若いころは、己れとの闘いの体験も少なかったりするから、
未熟であってもいい──というか、未熟でないほうが逆におかしい。
最初から老成ぶっている若いオーディオマニアがいる。
いつの時代にもいる。
老成ぶることをかっこいい、と思っているのだろうか。
この種の人たちも、己れとの闘いの体験も少なかったりするような気がする──よりも、
もうそこから逃げてしまっている、目を逸らしているのかもしれない。
この種の人たちは、一生、老成ぶったオーディオマニアでいるつもりなのだろうか。
若いころから老成ぶっていた人は、老成することはないだろう。
この人たちも、また「おさなオーディオ」である。
インターネット以前の、互いの音を聴くという行為は、
自分の音をみつめなおすことであった。
そこには、自分の音を認めてほしい、という気持もあったはずだが、
一部の人の、いまほどには大きくなかったのではないか。
それをインターネットが肥大させてしまった。
肥大だけではなく、目覚めさせてしまったところもあるように思える。
オーディオは外に持ち出せるわけではない。
高価なクルマ、時計、バッグなどは外に持ち出せる。
不特定多数の人の目にふれる。
見せびらかすつもりがなくても、そうすることができる。
オーディオは、それは無理だった。
誰かにリスニングルームに来てもらってこそのところがあった。
いまもそのことはまったく変らないけれど、
オーディオ雑誌に掲載されることなく、多くの人の目にふれるようになった。
アクセス数の多い個人サイトをやっている人に来てもらえば、
ほぼ必ずオフ会の様子が公開される。
世間に広く知らしめてほしい、という欲求がある人にとっては、
インターネットはまさしく、その願いをかなえてくれる。
ひどい音であったとしても、ひどい音でした、と書く人は、ほとんどいない。
それは礼儀といえるのか。
五味先生はステレオサウンドの「オーディオ巡礼」で、
ひどい音の場合、一刀両断といえるほどの斬りかたをされる。
それは五味先生ほどの人だからできる、ということではなく、
五味先生自身、斬りかえされることを覚悟してのことだから、と思う。
悪くいった相手から斬りかえされることよりも、
そうでないところからの斬り返しはある──、
そう思っていた方がいい。
まったくよさのない音は、ないのかもしれない。
だからAさんによるBさんの音についての表現は、まったくの創作というわけではない。
それにしても、僅かな美点をそうとうにふくらませての表現であり、
そうでないところにはまったくふれていない。
これはいったい何になるのか。
Bさんにとって励みになるのか、といえばそうだろう。
自分のやってきた音は間違っていないどころか、正しかったとすら思うはずだ。
誇らしげに思っても不思議ではない。
AさんとBさんは親しい関係だ。
BさんはAさんを、人生の先輩、オーディオの先輩として尊敬しているところもある。
それはけっこうなことではあるが、
BさんはAさんの本音を知らないままだ。
知らないまま、その道をつきすすむ。
その結果の音を私は聴いて、絶句した。
それは別項で書いている「間違っている音」であった。
オーディオは自分自身の世界に閉じこもろうとすれば、どこまで閉じこもれるものかもしれない。
だから、昔から人に聴いてもらえ、とか、人の音を聴け、的なことがいわれている。
否定はしない。
しないけれど、そのことはインターネットの登場・普及によって変質してしまった。
以前ならば、聴きにいったり聴きに来てもらったりしたことは、
その二人のあいだのことに留まっていただろう。
それが不特定多数の人に向けて発信できるようになった。
そうなることで変ってしまった。
ある人(Aさんとしておこう)が、ある人(Bさん)のところに行った。
ずいぶん前のことだ。
もちろん二人ともオーディオマニアで、そのころはどちらも自分のサイトを持っていた。
Aさんが、Bさんの音について、自身のサイトで、オフ会の様子を公開した。
ずいぶん褒めているな、と感じた。
Aさん、Bさんとも知人だった。
どちらの音も聴いている。
だからBさんの音を、Aさんは、こんなふうに評価するのか、と不思議に思った。
それからしばらくしてAさんと話すことがあった。
Aさんいわく「 Bさんの音、あれじゃダメだね」と。
サイトで公開したこととずいぶん違うじゃないか、とはいわなかった。
Bさんの音は、確かに、そういう面を多分にもっているからなのだが、
それにしても、この人(Aさん)は、彼のサイトを読んでいる人に対して、
どういう気持で、オフ会のこと、Bさんの音について書いたのだろうか。
親しき仲にも礼儀あり、ということなのかもしれない。
いくらひどいと感じても、そのまま相手に伝えたり、
サイトで、その音について書いたりするのは憚りがある──、と考えてのことだろうか。
ならば黙っておけばいいじゃないか、と私は思う。
社交辞令的な美辞麗句を、自身のサイトで公開する。
Aさんの、その文章をとうぜんだがBさんも読む。
Bさんは嬉しく思ったはずだ。
Bさんを直接知らない、Bさんの音を聴いたことのない、
Aさんのサイトを読んだ人は、Bさんの音は、なるほど素晴らしいのか、と思う。
それは読み手の勘違いではなく、書き手がそう書いているからだ。
これは私が知っている一例なのたが、
ほんとうに一例にすぎないのだろうか。