Archive for category 「ネットワーク」

Date: 2月 23rd, 2020
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNSの選択・その8)

別項「オーディオにおけるジャーナリズム(ウィルソン・ブライアン・キイの著書・その4)」で、
情報というよりメディアがBGM化していると捉えるならば、
background mediaだから、もうひとつのBGMとなる──、と書いた。

同じく(その3)では、情報の垂れ流しについて書いた。

私がSNSへのマルチポスト、
そしてマルチポストを平気でする人に対して嫌悪感をいだくのは、
ここである。

それは情報の垂れ流しであり、BGM(background media)であるからだ。

垂れ流しとは、辞書には、未処理の廃棄物などをたれ流すこと、とある。
未処理の情報もどきも、未処理の老廃物と同じように感じるからだ。

Date: 2月 20th, 2020
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNSの選択・その7)

表現のインフレーションとSNSへのマルチポスト。
ここに共通してくるのは、殊更という感覚なのではないだろうか。

殊更は、2月のaudio wednesdayに来られたデザイナーの坂野さんが、
facebbokにくれたコメントにあったことばだ。

『殊更』とあった。
ふだん、ほとんど意識せずに使っている「ことさら」ではあるが、
『殊更』を見て、今年一年の私にとってのキーワードになっていく予感がした。

オーディオのアクセサリー類を、
屋上屋を重ねるような使い方をしている人はけっこう多い。
私もハタチぐらいのころは、似たようなことをしてきた。

屋上屋を重ねることをやっていたときは、
音がよくなった、と思っていた。

なのにしばらくして、屋上屋を重ねる的なことをすべて取っ払ってしまった音を聴くと、
何をしていたのだろうか、何を聴いていたんだろうか、というおもいにとらわれることもしばしばしあった。

これは、殊更感を増すためにやっていたのではないだろうか。

別項で「時代の軽量化」を書いている。
殊更感が増すほどに、時代の軽量化も進んでいくような気もしている。

その3)で、SNSを眺めていると、
この人は、いったいどういう音を鳴らしているのか、と思ってしまうことを書いた。

オーディオマニアならば、スピーカーとかアンプを交換したときの音の違い、
それもたいていはグレードアップなのだから、音が良くなっているはずなのだから、
そこでの音の良さについて誰かに伝えたくなる気持はある。

そういう文章を読んで、素直に喜びが伝わってくる、と感じるよりも、
最近では、この人は、いったい、どんなにすごい音を出しているのか──、
そんな疑問が先にたつことが増えてきた。

つい先日もtwitterを眺めていて、そうだった。

Date: 2月 9th, 2020
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNS = SESか・その10)

別項「オーディオにおけるジャーナリズム(続×五・編集者の存在とは)」で書いたこと、
「同じ部屋の空気を吸うのもイヤ!! そういう相手と一緒につくっていかないと面白い本はつくれない」、
当時、ステレオサウンドの編集顧問だったKさんのことばだ。

三十数年前にきいた。
そのころは、そういうものだろうか……、ぐらいに受け止めていた。
けれどステレオサウンドを離れて、たしかに本をつくっていくということ、
それも趣味の本をつくっていくということは、そうだ、と実感している。

そんな考え、古すぎる、といわれれば、
「そうかもしれない」といちおうは返事をするだろう。
でも、本音は、このことばをきいたとき以上に、そう思っている。

仲良しクラブ的にやっていきたい人たちにとっては、
頭のおかしい人たちがおかしいこと、悪い冗談を言っている──、
そんなふうにしか受けとらないであろう。

同じ部屋の空気を吸うのもイヤ!!──、そういう人とどうやって仕事をしていくというのか。
その段階で戸惑ってしまうのか。

いまのステレオサウンド編集部が、そうなのか、違うのか。
まったく知らないけれど、誌面から伝わってくる空気からは、
Kさんのことばとは違っていることだろう。

編集部だけでなく、ステレオサウンドに書いている人たちも、そうなのではないのか。
みな仲良しクラブ的にやっているようにみえる。

でも、仲良しクラブ的に、ということは、表面的には、ということであるように感じもしている。

Date: 2月 4th, 2020
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNS = SESか・その9)

ステレオサウンドが、全国のオーディオクラブを取材していたころは、
SNSなんてものは存在していなかった。

SNSはやらない、とはいわない。
やっているし、便利だと感じているところもある。
しばらくは、続けていく。

でも距離はある程度はいつもとっておきたい、とも思う。
SNSで感じられる、距離をとっておきたい、と思うのは、
仲良しクラブ的雰囲気が、どことなく漂ってくるからだ。

仲良きことは美しき哉、
武者小路実篤の、名言といわれているものだ。

けれど、私がSNSから感じている仲良しクラブ的雰囲気は、
美しい、とはとうてい感じられない。

それは仲良しごっこなためなのかもしれない。

オーディオの関係者の仲がいいことは、ほんとうに望ましいことなのか。
オーディオの関係者には、いろんな人たちが含まれる。

オーディオ関係の出版社の人たち。
この人たちも、編集者もいるし、営業・広告の人たちもいる。
広告代理店の人もいる。

オーディオ雑誌になにか書いている人たちもいる。

メーカーの人たちのなかには、開発の人、営業・広報の人がいる。
輸入代理店の人もいる。

販売店の人たちも大勢いる。

そういう人たちが、みな仲良しクラブ的にやっていく──、
それはほんとうに望ましいことなのか。

オーディオの関係者のなかには、
オーディオに関係する人たちみなが仲良くやっていくことはよいことだ──、
そんなことをいっている人がいる、と聞く。

誰なのかは知らないから、どんな人がいっているのか、
どういう意図なのかもわからない。

そこに、わずかな気持悪ささえ感じていないのか。
感じながらも、あえてそんなことを言っているのと、
まったく感じずにいっているのとでは、まるで違う。

Date: 12月 11th, 2019
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNSの選択・その6)

マルチポストをする人は、どこまでいっても変らないのだろう。
ずっとマルチポストを続けていくのだろう。

そういう人とは、もう音楽、オーディオの話はしないのだから、
どうでもいいことなのだが、
それでも、なぜマルチポストをする人はするのか(続けるのか)には興味がある。

直接、本人になぜマルチポストをするのか(続けるのか)を訊いたところで、
要領をえた答が返ってくるとは思っていないし、
極力話をしたくないのだから、やらないわけだ。

ただ思うのは、facebookにしてtwitterにしても、
投稿にタイトルをつけることは、まずない。

基本的にタイトル欄がない。
なくてもつけようと思えば、つけられる。

でも、SNSでタイトルをつけて投稿している人は、
私がフォローしている範囲では見たことがない。

それにタイトルをつけずに投稿できるからこその気軽さがSNSのよさでもあるのだから、
私だってSNSに投稿するに、タイトルをつけることはしない。

ブログは、そこが決定的に違う。
タイトルをつけなければならない。

些細なことなのだが、
タイトルをつけるかつけないのか、
このことがマルチポストをしないのかするのかに関係している気はする。

Date: 12月 10th, 2019
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNS = SESか・その8)

1970年代終りから1980年代なかばにかけてのステレオサウンドは、
全国のオーディオクラブのいくつかを訪問して記事にしている。

そこに登場している集まりは、確かにオーディオクラブだな、と思う。
そう思うのはなぜだろうか、
そしてSNSにあるいくつかのオーディオ関係のグループを、そう思わないのはなぜだろうか。

はっきりとした答を見出したわけではないが、
一つは偏愛ではないだろうか。

オーディオクラブには、偏愛がある。
その偏愛が強いほど、そのオーディオクラブの色は、
記事で読んでもはっきりと伝わってくる。

SNS(facebook)にあるオーディオ関係のグループで、
参加人数が多いところほど、偏愛からは遠いところにある、といえる。

SNSの普及は、
別項の「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」を増やしてきているのではないのだろうか。

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」たちには、
純粋な偏愛はないような気さえする。

偏愛をもっているのかもしれないが、物分りのいい人ぶることを優先するあまり、
認めようとしないのではないのか。

そんなふうに考えみると、
昔のオーディオクラブは、やはり偏愛の人たちの集まりであり、
偏愛の純度を高めたいがために集まっていたのかもしれない。

Date: 12月 9th, 2019
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(情報量・その8)

その7)へのコメントがfacebookであった。
そこには、ヴィンテージオーディオで聴かせるジャズ喫茶での音が、
自然で浸透力が高かった──、
なぜ、オーディオは、この方向に進まなかったのか──。

このことは、別項「うつ・し、うつ・す(その13)」で書き始めた描写力ということと、
深く関係してくることと考えている。

いまヴィンテージオーディオと呼ばれているモノのすべて、とはいわないが、
少なくとも私が名器と感じているオーディオ機器、
特にスピーカーシステムにおいては、描写力に秀でていると感じることが多い。

オーディオは科学技術の産物である。
これは否定できない。
ゆえに技術の進歩としては、描写力という、
人の感性でしか判断できない領域ではなく、写実性という領域を追求することが、
いわば本道であろうし、誤解を招くことになろうが、その方が容易である。

容易である、と書いているが、あくまでも比較してのことである。

同じことではあるが、思い出すことがある。
ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」のマッキントッシュ号。
巻末に「マッキントッシュ対マランツ」という試聴記事が載っている。

そこで菅野先生の発言を思い出す。
     *
菅野 ほんと、そういう感じですよね。この二つは全く違うアンプって感じですな。コルトーのミスタッチは気にならないが、ワイセンベルグのミスタッチは気になるみたいなところがある。
     *
岡先生は《うまい例えだな。これ、ひっくり返したら全然だめだからね》と返されている。

マッキントッシュ号は1976年に出ている。
ここから四十年以上が経っている。
クラシックのピアニストを眺めてみて、コルトーのような演奏家は登場してきただろうか。

Date: 12月 4th, 2019
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(情報量・その7)

情報量ということでいえば、
オーディオの世界だけでなく、社会全体で増えていっていることだけは確かである。

電車に乗れば、周りの人のほとんど、といっていいほどに多くの人が、
スマートフォンで何かしら見ている。

ドアの上部には液晶画面がついていて、なんからの映像が常に流れている。
目的地につけば、自動改札機にも広告が貼られていることが増えている。

いろんなところにいろんな情報が氾濫している。
情報の波(渦)に、大都市になればなるほど晒されている、といっていい。

それからテレビにしても、従来の走査線とは比較にならないほど増しているということは、
それだけ情報量が増えているということである。

新聞の写真にしても、昔はモノクロの粗いものでしかなかったのが、
カラーになり粗さも減っている。

こんなふうにいろんなところで情報量は確実に増していっている。
オーディオの世界では、ハイレゾリューションの登場がまさにそうである。

その一方で、カセットテープのブームもある。
カセットテープの音を聴くと、ほっとする、という記事も複数みかけている。

この、ほっとするは、もしかすると情報量が適度に少ないからなのではないのか。
情報量の多さに、知らず知らずのうちに疲弊しているのかもしれない。

そこに昔馴染んでいたころの適度な情報量で、
音楽を聴けるのがカセットテープという捉え方もできる。

Date: 10月 14th, 2019
Cate: 「ネットワーク」

人工知能的な存在を感じた出来事(その2)

ヤフオク!が、すすめてきたアナログプレーヤーは、Collaroだった。
コラーロの、古いアナログプレーヤーだった。

どこかのオーディオ店ではCollaroをコーラルと表記していた。
とにかく古いメーカーである。

私もコラーロのことはほとんど知らない。
なんとなく知っているくらいで、
いまもイギリスにはCollaro Audioがある。

古さを感じさせるロゴからして、同じコラーロなのだろう。
ただコラーロという会社は一度なくなっていると記憶している。

なのでブランドだけの復活なのかもしれない。
いまのところ、ターンテーブルマットを売っている。

そのコラーロの古いアナログプレーヤーが、ヤフオク!でおすすめとして表示された。
私が検索してきたものと、どういう関連付けから、このプレーヤーを表示してきたのか、
まったく理解できない。

私はコラーロのプレーヤーを欲しい、と思っていたわけではなかった。
ふつうだったら、ヘンなモノを表示してきたな、で終ってしまう。

でもコラーロのプレーヤーだけは違っていた。
コラーロのプレーヤーは、ごく初期のデッカのデコラに採用されていた。

一般的にデコラにはガラードの301が使われている、と思われがちだ。
私もデコラの存在を知ったばかりのころは、301がそうだ、と思い込んでいた。

初期のデコラは違っていた、ということを知ったのは、数年経っていた。

ヤフオク!で、コラーロが出てくるのは、過去にどれくらいあっただろうか。
しかも動くコラーロが出品されるのは、かなり稀なのではないだろうか。

私にしてもコラーロのプレーヤーを見たのは、
デコラについているモノと、数年前にオーディオ店に中古として入荷していたモノぐらいだ。

Date: 10月 13th, 2019
Cate: 「ネットワーク」

人工知能的な存在を感じた出来事(その1)

現在の人工知能と呼ばれているものの実態は、
ディープラーニングだ、といわれている。
処理速度が劇的に向上したからこそのディープラーニングである、とも。

そうなのだろう、となんとなく理解していても、
人工知能と呼びたくなるような機能が、すでにあるような気もしている。

別項「ダイレクトドライヴへの疑問(その34)」で、こんなことを書いている。
     *
ヤフオク!は、「お探しの商品からのおすすめ」をしてくれる。
PL30Lや50Lを眺めていたときに、そこにテクニクスのSL01が表示された。

SL01を検索してもいないのに、それまでの履歴からSL01を表示する。
なんなんだろう、この機能は? と感心するとともに、
少しばかり空恐ろしくなるところでもある。
     *
この時は、パイオニアにしてもテクニクスにしても、
どちらも近い時期に発売されていたダイレクトドライヴ型のアナログプレーヤーである。
価格的にも近い。

なので「お探しの商品からのおすすめ」として、SL01が表示されるのは、
わからないわけではない。
それでも驚いたし、感心もした。

9月、iPhoneにインストールしているヤフオク!を眺めていたら、
「お探しの商品からのおすすめ」に、あるアナログプレーヤーが表示された。

イギリスの、とても古いモデルである。
例えば私が、ガラードのプレーヤーをヤフオク!で検索していたら、
このプレーヤーが表示されても、不思議ではない。

パイオニアのプレーヤーを検索していて、
テクニクスが「お探しの商品からのおすすめ」として表示されるのと同じであろうから。

けれど、私がヤフオク!で、
ここ数ヵ月検索していたのは、
ステレオサウンド 56号での瀬川先生の組合せに関係してくるものばかりである。

なのに、ヤフオク!は、
そのイギリス製のプレーヤーを「お探しの商品からのおすすめ」と表示してきた。

Date: 10月 8th, 2019
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(人脈力・その3)

この項の(その1)は、2014年12月8日に書いている。
出たばかりのステレオサウンド 193号に、人脈力が載っていたから、である。

(その3)はもう少し早く書く予定だった。
なのに放ったらかしにしていたのは、
その後のステレオサウンドに人脈力が登場しなくなったことも関係している。

「難条件を克服するマイシステムの作り方」という記事に、
人脈力は、本文にも見出しにも登場している。

それに、この記事には若い読者も登場していた。
なんとなく、この人たちを、将来の筆者に育てようとしているのか……、
そんなふうに勘ぐりもしたけれど、
そこで終ってしまって、それからは登場していないはずだ。

そんなこともあって、
それに他に書きたいこともあって、(その3)を書かずに四年近く経ってしまった。

思い出したように書いているのは、
SNSへの接し方を眺めていると、
言葉にしていわないけれど、
この人は人脈力を目的としているのか、と思うことがあったためだ。

Date: 10月 6th, 2019
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNSの選択・その5)

自己責任という言葉が頻繁に使われるようになって、
もう十年程が経つのだろうか。

なんとなくでしかないが、自己責任という言葉が登場し、
使われるようになったのと、インターネットの普及はどこかに関係があるのかもしれない。

自己責任という言葉は、はっきりと嫌いである。
使いたい人は使えばいい。それだけのことである。

その自己責任について、ここで取り上げているのは、
自己責任が使われるようになって、
個人の責任という言葉が代りに使われなくなってきたように感じているからだ。

そして個人の責任から逃避する人が増えてきたようにも感じている。
逃避する、という表現が行き過ぎているのならば、
個人の責任を曖昧にする人が増えてきている、といいなおそう。

自己責任と個人の責任の違いについて、
うまく言い表せないままで書いていくのだが、
結局のところ、(その4)で書いた表現のインフレーションは、
こういうところにもどこかで関係しているような気がしてならない。

その2)でも書いているように、
音楽のこと、オーディオのことを平気でマルチポストする人とは、
音楽、オーディオについて語らないようにしている。

このことも、私にとっては同じことなのかもしれない、と思っているところだ。
個人の責任から逃避している、曖昧にしようとしている人と、
音楽のこと、オーディオのことを平気でマルチポストする人とが、どうしても重なってしまう。

Date: 8月 27th, 2019
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNSの選択・その4)

その多少の誇張は、どこから来るものだろうか──、
そんなことを続けて考える。

弱さから来る多少の誇張なのか、
強さから来る多少の誇張なのか。

まず、この二つを思い浮べた。
この二つは思いついただけにすぎない。

深い考えがあって、弱さから来る、強さから来るを思い浮べたわけではない。
それでも、(その3)での「この人」たちは、
こんなことを意識せずに書いているのかもしれない。

弱さから来る多少の誇張には、怖さがひそんでいるように感じる。
強さから来る多少の誇張にも、別の怖さがひそんでいるようにも感じる。

こんなことを意識せずに書いている多少の誇張は、どうだろうか。
やはり、なんらかの怖さがひそんでいるように感じているし、
その怖さは、弱さから来る、強さから来るものよりも、
なんとなくではあるが、こういうものではないか、という姿がぼんやりと見えている(気がする)。

映画、ドラマでヒーロー(もしくはスーパーヒーロー)が活躍する。
一本だけで完結するのであれば、そんなことは生じないのだが、
人気が出て、何作も映画がつくられたり、ドラマも何シリーズも続くようになると、
ヒーローの強さが回を追うごとに増していく、
いわゆる強さのインフレーションが問題となってくる。

この強さのインフレーションと同じことが起りうるのではないだろうか。
つまり表現のインフレーションとでもいおうか。

SNSは、表現のインフレーションを加速していくのかもしれない。

Date: 8月 26th, 2019
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNSの選択・その3)

SNSを眺めていて、
特にこの一年感じていることは、この人は、いったいどういう音を鳴らしているのか、である。

ここでの「この人」とは、一人のことではない、複数の人である。

オーディオのシステムのどこかを変える。
そのことで音が変化する、良くなる。
どんなふうに良くなったのかを書いている人がいる。

その人が何かを変えたのは一度だけではない。
何度も、いろんなところをやっている。
その度に、音は良くなっていっている(ようだ)。

それらの投稿を読むと、この人の、いま出している音は、
そうとうなレベルにあるんじゃないか、と思えないこともない。

その人は、前に鳴っていた音との相対評価で、そんなふうに書いているのはわかっていても、
それでも、読んでいくうちに、相対評価ではなく、絶対評価のように思えてきてしまう。

また別の人は、細かな音の違いを聴き分けていることを書いてたりする。
ほんとうに、そんな領域の違いを、そこまではっきりと聴き分けられるのか、
と驚くほどの耳の鋭敏さ、耳の良さを持っている人のようだ。

そこまでの耳を持つ人を満足させるだけの音というのも、
またすごいレベルにあるんだろうな、と上記の人の同じように感じもする。

音を言葉で表現するのは、あらためていうまでもなく難しい。
共通体験がある相手に対してであってもそうであって、
まして共通体験があるのないのか、それすらはっきりとしない相手に対して書くのであれば、
なおさら難しさは増していく。

増していくから、表現には多少の誇張が加わることがある。
この、多少の誇張が、実は怖い、ということを「この人」たちは実感しているのか。

Date: 8月 26th, 2019
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNSの選択・その2)

その1)へのコメントがfacebookにあった。
SNSには、ミュート機能、フォロー解除などができるようになっている。

いわゆるマルチポストを読みたくなければ、そういう機能をうまく使えば済むことである。
ミュート機能は、特定の人の投稿をミューとしていることは、相手側にはわからない。
なので、マルチポストを頻繁にする人の投稿に対してミュートすればいいだけの話だ。

見たいもの、読みたいものだけを読む、
見たくないもの、読みたくないものは読まない、
そうすることが可能なのもSNSである。

わかっているから、マルチポストをする人がいても、どうでもいい、という気持がある。
けれど、それが音楽、オーディオに関することとなると、
私の場合、話は違ってくる。

思っていること、考えていることを書く、という行為、
それを誰かに読んでもらうために公開するという行為は、
選択から始まっている、と考える。

最初の選択から始まって、次から次へと選択していく。
特に意識していない人もいるかもしれないが、
何かを書いて公開する、ということはそういうことだ、と私は考えている。

これは私の考えだし、誰かに押しつけようとは思っていない。
その人の考えで書いて公開すればいい。

マルチポストしたい人はすればいい。
マルチポストするということは、どういうことなのかを、
「選択」ということで考えてほしい。

そこで選択を放棄している、と私は見る。
いや、多くの人に読んでもらいたいから、という選択からのマルチポストだ──、
そんな反論が返ってきそうだが、それは、もう選択ではない、と私は思っている。

マルチポストをする人は、こういうことはどうでもいいことなのだろう。

それでも、音楽をオーディオを介して、しかも少しでもいい音で聴きたい、と願うことは──、
それをかなえていくためにはやらなければならないことは──、
こういうことを考えていけば、選択のもつ意味の重さが実感できるはずなのに……、と思う。

結局のところ、マルチポストをする人は、これからもしていくだろう。
それを止めようとは思っていない。
好きにやればいい。

私は、というと、(その1)で書いているように、
音楽のこと、オーディオのことを平気でマルチポストする人とは、
音楽、オーディオについて語らないようにするだけだ。