Archive for category pure audio

Date: 3月 1st, 2017
Cate: pure audio

ピュアオーディオという表現(「3月のライオン」を読んでいて・その1)

3月のライオン」の単行本、第九巻の166から169ページまでの四ページ。
オーディオと同じだな、とつくづく思う。

そこには、こんなセリフが出てくる。
     *
「これでどーだ!!」──ってくらい研究したのに
きわっきわまで行ったら
そこにまた見たコトのないドアがいっぱい出て来ちゃったんだ
     *
将棋の歴史は長い。
正確にいつからなのかは知らないが、オーディオの歴史よりもずっとずっと長いことは確かだ。

長い歴史ともに、オーディオよりもずっと多くの人が親しんでいる。
つまりは数えきれないほどの対局が行われてきている。
江戸時代のからの棋譜が残っている、ともきく。

膨大な資料をプロ棋士は研究している。
将棋の手というのは、もう出尽くしているのではないか、と、
将棋のド素人の私は、中学生のころ思ったことがある。

「3月のライオン」は先崎学八段が将棋監修をされている。
上に引用したセリフは、プロ棋士の実感と捉えていいだろう。

オーディオにも、見たコトのないドアは無数にあるはず。
それは「こんなところまで」といいたくなるところまで来て、
やっと目の前にあらわれるドアである。

Date: 2月 19th, 2017
Cate: pure audio

ピュアオーディオという表現(「3月のライオン」)

羽海野チカの「3月のライオン」のことは昨年12月に二回書いている。
その後も「3月のライオン」にハマっている。

単行本を買うのは止しとこう、と思っていたのに、手を出してしまった。
五巻、六巻、七巻は胸に迫るものがあって、立て続けに何度も読み返した。

「3月のライオン」の主人公は高校生のプロの棋士だ。
将棋のことが描かれる。

登場するプロ棋士の自宅には、立派な碁盤と駒があるとかぎらない。

私が小学生のころ、長旅の時間つぶしに持ち運びできる将棋盤と駒があった。
いまならスマートフォンがあるから、この手のモノはなくなってしまっただろう。
でも昔は新幹線のスピードも、いまよりも遅かった。

博多・東京間を何度か新幹線を使ったことがあるが、
ほんとうに時間がかかっていた。

そういう時に、折り畳み式で駒がマグネットで盤から落ちないようになっていたモノが発売されていた。
当時はテレビコマーシャルもよくやっていた。

立派な碁盤と立派な駒であっても、
こんなオモチャのようなモノであっても、将棋は将棋であることに変りはない。

それこそオモチャのようなモノすらなければ、紙にマス目を描いて、
紙を切って駒にしても将棋は将棋である。

それすらなければ、プロ棋士ならば、頭の中だけで対局をやっていくのだろう。

私は将棋は駒の動かし方をかろうじて知っているだけで、
それも小学校の時に親から習って、それからこれまで将棋を指したことはない。

そんな私の考えることだから、大きく違っている可能性もあるだろうが、
プロ棋士にとって、目の前にある碁盤の立派さとは、どれくらい影響するものだろうか。
ほとんど影響しないのではないか。

将棋とオーディオは違う。
そうなのだが「3月のライオン」を見ていると(読んでいると)考える。

そういう視点からピュアオーディオということばを捉え直してみることを。

Date: 10月 11th, 2016
Cate: pure audio

ピュアオーディオという表現(ミケランジェリというピアニスト・その1)

アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ。
私は、このピアニストがどうも苦手である。

素晴らしいピアニストだと、心から思っている。
彼の録音を聴いていると、完璧主義者といわれるのも頷ける。

それでもなんといったらいいんだろうか、
ミケランジェロの録音を聴いていても、肉体の復活を感じないからだ。
(ちなみにベネデッティ・ミケランジェリが姓としては正確な表記だそうだ)

そこが完璧主義と感じさせるのかもしれないと思いつつ、
ここがひっかかってきてしまい、いつもというわけではないが、
ふとした拍子に、演奏に聴き惚れるところから外れてしまい、
そのことが妙に気になってしまったりする。

こう感じてしまうのは、私が音楽の聴き手として未熟ゆえか、と思ったこともある。
もう十年以上前だった。
調べもののためにステレオサウンド 53号を読んでいた。
53号は冬号だから、音楽欄に「一九七九年クラシック・ベスト・レコード14」という記事がある。
ここでミケランジェリのドビュッシーの前奏曲集一巻がとりあげられている。

ここでの黒田先生の発言が、私の心情を代弁してくれているかのように感じた。
     *
黒田 ぼくは、じつはこのレコードを入れていません。というのは、いつもミケランジェリのレコードにものすごく感心するんだけれど、ただこうしたときに10枚の中にあげるかどうかとなると、とまどいというかためらいがつきまとうんですね。
 というのは、ひじょうにきわどいいいかたなんだけれど、ミケランジェリのレコードをきいていて、レコードの向こうにこのひとの生身の姿がどうしても浮かんでこないんです。現代というこの時代に、どんなありようで生きているのか、そうした生きた人間としての姿が、どうしても浮かんでこない。これはきわめて細かいところを、いわば部分拡大していっているわけだけれど、なんというかいま生きている人間があれこれ悩んだり苦しんだり闘ったりしながらピアノをひいている、といった感じがどうもしないんですね。
     *
黒田先生もそうだったんだ、と安心もした。

同時に、1979年にポリーニ/アバドによるバルトークのピアノ協奏曲も出ている。
ミケランジェリもポリーニも、イタリアのピアニストである。
ここで思い出すのは、黒田先生がステレオサウンド 39号に書かれた「ポリーニの汗はみたくない」だ。

Date: 5月 11th, 2016
Cate: pure audio

ピュアオーディオという表現(SNSをみていて感じたこと)

大衆文学・通俗文学への対義語として、純文学というわけだが、
このことから少し離れて「純文学」を捉えてみるとともに、
そこからピュアオーディオを考えてみると……、と思うことがある。

文学作品が本になる。
これを手にとって、われわれは読む。
そんなふうに純文学に接する。

純文学の本には、挿し絵もない。
ページをめくっていっても、文字だけが印刷されている。
当然だが、その文字はすべて活字である。

手にする本に、作者の肉体を感じさせる要素はない。
手書の文字が印刷されていれば、作者の肉体のようなものを感じとれようが、
活字にはそんなことを感じさせる要素はない。

つまり印刷物で接する純文学には、肉体という、いわば夾雑物がない、
だからこその「純」文学といえるのではないか。
こんな捉え方もできなくはないはずだ。

こんなことを考えるのは、そこに肉体を感じさせるのか感じさせないのか。
私のオーディオは、そこから始まったともいえるからである。

「五味オーディオ教室」は、まさにこのことから始まる。
     *
 電気で音をとらえ、ふたたび電気を音にして鳴らすなら、厳密には肉体の介在する余地はない。ステージが消えて当然である。しかしそういう電気エネルギーを、スピーカーの紙の振動で音にして聴き馴れたわれわれは、音に肉体の復活を錯覚できる。少なくともステージ上の演奏者を虚像としてではなく、実像として想像できる。これがレコードで音楽を聴くという行為だろう。かんたんにいうなら、そして会場の雰囲気を音そのものと同時に再現しやすい装置ほど、それは、いい再生装置ということになる。
     *
たしかにそのとおりであって、オーディオいう再生系のどこにも、
演奏者の肉体の介在する余地はない。にもかかわらず、「音に肉体の復活」を錯覚できるのもまた事実である。

この「肉体の復活」は、夾雑物ととらえることもできよう。
そう捉えるか、「肉体の復活」を錯覚したいのかは、聴き手による。

私のオーディオは「五味オーディオ教室」から始まっているから、
「肉体の復活」をとるわけだが、そんなものは夾雑物だから……、と考える人もいる。

演奏行為は肉体による運動である。
ゆえにその肉体を音から感じとりたい、と思う人、
音だけを感じとりたい人とがいる。

音楽には打ち込み系と呼ばれるジャンルがある。
もちろん打ち込み系であっても、人がなんらかの操作をした結果であるのだから、
肉体運動がないわけではない。
それでもアクースティック楽器を演奏しての行為と比較すれば、かなり稀薄である。
しかも打ち込み系ではライン録りでもある。

楽器が演奏される空間が介在しない。
アクースティックな響きは、ここには存在しない。

つまり、この種の音楽は、いわば夾雑物がない(ほとんどない)音楽という捉え方もできる。
肉体を拒否するということは、肉体が存在する空間もまた拒否するということ。

これこそが「ピュア」オーディオである──。

私にとってのオーディオは、肉体の介在を求めるオーディオだから、
夾雑物を排除した「ピュア」オーディオではないわけだが、
だからといって、「ピュア」オーディオの世界、それを指向(嗜好)する人のことを否定はしたくない。

SNSをみていて、感じたことである。

Date: 4月 21st, 2016
Cate: pure audio

ピュアオーディオという表現(その4)

ポータブルCDプレーヤーを持っていたこともある。
最初のポータブル機(ソニーのD50)ではなく、
各社からいくつも登場して、電車の中でもよくみかけるようになったころに購入した。

ポータブルCDプレーヤーであれば、
ウォークマンとは違い、CDを買ってくれば(持っていれば)すぐに聴ける。
録音済みテープを自分で制作する手間はいらない。

でも持ち歩くことはほとんどしなかった。
そうなると自然に使う頻度も極端に減ってくる。

2002年にiPodを買った。
カセットテープに録音するよりは簡単に曲をiPodに収録できる。
CDをMacでリッピングしておけば、カセットテープの収録時間を気にすることなく、
どんどん増やしていける。

iPodはポータブルCDプレーヤーよりも小さい。
ポータブルCDプレーヤーはジーンズのポケットには入らないが、iPodはすんなり入る。

ウォークマン、ポータブルCDプレーヤー、iPod。
これらの中ではiPodが持ち歩いた時間が長い。

iPodを手に入れたときは、ウォークマンを譲ってもらったときと同じようによく使っていた。
けれど、自然と使わなくなっていった。

それでも割と持ち歩いていたのは、友人に聴かせたいCDがあるからだった。
そのころアルゼンチンのハーモニカ奏者ウーゴ・ディアスのCDがビクターから発売になった。

ウーゴ・ディアスを知る人は、私のまわりにはほとんどいなかった。
その人たちにiPodでウーゴ・ディアスを、なかば強引に聴かせていった。
聴けば、ほぼみんな驚いていた。

外出先や移動中に自分で聴くためというよりも、
こうやってその時々で、自分でいいと思ったCDを入れていて、友人・知人に聴かせていた。

言葉でウーゴ・ディアスについて語るのも楽しいことだが、
その場で聴いてもらうことには及ばない。

特にハーモニカという楽器に対するイメージは、
日本の場合は小学校の音楽の授業によって形成されているところがある。
それをウーゴ・ディアスの「音」は、いとも簡単に破壊してくれる。

だからみな「すごい!」と驚く。

Date: 12月 29th, 2015
Cate: pure audio

ピュアオーディオという表現(その3)

私がステレオサウンドで働きはじめた1982年1月末、
編集部でウォークマンを愛用している人はいた。
IさんとSさんがそうだった。そのころは私も含めて編集部員は六人だった。
隣のサウンドボーイの編集部にもウォークマン愛用の人は何人かいた。

いまのiPhoneの普及率からすれば低いように思われるかもしれないが、
当時の私は、こんなにもウォークマンを愛用している人がいるんだ、と驚いていた。

もちろんウォークマンで音楽を聴いていても、
自宅にはみなそれぞれのシステムをもっていた。

Iさんはタンノイを鳴らしていた(クラシック好き)、
SさんはJBLを鳴らしていた(ジャズ好き)。

ステレオサウンド、サウンドボーイ編集部でウォークマンを持っている人たちは、
まず自宅にオーディオのシステムがあったうえで、ウォークマンを購入している。
購入の順番として、ウォークマンが後である。

Iさん、Sさんは私よりも上の世代だから、
ラジオ、ラジカセという段階をへてオーディオ、
もしくはラジカセがなくてラジオからオーディオへと移っていったのだと思う。
そしてウォークマンを購入しているわけだ。

つまりラジオ、ラジカセ、オーディオといった流れとは別のところでのウォークマンの存在である。

私もウォークマンを使っていた。
Sさんから貰ったモノだった。

第二世代のウォークマンだった。
初代機よりも小さくなったモデルだった。

お古とはいえ、嬉しかった。
最初は嬉しくて、よく聴いていた(使っていた)。
けれど、わりと早い時期に使わなくなっていった。

理由はいくつかあった。
録音済みのカセットテープを自分でつくらなければならない。
最初は楽しくてやっていても、面倒になってきた。
かといって録音済みのミュージックテープを買うのであれば、
LPで買いたいものが山のようにあったので、そちらを優先したい。

テープの充実がなければ、聴く時間も減ってくる。
でもそれだけが理由ではない。

いまiPhoneにMacでリッピングしたデータをコピーするのは簡単である。
ウォークマンのころとは比較にならないほど多くの曲を、iPhoneにコピーできるけれど、
毎日持ち歩いているiPhoneには一曲も入れていない。

Date: 7月 29th, 2015
Cate: pure audio

ピュアオーディオという表現(その2)

ピュアオーディオが使われるようになってきたのは、オーディオ・ヴィジュアルの抬頭だけではない。

ピュア(pure)は、純粋ということである。
純ということである。

文学の世界では、純文学という。大衆文学・通俗文学への対義語でもある。
ピュアオーディオにも、そういった意味合いがある。
それはヴィジュアルが加わったことに対してだけではなく、
いわゆるゼネラルオーディオと呼ばれるものに対しても、である。

私もそうだが、オーディオマニアはラジオから始まり、ラジカセがあって、
オーディオへと進んでいった世代がある。
私の場合、ラジオもラジカセもモノーラルだった。

私より上の世代であれば、ラジカセがなく、ラジオからオーディオへと進んでいっている。
つまりオーディオのスタートとしてのラジオがあった。

ラジオはたいていの家庭に、以前はあった。
いまはラジオのない家庭も珍しくないのかもしれない。

そのころはピュアオーディオとは呼んでいなかったし、
ラジカセをゼネラルオーディオと区別することもなかった。

なのにいつのころからか、
ピュアオーディオ、ゼネラルオーディオ、オーディオ・ヴィジュアルという区別が行われるようになった。

思うには、1979年に登場したソニーのウォークマン(TPS-L2)が、
ゼネラルオーディオという言葉を生み出していったのではないだろうか。

Date: 7月 5th, 2015
Cate: pure audio

ピュアオーディオという表現(バラストなのか)

アキュフェーズの創業者である春日二郎氏の「オーディオ 匠のこころを求めて」、
この本の中に、ピュアオーディオについて書かれているところがある。

「オーディオはバラスト」とつけられた短い文章だ。
     *
 船舶は、転覆をしないように重心を低くするため、船底に重いバラスト(底荷)を積んでいる。これは直接的な利潤を生まない「お荷物」ではあるが、極めて重要なものである。
 歌人の上田三四一(みよじ)氏は、「短歌は高い磨かれた言葉で的確に物をとらえ、思いを述べる、日本語のバラスト(底荷)だと思い、そういう覚悟でいる。活気はあるが猥雑な現代の日本語を転覆から救う、見えない力となっているのではないか」、このように書かれている。

純粋オーディオも、人類にとって大切なオーディオ文化を守る重要なバラストの役目をしているのではないだろうか。
     *
オーディオはバラストといえる、と思う。
けれど、それはオーディオ文化を守るバラストというよりも、音楽文化を守るバラストのように思っている。

「オーディオはバラスト」について、
そして「オーディオのバラスト」についても、いずれ書いていく。

Date: 5月 19th, 2015
Cate: pure audio

ピュアオーディオという表現(その1)

いまではホームシアターというようになっているが、
以前はAV(エーブイ)、オーディオ・ヴィジュアルと呼んでいた。

VHD、レーサーディスクといったビデオディスクの登場、テレビの大型化、
その他のもろもろのことにより盛り上ってきて、
オーディオ(音だけの世界)に、映像(ヴィジュアル)が加わり、
新しい趣味としてとりあげられるようになっていった1980年代。

ちょうどそのころ私はステレオサウンドにいた。
私が働きはじめたころ、まだサウンドボーイがあった。
これが休刊になり、1983年秋、ステレオサウンド/テープサウンド別冊として、AV ’83が出た。
そして1983年12月号を創刊号とするHiViが登場する。

ピュアオーディオ(pure audio)といわれるようになってきたのは、そのころからである。

これまで音だけのオーディオに親しんできた・取り組んできたオーディオマニアの中には、
AVに対して、ある種の拒否に近い反応を示す人もいた。
AVに熱心な人たちは、そういう人たちに対して、こんなことをいっていた。

本来音楽は音と映像がいっしょであった。
それが技術的な問題で音だけになってしまったわけで、
コンサートに行けば視覚的・聴覚的、その両方で音楽を楽しむ。
だからAVこそが、本来の音楽の楽しみ方であり、
音だけのオーディオは、いわば片輪の楽しみ方でしかない、と。

大輪ねそんなことがいわれていた。

ピュアオーディオは、これに対する反論として生れてきたように、私は認識している。