Archive for category pure audio

Date: 1月 7th, 2022
Cate: pure audio
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オーディオと偏愛(その4)

私が大好きな洋菓子店のルコントは、2010年に閉店している。
それが2013年に突然、広尾に復活した。

ルコントの最初の店舗が東京に開店したのは六本木だった。
そこが本店だった。
その後、青山ツインタワーに店舗ができ、そこが本店となった。

2013年の再オープンからは、広尾が本店である。
残念なことに、この広尾本店も2021年10月に閉店となっている。

とはいえ、ルコントがなくなったわけではなく、
広尾本店が閉店しただけのことなのだが、
残る店舗はすべてテイクアウトのみなのが少し残念でもある。

一度閉店した店が、なんらかの理由で再び開店する。
その場合、経営は変っていることが多い。

ルコントも変っている。
ベイクウェルという会社が、ルコントを経営している。

どんな会社なのか知らなかった。
特に調べようともしなかった。

いまのルコントは、昔のルコントそのままといっていい。
変ってしまったなぁ……、と嘆くことはない。

昔からのルコントの定番であるフルーツケーキは、いまも美味しい。
日持ちするお菓子だから、手土産にぴったりでもある。
つい最近も、ひじょうに喜んでもらえた。

それにしても、これはすごいことである。
一度閉店し、経営の母体がかわっての再オープン。
なのに昔のルコントのイメージをまったくこわしていない。

なので、ようやく今日、ベイクウェルがどんな会社なのか、
なぜ、この会社がルコントを経営してるのか検索してみた。

料理王国の記事朝日新聞の記事が見つかった。

詳しいことは二つの記事を、ぜひ読んでほしい。
ベイクウェルの代表取締役社長は黒川周子氏。

黒川氏自身、ルコントのファンだったそうだ。
料理王国の記事では、黒川氏の実家は菓子店とある。
そして実家の近くにルコントがあった、ともある。

どんな菓子店なのだろうか、と思いながら、料理王国の記事を読んでいた。
その後に、朝日新聞の記事を見つけた。

黒川氏の実家は虎屋である。
いうまでもなく、あの虎屋だ。

納得がいった。
そういう人だから、ルコントはルコントのままなのだ。

Date: 12月 5th, 2021
Cate: pure audio

オーディオと偏愛(その3)

ルコントのレアチーズケーキはどうだったのか。
世の中に、こんなに美味しいケーキがあるのか。
大袈裟でなくそう感じていた。

赤坂のトップスには申しわけないが、
どちらもレアチーズケーキであっても、同じには語れない。

ルコントのレアチーズケーキは小さい。
大きな口の男なら、一口で喰おうと思えばできないサイズではない。

フォークで、ルコントのレアチーズケーキを一口分、
ちょっぴりだけフォークにのせて口に運ぶ。

二口目は少し大きめにして口に運ぶ。
味わいながら、何口で食べ切ろうか、とも考えていた。

一気に食べてしまいたい気持と、ちびちび味わいながら、という食べ方。
どちらもしたい。
なんならレアチーズケーキをもう一つ注文しようか、とも思っていた。

でも、目の前のケーブルにはレアチーズケーキの他に、
シャルロットポワールのフランポワーズのソース添えがある。

こちらは皿も大きく、ケーキそのものも大きく、
レアチーズケーキよりも見た目も華やかだ。

ルコントのことをステレオサウンド 53号の編集後記に書いているOさんによれば、
シャルロットポワールのフランポワーズのソース添えは、
レアチーズケーキ以上の衝撃(美味しさ)である、とのこと。

Date: 2月 26th, 2020
Cate: pure audio

オーディオと偏愛(その2)

ステレオサウンド 53号の編集後記で、Oさんが六本木のL洋菓子店のことを書かれている。
ルコントのことだ。

Oさんからルコントを教えてもらってからの私の偏愛ぶりはひどかった。
一週間は会社が休みの日以外は毎日通っていた。

Oさんの編集後記に出てくるレアチーズケーキ、
それからシャルロットポワールのフランポワーズのソース添え、
この二つは必ず注文していた。

レアチーズケーキというのが世の中にあるということは、
53号の編集後記で知っていた。
そのころ田舎暮しだった私にとって、
チーズケーキとは焼いたチーズケーキのことしか知らなくて、
レアチーズケーキ? という感じだった。

レアチーズケーキを食べたのは、東京に出てから、
それもステレオサウンドで働くようになってからだった。
ルコントのレアチーズケーキが最初ではなかった。

誰かのみやげで、赤坂のトップスのレアチーズケーキが最初だった。
これがレアチーズケーキなのか、
初めて見るケーキでもあったし、こんなに美味しいものなのか、と感激もした。

ルコントのことを教えてくれたのは、それからしばらくしてのことだった。
六本木のルコントは二階が喫茶室だった。

別項で書いている西新宿にあった珈琲屋という喫茶店には一人で行っていたけれど、
ケーキ店に一人で行くのは初めてだった。

それでもルコントのレアチーズケーキは、トップスのなんて目じゃない、
そう聞かされていたから、恥ずかしいという気持よりも、
ルコントのレアチーズケーキを食べたい、という気持のほうがずっとずっと強かった。

Date: 12月 24th, 2019
Cate: pure audio

オーディオと偏愛(その1)

MQA-CDで、グラシェラ・スサーナの「アドロ・サバの女王」を聴いている。
いまのところ、グラシェラ・スサーナのMQA-CDはこれ一枚だけ。

グラシェラ・スサーナのアルバム中もっとも売れた「アドロ・サバの女王」だが、
私が初めて聴いたグラシェラ・スサーナの歌は、このアルバムではない。

1976年秋に聴いた「黒い瞳はお好き?」だ。
秋といっても、かなり寒くなっていたころだ。
MQA-CDで聴いていると、そのことを思い出す。

13歳の秋、毎日、何度もくり返し聴いた。
飽きるまで聴きたい──、そう思う私である。

たとえば食べものでもそうである。
気に入った料理(店)を見つけると、立て続けに何度も通う。
そういう人は少なからずいるだろうが、
私は、気に入った料理ばかりを続けて頼む傾向がとても強い。

若いころは、いま以上にそうだった。
若いころは、いま以上に食欲旺盛だったから、
気に入ったものに、他の料理も頼む。

そうやって気に入ったものを飽きるまで、という食べ方と、
レパートリィを広げていく食べ方を両立させていた。

何もそんな食べ方をせずに、気に入った料理は、
数回に一度くらいにしておけばいいじゃないか、といわれることもあったけれど、
なんだろうか、とにかく味わい尽くしたい、と思ってしまうのか、
自分で納得できる(飽きる)まで同じものを食べてしまう。

ひどく偏っているのだろう。
それは自覚している。

そんな私だから、グラシェラ・スサーナの歌もそうだった。
そのことをMQA-CDで聴いていて思い出しているところだ。

Date: 12月 17th, 2017
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ピュアオーディオという表現(「3月のライオン」を読んでいて・その6)

「やはり将棋そのものを本質的にどこまで分かっているかといわれれば、分かっていないのが実情」

産経ニュースのサイト、今日公開されたページに、そうあった。
永世七冠を手にした羽生善治棋聖のことばである。

なんというタイミングなんだろう、とおもった。
ここ(その6)で書こうとしていたことはあったけれど、
まず羽生善治棋聖のことばを書いておきたかった。

「やはり将棋そのものを本質的にどこまで分かっているかといわれれば、分かっていないのが実情」、
このことばを、
「菅野沖彦の音を超えた」
「瀬川先生の音を彷彿させる音が出せた」
「頂点まで最短距離で登っていった」
これらの言葉を吐いてきた人たちは、どう受け取るのだろうか。

Date: 12月 13th, 2017
Cate: pure audio

ピュアオーディオという表現(「3月のライオン」を読んでいて・その5)

「菅野沖彦の音を超えた」──、
そういった人もいる、と聞いている。

これを言ったのが誰なのかも聞いている。
会ったことはないけれど、インターネットではけっこう名の知られている人だ。

あくまでも又聞きだから、その人がなぜそんなことを言ったのか、
推測で書くしかないけれど、そうとうな自信をもってのひと言だった、らしい。

その人が使っている装置の総額は、
菅野先生のシステムの総額をはるかに超える。
いわゆるハイエンドオーディオと呼ばれているモノばかりで、
ケーブルもそうとうに高価なモノである。

その人がいったのは、システムの総額のことではない。
音のことである。

その人は、菅野先生の音を聴いている。
そのうえでの「菅野沖彦の音を超えた」──、
菅野先生の音を、ひじょうに断片的な聴き方をしての、この発言なのか。

私が菅野先生の音を聴いたのは、もう十年ほど前のことだ。
その一、二年あとに、これを聞いている。

私は、その時の菅野先生の音を聴いて、
「オーディオはここまでの再生が、やはり可能なんだ」と勇気づけられた。

オーディオの限界をどう感じるかは、人によってすいぶん違うようだ。
私は、ずっと、そうとうに高いところに限界はある、というか、
ほとんど限界はないのかもしれない、
つまりそうとうな可能性をもっている──、そんな直感が、
「五味オーディオ教室」を読んだ時から持っていた。

それでも現実の音は、必ずしもそうではない。
けれど、菅野先生の音を聴いて、直感は間違ってなかった、と感じた。

その菅野先生の音を超える音を出した、という人がいる。
世の中には上には上がいる、ということはわかっている。

けれど「菅野沖彦の音を超えた」と自慢げに誰かに言っている人の音が、
菅野先生の音を超えている、とは私には思えない。

Date: 12月 11th, 2017
Cate: pure audio

ピュアオーディオという表現(「3月のライオン」を読んでいて・その4)

「瀬川先生の音を彷彿させる音が出せた」と私にいってきた知人も、
私にしてみれば、「頂点まで最短距離で登っていった」という人と同類だ。

オーディオの頂点からすれば、瀬川先生の音というゴールは、
身近にあるように思えるのかもしれない。

知人は、別項でも書いているように瀬川先生の音を聴いたこともない、
瀬川先生と会ったことすらない。

仮に会っていて、瀬川先生の音を聴いていたとしても、
知人と「頂点まで最短距離で登っていった」といった人とは、やはり同類だ。

知人には、瀬川先生の音というドアはひとつしか見えてなかったようだ。
知人は、そのドアに気づいていたのか。

気づいていたとして、そのドアを開けようとしたのか、と思う。
ドアにたどり着くことが目的ではないはずだ。

そのドアを開け、さらに一歩進んだところから、
瀬川先生の音の世界は拡がっているのではないのか。

しかも知人は、間違ったドアを目指していた。

Date: 12月 10th, 2017
Cate: pure audio

ピュアオーディオという表現(「3月のライオン」を読んでいて・その3)

行き着いたと思ったところに、その次に進む道が見えてくる。
しかも道は一本とは限らない。

それはオーディオも同じのはずだ。
なのに……、と思うことが、これまでも何度かあった。

ある人は「頂点まで最短距離で登っていった」と、私に言った。
あきれるをとおりこして、無表情で聞いているしかない。

この人には、道が一本しか見えなかったのか。
それとも一本しか見てこなかったのか。

本人は行き着くところまでいった、と思っている、
信じ込んでいるのだろう。

その人は、見たコトのないドアのあるところまでたどり着いていないだけなのかもしれない。
もしかすると、本人は前だけを見ているつもりでも、下だけを見ているのかもしれない。

ピュアオーディオとは、映像をともなわない、音だけの世界のこととしか使われている。

「頂点まで最短距離で登っていった」といった人がやっているのも、
その意味ではピュアオーディオといえる。

けれど、その人は「頂点まで最短距離で登っていった」といってしまった。
その時点で、別の意味でのピュアオーディオからは外れてしまった、ともいえる。
純粋な気持で取り組む意味でのピュアではなくなっている。

だから、自分のいるところを頂点だと勘違いしてしまうし、
見たコトのないドアにも気づかない。

Date: 3月 1st, 2017
Cate: pure audio

ピュアオーディオという表現(「3月のライオン」を読んでいて・その2)

3月のライオン」の単行本、第九巻の166から169ページまでの四ページ。
オーディオと同じだな、とつくづく思う。

そこには、こんなセリフが出てくる。
     *
「これでどーだ!!」──ってくらい研究したのに
きわっきわまで行ったら
そこにまた見たコトのないドアがいっぱい出て来ちゃったんだ
     *
将棋の歴史は長い。
正確にいつからなのかは知らないが、オーディオの歴史よりもずっとずっと長いことは確かだ。

長い歴史ともに、オーディオよりもずっと多くの人が親しんでいる。
つまりは数えきれないほどの対局が行われてきている。
江戸時代のからの棋譜が残っている、ともきく。

膨大な資料をプロ棋士は研究している。
将棋の手というのは、もう出尽くしているのではないか、と、
将棋のド素人の私は、中学生のころ思ったことがある。

「3月のライオン」は先崎学八段が将棋監修をされている。
上に引用したセリフは、プロ棋士の実感と捉えていいだろう。

オーディオにも、見たコトのないドアは無数にあるはず。
それは「こんなところまで」といいたくなるところまで来て、
やっと目の前にあらわれるドアである。

Date: 2月 19th, 2017
Cate: pure audio

ピュアオーディオという表現(「3月のライオン」を読んでいて・その1)

羽海野チカの「3月のライオン」のことは昨年12月に二回書いている。
その後も「3月のライオン」にハマっている。

単行本を買うのは止しとこう、と思っていたのに、手を出してしまった。
五巻、六巻、七巻は胸に迫るものがあって、立て続けに何度も読み返した。

「3月のライオン」の主人公は高校生のプロの棋士だ。
将棋のことが描かれる。

登場するプロ棋士の自宅には、立派な碁盤と駒があるとかぎらない。

私が小学生のころ、長旅の時間つぶしに持ち運びできる将棋盤と駒があった。
いまならスマートフォンがあるから、この手のモノはなくなってしまっただろう。
でも昔は新幹線のスピードも、いまよりも遅かった。

博多・東京間を何度か新幹線を使ったことがあるが、
ほんとうに時間がかかっていた。

そういう時に、折り畳み式で駒がマグネットで盤から落ちないようになっていたモノが発売されていた。
当時はテレビコマーシャルもよくやっていた。

立派な碁盤と立派な駒であっても、
こんなオモチャのようなモノであっても、将棋は将棋であることに変りはない。

それこそオモチャのようなモノすらなければ、紙にマス目を描いて、
紙を切って駒にしても将棋は将棋である。

それすらなければ、プロ棋士ならば、頭の中だけで対局をやっていくのだろう。

私は将棋は駒の動かし方をかろうじて知っているだけで、
それも小学校の時に親から習って、それからこれまで将棋を指したことはない。

そんな私の考えることだから、大きく違っている可能性もあるだろうが、
プロ棋士にとって、目の前にある碁盤の立派さとは、どれくらい影響するものだろうか。
ほとんど影響しないのではないか。

将棋とオーディオは違う。
そうなのだが「3月のライオン」を見ていると(読んでいると)考える。

そういう視点からピュアオーディオということばを捉え直してみることを。

Date: 10月 11th, 2016
Cate: pure audio

ピュアオーディオという表現(ミケランジェリというピアニスト・その1)

アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ。
私は、このピアニストがどうも苦手である。

素晴らしいピアニストだと、心から思っている。
彼の録音を聴いていると、完璧主義者といわれるのも頷ける。

それでもなんといったらいいんだろうか、
ミケランジェロの録音を聴いていても、肉体の復活を感じないからだ。
(ちなみにベネデッティ・ミケランジェリが姓としては正確な表記だそうだ)

そこが完璧主義と感じさせるのかもしれないと思いつつ、
ここがひっかかってきてしまい、いつもというわけではないが、
ふとした拍子に、演奏に聴き惚れるところから外れてしまい、
そのことが妙に気になってしまったりする。

こう感じてしまうのは、私が音楽の聴き手として未熟ゆえか、と思ったこともある。
もう十年以上前だった。
調べもののためにステレオサウンド 53号を読んでいた。
53号は冬号だから、音楽欄に「一九七九年クラシック・ベスト・レコード14」という記事がある。
ここでミケランジェリのドビュッシーの前奏曲集一巻がとりあげられている。

ここでの黒田先生の発言が、私の心情を代弁してくれているかのように感じた。
     *
黒田 ぼくは、じつはこのレコードを入れていません。というのは、いつもミケランジェリのレコードにものすごく感心するんだけれど、ただこうしたときに10枚の中にあげるかどうかとなると、とまどいというかためらいがつきまとうんですね。
 というのは、ひじょうにきわどいいいかたなんだけれど、ミケランジェリのレコードをきいていて、レコードの向こうにこのひとの生身の姿がどうしても浮かんでこないんです。現代というこの時代に、どんなありようで生きているのか、そうした生きた人間としての姿が、どうしても浮かんでこない。これはきわめて細かいところを、いわば部分拡大していっているわけだけれど、なんというかいま生きている人間があれこれ悩んだり苦しんだり闘ったりしながらピアノをひいている、といった感じがどうもしないんですね。
     *
黒田先生もそうだったんだ、と安心もした。

同時に、1979年にポリーニ/アバドによるバルトークのピアノ協奏曲も出ている。
ミケランジェリもポリーニも、イタリアのピアニストである。
ここで思い出すのは、黒田先生がステレオサウンド 39号に書かれた「ポリーニの汗はみたくない」だ。

Date: 5月 11th, 2016
Cate: pure audio

ピュアオーディオという表現(SNSをみていて感じたこと)

大衆文学・通俗文学への対義語として、純文学というわけだが、
このことから少し離れて「純文学」を捉えてみるとともに、
そこからピュアオーディオを考えてみると……、と思うことがある。

文学作品が本になる。
これを手にとって、われわれは読む。
そんなふうに純文学に接する。

純文学の本には、挿し絵もない。
ページをめくっていっても、文字だけが印刷されている。
当然だが、その文字はすべて活字である。

手にする本に、作者の肉体を感じさせる要素はない。
手書の文字が印刷されていれば、作者の肉体のようなものを感じとれようが、
活字にはそんなことを感じさせる要素はない。

つまり印刷物で接する純文学には、肉体という、いわば夾雑物がない、
だからこその「純」文学といえるのではないか。
こんな捉え方もできなくはないはずだ。

こんなことを考えるのは、そこに肉体を感じさせるのか感じさせないのか。
私のオーディオは、そこから始まったともいえるからである。

「五味オーディオ教室」は、まさにこのことから始まる。
     *
 電気で音をとらえ、ふたたび電気を音にして鳴らすなら、厳密には肉体の介在する余地はない。ステージが消えて当然である。しかしそういう電気エネルギーを、スピーカーの紙の振動で音にして聴き馴れたわれわれは、音に肉体の復活を錯覚できる。少なくともステージ上の演奏者を虚像としてではなく、実像として想像できる。これがレコードで音楽を聴くという行為だろう。かんたんにいうなら、そして会場の雰囲気を音そのものと同時に再現しやすい装置ほど、それは、いい再生装置ということになる。
     *
たしかにそのとおりであって、オーディオいう再生系のどこにも、
演奏者の肉体の介在する余地はない。にもかかわらず、「音に肉体の復活」を錯覚できるのもまた事実である。

この「肉体の復活」は、夾雑物ととらえることもできよう。
そう捉えるか、「肉体の復活」を錯覚したいのかは、聴き手による。

私のオーディオは「五味オーディオ教室」から始まっているから、
「肉体の復活」をとるわけだが、そんなものは夾雑物だから……、と考える人もいる。

演奏行為は肉体による運動である。
ゆえにその肉体を音から感じとりたい、と思う人、
音だけを感じとりたい人とがいる。

音楽には打ち込み系と呼ばれるジャンルがある。
もちろん打ち込み系であっても、人がなんらかの操作をした結果であるのだから、
肉体運動がないわけではない。
それでもアクースティック楽器を演奏しての行為と比較すれば、かなり稀薄である。
しかも打ち込み系ではライン録りでもある。

楽器が演奏される空間が介在しない。
アクースティックな響きは、ここには存在しない。

つまり、この種の音楽は、いわば夾雑物がない(ほとんどない)音楽という捉え方もできる。
肉体を拒否するということは、肉体が存在する空間もまた拒否するということ。

これこそが「ピュア」オーディオである──。

私にとってのオーディオは、肉体の介在を求めるオーディオだから、
夾雑物を排除した「ピュア」オーディオではないわけだが、
だからといって、「ピュア」オーディオの世界、それを指向(嗜好)する人のことを否定はしたくない。

SNSをみていて、感じたことである。

Date: 4月 21st, 2016
Cate: pure audio

ピュアオーディオという表現(その4)

ポータブルCDプレーヤーを持っていたこともある。
最初のポータブル機(ソニーのD50)ではなく、
各社からいくつも登場して、電車の中でもよくみかけるようになったころに購入した。

ポータブルCDプレーヤーであれば、
ウォークマンとは違い、CDを買ってくれば(持っていれば)すぐに聴ける。
録音済みテープを自分で制作する手間はいらない。

でも持ち歩くことはほとんどしなかった。
そうなると自然に使う頻度も極端に減ってくる。

2002年にiPodを買った。
カセットテープに録音するよりは簡単に曲をiPodに収録できる。
CDをMacでリッピングしておけば、カセットテープの収録時間を気にすることなく、
どんどん増やしていける。

iPodはポータブルCDプレーヤーよりも小さい。
ポータブルCDプレーヤーはジーンズのポケットには入らないが、iPodはすんなり入る。

ウォークマン、ポータブルCDプレーヤー、iPod。
これらの中ではiPodが持ち歩いた時間が長い。

iPodを手に入れたときは、ウォークマンを譲ってもらったときと同じようによく使っていた。
けれど、自然と使わなくなっていった。

それでも割と持ち歩いていたのは、友人に聴かせたいCDがあるからだった。
そのころアルゼンチンのハーモニカ奏者ウーゴ・ディアスのCDがビクターから発売になった。

ウーゴ・ディアスを知る人は、私のまわりにはほとんどいなかった。
その人たちにiPodでウーゴ・ディアスを、なかば強引に聴かせていった。
聴けば、ほぼみんな驚いていた。

外出先や移動中に自分で聴くためというよりも、
こうやってその時々で、自分でいいと思ったCDを入れていて、友人・知人に聴かせていた。

言葉でウーゴ・ディアスについて語るのも楽しいことだが、
その場で聴いてもらうことには及ばない。

特にハーモニカという楽器に対するイメージは、
日本の場合は小学校の音楽の授業によって形成されているところがある。
それをウーゴ・ディアスの「音」は、いとも簡単に破壊してくれる。

だからみな「すごい!」と驚く。

Date: 12月 29th, 2015
Cate: pure audio

ピュアオーディオという表現(その3)

私がステレオサウンドで働きはじめた1982年1月末、
編集部でウォークマンを愛用している人はいた。
IさんとSさんがそうだった。そのころは私も含めて編集部員は六人だった。
隣のサウンドボーイの編集部にもウォークマン愛用の人は何人かいた。

いまのiPhoneの普及率からすれば低いように思われるかもしれないが、
当時の私は、こんなにもウォークマンを愛用している人がいるんだ、と驚いていた。

もちろんウォークマンで音楽を聴いていても、
自宅にはみなそれぞれのシステムをもっていた。

Iさんはタンノイを鳴らしていた(クラシック好き)、
SさんはJBLを鳴らしていた(ジャズ好き)。

ステレオサウンド、サウンドボーイ編集部でウォークマンを持っている人たちは、
まず自宅にオーディオのシステムがあったうえで、ウォークマンを購入している。
購入の順番として、ウォークマンが後である。

Iさん、Sさんは私よりも上の世代だから、
ラジオ、ラジカセという段階をへてオーディオ、
もしくはラジカセがなくてラジオからオーディオへと移っていったのだと思う。
そしてウォークマンを購入しているわけだ。

つまりラジオ、ラジカセ、オーディオといった流れとは別のところでのウォークマンの存在である。

私もウォークマンを使っていた。
Sさんから貰ったモノだった。

第二世代のウォークマンだった。
初代機よりも小さくなったモデルだった。

お古とはいえ、嬉しかった。
最初は嬉しくて、よく聴いていた(使っていた)。
けれど、わりと早い時期に使わなくなっていった。

理由はいくつかあった。
録音済みのカセットテープを自分でつくらなければならない。
最初は楽しくてやっていても、面倒になってきた。
かといって録音済みのミュージックテープを買うのであれば、
LPで買いたいものが山のようにあったので、そちらを優先したい。

テープの充実がなければ、聴く時間も減ってくる。
でもそれだけが理由ではない。

いまiPhoneにMacでリッピングしたデータをコピーするのは簡単である。
ウォークマンのころとは比較にならないほど多くの曲を、iPhoneにコピーできるけれど、
毎日持ち歩いているiPhoneには一曲も入れていない。

Date: 7月 29th, 2015
Cate: pure audio

ピュアオーディオという表現(その2)

ピュアオーディオが使われるようになってきたのは、オーディオ・ヴィジュアルの抬頭だけではない。

ピュア(pure)は、純粋ということである。
純ということである。

文学の世界では、純文学という。大衆文学・通俗文学への対義語でもある。
ピュアオーディオにも、そういった意味合いがある。
それはヴィジュアルが加わったことに対してだけではなく、
いわゆるゼネラルオーディオと呼ばれるものに対しても、である。

私もそうだが、オーディオマニアはラジオから始まり、ラジカセがあって、
オーディオへと進んでいった世代がある。
私の場合、ラジオもラジカセもモノーラルだった。

私より上の世代であれば、ラジカセがなく、ラジオからオーディオへと進んでいっている。
つまりオーディオのスタートとしてのラジオがあった。

ラジオはたいていの家庭に、以前はあった。
いまはラジオのない家庭も珍しくないのかもしれない。

そのころはピュアオーディオとは呼んでいなかったし、
ラジカセをゼネラルオーディオと区別することもなかった。

なのにいつのころからか、
ピュアオーディオ、ゼネラルオーディオ、オーディオ・ヴィジュアルという区別が行われるようになった。

思うには、1979年に登場したソニーのウォークマン(TPS-L2)が、
ゼネラルオーディオという言葉を生み出していったのではないだろうか。