ピュアオーディオという表現(「3月のライオン」を読んでいて・その1)
羽海野チカの「3月のライオン」のことは昨年12月に二回書いている。
その後も「3月のライオン」にハマっている。
単行本を買うのは止しとこう、と思っていたのに、手を出してしまった。
五巻、六巻、七巻は胸に迫るものがあって、立て続けに何度も読み返した。
「3月のライオン」の主人公は高校生のプロの棋士だ。
将棋のことが描かれる。
登場するプロ棋士の自宅には、立派な碁盤と駒があるとかぎらない。
私が小学生のころ、長旅の時間つぶしに持ち運びできる将棋盤と駒があった。
いまならスマートフォンがあるから、この手のモノはなくなってしまっただろう。
でも昔は新幹線のスピードも、いまよりも遅かった。
博多・東京間を何度か新幹線を使ったことがあるが、
ほんとうに時間がかかっていた。
そういう時に、折り畳み式で駒がマグネットで盤から落ちないようになっていたモノが発売されていた。
当時はテレビコマーシャルもよくやっていた。
立派な碁盤と立派な駒であっても、
こんなオモチャのようなモノであっても、将棋は将棋であることに変りはない。
それこそオモチャのようなモノすらなければ、紙にマス目を描いて、
紙を切って駒にしても将棋は将棋である。
それすらなければ、プロ棋士ならば、頭の中だけで対局をやっていくのだろう。
私は将棋は駒の動かし方をかろうじて知っているだけで、
それも小学校の時に親から習って、それからこれまで将棋を指したことはない。
そんな私の考えることだから、大きく違っている可能性もあるだろうが、
プロ棋士にとって、目の前にある碁盤の立派さとは、どれくらい影響するものだろうか。
ほとんど影響しないのではないか。
将棋とオーディオは違う。
そうなのだが「3月のライオン」を見ていると(読んでいると)考える。
そういう視点からピュアオーディオということばを捉え直してみることを。