Archive for category 終のスピーカー

Date: 1月 19th, 2021
Cate: 終のスピーカー

無人島に流されることに……(その10・補足)

五味先生が、「オーディオ愛好家の五条件」で、こう書かれている。
     *
 むかしとちがい、今なら、出費さえ厭わねば最高級のパーツを取り揃えるのは容易である。金に糸目をつけず、そうした一流品を取り揃えて応接間に飾りつけ、悦に入っている男を現に私は知っている。だが何と、その豪奢な応接間に鳴っている音の空々しさよ。彼のレコード・コレクションの貧弱さよ。
 枚数だけは千枚ちかく揃えているが、これはという名盤がない。第一、どんな演奏をよしとするかを彼自身は聴き分けることが出来ない。レコード評で「名演」とあればヤミクモに買い揃えているだけである。ハイドンのクワルテット全八十二曲を彼を持っている、交響曲百四曲のうち、当時録音されていた七十余曲を揃えて彼は得意だった。私が〝受難〟をきかせてくれと言うと、「熱情? ベートーヴェンのか? ハイドンにそんな曲があるのか?」と反問する。そういう人である。ハイドンとモーツァルトの関係が第四十九番のこのシンフォニーで解明されるかも知れないなどとは、夢、彼は考えもしないらしい。
     *
ハイドンの交響曲第49番は、La passioneであり、受難である。
なのに、「音痴のためのレコード鑑賞法」では、「情熱」(交響曲四九番)となっている。

「音痴のためのレコード鑑賞法」を入力したのは三十年近く前のことだ。
その時も気になっていた。
五味先生が、間違えるはずはない、と。

今回、引用する際も、やはり気になった。
「情熱」を「受難」と訂正しておこうか、とも考えたが、
引用なので、そのまま「情熱」とした。

ここを読まれている方のなかには、気づかれる人もいると思っていた。
気づいても、何もいわない人もいるし、コメントかメールしてくる人もいるはず。

そう思いながら公開した。
昨晩、ある方からメールがあった。
タイトルには、「ハイドンの交響曲四九番について」とあった。

情熱と受難についての指摘だろう、と思いつつ読んでみると、果たしてそうだった。
その方は、「オーディオ愛好家の五条件」のくだりも記憶されていた。

「オーディオ愛好家の五条件」を読んでいない人でも、
クラシックを聴いている人ならば、「情熱」ではないことに気づく。

気づいた方からのメール、
しかも五味先生の文章をしっかりと読まれている方からのメールは、
もらって嬉しいものである。

「音痴のためのレコード鑑賞法」がおさぬられている「いい音いい音楽」は、
読売新聞社から出ている。

五味先生が受難を情念とされるはずはない、と信じているので、
編集者のミスなのだろう、と私は思っている。

Date: 1月 17th, 2021
Cate: 終のスピーカー

無人島に流されることに……(その10)

五味先生が、「音痴のためのレコード鑑賞法」で、こんなことを書かれている。
     *
 ハイドン(一七三二—一八〇九)もバッハにおとらず沢山の作品がある。ことに交響曲と弦楽四重奏曲はモーツァルト、ベートーヴェンなどに多くの教化を与えたもので、秀作も多い。だが、初心者には交響曲を聴くことをすすめる。一般には「軍隊」や「時計」「驚愕」「玩具」など標題つきのものが知られているが、もし私が、百五曲のハイドンの交響曲で何をえらぶかと問われれば、躊躇なく「情熱」(交響曲四九番)と第九五番のシンフォニー(ハ短調)を挙げるだろう。この二曲には、ハイドンの長所がすべて出ているからで、初心者にも分りやすい。
「ハイドンは朝きく音楽だ」
 と言った人があるほど、出勤前などの、爽快な朝の気分にまことにふさわしい音楽である。そしてあえて言えば、ハイドンは男性の聴く音楽である。
     *
無人島に流されることになったら、ハイドンに関しては、
私は交響曲も弦楽四重奏もいらない。
グレン・グールドのハイドンがあればいい。

「ハイドンは朝きく音楽だ」はそのとおりだ、と思う。
けれど、ここでの「朝」は毎日訪れる朝だけでなく、
別の意味の「朝」もあるように、入院している時に感じていた。

退院間近になって、治り始めていることを実感できるようになったときに、
グレン・グールドのハイドンを口ずさんでいた、ということが、そうなのだろう。

Date: 10月 20th, 2020
Cate: 終のスピーカー

最後の晩餐に選ぶモノの意味(その7)

来年、五味先生の享年と同じになるのだが、
特に病気を患っているわけでもないし、健康状態はいい。
あとどれだけ生きられるのかはわからないけれど、まだまだ生きていられそうである。

二十年くらいは生きてそうだな、と思っている。
あと二十年として、その時77になっている。

身体は、そのころには、けっこうぼろぼろになっていよう。
ぼろぼろになっているから、くたばってしまうのだろう。

ここで書いているシーメンスのオイロダインも、そのころにはぼろぼろになっていることだろう。
劇場用スピーカーとして製造されたモノであっても、もとがかなり古いモノだけに、
二十年後に、よい状態のオイロダインは、世の中に一本も存在していないように思う。

そんなことがわかっているのに、音の最後の晩餐に、何を求めるのだろうか──、
そんなことを書いているのは、無意味でしかない、といえば、反論はしない。

非生産的なことに時間を費やす。
愚かなことであろう。

悔いがない人生を送ってきた──、とそのときになっていえる人生とはまったく思っていない。
最後の晩餐を前にして、悔いが押し寄せてくるのかもしれない、というより、
きっとそうなる。

最後の晩餐に食べたいものは、私にはないのかもしれない。
あったとしても、それを食べることよりも、一曲でいいから、
聴きたい(鳴らしたい)音で、それを聴ければいい。

でも、そこでも悔いることになる。
私がくたばるころには、まともなオイロダインはなくなっているのだから。
おそらく、これが最後の悔いになるだろう。

それまでのすべての悔いが吹き飛ぶくらいの悔いになるかもしれない。

フルトヴェングラーの音楽は、そのころも健在のはずだ。
オイロダインなんて、古くさいスピーカー(音)ではなくて、
そのころには、その時代を反映した音のスピーカーが登場してきているはずだ。

それで聴けばいいじゃないか、と思えるのであれば、こんなことを書いてはいない。
ただただオイロダインで、フルトヴェングラーを最後の晩餐として聴きたいだけなのだ。

Date: 10月 8th, 2018
Cate: 終のスピーカー

無人島に流されることに……(その9)

いまでこそ、グレン・グールドのハイドンは、
私にとってなくてはならない一枚なのだけど、最初からそうだったわけではない。

20代の前半は、ハイドンもいいけれど……、といったところがあった。
やっぱりグールドはバッハ、ブラームス、モーツァルトと思い込もうとしていたフシがある。

以前書いているように27のときに左膝を骨折した。
一ヵ月半ほど入院していた。

当時はiPhoneなどなかった。
CDウォークマンも持っていなかった。
音楽を聴けるわけではなかった。

入院して一ヵ月ぐらい経ったころだったか、
ハイドンのピアソナタを口ずさんでいるじぶんに気づいた。
松葉杖をついて歩いている時に、口ずさんでいる。

もちろんグールドの演奏を口ずさんでいた。
ハイドンを、私はグールドの演奏で初めて聴いた。

その後、ブレンデルを聴いている。
ブレンデルの演奏を聴いていて、なんて変った演奏なんだろう、と感じるほど、
グールドのハイドンは聴いていた。

そうやって聴いていたグールドのハイドンを、
退院が近くなったころに、口ずさんでいた。
まだまだリハビリは必要だったけれど、治りつつあるのを感じていたのかもしれない。

そのときのハイドンである。
ハイドンよりも、バッハは、もっと多く聴いていたのに、
バッハを口ずさむことは退院するまでおとずれなかった。
グールドのハイドンの置き位置が、変った。

Date: 10月 7th, 2018
Cate: 終のスピーカー

無人島に流されることに……(その8)

フリードリヒ・グルダのthe GULDA MOZART tapes のI集とII集について以前書いている。
録音は決してよくない。
それでもthe GULDA MOZART tapes のI集とII集で聴けるモーツァルトは、ほんとうに素晴らしい。

聴いていて、ふと思ったことがある。
グルダのハイドンを聴いていないことに気がついた。

グルダ、ハイドンで検索してみても、ほとんどヒットしない。
私がグルダの聴き手として怠慢ゆえに聴いていないだけでもなさそうである。

その7)を書く数ヵ月前に、the GULDA MOZART tapesを聴いていて、
グルダのハイドンを聴いてみたい、と思っていた。

と同時に、the GULDA MOZART tapes のI集とII集にあたる録音は、
グレン・グールドだと、どれなのか、とも思った。

すぐに、ハイドンだ、と思った。
そう思ったからこそ、グルダのハイドンを無性に聴きたくもなったわけだ。

グールドもモーツァルトは録音している。
黒田先生は《狂気と見まごうばかりの尋常ならざる冷静さ》と書かれていた。

そういえるし、五味先生もグールドのモーツァルトは高く評価されていた。
     *
暴言を敢て吐けば、ヒューマニストにモーツァルトはわかるまい。無心な幼児がヒューマニズムなど知ったことではないのと同じだ。ピアニストで、近頃、そんな幼児の無心さをひびかせてくれたのはグレン・グールドだけである。(凡百のピアニストのモーツァルトが如何にきたなくきこえることか。)哀しみがわからぬなら、いっそ無心であるに如かない、グレン・グールドはそう言って弾いている。すばらしいモーツァルトだ。
(五味康祐「モーツァルト弦楽四重奏曲K590」より)
     *
そのとおりだとおもう。
それでも、グルダのthe GULDA MOZART tapes のI集とII集を聴いていると素直になれる。
録音がよくないこともあって、これでいいだろう、と素直におもうところがある。

グールドのモーツァルトだと、そうはいかないところが、私にはある。
もっと何かを求めようとしている自分に気づく。

Date: 7月 13th, 2018
Cate: 終のスピーカー

無人島に流されることに……(その7)

無人島に流されることになったら、何をもっていくのか。
ここではレコード(録音物)について書いている。

そのレコードがLPであれ、CDであれ、他のメディアであれ、
それを再生するためのシステムが絶対に必要になる。

そのシステムをどうするのか。
ここから始めなければ、答は出るようで出ない、ところもある。

それに、その無人島にどのくらいの期間いるのか。
死ぬまでなのか、それとも期限付きなのか。

その期限は一年、二年、もっと長くて五年、十年なのか。
その長さによっても、答は微妙に変ってこよう。

それにその無人島の環境はどうなのか。
暖かいのか、それとも寒い地域にある無人島なのか。

つねにどんよりした雲が覆っている日ばかりが続くのか。
それともからっとさわやかな風が吹き、青空の下で音楽を聴くような環境なのか。

そんなことをひとつひとつ考えていったら、きりがない。
「無人島に……」と聞いて、真っ先に浮ぶレコード。
上記したこまかなことなどは関係なく真っ先に浮ぶレコードはなんなのか。

まず浮んだのは、グレン・グールドのレコード(録音物)である。
バッハでもない、モーツァルトでもない、ブラームスでもない、
ハイドンである。

Date: 7月 4th, 2018
Cate: 終のスピーカー

無人島に流されることに……(その6)

ロック・ポップス、ジャズに、ほんのわずか触れたけれど、
私が聴くのはクラシック音楽だから、
「無人島に……」という問いには、クラシック音楽について考えることになる。

その3)で、シェイクスピア全集にあたるのは、
ワーグナーの楽劇だろう、とした。

そういえば……、とフルトヴェングラーの「音楽ノート」をひっぱり出してきた。
     *
 たいていの人は(ヘルマン・ヘッセにしても、詩人といえば美しい言葉で美しい感情を表現することのできる人間であると考えている。私の見かたによれば、詩人、とりわけ劇作家とは人間を創造しうる人にほかならない。詩人が言葉をまったく必要としないとき、すなわち状況もしくは人間の行為や反応がすでに一切を言い尽くしてくれるとき、彼は最も偉大である。シェイクスピア、ヴァーグナー、グリルパルツァーなどはこのような詩人である。月並みのドイツ人は詩人としてのヴァーグナーとグリルパルツァーを看過している。ヴァーグナーあるいはグリルパルツァーが描く形象の深い真実は、それが語るものを通して示されると同様に、それが沈黙するもの、すなわち語らないものを通しても示される。これらすべての形象はいくらかのものを──場合によってはきわめて多くのものを──沈黙せねばならぬ。ただし、それらの本性のうちに宿る沈黙を通してであり、たとえばイプセンに見られるような文学上の「技法」によって沈黙するのではない。
     *
シェイクスピア全集にあたるものとして、
クラシック音楽においてはワーグナーの楽劇は的外れでは決してない。

だからマタイ受難曲とワーグナーの楽劇は、
必ず無人島にもっていくものとして除外して考えることになる。

Date: 6月 30th, 2018
Cate: 終のスピーカー

無人島に流されることに……(その5)

(その4)への友人からのコメントがfacebookにあり、
またダイレクトメッセージでも届いた。

ビートルズ(The Beatles)ではじまり……でおわる。
Sさんは、The BeatlesではじまりLed Zeppelinでおわる、と。
OさんはThe BeatlesではじまりFrank Zappaでおわる、と。

おもしろい。
この思考は、人によって違ってくるはず。

私はたまたまパッと思い浮かんだビートルズを最初にもってきただけであって、
人によっては、いやビートルズではなくて……、だったりするだろう。

はじまりもおわりも人によって違ってくるし、
はじまりが同じでもおわりは違う(その逆もある)。

五味先生は
《しばらくして群小音楽に超越したモーツァルトにめぐり会う。ほぼこれが(モーツァルトが)カタログの中央に位置するピーク》
とも書かれている。

ロック・ポップスで、モーツァルトの位置にいるのは誰なんだろうか。
何もMにこだわることはないわけだが、ロック・ポップスにあまり明るくない私は、
マイケル・ジャクソンが浮ぶ。

レッド・ツェッペリン、フランク・ザッパはラストネームがZなのに、
マイケル・ジャクソンはファーストネームがMである。

でもいいじゃないか。マイケル・ジャクソンは、マイケルで通用しているし、
父親との関係において、モーツァルトとマイケル・ジャクソンは、
共通するところがないわけでもない(そんなふうに感じている)。

ここで、ではジャズでは、と考える。
ここではMが最初に浮ぶ。
中央に位置するピークは、マイルス・デイヴィスではないのか。

はじまりは、チャーリー・パーカーが浮ぶ。
彼もまたBだ。バード(Bird)だから。

Date: 6月 29th, 2018
Cate: 終のスピーカー

無人島に流されることに……(その4)

(その2)で書いたこと。

聖書とシェイクスピア全集。
レコード(ディスク)で、この二つに相当するものはあるだろうか。

ロック・ポップスを中心に聴く人たちにとっては、
ビートルズとあとひとつ何かなのだろうか。

あまり考えなしに書いてしまった。
今朝(その3)を書いて気づいた。

ビートルズもまたBからはじまる。
クラシックのバッハと同じである。

ならばクラシックはワーグナーのWで、一応おわる。
ロック・ポップスも、ここもまた同じなのか。
Wのあとにもアルファベットは、XYZと続くから、Wに限らなくてもいい。

《バッハではじまりワグナーでおわる》のように、
ビートルズではじまり……でおわる、となるのか。
だとしたら、何が来るのか。

Date: 6月 29th, 2018
Cate: 終のスピーカー

無人島に流されることに……(その3)

「無人島に……」という質問では、イギリスでは持っていく本に限っては、
聖書とシェイクスピア全集は除外される。

つまりこのふたつは必ず持っていくものの中に最初から含まれている。
それ以外、何を持っていくのかが問われている。

クラシック音楽好きにとっての、聖書とシェイクスピア全集にあたる音楽作品。
その2)で、マタイ受難曲か、と書いた。

マタイ受難曲を聖書とすれば、シェイクスピア全集はワーグナー楽劇すべて、となるのか。
そこまでいかなくとも「ニーベルングの指環」、
それから「パルジファル」、「トリスタンとイゾルデ」は加えておきたい。

マタイ受難曲とワーグナーの楽劇。
マタイ受難曲はバッハである。
そこで思い出すのが、五味先生の「シュワンのカタログ」である。
     *
 シュワン(Schwan)のカタログというのは大変よくできていて、音楽は、常にバッハにはじまることを私達に示す。ベートーヴェンがバッハに先んずることはけっしてなく、そのベートーヴェンをブラームスは越え得ない。シュワンのカタログを繙けば分るが、ベートーヴェンとヘンデル、ハイドンの間にショパンと、しいて言えばドビュッシー、フォーレがあり、しばらくして群小音楽に超越したモーツァルトにめぐり会う。ほぼこれが(モーツァルトが)カタログの中央に位置するピークであり、モーツァルトのあとは、シューベルト、チャイコフスキーからビバルディを経てワグナーでとどめを刺す。音楽史一巻はおわるのである。
 こういう見方は大へん大雑把で自分勝手なようだが、私にはそう思えてならぬ。今少し細分について言えば、ラフマニノフはプロコフィエフを越え得ないし、シューマンはひっきょうシューベルトの後塵を拝すべきだとシュワンはきめているように私には思える。
 ことわるまでもないが、シュワンのカタログは単にアルファベット順に作曲家をならべてあるにすぎない。しかしバッハにはじまりワグナーで終るこの配列は、偶然にしてもできすぎだと私は思うのだ。いつもそうだ。月々、レコードの新譜で何が出たかをしらべるとき、まずバッハのそれを見ることをカタログは要求する。バッハに目を通してから、ベートーヴェンの欄に入るのである。これは何者の知恵なのか。アイウエオ順で言えば、さしずめ、日本は天照大神で始まるようなものなのか。高見順氏だったと思うが、人生でも常に辞書は「アイ」(愛)に始まり「ヲンナ」でおわると冗談を言われていたことがある。うまくできすぎているので、冗談にせざるをえないのが詩人のはにかみというものだろうが、そういう巧みを人生上の知恵と受け取れば、羞恥の余地はあるまい。バッハではじまりワグナーでおわることを、音楽愛好家はカタログをひもとくたびに繰り返し教えられる。
     *
《バッハではじまりワグナーでおわる》、
たんなるアルファベット順の偶然でしかないのだが、
五味先生も指摘されているように《偶然にしてもできすぎ》である。

クラシック音楽をながく聴いてきた人ならば、同じに感じている人もいるはずだ。
ならば、これでいいではないか。

クラシック音楽好きが無人島に流されることになって、何を持っていくのか。
ここではマタイ受難曲とワーグナーの楽劇を持っていくことはいわずもがなの前提である。

そのうえで無人島に何を持っていくのか。

Date: 5月 7th, 2017
Cate: 終のスピーカー

無人島に流されることに……(その2)

本の場合、それもイギリスの場合、
聖書とシェイクスピア全集、この二つは、
「無人島に……」という質問では除外される、という。

ようするに聖書とシェイクスピア全集は必ず持っていくわけで、
それ以外に持っていく本は何か、という質問ということになる。

このことは、イギリスで「無人島に……」という質問に答える人は、
聖書とシェイクスピア全集を持っている人、
持たないでいられるわけがない人ということでもある。

この前提を知らずに、
イギリスでの「無人島に……」の本のセレクトを見たところで、
その理由の理解はおぼつかない、ということになろう。

聖書とシェイクスピア全集。
レコード(ディスク)で、この二つに相当するものはあるだろうか。

ロック・ポップスを中心に聴く人たちにとっては、
ビートルズとあとひとつ何かなのだろうか。
ジャズだと、何になるのだろうか。

クラシックでは、マタイ受難曲ということになるのか。

Date: 5月 7th, 2017
Cate: 終のスピーカー

無人島に流されることに……(その1)

音楽雑誌、オーディオ雑誌でも、
この手の記事が昔から続いている。

「無人島に流されることになったら、どのレコード(ディスク)を持っていくか」である。
音楽雑誌、オーディオ雑誌だからレコードであるわけだが、
一般雑誌では、どの本を持っていくか、である。

「無人島に流されることになったら……」、
この手の記事を読むのは楽しいけれど、
この質問をされたら、考え込んでしまうだろう。
レコードにしても、本にしても、何を持っていくのかは、
どれだけ持っていけるのかも関係してくるし、
無人島に流される期間が死ぬまで続くのか、
一年とか五年とか、その期限が来たら、元の生活に戻れるのか、
そういったこととと決して無関係ではない。

それにレコード(ディスク)の場合、
当然、再生装置が必要になるわけで、
無人島に電気があるわけないだろう、ということは無視して、
再生装置とそれが設置できる空間は用意されているという前提がなければ、
この手の質問は成り立たない。

再生装置もレコードと同じように選べるのか。
だとしたら、どういう再生装置を選ぶのか。

これもレコードと同じで、無人島に流される期間によって左右される。
それに持参するレコードによっても左右される。
レコードの選択自体も、再生装置によって左右される。

こんなふうに考えていくと、レコードの選択はできなくなるから、
「無人島に……」という質問(記事)の場合、
流される人が現在所有している(鳴らしている)再生装置が、
そのまま無人島での再生装置となる、という無言の大前提があるのだろう。

Date: 8月 27th, 2016
Cate: 終のスピーカー

最後の晩餐に選ぶモノの意味(その6)

モーツァルトのレクィエムとは逆に、
フルトヴェングラーによるマーラーは、第二次大戦後になる。

ナチス時代のドイツでユダヤ人作曲家のマーラーの作品の演奏は不可能だったし、
いかなフルトヴェングラーでも、それを覆すことも不可能だったのだろう。

フルトヴェングラーのマーラーは「さすらう若人の歌」が残されている。
フィッシャー=ディスカウとの演奏・録音である。

ここでのフィッシャー=ディスカウの歌唱は、
人生で一度きりのものといえる──、というのは、これまでに何人もの方が書いている。
その通りの歌唱である。

フィッシャー=ディスカウは何度も、その後「さすらう若人の歌」を録音している。
すべてを聴いてはいないが、フルトヴェングラーとの演奏を超えている、とは言い難い。
歌い手として成熟・円熟していくことが、すべての曲においてよい方向へと作用するわけではないことを、
フィッシャー=ディスカウが27歳のときの歌唱は証明しているように感じられる。

マーラーがユダヤ人でなかったとしたら、
ナチス時代にマーラーの演奏が可能だったとして、
さらにそのときに27歳のフィッシャー=ディスカウがいたとして、
いまわれわれが聴くことができる「さすらう若人の歌」が聴けただろうか……、
となるとそうとはいえないような気がする。

ナチス時代の終焉という戦後になされた「さすらう若人の歌」、
第二次大戦後、一度も演奏されることのなかったモーツァルトのレクィエム。
おそらくレクィエムを聴くことはできないであろう。
ならば想像するしかない。

Date: 8月 27th, 2016
Cate: 終のスピーカー

最後の晩餐に選ぶモノの意味(その5)

フルトヴェングラーのモーツァルトのレクィエムは、
死ぬまでに聴きたい、と思う。
けれど、いまのところLPでもCDでも出ていない(はずだ)。

五味先生が書かれていた。
     *
 フルトヴェングラーが、ウィーンで『レクィエム』を指揮した古い写真がある。『レクィエム』とは、こうして聴くものか、そう沁々思って見入らずにおられぬいい写真だ。フルトヴェングラーがいいからこの写真も一そうよく見えるにきまっているが、しかしワルターでもトスカニーニでもこの写真の雰囲気は出ないように思う。私はこんなレコードがほしい。(「死と音楽」より)
     *
これを読んでいるから、どうしても聴きたい、と思う。
録音が残っていないのか。

調べるとフルトヴェングラーがレクィエムを指揮したのは、1941年が最後である。
第二次大戦後は一度もレクィエムを指揮していない。

その理由はわからない。

Date: 10月 2nd, 2015
Cate: 終のスピーカー

最後の晩餐に選ぶモノの意味(その4)

続きを書くにあたって、迷っていた。
確認しておきたいことがあったけれど、
それが何に、いつごろ載っていたのかうろおぼえで、どうやってその本をさがしたらいいのか。
しかも、それは購入していた本ではない。
どこかで目にしたことのある本だった。

国会図書館に行き、じっくり腰を据えてさがしていけばいつかはみつかるだろうが、
それでは時間がどのくらいかかるのかわからない。

うろおぼえの記憶に頼って書くしかない……、と思っていたところに、
その本そのものではないが、
私が確認しておきたかった(読みたかった)記事が再掲されたムックが出ていた。

河出書房新社の「フルトヴェングラー 最大最高の指揮者」に載っていた。
7月に出たこの本の最後のほうに、「対談 フルトヴェングラーを再評価する」がある。
音楽評論家の宇野功芳氏と指揮者の福永陽一郎氏による、1975年の対談である。

この対談の福永氏の発言を、どうしても引用しておきたかったのだ。
     *
福永 ぼくがこのごろ思っていることは、フルトヴェングラーはいわゆる過去の大家ではないということです。つまりほかの大家、大指揮者というのは、みんな自分たちの大きな仕事を終わって、レコードにも録音して死んじゃったんですけれども、フルトヴェングラーというのは、そうではなくて、いまレコードで演奏している。つまり生物的には存在しない人間なんだけれども、いまなお、そのレコードを通して演奏している演奏家で、だから新しいレコードが発見されれば、ちょうどいま生きている演奏家の新しい演奏会を聴きに行くように聴きたくなる。そういう意味で、つまり死んでいないという考え方なんです。
 過去の演奏会ではない、いまだに生き続けている。あのレコードによって毎日、毎日鳴り続けている指揮者であると、そういう指揮者はほかにいないというふうに、ぼくは考えるわけです。だから、ほかの指揮者は過去の業績であり、あの人は立派だった、こういうのを残したという形で評価されているけれども、フルトヴェングラーの場合は、レコードが鳴るたびに、もう一ぺんそこで生きて鳴っているという、そういうものがあの人の演奏の中にあると思うんです。それがいまの若い人でも初めて聴いたときにびっくりさせる。
 つまり、過去の大家の名演奏だと教えられて、はあそんなものかなと聴くんじゃなくて、直接自分のこころに何か訴えてくるものがあって、自分の心がそれで動いちゃうということが起こって、それでびっくりしちゃって、これは並みのレコードとは違うというふうに感じるんじゃないか。そうするともう一枚聴きたくなるという現象が起きるんじゃないかという気がするわけですね。
     *
福永氏が語られていることをいま読み返していると、
フルトヴェングラーは、演奏家側のレコード演奏家だということをつよく感じる。