Archive for 1月, 2018

Date: 1月 31st, 2018
Cate: audio wednesday

第85回audio wednesdayのお知らせ(SACDを聴く)

1月3日のaudio wednesdayでは、
パイオニアのSACDプレーヤーPD-D9がなかなかいい音を聴かせてくれた。

そのときは何の問題もなく再生できたが、その後、再生が止ることが発生したらしい。
しかも毎回止るわけではなく、ときどきその現象が発生するとのこと。

2月7日のaudio wednesdayでは、だから別のSACDプレーヤーが用意されることになっている。
今年中にはSACDプレーヤーを導入します、と店主の福地さんは昨年から宣言していた。
PD-D9の音、そして不調が導入の時期を早めることになりそうだ。

テーマは「SACDを聴く」でいく。
大丈夫のはずである。

ただ心配なのはスピーカーである。
1月のときにも、左チャンネルのドライバーの音が、うまく鳴っていないことを、
セッティングをやっているときから感じていた。

ある客が、アルテックのドライバーの上に、グッドマンのトゥイーターを落としたようだ。
トゥイーターの端子とハウジングの一部が欠けていたし、
ドライバーの下の角材の一部も固い物がぶつかった跡が残っていた。

もしかするとスピーカーが万全とはいえない状態かもしれない。
そうだっとしても、なんとか鳴らしていくつもりだ。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時開始です。

Date: 1月 31st, 2018
Cate: 菅野沖彦

「菅野録音の神髄」(その9)

江崎友淑氏の話は、曲と曲とのあいだだけだったから、
トータルしてもそれほど長くはなかった。
正直もっと話を聞きたいと思うほど、興味深い内容だった。

ピアノ録音についての話があった。
これは初めて聞くことだった。

どんな人でも、アマチュアであろうとプロフェッショナルであろうと、
ピアノを録音しようとした際、マイクロフォンの正面をピアノに向ける。

マイクロフォンの高さや角度、ピアノとの距離などは人によって違ってきても、
ピアノに向けずに、という人はいないだろう。

江崎友淑氏が菅野先生とピアノ録音をやったとき、
マイクロフォンのセッティングは江崎友淑氏がやられた。
その時、菅野先生が「こういうセッティングはどうだろう」とやられたのは、
マイクロフォンの正面をピアノではなく床に向けてのセッティングだった。

ピアノ録音については、ステレオサウンド 47号「体験的に話そう──録音と再生のあいだ」で、
保柳健氏と対談をされている中でも語られている。
     *
保柳 あなたのピアノのとり方を見ていると、確かに私なんかより、ずっとピアノに接近しているのですね。いつだったか、それこそ、深町純のピアノをいろいろな形でとってもらった。全体に私より、イメージがアップなんてす。あの場合スタジオでしたから、まわりの雰囲気というのは全くないわけです。
菅野 雰囲気でしょ、あなたは。そこが違うんです。私は雰囲気ではないんです。響きのよいホールでは、スタジオよりマイクロフォンを遠くへ置きます。それは雰囲気をとるためじゃないのです。それは、そういう音をとるためなのです。良いソノリティを持った複雑な成分、間接の成分を持ったホールの場合には、雰囲気ではなくて、そのようなホールで鳴っているピアノの音を、そうした方が良い音になるから、そうする。決して雰囲気のためではない。あなたをホールへ導きますよとか、こういうホールで鳴っているんですよと伝えるために、やっているのではないのです。だからスタジオへ行くと、全然楽器の響きを助けないわけです。無駄ですからね。むしろ、楽器そのものの音をとろうと、アップになります。
     *
この対談は47号だけでなく、48号、49号の三回連載であり、濃い内容だ。
40年前、ステレオサウンドは、こういう記事をつくっていたのだ。

この対談からは、もう少しばかり引用していく。

Date: 1月 30th, 2018
Cate: 「オーディオ」考

指先オーディオ(その2)

指先オーディオ。
ここでは、どちらかといえばネガティヴなな意味で使っている。
でも、指先オーディオのすべてがネガティヴなものではない。

指先オーディオだからこそコントロール(調整)できるパラメータがあるわけだし、
最新のデジタル信号処理技術の進歩は、指先オーディオの未来でもある。

なのに、こんなことを書いているのは、
指先オーディオは感覚の逸脱のアクセルになることもありうるからだ。

dbxの20/20から始まった自動補正の技術は、
感覚の逸脱のブレーキとなる。
別項で書いているフルレンジのスピーカーも、感覚の逸脱のブレーキとなる。
優れたヘッドフォンもそうである。

自動補正(自動イコライゼーション)も、指先オーディオの機器のひとつといえる。
いまではスピーカープロセッサーと呼ばれる機器も登場している。

本来スピーカープロセッサーは、スピーカーシステムの最適化のために開発されたモノ。
けれど使い方によっては、スピーカープロセッサーは、感覚の逸脱のアクセルとなる。
簡単になってしまう。

実にさまざまなパラメータを、指先でいじれてしまう。
アナログ信号処理ではいじれなかった領域まで、指先ひとつでいじれる。

人によっては、ハマってしまう。
ハマってしまうことで、感覚の逸脱のアクセル化へと向うのは、
使い手に欠如しているものがあり、それを自覚していないからだ。

Date: 1月 29th, 2018
Cate: 楽しみ方

オーディオの楽しみ方(つくる・その22)

瀬川先生は
《レンジが広がれば雑音まで一緒に聴こえてくるからだというような単純な理由だけなのだろうか》
と書かれている。

SICAの10cm口径のダブルコーンのフルレンジがうまく鳴った音を聴いて、
50年前では考えられないほどのローノイズでの再生が、簡単にできるようになっても、
フルレンジ一発の音は、独自の美しさで音楽を鳴らす。

結局は、いまの技術ではレンジを広げるために、
スピーカーユニットの数を増やしていくことで、
雑音まで再生されるのではなく、何らかの雑音を発生させている──、
と考える方が理に適っている、と思う。

その雑音とは、一種類ではない。
電気的な雑音、機械構造的な雑音、音響的な雑音、
さらにいえば時間的な雑音、
それらいくつもの雑音が少しずつ発生してしまうから、
ひとつひとつの雑音はたいしたことはないのかもしれないが、
複雑に影響しあっているような気さえする。

ひとつひとつの雑音が音に与える影響は微々たるものであっても、
それらの雑音が相加・相乗作用によって、
音に与える影響の質、そしてその量が著しく変化するということかもしれない。

以前にも書いているが、有吉佐和子氏の「複合汚染」だ。
実際のところはどうなのかはわからない。
そう想像しているだけである。

けれど、少なくとも音楽の美しさに対しての影響は誰の耳にも明らかなはずだ。

Date: 1月 28th, 2018
Cate: 菅野沖彦

「菅野録音の神髄」(その8)

オーディオラボでの録音で菅野先生が使われていたテープデッキは、
スカリーの280Bである。

オーディオラボのレコードジャケット裏には、使用録音器材についての記載があった。
そこにもスカリーは書いてあったし、
ステレオサウンド 41号の特集「世界の一流品」で、菅野先生は280Bについて書かれている。

38号、60号で菅野先生のリスニングルームが載っている。
そのどちらにも280Bはある。

スカリーのテープデッキについては、菅野先生から聞いていることがあった。
スカリーのデッキで録音したテープは、
スカリーのデッキで再生しないと冴えない音になってしまうそうだ。

他社製のテープデッキでも、多少そういうところはあるが、
スカリーは特に顕著で、他社のテープデッキで再生したら、がっかりする、らしい。

そのことを江崎友淑氏も、オーディオラボの復刻にあたっての苦労話のひとつとして話された。
まずマスターテープを探すことから始まった。
保管場所は判明したものの、
今度はそこに辿りつくまでがほんとうに苦労した、とのこと。

そのへんの詳細は、3月発売のステレオサウンドの記事でも紹介されるのではないだろうか。
やっと手にしたマスターテープであったものの、聴いてみると、冴えない音で、
これでは復刻は無理だ、と思わざるをえなかった、と。

そのことを菅野先生に話したところ、
「それはそうだよ、スカリーのデッキで録音したのだから、スカリーで再生しないと」
といわれ、それからスカリーのテープデッキ探しが始まる。

日本のレコード会社ではスチューダーやアンペックスの方がよく使われていた。
スカリーは、この二社ほどは有名な存在ではない。
最終的にはキングレコードの倉庫に眠っていた、とのこと。

長らく使われていなかったスカリーの整備に数ヵ月。
そうやって再生できたマスターテープの音は、
先週録音したばかり、といわれても、そう信じてしまうくらいに、新鮮な音が鳴ってきた、と。

Date: 1月 27th, 2018
Cate: 楽しみ方

オーディオの楽しみ方(つくる・その21)

ステレオサウンド 5号は1967年12月に発売されている。
ダイレクトドライヴのアナログプレーヤーは、まだ登場していなかったし、
このころのアナログプレーヤーは、ゴロやハムに悩まされるモノが、
けっこうあった、ときいている。

いまデジタルをプログラムソースとして聴けば、
そんなゴロやハムはまったく出ないし、スクラッチノイズもない。

50年後のいま、ボザークのB4000のスコーカー(B80)だけを、
フルレンジとして鳴らしたら、どういう印象を受けるか。

おそらく瀬川先生が50年前にうけられた印象と同じだろう。
《清々しく美しかった》はずだ。

(その20)で引用した文章に続いて、瀬川先生はこう書かれている。
     *
 しかしその一方に、音楽から全く離れたオーディオというものが存在することも認めないわけにはゆかない。それは機械をいじるという楽しみである。たとえば3ウェイ、4ウェイの大型スピーカーをマルチ・アンプでドライブするような再生装置は、まさにいじる楽しみの極地であろう。わたくし自身ここに溺れた時期があるだけに、こういう形のオーディオの楽しみかたを否定する気には少しもなれない。精巧なメカニズムを自在にコントロールする行為には、一種の麻薬的快感すら潜んでいる。
 音色を、特性を、自由にコントロールできる装置は、たしかに楽しい。だが、そういう装置ほど、実は〈音楽〉をだんだんに遠ざける作用を持つのではないかと、わたくしは考えはじめた。これは、音質の良し悪しとは関係がない。たとえば、レコードを聞いているいま、トゥイーターのレベルをもう少し上げてみようとか、トーンコントロールをいじってみたいとか、いや、単にアンプのボリュームをさえ、調節しようという意識がほんの僅かでも働いたとき、音楽はもうわれわれの手をすり抜けて、どこか遠くへ逃げてしまう。装置をいじり再生音の変化を聴き分けようと意識したとき、身はすでに音楽を聴いてはいない。人間の耳とはそういうものだということに、やっとこのごろ気がつくようになった。しかもなお、わたくし自身はもっと良い音で音楽を聴いてみたいと装置をいじり、いじった結果を耳で確かめようとくりかえしている。五味康祐氏はこれをマニアの業だと述べていたが、言葉を換えればそれは、オーディオマニアとしての自分とレコードファンとしての自分との、自己分裂の戦いともいえるだろう。
     *
4ウェイのマルチアンプドライヴは《いじる楽しみの極地》だ。

その《いじる楽しみの極地》の出発点が、フルレンジであるということの意味。
それを忘れなければ、《レコードファンとしての自分》を見失うことはないはずた。

Date: 1月 27th, 2018
Cate: 川崎和男

KK適塾 2017(一回目・その5)

すべてに寿命がある、といっていいのだろう。
人にもモノにも寿命がある。

オーディオ機器もそうだ。
どんなに高価で信頼性を重視、故障しないよう設計製作されたモノであっても、
乱暴な使い方をしていれば、故障を招くし、
どんなに丁寧に使ってきたとしても、いつの日か、どこかに不調をきたす。

そこを修理する。
しばらくは動作していても、またどこかが不調になる。
前回と同じ箇所のこともあるし、別の箇所のこともある。
また修理。直ってくる。

それでまたしばらく使っていると……。
そのくり返しが続くことがある。

そういう例をSNSで何例か見かけたことがある。
使っている人にとっては、そのオーディオ機器は愛機なのだろう。
これまで使ってきたことによる思い入れは、他人には理解できない。

それでもモノには寿命がある。
どんなにしっかりと修理をしてくれる人(ところ)に頼んで、
きちんとした修理がなされたとしても、そのオーディオ機器は、もう老人なのである。

寿命を延ばしたい気持。
それがPPK(ピンピンコロリ)を遠ざけてしまうような気もする。

人とモノ(オーディオ機器)とは違うのはわかっているが、
けれど、果してそれほど違うのだろうか……、とも思う。

その4)に書いた仕事関係の人のおじさん。
彼が定期的に病院で健康診断を受けていれば、癌は早い時期に発見されていた可能性はある。
その段階で手術を受けていれば、もっと長く生きていられたかもしれないが、
果して、元気であっただろうか、とも思うし、どちらがPPKなのか、とも思う。

久坂部羊氏はいくつかの例を話された。
そのことについては、ここでは書かない。誤解を招くかもしれないからだ。
生体検査について話された。
そういう可能性がある、ということだった。

だから思うのだ。
PPKには諦観が求められている、と。

Date: 1月 27th, 2018
Cate: 楽しみ方

オーディオの楽しみ方(つくる・その20)

フルレンジの音で確認できる──、
そう書いていて思い出したのは、ステレオサウンド 5号に載っている瀬川先生の文章だ。

「スピーカーシステムの選び方 まとめ方」の冒頭に書かれていることだ。
     *
 N−氏の広壮なリスニングルームでの体験からお話しよう。
 その日わたくしたちは、ボザークB−4000“Symphony No.1”をマルチアンプでドライブしているN氏の装置を囲んで、位相を変えたりレベル合わせをし直したり、カートリッジを交換したりして、他愛のない議論に興じていた。そのうち、誰かが、ボザークの中音だけをフルレンジで鳴らしてみないかと発案した。ご承知かもしれないが、“Symphony No.1”の中音というのはB−800という8インチ(20センチ型)のシングルコーン・スピーカーで、元来はフル・レインジ用として設計されたユニットである。
 その音が鳴ったとき、わたくしは思わずあっと息を飲んだ。突然、リスニングルームの中から一切の雑音が消えてしまったかのように、それは実にひっそりと控えめで、しかし充足した響きであった。まるで部屋の空気が一変したような、清々しい音であった。わたくしたちは一瞬驚いて顔を見合わせ、そこではじめて、音の悪夢から目ざめたように、ローラ・ボベスコとジャック・ジャンティのヘンデルのソナタに、しばし聴き入ったのであった。
 考えようによっては、それは、大型のウーファーから再生されながら耳にはそれと感じられないモーターのごく低い回転音やハムの類が、また、トゥイーターから再生されていたスクラッチやテープ・ヒスなどの雑音がそれぞれ消えて、だから静かな音になったのだと、説明がつかないことはないだろう。また、もしも音域のもっと広いオーケストラや現代音楽のレコードをかけたとしたら、シングルコーンでは我慢ができない音だと反論されるかもしれない。しかし、そのときの音は、そんなもっともらしい説明では納得のゆかないほど、清々しく美しかった。
 この美しさはなんだろうとわたくしは考える。2ウェイ、3ウェイとスピーカーシステムの構成を大きくしたとき、なんとなく騒々しい感じがつきまとう気がするのは、レンジが広がれば雑音まで一緒に聴こえてくるからだというような単純な理由だけなのだろうか。シングルコーン一発のあの音が、初々しいとでも言いたいほど素朴で飾り気のないあの音が、音楽がありありとそこにあるという実在感のようなものがなぜ多くの大型スピーカーシステムからは消えてしまうのだろうか。あの素朴さをなんとか損わずに、音のレンジやスケールを拡大できないものだろうか……。これが、いまのわたくしの大型スピーカーに対する基本的な姿勢である。
     *
ボザークのスピーカーの持主のN氏とは、おそらくトリオの会長であった中野英男氏であろう。
トリオは昔ボザークの輸入元でもあった。

Date: 1月 26th, 2018
Cate: アナログディスク再生

DAM45(DSD 11.2MHz)

DAM45について書いたのは二年前。
今日の川崎先生のブログ「最高の音響を楽しんでください」は、
このDAM45が、ユニバーサルミュージックからDSD、
それも11.2MHzで配信が始まったことを知らせてくれる内容だった。

9タイトルが発売(配信)されている。
その9タイトルの中に、グラシェラ・スサーナが含まれている。

とにかく嬉しい。
まだDSD 11.2MHzの再生環境をもっていなから、
聴くことはすぐにはできないが、それでも嬉しいことにかわりはない。

9タイトルの詳細、
配信にいたるまでの経緯などは下記のリンク先を参照のこと。

DAMオリジナル録音DSD11.2配信9タイトル一覧

Date: 1月 26th, 2018
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(秋葉原で感じたこと・その3)

トロフィーとはなにかの賞を受けた時に記念として贈られるモノだ。
名誉ある賞もあれば、地域のスポーツ大会の賞ということもある。

どちらにしても、賞を主宰している側から贈られるのがトロフィーである。

自分で、自分に贈るのがトロフィーであるわけがない。
よく頑張った自分! といって、自分にトロフィーを──、と考えるのだろうか。

「功成り名遂げた人に相応しいオーディオ」、
自分で自分に贈るトロフィーとしては、向いていると思えるところもある。

オーディオはコンポーネントである。
スピーカーシステム、コントロールアンプ、パワーアンプ、
それにプレーヤーが必要になり、
さらにケーブル、ラックなども要る。

デジタル信号処理のプロセッサーもつけ加えれば、
システムのヴァリエーションも、ほぼ無限にあるといっていい。

つまり「人と違うの僕」用のトロフィーが組める。
世界にひとつしかないトロフィーができあがる。

そういう視点でオーディオを商売にしているのであれば、
共感はまったくできないが、なかなかうまい商売だな、と思わないわけではない。

つまり、その店は、オーディオ店ではないのだ。
トロフィー屋なのだ。

功成り名遂げた人が、自分に自分で贈るトロフィーを、
あれこれセレクトして、世界にひとつだけのシステム(トロフィー)をつくってくれる。
しかも、他の人よりも、もっと高価なシステム(トロフィー)を提案してくれる。

「人と違うの僕」は、「人よりも高いの僕」へところんでしまう。

Date: 1月 25th, 2018
Cate: 快感か幸福か
1 msg

快感か幸福か(秋葉原で感じたこと・その2)

その1)に、facebookにコメントがあった。

そのコメントにも、固有名詞はなかった。
私も(その1)でも固有名詞は出してないから、
コメントにあった人と私が書いた人とが同一人物なのか──。

いま秋葉原にオーディオ店はそれほど多くないし、
それほど高額なシステムを売っているところとなると、限定されてしまう。
同じ人であろう。

コメントには、
「功成り名遂げた人に相応しいオーディオ」といういいかたを、
非常に高額なシステムを売る人はしていたそうだ。

やっぱりそうだろうな、と思った。
そういう在り方のオーディオもありなんだなぁ……、と思う。

けれど「五味オーディオ教室」から始まった私のオーディオ、
そしてオーディオ観とはまったく別のことだ。

コメントには続きがある。
その高額なシステムを聴いていた人は幸せそうだった、と。
客を幸せにできるのだから、男冥利につきる仕事なんだろうと、思う、とあった。

聴いていた人は幸せそうだった、ようだ。
今回鳴っていた一億円近いステムまでいかなくとも、
数千万円のシステムであっても、その店の客として聴いている人にとっては、
トロフィーのようなものであり、
もっといえばトロフィーオーディオであり、
それはほんとうに幸せなのか、それとも快感をそう思っているだけなのか。

Date: 1月 25th, 2018
Cate: オーディオマニア

オーディオは男の趣味であるからこそ(その14)

エンクロージュアが鏡面仕上げになっているスピーカーシステムが、
正直苦手である。

鏡面仕上げが゛そのスピーカーシステムから出てくる音に寄与していることはわかっていても、
それでも苦手と感じてしまうのは、
そのスピーカーシステムを自分のモノとしたときのことを考えるからだ。

ひとりきりで音楽を聴ける空間(聖域)に、そのスピーカーを置く。
音は素晴らしい。
けれど、目をあけた瞬間に、エンクロージュアに惚けて聴いている自分の顔が映る。
こんな顔をして聴いていたのか、と思ってしまうからだ。

ひとりきりで音楽を聴くのは、
瀬川先生と同じで「音楽に感動して涙をながしているところを家族にみられてたまるか」である。

瀬川先生がどうだったのかはわからないが、
私はその姿を自分でもみたくないからである。

余韻に浸るためにも、みたくない。

もっとも人それぞれだから、音楽を聴いているときですら、ポーズをつけている人を知っている。
こういう人は、ひとりきりで聴くときもそうなのだろうか。
そうだとしたら、こういう人は鏡面仕上げのスピーカーに映る自分の顔にうっとりできる人なのだろう。

Date: 1月 24th, 2018
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(秋葉原で感じたこと・その1)

先週末秋葉原に行っていた。
せっかく来たのだから、ということで、とあるオーディオ店に行った。

そのオーディオ店の上の階は、そうとうに高価なオーディオ機器ばかりが置いてある。
その時、鳴っていたシステムの総額は、ケーブルも含めて9,800万円を超えていた。

ほぼ一億円である。
スピーカーシステムだけで、四千万円を超えていた。

店主とおぼしき人が、ソファの中央でひとり聴いていた。
他に客はいなかった。

私など客とは思われていない。
それはそれでかまわない。
そんなシステムを買えるだけの財力はないのだから、
店主とおぼしき人の、こちらのふところ具合を見る目は、確かな商売人といえよう。

鳴っていた音について書くのは控える。
書きたいのは、一億円近いシステムの音ではなく、
その音を聴いていた店主とおぼしき人の表情である。

鳴っていたディスクは、店主とおぼしき人の愛聴盤なのか。
それもはっきりしない。
その人がどういう人なのかも、はっきりと知らない。

ただ、その人の表情をみていて、彼が感じていたのは快感だったのか。
そんなことを考えていた。

よく知らない人だから、その人が幸福そうに音楽を聴いている表情がどんなものかも知らない。
知らないけれど、そうは見えなかった。

Date: 1月 23rd, 2018
Cate: 楽しみ方

オーディオの楽しみ方(つくる・その19)

聴感上のS/N比の向上が、聴感上のfレンジの向上に結びついているということは、
つまりは聴感上のS/N比の劣化が聴感上のfレンジを狭くしている、ということである。

このことは以前も書いているが、大事なことであるだけに忘れないでほしい。

どうせトゥイーターをつけるんだから、聴感上のfレンジが狭くなっていても、
別にかまわない、と考えないでほしい。

聴感上のfレンジがどの程度なのかによって、
トゥイーターの追加も、どのあたりクロスさせるか、そのへんのパラメーターも変ってくる。
当然だが、トータルのパフォーマンスも違ってくる。

聴感上のS/N比を劣化させないための方法は、
なにもCR方法だけではない。他にもいくつもある。

ひとつひとつは地味なこと、といっていい。
具体的なことは、あえて書かない。
聴感上のS/N比ということが、どういうことなのかがはっきりとわかってくれば、
どういうことをやればいいのかはおのずとはっきりしてくる。

CR方法をやる前は、トゥイーターをつけるにしても、
クロスオーバー周波数は3.5kHzあたりかな、
もし少し上まで使ったとしても6kHzが上限かな……、そんなふうに感じていた。

けれどCR方法で聴感上のfレンジがのびたSICAの音を聴いていると、
いわゆるトゥイーターをコンデンサーひとつだけで接ぐ、もっとも簡単なやり方で、
しかもトゥイーターのカットオフ周波数はぐんと上に持ってきても、
うまくいきそうというか、こっちの方がよさそうに思えてきた。

先週末、秋葉原に行き、コンデンサーを購入。
トゥイーターも先方にすでに届いている。
来週あたりには、トゥイーターをつけることになる。

土曜日には、ウーファーもつけたら……、という話が出た。
そうなるかもしれない……、と思いながら、
瀬川先生が4ウェイの自作システムを、フルレンジからスタートさせる、のは、
そういう意図があったのか、と気づいたことがある。

マルチアンプシステムで、4ウェイのシステムともなれば、
しかもユニットも混成ということになると、ひどくバランスを逸した音になることがある。
バランスを見失ってしまうことがある。

そんなとき、フルレンジからスタートしているわけだから、
いつでもフルレンジ単体の音を確認できる。

Date: 1月 22nd, 2018
Cate: ディスク/ブック

「かくかくしかじか」

かくかくしかじか」というマンガがある。
東村アキコの作品だ。

「かくかくしかじか」」の二話目の最後のページ、
     *
今の私には
分かります。

今さらもう
遅いよね

怒らないでね
先生
     *
というセリフ(独白)がある。
ここで直感した。

「先生」はもう亡くなっているんだ、と。

恩師と呼べる人をもち、
返事がないのはわかっていても、問いかけている人ならば、
すぐに気づくことだ。

三話目の最後のページにも、ある。
     *
そうだよ

最初から
お人好しだったんだよ
先生は

そうじゃなきゃ
バカなんだよ

大バカだよ

ねえ
先生
    *
作者の東村アキコ氏の気持がわかる人は、
恩師がいた人だ。