オーディオの楽しみ方(つくる・その21)
ステレオサウンド 5号は1967年12月に発売されている。
ダイレクトドライヴのアナログプレーヤーは、まだ登場していなかったし、
このころのアナログプレーヤーは、ゴロやハムに悩まされるモノが、
けっこうあった、ときいている。
いまデジタルをプログラムソースとして聴けば、
そんなゴロやハムはまったく出ないし、スクラッチノイズもない。
50年後のいま、ボザークのB4000のスコーカー(B80)だけを、
フルレンジとして鳴らしたら、どういう印象を受けるか。
おそらく瀬川先生が50年前にうけられた印象と同じだろう。
《清々しく美しかった》はずだ。
(その20)で引用した文章に続いて、瀬川先生はこう書かれている。
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しかしその一方に、音楽から全く離れたオーディオというものが存在することも認めないわけにはゆかない。それは機械をいじるという楽しみである。たとえば3ウェイ、4ウェイの大型スピーカーをマルチ・アンプでドライブするような再生装置は、まさにいじる楽しみの極地であろう。わたくし自身ここに溺れた時期があるだけに、こういう形のオーディオの楽しみかたを否定する気には少しもなれない。精巧なメカニズムを自在にコントロールする行為には、一種の麻薬的快感すら潜んでいる。
音色を、特性を、自由にコントロールできる装置は、たしかに楽しい。だが、そういう装置ほど、実は〈音楽〉をだんだんに遠ざける作用を持つのではないかと、わたくしは考えはじめた。これは、音質の良し悪しとは関係がない。たとえば、レコードを聞いているいま、トゥイーターのレベルをもう少し上げてみようとか、トーンコントロールをいじってみたいとか、いや、単にアンプのボリュームをさえ、調節しようという意識がほんの僅かでも働いたとき、音楽はもうわれわれの手をすり抜けて、どこか遠くへ逃げてしまう。装置をいじり再生音の変化を聴き分けようと意識したとき、身はすでに音楽を聴いてはいない。人間の耳とはそういうものだということに、やっとこのごろ気がつくようになった。しかもなお、わたくし自身はもっと良い音で音楽を聴いてみたいと装置をいじり、いじった結果を耳で確かめようとくりかえしている。五味康祐氏はこれをマニアの業だと述べていたが、言葉を換えればそれは、オーディオマニアとしての自分とレコードファンとしての自分との、自己分裂の戦いともいえるだろう。
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4ウェイのマルチアンプドライヴは《いじる楽しみの極地》だ。
その《いじる楽しみの極地》の出発点が、フルレンジであるということの意味。
それを忘れなければ、《レコードファンとしての自分》を見失うことはないはずた。