Archive for 1月, 2011

Date: 1月 31st, 2011
Cate: ちいさな結論

続・ちいさな結論(その3)

「音」と「言」については、川崎先生の書かれたもの、講演を、読み聴きされているかたならば、
目に、耳にされたことがあるはずだ。

何度か目にして耳にしている。
そしてやっと気がついたことは、
「心はかたちをもとめ、かたちは心をすすめる」という、この釈迦のことばと結びついていくことだ。

このことばについては、このブログをはじめたころに書いている。

このことばと、川崎先生の「いのち、きのち、かたち」は、心の中でくり返す。

「音」と「言」──、こじつけだといわれそうだが、こういえないだろうか。
「音は言をもとめ、言は音をすすめる」と。

Date: 1月 30th, 2011
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(続々続・四季を通じて)

オーディオにおいては、どうしてもふたつの音をくらべて、その違い(差)に対して敏感であろうとする。
だが、ここだけに敏感であろうとすればするほど、間違いも犯しやすくなる、といえる。

もうひとつ変化に対しても、敏感でありたい。

音は一時たりとも同じ表情はしていない。音楽も、一瞬たりとも同じ表情はしない。
同じフレーズをくり返すときでも、表情までがまったく同じことはない。
例外的にくり返しのフレーズにおいて、同じ録音を採用するときもあるが、
これとて、その直前に演奏されるフレーズによって、表情は結果として変化する、ともいえよう。

同じような表情はあっても、まったく同じ表情はない。
表情は変化している。
こういう表情の変化に敏感であることが、使いこなしにおいては重要である。

どこもいじらなくても、なにか変えなくても、音は聴いているうちに変化していく。
アンプがあたたまってくると、それでも音は変るし、
スピーカーも、とくにしばらく鳴らしていないスピーカーほど、鳴らしていくうちに変っていく。

そういうひとつの流れの中にある変化は、むしろ意識せずに聴いてる方が、敏感に感じとれる。
それは季節の変り目と同じようで、はっきりとした変り目が存在するわけではないけれど、
あきらかにはっきりと変った、と感じられるものだ。

Date: 1月 30th, 2011
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(その17)

DVDは、Digital Versatile Discの略だが、
最初はDigital Video Discとして企画されたものだったはず。

CDが、音楽のパッケージとして使われるだけでなく、
パソコン用のソフトのインストーラーや当時としては大容量のメディアとしても使われていったように、
DVDも、ビデオだけの利用にとどまらず、多用途なディスクとしての意味で、
videoが、versatile(多用途)へと変更された。

バーサタイル(versatile)と対比させることで、
ユニバーサル(universal)の意味がはっきりとしてくる気がする。

Date: 1月 30th, 2011
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(続々続々・余談)

Ampzillaのキットが、どういう内容だったのか、その詳細は知らない。

すべての部品が未実装で、
トランジスター、コンデンサー、抵抗をひとつひとつプリント基板にハンダ付けしていく形だったのか、
それともプリント基板にそれらの部品はすでにハンダ付けされていて、電源トランス、平滑コンデンサー、
プリント基板、そういった大きなものをシャーシー内に配置して結線して形だったのか……。

おそらくハフラーのキットがそうだったように後者の形をとっていたのではなかろうか。

どちらしてもキット販売をするということは、かなりアンプの安定度に自信がないとできないことだ。
ひじょうにクリティカルな設計のアンプを、キットで売るようなことは、いかにボンジョルノでもやらないだろう。

それにThe Goldを買う前に、こんなことをきいたことがある。
The Gold、The Powerにしてもアンプそのものは非常に安定している。
問題があるのは、アンバランス/バランスの変換回路のところだ、ということだった。

この話の出どこは、海外アンプのメインテナンスでは、高い技術をもっていると評判の人から、である。

SUMOのアンプは、コンシュマー用パワーアンプとしては、完全にバランス構成となった最初のモノだ。
だからアンバランス入力とフォーンジャックによるバランス入力がある。

フォーンジャックからのバランス信号はそのままバランス構成の電圧増幅部にはいっていくが、
アンバランス信号は、OPアンプで反転信号をつくりバランス化して電圧増幅部へ、といく。
この変換回路を、トランスに置き換えてしまえば、アンバランス信号をバランス信号にでき、
動作に問題はなくなる、ということだ。

Date: 1月 30th, 2011
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(続々続・余談)

日本ではボンジョルノのアンプは、音は抜群にいいけど、それと同程度に不安定という評価が、一時期できあがった。

復活作となったAmpzilla2000以降は安定しているようで、以前のような噂は耳に入ってこない。
単に私のところに届いてこないだけ、の可能性もあるけれど、大きな問題はないようだ。

だが、ほんとうに以前のボンジョルノのアンプは、不安定だったのか。
不安定だったとして、その原因はどこにあったのか。

少なくとも、日本ではボンジョルノの設計そのものに問題があった、といわれていた。
だが、ほんとうだろうか。

GAS以前に、ボンジョルノが、SAEやダイナコ、マランツのアンプ開発に携わっていたことは書いた。
これらのアンプの不安定で、どうしようもない、という話はきいたことがない。
それにSAEのMark2500とAmpZillaの回路は似ている。

もっともアンプの安定度は回路構成だけで決定されるものではない。
使用部品のクォリティや部品配置、プリント基板・配線の引回し方、それに熱・振動の問題などを、
どう処理するかによっても大きく変ってくる。

ならばボンジョルノは回路設計屋であって、アンプの実装技術には未熟なところがあったのか、というと、
少なくともいくつかボンジョルノが携わったアンプをみてみると、どうもみても、そうは思えない。

時代ごとにみていくと、いかに才能豊かなアンプのエンジニアであることがわかってくる。

それにGAS時代のAmpzillaは、本国アメリカではキット版も売られていた。

Date: 1月 29th, 2011
Cate: 「本」

瀬川冬樹氏の「本」(つくりながら思っていたこと)

瀬川先生の「本」づくりは、部屋にこもりっきりでやっていた。

部屋にはテレビもラジオもない。
特に用事もなければ出かけることもない。
つまり、しゃべる、ということが極端になくなった生活を送っていた。

心地よい季節のときだと窓を開けているから、外から人の声がしてくる。
でも、もうこんな寒い季節になると窓も開けない。人の声もほとんどはいってこない。

しゃべらない、人の声もほとんどきかない生活は、
無人島でひとりで生きているのに通じるところがあるような気がしてきた。

いまは見かけなくなったが、一時期、音楽雑誌では「無人島にもっていく一枚のレコード」とタイトルの記事を、
わりと定期的に、どこの雑誌もやっていた。

人によって、一枚のレコードはさまざま。

当時は、その記事を読みながら、私なら、何をもっていくだろうと考えても、
思い浮ぶものはなかった。無人島へ、という質問が、あまりにも漠然と感じられたためもあった。

いまこんな生活をしていると、無人島にひとりぽつんととり残されたら、
やっぱり無性に聴きたくなるのは、人の声だと思うようになってきた。

歌のレコードをもっていきたい。
まだ誰のレコードにするかは決めかねているけど、歌のレコードしかないと思っている。

Date: 1月 29th, 2011
Cate: ちいさな結論

続・ちいさな結論(その2)

意識の「意」は、「音」と「心」からできている。
以前から気づいてはいても、そこで止っていた。

川崎先生が、1月12日のブログに、この「意」について書かれている。
自分の『意』を見つめることから」のなかで、「音」+「心」=心音、
つまり人が「生れてすぐに心拍となる心臓と鼓動」と書かれている。

翌13日のブログ「心を諳に、そうして意は巡る」、14日のブログ「意識とは生の認知であり良心」、
この3本の川崎先生のブログを読み、「音」と「心」からできていることに気づいただけの段階から、先に進め、
オーディオは、音楽を聴く「意識」だ、ということに気がついた。

Date: 1月 28th, 2011
Cate: ちいさな結論

続・ちいさな結論(その1)

オーディオは、音楽を聴くための道具、であるとともに、
音楽を聴く「意識」でもある。

Date: 1月 27th, 2011
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(グラモフォン誌について)

つい最近のことらしいが、英グラモフォン誌のサイトで、
1923年の創刊号からすべてのバックナンバーを読めるようになった。

それも、ただページをスキャンした画像をそのまま載せるだけでなく、
当然のことだが、検索もできる。
素晴らしいことだ。

1923年といえば約90年前。
そういう時代にグラモフォン誌に記事・評論を書いていた人たちは、
まさかこういう時代がくるとは、まったく想像できなかったことだろう。

イギリス国内だけで読まれるのではなく、インターネットに接続できる国・環境であれば、
どこからでも読むことができる。

グラモフォン誌の創刊号がどれだけ発売されていたのかは知らない。
発行部数はそれほど多くはなかったはず。
そのころグラモフォン誌を読んでいた人たちの数と、
いまインターネットを通して読んでいる人の数は、いったいどれだけ違うのか。

1923年の創刊号からいままで発行されてきたグラモフォン誌を集めると、どれだけの量になるのか。
いまではiPadとネット環境があれば、手で持てるサイズ・重さに、収まってしまう、ともいえる。

探したい記事も、記憶に頼ることなく、検索機能で簡単に、確実に見つかる。

当時の筆者・編集者の人たちにとっては非日常であり、夢のような時代に、
われわれは生きている、手にしている。

グラモフォン誌が素晴らしいのは、ここにあると思う。
当時の夢物語・非日常を、きちんと日常にしてくれたことだ。

そして、なぜ日本では……と思ってしまう。

Date: 1月 26th, 2011
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(続々・余談)

日本では、SUMO以降のボンジョルノの消息については、パタッととだえてしまった。

なにをやっていたのか、は、やっぱりThe Goldの愛用者としてはひじょうに気になって、
関係者の方数人にきいたことがある。

ある人の話では、SUMOが日本から撤退した後も、新型のパワーアンプをつくっていた、らしい。
SUMOでだったのか、それとも新しい会社だったのかははっきりしなかったが、
ボンジョルノにとって、かなりの自信作だったそうだ。

それは音だけでなく、安定性・信頼性においても、かなりの自信作で、
とにかくこわれやすいという日本での汚名をはらうためのモノでもあったらしい。

ただボンジョルノとしては、ここで心機一転する意味もあってだろうか、輸入元を変えたかったそうで、
ある輸入商社の社長に相談をもちかけた、ということだ。

その社長いわく、
「日本において、輸入元を変えることは、むしろ良くはとられない。
私のところで扱うよりも、以前からのつきあいのある輸入元でやったほうがいい」
と説得したそうだが、ボンジョルノの情熱に押し切られて、とにかく新型のアンプを聴いてみることになった。

社長の自宅のリスニングルームで、試聴は行われたそうだ。

スピーカーは、名器といわれているモノだ。
ここで、スピーカーの型番を書いてしまうと、詳細がはっきりするのであえて書かない。

とにかく、そのスピーカーの、その社長が所有されていた極上のコンディションのものは、
もうすでに手に入れるがきわめて難しいものであったが、
ボンジョルノの自信にみちた、安定度に対する言葉を信じて、そのスピーカーにアンプは接がれた。

電源スイッチを入れた瞬間、ウーファーのコーン紙が燃えてしまった、ときいた。

だから、新型アンプの輸入の話は、ここで終ってしまう。

そのあとはというと、ボンジョルノは肝臓を壊したときいている。
それも肝臓癌だった、という話だ。
しかもボートピープルだったそうだ。

SUMOのThe Goldの出力段の回路構成は特許を取得していたが、
これも日本のクラウン・ラジオに売ってしまった、という話も、また別のところからきいた。

治療費を捻出するためだったのだろうか。

これらの話は、みな、信頼できる人からきいたものばかりだ。
だから、もうボンジョルノの復活は、もうないな……と思っていた。

事実、ボンジョルノのことは、少なくとも日本のオーディオ界ではずっと忘れられていたといっていいだろう。

だからAmpzilla2000で、ボンジョルノが復活したときは、うれしい、という気持以上に、
やっぱり不思議な男だな、というほうが強かった。

マーク・レヴィンソンは、絶対にボンジョルノのようなことにはならないだろう。
マークレビンソンのあとにチェロ、つづいてレッドローズミュージック。
現在はいくつかの会社のコンサルタント的な仕事をこなしながら、Daniel Hertzという会社もやっている。
あと香水もつくっている。
そんなレヴィンソンは、ボンジョルノのような状況に陥りそうになっても、
うまく回避して、次のステップになんなく進んでしまう人物かもしれない。

そんな器用さ・要領のよさは、ボンジョルノには、ない、と言い切っていい。
だからこそ、ふたりのつくる、どちらのアンプに惚れるか、は人によって違う。

私も、学生時代はレヴィンソンのアンプにつよく憧れてきた。
でもいまは、ボンジョルノのアンプ(ボンジョルノの人柄をふくめて)をとる。

とはいうものの、それでも片足の小指の先っぽぐらいは、LNP2の魅力にまだ浸かったまま。

Date: 1月 26th, 2011
Cate: 公開対談/例会

公開対談のお知らせ(二度目)

1週間後の2月2日(水曜日)、イルンゴ・オーディオの主宰者、楠本恒隆さんと私の公開対談を行います。

やはり多くの方に来ていただきたいので、二度目の告知でした。

Date: 1月 26th, 2011
Cate: 五味康祐

「いい音いい音楽」

以前読売新聞社から出ていた五味先生の「いい音いい音楽」が、昨年末に中公文庫として復刊された。

五味先生の本が、また世に出てくるのは、それだけで嬉しい。
所有している本なので購入はしなかったが、それでも書店に並んでいるとつい手にとる。

今回の文庫化にあって、山本一力氏のあとがきが加わっている。
山本氏がオーディオマニアだとは知らなかった。

このあとがきが、なかなかいい。
ひとつだけ氏に、異論を唱えたいところがあるけれど、それは措いとくとして、
「いい音いい音楽」をすでにお持ちの方は、このあとがきだけでも読んでほしい、と思う。

Date: 1月 25th, 2011
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(ヘッドフォンで聴くこと・その4)

人間にとっての音の入口となる耳の穴は、真正面からは見えない。
斜め後ろからでない、見えてこない。

外耳がある、というものの、耳は目と違い、前面に対してのみ感知器官ではない。
人間の視野はそれほど広いものではない。
横にあるものを見たいときには、横を向く必要がある。

耳は360度、どの方向からでも、どちらを向いていても感知できる。

人間の得る情報量の大半は視覚から、ということになっているが、
その視覚が対応できる範囲は広くない。
それに目は閉じられる。

耳にはまぶたはない。寝ているときも、音を感知している。
つねに広い範囲の音を感知しているからこそ、人は察知することができるのではないだろうか。

そうやって生きてきている、その中で音楽を聴いてきている。

ところがノイズキャンセリング付のヘッドフォンばかりでの音楽の聴き方は、
その意味でまったく別もののではないかと思うわけだ。

スピーカーを通して聴くのと、ノイズキャンセリング付のヘッドフォンで聴くのと、
もしかすると、後者のほうが純粋に音楽を聴いていることになる、といえるのかもしれない。
どちらが優れた聴き方、という区別はつけるものではないのかもしれない。

それでも、前者と後者では、マーラーが作品に書きこんだ景色は、同じに観得るのか、という疑問は残る。

そして、マルチチャンネルと、これまでの2チャンネルとの違いも、
ここに書いたことと近いものがあるのではないだろうか。

2つのスピーカーのあいだにある「窓」は、マルチチャンネルではなくなってしまうのか、
それとも360度すべて窓になってしまうのか(そうなったら、それは窓ではなくなってしまう気もする)。

Date: 1月 25th, 2011
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(ヘッドフォンで聴くこと・その3)

オーストリアのある山荘にて作曲に没頭していたマーラーを訪ねてきたブルーノ・ワルターが、
まわりの景色に見とれていたので、
「その景色は私の音楽の中にすべて入っている」とマーラーは言った、というエピソードがある。

このマーラーの言葉どおりであるならば、聴き手は、マーラーの音楽をとおして、
彼が眺めてきた景色、だけでなく、彼が生きてきた時代の空気、ほかにもいろいろあるだろうが、
そういったことまでも、真に優れた演奏からは感じとれる道理になる。

その意味で、聴き手の目の前にあるふたつのスピーカー間の空間は、
まさしく世界・社会に通じている「窓」といえるのかもしれない。

音楽を聴く、という行為は本来孤独なものである、と同時に、
その「窓」によって、なにかとつながっている。

その「窓」が、ヘッドフォンのみで、さらにノイズキャンセリング付のもので、
雑多な音に耳を閉ざすような聴き方をしていると、存在しなくなる──、そんな気がする。
どこにも通じなくなっている。

聴き手は、その「窓」をとおして、いろいろなものを見てきている。

Date: 1月 25th, 2011
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(ヘッドフォンで聴くこと・その2)

外で、電車内とかで、音楽を聴く習慣は全くない。

iPodは割とはやい時期に購入した。
ソニーのウォークマンも初代は持っていなかったけど、2代目のモデルは持っていた。
でも、歩きながら、とか、電車の中で一、二度使ってみたことはあっても、結局それっきり。
あとは、家で気が向いたときに使う、という程度である。

だから、正直、歩くときも電車の中でもずっとヘッドフォン(イヤフォン)をして、
長時間音楽を耳にしている人に対しては、音楽を聴いているのか、という疑問は湧いてくる。

「聴いている」という答えが返ってくるだろう。
そこで、音楽を聴く、ということについて議論する気はない。

でも、ノイズキャンセリング付のヘッドフォンをかけている人が、電車の中でも増えてきているを目にして、
「聴いている」にしても、ずいぶん違う聴き方であるだけでなく、
もしかすると、まるっきり対極にある聴き方をしているのではないか、と考えるようになってきた。

電車の中では、雑多な音がしている。走行音やまわりの人の発する声や雑音、
それらを耳にするのが嫌で、音楽で遮断したい、という人がいるという話を、誰かから聞いたことがある。

好きな音楽を耳もとで、ある程度の音量で鳴らせば、たしかにまわりの、そういった雑音は聞こえにくくなる。
そこにノイズキャンセリング機能が加わると、さらにまわりの雑音はより徹底的に遮断される。
そのうえで、音楽で、音のカーテンをつくる──そんな印象を、私は受ける。

そういう音楽の聴き方を日常的になってしまった場合、スピーカーを通して聴くのとでは違ってくるし、
ヘッドフォンでの音楽の聴き方についても、そういうことが当り前になった人と、
スピーカーと併用してヘッドフォンでも音楽を聴く、という人とでは、まるっきり違うはず。