Archive for category ちいさな結論

Date: 11月 9th, 2019
Cate: ちいさな結論

ちいさな結論(オーディオとは?)

オーディオを説明する。
誰かに説明する。オーディオに関心のない人に対して説明する場合、
どんなふうにオーディオを説明するのか。

録音から再生までを説明し、トータルの系をオーディオとするのか。
録音された音楽を聴くシステムとして、オーディオを説明するのか。
そのためのさまざまな機器の集合体としてのオーディオとするのか。

説明する人によっても、説明をきく人がどういう人によっても、
そこでのオーディオについての説明は、おおまかなところでもこまかなところでも違ってこよう。

オーディオとは、いったいなんなのか。

私のちいさな結論としてのオーディオは、エネルギーである。
オーディオそのものが、
そしてオーディオにとりまくすべてをひっくるめて、ひとつのエネルギー体のように感じる。

だからオーディオマニアとは、そのエネルギーの一部になるということでもある。

Date: 5月 15th, 2019
Cate: ちいさな結論

ちいさな結論(問いつづけなくてはならないこと)

美しい音を聴きたい、とおもっている。
美しい音を聴くためには、美しく聴く、ということが求められている。

美しく聴く、とはどういうことなのか。
このことを自らに問いつづけなくてはならない。

Date: 5月 8th, 2019
Cate: ちいさな結論

評論(ちいさな結論)

いい悪いではなく、
好き嫌いさえ超えての
大切にしたい気持があってこその評論のはずだ。

Date: 1月 3rd, 2019
Cate: ちいさな結論

ちいさな結論(「音は人なり」の「音」とは)

これまでの人生で得たものによる「音」なのか、
失ってきたものによる「音」なのか、
得たものと失ってきたものとが均衡している「音」なのか。

Date: 9月 20th, 2018
Cate: ちいさな結論

ちいさな結論(「音は人なり」とは)

毒をもって毒を制す。

オーディオ機器ひとつひとつに、それぞれの毒がある。
聴き手にも、その人なり毒がある。

それ以外の毒もある。
いくつもの毒がある。

それらから目を背けるのもいい。
けれど、毒をもって毒を制す、
そうやって得られる美こそが、音は人なり、である。

Date: 6月 17th, 2017
Cate: ちいさな結論

理外の理(ちいさな結論)

ここにきて、オーディオとはとことん理外の理だ、と心底おもうようになってきた。

Date: 9月 19th, 2014
Cate: ちいさな結論

ちいさな結論(オーディオマニアとしての「美」)

美は結論である。
己の結論に節制をもつことが、オーディオマニアとしての「美」である。

40年近くオーディオマニアであり、50をすぎて得た私のちいさな結論である。

Date: 3月 28th, 2014
Cate: ちいさな結論

続・ちいさな結論(その7)

いい音を求めるのは、オーディオマニアならば皆同じであっても、
そこに答を求めているのか、問いを求めているのかの違いがあるのではないか。

答だけを求めた方が、ずっと合理的なのかもしれない。
理論だけでオーディオを追求した方が、やはりずっと合理的である。

けれどオーディオの世界には、そういった合理主義だけではすくえない美があるはずだ。

すくえないは、掬えないでもあり、救えないでもある。

Date: 12月 11th, 2012
Cate: ちいさな結論

続・ちいさな結論(その6)

なぜ、このブログを一万本書こう、などと思ったのか、
そのことを自問している。

もしかすると一万本書くことは、
辛(刃物)+口という形象てある「言」という漢字をあつめて、
鍛えなおすことで一本の刀にまとめていくことかもしれない。

そういう意味での「意識」なのだと、いまは思って書いている。

Date: 2月 10th, 2011
Cate: ちいさな結論

続・ちいさな結論(その5)

「ブッダのことば」(岩波文庫)のなかに、
「人が生れたときには、実に口の中に斧が生じている。愚者は悪口を語って、その斧によって自分を断つのである」
とある。

「言」という字は、
辞典にあるように、川崎先生のブログを読まれた方ならすでにご存知のように、
辛(刃物)+口という形象である。

Date: 2月 10th, 2011
Cate: ちいさな結論

続・ちいさな結論(その4)

批評と評論の違いは、「論」のいう字があるかないかにあり、
「論」という漢字に「言」がついているところに、はっきりとある。

評論には、「言」がふたつある。

Date: 1月 31st, 2011
Cate: ちいさな結論

続・ちいさな結論(その3)

「音」と「言」については、川崎先生の書かれたもの、講演を、読み聴きされているかたならば、
目に、耳にされたことがあるはずだ。

何度か目にして耳にしている。
そしてやっと気がついたことは、
「心はかたちをもとめ、かたちは心をすすめる」という、この釈迦のことばと結びついていくことだ。

このことばについては、このブログをはじめたころに書いている。

このことばと、川崎先生の「いのち、きのち、かたち」は、心の中でくり返す。

「音」と「言」──、こじつけだといわれそうだが、こういえないだろうか。
「音は言をもとめ、言は音をすすめる」と。

Date: 1月 29th, 2011
Cate: ちいさな結論

続・ちいさな結論(その2)

意識の「意」は、「音」と「心」からできている。
以前から気づいてはいても、そこで止っていた。

川崎先生が、1月12日のブログに、この「意」について書かれている。
自分の『意』を見つめることから」のなかで、「音」+「心」=心音、
つまり人が「生れてすぐに心拍となる心臓と鼓動」と書かれている。

翌13日のブログ「心を諳に、そうして意は巡る」、14日のブログ「意識とは生の認知であり良心」、
この3本の川崎先生のブログを読み、「音」と「心」からできていることに気づいただけの段階から、先に進め、
オーディオは、音楽を聴く「意識」だ、ということに気がついた。

Date: 1月 28th, 2011
Cate: ちいさな結論

続・ちいさな結論(その1)

オーディオは、音楽を聴くための道具、であるとともに、
音楽を聴く「意識」でもある。

Date: 9月 27th, 2009
Cate: ちいさな結論, 複雑な幼稚性
1 msg

ちいさな結論(その4)

「本物のエネルギーを注入してくれる」ものは、人によって違っていて当然である。

ひとと同じことなんて、なにひとつないのだから、
音楽から「本物のエネルギー」を受け取るのだって、
ある人はクラシック、またある人はジャズ、ロックからだという人だっているわけだ。

同じクラシックでも、フルトヴェングラーの演奏を大切にする人もいれば、
カラヤンでなければならない人がいてこそ、自然であるといえる。

マーラーの交響曲第5番にしてもそうだ。
長島先生と私は、バーンスタイン/ウィーン・フィルの演奏をとったが、
一方でインバルの演奏をとる人がいる。

どちらが音楽がよくわかっているとか、高尚だとか、そういう問題ではない。

生れも育ちもひとりひとり違うのだから、必要とするものだって違うというだけのはなしである。

ただし、あくまでも、音楽(音)と真剣に対決する瞬間をもてる人にかぎる。

タンノイ・オートグラフでフルトヴェングラーをきき、
カラヤンのベートーヴェンには精神性がない、といってみたところで、
「ろくでなし」のささやきに翻弄されていることにすら気づかないのであれば、
五味先生の劣悪なマネにすらなっていない。