ちいさな結論(問いつづけなくてはならないこと・その6)
美しく聴くということは、
スピーカーから美しい音が出たから美しく聴く、というとではなく、
美しい音をスピーカーから出すために美しく聴く、ということだ。
美しく聴くということは、
スピーカーから美しい音が出たから美しく聴く、というとではなく、
美しい音をスピーカーから出すために美しく聴く、ということだ。
音は儚い、ともいえる。
楽器から、スピーカーから発せられた音は、すぐさま消えいってしまう。
あとには、なんの痕跡も残さないからだ。
楽器、人から発せられた音から音楽はなっている。
そのままでは消え去ってしまうのを、
マイクロフォンで捉え、レコーダーで記録する。
録音された音楽を、スピーカーを介して聴いている。
最近では、そのスピーカーからの音を録音することが流行っている。
このことについてあれこれ言おうとは思わないが、
私はやらない。
エアー録音と呼ばれているこの行為が、無意味と思うからではなく、
音の儚さを、なんとなく無視しているようにも感じるし、
なんだかいじましいっぽいところを感じるからでもある。
こうやったから、聴き手に届くのか。
届いているといえば、否定はできないけれど、
ならば聴き手に届くとはどういうことなのかを考える。
聴き手に届く音と届かない音がある。
私は、そう思っている。
どんな音でも聴き手に届いているとは、考えていない。
聴き手に届く音とそうでない音は何が違うのか。
輝きである。
美しく聴く、ということ。
このことを、audio wednesdayに来られた人たちに伝えられているだろうか。
「音は『かたち』なり」と、2008年9月10日に書いていることが、
音は人なりの「人」なのだろう。
美は結論である。
己の結論に節制をもつことが、オーディオマニアとしての「美」である。
八年前の私自身のちいさな結論に、あらためてそうだとおもっている。
美しく聴く、ということは、自分と和する心をもつことなのだろう──、
と(その3)で書いた。
二年前のことだ。
このとき、あえて書かなかったことがある。
自分と和するということは、醜い自分、愚かな自分──、
そういった自分とも和するということである。
(その1)は、このブログを書き始めたころに書いている。
2008年9月に書いているわけだから、ずいぶん経つ。
ここまで書いてきて、ちいさな結論として書いてしまえば、
快感は耳に近い(遠い)か、
幸福は心に近い(遠い)か、だと思うようになった。
耳に近い音を、だからといって否定するつもりはまったくない。
耳に近い音を追い求めてこなかった人が、
すんなり心に近い音を見つけられるとは、私は思っていない。
貪欲に耳に近い音を追い求めて、
それが叶った時の快感を存分に味わっておくべきとも思っている。
けれど快感はいつしか刺戟へと変化していくことだってある。
より強い刺戟を求めるようになっていくかもしれない。
結局、ここでもグレン・グールドのことばを引用しておく。
*
芸術の目的は、神経を昂奮させるアドレナリンを瞬間的に射出させることではなく、むしろ、少しずつ、一生をかけて、わくわくする驚きと落ち着いた静けさの心的状態を構築していくことである。われわれはたったひとりでも聴くことができる。ラジオや蓄音機の働きを借りて、まったく急速に、美的ナルシシズム(わたしはこの言葉をそのもっとも積極的な意味で使っている)の諸要素を評価するようになってきているし、ひとりひとりが深く思いをめぐらせつつ自分自身の神性を創造するという課題に目覚めてもきている。
*
自分自身の神性の創造へとつながっていく音こそが、心に近い音なのだろう。
ベートーヴェンの音楽を理解したいがためのオーディオという行為。
私にとっての「オーディオ」はまさにこれであり、このことを問い続けていくしかない。
オーディオの才能とは、いったいどういうことなのか。
オーディオの才能の正体とは、なんなのか。
こんなことを、二十年ほど前から、ときおり考えていた。
別にオーディオの才能だけに限ったことではない。
たとえばスポーツ。
野球の才能とかサッカーの才能。
とにかく世の中には、さまざまな才能がある、ということになる。
あの人は野球の才能がある、とか、絵の才能がある、とか、
そんなことをいわれたりするけれど、
その才能そのもの正体については、ほとんど語られることはない。
それでも、○○の才能がある、という使われ方は、世の中に溢れている。
才能とは、多岐にわたるさまざまな能力(一つ一つはそう大きくはない)を、
ある目的のために統合化できる、ということだろう。
能力のネットワーク(システム)によって生み出されるものが、
才能の正体であり、
才能をのばす、ということは、そのネットワークを拡張していくということであり、
ハタチすぎればタダの人になってしまうということは、
ネットワークを維持するだけでせいいっぱいか、もしくは維持できなくなる、ということ。
オーディオの才能とは、その人が持っているいくつもの能力を、
どれだけオーディオのためにシステムとして構築できるかであり、
さまざまな変化に対応するということは、システムの再構築のはすだ。
こう考えていくと、スランプとは、再構築がうまくいっていない状態なのだろう。
いまぐらいの季節になると、思い出すのは44年前のことだ。
「五味オーディオ教室」と出逢ったときのことだ。
書店で出逢ったわけではなかった。
田舎町のスーパーのなかに、小さな書籍コーナーがあった。
そこに「五味オーディオ教室」があった。
一冊だけあった。
手にして、パラパラとページをめくって、買っていた。
これだ! とおもった日のことだから、いまもはっきりと憶えている。
その日の記憶が鮮明のままだから、
44年が、つい最近のように感じられることもある。
けれど、44年は確実に経っている。
傍からみれば、道を踏み外したヤツ、ということになる。
そうだろうな、と自分でもおもうことはある。
母は、教師になってほしかった、といっていた。
父が中学で英語を教えていたから、
それまでは中学の理科の先生になりたい、とおもっていた。
「五味オーディオ教室」と出逢って、道を踏み外したのだろうか、
それとも、やっと途を見つけたのだろうか。
どちらなのかはわからないものだろう。
「五味オーディオ教室」からの44年。
いろいろあった。
「五味オーディオ教室」から得たものは、
オーディオの力を信じることだ。
オーディオの力を信じているから出せる音がある。
美しく聴く、ということは、
自分と和する心をもつことなのだろう。
美しい音を聴くためには、美しく聴く、ということが求められている。
(その1)に、そう書いた。
コーネッタを鳴らして、そのことをあらためて実感するだけでなく、
私が五味先生の残されたものから学んだ最大のことは、このことだ。
オーディオを説明する。
誰かに説明する。オーディオに関心のない人に対して説明する場合、
どんなふうにオーディオを説明するのか。
録音から再生までを説明し、トータルの系をオーディオとするのか。
録音された音楽を聴くシステムとして、オーディオを説明するのか。
そのためのさまざまな機器の集合体としてのオーディオとするのか。
説明する人によっても、説明をきく人がどういう人によっても、
そこでのオーディオについての説明は、おおまかなところでもこまかなところでも違ってこよう。
オーディオとは、いったいなんなのか。
私のちいさな結論としてのオーディオは、エネルギーである。
オーディオそのものが、
そしてオーディオにとりまくすべてをひっくるめて、ひとつのエネルギー体のように感じる。
だからオーディオマニアとは、そのエネルギーの一部になるということでもある。
美しい音を聴きたい、とおもっている。
美しい音を聴くためには、美しく聴く、ということが求められている。
美しく聴く、とはどういうことなのか。
このことを自らに問いつづけなくてはならない。
いい悪いではなく、
好き嫌いさえ超えての
大切にしたい気持があってこその評論のはずだ。