快感か幸福か(その1)
愛聴盤が、思い描いた通りの音で鳴ったとき、
それ以上の音で鳴ったときに感じているのはなんなのか。
ずっと欲しかったオーディオ機器を、やっとの思いで手に入れたときの感じもそうだ。
快感なのか幸福感なのか。
音の変化は快感をもたらす。でも、快感は一時的なものにしかすぎない。持続しない。
快感を追い求めつづけるのは否定はしない。快感の積み重ねが幸福につながるのかもしれない。
けれど、つねに変化を──、機器の入れ換え、ケーブルをあれこれ試してみたり、
インシュレーターを挿んだり重ねたり、やろうと思えば、際限なく行なえる。
いい音の追求は、必ずしも幸福を得ることにつながっているのではない、という気持がどこかにある。
快感に、一時期とことん溺れてみるのは、経験しておいたほうがいいかもしれない。
けれど、いつまで経っても快感の追及だけだとしたら、虚しいではないか。
「芸術の目的は、神経を昂奮させるアドレナリンを瞬間的に射出させることではなく、
むしろ、少しずつ、一生をかけて、
わくわくする驚きと落ち着いた静けさの心的状態を構築していくことである。
われわれはたったひとりでも聴くことができる。
ラジオや蓄音機の働きを借りて、まったく急速に、
美的ナルシシズム(わたしはこの言葉をそのもっとも積極的な意味で使っている)の
諸要素を評価するようになってきているし、
ひとりひとりが深く思いをめぐらせつつ
自分自身の神性を創造するという課題に目覚めてもきている」。
グレン・グールドの言葉である。
グールドについて語られるとき、よく引用されるから読まれた方も少なくないだろう。
アドレナリンの瞬間的な射出を快感、
一生かけて、わくわくする驚きと落着いた静けさの心的状態を幸福として受けとめると、
グールドがコンサートをドロップアウトしたことが理解できそうでもあるし、
オーディオで音楽を聴くことが幸福の追求であるとも思えてくる。