スピーカーの述懐(その62)
14年前に、別項「続・ちいさな結論(その1)で書いている。
オーディオは、音楽を聴くための道具、であるとともに、
音楽を聴く「意識」でもある。
スピーカー選びだけでなく、
そのスピーカーをどう鳴らしていくのか、
「意識」を抜きにすることはできないはずだ。
そして「らしく」「らしさ」は、「意識」の顕れだ。
14年前に、別項「続・ちいさな結論(その1)で書いている。
オーディオは、音楽を聴くための道具、であるとともに、
音楽を聴く「意識」でもある。
スピーカー選びだけでなく、
そのスピーカーをどう鳴らしていくのか、
「意識」を抜きにすることはできないはずだ。
そして「らしく」「らしさ」は、「意識」の顕れだ。
ヤマハのスピーカーシステムの型番は、NSから始まる。
ナチュラルサウンド(Natural Sound)から来ている。
このナチュラルサウンドを、どう解釈するのか。
人工的な要素、人為的なものをまったく感じさせないのが、ナチュラルサウンドなのだろうか。
ナチュラルサウンドの一つの解釈ではあるが、これが全てではない。
ナチュラルは自然。
この自然をどうするのかで、ナチュラルサウンドは拡がりを持ってくる。
(その58)で書いていることも、ナチュラルサウンド
ナチュラルサウンドについて、である。
そのスピーカーらしく、そのブランドらしくなるのもナチュラルサウンドと考えてほしい。
同時に鳴らす人らしい音もまたナチュラルサウンドと言えよう。
オーディオ雑誌に登場するオーディオ評論家。
瀬川冬樹、岩崎千明、
この二人よりも、今時の評論家はずっと長くオーディオ評論家として、書いてきている。
けれど、そんな彼らがどんな音楽が好きなのか、
演奏家は誰が好きなのかが、なかなか見えてこない。
あの頃の好きと、今時の好きとでは、温度が違うのか。
ステレオサウンド 8号掲載の音楽評論家の向坂正久氏が「音楽評論とは何か」で書かれている。
*
では一体、評論の望ましい型とはどんなものか具体的にあげてみよう。私はオーディオに関して全く無知であるが、本誌の「実感的オーディオ論」を毎号愉しみにして読んでいる。製品名などで、その表現のいわんとするところの幅がわからぬこともないではないが、そこには五味康祐という一人の人間が、オーディオの世界で夢み、苦闘している姿が生きている。ひと言でいえば体臭がある。この体臭とは頭脳だけからは決してうまれない。オーディオという無限の魅惑が、その肉体を通して語られることの、紛れもない証左である。
*
オーディオ機器についてなんらかを語るということ、
その中でも特にスピーカーについて語るということは、
まさにこういうことであるはずなのに、
オーディオ雑誌、インターネットに氾濫している中のどれだけが、そうと言えるだろうか。
いまはどうなのだろか。
昔は、あの人が鳴らすアルテックは、いい感じなんだよ、
そんなことが言われていた。
アルテックのところは、タンノイでもJBLでもいい。
スピーカーのブランドが、そこには入る。
ここでの、いい感じで鳴るは、
アルテックはアルテックらしい音で、タンノイはタンノイらしい音で鳴ることであって、
よくアルテックらしくない音、JBLらしくない音で鳴らすのを、
ありがたがる人、自慢する人も昔からいるけれど、
そのスピーカーがそのスピーカーらしく鳴る(鳴らせる)のは、
そのスピーカーとその人との相性がいいからなのかもしれない。
アルテックのスピーカーをいい感じで鳴らせる人がいる。
その人がアルテックのスピーカーが好きならば、何もいうことはないのだが、
アルテックではなく、JBLとかタンノイの方を好きだったりする。
そしてJBLとかタンノイをうまく鳴らせるわけではなかったりすることもある。
こういう場合、アルテックを鳴らすのが、その人にとって幸せなのか、
それとも好きなスピーカーをうまく鳴らさなくても、鳴らしていくことが幸せなのか。
いわゆる耳のいい人というのは、割といるものだ。
細かな音の違いを聴き分ける人で、
破綻のない文章が書けて、オーディオの技術にも、ある程度明るいと思われていれば、
オーディオ評論家として食っていけるであろう。
もちろん周りへの配慮、営業力みたいなことも求められるけれど、
いまオーディオ評論家として食っていけていても、
その人たちをオーディオ評論家(職能家)と呼べないのは、
洞察力が欠けているからではないのか。
スピーカーが、どんな表情で鳴っているのか(歌っているのか)。
怒り顔で鳴っているのか、苦虫を噛み潰したよう顔で、なのか、
寂しそうな表情なのか、まったくの無表情なのか、
それとも微笑んでるのか。
そのことに無頓着で、スピーカーを鳴らした、とは言えない。
別項でテーマとしている「骨格のある音」。
このことに関して思うのは、音と音らしきものとがあり、
音と音らしきものとは同じではないということだ。
音で音楽を奏でる演奏家と、
音らしきもので演奏する者とがいる、ともいえよう。
このことはスピーカーについても言える。
音を発するスピーカーと、音らしきものを発するスピーカーとがある。
ステレオサウンドがながいことリファレンススピーカーとして使っているB&Wの800シリーズ、
このスピーカーシステムに惚れ込んでいる人は、
ステレオサウンドに書いている人にいるのだろうか。
私は、いないと思っている。
惚れ込んでいる人がいないからといって、
B&Wのスピーカーの音が悪いということではないし、
その優秀性を否定するわけでもない。
ただ、ステレオサウンドの執筆者の中にはいないというだけのこと。
昔は、どうだったか。
瀬川先生は4343に惚れ込まれていた。
そのことが、書かれたものから伝わってきていた。
4343の前には4341、その前はJBLのユニットによる3ウェイ。
そこには瀬川冬樹のJBLへの惚れ込み方があった。
それだけでなく菅野沖彦のJBLの惚れ込み方があった。
岩崎千明のJBLの惚れ込み方があった。
それぞれのJBLの惚れ込み方があった。
それぞれの惚れ込み方であり、その人ならではの惚れ込み方でもあった。
だからこそ、音が聴こえてこない誌面からでも伝わってくるものがあった。
そういう時代を、私は生きてきた。
JBLの4343は、瀬川先生が鳴らされていた。
黒田先生も鳴らされていた。
ステレオサウンド試聴室のリファレンススピーカーでもあった。
だからこそ、と言えるところがある。
スピーカーの多様性について語っていく上で、
現在のステレオサウンド試聴室のリファレンススピーカーであるB&Wのスピーカーが、
当時の4343と代わりとなるだろうか。
JBLがリファレンススピーカーだった時代よりも、
B&Wの方がいまでは長くなっている。
だから十分代わりを果たしている、はずなのだが、私にはそうとは感じられない。
他の人はどうなのだろうか。
4343を知らない世代の人は、そんなふうには思っていないかもしれないが、
4343を知る世代は、どうだろうか。
私と同じなのかもしれない。
だとしたら、どうしてなのだろうか。
何もB&Wのスピーカーの力不足とは言わない。
なぜなのか、結局、ステレオサウンドで書いている人の誰一人として、
自宅で鳴らしていないからだろう。
多様性。
(その51)でも、この書き出しだ。
オーディオの多様性について、ではなく、
スピーカーの多様性について考えて、
それを文字(言葉)だけで伝えるには、どうしたらいいのだろうか。
オーディオ雑誌が、スピーカーの多様性をテーマにした記事をつくる。
さまざまな国の、さまざまな価格帯の、
さまざまな大きさの、さまざまな方式のスピーカーを勢揃いさせて──、
このやり方で、スピーカーの多様性を語り、読み手に伝えられるだろうか。
やれる、とは私は思わない。
多様性を考慮することは、バランスよく取り上げることだろうか。
そう考えるのであれば、難しいことではないけれど……。
私は、中心となるスピーカーをひとつしっかりと据えた上で、
他のスピーカーについて論じていくしかない、と考える。
結局、このことは、瀬川先生が昔からやられていたことだ。
「続コンポーネントステレオのすすめ」を読んでほしい。
JBLの4343が、まずある。
だからこそ、他のスピーカーの特徴が浮き上ってくる。
瀬川先生だから4343なのであって、
人が変われば、4343が他のスピーカーになる。
多様性。
数年前から、頻繁に目にしたり耳にしたりするようになった。
ではオーディオにおける多様性とは? と考えると、
まずスピーカーの数だけの多様性があると言えるだろうし、
それからオーディオマニアの数だけの多様性が、そこに加わるはずである。
けれど実際にそうなのだろうか。
インターネットの普及、
さらにはソーシャルメディアの普及と増していく手軽さが、
多様性を浮き彫りにしてくれるかのようであるが、
反対に、多様性を狭めていっているようにも、最近は感じ始めている。
「比較ではなく没頭を」は、
フルトヴェングラーの言葉である。
そのとおりなのだが、ことオーディオ機器の購入に関しては、
比較するからこそ購買意欲が湧いてくるだろうし、
増していくともいえよう。
比較することに没頭してしまうことにもなるかもしれない。
そのため最良の選択ができなかったことがあっても不思議ではない。
(その47)で書いている。
瀬川先生はアルテックで美空ひばりを、
井上先生はJBLで島倉千代子を、
二人とも、大嫌いな歌手をスピーカーを通しての音に驚かれている。
いうまでもなく美空ひばりも島倉千代子も日本人の歌手であり、
おそらくどちらも日本語の歌を聴いてのことであろう。
日本人のうたう日本語の歌を、アメリカのスピーカーを通しての音で驚くということ。
日本のスピーカーの音で聴いて驚く、ということではないということ。
このことは見逃してはならない。
(その47)での引用に続いて、これも読んでほしいことだ。
*
……という具合にJBLのアンプについて書きはじめるとキリがないので、この辺で話をもとに戻すとそうした背景があった上で本誌第三号の、内外のアンプ65機種の総試聴特集に参加したわけで、こまかな部分は省略するが結果として、JBLのアンプを選んだことが私にとって最も正解であったことが確認できて大いに満足した。
しかしその試聴で、もうひとつの魅力ある製品を発見したというのが、これも前述したマッキントッシュのC22とMC275の組合せで、アルテックの604Eを鳴らした音であった。ことに、テストの終った初夏のすがすがしいある日の午後に聴いた、エリカ・ケートの歌うモーツァルトの歌曲 Abendempfindung(夕暮の情緒)の、滑らかに澄んで、ふっくらとやわらかなあの美しい歌声は、いまでも耳の底に焼きついているほどで、この一曲のためにこのアンプを欲しい、とさえ思ったものだ。
だが結局は、アルテックの604Eが私の家に永く住みつかなかったために、マッキントッシュもまた、私の装置には無縁のままでこんにちに至っているわけだが、たとえたった一度でも忘れ難い音を聴いた印象は強い。
*
瀬川先生の「いま、いい音のアンプがほしい」からの引用だ。
このことを読んで、どうおもうのか、どう感じるのか。
それもまた人それぞれなのだろう──とわかっているのだが、
スピーカーの音を好きな人とスピーカーの音が嫌いな人とでは、
解釈がずいぶん違ってくるのかもしれない。