スピーカーの述懐(その72)
この伊藤先生の言葉を引用するのは、今回で十回。
しつこいぐらいに引用するのは、大事なことだし、にも関わらず、そんなふうには思わずスピーカーを鳴らしている人が、少なからずいると感じているからだ。
《スピーカーを選ぶなどとは思い上りでした。良否は別として実はスピーカーの方が選ぶ人を試していたのです。》
もう引用することもないな、と思える日は来るのか。
この伊藤先生の言葉を引用するのは、今回で十回。
しつこいぐらいに引用するのは、大事なことだし、にも関わらず、そんなふうには思わずスピーカーを鳴らしている人が、少なからずいると感じているからだ。
《スピーカーを選ぶなどとは思い上りでした。良否は別として実はスピーカーの方が選ぶ人を試していたのです。》
もう引用することもないな、と思える日は来るのか。
CD登場以前、アナログディスク全盛時代は、システムのトータルゲインが同じであっても、ゲイン配分次第では、S/N比が良くなったら悪くなったりするため、十分な配慮が払われていた。
アナログディスク再生といっても、MM型とMC型カートリッジがあり、発電方式の違いによって、出力電圧が大きく違うだけでなく、
同じMM型、MC型の中でも出力電圧に違いは小さくなかった。それがCDプレーヤーでは統一された。
ゲイン配分について、オーディオ雑誌だけでなく、いろんなところでも話題にならなくなったのは仕方ないとはいえ、
だからといって無視していいわけではないにも関わらず、忘れ去られつつある。
昔は、アンプのゲイン(利得、増幅率)がカタログには記載されていたし、ステレオサウンドの特集で測定が行れている時代は、
個々のアンプのゲインだけでなく、コントロールアンプならば、フォノイコライザー、ラインアンプのゲインも測定されていた。
いつのころからか、ゲインが気にされなくなった。
メーカーも発表しなくなってきたし、オーディオ雑誌も読者も気にしなくなっていっている。
スピーカーの出力音圧レベルは、dBで表記されている。つまりスピーカーを含めたシステム全体のゲインを、
スピーカーの出力音圧レベルは大きく左右する。
昔のパワーアンプは、入力感度は1Vだったり、0.5Vだったりしていた。
いまは2Vぐらいが多くなっている。これだけでも、同じ出力のアンプであっても、ゲインは違ってくる。
100dB/W/m前後の出力音圧レベルのスピーカー、0.5Vの入力感度のパワーアンプの組合せに、
1990年ごろのコントロールアンプを接いだことがある。
管球式のコントロールアンプだったのだが、明らかに真空管がスピーカーからの音を拾っているのが確認できた。
世評の高いアンプだったし、私もずっと以前、このコントロールアンプは、別の組合せで聴いていたが、そんな症状は確認できなかった。
パワーアンプの入力感度もスピーカーの出力音圧レベルも違っていたからだろう。
スピーカーの出力音圧レベルは、システムのゲインに直結している。同時にゲイン配分も忘れてはならない。
「五味オーディオ巡礼」の一回目、岡鹿之助氏の音について、こう書かれている。
*
十数年前の、そのアトリエのたたずまいをうろおぼえに私は憶えていた。高城氏の創られた音に初めて耳をかたむけたソファの位置も、おぼえていた。それにあの忘れようのないスピーカーエンクロージァ。
しかし、鳴り出した音は、ちがった。ふるさとの音はなかった。当時はモノで今はステレオだからという違いではない。むかしはワーフデェルで統一されていたが、今はスコーカーに三菱のダイヤトーン、トゥイターは後藤ユニットに変っている。おそろしい変化である。後藤ユニットは、高域の性能でワーフデェルを凌駕すると高城さんは判断されたに違いない、聴いた耳には、ティアックA6010のテープ・ヒスを強調するための性能としかきこえない。三菱のダイヤトーンは中音域のクォリティに定評がある。しかしワーフデェルと後藤ユニットのあいだで鳴るその音は、周波数特性に於てではなくハーモニィで、歪んでいた。ラベルのピアノ協奏曲が、三人の指揮者の棒による演奏にきこえた。ピアノもばらばらにきこえた。どうしてこんなことになったんだろう、あの高城さんがことさら親しい岡画伯の愛器を、どうしてこうも調和のない音に変えられたのだろう。むかしとそれは変らぬすばらしい美音をきかせてくれる部分はある、しかし全体のハーモニィが、乱れている。少なくとも優雅で気品ある岡画伯のアトリエにふさわしくない、残滓が、終尾のあとにのこる、そんな感じだ。
むかしはそうではなかった。もっと透明で、馥郁たる香気と音に張りがあり、しかもあざやかだった。あの時聴いたバルトークのヴィオラ協奏曲のティンパニィの凄まじい迫真力、ミクロコスモスのピアノの美しさを、私は忘れない。どこへいったんだろう? こちらの耳が、悪いのか。
――おそらく私の耳のせいだろうとおもう。テープ・ヒスさえ消せば、以前とは又ことなった美しさを響かせるに違いないとおもう。高城さんほどの人が、さもなくてわざわざワーフデェルを三菱や後藤ユニットに変えられるわけがない。かならず別な美点があるからに違いない。こちらはそういう方面にはシロウトだ。音はどうですかと岡さんにたずねられたら、私は、ヒスのことを言ったろう。しかし岡さんは、さほどヒスは気にせず聴いていらっしゃる、ご本人が満足されている限り、第三者が音の良否など断じてあげつらうべきでない、これは私の主義だ。相手がメーカーや専門家ならズケズケ私は文句を言う。だがそれが家庭に購入された限り、もう、人それぞれの聴き方がある、生き方に人が口をはさめぬと同様、それを悪いとは断じて誰にも言えぬはずだ。第三者が口にできるのは、前にも言ったがその音を好きか嫌いかだけだろう。
岡さんは満足していらっしゃる。音をはなれれば、それはもう頬笑ましい姿とさえ私には見えた。何のことはないのだ、私だってヒスは気にするが、少々のハムは気にならないそういう聴き方をしている。ハムが妨げる低音より音楽そのものに心を奪われる幸わせな聴き方が、私には出来る。同じことだろう。野口さんのところでエネスコを聴いていて、あの七十八回転の針音がちっとも気にならない、ヒスは気になってもクレデンザの針音は気にならない。人間とは勝手なものだ。だからあの、ふるさとの音をもとめる下心がなければ、岡画伯のアトリエでひびいている音を、私は別な聴き方で聴いたかも知れないとおもう。それを証拠に、同行した編集者は「いい音でした」と感心しているのだ。もっとも公平な、第三者のこれは評価だろう。私の耳がやっぱり、悪かったのだろう。
*
野口晴哉氏の音と岡鹿之助氏の音。
どちらがいい音なのかではない。
言いたいのは、そういうことではない。
五味先生は
《同行した編集者は「いい音でした」と感心しているのだ。もっとも公平な、第三者のこれは評価だろう。私の耳がやっぱり、悪かったのだろう。》
と書かれている。
そういうものである。
「いい音でした」と感心している人がいれば、そこの音はいい音なのだろう。
その部屋の主が、いい音になったと満足していれば、とやかくいうことではないことはわきまえているから、
具体的なことは、ここでは書かない。
松尾芭蕉の《古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ》、
ゲーテの《古人が既に持っていた不充分な真理を探し出して、それをより以上に進めることは、学問において、極めて功多いものである》、
このことを理解できない人がいるから、
「ふるさとの音」、「音のふるさと」はもうそこにはない。
五味先生の「五味オーディオ巡礼」の一回目を思い出す。
ステレオサウンド 15号に掲載されている。
野口晴哉氏と岡鹿之介氏が登場されている。
「ふるさとの音」とつけられている。
「音のふるさと」とも書かれている。
「五味オーディオ巡礼」の一回目に、野口晴哉氏と岡鹿之助氏が登場されたこと、
そして二人の音の違い、その音を五味先生がどう感じられたのか。
2026年のいま、読み返すと、なんといったらいいのだろか。
示唆的というだけでは足りなくて、予言のような感じすら受ける。
これだけでは、何のことを書いているのかとほとんどの方が思われるだろう。
あえて、まだ詳細は書かない。わかる人は、これだけでもわかってくれる。
「ふるさとの音」、「音のふるさと」はあっという間に消え去ってしまう。
聴いた人の感想をきいて、本当にそうなってしまった──と思うしかなかった。
失われてしまった、その大事な音はもう戻らない。
失ったのは何か、それすら気づいていないのだろう。
それがシアワセなのだろう。
音と遊ぶオーディオマニアがいる。
音で遊ぶオーディオマニアがいる。
音と遊ぶオーディオマニアに鳴らされるスピーカーもあれば、
音で遊ぶオーディオマニアに鳴らされるスピーカーもある。
スピーカーのアプローチは、本来いくつもあるものだ。
なのに時代とともにシグナル・トランスデューサーに収斂していっている。
間違っているわけではないが、他のアプローチを切り捨てていくことは、間違っていないのか。
とにかく目の前にあるスピーカーが嘆くことがないように、
スピーカーを泣かせないように、
そうやって鳴らすことを大切に思えるのならば、鳴らし手として大丈夫だ。
スピーカーの言うことをよく聴いて鳴らす、それだけ。
最近、そんなふうに思うようになってきた。
スピーカーから鳴ってくる音をよく聴いて、ではない。
スピーカーの言うこと、言ってくることをよく聴くこと。
何の違いがあるのか、と思われるだろう。
うまく説明できないもどかしさがあるが、同じとは感じていないのが、いまの私だ。
そのオーディオマニアは、宿題としてのスピーカーを持っているのか、持っていないのか。
ここでの持っている持っていないは、物理的に所有しているがどうかとは関係ない。
スピーカーに求められるのは、音の表現力、ひいては音楽の表現力だけだろうか。
もっと大切なことは、洞察力のはずだ。
音への洞察力、音楽への洞察力──、
抽象的すぎるのはわかっている。
それでもスピーカーによって、洞察力は違ってくるし、
洞察力をほとんど持たないとしか思えないモノもあることは事実だ。
14年前に、別項「続・ちいさな結論(その1)で書いている。
オーディオは、音楽を聴くための道具、であるとともに、
音楽を聴く「意識」でもある。
スピーカー選びだけでなく、
そのスピーカーをどう鳴らしていくのか、
「意識」を抜きにすることはできないはずだ。
そして「らしく」「らしさ」は、「意識」の顕れだ。
ヤマハのスピーカーシステムの型番は、NSから始まる。
ナチュラルサウンド(Natural Sound)から来ている。
このナチュラルサウンドを、どう解釈するのか。
人工的な要素、人為的なものをまったく感じさせないのが、ナチュラルサウンドなのだろうか。
ナチュラルサウンドの一つの解釈ではあるが、これが全てではない。
ナチュラルは自然。
この自然をどうするのかで、ナチュラルサウンドは拡がりを持ってくる。
(その58)で書いていることも、ナチュラルサウンドについて、である。
そのスピーカーらしく、そのブランドらしくなるのもナチュラルサウンドと考えてほしい。
同時に鳴らす人らしい音もまたナチュラルサウンドと言えよう。
オーディオ雑誌に登場するオーディオ評論家。
瀬川冬樹、岩崎千明、
この二人よりも、今時の評論家はずっと長くオーディオ評論家として、書いてきている。
けれど、そんな彼らがどんな音楽が好きなのか、
演奏家は誰が好きなのかが、なかなか見えてこない。
あの頃の好きと、今時の好きとでは、温度が違うのか。
ステレオサウンド 8号掲載の音楽評論家の向坂正久氏が「音楽評論とは何か」で書かれている。
*
では一体、評論の望ましい型とはどんなものか具体的にあげてみよう。私はオーディオに関して全く無知であるが、本誌の「実感的オーディオ論」を毎号愉しみにして読んでいる。製品名などで、その表現のいわんとするところの幅がわからぬこともないではないが、そこには五味康祐という一人の人間が、オーディオの世界で夢み、苦闘している姿が生きている。ひと言でいえば体臭がある。この体臭とは頭脳だけからは決してうまれない。オーディオという無限の魅惑が、その肉体を通して語られることの、紛れもない証左である。
*
オーディオ機器についてなんらかを語るということ、
その中でも特にスピーカーについて語るということは、
まさにこういうことであるはずなのに、
オーディオ雑誌、インターネットに氾濫している中のどれだけが、そうと言えるだろうか。