Archive for category スピーカーの述懐

Date: 4月 26th, 2017
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その9)

「手強い」スピーカーは、減ってきているような気もしている。
代りに増えてきたのは、要求の多い、小難しいスピーカーのような気もしている。

「手強い」スピーカーも要求の多いスピーカーではないか、と思われるかもしれないが、
私はそうは思っていない。
「手強い」と要求の多いとは別のことである。

「手強い」スピーカーばかりが減ってきているのだろうか。
「手強い」鳴らし手も、また減ってきているのかもしれない。

「手強い」スピーカーが減ってきたから、
「手強い」鳴らし手も減ってきたともいえるだろうし、
「手強い」鳴らし手が少なくなってきたから、
「手強い」スピーカーも登場しなくなってきた、ともいえよう。

「手強い」ということが、スピーカーだけに限らず、
他のところでも失われつつあるような気がしてならない。

オーディオ雑誌の読み手に関してもそうだ。
「手強い」読み手は、どのくらい減ったのだろうか。

Date: 4月 25th, 2017
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その8)

オーディオマニアならば、
「このスピーカーを使いこなすのは難しい」とか、
「うまく鳴らすのが難しい」といったことを口にしなくとも、
一度や二度、思ったことはあるはずだ。

「難しい」という言葉を使う。
「難しい」に近い言葉として「手強い」がある。

ほとんど同じ意味として使われることもある「難しい」と「手強い」。
それでも完全に同じ意味なわけではなく、微妙な意味の違いがあるからこそ、
時には「難しい」を使い、「手強い」を使うこともある。

有名人と著名人とがある。
どちらも、広く名が知られた人という意味をもつが、
まったく同じなわけではない。

有名人は悪いことをしでかして名が知られている人も含まれるのに対し、
著名人はそうではなく、悪いことをしでかした人は含まれない──、
といった使い分けがなされている。

スピーカーにおける「難しい」と「手強い」と考えるに、
その7)で書いている、聴き手を試すスピーカーこそが、
実は「手強い」スピーカーであるはずだ。

Date: 1月 28th, 2015
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その7)

(その2)で書いた伊藤先生の言葉。
「スピーカーを選ぶなどとは思い上りでした。良否は別として実はスピーカーの方が選ぶ人を試していたのです。」

試されている。
そう実感している。ほんとうにそう思うようになってきた。

同時に、聴き手(選び手)を試さなくなってきているスピーカーも増えてきたように思うようになってきた。
そういうスピーカーが、よいスピーカーだと認識されるように、次第になってきているのが現代なのだろうか。

これも以前書いたことなのだが、「わかりやすい」音のスピーカーが確実にある。
四年前にこう書いている。
     *
文章において、わかりやすさは必ずしも善ではない。
これはスピーカーの音についても、言える。

他者からの「承認」がえやすい音のスピーカーがある。
これも、いわば「わかりやすい」音のスピーカーのなかに含まれることもある。

この場合も、わかりやすい音は、必ずしも善ではない。

聴き手を育てていくうえでの、ひとつのきっかけにならないからだ。

優れたスピーカーとは何か、と問われたときに、
聴き手を育てていく、ひとつの要素となるモノ、と私は答える。
オーディオにおけるジャーナリズム(その11・余談)」より
     *
聴き手を試さなくなったスピーカーは、
聴き手を育てなくなったスピーカーともいえよう。

Date: 2月 13th, 2014
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その6)

録音・再生というオーディオの系は、
音を電気信号に変換し記録し、その記録した電気信号をふたたび音に変換するものであり、
記録することは可能でも、記憶することはできない系である。

エレクトロニクスとメカニズムで構成されるオーディオの系だから、
記録は可能でも記憶はできないのは理論的にも技術的にも当然のことなのだが、
それでもほんとうにオーディオは記憶できないものなのか、と思うようになったのは、
「Harkness」でソニー・ロリンズのSaxophone Colossusを聴いてからであり、
聴くたびに実感している。

私の「Harkness」は何度も書いているように、岩崎先生が鳴らされていたそのものである。
だから別項「終のスピーカー」でも書いている。

Saxophone Colossusを鳴らすと、
岩崎先生がどうこのレコードを聴かれていたのか、
もっといえばSaxophone Colossusとどう対峙されていたのかが、感覚的に伝わってくる鳴り方をする。

それはもう「Harkness」というスピーカーシステムが、
これに搭載されているD130というユニットが、岩崎先生の聴き方・鳴らし方を記憶しているかのようである。

そんなのは、岩崎千明という男の鳴らし方のクセが残っているだけのこと。
そう考える人がいるのも無理もない。
だが聴けば、そうとしか思えない音が鳴ってくる。

なぜ 「Harkness」は記憶しているのか。
「Harkness」は岩崎先生のリスニングルームにあって、
岩崎先生が鳴らされる音を聴いていたからだ。
私は、これで納得している。

Date: 11月 25th, 2013
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その5)

スピーカーはいうまでもあくアンプからの入力信号を振動板の動きに変換して、
空気の疎密波をつくりだし音とするメカニズムである。

つまりは、こういう考え方ができるのではないか。

スピーカーは耳である。
アンプからの入力信号を聴きとる耳である、と。

これだけでスピーカーをリスニングルームにおいて「耳があるもの」とするわけではない。

結局は、「音は人なり」ということにつきる。

「音は人なり」、
このことを否定する人には、
スピーカーを「耳があるもの」とする私の考えはまったくおかしなことでしかない。
それはそれでいい。

あくまでも「音は人なり」をオーディオの、否定できない現象として認めるのであれば、
スピーカーこそが「耳があるもの」だと思えてならない。

スピーカーは音を出すメカニズムである。
その音に、鳴らす人の人となりが表出されるのであれば、
スピーカーは鳴らす人のすべてを聴きとって、音としている。

そう思うからだ。

Date: 11月 24th, 2013
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その4)

マイクロフォンとスピーカーの動作原理は基本的に同じである。
だからスピーカーユニットをマイクロフォン代りに使うことはできないくはない。
いい音で収録できるかどうかは別として、マイクロフォンとして動作はする。

話は逸れるが、ジャーマン・フィジックスのDDD形ユニットの音を聴いていると、
DDD型マイクロフォンが登場しないのものか、と想像する。

DDD型マイクロフォンという言い方がまずければ、
ベンディングウェーヴ型マイクロフォンである。
ベンディングウェーヴ型のユニットとしては、ジャーマン・フィジックスと同じドイツのマンガーのBWTがある。

BWTの構造をそのままマイクロフォンとすることはできないのだろうか。

話を元に戻そう。
スピーカーとマイクロフォンの動作原理が同じだから、
スピーカーがリスニングルームにおける「耳があるもの」といいたいわけではない。

スピーカーは音を発するものだから、
目とか耳という意味では口にあたる。

だが、その口は勝手になにかを喋っているわけではない。
その口を喋らせているのは、その口からの音を聴いている聴き手ということになると、
スピーカーは口ではなく、「耳があるもの」と思う。

Date: 3月 10th, 2013
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その3)

辻村寿三郎氏が、ある対談でこんなことを語られている。
     *
部屋に「目があるものがない」恐ろしさっていうのが、わからない方が多いですね。ものを創る人間というのは、できるだけ自己顕示欲を消す作業をするから、部屋に「目がない」方が怖かったりするんだけど。
(吉野朔実「いたいけな瞳」文庫版より)
     *
辻村氏がいわれる「目があるもの」とは、ここでは人形のことである。
つづけて、こういわれている。
     *
辻村 本当は自己顕示欲が無くなるなんてことはありえないんだけど、それが無くなったら死んでしまうようなものなんだけど。
吉野 でも、消したいという欲求が、生きるということでもある。
辻村 そうそう、消したいっていう欲求があってこそもの創りだし、創造の仕事でしょう。どうしても自分をあまやかすことが嫌なんですよね。だから厳しいものが部屋にないと落ち着かない。お人形の目が「見ているぞ」っていう感じであると安心する。
     *
人形作家の辻村氏が人形をつくる部屋に、「目があるもの」として人形をおき、
人形の目が「見ているぞ」という感じで安心される。

オーディオマニアの部屋、つまりリスニングルームに「目があるものがない」恐ろしさというのは、
「耳があるものがない」恐ろしさということになろう。

リスニングルームになにかをおいて、
それが「聴いているぞ」という感じになるものはなにか。

録音の世界では耳の代りとなるのはマイクロフォンであるけれど、
だからといってリスニングルームにマイクロフォンを置くことが、
ここでの人形の目にかわる意味での「耳があるもの」を置くことになるとはいえない。

では「耳があるもの」とは──。
それは、やはりスピーカーなのだとおもう。

Date: 1月 16th, 2013
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その2)

スピーカーは音は出しても、何も語らない。
こういうふうに、ほんとうに鳴らしてほしい、とか、
こういうふうに調整してくれれば、もっともっと能力を発揮できるのに……、
などと語ってくれるわけではない。

もしスピーカーが、そんなことを語ってくれたら、
スピーカーのいままでの、いい音を出すための苦労の何割かはなくなってしまうかもしれない。
スピーカーは、なにひとつ具体的なことは語らない。

けれど、そのスピーカーが鳴らす音、音楽を聴くことで、
聴き手が、具体的なことをそこから感じとることは決して不可能なことではない。

私は、オーディオはスピーカーとの協同作業だと思っている。
協同作業だからこそ、スピーカーから学ぶことがある。
学ぶことがあれば、考えることも生じてくる。
だから、これまでもいろいろと考えてきたし、いまもあれこれ考えている。
これから先も考えるのは、スピーカーとの協同作業において、スピーカーが語ることができないから、ともいえる。

ステレオサウンド 72号に掲載されている上弦(シーメンス音響機器調進所)の広告は、
伊藤先生が書かれている。
「スピーカーを選ぶなどとは思い上りでした。良否は別として実はスピーカーの方が選ぶ人を試していたのです。」

スピーカーはそんなことはもちろんいわない。
おくびにも出さない。

協同作業であるからこそ、試されている、といえるのではないのか。

Date: 1月 8th, 2013
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その1)

スピーカーはアンプからの電気信号を振動板の動きに変え音を発するメカニズムである。
でも、といおうか、当然、といおうか、スピーカーはしゃべらない。

スピーカーが音にするのは、あくまでもアンプから送られてきた電気信号である。
もしスピーカーが意志があったとしても、その意志を電気信号に変え、
スピーカーにとって前段といえるアンプにフィードバックでもしないかぎり、スピーカーはなにひとつ語らない。

いま、1970年代のオーディオ雑誌を中心に、
レコード会社の広告、オーディオメーカーの広告、輸入商社の広告をもういちど見直している。

オーディオの広告のありかたもずいぶん変ってきた、と感じる。
オーディオ雑誌におけるオーディオの広告とは、
広告というポジションだけに、昔はとどまっていなかったところがある。

すべてとはいわないけれど、一部の広告は、ひとつの記事として読める内容を持っていた。
だから私は、オーディオ雑誌を手にした最初のころは記事はもちろんなのだが、
広告も熱心に読んでいた。広告から学べることもあった。

1970年代の広告といえばいまから40年ほど前のものだ。
いまのオーディオ雑誌に載っている広告を、40年後に見直すとしたら、
どういう感想をもてるだろうか、とつい比較しながらおもってしまう。

そんなことを年末から集中的にやっていた。
ある広告の、あるキャッチコピーが、数多くの広告を集中的に見たなかでひっかかった。

Lo-Dのスピーカーシステムの広告に、こうあった。
あるスピーカーの述懐

これを目にしたとき、ブログのテーマにしよう、と思った。
どういう内容にするのかは何も浮ばなかったけれど、
何も語ることのできないスピーカーが、
そのスピーカーの使い手(鳴らし手)のかける音楽を、どう鳴らすかによって、
スピーカーは間接的に語っている──、
そうとらえれば、「あるスピーカーの述懐」というタイトルとテーマで書いていけることは、
きっといくつも出てくるであろう。