スピーカーの述懐(その68)
音と遊ぶオーディオマニアがいる。
音で遊ぶオーディオマニアがいる。
音と遊ぶオーディオマニアに鳴らされるスピーカーもあれば、
音で遊ぶオーディオマニアに鳴らされるスピーカーもある。
音と遊ぶオーディオマニアがいる。
音で遊ぶオーディオマニアがいる。
音と遊ぶオーディオマニアに鳴らされるスピーカーもあれば、
音で遊ぶオーディオマニアに鳴らされるスピーカーもある。
スピーカーのアプローチは、本来いくつもあるものだ。
なのに時代とともにシグナル・トランスデューサーに収斂していっている。
間違っているわけではないが、他のアプローチを切り捨てていくことは、間違っていないのか。
とにかく目の前にあるスピーカーが嘆くことがないように、
スピーカーを泣かせないように、
そうやって鳴らすことを大切に思えるのならば、鳴らし手として大丈夫だ。
スピーカーの言うことをよく聴いて鳴らす、それだけ。
最近、そんなふうに思うようになってきた。
スピーカーから鳴ってくる音をよく聴いて、ではない。
スピーカーの言うこと、言ってくることをよく聴くこと。
何の違いがあるのか、と思われるだろう。
うまく説明できないもどかしさがあるが、同じとは感じていないのが、いまの私だ。
そのオーディオマニアは、宿題としてのスピーカーを持っているのか、持っていないのか。
ここでの持っている持っていないは、物理的に所有しているがどうかとは関係ない。
スピーカーに求められるのは、音の表現力、ひいては音楽の表現力だけだろうか。
もっと大切なことは、洞察力のはずだ。
音への洞察力、音楽への洞察力──、
抽象的すぎるのはわかっている。
それでもスピーカーによって、洞察力は違ってくるし、
洞察力をほとんど持たないとしか思えないモノもあることは事実だ。
14年前に、別項「続・ちいさな結論(その1)で書いている。
オーディオは、音楽を聴くための道具、であるとともに、
音楽を聴く「意識」でもある。
スピーカー選びだけでなく、
そのスピーカーをどう鳴らしていくのか、
「意識」を抜きにすることはできないはずだ。
そして「らしく」「らしさ」は、「意識」の顕れだ。
ヤマハのスピーカーシステムの型番は、NSから始まる。
ナチュラルサウンド(Natural Sound)から来ている。
このナチュラルサウンドを、どう解釈するのか。
人工的な要素、人為的なものをまったく感じさせないのが、ナチュラルサウンドなのだろうか。
ナチュラルサウンドの一つの解釈ではあるが、これが全てではない。
ナチュラルは自然。
この自然をどうするのかで、ナチュラルサウンドは拡がりを持ってくる。
(その58)で書いていることも、ナチュラルサウンドについて、である。
そのスピーカーらしく、そのブランドらしくなるのもナチュラルサウンドと考えてほしい。
同時に鳴らす人らしい音もまたナチュラルサウンドと言えよう。
オーディオ雑誌に登場するオーディオ評論家。
瀬川冬樹、岩崎千明、
この二人よりも、今時の評論家はずっと長くオーディオ評論家として、書いてきている。
けれど、そんな彼らがどんな音楽が好きなのか、
演奏家は誰が好きなのかが、なかなか見えてこない。
あの頃の好きと、今時の好きとでは、温度が違うのか。
ステレオサウンド 8号掲載の音楽評論家の向坂正久氏が「音楽評論とは何か」で書かれている。
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では一体、評論の望ましい型とはどんなものか具体的にあげてみよう。私はオーディオに関して全く無知であるが、本誌の「実感的オーディオ論」を毎号愉しみにして読んでいる。製品名などで、その表現のいわんとするところの幅がわからぬこともないではないが、そこには五味康祐という一人の人間が、オーディオの世界で夢み、苦闘している姿が生きている。ひと言でいえば体臭がある。この体臭とは頭脳だけからは決してうまれない。オーディオという無限の魅惑が、その肉体を通して語られることの、紛れもない証左である。
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オーディオ機器についてなんらかを語るということ、
その中でも特にスピーカーについて語るということは、
まさにこういうことであるはずなのに、
オーディオ雑誌、インターネットに氾濫している中のどれだけが、そうと言えるだろうか。
いまはどうなのだろか。
昔は、あの人が鳴らすアルテックは、いい感じなんだよ、
そんなことが言われていた。
アルテックのところは、タンノイでもJBLでもいい。
スピーカーのブランドが、そこには入る。
ここでの、いい感じで鳴るは、
アルテックはアルテックらしい音で、タンノイはタンノイらしい音で鳴ることであって、
よくアルテックらしくない音、JBLらしくない音で鳴らすのを、
ありがたがる人、自慢する人も昔からいるけれど、
そのスピーカーがそのスピーカーらしく鳴る(鳴らせる)のは、
そのスピーカーとその人との相性がいいからなのかもしれない。
アルテックのスピーカーをいい感じで鳴らせる人がいる。
その人がアルテックのスピーカーが好きならば、何もいうことはないのだが、
アルテックではなく、JBLとかタンノイの方を好きだったりする。
そしてJBLとかタンノイをうまく鳴らせるわけではなかったりすることもある。
こういう場合、アルテックを鳴らすのが、その人にとって幸せなのか、
それとも好きなスピーカーをうまく鳴らさなくても、鳴らしていくことが幸せなのか。
いわゆる耳のいい人というのは、割といるものだ。
細かな音の違いを聴き分ける人で、
破綻のない文章が書けて、オーディオの技術にも、ある程度明るいと思われていれば、
オーディオ評論家として食っていけるであろう。
もちろん周りへの配慮、営業力みたいなことも求められるけれど、
いまオーディオ評論家として食っていけていても、
その人たちをオーディオ評論家(職能家)と呼べないのは、
洞察力が欠けているからではないのか。
スピーカーが、どんな表情で鳴っているのか(歌っているのか)。
怒り顔で鳴っているのか、苦虫を噛み潰したよう顔で、なのか、
寂しそうな表情なのか、まったくの無表情なのか、
それとも微笑んでるのか。
そのことに無頓着で、スピーカーを鳴らした、とは言えない。
別項でテーマとしている「骨格のある音」。
このことに関して思うのは、音と音らしきものとがあり、
音と音らしきものとは同じではないということだ。
音で音楽を奏でる演奏家と、
音らしきもので演奏する者とがいる、ともいえよう。
このことはスピーカーについても言える。
音を発するスピーカーと、音らしきものを発するスピーカーとがある。
ステレオサウンドがながいことリファレンススピーカーとして使っているB&Wの800シリーズ、
このスピーカーシステムに惚れ込んでいる人は、
ステレオサウンドに書いている人にいるのだろうか。
私は、いないと思っている。
惚れ込んでいる人がいないからといって、
B&Wのスピーカーの音が悪いということではないし、
その優秀性を否定するわけでもない。
ただ、ステレオサウンドの執筆者の中にはいないというだけのこと。
昔は、どうだったか。
瀬川先生は4343に惚れ込まれていた。
そのことが、書かれたものから伝わってきていた。
4343の前には4341、その前はJBLのユニットによる3ウェイ。
そこには瀬川冬樹のJBLへの惚れ込み方があった。
それだけでなく菅野沖彦のJBLの惚れ込み方があった。
岩崎千明のJBLの惚れ込み方があった。
それぞれのJBLの惚れ込み方があった。
それぞれの惚れ込み方であり、その人ならではの惚れ込み方でもあった。
だからこそ、音が聴こえてこない誌面からでも伝わってくるものがあった。
そういう時代を、私は生きてきた。