1995年のツール・ド・フランスでの、たしか第18ステージだったと記憶しているが、
この日のゴールでのランス・アームストロングのウィニングポーズは、いまも強く印象に残っている。
アームストロングがステージ優勝をとげた3日前のレースで、
チームメイトのファビオ・カサルテッリがピレネー・ステージでの下りコースで落車。
道路沿いの縁石で頭を強く打ち亡くなるという事故が発生した。
アームストロングは、左右の腕を高く上げ、さらに人さし指で天を指していた。
カサルテッリがステージ優勝をしたいといっていたコースでのウィニングポーズだった。
1995年のツール・ド・フランスは、いくつかのことがあった。
ミゲール・インドュラインが5度目の総合優勝、しかも91年からの5連覇。
過去、総合優勝5回を成し遂げた選手は、
ジャック・アンクティル、エディ・メルクス、ベルナール・イノーだけで、
しかも5連覇はインドュラインだけの偉業であった。
初日のプロローグは雨。
イギリスのクリス・ボードマンが、ロータス製のカーボン・モノコック・フレームのバイクで、
ステージ優勝を狙っていたものの、スタート直後のカーヴでの落車による足首の骨折でリタイア。
前年94年の、やはりプロローグでの圧倒的なボードマンの速さに驚かされていたし、
彼の走りをみたいと思っていただけに、ボードマンのリタイアは残念だった。
他にもいくつか書きたいことはあるけれど、自転車についてのブログでもないので、もうひとつだけにしておく。
第7ステージのことだ。
このステージは、クラシックレースとされているリエージュ〜バストーニュ〜リエージュと同じコースで、
クラシックレースを軽視している、クラシックレースでは勝てない、という批判的な声を打ち消すためなのか、
単独でアタックをしかけて集団を引離してしまう。
このときインドュラインにひとりだけついてこれた選手がいた。
ヨハン・ブリュイネールで、彼はゴール直前までいちどもインドュラインの前を走ることなく、
インドュラインを風除けとして体力を温存するため、ずっと後についていた。
ブリュイネールの行為はルール違反ではない。
けれどロードレースにおいて、
小人数でアタックをしかけたときには交互に先頭交代をしながら、というのが暗黙の了解となっている。
空気抵抗がなければ自転車はずっと楽に走れる。
だから小人数でのアタックではひとりにだけ負担をかけないように先頭を交代しながら走っていく。
ブリュイネール以外にも、後につくだけの選手はいないわけではない。
でも先頭を走る選手が、前に出ろ、という手で合図するし、
そうなると渋々なのかもしれないが、そういう選手でも先頭に出る。
第7ステージのゴールはベルギー。ブリュイネールの母国である。
ゴールにはベルギー国王の姿もあった。
ブリュイネールは、だから、このステージでの優勝を狙っていたのだろう。
ブリュイネールはゴール直前、ここではじめてインドュラインの前に出てステージ優勝をする。
こうなることはブリュイネールが一度も先頭にたたなかったことから予想できたことだった。
このステージでのブリュイネールの走りを、どう判断するのか。
ゴールにはベルギー国王だけでなく、
ベルギーが生んだ史上最強のロードレーサーと呼ばれるエディ・メルクスもいた。
メルクスはブリュイネールの走りに激怒した、と伝えられた。
「ベルギーの恥だ」とブリュイネールのことを呼び、
インドュラインこそ「真の王者」だと褒め称えた。
ブリュイネールがステージ優勝を狙っていること、
そのためぎりぎりまで後についているだけの走りをすることをいちばんわかっていたのは、
つねに先頭をひとりで走っていたインドュラインであり、
彼はいちどもブリュイネールに対して前に出るように促したことはなかった。
ただ黙々と先頭を走り続けていた。
ブリュイネールがゴール直前で彼を追い抜くこともわかっていたはず。
もしかするとインドュラインの実力からするとブリュイネールを最後まで抑えることもできたのかもしれない。
けれど、インドュラインは第7ステージの優勝を逃したことを悔しがってもいなかったし、
ブリュイネールに対し批判的な発言もしなかった。
メルクスが「真の王者」だと呼ぶのもわかる。
フランスのスポーツ・ジャーナリストらはインドュラインのことを「太陽王」と呼んでいた。