夏の終りに(その3)
ランス・アームストロングは、ロードレーサーとしてはミゲール・インドュラインよりも上なのかもしれない。
速い選手というより、強い選手である。
癌から生還しツール・ド・フランスで7連覇できたのだろう。
たとえアームストロングがドーピングをしていたとしても、
(ドーピングは絶対に許せない、という人もいるけれど)その強さは、私は素直に認める。
アームストロングは強い。
けれど、強いからといって、インドュラインに感じていた「王者」といったものを、
アームストロングからは感じにくい。
ドーピング疑惑があるから、そう感じないわけではない。
1995年のアームストロングのウィニングポーズは、
1997年のマルコ・パンターニのラルプ・デュエズでのステージ優勝のときのウィニングポーズとともに、
私がこれまでみてきたツール・ド・フランスのレースのなかで、
最も強く印象に残っているものだ。
パンターニのウィニングポーズが動だとすれば、
アームストロングの1995年のウィニングポーズは静(せい、ゆえに生なのかもしれない)である。
1999年のツール・ド・フランスをテレビでみていて、
アームストロングの強さには熱いものを感じていた。
にもかかわらず、アームストロングが王者かと問われても、
そうは思えない、と答えざるをえない何かが、心のどこかにひっかかっている。
それはなんだろうか、と思っている。
まだ、はっりきとつかめていない。
ぼんやりとしたままだ。
インドュラインは1964年、アームストロングは1971年生れ。
インドュラインと私はほぼ同世代。
そういうことでもない、と思う。
それでも明らかにインドュラインとアームストロングは、違う。
人はひとりひとり違うから、このふたりが違って当り前──、そんな違いではない。
ツール・ド・フランス総合優勝5回のアンクティル、メルクス、イノー、そしてインドュライン。
私がリアルタイムでみてきた選手は、この中ではインドュラインだけ。
あとの3人についてのエピソードは本で知っているだけである。
この4人も、みな違う。
それでもインドュラインまでは、共通した王者としての「何か」があるようにも感じている。
その「何か」がなんなのかはまだ漠然としたままだけど、
インドュラインとアームストロングの違いにも似た「何か」を、
いまのオーディオ機器(特にスピーカーシステム)に対して感じることがある。
その「何か」がはっきりつかめていないのに、
なぜそんなことがいえる? といわれるだろう。
たしかにそうである。
でも、直感的としてそう感じて、その「何か」がはっきりしないもやもやもまた感じている。
私はインドュラインを王者と思っている。
でも人によってはアームストロングこそ真の王者と思うだろう。
そのことがスピーカー選びに関係している、と結ぶのは、
強引なこじつけでしかないのか……。