Archive for category モノ

Date: 12月 12th, 2019
Cate: モノ

モノと「モノ」(世代の違い・その6)

モノを買う、という体験は、実は能動的な体験なはずだ。
趣味に関係するモノ、感性と絡んでくるモノは、絶対的にそうである。

けれど受動的と考えている人、
受動的とまでは考えていないけれど、
能動的とは考えていない人は、意外と多いのかもしれないし、
そんなこと、まるっきり考えていない人も少なくないのかもしれない。

能動的か受動的か。
こんなことを考えていると、若い世代のいうところの、
モノよりも体験の「体験」とは、受動的な体験かもしれない、と思えてくる。

音楽に関して、ライヴを聴きに行ったり、
音楽フェスティヴァルに行ったりする。

チケットを入手して、会場となるところまで行く。
能動的といえば、そういえる。
自分の部屋でオーディオを介して音楽を聴く行為よりも、
よっぽど能動的、と多くの人はみてくれるはず。

行動するという意味では能動的であっても、音楽の聴き手としてははたして能動的なのか。
オーディオを介しての聴き手のほうが、実のところ、能動的といえる。
少なくとも私はそう思っている。

すべてのオーディオマニアがそうだとは、もちろんいわない。
それでも真摯に、オーディオを介しての音楽の聴き手は、能動的でなければならない。

Date: 12月 12th, 2019
Cate: モノ

モノと「モノ」(世代の違い・その5)

いまの時代だったら、18の私はどういう買い方をしただろうか。
当時のSMEの3012-Rのように、これからの自分のオーディオに絶対必要なモノを、
しかもそれが限定で、いま手に入れなければ……、となったときに、どうするだろうか。

あのころと同じ買い方うするしない、ではなく、できるだろうか、と思ってしまう。
どうなのだろう、自信をもっていえないところが残る。

なので、いまの若い世代の人たちに、
買うことも一つの、大きな体験だから、といえるだろうか。

まだまだそういえるジャンルのモノもある。
それでも、そうでなくなったジャンルのモノもある。
オーディオはどうなのか。

どこに住んでいるかによって、違ってこよう。
それでも、明るいことはいえそうにないような気がしてしまう。

世代によっても、違ってこよう。
いやいや、いい店はまだまだある、という人がいたとしよう。
その人がすすめる店は、ほんとうにいい店といえるだろうか。

上の世代の人たちがいう、こういうことは疑ってかかってもいい。
どこかストックホルム症候群的な感じがしてしまう。

そういう人がいる、といえる。
そういう人のいうことを信じない方がいい、と、若い人たちにはいいたくなる。

いまは買うという体験の何かがスポイルされてしまっている時代なのか。
モノを買わなくなった──、
その理由の一つは、そういうところにあるのかもしれない。

Date: 12月 12th, 2019
Cate: モノ

モノと「モノ」(世代の違い・その4)

その3)の終りに、いまはどうだろうか、と書いた。
しみじみ、いまはどうだろうか、とおもう。

インターネットの爆発的な普及は、モノの買い方を変えた。
昔、私が中学生、高校生ぐらいのとき、
通信販売はどこかアヤシイ雰囲気もあった。

少年マンガ誌の表3に載っていた通信販売の広告は、まさしくそうだった。
アヤシイ匂いをプンプン漂わせているけれど、つい目が留ってしまう。

一度も利用したことはないが、
東京に来て知り合った人が、この手の通信販売で買ったことを笑いながら話してくれたことがある。
やっぱり、そうだったわけだが、
そのころの通信販売のイメージは、インターネットの大手のところからはほぼ払拭されている。

使ってみると、便利である。
しかも規模が大きくなればなるほど、取り扱い商品のジャンルも広がっていく。

そして量販店もすごい。
私のいなかには、そしてそのころは量販店という店はなかった。
東京に来て、はじめてヨドバシカメラを知ったぐらいだ。

いまヨドバシカメラのオーディオコーナーに行けば、
かなり高額なモノまで取り扱っている。

オーディオ店に行く必要が、どの程度あるのだろうか。
そうおもわせるほどの品揃いである。

amazonにしても、たとえばJBLだと4312SEまでは購入できる。
いまのところは、である。
あと数年経てば、どうなるのかはわからない。

もっと上のクラスのモノまでamazaonで取り扱うようになる可能性は十分考えられる。
一方で、オーディオ店はどうだろうか。

Date: 12月 3rd, 2019
Cate: モノ, 世代

モノと「モノ」(世代の違い・その3)

18のときに、SMEの3012-R Specialを買った。
何度も書いているようにステレオサウンド 58号での瀬川先生の文章を読んでから、
このトーンアームが、私が望む音を出すためには絶対に必要なモノという思い込みがあった。
しかも当時の広告には、限定とあった。

どうにかして手に入れなければならない。
当時の価格は、88,000円だった。

それでも18の私には高価だった。
16の時に、サンスイのAU-D907 Limitedを買っている。
約二倍ほどの価格だったが、修学旅行に行かずに積立金と、
新聞配達で貯めたお金をあわせて、一括払いで買った。

でもSMEの時には、そういう手はなかった。
分割払いで買うしかない。
初めての分割払いである。
頭金は五千円くらいしか払えなかった。

それでもなんとか買うしかない、と意気込みだけはあった。
東京で、はじめてのオーディオ店で、見つけた。
これを買うしかない、これを逃したら……、
とにかく店員に声をかける。

もうこれだけでどきどきしながらの行動だった。
確か12回払いで買った。

秋葉原から、当時住んでいた三鷹まで電車で持って帰る。
袋に入っているから、周りの人には何を持っているのかはわからないが、
それでも、「今日からSMEオーナーだ」と誇らしい気持になっていた。

そういう買い方から、東京でのオーディオが始まった。
当時は、こういう買い方しかできなかった。
いまはどうだろうか。

Date: 12月 3rd, 2019
Cate: モノ, 世代

モノと「モノ」(世代の違い・その2)

さらにいえば、買うことも体験である。
近所コンビニエンスストアやスーパーでの買物ではなく、
分不相応と周りからいわれるモノを買うのは、一つの体験である。

高額品ではなく、きちんとした高級品、一級品のモノを買うのであれば、
高級店、一流店と評判の店で買う──、
これは体験と感じない人はいない、と思うのだが。

高額なモノだけを扱っているだけの店、
一流店とはいえない店で買うのも体験といえばそうなるのだが、
ここでの「体験」とは違ってくる。

オーディオも、東京ではトロフィーオーディオ屋としかいえない店もある。
そういう店かきちんとしか店なのか、それを見極めることも含めて体験である。

1995年にロードバイク(自転車)を買う時が、私にとってはそうだった。
初めてのロードバイクである。
いい店で買いたいから、東京の自転車店だけでなく、神奈川、埼玉の店もいくつも行った。
そうやって店を決めた。

これでよかった、といまでも思っている。

きちんとした店で買うことによって、そこでの人との出会いがきちんとあるからだ。

Date: 12月 2nd, 2019
Cate: モノ, 世代

モノと「モノ」(世代の違い・その1)

数日前、ハタチぐらいの若者数人による座談会が、
インターネットの記事になっていた。

テーマは「若者のお金の使い方」についてだった。

ほぼ全員、いわゆるモノを買うのには、あまり興味がない、
モノより体験にお金を使う、とあった。

体験とは、スポーツ観戦だったり、音楽のライヴも含まれるし、
映画館に行くのも、テーマパークに行くのもそうであろう。

この若者たちに、司会者は訊ねなかったのか、と思うことがある。
クルマは確かにモノである。
高価なモノである。

けれどクルマは買ってオシマイ、というモノではない。
クルマを運転するという体験ができる、
運転して、どこかに行ける、ということも体験である。

オーディオもそうだ。
この座談会に登場したハタチぐらいの人たちにとっては、
われわれが購入するようなオーディオ機器は、高価過ぎるということになろう。

しかも高価過ぎるモノでしかないのだろう。
われわれはオーディオ機器というモノを買っているが、
けれどオーディオで音楽を聴く、ということは体験である。

音楽ライヴでは、一度きりの体験である。
オーディオでの音楽は、くり返し体験できるからこその発見がある。

クルマやオーディオは高価だけど、たとえばTシャツでもいい。
Tシャツのいちばんいいのが、どれだけするのかしらないが、
数千円出せば、いいTシャツが買えるはずだ。

ユニクロのTシャツも悪くはないが、
たとえば五千円ほどするTシャツを着れば、
その着心地の良さは驚くのではないのか。

これも体験である。
良質のモノは、すべて体験へとつながっていく。

Date: 2月 13th, 2018
Cate: モノ

キヤノン AE1

中学二年になったばかりの春、
キヤノンからAE1というカメラが登場した。

当時読んでいた学研が出していた中学生向けの月刊誌にも、
AE1の広告は載っていた。

その数年前から父は写真に凝っていた。
モノクロ写真を自分で現像していた。

休日は、一日自分の部屋にこもっての作業をしていた。
そんな父の楽しそうな姿を見ていたから、
写真に興味をもった時期が、私にもあった。

ちょうどそのころと重なるようにAE1が登場した。
本体価格は、八万円くらいだった。
すぐには無理でも、なんとか買えそうな気がした。

中学生向けの月刊誌に広告を出していたくらいだから、
キヤノンも、10代の若者をターゲットにしていたのかもしれない。

最初に買うカメラはこれだ! と決めた。
よし貯金をするぞ、と思った。
1976年の春のことだった。

結局、この年の秋に「五味オーディオ教室」に出逢う。
そこでカメラへの興味を抑え込んだ。

まだ買えてなかったから、できたのかもしれない。
「五味オーディオ教室」との出逢いが二、三年遅れていたら、どうなっていただろうか。

AE1のこと思い出し、ふとそんなことを思うのは、
最近、写真家の野上さんと話すことが増えたからかもしれない。

まぁ、写真はヘタの横好きで終っていたであろう……

Date: 9月 3rd, 2017
Cate: モノ

モノと「モノ」(主従の契り・その2)

オーディオシステムは、
オーディオ機器を擬人化する人にとっても、いわば道具である。

使い手(鳴らし手)が主であり、
オーディオが従である、ように見えるし、そう思える。

けれど少し距離をとってみると、
オーディオは自らも機動することはできない。

使い手、つまり人間が電源を入れて、
LP、CD、テープをかけて、入力セレクターをあわせて、
レベルコントロールを上げる操作をしなければ、スピーカーから音は鳴ってこない。

見方をかえれば、オーディオが人間を使っている、ともいえる。
音をただ単に出すだけでも、これである。

よりよい音、つまりオーディオ機器がもてるポテンシャルを発揮するためには、
人間による使いこなし、鳴らし込みを必要とする。

スピーカーが勝手に、いい音で鳴るポジションまで移動して、
スピーカーの振りなども自動的にやってくれるわけではない。

ここでも使い手である人間が、大型スピーカーであれば、
動かすだけでも大変な重さにも関係なく、いい音のために設置場所を変えていく。

振りや仰角をミリ単位で調整したりするのも、人間の仕事である。

アンプにしても電源を入れてもらうだけでなく、
いわゆるウォームアップのために、
それも実際に音楽を鳴らす動的ウォームアップを求めているともいえる。

そういった人間の努力を、オーディオは眺めているのかもしれない。
その努力の褒美として、きまぐれにいい音を聴かせてくれているとしたら、
どちらが主なのかは、判然としない。

Date: 5月 15th, 2015
Cate: モノ

モノと「モノ」(主従の契り・その1)

用いずば器は美しくならない。器は用いられて美しく、美しくなるが故に人は更にそれを用いる。
人と器と、そこには主従の契りがある。器は、仕えることによって美を増し、主は使うことによって愛を増すのである。
人はそれらのものなくして毎日を過すことができぬ。器具というものは日々の伴侶である。私達の生活を補佐する忠実な友達である。誰もそれに頼りつつ一日を送る。その姿には誠実な美があるのではないか。謙譲な徳が現れているのではないか。
     *
柳宗悦氏の「美学論集」からの引用だ。

《人と器と、そこには主従の契りがある》とある。
人が主であり、器が従である。
器をオーディオに置き換えたとしても、人が主であることに変りはないし、
そのままオーディオを語っているといえる。

それでも言いたいのは、ごく短い期間でいい、
一年とか半年、人が従で器(オーディオ)が主という時間を持ってほしいということ。
できれば若いうちがいい、と思う。

私にはそんな時があった。

Date: 1月 11th, 2015
Cate: モノ

モノと「モノ」(その15)

最初に使ったPhotoshopのヴァージョンは2.5だった、と記憶している。
まだフロッピーで供給されていた。10数枚あった。
インストール作業はフロッピーの出し入れ作業であった時代だ。
それからCD-ROMになる。

どちらの時代でも、家電量販店のパソコン売場や専門店のソフトウェアの棚には、
ボックスがいくつも並んでいた。
いずれもずしっと重たいボックスだった。

中身はCD-ROMとマニュアル。
CD-ROMは一枚か二枚でも、マニュアルが重かった。
この重さが、そのアプリケーションがどれだけ多機能であるかを示しているかのようでもあった。

いまソフトウェアのコーナーは小さくなっている。
インターネットでダウンロードで購入するのが当り前になってきたためであり、
マニュアルもPDFになってしまった。

アプリケーションだけではない、映画もインターネットで配信されるものが買えるようになっている。
そうやって購入したアプリケーション、映画などはハードディスクに記録される。

とはいえ、このふたつはまったく同じであるとはいえない。
アプリケーションはもとからパソコンにインストールするものだった。
一度インストールしてしまえば、基本的にインストールディスクは使わない。

一部のプロテクトがかかっているアプリケーションでは解除にディスクを、
アプリケーションの起動のたびに要求していたが、
そういうアプリケーションを除けば、インストール後にディスクは必要としない。

Date: 11月 19th, 2013
Cate: モノ

モノと「モノ」(その14)

オーディオが、もしパソコンの20年間と同じ速度で進歩していたら……、
そんなことを夢想しないわけでもないけれど、一緒くたに考えることではないことはわかっている。

とにかくパソコンの進歩は大きかった。
大きかったけれど、それでも20年前と変らぬことは、
パソコンに前に人がすわり、キーボードやマウスを操作してパソコンに対して、
なんらかの指示を出さなければ、
どんなに高性能なパソコンに、どんなに多機能なアプリケーションをどれだけインストールしていようと、
勝手に何かを、そのパソコンの所有者の代りにやってくれるわけではない。

毎日、こうやってブログを書いていて、
これまでにけっこうな文字数を入力していっているけれど、
だからといって私の代りにパソコンがこれまでの入力履歴をベースにして勝手に文章をつくり出してはくれない。

パソコンという様々な処理を可能にしてくれる計算器に、
ある目的、方向性を定めるのがアプリケーションであり、
ハードウェアとソフトウェアの組合せによって、道具たり得る、となる道具なのだろう。

それではオーディオにおけるソフトウェアは、
パソコンにおけるアプリケーション的な意味での道具的要素をまったくもたないのだろうか。

Date: 11月 19th, 2013
Cate: モノ

モノと「モノ」(その13)

オーディオにもパソコンにも、ハードウェアとソフトウェアという括り方ができる存在がある。
オーディオもパソコンも、どんなに高価で高性能をモノを揃えたとしても、
ソフトウェアがなければ単なる飾りか、
デザインがよくなければ飾りにもならず、置物。もっとひどくなれば邪魔物になってしまう。

オーディオにはLP、CD、ミュージックテープといったプログラムソースと呼ばれるソフトウェア、
パソコンにはアプリケーションと呼ばれるソフトウェアがあって、
オーディオもパソコンも道具として機能するようになる共通するところをもつ。

とはいえ、ソフトウェアであっても、パソコンのアプリケーションもまた道具のひとつである。

パソコンが登場した時からしばらくは何度か目にしたことがあるのが、
パソコンという道具は、他の道具と異り、はっきりとした目的をもっていない、といったことがあった。

つまり包丁は食材を切ったり捌いたりするための道具である。
鍋は食材を煮るための道具であり、ペンは文字や絵を描くための道具。
そういった意味での目的をはっきりともたない道具がパソコンである、と。

パソコンは、ある意味何でも可能にしてくれる道具かもしれない。
とはいえ基本的には計算器である。
その計算器に、実に様々な計算を実行させるのがアプリケーションということになる。

どういう計算をさせるかによって画像処理が可能になるし、
音をいじることもできる。表計算もできるし、文字入力・変換もできる。
計算器の処理能力が高ければ高いほど、可能となる処理範囲は広くなっていく。

年々パソコンの計算器としての処理能力は高くなっていくし、
アプリケーションも多機能になっていく傾向がある。
私が最初に自分のMacとして使い始めたClassic IIから20年以上経つ。
この間の処理能力の向上と多機能化は目覚しいものがあって、
最近ではそのことが 当り前のことになりすぎてしまい、
この間の進歩を忘れてしまいがちにもなる。

Date: 10月 21st, 2012
Cate: モノ

モノと「モノ」(続・ワルターのCDにおもったこと、の補足)

透明のプラスチックケースの、CDの取り出しにくさは、私だけでないようで、
Facebookでのコメント欄にも、
「割れるのではないかと思うほど湾曲しているCDを見るのは、心臓に宜しくありません」とあった。

ほんとうに、そのくらいCDが湾曲する。
まだ割ったことはないけれど、CDの材質がもう少し硬いものだったら、割れてしまうかもしれない。

今日、この件でメールもいただいた。
その方は、取り出しのコツをつかまれた、とのことで、こう書いてあった。
(Mさん、ありがとうございます。)
     *
まず、蓋を開けて真ん中を左手で右端を机などに置き傾斜させてから中央を(つめの中央部)人差し指か中指押下すれば簡単に外れます。
     *
通常のCDケースであれば、左手でケースをもって右手でディスクを取り出せる。
机の上などの平らなところに置かずとも取り出せる。

透明のプラスチックケースで、容易に取り出せない場合、ケースを平らにところに置いてあれこれやっていた。
これではうまく取り出せない。
CDが湾曲してしまうことがほとんどだ。

ケースを傾斜させることは、考えつかなかった。
右端が机に固定されるわけだから、
その状態でツメの部分に力を加えれば、ケースのそのものがわずかにしなる。
机の上にべたっと置いてしまうと、このしなりは生じない。

まだすべての透明のプラスチックケースでは試していないけれど、
このしなりで、取り出しやすくなったケースがある。

それにしても、CDの取り出し方でブログ(記事)を書くことになるとは、
CDが登場したときには、まったく思いもしなかった。

Date: 10月 20th, 2012
Cate: モノ

モノと「モノ」(続・ワルターのCDにおもったこと)

“Bruno Walter Conducts Mahler”はCD一枚一枚は紙ジャケットにおさめられている。
この紙ジャケット、ボックスもの、それも廉価盤だと、サイズがぎりぎりなものがかなり多い。
だからCDを取り出すときもしまうときも、きつい。
ジャケットの内側に盤面がすれて、キズがつきやすい感じがして好きになれない。

実際、少なからずキズがついていることも、最近増えている。

ボックスもののCDでも、LPのような薄い紙の内袋におさめられているものだと、
スムーズにとりだせるし、CDの盤面にキズがつく心配もない。

前者のボックスものだと、愛聴盤といえどもCDを取り出すのが億劫になる。
取り出しにくいから、ということもあるけれど、ディスクにどうしても細かいキズがはいっていくからである。

紙ジャケットだけではない。
プラスチックケースのものでも透明タイプのものだと、
ディスクをクランプしているツメの部分がかたすぎて、
CDが取り外しにくいものが、少なからずある。

このことを話してみると、どうもクラシックのCDに関して、多く見受けられることのようだ。
ロック、ポップスのCDをかなりの枚数購入している友人の話では、
そういう経験はいまのところはない、とのこと。

このすべて透明なプラスチックケースの、ディスクの取り外しにくさは、
ギリギリサイズの紙ジャケットよりも、イヤになる。
ディスクが割れるんじゃないか、と心配になるほど反ってしまうことがあるからだ。

正直、ツメの何本かを割ってしまおうかと思いたくなるほど、
ディスクをしっかりとくわえこんでいてディスクを解放してくれない。

聴きたい! と思っても、取り出したいディスクが、この透明のプラスチックケースだと、
聴くのをやめようかな、と思う。

すべての透明のプラスチックケースがそうではない。
すんなり取り出せるケースもある。
けれど、この2、3年の間、クラシックのCDに関しては、
聴き手の心情をまったく考えていないケースが着実に増えてきている。

これらの紙ジャケット、透明のプラスチックケースのCDだと、
極力リッピングするようにしている。
聴きたいと思うたびに、ディスクの取出しでイヤなおもいをしたくないからである。

Date: 10月 10th, 2012
Cate: モノ

モノと「モノ」(ワルターのCDにおもったこと)

“Bruno Walter Conducts Mahler”というCDボックスが、いま出ている。
7枚組で、HMVなど安いところでは、1700円を切る価格で売っている。

廉価盤というつくりでブックレットはついていない。
だから、この値段なのか、とも思うけれど、やはり安い。

内容は、だからといって、それ相当のものではなく、ワルターが米COLUMBIAに残したマーラーの演奏は、
とくにニューヨーク・フィルハーモニーとによるものは、いま聴いても興味深いものを感じる。

コロムビア交響楽団とのワルターの演奏は20代のときに集中して聴いていた。
あのころは、素直にいい演奏と感じていたものが、いまでももうそれほどとは思えなくなっている。

そのころから20数年経ったいま、私にとってワルターは、
ウィーン・フィルハーモニーと残したいくつかの演奏を除いて、もう大切な指揮者ではなくなりつつある。

そんな私の耳にも、ニューヨーク・フィルハーモニーとの一番、二番、四番、五番、「大地の歌」、
その中でも五番の交響曲は素晴らしい、と思える。
こういう曲だったのか、という、いくつかの小さな発見を、2012年のいま、1947年の演奏を聴いて感じている。

いいCDだ、と、ワルターのこれらのマーラーの演奏を聴いたことのない人には推められる。
なのだが、ひとつ思うこともある。

DISC1にはコロムビア交響曲との一番と、ニューヨーク・フィルハーモニーとの二番の第一楽章のみがはいっている。
DISC2には二番の二楽章以降と「さすらう若人の歌」が、
DISC3にはニューヨーク・フィルハーモニーとの四番と、コロムビア交響楽団との九番の一楽章が、
DISC4には九番の二楽章以降が、
DISC5にはニューヨーク・フィルハーモニーとの五番、
DISC6にはニューヨーク・フィルハーモニーとの「大地の歌」、
DISC7にはニューヨーク・フィルハーモニーとの一番と「若き日の歌」がおさめられている。

廉価盤として、少しでも価格を抑えるためにディスクの枚数を減らすための、
こういう組合せなのだろう、と一応は理解できる。

けれど、二番と九番の、ふたつの交響曲はどちらも一楽章のみが、別のディスクにはいっている。

マーラーは二番の交響曲の第一楽章のあとに、すくなくとも5分以上の休止をおくこと、と指示している。
だから、二番の楽章の分け方は納得できないわけではない。
ディスクを入れ換えて、5分以上の休止を聴き手がつくるのにもいいかもしれないからだ。

だが九番に関して、マーラーはそのような指示は出していない(はず)。

なのにこういう曲の収め方をするということは、
ディスクの枚数を減らす、という目的とともに、
これはもうレコード会社(ここではSony Classicalになる)が、
リッピングして聴け、といっているようにも受けとめられる。

リッピングしてしまえば一楽章のみが別のディスクにはいっていることなどは関係なくなるし、
ワルターのマーラーを録音年代順に並び替えるのも簡単にできる。

CDと同じフォーマット、
16ビット、44.1kHzでの配信を全世界に行っていくための設備を整えるのは大変なことなのかもしれない。
それもよりも手なれたCDで、できるだけ安く作って市場に出した方が、
レコード会社にとっては手間のかからないことなのだろうか。

そんなふうにも勘ぐってしまいたくなる。