第10回公開対談のお知らせ(瀬川冬樹を語る)
11月2日の公開対談は、都合により私ひとりで、瀬川先生について話すわけだが、
「古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ」、
この松尾芭蕉のことばを念頭におき話していければと思っている。
11月2日の公開対談は、都合により私ひとりで、瀬川先生について話すわけだが、
「古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ」、
この松尾芭蕉のことばを念頭におき話していければと思っている。
927Dstでかける12インチ・シングルの音は、凄さを増すのか、といえば、たしかに増す。
けれど930stで聴いたときの33 1/3回転のLPと12インチ・シングルの音の差が拡大されるわけではない。
同じくらいの差というよりも、どちらかといえばその差がすこし縮まっているようにも感じた。
12インチ・シングルを十全に鳴らしきれなかったのではなく、
33 1/3回転の通常のLPの音がこちらの予想以上に凄みを増す鳴り方のものだから、
927Dstでかける12インチ・シングルの音はやはり凄いけれども、
音に対する感覚は決して直線的ではないためなのか、なんとなく縮まって聴こえた、そんな印象だった。
ケイト・ブッシュの12インチ・シングルは、確認したわけではないけれど、
ハーフ・スピード・カッティングではないはず。
45回転でのカッティングだと思う。
音のエネルギーには、勢いが関係していると、感覚的には捉えてしまう。
勢いこそがエネルギーだ、といいたくなるわけだが、勢いはときに正確さを損なうこともある。
レコードの製作には、まずラッカー盤がカッターヘッドによってカッティングされる。
ラッカー盤を削って音溝を刻んでいくわけだが、
刻み込む際に勢いよく刻んでいくのか、それともじっくり慎重に刻んでいくのか。
勢いよく刻んでいくのが、再生時の回転数と同じ回転数でのカッティングであり、
じっくり慎重に刻んでいくのが、再生時の回転数の半分の回転数(ハーフ・スピード)でのカッティングである。
ラッカー盤に音溝を刻んでいくカッター針にはヒーターがとりつけられている。
ヒーターによって針を温めることでスムーズに溝を刻んでいくためである。
つまりそれなりの抵抗が生じているわけである。
カッティング時の、この抵抗に対して、勢いで刻んでいくのか、ゆっくり刻んでいくのか。
このふたつは、ずいぶん違う結果を生むように感じている。
カッターヘッドに送りこまれる信号が同じなのだから、
カッティング時の回転数には関係なく同じに音溝が刻まれているはずなのだろうが、
この項で以前書いているように、カッティング時に生じるプリエコー、アフターエコーの問題があるということは、
カッティング時の回転数の違いは、音溝の形に微妙な違いを生じさせていても不思議ではない。
ホールにはいったときに感じられる空気感は、ある種の音響的バイアスのようなものであり、
この音響的バイアスを再現できるスピーカーシステムと、そうではないスピーカーシステムがある。
再現できる、とつい書いてしまったが、
正しくは音響的バイアスを有するスピーカーシステムとそうでないスピーカーシステムがある、
としたほうが、じつのところ、より正確かもしれない。
つまり音響的バイアスは、スピーカーシステムがつくり出す演出的なもの、という捉え方もできよう。
タンノイのオートグラフは、まさにそういうスピーカーシステムであった、と思う。
音響的バイアスはプログラムソースに完全なかたちで収録されているであれば、
スピーカーシステムの演出による音響的バイアスに頼ることはないわけだが、
うまく収録されている録音もあればそうでない録音もあるだろうし、
まなじ、こういう音響的バイアスはないほうがすっきりしていていい、と思う人もいるし、
聴く音楽のジャンル(性質)によっては、よけいな響きというふうに認識されてしまうだろう。
音響的バイアスに対する評価は、人によってそれこそ大きく違ってこよう。
音響的バイアスを求める人にとって、VC7は貴重な存在といえる。
私にとっては、そういう存在のスピーカーシステムである。
VC7登場以前、音響的バイアスを再現(演出)してくれるスピーカーシステムは、
大口径ウーファー搭載のフロアー型スピーカーシステムばかりだった。
もちろん大口径ウーファー・大型フロアー型であれば……というわけではなく、
なかなかうまく再現してくれるスピーカーシステムはなかった。
小型スピーカーシステムにも優れたモノはいくつもある。
そういうスピーカーシステムには心情的にも惹かれるところがあるけれど、
音響的バイアスに関しては、まず無理だと思っていた。
なのにVC7は、じつにこの音響的バイアスを、VC7なりに自然に再現しているように思う。
ジャズもクラシックも生身の人間が楽器から音をひき出して生れるものである。
どちらも肉体運動の結果としての音が生れている。
つまり音を発するためには、なんらかのエネルギーが費やされていて、
そのエネルギーゆえの音の存在を、私はクラシックにおいてもジャズにおいても感じとりたい。
その意味では、私がオーディオに関心をもち始めたころ(1970年代後半)まで
オーディオ誌でわりとよくみかけていたクラシック向き、とか、ジャズ向き、
といったスピーカーシステムの音の区分けは゛私にとってはどうでもいいこと。
エネルギッシュな音がするからジャズに向いている、
きれいな音が弦に向いているクラシックだ、とか、
いまもそういうふうにスピーカーシステムの音を捉えている人はほとんどいないと思う。
でも、こういうことが以前はいわれていた。
ジャズもクラシックも、アクースティック楽器を演奏しているかぎりは、
演奏者のエネルギーといったものを、音から感じとりたい。
音のエネルギーの総量ということでいえば、オーケストラによる演奏があるクラシックのほうが大きい。
ただオーケストラのエネルギーの総量を、
リスニングルームでそのまま再現することは基本的には無理のあることだから、
響きの美しさの再現が重視されるということはあるかもしれないし、
編成の小さなジャズであれば、ある程度の音量が許される環境であれば、
エネルギーの再現に関しては、ほぼリアルにもっていくことも無理なことではない。
そういうこともあって、ジャズのほうがエネルギーの再現が、
クラシックにおいてよりも重視されがちなのかは理解できなくもないが、
それでも、私はクラシックにおいても、十分なエネルギーを、その音に感じとりたい。
そうでなければ、カザルスが指揮するベートーヴェンを聴く意味がない、とまでいいたくなる。
演奏される場においては演奏者のエネルギーが充ちている、ともいえるし、
そのエネルギーの充ちた感じをできるだけ、自分が音楽を聴く環境でも再現したいのは、
ジャズであろうがクラシックであろうが同じではあるが、違いもやはりある。
そのエネルギーが、音楽のどこに、主に注入されているのか、費やされているのか、ということだ。
そしてエネルギーの表出のされ方の違いもある。
ここにおいて、ジャズとクラシックでは、私のなかでは「いろ」と「かたち」ということになる。
つまりクラシックにおいては、音の造形物のためにおもにエネルギーが費やされ、
ジャズにおいては、一瞬一瞬の情報量(いろ)のために費やされる──、
あくまでもこれは大きくわけたとすれば、ということではあるし、
すべてのクラシックの音楽、演奏家のスタイル、すべてのジャズの音楽、演奏家のスタイルが、
「かたち」と「いろ」のふたつにはっきりとわけられるものではないし、
ジャズでもそこでのエネルギーが「かたち」に、
クラシックでもそこでのエネルギーが「いろ」に費やされることもあるのは承知のうえで、
それでもやはりクラシックでは「かたち」、ジャズでは「いろ」にエネルギーが費やされている、と感じる。
サウンドステージ誌に書いたことがある。
シュヴァルツコップのモーツァルトのK.505について書いている。
そこでも、純粋性について書いた。
18年前に書いたことを、いまも思う。
生きていれば、それだけいろんなことがある。
いろんなことがあったからこそ、涙する音楽をもち得る。
だからくり返し聴く。
レコードが発明されオーディオがあることで、くり返し聴くことができるようになった。
一度きいただけではなかなかよさを感じとりがたい音楽であっても、演奏であっても、
何度か聴くうちに、じわじわとよさが理解出来ることもあるし、
ある日突然、その音楽、演奏のよさに目覚めることもある。
どちらにしてもくり返し聴くことができるから、のことである。
ということは歳とともに愛聴盤は増えていくことになるのだろうか。
若いときにはよさを感じとりにくかったレコードが、いつしか大切なレコードになっていく。
そのとき愛聴盤が1枚増える。
ながく音楽を聴いていくうちに、そうやって1枚1枚愛聴盤となっていくレコードがある。
増えていくばかりであれば、そのことを音楽を聴いていくうえで幸せなこと、と呼んでいいのか。
まだ未熟な音楽の聴き手だったころに愛聴盤だったものが、
歳とともに色褪せてくることもあり、愛聴盤だったレコードが気がつくと愛聴盤とはいい難くなっている。
愛聴盤となっていくレコード、愛聴盤ではなくなっていくレコードがある。
どちらが多いかは、その人(聴き手)によって異ってくることだから、なんともいえない。
若いときに、あれほど夢中になったレコード(音楽)に、いまは夢中になれない自分がいる。
それは歳をとり、感性が硬化したためなのか、劣化したためなのか。
音楽の聴き手としての純粋さ、純度といったものが汚れてきてしまってきているためなのか。
ひたすら聴き込むしかない、と書いておきながら、
その一方で、聴き込む、という表現に対して、すこしばかりの抵抗感と異和感を感じなくもない。
以前、思い込みについて書いた。
聴き込みも、思い込みと同じ、「込み」がついている。
ひたすら聴いていくしかない、と書けばすむところを、なぜか、ひたすら聴き込むしかない、と書いてしまった。
書いてしまった後、読み返して、思い込みと聴き込みについて気がついた。
聴き込みは、レコード(録音)で音楽を聴くからこそ可能なことでもある。
そこに反復性・反芻性がなければ聴き「込む」ことはできない。
思い込むことも同じである。
誰もコンサートにいって、そこでの音楽に対して、「今日は音楽を聴き込んだ」とはいわない。
コンサートでの音楽は一度きりのものでくり返し聴くことはできないからだ。
聴き手として、なにを目ざしているのか、なにを求めようとしているのか、と思う。
そして、この「聴き手」というのは、私にとっては、オーディオを介して音楽をきく聴き手なのだ。
若いときは、たしかに音楽の聴き手として未熟だった。
その未熟さをすこしでも減らしていくためには音楽をひたすら聴き込むしかないないわけだが、
音楽は、本と違い速読ということはできない。
1冊の本は、人によって読む時間が異るところがある。
レコードはそうはいかない。どんなに本を短時間で読み終えることのできる人でも、
1枚のレコードにおさめられている音楽を聴くために必要な時間は、
どんな人にとっても同じであって、聴き手としての成熟度とは関係がない。
1時間の音楽を聴き終えるには1時間が必ず必要になる。
それに本と違い、どこでも読める、というものではない。
レコード(音楽)には再生する機器が必要になる。聴くための環境も限られている。
音楽をひたすら聴き込んでいくということは、それだけの時間を費やさなければならない、ということである。
一生仕事をせずに、好きなレコードを何の心配もなく買っていけるだけの資産があるという人もいるだろうが、
ほとんどの人は仕事をして、家族とすごす時間もあり、そのうえで空いた時間を音楽を聴くためにあてていく。
家族に対してわがままをおしとおしていける人でなければ、音楽を聴き込む、ということは、
それだけ歳をとる、ということであり、人はある年齢を越えると、それは老化ともいう。
老化とは、肉体も感性も精神も、硬くなっていきがちである。
硬直、硬化していく。それもある日突然硬化するものであれば、そのことに当人も気がつくはずだろうが、
歳とともに徐々に硬化していくために、硬化していることに気づかないのは当人だけ、という、
そういう例をみていながらも、人は自分の硬化にはやはり気づきにくい。
そして劣化という老化がある。
昨年の5月に川崎先生がTwitterに書かれていたことを思い出す。
*
人間が「劣化」します。高齢による劣化、精神性での劣化、人格の劣化、欲望の劣化、この哀しみを存分に受け止められる人間は劣化から解放されるという幻想もあり!
*
音楽の聴き手としての未熟さから抜け出すことは、
音楽の聴き手としての老化(硬化・劣化)に近づいていくことでもある。
音楽の聴き手として、どうあればいいのだろうか、
どうありたいと思えばいいのだろうか。
毎月第1水曜日に行っています公開対談は、11月2日です。
前々回は「幻聴日記」の町田秀夫さんと、前回は工業デザイナーの坂野博行さんと行いましたが、
今回はおふたりともご都合が悪く、私ひとりで行うことにします。なので公開対談ではありません。
今年の11月7日で、瀬川先生が亡くなられて30年経ったことになります。
私ひとりで、しかも11月7日を目前にしているわけですから、
瀬川先生について語ります。
時間はこれまでと同じ夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目の喫茶茶会記のスペースをおかりして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
「よくマンガであるだろう、頭を殴られて目から火花や星が飛び出す、というのが。」
こんな出だしで、菅野先生が話してくださったのは岩崎先生の音について訊ねたときのことである。
「岩崎さんの音をはじめて聴いた時、ほんとうに目から火花が出たんだ。まるでマンガのようにね」と続けられた。
そのくらいの衝撃が、岩崎先生の音にはあったということでもある。
それは単に大音量ということだけにはとどまらない、岩崎先生ならではの音の衝撃なのだろうと思う。
いったいどういう音であれば、それを聴いて、目から火花が出るのを感じられるのだろうか。
大音量再生は、なんどか経験がある。
ただ音量が大きいだけのこともあったし、ひじょうに優れた大音量再生もあったが、
いずれもそれは空気のマスとしての大音量再生であったから、
そこでパルシヴな音が鳴っても、頭をガーンと殴られて目から火花が出る、ということは微塵もなかった。
おそらくこれから先も、そういう音を聴くことはない、と思っている。
それに近い音を聴くことはあるかもしれないが、
菅野先生が体験された岩崎先生の音と同じ衝撃を体験できる音は、
もう岩崎先生がこの世におられないのだから、もう想像していくしかない。
いったいどういう音なのか、は、岩崎先生の文章の中にヒントがある。
というより答そのものである、というべきか。
*
アドリブを重視するジャズにおいては、一瞬一瞬の情報量という点で、ジャズほど情報量の多いものはない。一瞬の波形そのものが音楽性を意味し、その一瞬をくまなく再現することこそが、ジャズの再生の決め手となってくる。
*
この岩崎先生ならではの「表現」は、もうなんども読み返した。
別項「40万の法則が導くスピーカーの在り方(D130と岩崎千明氏)」でも、すでに引用している。
今後も、また引用することになる、と思っている。
これが岩崎先生の音であり、これを実現されていたからこそ、
菅野先生が火花を感じられた、といえるのではないか。
これまで聴いてきたジャズのレコードは、
これまで聴いてきたクラシックのレコードの10分の1ぐらいでしかない。
しかも1990年以降に録音されたジャズのレコードは一枚ももっていない。
ジャズ好きの方からみれば、その程度のジャズの聴き手にしかすぎないわけだが、
ジャズの魅力は、徹底してインプロヴィゼーションにあることは、充分に感じている。
だから、以前、「使いこなしのこと」の項でも書いたように、
インプロヴィゼーションを大切にしているジャズの聴き手であるなら、
自分のオーディオの調整に誰かにまかせるべきではない。
菅野先生が「レコード演奏」という考えにたどりつかれたのも、
クラシックだけでなくジャズの熱心な聴き手でもあったことが関係しているはず。
ほんとうにジャズにおけるインプロヴィゼーションを大切にしている聴き手であれば、
ジャズのレコードを自分のオーディオ機器で鳴らすという行為は、
自分のオーディオ機器を楽器として、己のインプロヴィゼーションをそこでレコードを借りて演奏することのはず。
であるなら、そこでのオーディオ機器は、ジャズの演奏家にとっての楽器と同じである。
誰かに自分のオーディオ機器を調整してもらうということは、
己のインプロヴィゼーションを、
自分の楽器を赤の他人に渡して代りに演奏してもらう、ということではないだろうか。
このことを改めて考えていて思ったのは、
ジャズにとってのワイドレンジと、クラシックにとってのワイドレンジは、
共通するところもありながらも、そこにインプロヴィゼーションに関係する違いがはっきりとあり、
また別項「ベートーヴェン」のところでふれた動的平衡とも関係する違いがあり、
これは「いろ(ジャズ)」のワイドレンジと、
「かたち(クラシック)」のワイドレンジということがいえるはず、ということだ。
グレン・グールドのピアノしか聴かない──、
こんなことを口にする音楽の聴き手がいるのは、日本だけなのだろうか。
グレン・グールドは、コンサートをドロップアウトしている。
だから、いうまでもないことだけど、
グールドの音楽の聴き手は、グールドのレコード(録音)の聴き手である。
グールドは19801年に、録音25周年を記念して “The Glenn Gould Silver Jubilee” を出している。
この2枚組のアルバムは、日本では1枚ものとして発売されている。
なにも2枚分の録音を1枚にまとめた、というわけではなく、
2枚目をまるごとないことにしての発売であった。
“The Glenn Gould Silver Jubilee” の2枚目におさめられていたのは “A Glenn Gould Fantasy” だった。
1980年当時、日本では発売されなかった、
つまりCBSソニーの人たちが、オリジナル通りの2枚組で出すよりも、
なかったことのようにして1枚の音楽のLPとして出した方が売れるはず、
という判断したであろう “A Glenn Gould Fantasy” はグールドによる、
いわゆるひとり芝居(セルフ・インタヴューでもある)をおさめたものである。
セルフ・インタヴューといっても、”A Glenn Gould Fantasy” は奇妙奇天烈な作品といってもいいだろう。
ピアノをひくグールドからはなかなか想像できないグールドがそこにはいて、
でもピアノをひくグールドも、”A Glenn Gould Fantasy” でひとり芝居をやっているグールドも、
同じひとりのグレン・グールドであり、たったひとりのグレン・グールドである。
グレン・グールドのピアノしか聴かない人は、”A Glenn Gould Fantasy” も聴かないことだろう。
グレン・グールドのピアノしか聴かない──、
そんな音楽の聴き手が実際に、この日本にいるということを、
これも黒田先生が書かれていたことだと記憶しているが、いまから10年以上前に読んだ記憶がある。
また、ある人は、日本でグールド協会をつくったとしたら協会が教会になってしまう、といっていた。
これも10数年以上前のことだった。
グレン・グールドのピアノしか聴かない。
これを口にした人は、きっと誇らしげにいったのだろうと想像がつく。
グールドのピアノは、そしてグールドの存在そのものが知的好奇心を多いに刺戟することはたしかだ。
だからといってグールドのピアノしか聴かない、とそんなことを一度でもことばにしてしまうのは、どうかと思う。
もうそれだけでグールドの音楽から遠ざかってしまうことになってしまうかもしれない。
私もひところグールドを熱心に聴いていた時期があった。
そのころはグールドのレコードを聴いていた時間が、
ほかの、どの演奏家のレコードを聴いている時間よりも長かった。
それでもグールドだけを聴いていたわけではないし、
傍からみればグールドしか聴いていないように見えたとしても、
グールドのピアノしか聴かない、とはいわなかった。
グレン・グールドのピアノしか聴かない、
熱心なグールドの聴き手にそういわせてしまうようなところが、
グールドの演奏にも、グールド自身にもある。
いってしまうご本人は、かっこいいことを口にした、と誇らしげなんだろうが、
グレン・グールドのピアノしか聴かない、というフレーズには、
口にした本人の音楽の聴き方の窮屈さのようなものを嗅ぎ取れるところがある。
それにグールドは、グールドしか聴かない聴き手を望んではいなかったはず。
ここに何度か書いているように、
井上先生から何度もいわれていてそれが身に沁みていて、私にとってはとうぜんのことになっているのが、
レコード(アナログディスク、CD含めて)とスピーカーを疑うな、ということ。
はじめてきくようなマイナーレーベルのレコードならまだしも、
名のとおったメジャーレーベルのレコードに、録音のおかしなものは原則として存在しない。
けれど、実際に自分のシステムで鳴らしてみると、うまく鳴ってくれるレコードがあるかと思えば、
まったく冴えない鳴り方のレコードもあり、
世間一般では録音がいいといわれていても、自分のところでうまく鳴ってくれなければ、
それは録音(レコード)が悪い、というふうに思ってしまう時期が誰にもあったはず。
けれど実際には、鳴らし方が悪かった、もしくは未熟なだけのことで、
真剣に真摯に音楽をオーディオを介して聴くことに取り組んでいれば、
いつしか、以前はうまく鳴らなかったレコード(録音)が、
うそのように自然な音で鳴ってくれる日が必ずやって来る。
スピーカーシステムに関しても、まったく同じことがいえ、
きちんとつくられたスピーカーシステムであれば、それがひどい音でしか鳴ってくれないならば、
機器の使い手である自分の未熟さが、そこにあらわれているわけだ。
井上先生のことばは、レコードやスピーカーに、己の未熟さを転嫁するな、ということである。
うまく鳴らないレコードがある、ということは、
オーディオの使いこなしが未熟である、どこかに未熟なところがある、ということであるわけだが、
またこうもいえる、と思っている。
うまく鳴らないレコードがある、ということは、音楽の聴き手として未熟だということ、でもある、と。
井上先生のことばをきいていたとき、私は20代前半だった。
そのころは、そのことばを額面通りに受けとめていた。
それはオーディオ的に未熟である、ということだと。
でも、いまはそればかりではない。
結局、音楽の聴き手としての未熟さが、うまく鳴らないレコードをつくり出していた、といまならそういえる。
どうすればいいのかというと、音楽をひたすら聴き込むことしかない。ただそれだけ、である。
10代から20代にかけて、いっぱしの音楽の聴き手ぶっていたところで、
まだまだ若造に過ぎなかった音楽の聴き手であったことは、
この項の(その18)にも書いた。
けれど、この音楽の聴き手として未熟な時期に出会ったレコード(音楽)は、
だからこそ重要な意味を、大切な存在になってくるように思う。
黒田先生が「ぼくのディスク日記」にチャールス・ミンガスの「直立猿人」のことを書かれている。
ステレオサウンド 85号に掲載されている。
「音楽への礼状」においても、チャールス・ミンガスのことを書かれている。
チャールス・ミンガスの「直立猿人」を、黒田先生は「もっとも大切なレコードのひとつである」と書かれ、
「ことあるごとに、ぼくはこのレコードをききつづけてきた」とも。
黒田先生は「対象のさだかでない怒りの処置にてこずったとき」に、
いつでもチャールス・ミンガスの音楽をきいて、
「ぼくの怒りは、象の尻にたかる虻(あぶ)ほどもない、ごくちっぽけな、けちなものにしかすぎない」
と思えてきた、とも書かれている。
黒田先生にとって「直立猿人」は、
「物心ついてから後のぼくの人生を、このレコードに伴奏してもらったようにさえ感じている」存在である。
物心ついてから後の人生を伴奏してくれるレコードとは、
若く、音楽の聴き手としては未熟なときに出会うものである。
歳を重ね、音楽の聴き手として未熟なところを少しずつへらしていった後で出会える名盤と、
そこのところで違う。
どちらの名盤も、大切な愛聴盤ということでは同じであっても、
物心ついてから後の人生を伴奏してくれたレコードと、あとから出会ったレコードは、決して同じではない。
私にも、一枚、物心ついてから後の私の人生を、伴奏してもらったように感じているレコードがある。
未熟な音楽の聴き手のころに出会ったレコードだ。
いまも大切なレコードであり、この一枚と出会えたことこそが幸福であった、ともいえる。