快感か幸福か(続々・音楽の聴き方)
若いときは、たしかに音楽の聴き手として未熟だった。
その未熟さをすこしでも減らしていくためには音楽をひたすら聴き込むしかないないわけだが、
音楽は、本と違い速読ということはできない。
1冊の本は、人によって読む時間が異るところがある。
レコードはそうはいかない。どんなに本を短時間で読み終えることのできる人でも、
1枚のレコードにおさめられている音楽を聴くために必要な時間は、
どんな人にとっても同じであって、聴き手としての成熟度とは関係がない。
1時間の音楽を聴き終えるには1時間が必ず必要になる。
それに本と違い、どこでも読める、というものではない。
レコード(音楽)には再生する機器が必要になる。聴くための環境も限られている。
音楽をひたすら聴き込んでいくということは、それだけの時間を費やさなければならない、ということである。
一生仕事をせずに、好きなレコードを何の心配もなく買っていけるだけの資産があるという人もいるだろうが、
ほとんどの人は仕事をして、家族とすごす時間もあり、そのうえで空いた時間を音楽を聴くためにあてていく。
家族に対してわがままをおしとおしていける人でなければ、音楽を聴き込む、ということは、
それだけ歳をとる、ということであり、人はある年齢を越えると、それは老化ともいう。
老化とは、肉体も感性も精神も、硬くなっていきがちである。
硬直、硬化していく。それもある日突然硬化するものであれば、そのことに当人も気がつくはずだろうが、
歳とともに徐々に硬化していくために、硬化していることに気づかないのは当人だけ、という、
そういう例をみていながらも、人は自分の硬化にはやはり気づきにくい。
そして劣化という老化がある。
昨年の5月に川崎先生がTwitterに書かれていたことを思い出す。
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人間が「劣化」します。高齢による劣化、精神性での劣化、人格の劣化、欲望の劣化、この哀しみを存分に受け止められる人間は劣化から解放されるという幻想もあり!
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音楽の聴き手としての未熟さから抜け出すことは、
音楽の聴き手としての老化(硬化・劣化)に近づいていくことでもある。
音楽の聴き手として、どうあればいいのだろうか、
どうありたいと思えばいいのだろうか。