快感か幸福か(続々続・音楽の聴き方)
ひたすら聴き込むしかない、と書いておきながら、
その一方で、聴き込む、という表現に対して、すこしばかりの抵抗感と異和感を感じなくもない。
以前、思い込みについて書いた。
聴き込みも、思い込みと同じ、「込み」がついている。
ひたすら聴いていくしかない、と書けばすむところを、なぜか、ひたすら聴き込むしかない、と書いてしまった。
書いてしまった後、読み返して、思い込みと聴き込みについて気がついた。
聴き込みは、レコード(録音)で音楽を聴くからこそ可能なことでもある。
そこに反復性・反芻性がなければ聴き「込む」ことはできない。
思い込むことも同じである。
誰もコンサートにいって、そこでの音楽に対して、「今日は音楽を聴き込んだ」とはいわない。
コンサートでの音楽は一度きりのものでくり返し聴くことはできないからだ。
聴き手として、なにを目ざしているのか、なにを求めようとしているのか、と思う。
そして、この「聴き手」というのは、私にとっては、オーディオを介して音楽をきく聴き手なのだ。