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Date: 10月 13th, 2019
Cate: 菅野沖彦

10月13日

一年が経った。
短いようで長く感じた一年だったし、
長かったようで短くも感じた一年が過ぎた。

この一年で、オーディオ業界、オーディオ雑誌は、
何か変ったのかといえば、何も変っていない、といえるし、
変っていないのかといえば、よい方向には変っていない、としかいえない。

今日は、とあるところにデッカのデコラを聴きに行っていた。
予定では昨日(12日)だったが、台風による今日になった。

偶然によって、10月13日に、デコラをじっくりと聴けた。
じっくりと聴いたのは、今回が初めてである。

項をあらためて、デコラについては書くつもりだが、
いろいろなことを考えさせられた。

だからこそこの一年、
何が変ったのか、とよけいに考えてしまう。

Date: 9月 12th, 2019
Cate: デザイン, 川崎和男

WAVELET RESPECT Carbon Fiber

福井にマルイチセーリングという会社がある。
創立70周年記念新作発表会が、六本木のAXISで行われた。

川崎先生によるWAVELET RESPECTが、その新作である。
カーボンファイバーによるイス+ソファーである。

WAVELET RESPECTを真横からとらえたシルエットは、
川崎先生による「プラトンのオルゴール」のシルエットと重なる。

それにどことなくNeXTのCubeのようにも思えてくる。

川崎先生はオーディオマニアだ。
だから、今回、カーボンファイバーによるイスの新作ときいて、
買える買えないは別として(かなり高価なはずだ)、
リスニングルームに置きたくなるに決っている──、
そう思っていた。

触ってきたし、坐ってもきた。
いいと感じた。

けれど、私はどうしてもオーディオマニアである。
買える買えないは別として、WAVELET RESPECTをリスニングルームに置くか、となったら、
現時点ではためらう点がある。

たまたま私が坐ったのがそうだったのか、
組立て精度に関係してくる点が一つ、
そして構造的なところに関係してくる点が一つあった。

川崎先生はオーディオマニアである。
だから、私が気づいた点も気づかれているはず。

Date: 9月 3rd, 2019
Cate: 瀬川冬樹

瀬川冬樹というリアル(その2)

五ヵ月前に思いついただけのタイトルである。
いまだに何をテーマとするかは決っていない。

それで思っているだけのことはいくつかある。
そのひとつが、瀬川先生の著作集のタイトルにもなっている
「良い音とは 良いスピーカーとは?」についてである。

これはステレオサウンドに連載されていた記事のタイトルである。
そのころは「良い音とは 良いスピーカーとは?」でよかった、と思う。

でも、その後、瀬川先生が書かれたもの、
そして辻説法をやりたい、といわれていたことをあわせて考えれば、
「良い音とは 良いスピーカーとは?」には続きがあったのかもしれない。
そんなふうにおもえてくる。

「良い音とは 良いスピーカーとは 良い聴き手とは?」
聴き手は鳴らし手でもある。

こういうタイトル、これに近いタイトルで書かれたかもしれない──、
そう勝手におもっている。

Date: 8月 20th, 2019
Cate: 五味康祐

「音による自画像」(1965年8月19日)

昨晩書こうと思ったけれど、
あえて一日ずらして書くことにした。

音による自画像について考えていくうえで、
これも自画像なんだ、と思っているのがある。

ジャクリーヌ・デュ=プレのエルガーのチェロ協奏曲である。

1965年8月19日に、ジャクリーヌ・デュ=プレは、
バルビローリ指揮ロンドン交響楽団と、エルガーのチェロ協奏曲を録音している。

EMIは、ジャクリーヌ・デュ=プレのエルガーを一度も廃盤にしなかった、ときいている。
この録音が終って、プレイバックを聴き終ったデュ=プレがなんといったのかは有名な話である。

なので、このエルガーをジャクリーヌ・デュ=プレの自画像とするのは、
どうか、と思わないわけではない。

けれど宿命的に自画像になってゆく。

Date: 8月 2nd, 2019
Cate: 五味康祐

「音による自画像」(その10)

自画像といえる歌について考えていくうえで、
どうしても外せない歌手がいる。

ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウであり、
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウによる「冬の旅」について、である。

スタジオ録音だけでなく、ライヴ録音を含めると、
十種以上のCDが発売になっている。
そのすべてを聴いているわけではないし、
スタジオ録音に関しても、すべてを聴いているわけではない。

ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウは、
1955年にジェラルド・ムーアのピアノで、EMIに「冬の旅」を録音している。
これが一回目である。

1962年、同じくムーアの伴奏で、ステレオ録音、
1965年に、今度はイェルク・デムスのピアノで、レコード会社もドイツ・グラモフォンになっている。

1971年に、三度、ムーアと、ドイツ・グラモフォンに録音している。

1979年、ダニエル・バレンボイムと五度目の録音、
1985年、アルフレッド・ブレンデルとの六度目、
1990年、マレイ・ペライアとの七度目(最後)の「冬の旅」である。

バレンボイムとの録音から、ピアニストが、伴奏ピアニストの域を超えたところでなされている。
このバレンボイムとの「冬の旅」の評価は高い。

バレンボイムがあまり好きでない私でも、この「冬の旅」は素晴らしいと思っている。

ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウは、1925年5月28日生れである。
一度目の「冬の旅」は、ぎりぎり29歳、
二度目は37歳、三度目は39歳(40歳になる二週間ほど前)、
四度目は46歳、五度目は53歳、六度目は60歳、七度目は65歳である。

黒田先生は、「冬の旅」は青春の歌だ、とどこかに書かれていた。
「青春」を実感できるということで、
ヘルマン・プライ/ヴォルフガング・サヴァリッシュの「冬の旅」も高く評価されていた。

もちろんディートリヒ・フィッシャー=ディースカウとバレンボイムとの「冬の旅」も、
高く評価されていたけれど、
この録音でのディートリヒ・フィッシャー=ディースカウは60歳である。

Date: 7月 31st, 2019
Cate: 五味康祐

「音による自画像」(その9)

代表曲、十八番(おはこ)といえる歌をもつ歌手もいる。
たとえばサラ・ブライトマン。

私は、サラ・ブライトマンの名をきくと、
反射的に“Amazing Grace”を思い出す。

サラ・ブライトマンの代表曲は、他にもいくつかあるだろう。
他の曲(歌)でもかまわないが、
“Amazing Grace”が、サラ・ブライトマンの自画像であるとは、まったく思っていない。

それは曲、歌の出来や素晴らしさ、そういったこととは違うところで、
そう思えない。

私がそう思えないだけなのかもしれない。
私以外の人は、サラ・ブライトマンの“Amazing Grace”は、
彼女の自画像そのものといえる曲(歌唱)だということだってあろう。

いやいや、“Amazing Grace”ではなくて……、といって、
他の曲をサラ・ブライトマンの自画像だ、と挙げる人もいるであろう。

サラ・ブライトマンの“Amazing Grace”は、
マリア・カラスの“Casta Diva”よりもずっと多くの人が聴いていることだろう。

マリア・カラスの“Casta Diva”は聴いたことがなくても、
サラ・ブライトマンの“Amazing Grace”は聴いたことがある、
口ずさめる、という人の方が多いはずだ。

ジュディ・ガーランドの“Over The Rainbow”を聴いたことがなくても、
サラ・ブライトマンの“Amazing Grace”は知っている、という人は多いはずだ。

だからこそ、“Amazing Grace”はサラ・ブライトマンの代表曲といえる。
けれど、だからといって自画像とは必ずしもいえない。

結局、世の中には、自画像といえる歌をもつ歌い手とそうでない歌い手とがいる。

Date: 7月 30th, 2019
Cate: 五味康祐

「音による自画像」(その8)

マリア・カラスによる「清らかな女神よ」(Casta Diva, カスタ・ディーヴァ)が、
マリア・カラスの自画像そのものだ、ということにはっきりと気づいたのには、
ひとつのきっかけがある。

5月のaudio wednesdayで、“Over The Rainbow”を聴いた。
ジュディ・ガーランドの“Over The Rainbow”を筆頭に、いくつかの“Over The Rainbow”を聴いた。

“JUDY AT CARNEGIE HALL”での、“Over The Rainbow”は見事だった。
この晩、何度かけたことか。
最初にかけた。
それからアンプがあたたまってきた、といって、またかけた。

音が良くなってきたな、と感じたら、かけた。
最後に、またかけた。

いくつか聴いた“Over The Rainbow”のなかに、手嶌葵が歌う“Over The Rainbow”もあった。
手嶌葵の“Over The Rainbow”を聴いて、
“JUDY AT CARNEGIE HALL”でのジュディ・ガーランドによる“Over The Rainbow”のすごみを、
いっそう感じた。

手嶌葵のCDを持ってきたHさんは、これかける、やめましょう、といわれていたのを、
少々無理矢理かけた。

Hさんが、やめましょう、といった理由も、聴けばわかる。

表現という、表現力という。
これらのことばは、安易に使われがちのようにも感じることが多くなった。

手嶌葵の“Over The Rainbow”は、
手嶌葵なりの表現である──、
手嶌葵のファンからそういわれれば、そうですね、というしかないが、
それでは手嶌葵なりの表現とは何ですか──、
もしそんなふうにいってくる人がいたら、そう聞き返したくなる。

その晩は、ジュディ・ガーランドのカーネギーホールでの“Over The Rainbow”に圧倒された。
圧倒されたから、その時には気づかなかったが、
ここでの“Over The Rainbow”も、ジュディ・ガーランドの自画像そのものである。

Date: 7月 11th, 2019
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(UREI Model 813・その10)

1979年秋のステレオサウンド別冊、
「SOUND SPACE 音のある住空間をめぐる52の提案」のひとつ、
瀬川先生による「空間拡大のアイデア〝マッシュルーム・サウンド〟」は、
面白い提案だと高校生だった私は、まずそう思ったけれど、
現実には、この提案を実現するには、四畳半とはいえ、
家を建てることが前提のものであるだけに、
どちらかといえば、興味をおぼえたのは、
狭い空間に平面バッフルを収める方法についてだった。

賃貸住宅に住んでいるかぎりは、マッシュルーム・サウンドは無理、と思っていた。
でも、その考えが変ったのは十年ほど経ってからだった。

そのころからだったと思うが、ロフトと呼ばれるアパートが出てきはじめた。
屋根裏を居住空間としたもので、一時期流行っていた。

とはいえ、ロフト部分は屋根裏にあたるだけに冬は暖かいが、夏は暑い。
それにメインの居住空間は、暖かい空気がロフト部分に逃げるため、冬は寒い、ともいわれている。

結局、ロフト部分はふだん使わないものの物置き的使い方になってしまう、ともいわれていた。

けれど、このロフト形式のアパートこそ、瀬川先生のマッシュルーム・サウンドに近い。
ロフト分だけ空間拡大されているし、
それになんといっても天井高が意外にも確保できる。

建物にもよるが、一番高いところでは4mほどにもなる。
それに天井が傾斜しているわけだから、
床と天井という大きな平行面が一つなくなる、という利点もある。

もっともロフト部分へは梯子での昇り降りであり、
たいていのロフト付きのアパートでは、梯子の位置が、
スピーカーの配置の邪魔になる場合も少なくない。

それでもロフト部分は、空間拡大のためだけと割り切ってしまえば、
梯子を外してしまうことだって可能だ。

Date: 7月 11th, 2019
Cate: Wilhelm Backhaus, 五味康祐

ケンプだったのかバックハウスだったのか(補足・7)

今年2月に、バックハウスのベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集がSACDで発売になった。
9月には、ケンプによる全集が、CD八枚組+Blu-Ray Audio(一枚)で出る。

バックハウスはDSDで、ケンプは96kHz/24ビットで、それぞれのベートーヴェンが聴ける。
ケンプはさらにe-onkyoでMQAでも配信されている。

いい時代、面白い時代になってきた。

Date: 7月 10th, 2019
Cate: 五味康祐

続「神を視ている。」(その2)

ひとつ前の「人工知能が聴く音とは……(NTTの発表より)」でふれた
「音認識のために訓練された深層ニューラルネットワーク(DNN)」は、
進歩していくことで「神を視ている」といえるようになるのか。

その1)を書いて五年が過ぎ、そんなことを考えている。

Date: 7月 4th, 2019
Cate: 五味康祐

音楽をオーディオで聴くということ(その5)

音楽を聴くことで浄化される──、
そんなことが昔からいわれ続けてきている。

心の汚れが、魂の汚れが、
音楽によって洗い流される──、
たとえそれが音楽を聴いている一時であっても、たしかにそうであることがある。

けれど、その汚れは、どこへ行くのか。
そんなことを考えてしまう。

現実の汚れと、心の汚れをいっしょくたにしているだけだろうか。

心の汚れが洗い流された、といっても、現実に汚れが目に見えるわけではない。
そんな汚れは、なにものにも影響を与えない──、
そういいきれるだけの自信がない。

何を汚しているのか。
結局のところ、自分自身の音を汚している──、
そんな気がしてならない。

オーディオマニアは音楽を聴いていない、
音ばかり気にしている、音ばかりいじっている──、
そんなことを、オーディオに無関心の人からいわれることがある。

満足を知らないのか──。
そうなのかもしれない。
そういう人もいよう。

けれど音楽を聴いて浄化されると感じている人のなかには、
浄化されることで、
自分自身の音を汚していることに気づいている人がいるのかもしれない。

だから、その汚れを洗い流さなければならない──、
そのおもいが、音に執着させているのかもしれない。

Date: 7月 4th, 2019
Cate: 五味康祐

音楽をオーディオで聴くということ(その4)

割り箸が環境破壊につながる──、
そんなことが声高にいわれるようになったのは、平成になってからのことだったか。

割り箸が熱帯雨林を破壊している──、
そんな報道もあったと記憶している。

けれど反論もすぐに読んだ記憶がある。
割り箸は間伐材から生産されるから──、というものだった。

割り箸は環境破壊──、
そのことがいつしかひろまって、
飲食店では割り箸をやめるところが増えてきたし、
自分専用の箸(マイ箸)を持ち歩く人もあらわれだした。

マイ箸は使い捨てにはしない。
けれど使えば箸は汚れる。
汚れをおとすために洗わなければならない。

水と洗剤が必要になる。
割り箸では捨てればいいので水は必要としない。

マイ箸では、余分な水を必要とする。
これは環境負荷を増していないのか。

さらに洗剤と洗い流された汚れによる環境負荷はどうなのか。

割り箸は焼却される。
二酸化炭素が発生する。
これも環境負荷である。

どちらが環境負荷は大きいのか。
そんな疑問もわいてくる。

何がいいたいのか、
洗い流した汚れは、自然に消えてなくなるわけではない、ということだ。

目の前から、汚れは消えていくからといって、
汚れは、別の何かを汚している。
そのことをいいたいだけである。

Date: 6月 23rd, 2019
Cate: 菅野沖彦

菅野沖彦氏のこと(ステレオサウンド 210号・その6)

五味康祐という存在がなかったら、
ステレオサウンドは創刊されていなかっただろうし、
創刊されていたとしても、ずいぶん違ったものになっていたはずだ。

ステレオサウンドを創刊した原田勲氏にとっての五味先生の存在、
そこを無視してステレオサウンドは語れない。

五味先生が、ステレオサウンドの精神的支柱だった──、
と以前書いた。

そのことによって、ステレオサウンドにはストーリーをベースにしていた──、
ストーリーの共有、もっといえばストーリーによる対話が、
つくり手(オーディオ評論家、編集者)と読者とのあいだにあった。

私はそう感じていた。
だからこそ、ある時期までのステレオサウンドはおもしろかったし、
毎号わくわくしながら読んでいた。

それは、いつのころからか薄れていった。
稀薄になっていった。
そして菅野先生の死によって、
完全にステレオサウンドに、そのことを期待できなくなった(少なくとも私にとっては)。

ステレオサウンド 210号、211号の黛さんの文章は、
そのことを語っているとも、私は受け止めている。

Date: 6月 20th, 2019
Cate: 五味康祐

「音による自画像」(その7)

別項「ハイ・フィデリティ再考(ふたつの絵から考える・その7)」で、
マリア・カラスによる「清らかな女神よ」(Casta Diva, カスタ・ディーヴァ)は、
マリア・カラスの自画像そのものだ、と書いた。

このことに気づいてからは、
では、あの演奏家の「自画像」といえる演奏は、あるのかないのか。
あるとしたら、いったいどれなのだろうか、と考えることになる。

グレン・グールドについて、まず考えた。
グレン・グールドの自画像といえる演奏(録音)は、どれなのか。

ゴールドベルグ変奏曲に決っているだろう、という声は多いだろう。
でも、そうだろうか、とおもう。

グレン・グールドはバッハの録音を多く残している。
グレン・グールドはゴールドベルグ変奏曲でデビューして、
死の前年に再録音を行っている。

ゴールドベルグ変奏曲という作品のことを考え合わせれば、
いかにもグレン・グールドの自画像的といえる。

でもなんだろうか、自画像というよりも、肖像画という気がする。

多くの人がそうだっただろう、と勝手におもっているが、
グレン・グールドのブラームスの間奏曲集を聴いた時、
これもグールドなのか、と私は思った。

こういう演奏をする人なのか、と思った。
デジタル録音になってからのブラームスも、私は好きである。

では、これなのか、と自分に問う。
何か違うような、そんなところが残っている感じがする。

意外にも、グレン・グールドの自画像といえる録音は、
音楽作品ではなく、ラジオ番組の録音ではないのか、という気もする。

そんなことを考えていると、シルバージュビリーアルバムこそが、
グレン・グールドの自画像なのかもしれない。

日本ではLP一枚で発売されたが、本来は二枚組である。
二枚目には、「グレン・グールド・ファンタジー」が収められていた。

グレン・グールドの独り芝居が収められている。
これも「音による自画像」といえば、たしかにそうだ。

それでも、私にとって、グレン・グールドはまずピアニストである。
ピアニストとしてのグレン・グールドの自画像は、
私には、ハイドンのように思えてならない。

「グレン・グールド・ファンタジー」でのグレン・グールドだからこそ、
こういうハイドンが演奏できるんだな、とおもうからだ。

Date: 6月 10th, 2019
Cate: 菅野沖彦

菅野沖彦氏のこと(ステレオサウンド 210号・その5)

昨晩の(その4)の最後に、
その気持をずっと持ち続けていた人だから書ける文章がある、と書いた。

ここで「気持」という単語を使ったのは、なんとなくだった。
なんとなくだったけれど、翌朝(つまり今日)になって気づいた。

ここでの「気持」は、川崎先生がいわれる「いのち・きもち・かたち」であることに。
ステレオサウンド 210号と211号に載った「菅野沖彦先生 オーディオの本質を極める心の旅」は、
黛さんの「かたち」である。