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Date: 4月 27th, 2018
Cate: 菅野沖彦, 録音

「菅野録音の神髄」(余談)

菅野先生の録音とはまったく関係ない話だが、
昔ステレオサウンドで読んだ、あるエピソードは、興味深いものがある。

55号の音楽欄に掲載されている。
「今日の歌、今日のサウンド ポピュラー・レコード会で活躍中の三人のプロデューサーにきく」
RVCの小杉宇造氏、CBSソニーの高久光雄氏、ポリドールの三坂洋氏が登場されている。
聞き手は坂清也氏。

9ページの記事。
引用するのは、三坂洋氏の発言のごく一部である。
機会があれば、この時代の日本の歌の録音を聴く人は、読んでほしい、と思う。
     *
 たとえば森田童子の最初のLPを制作したときのことですが、彼女は弾き語りでうたったときのニュアンスが最高にいいんです。彼女のメッセージの背後にあるデリケートな体臭とか人間性が、弾き語りのときには蜃気楼みたいにただようんです。それをレコーディングのときに、まずオーケストラをとり、リズム・セクションをとり、そのテープのうえに彼女のうたをかぶせる、といった形で行なうと、その蜃気楼みたいなものが、どこかへ消えてしまうんじゃないか、と確信しました。
 そこで、まずいちばん先きに彼女のギターとうただけをとり、そこにベースをかぶせドラムスをかぶせ、さらに弦をかぶせて、そのあとでベースとドラムスをぬいてしまったんです。したがって出来上りは、弦のうえに彼女の弾き語りがのっかる、という形になったわけです。ベースとドラムスは弦のためみたいなもので、ことにドラムスのリズムの拍数が分らないと、弦は演奏できませんから(笑い)。
     *
森田童子の最初のLP、
「GOOD BYEグッド・バイ」でとられたこういう手法は、
何もこのディスク(録音)だけにかぎったことではなく、
ずいぶんと多いと思います、と三坂洋氏はつけ加えられている。

Date: 4月 23rd, 2018
Cate: 菅野沖彦
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「菅野録音の神髄」(その17)

ステレオサウンド 17号(1970年12月)に、
「ディレクター論 ロイ・デュナンを語る」がある。
菅野先生と岩崎先生の対談による記事だ。
     *
岩崎 「ウェイ・アウト・ウェスト」は、じつに素晴らしいレコードですね。ロリンズの最大傑作といってもいい。
菅野 シェリー・マンのドラムもよくとらえらているしね。あれはやはり、ロリンズ
のもっている音にロイ・デュナンのキャラクターがプラスされて、ああいう音になったのでしょうね。
 それでね、この間、油井さんがいっていられたんだけど、日本のジャズ愛好家というのは、ほとんどロイ・デュナンとかルディ・ヴァン・ゲルダーといった人たちの耳をとおしてジャズを聴いてきたようなものだ、と。
 ぼくも、そう思うんだ。やっぱりこういった人たちの感覚のふるいを通して聴いてきた。だから、じっさいにむこうのジャズ・メンが来たときに、その演奏にふれて、あれっとおもったりしてね(笑)。
岩崎 ほんとうに違うんだな。アート・ブレイキーが来たときに、どんなに凄い音なのかと思ったら、意外に爽やかな音でこんな調子じゃなかったと(笑)。圧倒されるような音を期待してたんですね。ほんとうにレコードとは違うんだと思いましたね。ぼくらはヴァン・ゲルダーのとったブレイキーの音に慣れ親しんでいたわけですよね。
菅野 ロイ・デュナンが、最初からブレイキーをとっていたら、はっきりととって、もっと実際に近かったてしょうね。
岩崎 そこが大切なことでしょう。もしブレイキーの音を、ロイ・デュナンが録音したものを聴いていたら、本物を聴いて、なるほどなと思ったに違いない。
 ところが、それまではブルーノートのブレイキーの迫力ある音ばかり聴いていたでしょう。だから、すっかり面喰らってしまったわけ。前から三番目辺で聴いていたのだけれど、タッチは軽やかだし、スカッとした音ですね。
菅野 それはよかったからまだいいんだけれど、逆につまらない場合もあってね。ああ、これならレコードの方がいいやって(笑い)。
 だいたいルディ・ヴァン・ゲルダーが手をかけたミュージッシャンというのは、迫力のあるミュージッシャンだと感じるものね。そして、ロイ・デュナンが手をかけたひとは、みんなハイ・センスで、クールな音をもっていると感じてしまうでしょう。不思議なことですよ。
岩崎 だから音楽をとらえるということは、大変なことなんだな。
     *
こまかな説明は省いていいだろう。
同じことが、ここても語られているのだから。

Date: 4月 20th, 2018
Cate: 菅野沖彦

「菅野録音の神髄」(その16)

(その14)で引用した保柳健氏の発言に、
菅野先生はこう返されている。
     *
菅野 自信というか、自信を意識しない、自分なりにこうありたいという、むしろ願望でしょう。
保柳 私は主観を怖れるというか、いや、片寄りを怖れるんですね。
菅野 客観、主観の問題ですけれど、これは今までに古今東西で論じられていますが、私の考えでは、一人の人間が、自分以外の宇宙になり切れない。客観というものは主観に比べると弱いもので、それこそ存在理由が弱い。主観というのは悪い意味で使われることが多いんです。主観を主張するときは、ある普遍性を持った主観であるかないかが問題になるわけで、結果的には一番重要な問題になってきます。立派な作品が残っている作家は、皆、強烈な主観を持つが故に強烈な個性を持つといえます。それがまた、洋の東西を問わず普遍性を持っています。主観というのは、ある優れたレベルに達したときは、必ず普遍性を持つものでしょう。
保柳 ある意味では、あなたは非常に非常に衝動的に動けるんです。だから、作るものが短期間にできる。ところが、こちらは、ネッチリ型で、録音すると、その瞬間こわくて出せないときがある。これには客観的なものがないわけです。
菅野 それでいて、人が録音すると、それはいい、あまり考えないでやった方がなんておっしゃる。今でも覚えているのでずか、清水高師のヴァイオリンのレコード。どうも私は気になって仕方がなかった。あの時、あなたは、そんなことないといってね。
保柳 それは私の中にないものが、あなたの中にあって、それが燃えるのは、私にとって全く素晴らしいことなのです。
菅野 だから私の中にもいやだとおもうことはあるのです。つまり、そこまで無我夢中というわけでもないんですよ、私は。
保柳 でもね、私にとっては、菅野さんみたいな行き方は羨しいと思いますよ。飛行機のレコードのことになりますが、あんなにたくさん出たわけです。一番最初に何を見たか、録音日を見ました。全部最近になって、一日か二日で録音しているんです。これはね、感性豊かな人間がパッとやるんなら認めるんです。そうじゃなくて思いつきが行動と短絡している。これは大事なことだと思うんですが、あなたの場合、時に瞬間的にやられるにしても、バックが長いんですよ。ピアノなら、ピアノに対するバックが長いわけです。
菅野 仕事というものは、そういうものですね。それが一分の仕事であっても、四十何才と何ヵ月の一分ですから。
     *
このあとに(その11)で引用した対話に続いていくわけだが、
「そこで聴いた音」とは、「そこで聴きたい音」でもある。
そして(その10)での青山ホールについてのことにつながっていく。

「そこで鳴っている音」を録ろうとした青山ホールでの録音は、だから失敗している、といえよう。
「そこで聴いた音」、「そこで聴きたい音」を録るのであれば、
青山ホールでの録音はうまくいくのであろう。

Date: 4月 19th, 2018
Cate: 菅野沖彦

「菅野録音の神髄」(その15)

菅野先生と保柳健氏との対談、
「体験的に話そう──録音と再生のあいだ」を読み返しているわけだが、
ほんとうにおもしろい、と思って読んでいるところだ。

40年前の記事である。
当時も、興味深い記事だとは感じていたが、
すんなり理解できていたわけではなかった。

読みながら、いろんなところがひっかかってくるんだけれど、
だから何度か読み返しもした。
それでもすんなりと理解はできなかった。

理解するには時間が必要だ、ということだけはわかった。

40年経つと、よくわかる。
そういうことだったのか、とも頷ける。

こんなことを書くと、また嫌味なことを……、と思われるだろうが、
それでも書いておく。

いまのステレオサウンドに載っている記事で、
40年後(そこまでいかなくてもいいが)に読み返して、
古さを感じさせないどころか、ほんとうにおもしろいと思えるのがあるのか。

もっといえば40年後に読み返す人が、はたしているだろうか。

その意味で、40年後に読み返させて、しかもおもしろいと読み手に思わせる人こそが、
オーディオ評論家(職能家)であり、
それ以外のオーディオ評論家は、オーディオ評論家(商売屋)でしかない。

「体験的に話そう──録音と再生のあいだ」から、もうすこし引用していきたい。

Date: 4月 17th, 2018
Cate: 菅野沖彦

「菅野録音の神髄」(その14)

私は「THE DIALOGUE」での音量の基準はドラムスで決めている。
それもドラムスの実際の音量というよりも、
エネルギーの再現ということでボリュウム位置を決めていることは、
以前「Jazz Spirit Audio(audio wednesdayでの音量と音・その2)」で書いているとおりだ。

私はそれが正しいと思っているし、自信をもってやっている。
けれどベースの音を基準として、音量を考える(設定する)人にとっては、
そうとうに大きな音量と受け止められるであろうし、
大きすぎるというより間違った音量ととらえられるかもしれない。

おそらく「THE DIALOGUE」を鳴らしている人のなかには、
ベースを基準に音量を決めている人もいるはずだ。

再生側の、全体の音量設定ひとつでも、こういう違いがある。
録音では、楽器ごとに音量を変えることも可能だ。
違いは、多岐にわたり大きい。

保柳健氏は、こう発言されている。
     *
保柳 まず、そこにある音が基準となる。あなたがいうように、ベースが実際にはほとんど聴こえない状態だったら、ブーストするでしょう。それは、あくまでもその場の雰囲気を伝えるためのブーストであって、どちらというと従ですね。つまり、主観的にブーストするとなると、音楽に絶対の自信を持っていないとできない。
     *
菅野録音におけるブーストは、だから主観的なブーストである。
ここでの主観的の「主」は、客観的に対しての「主」でもあり、
従に対しての主でもある。

Date: 4月 15th, 2018
Cate: 菅野沖彦

「菅野録音の神髄」(その13)

菅野先生がピアニストを目指されたことは、
古くからの読み手であればご存知のはず。
ピアニストへの途を諦められたり理由についても書かれている。

ここに関係してくる発言が、ステレオサウンド 47号にある。
     *
菅野 そうですね。私はできれば一次表現をしたいんですが、自分の仕事は一次表現をする仕事ではない。一次表現をする演奏家が厳然として存在するわけです。そこで録音を通じての橋渡しをする。いってみれば、「録音再生」という二次表現かもしれません。その時、私は聴き手の代表である。
     *
この菅野先生の発言に対して、保柳健氏は「そこが違うんです」と返されている。
「体験的に話そう──録音と再生のあいだ」を読めばわかることだが、
録音という仕事をされているふたりであっても、その立場、考えかたは、
共通するところもありながらも、大きく違うところもある。

どちらが録音家として優れているのか、
すぐに優劣をつけたがる人がオーディオマニアのなかには少なからずいるが、
そういう次元のことではなく、録音はたんなる記録ではないし、
録音家もたんなる記録係ではない、ということだ。

菅野先生はつづけてこう発言されている。
     *
菅野 そこで演奏されるものを、自分でこう聴いたということを盛りこんで、たとえば、よくいわれることですけど、ジャズの、大きなホールでの演奏会も盛んになっちゃって、楽器のPAが進んでしまったから、ちょっとピンと来ないかもしれないんですが、ジャズの演奏の場合、本来ならウッドベースの音は非常に小さいわけです。もし、ステージで、ピーターソンでもエバンスでも、ピアノ・トリオの演奏を忠実に捉えるならば、当然そこで鳴っている音量バランスが基準になって、見謹慎具されるわけですね。ところが、私の場合は全くそうではなくて、ピアノ、ベース、ドラムスを対等の音量でとってこないと、もし自分が、ピアニスト、ベーシスト、ドラマーを率いてプロデュースするとしたら、聴衆に聴かせないと思うのが対等の音量で響かせることだから、自分の考える録音表現にならないわけです。
     *
このことは「THE DIALOGUE」もそうだ。
一曲目のドラムスとベースとの対話での、両者の音量は対等だ。
本来ならば、ベースがあれほどの音量で鳴るわけがない。

だからベースで、音出しの音量を決めてしまうと、
かなり低い再生音量になってしまう。

Date: 4月 15th, 2018
Cate: 菅野沖彦

「菅野録音の神髄」(その12)

実は、この奇妙なピアノの録音については、別項「耳はふたつある(その4)」で触れている。

そこに、マイクロフォンが水平にセッティングされていなかったのかもしれない、と書いた。
(その11)へのコメントが、facebookにあった。
奇妙なピアノの録音も、
その人の判断でマイクロフォンをセッティングしたのだろうから、
その人が「そこで聴いた音」を録音したのであろう、と。

そういう見方もできるが、それだけとは思わない。
奇妙なピアノの録音をした人が、マイクロフォンを水平にしていたのかどうかはわからないが、
生録の現場で水平ではなく、無頓着に斜めにしていた人は、
そこでの音を聴いていない人のはずだ。

つまり機械にまかせっきりにしていた人であり、
そういう録音である。

奇妙なワンポイント録音をした人も、
ワンポイント録音だから、いい音でとれる、という思い込み、
それに使っている器材が優秀なモノだから、という思い込み、
つまりまかせっきりの録音の可能性が高い。

録音の場にいて、録音をしているのに、
聴いていないなんてことはありえない、と思う人もいるだろうが、
たとえば写真や動画でも、撮るのに夢中で見ていなかった、という例はある。

撮っているのだから、見ているはず。
そうであるはずなのに、撮るのに夢中で……という人は、
ほんとうに記憶していない。

記録はしていても記憶はしていない。
奇妙なワンポイント録音をした人も、そうではないのか。
録音という記憶はしていても、記憶していない。
記憶していない、ということは、聴いていない。

そして「そこで鳴っている音」には、
もっと突っ込んだ意味も含まれている。

Date: 4月 15th, 2018
Cate: 菅野沖彦

「菅野録音の神髄」(その11)

菅野先生は何を録ってられたのか。
これもステレオサウンド 47号からの引用だ。
     *
菅野 最近考えていることの一つなんですが、録音というのは、そこで鳴っているのをとるのと、そこで聴いた音をとるのとあるんですね。
保柳 なるほど。
菅野 非常にオーバーラップしてもいますが、これは違う姿勢である。自分の場合を考えてみると、「そこで聴いた音」をとるわけです。
保柳 ははあ。
菅野 というより、録音する人間は、所詮「そこで聴いた音」しかとれないんだという考えなんですね。「そこで鳴っている音」をとるというのは、非常に物理的でありまして、つまり一時いわれたように、機械が進歩すれば、生の音が再現できるという考え方から生まれてくるのではないかと思います。
保柳 うん。
菅野 録音場と再生音場の差ということがよくいわれるでしょう。まあ、これはコンサートホールにしても、スタジオにしても家庭の部屋とは非常に違う。レコード音楽というものは、原則として過程で聴くものであって、そのような二つの音場を考えたときに、すでにそこには動かし難い録音再生の特質が存在するという事実がありますよね。その点から考えてみても、二つの音場の差をよく知った耳で、技術的には、そこで聴いた音をとると、こういうように考えるわけです。
     *
「そこで聴いた音」と「そこで鳴っている音」。
オーディオマニアには、ワンポイント録音こそ最高の録音手法である、
そう思い込んでいる人がいる。

数年前、あるところで、そういう人が録音したピアノを聴いた。
なんとも奇妙な音がした。

聴かせてくれた人(録音した人ではない)によると、
ワンポイント録音だそうだ。
しかもオーディオマニアによる録音だったし、
録音の結果にも満足している、とのこと。

録音した人のことを知っているわけではない。
だけど、録音されたピアノの奇妙な音を聴いていると、
「そこで鳴っている音」をとろうとしての失敗だったように思うのだ。

Date: 4月 6th, 2018
Cate: 川崎和男

KK適塾 2017(四回目・その4)

藤崎圭一郎氏が講師の五回目について書いているのに、
ここで石黒浩氏が講師の四回目について書くのは、
往年の女優のモノクロ写真を十枚ほど見る機会があったからだ。
そして色と構図について、思い出していた。

別項で「音の色と構図の関係」を書いた。
まだ(その1)だけで、続きを先延ばしにしているが、
色と構図は、今年一年の、個人的なテーマである。

KK適塾以前に「音の色と構図の関係」は書いていたけれど、
四回目のときに、このことを思い出すことはなかった。

アンドロイドには色がついている。
人間に酷似しているタイプ(ジェミノイド)は、
人間と同じに色をもっている。

けれど、この色をすべて廃して、モノクロ写真のようにしてしまったら、
それを見て、人はどう感じるのだろうか、と考えてしまった。

モノクロ写真的色調のジェミノイド。
そこに独自のリアリティはあるのだろうか。

Date: 4月 3rd, 2018
Cate: 川崎和男

KK適塾 2017(五回目・その2)

藤崎圭一郎氏の話は、解像度と変異体ということで、
変化朝顔の写真から始まった。

変化朝顔については説明しない。
Googleで検索してみればわかることだから。

そのあとスクリーンに映し出されたのは、機動戦士ガンダムだった。
ガンダムについても説明しない。

そこでガンダムシリーズに登場するモビルスーツのいくつかが大映しされる。
ガンダムはこれまではいったい何作つくられてきたのか、
すべてを見るほどのガンダムのファンでないため知らないが、
いくつかは見ているし、けっこうハマったシリーズもある。

そのひとつが機動戦士ガンダムSEEDと機動戦士ガンダムSEED DESTINYである。
そのSEEDシリーズに登場しているモビルスーツが、スクリーンに映された。

解像度と変異体にぴったりの例であるからこそなのだが、
藤崎圭一郎氏は、SEEDシリーズを見られていたのか、と勝手に思っていた。

変化朝顔につづいてのガンダム。
首をかしげたくなる人もいたかもしれないが、
藤崎圭一郎氏と同世代(ともに1963年生れ)の私は、共感がもてるつながりである。

解像度と変異体の話をききながら、
私が思っていたのは、石森章太郎のマンガと、日本のオーディオ(製品)のことだった。

Date: 3月 30th, 2018
Cate: 川崎和男

KK適塾 2017が終って……

昨年度のKK適塾も、3月30日が最後だった。
今年度のKK適塾は終った。

昨年度の最後と違っていたのは、スクリーンに「最終回」という映ったことだ。
今年度のKK適塾が終っただけではない、ということだ。

多くの人がいうことがある。
「最後とわかっていれば行ったのに……」

こんなことを口にする人は、ずっと言い続けている、
「最後とわかっていれば行ったのに……」と。

Date: 3月 30th, 2018
Cate: 川崎和男

KK適塾 2017(五回目・その1)

KK適塾 2017五回目の講師は、藤崎圭一郎氏。

藤崎圭一郎氏は、二回目(2月2日)の講師だった。
二回目と三回目は中止になった。
藤崎圭一郎氏の話は聞けないのかと思っていたら、
今回の講師、濱口秀司氏の事情で無理ということで、藤崎圭一郎氏である。

濱口秀司氏の話も面白く、興味深い。
今回も聞いてみたいとおもっていたけれど、
まだ一度も聞いていない藤崎圭一郎氏の話を、できれば聞きたいと、
中止になった時から思っていただけに、今回のKK適塾は特に待ち遠しかった。

藤崎圭一郎氏は、評論について直接離されたわけではなかったが、
四つのキーワードをもつクロスの図を使って話は、
評論そのものが、どうあるべきなのか、でもあった。

いまオーディオ評論家と自称している人たちは、
なぜKK適塾に来ないのか。
少なくともオーディオ評論家としてプロフェッショナルであろうとするならば、
今回の藤崎圭一郎氏の話は、聞き逃してはならない内容だった。

こういうことを書いたところで、誰も来ないことはわかっている。
結局、彼らはオーディオ評論家(商売屋)であって、
オーディオ評論家(職能家)でありたい、とは思っていないのだ。

Date: 3月 27th, 2018
Cate: 川崎和男

KK適塾 2017(四回目・その3)

石黒浩氏のアンドロイドに関しての話を聞くたびに毎回思っているのは、
High Fidelity Reproduction(ハイ・フィデリティ・リプロダクション)のことだ。

日本では昔からHigh Fidelity Reproductionイコール原音再生、
もしくは限りなく原音に近い音の再生、というふうに捉えられている。

これは誤解といえる。
この点に関しては、瀬川先生がステレオサウンド 24号(1972年)、
「良い音は、良いスピーカーとは?(3)」で書かれている。
     *
それよりも、まず、ハイ・フィデリティをイコール《原音の再生》と定義してよいのだろうか。原音そっくりが、即、ハイ・フィデリティなのだろうか。
 ハイ・フィデリティを定義したM・G・スクロギイもH・F・オルソンも、そうは言っていない。彼らは口を揃えていう。ハイ・フィデリティ・リプロダクションとは「原音を直接聴いたと同じ感覚を人に与えること」である、と。要するにハイ・フィデリティとは、物理的であるよりもむしろ心理的な命題だということになる。ここは非常に重要なところだ。
     *
「原音を直接聴いたと同じ感覚を人に与えること」こそが、High Fidelity Reproductionである。
瀬川先生も書かれているように、ここは非常に重要なところだ。

昨年秋から何回にわたって波形再現について書いてきた。
波形再現を否定するつもりはないが、私がSNSで見かけた波形再現は、ひとりよがりだった。
取り組んでいる本人は、客観的に追求しているつもりてあっても、
いくつもの大事なところが抜け落ちている。

石黒浩氏の話で興味深く感じたのは、
アンドロイドの皮膚を剥ぐときの現実感について、である。
おそらく来場者のほとんどが、このところには強い関心をもたれたのではないだろうか。

皮膚を剥ぐという、現実ではほぼありえないシチュエーションでの現実感というか、
アンドロイドの人としての実在感があるということは、
オーディオマニアならば、再生音において、同様のことがあるのではないか、と思うだろうし、
思いあたることがあるはずだ。

KK適塾の終りには、質問の時間がある。
石黒浩氏にひとつ訊きたいことがあった。
でも、KK適塾での話とは直接関係のないことであり、
他の人にとってはどうでもいいことであろうから、
石黒浩氏に、オーディオマニアではないことを確かめたかったけど、しなかった。

おそらくオーディオマニアではないだろう。
けれど石黒浩氏の話をきくたびに、
この人がオーディオマニアだったら……、と思う。

Date: 3月 27th, 2018
Cate: 川崎和男

KK適塾 2017(四回目・その2)

石黒浩氏の話に、美人は左右対称だ、ということが出た。
美男美女といわれ、テレビ、映画に登場する人の顔をみていれば、
完全な左右対称ではもちろんないが、
美男美女といわれない人と比較すれば、かなり左右対称の顔であることは、
以前から気づいている人はけっこう多いはずだ。

とはいえ、美人の定義として左右対称、そう客観的なことといえるのだろうか。
来場者からも、そのことについて質問があった。

石黒浩氏と質問者のやりとりを聞いていて私が思っていたのは、
美人イコール美しい人ではない、ということである。

美男美女でもいい、
美男が美しい男、美女が美しい女とは、私は思っていない。

美人は、左右対称の顔ということが如実にあらわしているように、
きれいな人という域でしかない。

きれいな男、きれいな女、左右対称の顔なのであって、
美しい人が左右対称の顔なのではない。

ではなぜ石黒浩氏がアンドロイドの顔を左右対称にされるのかについては、
ここでは触れない。

これは私のなかだけの定義すぎない。
美人はきれいな人であって、必ずしも美しい人というわけではない。
美人でなくとも、美しい人はいる。
少なくとも、私はそう捉えているし、主観である。

音も同じだ。
美音イコール美しい音ではない。

Date: 3月 24th, 2018
Cate: 川崎和男

KK適塾 2017(四回目・その1)

3月23日は、KK適塾 2017の四回目だった。
2月に予定されていた二回目と三回目は中止だった。
一回目が12月22日だったから、三ヵ月ぶりのKK適塾だった。

三ヵ月のあいだに、暖かくなっていた。
桜も咲いている。
なのでずいぶんとひさしぶりの感じもしていた。

四回目の講師は、石黒浩氏。
石黒浩氏の講演はKK塾、KK適塾での二回に加えて、
2015年秋に六本木にある国際文化会館でもきいている。

石黒浩氏の話をききながら考えていたのは、
前日(22日)に書いた「ハイエンドオーディオ考を書くにあたって」だったし、
黒田先生の文章も思い出していた。

石黒浩氏のアンドロイド(人型ロボット)には、
人間に酷似しているタイプ(ジェミノイド)と、
テレノイドと呼ばれているタイプとがある。

ジェミノイドが酷似型であるために、性別や年齢、背格好など、見る人に意識させるのに対し、
テレノイドは性別も年齢も特定される外観を持たず、
見る人によって男にも女にも、子供にも大人にも見える、外観を簡略化したタイプである。

いわば観察(ジェミノイド)と想像(テレノイド)である。
このふたつのことは、これまでの石黒浩氏の話で知っていたけれど、
前日に黒田先生の文章を書き写したこともあって、
いままで以上に、このふたつのアンドロイドの対比が、
ほぼそのままオーディオの世界、音にもあてはまりそうな気がしていた。