Archive for category 人

Date: 11月 18th, 2024
Cate: 五味康祐

続「神を視ている。」(その4)

(その1)でも引用しているけれど、いい文章は何度でも引用したくなる。
     *
われわれはレコードで世界的にもっともすぐれた福音史家の声で、聖書の言葉を今は聞くことが出来、キリストの神性を敬虔な指揮と演奏で享受することができる。その意味では、世界のあらゆる──神を異にする──民族がキリスト教に近づき、死んだどころか、神は甦りの時代に入ったともいえる。リルケをフルトヴェングラーが評した言葉に、リルケは高度に詩的な人間で、いくつかのすばらしい詩を書いた、しかし真の芸術家であれば意識せず、また意識してはならぬ数多のことを知りすぎてしまったというのがある。真意は、これだけの言葉からは窺い得ないが、どうでもいいことを現代人は知りすぎてしまった、キリスト教的神について言葉を費しすぎてしまった、そんな意味にとれないだろうか。もしそうなら、今は西欧人よりわれわれの方が神性を素直に享受しやすい時代になっている、ともいえるだろう。宣教師の言葉ではなく純度の最も高い──それこそ至高の──音楽で、ぼくらは洗礼されるのだから。私の叔父は牧師で、娘はカトリックの学校で成長した。だが讃美歌も碌に知らぬこちらの方が、マタイやヨハネの受難曲を聴こうともしないでいる叔父や娘より、断言する、神を視ている。カール・バルトは、信仰は誰もが持てるものではない、聖霊の働きかけに与った人のみが神をではなく信仰を持てるのだと教えているが、同時に、いかに多くの神学者が神を語ってその神性を喪ってきたかも、テオロギーの歴史を繙いて私は知っている。今、われわれは神をもつことができる。レコードの普及のおかげで。そうでなくて、どうして『マタイ受難曲』を人を聴いたといえるのか。 (「マタイ受難曲」より)
     *
五味先生の「神を視ている」。
これをどう解釈するのか。

《自分自身の神性の創造》というのが、私の解釈だ。

Date: 11月 5th, 2024
Cate: 瀬川冬樹

虚構を継ぐ者(その6)

映画「八犬伝」を観てきた。

映画後半で、渡辺崋山が滝沢馬琴に語るシーンがある。
オーディオにそのまま当てはまることが語られる。

深く感じるものがあるはずだ。

Date: 3月 16th, 2024
Cate: audio wednesday, 五味康祐

「音による自画像」(とaudio wednesday)

五味先生がいわれた「音による自画像」。
あれこれ考える。

今年になって、ふたたびaudio wednesdayで音を鳴らすようになって、
やはり「音による自画像」について考える。

いまのところ三回やっている。
そこでの音は「音による自画像」なのだろうか。

そんなふうに問いになっていく。

Date: 10月 13th, 2023
Cate: 菅野沖彦

10月13日(2023年)

五年が経った。
一年前に、四年が経った、
二年前には、三年が経った、
三年前には、二年が経った、
四年前には、一年が経った、
と書いている。

結局、今年もこうやって書いている。

この五年間は、人によって受けとめ方はかなり違ってこよう。
皆が同じように受けとめることこそ、おかしい。

もう五年経つのか……、
そう思う人もいれば、まだ五年間なのか、という人もいる。

五年のながさも、人によって違う──、
こんなことを思いつつ書いていると、ある人のことを思い浮べる。

この春に亡くなっている。
音楽好き、オーディオ好きと知られている人であったけれど、
私の目には、菅野沖彦マニアとして映っていた。

菅野沖彦マニアであったからこその、
音楽好き、オーディオ好きであったようにも思えてならない。

ほんとうのところはわからない。
本人もわからなかったのではないだろうか。

菅野沖彦マニアだった人にとっての五年間は、どれだけのながさだったのだろうか。

Date: 7月 6th, 2023
Cate: 井上卓也

井上卓也氏のこと(アンペックス MR70)

アンペックスのオープンリールデッキとオーディオ評論家といえば、
個人的には瀬川先生とAG440Bのことが、最初に浮ぶ。

ステレオサウンド 38号の特集「オーディオ評論家──そのサウンドとサウンドロジィ」、
そこで見た瀬川先生のリスニングルーム、
JBLとKEF、二つのスピーカーのあいだに、AG440B-2があった。

このAG440B-2は、49号の巻末のUsed Component Market(売買欄)に出ていた。
実働250時間、完全オーバーホール、オプションの4トラック再生用ヘッドなどがついている。
希望価格は125万円で、連絡先はステレオサウンド編集部気付になっていた。

38号では、山中先生のリスニングルームにModel 300があった。

井上先生の、当時のリスニングルームにはなかった。
先日、ある方と話していて、井上先生のことが話題になった。

井上先生のところで聴いたアンペックスのデッキの音はすごかった。
そんなことを話された。
AG440Bではないとのこと。

型番を忘れてしまったけれど、もっと大型で、
1/4インチから1インチまでのテープ幅に対応できたモデル──、
となると、MR70である。

井上先生はMR70をお持ちだったのか。
ステレオサウンド 44号、「クラフツマンシップの粋」はアンペックスで、
MR70のカラー写真も掲載されている。

このMR70は井上先生の私物だったのだろう。

Date: 3月 17th, 2023
Cate: 瀬川冬樹

虚構を継ぐ者(その5)

虚構を継ぐ者は、
誰かに、それを託せる人でもあるわけだ。

Date: 1月 18th, 2023
Cate: 長島達夫

長島達夫氏のこと(その14)

別項「編集者の悪意とは(その25)」のために、
ステレオサウンド 69号をひさしぶりにひらいていた。

69号の編集後記でKen氏が、こんなことを書かれている。
     *
 それにしても衝撃だったのは、某氏に聴かせていただいたモディファイドCDプレーヤー。10数万円の機種なのですが、メカニズム部を補強して、ICやLSIへの電源の配線方法をかえ、オペアンプを終段に入れてバッファーとした、ご本人いわく「たったこれだけ。こんなことメーカーがやろうと思ったらすぐできること……」なのだそうですが、その音たるや、今回のテストリポートで音質面でベストに近い評価が与えられた20数万円のものと一対比較しても、明らかにこちらの方が良かったのには驚きました。
     *
某氏とは、長島先生のことで、
10数万円の機種とは、Lo-DのDAD800(159,000円)のことだ。

69号の第二特集は、「最新CDプレーヤーテスト」だった。
なので元のDAD800と長島先生モディファイドDAD800と比較することもできた。

20数万円のCDプレーヤーとの比較もできた。
たしかに、モディファイドDAD800の音は良かった。

明らかにローレベルの明瞭度に優れていた。

Date: 12月 1st, 2022
Cate: 瀬川冬樹

AXIOM 80について書いておきたい(その22)

岩崎先生は書かれている。
     *
アドリブを重視するジャズにおいて、一瞬一瞬の情報量という点で、ジャズほど情報量の多いものはない。一瞬の波形そのものが音楽性を意味し、その一瞬をくまなく再現することこそが、ジャズの再生の決め手となってくる。
     *
これを何度も暗記するほどに読んでいるから、
ジャーマン・フィジックスのTroubadour 40(もしくは80)が、
岩崎先生にとっての21世紀のD130といえるのではないだろうか、とおもってしまう。

Date: 11月 24th, 2022
Cate: 瀬川冬樹

AXIOM 80について書いておきたい(その21)

その20)に、
ジャーマン・フィジックスのDDD型ユニットは、
菅野先生にとっての21世紀の375+537-500にあたり、
瀬川先生にとっての21世紀のAXIOM 80といえる。そう確信している、
と書いた。

これは絶対の確信なのだが、同時に考えていることがひとつある。
岩崎先生にとっては、どうなのだろうか、だ。

岩崎先生もAXIOM 80を鳴らされていた一人だ。
岩崎先生は、AXIOM 80からJBLのD130へ、の人だ。

岩崎先生にとっての21世紀のD130といえるのか。
DDD型ユニットはスタックしていける。

Troubadour 40を上下にスタックしたかっこうのTroubadour 80があった。
Troubadour 80ならば、
岩崎先生にとっての21世紀のD130といえるのか──、
そんなことを考えている。

Date: 11月 11th, 2022
Cate: 瀬川冬樹

AXIOM 80について書いておきたい(その20)

別項「瀬川冬樹氏とスピーカーのこと(その10)」で、
ジャーマン・フィジックスのDDD型ユニットは、
瀬川先生にとっての21世紀のAXIOM 80となったことだろう、と書いた。

いまもそのおもいはまったく変らない。
間違いなく瀬川先生は、
ジャーマン・フィジックスのDDD型ユニット中心のスピーカーを選択されたはず。

このことは、菅野先生と話したことがある。

菅野先生がジャーマン・フィジックスのTrobadour 40を導入されたとき、
たしか2005年5月だった。このときの昂奮はいまもおぼえている。
そして「瀬川先生が生きておられたら、これ(Trobadour 40)にされてたでしょうね」、
自然と言葉にしてしまった。

菅野先生も
「ぼくもそう思う。オーム(瀬川先生の本名、大村からきているニックネーム)もこれにしているよ」
と力強い言葉が返ってきた。

私だけが感じた(思った)のではなく、菅野先生も同じおもいだったことが、とてもうれしかった。
なので、すこしそのことを菅野先生と話していた。

ジャーマン・フィジックスのDDD型ユニットは、
菅野先生にとっての21世紀の375+537-500にあたり、
瀬川先生にとっての21世紀のAXIOM 80といえる。そう確信している。

Date: 11月 7th, 2022
Cate: 瀬川冬樹

瀬川冬樹を想う

月を見ていた。

8日もすれば満月になる月が、新宿駅のビルの上に浮んでいたのを、信号待ちをしていたとき、
ぼんやり眺めていた。まわりに星は見えず、月だけがあった。
そして想った。

昨年2月2日、瀬川先生の墓参のとき、位牌をみせていただいた。
戒名に「紫音」とはいっていた。

最初は「弧月」とはいっていた、ときいた。

だからというわけでもないが、ふと、あの月は、瀬川冬樹だと想った。

東京の夜は明るい。夜の闇は、表面的にはなくなってしまったかのようだ。
「闇」「暗」という文字には、「音」が含まれている。
だからというわけではないが、オーディオで音楽を聴くという行為、音と向き合う行為には、
どこか、暗闇に何かを求め、何かをさがし旅立つ感覚に通じるものがあるように思う。

どこかしら夜の闇にひとりで踏み出すようなところがあるといえないだろうか。
闇の中に、気配を感じとる行為にも似ているかもしれない。

完全な闇では、一歩を踏み出せない。
月明かりがあれば、踏み出せる。足をとめず歩いていける。
月が、往く道を、ほのかとはいえ照らしてくれれば、歩いていける。

夜の闇を歩いていく者には、昼間の太陽ではなく、月こそ頼りである。
夜の闇を歩かない者には、月は関係ない。

だから、あの月を、瀬川冬樹だと想った。
そして、ときに月は美しい。
     *
2009年9月25日に、こう書いている
読み返して、この日の月をおもいだしていた。
たしかに美しかった。ほんとうに美しく、私の目にはみえた。
だから、こんなことをおもっていた。

今日は11月7日だ。

Date: 11月 7th, 2022
Cate: 五味康祐, 素材

「音による自画像」(と終のスピーカー)

終のスピーカーとは、音による自画像を描くための存在なのだ、
さきほど気がついた。

そのうえで、11月20日にやって来る終のスピーカーは、
私にとって、まさしく「終のスピーカー」である。

Date: 10月 31st, 2022
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(45真空管アンプ・その2)

その1)で書いている45を使ったラインアンプ。
一年前は、こういうアンプもおもしろいかも、ぐらいだったけれど、
終のスピーカーがやって来ることになって、真面目に考えるようになってきた。

45単段のラインアンプである。
あくまでもラインアンプで、ライントランスを使って600Ω出力。
なので出力は大きい必要はない。

となるとプレート電圧を低めにしてバイアスも浅めに。
そうすればコントロールアンプとパワーアンプ間に挿入する使い方になる。

アンプというよりもバッファー(インピーダンス変換)である。
45の音を附加するためのモノである。
     *
暗中模索が続き、アンプは次第に姿を変えて、ついにUX45のシングルになって落着いた。NF(負饋還)アンプ全盛の時代に、電源には定電圧放電管という古めかしいアンプを作ったのだから、やれ時代錯誤だの懐古趣味だのと、おせっかいな人たちからはさんざんにけなされたが、あんなに柔らかで繊細で、ふっくらと澄明なAXIOM80の音を、わたしは他に知らない。この頃の音はいまでも友人達の語り草になっている。あれがAXIOM80のほんとうの音だと、私は信じている。
     *
瀬川先生に倣って、定電圧放電管を使おうか、とも考えている。

Date: 10月 30th, 2022
Cate: PM510, Rogers, 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(ロジャースPM510・その6)

JBLの4343とロジャースのPM510。
同時代のスピーカーシステムであっても、その音はずいぶん違うし、
音楽の聴き方も違ってくるといえる。

4343とPM510は、瀬川先生が愛されたスピーカーだ。
4341とLS5/1Aとしてもいいのだが、
私にとっては4343とPM510である。

別項「ステレオサウンドについて(その88)」でも引用している、
瀬川先生の未発表原稿の冒頭に、こう書いてある。
     *
 いまもしも、目前にJBLの4343Bと、ロジャースのPM510とを並べられて、どちらか一方だけ選べ、とせまられたら、いったいどうするだろうか。もちろん、そのどちらも持っていないと仮定して。
 少なくとも私だったら、大いに迷う。いや、それが高価なスピーカーだからという意味ではない。たとえばJBLなら4301Bでも、そしてロジャースならLS3/5Aであっても、そのどちらか一方をあきらめるなど、とうてい思いもつかないことだ。それは、この二つのスピーカーの鳴らす音楽の世界が、非常に対照的であり、しかも、そのどちらの世界もが、私にとって、欠くことのできないものであるからだ。
     *
私も4343とPM510に憧れてきた。
PM510を選んだ。

私も大いに迷った。
PM510にしたのは、価格のことも大きく関係しているし、
このころすでにステレオサウンドで働くようになっていたから、
JBLは試聴室で日常的に聴ける、ということももちろん関係している。

だから自分でも、なぜ、この二つのスピーカーに対して迷うのか、と考える。
まだはっきりとした結論は出ていないが、それでもこうおもっている。

冒険(4343)と旅行(PM510)なんだ、と。
このことが、JBLで音楽を聴いている人は、ロマンティストなんだ、ということにもつながっている。

Date: 10月 18th, 2022
Cate: 五味康祐, 情景

情景(その14)

ステレオサウンド 49号、
「体験的に話そう──録音と再生のあいだ」という対談で、
菅野先生が語られている。
     *
菅野 一つ難しい問題として考えているのはですね、機械の性能が数十年の間に、たいへん変ってきた。数十年前の機械では、物理的な意味で、いい音を出し得なかったわけです。ですがね、美的な意味では、充分いい音を出してきたわけです。要するに、自動ピアノでですよ、現実によく調整されたピアノを今の技術で録音して、プレイバックして、すばらしいということに対して、非常に大きな抵抗を感ずるということてす。
 ある時、アメリカの金持ちの家に行って、ゴドウスキイや、バハマン、それにコルトーの演奏を自動ピアノで、ベーゼンドルファー・インペリアルで、目の前で、間違いなくすばらしい名器が奏でるのを聴かしてもらいました。
 彼が、「どうですか」と、得意そうにいうので、私は、ゴドウスキイやバハマン、コルトーのSPレコードの方が、はるかによろしい、私には楽しめるといったわけです。
 すると、お前はオーディオ屋だろう、あんな物理特性の悪いレコードをいいというのはおかしい、というんですね。そこで、あなた、それは間違いだと、果てしない議論が始まったわけです。つまり、いい音という意味は、非常に単純に捉えられがちであって……。
     *
ベーゼンドルファー・インペリアルの自動ピアノでのパハマンやコルトーの演奏、
SP盤を再生してのパハマンやコルトーの演奏。

どちらがリアルな音なのかといえば、いうまでもなく自動ピアノの音である。
けれど、リアリティのある音となると、どうか。

この点は、人によって違ってくるのかもしれない。
リアルとリアリティの違いなんてどうでもいい、という人もいるし、
そうでない人もいる。

この菅野先生の発言をどう解釈するのかも、人によって違ってくることだろう。