虚構を継ぐ者(その5)
虚構を継ぐ者は、
誰かに、それを託せる人でもあるわけだ。
虚構を継ぐ者は、
誰かに、それを託せる人でもあるわけだ。
別項「編集者の悪意とは(その25)」のために、
ステレオサウンド 69号をひさしぶりにひらいていた。
69号の編集後記でKen氏が、こんなことを書かれている。
*
それにしても衝撃だったのは、某氏に聴かせていただいたモディファイドCDプレーヤー。10数万円の機種なのですが、メカニズム部を補強して、ICやLSIへの電源の配線方法をかえ、オペアンプを終段に入れてバッファーとした、ご本人いわく「たったこれだけ。こんなことメーカーがやろうと思ったらすぐできること……」なのだそうですが、その音たるや、今回のテストリポートで音質面でベストに近い評価が与えられた20数万円のものと一対比較しても、明らかにこちらの方が良かったのには驚きました。
*
某氏とは、長島先生のことで、
10数万円の機種とは、Lo-DのDAD800(159,000円)のことだ。
69号の第二特集は、「最新CDプレーヤーテスト」だった。
なので元のDAD800と長島先生モディファイドDAD800と比較することもできた。
20数万円のCDプレーヤーとの比較もできた。
たしかに、モディファイドDAD800の音は良かった。
明らかにローレベルの明瞭度に優れていた。
岩崎先生は書かれている。
*
アドリブを重視するジャズにおいて、一瞬一瞬の情報量という点で、ジャズほど情報量の多いものはない。一瞬の波形そのものが音楽性を意味し、その一瞬をくまなく再現することこそが、ジャズの再生の決め手となってくる。
*
これを何度も暗記するほどに読んでいるから、
ジャーマン・フィジックスのTroubadour 40(もしくは80)が、
岩崎先生にとっての21世紀のD130といえるのではないだろうか、とおもってしまう。
(その20)に、
ジャーマン・フィジックスのDDD型ユニットは、
菅野先生にとっての21世紀の375+537-500にあたり、
瀬川先生にとっての21世紀のAXIOM 80といえる。そう確信している、
と書いた。
これは絶対の確信なのだが、同時に考えていることがひとつある。
岩崎先生にとっては、どうなのだろうか、だ。
岩崎先生もAXIOM 80を鳴らされていた一人だ。
岩崎先生は、AXIOM 80からJBLのD130へ、の人だ。
岩崎先生にとっての21世紀のD130といえるのか。
DDD型ユニットはスタックしていける。
Troubadour 40を上下にスタックしたかっこうのTroubadour 80があった。
Troubadour 80ならば、
岩崎先生にとっての21世紀のD130といえるのか──、
そんなことを考えている。
別項「瀬川冬樹氏とスピーカーのこと(その10)」で、
ジャーマン・フィジックスのDDD型ユニットは、
瀬川先生にとっての21世紀のAXIOM 80となったことだろう、と書いた。
いまもそのおもいはまったく変らない。
間違いなく瀬川先生は、
ジャーマン・フィジックスのDDD型ユニット中心のスピーカーを選択されたはず。
このことは、菅野先生と話したことがある。
菅野先生がジャーマン・フィジックスのTrobadour 40を導入されたとき、
たしか2005年5月だった。このときの昂奮はいまもおぼえている。
そして「瀬川先生が生きておられたら、これ(Trobadour 40)にされてたでしょうね」、
自然と言葉にしてしまった。
菅野先生も
「ぼくもそう思う。オーム(瀬川先生の本名、大村からきているニックネーム)もこれにしているよ」
と力強い言葉が返ってきた。
私だけが感じた(思った)のではなく、菅野先生も同じおもいだったことが、とてもうれしかった。
なので、すこしそのことを菅野先生と話していた。
ジャーマン・フィジックスのDDD型ユニットは、
菅野先生にとっての21世紀の375+537-500にあたり、
瀬川先生にとっての21世紀のAXIOM 80といえる。そう確信している。
月を見ていた。
8日もすれば満月になる月が、新宿駅のビルの上に浮んでいたのを、信号待ちをしていたとき、
ぼんやり眺めていた。まわりに星は見えず、月だけがあった。
そして想った。
昨年2月2日、瀬川先生の墓参のとき、位牌をみせていただいた。
戒名に「紫音」とはいっていた。
最初は「弧月」とはいっていた、ときいた。
だからというわけでもないが、ふと、あの月は、瀬川冬樹だと想った。
東京の夜は明るい。夜の闇は、表面的にはなくなってしまったかのようだ。
「闇」「暗」という文字には、「音」が含まれている。
だからというわけではないが、オーディオで音楽を聴くという行為、音と向き合う行為には、
どこか、暗闇に何かを求め、何かをさがし旅立つ感覚に通じるものがあるように思う。
どこかしら夜の闇にひとりで踏み出すようなところがあるといえないだろうか。
闇の中に、気配を感じとる行為にも似ているかもしれない。
完全な闇では、一歩を踏み出せない。
月明かりがあれば、踏み出せる。足をとめず歩いていける。
月が、往く道を、ほのかとはいえ照らしてくれれば、歩いていける。
夜の闇を歩いていく者には、昼間の太陽ではなく、月こそ頼りである。
夜の闇を歩かない者には、月は関係ない。
だから、あの月を、瀬川冬樹だと想った。
そして、ときに月は美しい。
*
2009年9月25日に、こう書いている。
読み返して、この日の月をおもいだしていた。
たしかに美しかった。ほんとうに美しく、私の目にはみえた。
だから、こんなことをおもっていた。
今日は11月7日だ。
終のスピーカーとは、音による自画像を描くための存在なのだ、
さきほど気がついた。
そのうえで、11月20日にやって来る終のスピーカーは、
私にとって、まさしく「終のスピーカー」である。
(その1)で書いている45を使ったラインアンプ。
一年前は、こういうアンプもおもしろいかも、ぐらいだったけれど、
終のスピーカーがやって来ることになって、真面目に考えるようになってきた。
45単段のラインアンプである。
あくまでもラインアンプで、ライントランスを使って600Ω出力。
なので出力は大きい必要はない。
となるとプレート電圧を低めにしてバイアスも浅めに。
そうすればコントロールアンプとパワーアンプ間に挿入する使い方になる。
アンプというよりもバッファー(インピーダンス変換)である。
45の音を附加するためのモノである。
*
暗中模索が続き、アンプは次第に姿を変えて、ついにUX45のシングルになって落着いた。NF(負饋還)アンプ全盛の時代に、電源には定電圧放電管という古めかしいアンプを作ったのだから、やれ時代錯誤だの懐古趣味だのと、おせっかいな人たちからはさんざんにけなされたが、あんなに柔らかで繊細で、ふっくらと澄明なAXIOM80の音を、わたしは他に知らない。この頃の音はいまでも友人達の語り草になっている。あれがAXIOM80のほんとうの音だと、私は信じている。
*
瀬川先生に倣って、定電圧放電管を使おうか、とも考えている。
JBLの4343とロジャースのPM510。
同時代のスピーカーシステムであっても、その音はずいぶん違うし、
音楽の聴き方も違ってくるといえる。
4343とPM510は、瀬川先生が愛されたスピーカーだ。
4341とLS5/1Aとしてもいいのだが、
私にとっては4343とPM510である。
別項「ステレオサウンドについて(その88)」でも引用している、
瀬川先生の未発表原稿の冒頭に、こう書いてある。
*
いまもしも、目前にJBLの4343Bと、ロジャースのPM510とを並べられて、どちらか一方だけ選べ、とせまられたら、いったいどうするだろうか。もちろん、そのどちらも持っていないと仮定して。
少なくとも私だったら、大いに迷う。いや、それが高価なスピーカーだからという意味ではない。たとえばJBLなら4301Bでも、そしてロジャースならLS3/5Aであっても、そのどちらか一方をあきらめるなど、とうてい思いもつかないことだ。それは、この二つのスピーカーの鳴らす音楽の世界が、非常に対照的であり、しかも、そのどちらの世界もが、私にとって、欠くことのできないものであるからだ。
*
私も4343とPM510に憧れてきた。
PM510を選んだ。
私も大いに迷った。
PM510にしたのは、価格のことも大きく関係しているし、
このころすでにステレオサウンドで働くようになっていたから、
JBLは試聴室で日常的に聴ける、ということももちろん関係している。
だから自分でも、なぜ、この二つのスピーカーに対して迷うのか、と考える。
まだはっきりとした結論は出ていないが、それでもこうおもっている。
冒険(4343)と旅行(PM510)なんだ、と。
このことが、JBLで音楽を聴いている人は、ロマンティストなんだ、ということにもつながっている。
ステレオサウンド 49号、
「体験的に話そう──録音と再生のあいだ」という対談で、
菅野先生が語られている。
*
菅野 一つ難しい問題として考えているのはですね、機械の性能が数十年の間に、たいへん変ってきた。数十年前の機械では、物理的な意味で、いい音を出し得なかったわけです。ですがね、美的な意味では、充分いい音を出してきたわけです。要するに、自動ピアノでですよ、現実によく調整されたピアノを今の技術で録音して、プレイバックして、すばらしいということに対して、非常に大きな抵抗を感ずるということてす。
ある時、アメリカの金持ちの家に行って、ゴドウスキイや、バハマン、それにコルトーの演奏を自動ピアノで、ベーゼンドルファー・インペリアルで、目の前で、間違いなくすばらしい名器が奏でるのを聴かしてもらいました。
彼が、「どうですか」と、得意そうにいうので、私は、ゴドウスキイやバハマン、コルトーのSPレコードの方が、はるかによろしい、私には楽しめるといったわけです。
すると、お前はオーディオ屋だろう、あんな物理特性の悪いレコードをいいというのはおかしい、というんですね。そこで、あなた、それは間違いだと、果てしない議論が始まったわけです。つまり、いい音という意味は、非常に単純に捉えられがちであって……。
*
ベーゼンドルファー・インペリアルの自動ピアノでのパハマンやコルトーの演奏、
SP盤を再生してのパハマンやコルトーの演奏。
どちらがリアルな音なのかといえば、いうまでもなく自動ピアノの音である。
けれど、リアリティのある音となると、どうか。
この点は、人によって違ってくるのかもしれない。
リアルとリアリティの違いなんてどうでもいい、という人もいるし、
そうでない人もいる。
この菅野先生の発言をどう解釈するのかも、人によって違ってくることだろう。
四年が経った。
一年前に、三年が経った、
二年前には、二年が経った、と、
三年前には、一年が経った、と書いている。
ここまで書いて、来年(2023年)の1月で、このブログも終るのだから、
「五年が経った」と書くことはないのに気づいた。
私がステレオサウンドにいたころ、つまり1980年代なのだが、
菅野先生は何度か「若さはバカさ」といわれていた。
最近、この菅野先生のことばを思い出す。
「若さはバカさ」ならば、「バカさは若さ」ではないのか、と続けて思うようになった。
少し前に、心に近い音、耳に近い音について書いている。
結局のところ、ここで語っていることと、
心に近い音、耳に近い音について語っていることは、
私にとって同じことを、別の側面から語っていただけ、である。
リアルな音は、私にとって耳に近い音、
リアリティな音こそ、私にとっては心に近い音。
菅野先生生誕90年だから、たぶん無理なのはわかっていても、
つい期待したくなるのが、菅野先生録音のルドルフ・フィルクシュニーの再発である。
1983年に、菅野先生にとって初のデジタル録音で、
フィルクシュニーの来日にあわせて石橋メモリアルホールで収録されている。
レーベルは、オーディオ・ラボではなく、スガノ・ディスクだった。
マイクロフォンには三研製が使われた。
レコーダーは、ソニーのBVU200Bである。
Uマチックの器材だ。
マスターテープがきちんと保管されていたとしても、
きちんとした再生は器材の関係でかなり難しい。
それでもマスターテープが残っていて、
器材の条件が揃えば、MQAで再発してほしい、と思う。
今日(9月27日)は、菅野先生の誕生日だ。
グレン・グールドと二日違いの誕生日で、グールドと同じ1932年生れである。
このことを以前、菅野先生に話したことがある。
菅野先生も、このことに特別な親近感、つながりを感じている──、
そういったことを話してくださった。
グールドも菅野先生も天秤座である。
占星術ではバランス感覚に優れる星座である。
占星術をまったく信じない人もいるだろうが、
グールドと菅野先生、どちらもバランス感覚に優れた人であり、
そのバランス感覚は、いわゆるちまちましたバランス感覚ではなく、
一方に大きく振り切ったら、その反対にも大きく振り切ることのできるバランス感覚である。
そんなこと、私だってできる──、
そんなことをいう人は、往々にして一方に振り切ることはできても、
その反対方向に振り切れるわけではなかったりする。
本人は反対方向に振り切っているつもりであっても、
最初に振り切った方向とたいして違わないところでの振り切りであったりする。
正しく反対方向を見定めることができなければ、
ここでいうバランス感覚をもつことはできない。
ステレオサウンド 59号掲載の、
瀬川先生によるアキュフェーズM100の新製品紹介の文章。
この文章が、読んだ時から、ずーっと心のどこかにひっかかっているような気がしていた。
アキュフェーズのM100に、当時、すごく関心を寄せていたわけではない。
自分でも不思議に思いながらも、
ひっかかっているような気がしていた、という感じだったので、
あまり、というか、ほとんどそのことについてそれ以上考えることはしなかった。
最近になって、ああそうだ、と気づいた。
*
そのことは、試聴を一旦終えたあとからむしろ気づかされた。
というのは、かなり時間をかけてテストしたにもかかわらず、C240+M100(×2)の音は、聴き手を疲れさせるどころか、久々に聴いた質の高い、滑らかな美しい音に、どこか軽い酔い心地に似た快ささえ感じさせるものだから、テストを終えてもすぐにスイッチを切る気持になれずに、そのまま、音量を落として、いろいろなレコードを、ポカンと楽しんでいた。
その頃になると、もう、パワーディスプレイの存在もほとんど気にならなくなっている。500Wに挑戦する気も、もうなくなっている。ただ、自分の気にいった音量で、レコードを楽しむ気分になっている。
そうしてみて気がついたことは、このアンプが、0・001Wの最小レンジでもときどきローレベルの表示がスケールアウトするほどの小さな出力で聴き続けてなお、数ある内外のパワーアンプの中でも、十分に印象に残るだけの上質な美しい魅力ある音質を持っている、ということだった。夜更けてどことなくひっそりした気配の漂いはじめた試聴室の中で、M100は実にひっそりと美しい音を聴かせた。まるで、さっきの640Wのあの音の伸びがウソだったように。しかも、この試聴室は都心にあって、実際にはビルの外の自動車の騒音が、かすかに部屋に聴こえてくるような環境であるにもかかわらず、あの夜の音が、妙にひっそりとした印象で耳の底で鳴っている。
*
瀬川先生の文章の終りのほうである。
ここのところが、ずーっと私の心のどこかにあった。
ここのところを読んで、どう思うのかは、人それぞれでしかない。
私は私の読み方をするだけで、
ここのところを読んでいると、
瀬川先生は独りでM100を聴かれているのか──、
そんなことを感じてしまうから、私の心のどこかにひっかかっていたのだろう。
そんなことはない。
ステレオサウンドの試聴室での試聴なのだから、
瀬川先生の隣には編集者が最低でも一人か二人はいるはずだ。
なのに、何度読み返しても、私には瀬川先生が独りで聴かれていくように感じてしまう。