Archive for category Pablo Casals

Date: 4月 30th, 2020
Cate: Pablo Casals, ディスク/ブック

カザルスのモーツァルト(その2)

パブロ・カザルス指揮によるモーツァルトを聴いていると、
「細部に神は宿る」について、あらためて考えさせられる。

なにもモーツァルトでなくてもいい、
カザルス指揮のベートーヴェンでもいい、シューベルトでもいい、
私にとって指揮者カザルスによって生み出された音楽を聴いていると、
これこそ「細部に神は宿る」と実感できる。

「細部に神は宿る」ときいて、どんなことを思い浮べるか。
細部まで磨き上げた──、そういったことを思い浮べる人が多いかもしれない。

そういう人にとって、カザルスが指揮した音楽は、
正反対のイメージではないか、と思うかもしれない。

丹念に磨き上げられ、キズひとつない──、
そういった演奏ではない。

それなのに「細部に神は宿る」ということを、
指揮者カザルスの音楽こそ、そうだ、と感じるのは、
すみずみまで、血が通っているからだ。

太い血管には血が通っていても、
毛細血管のすべてにまで十分に血が通っているわけではない、ときく。

毛細血管の端っこまで値が通っていなくとも、
指先の手入れをきちんとやり、爪も手入れも怠らない。
そういう演奏は少なくない。

そういう演奏を「細部に神は宿る」とは、私は感じない。

カザルスの音楽は、そうじゃない。
毛細血管の端っこまで充分すぎるくらいの血が通っている。

Date: 4月 20th, 2020
Cate: Pablo Casals, ディスク/ブック

カザルスのモーツァルト(その1)

こういう状況下で、どういう音楽を聴くのか。

グレン・グールドはコンサート・ドロップアウトした。
グレン・グールドは演奏家として、コンサート・ドロップアウトをした。

こういう状況下は、聴き手がコンサート・ドロップアウトしている、ともいえる。
もちろんコンサートが中止、もしくは延期になっている。

主体的なコンサート・ドロップアウトとはいえないかもしれないが、
こういう状況下が続く、もしくはくり返すことになれば、
聴き手の、主体的なコンサート・ドロップアウトもあたりまえのことになっていくのか。

こういう状況下で、どういう音楽を聴くのか──、
ひとによって違っていることだろう。

耳あたりの良い音楽を、こういう状況下だから聴く機会が増えた、という人もいるだろう。
不安を癒してほしい、そういう音楽を選ぶ人もいるだろう。
それまでとかわりなく──、という人もいよう。

カザルスのモーツァルトを聴いた。
指揮者カザルスのモーツァルトを聴いた。

ぐいぐいと押しだしてくるカザルスによるモーツァルトの音楽を聴いていると、
こういう状況下だからこそ、カザルスによる音楽を聴きたい、という、
裡なる声に気づく。

優美な音楽、優美な表現、優美な音、
優美さこそ──、という音楽の聴き手には、
カザルスによる音楽は、野暮に聴こえてくることだろう。

いまどきのオーディオは、カザルスの剛毅な音楽を鳴らせなくなりつつあるのかもしれない。

優美な音楽、優美な表現、優美な音は、
ほんのいっとき、聴き手をなぐさめてはくれよう。
けれど、そこに祈りはない。

Date: 10月 6th, 2017
Cate: Pablo Casals

「鳥の歌」を聴いて

10月3日に「鳥の歌」を書いた。
翌日はaudio wednesdayだった。

Aさんが、「ホワイトハウス・コンサート/カザルス」のCDを持ってこられた。
私がずっと以前に聴いたときはLPだった。

CDで聴くのは初めてだったし、
前回聴いたのはいつだったのか、もう憶い出せないほどに年月が経っている。

こんなにも感じ方が変ってきたのか、と思うほどに、
記憶にある聴こえ方とは大きく違って聴こえた。

黒田先生が「音楽への礼状」で書かれていることを、心の中でくり返す。
     *
大切なことを大切だといいきり、しかも、その大切なことをいつまでも大切にしつづける、という、ごくあたりまえの、しかし、現実には実行が容易でないことを、身をもっておこないつづけて一生を終えられたあなたのきかせて下さる音楽に、ぼくは、とてもたくさんのことを学んでまいりました。
     *
大切なことを大切だといいきる、こと。
どれだけの人が実行しているのだろうか。
大切なことに新しいも古いもない。
そんなことさえ、いまでは忘れられているような気さえする。

大切なことをいつまでも大切にしつづける、
ということはそれだけの時間が経っている。
大切なことが新しいわけがない。

Date: 10月 3rd, 2017
Cate: Pablo Casals

「鳥の歌」

カタルーニャの独立がニュースになっている。
     *
 あなたの録音なさったディスクではほとんどかならず、演奏中のあなたによって発せられる呻き声をきくことができます。「わたしの生まれ故郷であるカタロニアの鳥たちは、ピース、ピース、と鳴きます」とおはなしになってから演奏なさったと伝えられているホワイトハウスでの「鳥の歌」でも、あなたの呻き声がきかれます。きっと、あのときのあなたの呻き声は、平和を願うあなたの祈りが、あなたの大きな胸にあふれ、こぼれ落ちるときにもたらしたものにちがいありませんでした。
 ぼくは、あなたがホワイトハウスで演奏なさった「鳥の歌」をきくと、いつでも、万感胸に迫り、なにもいえなくなります。これが音楽だ、と思い、同時に、これはすでに音楽をこえた祈りだ、とも思います。あの「鳥の歌」は、真に剛毅なペガサスだけにうたえた祈りの歌でした。
 ホワイトハウスでの「鳥の歌」をおさめた「ホワイトハウス・コンサート/カザルス」のディスクには、当時のアメリカ大統領ジョン・F・ケネディとか、あるいは行儀わるく足をなげだしているジャクリーヌといったひとたちからなる聴衆の拍手にこたえ、チェロを片手に頭をさげているあなたの写真が、掲載されています。一九六一年の十一月十三日、あなたはあの日、特別の事情があってホワイトハウスで演奏をなさったのでしたね。「鳥の歌」はそのコンサートの最後に演奏されました。
 それから半年もたっていない一九六二年の三月二十二日、アメリカに支援された南ベトナム軍はベトコン・ゲリラ掃討の目的でサンライズ作戦を開始しました。それをきっかけに、あなたの平和への祈りも虚しく、あの不幸なベトナム戦争がはじまりました。あなたが平和への祈りをこめて切々とうたった「鳥の歌」も、時のアメリカ大統領にとっては、馬の耳に念仏でしかなかったのです。あなたは、ホワイトハウスで、頭などさげる必要はなかった、と思い、あの写真をみるたびに、ぼくは、柄にもなく義憤を感じてしまいます。
 しかし、さいわいにして、ぼくらは、誰にもまして誠実に音楽で自己を語りつづけられたあなたの剛毅な音楽を、そのホワイトハウスでの「鳥の歌」もふくめ、残されたディスクできくことができます。あなたがあなたの楽器であるチェロでひかれたバッハやベートーヴェンはもとより、指揮をされたモーツァルトやシューベルトをきけば、ぼくは、音楽のむこうに、雷霆をはこんで空を飛ぶペガサスをみて、その勇気に鼓舞され、おのれのうちの軟弱を追放することができそうに思えてきます。
 大切なことを大切だといいきり、しかも、その大切なことをいつまでも大切にしつづける、という、ごくあたりまえの、しかし、現実には実行が容易でないことを、身をもっておこないつづけて一生を終えられたあなたのきかせて下さる音楽に、ぼくは、とてもたくさんのことを学んでまいりました。
     *
黒田先生の「音楽への礼状」から書き写した。