カザルスのモーツァルト(その7)
いろんな指揮者のモーツァルトの演奏を聴いていると、
ふと、こんな演奏じゃなくて……、と思ってしまうときがある。
そういう時に聴きたくなるモーツァルトは、きまってカザルス指揮のモーツァルトである。
そして、もうひとりフリッツ・ライナーのモーツァルトである。
ライナー/シカゴ交響楽団によるモーツァルトを聴いていると、
これこそがモーツァルトだ、と心でつぶやいている。
カザルスのモーツァルトもそうなのだが、こういうモーツァルトは聴けそうで聴けない。
ライナー/シカゴ交響楽団のモーツァルトの交響曲を聴く、ずっと前に、
ライナー/メトロポリタン歌劇場による「フィガロの結婚」を聴いていた。
録音は、私が手に入れたCDはかなり悪かった。
それでも演奏は素晴らしかった。
五味先生はカラヤンの旧録音(EMIでのモノーラル)を高く評価されていた。
五味先生はライナーの「フィガロの結婚」は聴かれていないのか。
「フィガロの結婚」の記憶があるから、
ライナー/シカゴ交響楽団のモーツァルトには期待していた。
期待は裏切られるどころか、こちらの勝手な期待を大きくこえたところで、
モーツァルトのト短調が鳴り響いていた。
五味先生の表現を借りれば、
《涙の追いつかぬモーツァルトの悲しい素顔》が浮き上ってくる演奏とは、
ライナーやカザルスの演奏のような気がしてならない。