Archive for category コントロールアンプ像

Date: 6月 16th, 2023
Cate: コントロールアンプ像

コントロールアンプと短歌(その13)

私がオーディオに関心をもち始めたころ、
1970年代後半には、チューナー付きのコントロールアンプが存在していた。

チューナーとプリメインアンプが一対になったものはレシーバーと呼ばれ、
一時期はそこそこのモデルが用意されていた。
日本でもそうだったけれど、アメリカやヨーロッパでは、もっと多くのモデルが用意されていた。

けれどチューナー付きのコントロールアンプとなると、少ない。
他にもあったのかもしれないが、
私の記憶にあるのはナカミチの630とマッキントッシュのMXで始まる型番のモデル、
それからブラウンのCES1020くらいだ。

需要がなかったから──、といわれればそれまでなのだが、
いまの時代になってみると、チューナー付きのコントロールアンプのことが気になってくる。

この項では、コントロールアンプのバラストとしての機能をふくめて書いている。
バラストなのだから、時代によって、その形態は変化していくのかもしれない。

TIDALを始めとして、ストリーミングで音楽を聴くことが浸透していくことで、
コントロールアンプのバラストとしての形態は、
チューナー付きコントロールアンプ的な製品が登場するのかもしれない、と思わせる。

Date: 1月 23rd, 2023
Cate: コントロールアンプ像

コントロールアンプと短歌(その12)

アキュフェーズのDC300は、1996年、
DC330は1999年に登場している。

DC300とDC330の違いはいくつもあるが、
まず大きな違いとして挙げられるのは、DC330はアキュフェーズ独自のHS-Linkを搭載、
DP100と組み合わせることでSACDの再生が可能になっていることだ。

同時に、対応サンプリング周波数も、DC300は32kHz、44.1kHz、48kHzだけだったが、
DC330では、32kHz、44.1kHz、48kHz、88.2kHz、96kHz、176.4kHz、196kHz、2.824MHzと、
時代にそった拡大がはかられている。

DSDが2.824MHzだけなのは、1999年なのだからしかたない。
いまアキュフェーズがDC330の後継機を開発すれば、
DSDの対応サンプリング周波数は11.2MHzまで、となるはずだ。

同時に思うのは、機能的にDC330とどう違ってくるのだろうか、だ。
1999年当時は、TIDALはまだなかった。
ストリーミングで本格的に音楽を聴く時代ではなかった。

いまは違う。
となると、デジタル・コントロールアンプにはハブ機能が求められるのか。
この点を考えていく必要がある。

Date: 1月 20th, 2023
Cate: コントロールアンプ像

コントロールアンプと短歌(その11)

最初は、新たなタイトルをつけて書き始めようと考えていたことを、
ここで書いていくことにした。

昨晩、アキュフェーズのモデルが四機種やってきたことは、すでに書いているとおりだ。
その中に、DC330がある。

DC330は、アキュフェーズが1999年に発表したデジタル・コントロールアンプだ。
DC330が、アキュフェーズ初のデジタル・コントロールアンプではない。
1996年にDC300を発表している。

私にとって、DC330は自分のモノとして使う初めてのデジタル・コントロールアンプである。
なにをもってデジタル・コントロールアンプというのか。
D/Aコンバーターを搭載していれば、そういえるのか。

デジタル入力をもつだけでも、そういえないことはないけれど、
ここでのデジタル・コントロールアンプは、
もっと積極的な意味でのデジタル・コントロールアンプとして、である。

となると、まず私が触れた最初のモデルは、
ヤマハCX10000となる。1986年に登場している。

このころは、まだステレオサウンドで働いていたから、 CX10000はじっくり触ったし、
音もけっこうな時間、聴くことができた。
けれど、その時の私の意識として、CX10000をデジタル・コントロールアンプとしては捉えていなかった。

かといってD/Aコンバーターを搭載しただけの安易な製品と感じたわけでもなかった。
CX10000は意欲作といえた。
それでも、いまふりかえってみても、やはりデジタル・コントロールアンプとは感じていない。

1986年といえば、まだSACDはなかった。
デジタルのプログラムソース機器といえば、CDプレーヤーのみで、
DATの登場は1987年である。

そういう時代のCX10000だから、
もし登場が数年あとになっていたら、コンセプトはかなり違っていたかもしれない。

Date: 3月 25th, 2022
Cate: コントロールアンプ像

パッシヴ型フェーダーについて(その8)

グラフィックイコライザーとはまったく関係のないことと思われるだろうが、
ステレオサウンド 54号の瀬川先生の文章を読んでほしい。
     *
 本誌51号でも、計画の段階で、いわゆるライブな残響時間の長い部屋は本当に音の細かな差を出さないだろうか、ということについて疑問を述べた。あらためて繰り返しておくと、従来までリスニングルームについては、残響時間を長くとった部屋は、音楽を楽しむには響きが豊かで音が美しい反面、細かな音の差を聴き分けようとすると、部屋の長い響きに音のディテールがマスクされてしまい、聴き分けが不可能だといわれていた。細かな音をシビアに聴き分けるためには、部屋はできるだけデッドにした方がよい、というのが定説になっていたと思う。たとえば、よいリスニングルームを定義するのに、「吸音につとめた」というような形容がしばしば見受けられたのもその一つの証明だろう。
 現実にごく最近まで、いや現在、または近い将来でさえも、音を聴き分け判断するためのいわゆる試聴室は、できるかぎりデッドにつくるべきだ、という意見が大勢をしめていると思う。しかしそれならば、決して部屋の響きがデッドではない、一般家庭のリビングルームなどを前提として生み出される欧米の様々な優れたスピーカーやアンプやその他の音響機器たちが、何故あれほどバランスのよい音を出すのだろうか……。なおかつそれを日本の極めてデッドなリスニングルーム、つまり、アラを極めて出しやすいと信じられているリスニングルームで聴いても、なおその音のバランスのよさ、美しさ失わないか、ということに疑問を持った。その結果、部屋の響きが長い、ライブな空間でも、音の細かな差は聴き分けられるはずだと確信するに至った。部屋の響きを長くすることが、決して音のディテールを覆いかくす原因にはならない。また、部屋の響きを長くしながら、音の細かな差を出すような部屋の作り方が可能だという前提で、この部屋の設計を進めてきた。
 部屋の響きを美しくしながら、なおかつ音の細かな差をよく出すということは、何度も書いたことの繰り返しになるが、残響時間周波数特性をできるだけ素直に、なるべく平坦にすること。つまり、全体に残響時間は長くても、その長い時間が低域から高域まで一様であることが重要だ。そして減衰特性ができるかぎり低域から高域まで揃っていて、素直であるということ。それに加えて、部屋の遮音がよく、部屋の中にできるかぎり静寂に保つ、ということも大事な要素である。ところでこの部屋を使い始めて1年、さまざまのオーディオ機器がここに持ち込まれ、聴き、テストをし、仕事に使いあるいは楽しみにも使ってみた。その結果、この部屋には、音のよいオーディオ機器はそのよさを一層助長し、美しいよい音に聴かせるし、どこかに音の欠点のある製品、ことにスピーカーなどの場合には、その弱点ないしは欠点をことさらに拡大して聴かせるというおもしろい性質があることに気がついた。
 これはおそらく、従来までのライブな部屋に対するイメージとは全く正反対の結果ではないかと思う。実際この部屋には数多くのオーディオの専門の方々がお見えくださっているが、まず、基本的にこれだけ残響の長い部屋というのを、日本の試聴室あるいはリスニングルームではなかなか体験しにくいために、最初は部屋の響きの長さに驚かれ、部屋の響きにクセがないことに感心して下さる。反面、たとえば、試作品のスピーカーなどで、会社その他の試聴室では気づかなかった弱点が拡大されて聴こえることに、最初はかなりの戸惑いを感じられるようである。特にこの部屋で顕著なことは、中音域以上にわずかでも音の強調される傾向のあるスピーカー、あるいは累積スペクトラム特性をとった場合に部分的に音の残るような特性をもったスピーカーは、その残る部分がよく耳についてしまうということである。
 その理由を私なりに考えてみると、部屋の残響時間が長く、しかも前掲のこの部屋の測定図のように、8kHzでも1秒前後の非常に長い残響時間を確保していることにあると思う(8kHzで1秒という残響時間は大ホールでさえもなかなか確保しにくい値で、一般家庭または試聴室、リスニングルームの場合には0・2秒台前後に収まるのが常である)。高域に至るまで残響時間がたいへん長いということによって、スピーカーから出たトータル・エネルギーを──あたかもスピーカーを残響室におさめてトータル・パワー・エナジーを測定した時のように──耳が累積スペクトラム、つまり積分値としてとらえるという性質が生じるのではないかと思う。普通のデッドな部屋では吸収されてしまい、比較的耳につかなくなる中域から高域の音の残り、あるいは、パワー・エネルギーとしてのゆるやかな盛り上りも、この部屋ではことさら耳についてしまう。従って非常にデッドな部屋でだけバランス、あるいは特性を検討されたスピーカーは、この部屋に持ち込まれた場合、概してそれまで気のつかなかった中高域の音のクセが非常に耳についてしまうという傾向があるようだ。いうまでもなく、こういう部屋の特性というのは、こんにちの日本の現状においては、かなり例外的だろう。しかしはっきりいえることは、これまで世界的によいと評価されてきたオーディオ機器(国産、輸入品を問わず)は、この部屋に持ち込むと、デッドな部屋で鳴らしたよりは一層美しく、瑞々しい、魅力的な音で鳴るという事実だ。
 つまりこの部屋は、オーディオ機器のよさも悪さも拡大して聴かせる、というおもしろい性質を持っていることが次第にわかってきた。
(「ひろがり溶け合う響きを求めて」より)
     *
グラフィックイコライザーを菅野先生と同じレベルで使いこなせれば、
同じことがいえる。
もちろんグラフィックイコライザーをどんなに調整したところで、
リスニングルームの残響特性が変化するわけではない。

けれどうまく部屋のクセを補整していくことで、
オーディオ機器の音の違いは、よりはっきりと聴きとれるようになる。

Date: 3月 25th, 2022
Cate: コントロールアンプ像

パッシヴ型フェーダーについて(その7)

グラフィックイコライザーを、
本当の意味で使いこなされていたのは、私の知るかぎりでは菅野先生だけである。

他にも、菅野先生と同じレベルで使いこなしている人は、きっといよう。
でも、私が知るかぎり、私が音を聴いている範囲では菅野先生だけ、といえる。

知人でグラフィックイコライザーの有用性を以前から唱えている人がいる。
彼のグラフィックイコライザー歴は、菅野先生ほどではないにしても、そこそこ長い。
それに各社さまざまなグラフィックイコライザーを使ってもいる。
けれど、その使い方(目的)はずいぶんと違う。

結果として、出てくる(鳴ってくる)音は、大きく違っている。
部屋が違い、スピーカーが違い、アンプその他も違うから──、
ということでの音の違いではない。

グラフィックイコライザーの使い方の違いによる音の違いが、
顕著にそこにはある。

知人は、彼によってイヤな音を出したくないためのグラフィックイコライザーである。
もちろんそればかりではないのだろうが、
第一にグラフィックイコライザーを使う理由は、そうである──、
そうとしか感じられない音でしかない。

私だけがそう感じたのではなく、
グラフィックイコライザーを通した音、パスした音、
両方の音を聴いた人は、そう感じていたし、
グラフィックイコライザーを通した音だけを聴いた人でも、そう感じた人がいる。

知人の使い方が間違っている、とはいわないまでも、
グラフィックイコライザーを積極的に使っている、というだけで、
菅野先生と知人を同じに捉えてはいけない。

Date: 3月 24th, 2022
Cate: コントロールアンプ像

パッシヴ型フェーダーについて(その6)

完璧なリスニングルームも完璧なスピーカーシステムも、
いまのところ存在していない。

完璧でないリスニングルームに、完璧でないスピーカーシステムを置く。
つまりリスニングルームとスピーカーシステムの相性によっては、
クセの強い音、特に低音が鳴ってくることもある。

そういう場合にどうするのか。
リスニングルームを建て替えることができれば、それが一番の解決法だが、
多くの人がやれる方法ではないし、建て替えたリスニングルームにおいては、
また別の相性の問題が発生するかもしれない。

ならばスピーカーシステムを買い替えるのか。
リスニングルームの建て替えよりは、ずっと現実的なのだが、
そのスピーカーシステムがずっと憧れてきて、やっと手に入れたモノであれば、
そんなに簡単に買い替えできるわけでもない。

リスニングルームの建て替えもスピーカーシステムの買い替えもダメだとしたら、
ルームチューニング、音響パネルと呼ばれている製品を、あれこれ買ってきては試すのか。

うまくいけば効果は十分得られるだろう。
市場にはいくつもの音響パネルがある。

こんなに効くのか、と驚くモノもある。
けれど、中にはそうではないモノもある。
それにこれらの製品の外観も、また無視できない。

その見た目が許せるモノとそうでないモノとがあるし、
どんなに効果があるとわかっていても、そういった製品で壁を埋め尽くそうとは思わない。

選択肢はまだある。
グラフィックイコライザーである。

Date: 3月 23rd, 2022
Cate: コントロールアンプ像

パッシヴ型フェーダーについて(その5)

パラメトリックイコライザー、グラフィックイコライザーの存在に否定的な人は、
コントロールアンプとパワーアンプ間に、
これらのイコライザーを接続した場合の音、
これらを省いてダイレクトに接続した音を比較して、
ほら、これだけ音が変るだろう──、といったりする。

接続ケーブルだけでも音は変るし、
アンプの置き方、置き台によっても音は変るくらいなのだから、
これらのイコライザーを挿入すれば、もちろん音は変る。
変らない方がおかしい、ともいっていい。

ここでの「変る」は、否定的な人にとっては、
音質の劣化を意味している。

劣化した音は、どうやっても回復させることはできない──、
というのは、確かに事実であるわけだが、
ここで重要なのは、パラメトリックイコライザーにしても、
グラフィックイコライザーにしても、使いこなしてこその評価であるべき、ということだ。

1/3オクターヴのグラフィックイコライザーは、一朝一夕に使いこなせるものではない。
測定器をもってきて、周波数特性を測って、それがフラットになれば、
使いこなした、といえるものではない。

ピークのある周波数のところをグラフィックイコライザーで減衰させたり、
ディップのあるところを持ちあげたりする──、
そういう認識では、いつまで経っても使いこなせるようにはならない。

つまりイコライザー類の評価には、そうとうな時間を要するし、
そのうえで、本当に音質は劣化するのかどうかを検討すべきである。

Date: 3月 22nd, 2022
Cate: コントロールアンプ像

パッシヴ型フェーダーについて(その4)

パッシヴ型フェーダーを用いることでコントロールアンプを使わない、
そんな選択の対極にあるのが、コントロールアンプを使うに留まらず、
コントロールアンプとパワーアンプ間に、
パラメトリックイコライザーやグラフィックイコライザーを挿入する、というのがある。

ここでのコントロールアンプはトーンコントロール付きと考えてもらってもいい。
周波数特性をいじる機能が、いくつもあるシステム構成は、
パッシヴ型フェーダーを使い、そういった機能を省略したシステム構成と比較すれば、
音の鮮度という点では、不利といえば不利なのだが、
ここで考えたいのは、そういった機能を使いこなした場合においてでも、
不利といえるのか、である。

瀬川先生はトーンコントロールがないコントロールアンプは、
使う気になれない、と公言されていた。

長島先生はトーンコントロールを否定されてはいなかったけれども、
トーンコントロールをどんなにうまく使おうとも、本質は変化しない──、
そういう考えをされていた。

菅野先生は、積極的にシステムにイコライザー類をとりいれられていたし、
その使いこなしに、そうとうな情熱と時間を費やされていた。

瀬川先生が、ステレオサウンド 53号でマークレビンソンのML6について書かれている。
ML6は音の純度を追求するために、コントロールアンプにも関わらずモノーラル構成で、
入力セレクターとレベルコントロールのみというつくりである。
     *
 だいたいこのML6というアンプは、音質を劣化させる要素をできるだけ取り除くという目的から、回路の簡素化を徹底させて、その結果、使いやすさをほとんど無視してまで、こんにちの技術水準の限界のところでの音質の追求をしている製品だけに、そういう事情を理解しない人にとっては、およそ使いにくい、全く偏屈きわまりないプリアンプだ。個人的なことを言えば、私はレコードを聴くとき、できればトーンコントロールが欲しいほうだから、本来、こんな何もないアンプなど、使う気になれないというのが本心だ。
 そうでありながら、このML6の鳴らす音を一度耳にした途端から、私はすっかり参ってしまった。なにしろおそろしく透明で、素直で、音の表情を素晴らしくナイーヴに、しなやかに、鳴らし分ける。どこか頼りないくらい柔らかな音のように初めのうちは感じられるが、聴いているうちに、じわっとその音のよさが理解されはじめ、ふわりと広がる音像の芯は本当にしっかりしていることがわかる。こういう音を鳴らすために、いまの時点でこういう使いにくさがあるとしても、こりゃもう仕方ないや、と、いまやもうあきらめの心境である。
     *
ML6の音は、
《おそろしく透明で、素直で、音の表情を素晴らしくナイーヴに、しなやかに、鳴らし分ける》、
これを読んで、ML6に憧れた時期が私にもある。

このころ10代だった人は、ML6に特別な感情をもつ人が少なくないように、
いまも感じている。

いま読み返して再確認したのは、ここには鮮度という単語がないことだ。

Date: 3月 8th, 2022
Cate: コントロールアンプ像

パッシヴ型フェーダーについて(その3)

パッシヴ型フェーダーを構成する部品の数は少ない。
ポテンショメーター(フェーダー)、筐体、入出力端子、内部配線材、ツマミ、
それからセレクターが必要であれば、これもである。

パッシヴ型フェーダーにくらべて、コントロールアンプとなると、
構成する部品の数は桁が一つではなく、二つ以上に多くなる。

部品の数は増やそうと思えば、かなり増えてくるものだ。
部品の数が多ければ、そのコントロールアンプが高性能かといえば、
そんなことはない。

部品の数によって、そのコントロールアンプの性能が決定されるわけではない。
とにかくコントロールアンプには、非常に多くの部品が使われている。

(その2)で、パッシヴな部品であっても、プリミティヴな部品であっても、
何かが失われ、何かが加わる、と書いた。

部品の数が少ない方が、何かが失われ、何かが加わることに関しては優位であり、
コントロールアンプよりもパッシヴ型フェーダーが、
その点に関しては優位といえば優位のはずなのだが、
実際にパッシヴ型フェーダーとコントロールアンプ(といってもピンキリなのだが)、
音の夾雑物が少ないといえるのは、確かにパッシヴ型フェーダーなのだが、
部品の数の多さのわりには、コントロールアンプもまた優秀といえる面もある。

なので、時々こんな妄想をしてみることがある。
コントロールアンプの部品は、それぞれに何かが失われ、何かが加わるを、
互いにうまく補っているようなところがあるのではないだろうか。

すべてのコントロールアンプで、そんなふうに感じるわけではないが、
優秀なコントロールアンプを聴いていると、こんな妄想をしている。

Date: 3月 6th, 2022
Cate: コントロールアンプ像
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パッシヴ型フェーダーについて(その2)

別項「情景(その5)」に、tadanoさんからのコメントがあった。
鮮度についてのコメントである。
かなり長いので、ここでは引用しないがぜひ読んでもらいたい。

Tadanoさんのコメントの終りに、
パッシヴ型フェーダーを使うことでコントロールアンプを排除したり、
信号経路の短縮化による音の変化についてのメリット、デメリットについて、
私の意見をきかせてほしい、とある。

なので、この項のタイトルを少しばかり変更して、十年以上経っての(その2)である。
その1)は、2008年9月に書いている。

プリメインアンプのトーンコントロール回路をバイパスしたり、
パッシヴ型フェーダーを使うことで、CDプレーヤーとパワーアンプを結ぶ。

そうすることでの音の変化は、一般的には鮮度があがる、というふうに表現されることが多い。
ほんとうに鮮度があがるのか、鮮度があがる、という表現が適切なのか、ということでいえば、
音の夾雑物が減る、といったほうがいいと私は考えている。

オーディオは、信号が何かを通るごとに、何かが失われ、何かが加わる。
ケーブルであっても、コネクターであっても、
パッシヴな部品であっても、プリミティヴな部品であっても、
何かが失われ、何かが加わる。

これは、少なくとも私が生きている間は、変ることはないはずだ。

Date: 12月 27th, 2021
Cate: コントロールアンプ像

コントロールアンプと短歌(その10)

その9)は、2019年9月8日に書いている。
この六日後(14日)に、メリディアンの218を導入した。

しばらくはCDプレーヤーのデジタルアウトとの接続で使っていた。
2019年12月ごろから、e-onkyoを活用するようになってきた。

そして2020年11月、TIDALを使い始めるようになった。
2021年は、どっぷりTIDALとの一年だった、といえる。

そうなるとCDプレーヤーを使う頻度が大きく減った。
所有しているすべてのCDをリッピングしているわけではないが、
大半はリッピングしているから、それらのアルバムを聴く際には、
CDプレーヤーを使う必要はない。

この数ヵ月、CDプレーヤーに触れていない。
それでも音楽生活は、TIDALのおかげで充実している。

アナログプレーヤーは三台ある。
こちらはCDプレーヤー以上に稼働していない。

MQA登場以前、MQAをメリディアンのULTRA DACで聴くまでは、
アナログディスクならではの音も、時には愉しみたい、と考えていた。

それがMQAのおかげで、そう思うことが減っている。

どういうことかというと、五年後、十年後のことまではなんともいえないが、
少なくともこれからの数年間は、CD、LPといったパッケージメディアに頼らなくとも、
私の場合は、充分に音楽に浸れることだけは確かだ。

極端な話、目の前からCDプレーヤーとアナログプレーヤーが消えてもかまわない。
手離すということではない。
とりあえずどこかにしまっておく。
そういう数年間があっても、何かを失ったとは感じないのではないだろうか。

別項で、オーディオシステムの中心はどこか、と書いている。
コントロールアンプだと私は考えているわけだが、
いままで私が思い描いてきたコントロールアンプとは、
その傍らにアナログプレーヤーがあり、CDプレーヤーがあり、
さらにはチューナーやテープデッキがあってのコントロールアンプ像であった。

ところがこの二年間で、そういったオーディオ機器がとりあえずなくなっても、
過不足なく、というよりも、それまで以上に音楽を聴いていける、
ということを経験してきている。

だから、このへんから、
そういう時代をふまえてのコントロールアンプ像を考えていく必要があるし、
コントロールアンプのバラストとしての機能についても考えていきたい。

Date: 9月 8th, 2019
Cate: コントロールアンプ像, デザイン

コントロールアンプと短歌(その9)

別項「ある写真とおもったこと(その12)」で、
録音された音楽の共通体験ということでは、
CD、CDプレーヤー以上に、一歩も二歩も押し進め、活かしたのがiPodだ、と書いた。

iPodといっても、かなり世代を重ねているし、ヴァリエーションもある。
それに、いまではiPodではなくiPhoneにとって代られている。

iPodといっても,そこに音の違いがまったくないわけではないし、
付属のイヤフォンにしても変ってきているし、
同時代のイヤフォンにしても、製造工場が複数あって、
音が同じというわけではない、というウワサもきいている。

CDをリッピングしてiPodで聴く。
すべてが同じ音で鳴っているわけではないが、
それでもアナログディスクをアナログプレーヤーで再生した音の違いの大きさからすれば、
ほとんどないものということだってできる。

つまりiPodは、CDとCDプレーヤーの登場によってスペックの画一化されたのを、
音のうえでも画一化していった、といえる。

CDプレーヤーは、スペックは基本的に同じでも、
ローコストの製品と最高性能をめざした製品とでは、音は大きく違う。

しかもCDプレーヤーの先には、アンプがあり、スピーカーがあり、
部屋の違い、鳴らし手の違いなどがあり、実際に鳴ってくる音は、
元のスペックが同じとは思えぬほどの違いを聴かせるのも事実である。

iPodは、そこが違う。
それを意図していたのかそうでないのかはわからないが、結果としてそう見える。
しかもiPodと付属のイヤフォンの普及は、
CDとCDプレーヤーが成し遂げられなかった(あえてこう書いている)領域で、
画一化といえるほどの音楽の共通体験を、ほぼ実現している。

このことは、ものすごいことであり、
だからこそ、その画一化(抑圧)から逃れたい、と思う(願う)人が出てくる。

いまのヘッドフォン、イヤフォンのブームの根っこは、
そのへんにあるようにも感じている。

Date: 9月 7th, 2019
Cate: コントロールアンプ像, デザイン

コントロールアンプと短歌(その8)

1982年に登場したCDとCDプレーヤーの登場は、
現象として捉えてみると、オーディオに画一化をもたらした、といえるのではないか。

CDの規格は、サンプリング周波数が44.1kHzで、量子化数は16ビットである。
一体型のプレーヤーであっても、セパレート型のプレーヤーであっても、
この点はまったく同じである。

さらには一万円程度で買えるローコストのCDプレーヤーであっても、
百万円、さらにもっと上の価格帯のCDプレーヤーであっても、
そのスペックはCDの規格によって制約されているから、
基本性能としては、同じといえる。

さらには再生の、この規格は、
録音側のスペックにもなっていった。

CD登場以前の、レコード会社はそれぞれにデジタル録音を研究・実験、
実用化に向けていた。

サンプリング周波数もまちまちだった。
16ビットもあれば14ビットもあった。

それがCD登場により、44.1kHz、16ビットに統一されてしまった。

CDというフォーマットの登場は、画一化である。

画一化には、抑圧という側面もある。
規格というものは、すべてそうなのかもしれないが、
それでもアナログ時代の規格と、デジタル時代の規格とでは、
画一という点では、ずいぶん違う。

画一化は浸透した。
浸透したからこそ、それを抑圧と感じる人が出ていた、とは考えられないだろうか。

アナログディスクのブーム、さらにはカセットテープのブーム、
そういったことを何かで目にする度に、
ブームの理由は一つではないはずだが、
それでも抑圧からの逸脱行為として、アナログディスクの選択、
カセットテープの選択があるようにも思うのだ。

Date: 9月 7th, 2019
Cate: コントロールアンプ像, デザイン

コントロールアンプと短歌(その7)

コントロールアンプにはバラストの役割がある、と(その6)で書いた。
つまりコントロールアンプは、秩序の象徴である。

「プリメインアンプとしてのデザイン、コントロールアンプとしてのデザイン」で、
コントロールアンプとプリメインアンプのデザインの違い、
それも本質なところでの違いはなんなのかについて考えている。

まだまだ考えていかなければならない、と思っているが、
コントロールアンプは秩序の象徴である、
これはいまのところの一つの結論である。

秩序の象徴であるコントロールアンプを、
CDとCDプレーヤーの登場によって、一部ではコントロールアンプ不要論が起ってきた。

一つの試みとして、コントロールアンプを省いて、
パッシヴ型のフェーダーを使うというのは理解できる。

パッシヴ型フェーダーを試して、どう思ったのか、どう考えたのか。
コントロールアンプはもう要らない、となったのかと、
やはりコントロールアンプは必要、となったのか。

どちらが正しいというよりも、
そこでコントロールアンプの役割を、どれだけ理解したか、ではないのか。

と同時に、CDプレーヤーの定格出力が2Vと高くなければ、
コントロールアンプ不要論は出てこなかったのか、についても考えてみる必要はある。

Date: 7月 5th, 2018
Cate: コントロールアンプ像

コントロールアンプと音量設定の関係(その1)

audio wednesdayで、マークレビンソンのLNP2を鳴らしたのは昨晩で三回目。
ステレオサウンドの試聴室にも、それ以前のリファレンスとしてLNP2があった。

何度か試聴室で鳴らしたことがある。
そのころはさほど強く意識してこなかったことを、
長いブランクをはさんで、いまLNP2にこうやって触れると感じることがあった。

感じること、というより、自分の行動をふりかえって気づいたことがあった。
それは音量設定を、細かくやっている自分に気づく。

LNP2のブロックダイアグラムからわかるように、
左右独立のINPUT LEVELと、
いわゆるボリュウムにあたるOUTPUT LEVELの設定は、
物理的なS/N比に関係してくる。
それゆえに細かく調整する必要も出てくるのだが、
ここで書きたいのは、そういう理由ではなく、ツマミの形状、大きさ、感触、
レベルコントロールのツマミ周囲の表示、
そういった要素によって、積極的に(細かく)レベル調整をする気になる、ということだ。

個人的には径の大きなツマミは好まない。
ツマミじゃなくて、ニギリだろ、と悪態をつきたくなるような大きなツマミはイヤだ。

中に使われているポテンショメーターが同じなら、ツマミの径が大きい方が、
周囲の表示もより細かくできるのは頭でほかっていても、
なんとなく径が大きい(というか大きすぎると感じる)ツマミだと、
こんなところでいいかな、と逆になってしまう。

ではツマミの径がちょうどよい小ささならばいいのかというと、
例えばマッキントッシュのツマミとLNP2のツマミの径はそれほど変らない。

けれど、そこには感触の違いがまずある。