情景(その5)
実演に接して、その音を「鮮度が高い」という人は、まずいない。
少なくとも、私の周りにはそういう人はいないし、
いままでそう言った人もいない。
なのに再生音に関しては、鮮度の高い(低い)という。
音の鮮度をことさら気にする人、主張する人は、
このことに気づいていないのだろうか。
気づいていないということはないと思うのだけれども、
なのにすっぽり抜け落ちているかのように、鮮度の高さを気にしているようでもある。
昨晩、「再生音に存在しないもの(その2)」を書いたのは、
そのためである。
(その1)は、2008年9月に書いている。
フェルメールの「窓辺で手紙を読む女」をみてきたから、ということもあるのだが、
同じくらいに、鮮度の高い(低い)について書いてきていることもあって、だ。
再生音に存在しないものがあるからこそ、
鮮度を気にするのではないのか。
では、いったい再生音には何がないのか。
REPLY))
鮮度というと私の場合ですと、魚介の鮮度を思い浮かべます。
私はコントロールアンプを積極的に使うのが好きで、ほとんどのソースにおいて多かれ少なかれトーンコントロールを使用しています。
しかしながら、パワーアンプダイレクトなど段数の少なさから得られる恩恵も、オーディオの中にある一つの魅力であることは確かだと考えます。
私の場合ですと、録音と再生における経路の短さは、同音を奏でる2種類の楽器における基音のセパレーションの向上につながりやすい・・・という感じを、傾向として持っています。
音は現象ですから、楽器のピッチというのは揺らいでおります。ボーカルなどは特に揺らぎの多いセクションと言えるでしょう。ロックのギターや、ブルースにおけるハモニカなども同様でしょう。演奏家や歌手によっても揺らぎの質は異なります。これらのピッチの揺らぎを豊かに再生しようとすると、経路の短さは有利に働くことが多いように感じています。
この傾向は、ARやKLHなどを代表する米東海岸のスピーカーにも共通して感じられますし、AD再生においてはMM型のカートリッジにも感じられることです。
私の場合、ピッチの揺らぎについては、生音を聞く時が、最も鮮明に聞き分けられます。マイクのせいか、スピーカーのせいか、再生音ではこのあたりの聞き取りはくぐもって感じるものです。また、再生音では音の形も平板に見えます。
演奏者としては音感が優れているとは言いがたい私にとって、このことは、楽音の聴取に多少の問題を引き起こします。
反対に、パワーアンプ・ダイレクト(プリアンプを使用しない再生方法)の至らない点を指摘しますと、再生する音の傾向が、スタジオとは異なってしまうということです。通常とあまりに隔たった再生音というのは、エンジニアの本意を必ずしも伝えているとは言いがたいものです。もちろん「こんな風に再生されてエンジニア冥利に尽きる」と言われるような再生音もあると思います。
録音スタジオではDIやマイク・プリ、リバーブタンク、エフェクトを通ってミキシング・コンソールにたどり着きます。それらはミックスを経てパライコ、再生プリ、チャンネル・デバイダーという具合に、そこでは非常に多くの段を通った音を聞きながら音楽を作られています。好意的な解釈をするならば、これらは段を通るごとに音がピシッと整えられ、次の段に通過していくと言えるでしょう。また、そうあるべきだと私は思います。
一般的に録音では、楽譜をめくる音や、椅子の軋む音などが、実際よりも強調されて聞こえてしまいます。録音中、ボーカルは鼻で息をしてはなりません。まるでガムケースについたお菓子の笛のような音が、ピイピイと収録されてしまうからです。また、リップといって、潤いすぎた唇も、その音が異様に誇張される結果となりますので、歌手は十分気をつける必要があります。
録音用のヘッドホンやモニタースピーカーでは、あえてリップやブレスが強調される機材を使うときがあります。ノイズや異音の監視が目的です。これらは、けっして出来上がった音楽の音色や姿、グルーヴなどを監視するためのものではありません。
近年では宅録が主流となり、きちんとしたプレイバック用のモニターを使わない人が増えました。そのことについては、嘆かわしいばかりです。少し批判めいた話で恐縮なのですが、録音機材ばかりに目を奪われ、再生モニターに留意しない人が多すぎるように感じています。「自分は良い音で聴けなくとも良いから、良い音で録音したい・・・、良い音と言ってもらいたい・・・」そんな風に思っておられるのでしたら、それは危険なことだと思うのです。「録音機材さえ揃っていれば、相手(リスナー)には良い音で聞こえるだろう、きっと・・・」そういった考えに至っては、クリエイターとしてあまりにも主体性が希薄すぎると思うのです。
現代の音楽は再生する装置に依存するものです。そのような音楽を作ることにおいて、ミュージシャンがリスナーよりもスピーカーに頓着しないということは、すこし気にかかります。再生音はまずスピーカーが主人公ですから、ミュージシャンも再生音を吟味して然るべきだと思うのです。
スタジオでは、マイクを通した音を、何とか自然に聞こえるよう工夫しています。そこではプリアンプが大いに活躍します。特に近接した距離で聞くラージモニターは、いい距離感のプレゼンスが得られにくいものです。そういった時は、再生プリのトーン・コントロールを使ってプレゼンスをコントロールすると、優れた録音環境が作り出せます。これは、ぜひ一人でも多くの人に知ってもらいたいテクニックです。ミキサーにもトーンコントロールが付いていますが、これは各チャンネルに設けられたものですし、ミキシング・コンソールのトーンなどは、その表現力において限界があると言わざるをえません。そして、どのトーン・ポジションにおいても、各帯域が荒れないスピーカーとなると、これは、やはりマルチウェイ・スピーカーに軍配が上がると言えます。フルレンジユニットや、2ウエイ・スピーカーくらいですと、どうしても、トーンを思い切って使用したときに、低音用ウーハー・ユニットと、高音用ツイーター・スピーカー・ユニットとのクロスオーバー付近において、音がガサガサしたり、なんらかのメカニカルな響きが付帯してしまいます。そういった不具合が出ない場合は、今度はローエンド(重低音)をブーストできないとか、ハイエンド(とても高い高音域)が監視できないという状況に陥りがちです。ダンス・ナンバーを作曲するのにローエンドのブーストが効かないことはいただけない状況です。ディスコ・クラブでは大音量で盛大に低音が鳴っているからです。
3ウェイ以上のスピーカーですと、それが解消される可能性が一挙に高まります。ただし、クロスオーバーネットワークの回路が複雑になったりと、経路は長くなっていきますので、ある種鮮度が失われることは確かです。しかし、そうした微視的な鮮度ばかりに目を奪われるべきではないと私は思うのです。
映像の場合で考えてみましょう。広角レンズで撮影された人物像は、鼻が大きく映ります。目は小さく、頭頂部はさらに小さく写ってしまいます。悲しいことに美しい人ほど顔が崩れてしまいます。美のバランスは微妙であるというわけです。そういった理由で、局ではできるだけ大きなレンズを使って、それも十分な距離をとって望遠を焚いて撮影しているわけです。
そこらの民家のような撮影でも、ロケではなく、セットを作って撮る理由は、この距離を生むためといっても過言ではありません。それでも単眼効果や収差など、様々な問題が出てくるわけです。それに対する対応として、俳優やタレントには瞳の大きな人を採用し、彼らには極限まで顎を引いてもらって、メイクでは可能な限り髪を盛り上げて、いくつものレフ版を用い、そうした工夫によって、ようやくなんとなく見れる画を撮影できるわけです。
音声についても、こういったそもそもの技術的な悲しみというものが存在しています。先ほどスピーカーが主人公だと私は言いましたが、実のところ、ラウド・スピーカーというものは、今もってなお、楽器により異なる志向性や遠投性などを描ききることはできていません。これを補正するために、合奏ではいくつかのマイクを使って録音するわけです。それぞれにイコライジングや残響をほどこし、モニターによって再生音を聞きながら技師(ミキサー)がプレゼンスをデザインし、慎重にミックスダウンしていきます。そうすることで、ようやくなんとか聞ける音にしているわけです。
短絡させることによって得られる鮮度は、こういったオーディオの悲しみを必ずしも補正してはくれません。ダミーヘッドのペアマイク録音をイヤーホンで聞いても、音は頭に定位するだけで、美しいコンサートプレゼンスは得られないのです。私は、これがオーディオの最大の悲しみだと思っています。
私はエビが好きなのですが、活きクルマエビは濡らしたおがくずをエラに入れて輸送します。そうしたことによって鮮度が保たれるわけですね。何も施さないことが、かならずしも高い鮮度をもたらさないわけです。氷を入れて冷やしたり、季節によって調整したり、場合によっては完全に凍結させたり、その場合の解凍の仕方を変えたりなどしても、口にした時の舌触りや鮮度はというのは変わって感じられるわけです。
オーディオの場合マイクロフォンとラウド・スピーカーという既に2つの変数が存在していて、まずリスナーなり技師なりが、それを選び、それぞれ設置を詰めていくわけですね。再生音と言うのは、それに対しアンプなどでどう料理するかという世界に違いはないわけです。
アナログのビニール・ディスクの音は、そういった観点から見ると、非常に手間のかかった料理といえるのではないかと思います。録音したテープに更にイコライザーを通し、カッティングアンプに送り、マシンで盤に刻んでいくわけですね。そこからそれを複製し、工場で盤をスタンプしていきます。リスナーは、そうして出来上がったディスクを買ってきて、それをプレイヤーのカートリッジ(レコード針)で音溝をスクラッチして発音させ、それをヘッドアンプやRIAAイコライザーなどを通し、さらにラインアンプで増幅し、あるいは押し出し、トーンなどもコントロールしてパワーアンプへ送って、そのパワーアンプがスピーカーをドライブさせているわけです。マイクを通してから、そこに至るまでは、かなりの変数があるわけです。
そんな長い経路を通過して聞いているわけですが、アナログ・レコード・ディスクの再生音を聞くと、通常のデジタル録音では聞くことのできないようなリアルな倍音を感じることがあります。音の溝をスクラッチするというアナログな行為が、自然の摂理に従ったナチュラルな倍音を生み出しているのかもしれません。そうして、失われた倍音を復活させるがごとく得られた再生音は、短絡を追及したオーディオとはまったく異なる文化と言えなくはないでしょうか。
2024年に発売予定のアップルグラスが発売されると、それに伴ったマイクつきのイヤホン(アップル・ポッド/仮称)が併発されます。ほとんどの演算はクラウドで行われるため、非常に軽量でかけ心地がよく、6Gの時代にはアップル・グラスとアップル・ポッドを一日中つけた状態が人類のデフォルトとなります。2040年ごろの話です。(成毛眞著「2040年の未来予測」(日経BP))
ヘッドホンは音質の面において微視的な性質を内包しているために、2040年頃には、音楽の形態や好まれる音質も、より微視的な方向へと舵が切られるものと思われます。
そこで繰り広げられる映像や音楽の文化は、平面の銀幕を見ながらサラウンドの音声を楽しんでいる今日のオーディオ&ヴィジュアルのありかたとは、180度違う展開を見せるものと言っても過言ではないでしょう。私は、2040年以降の未来においては「虚構」と「合体」が音楽的なテーマの主軸と考えております。Vチューバーやバ美肉おじさんなど、幸か不幸かアバター文化についてはわが国が先んじており、また、そういった変身と共感の文化が、今後さらなる隆盛を極め、また高度化していくものと思われます。その時彼らが感じる「鮮度」の概念とは、現在とはかなりかけ離れたものになるに違いありません。
話を今日に戻します。前時代のミュージシャンと比較すると、既に今のミュージシャンは気配ではなく、耳に頼って音楽を作る傾向にあります。それが、今後は更に加速するものと思われます。耳に近い音というより、鼓膜に近い音と言えばよいでしょうか。そこで判断しうる音の鮮度とは、プレゼンスを伴わない鮮度と言えます。ヘッドホンが再生音の基準となりますから、少なくとも未来の人々はノイズには敏感になりそうです。
いかがでしょうか、これらが私が思う鮮度と、人々が今後感じるであろう鮮度に対する予測です。あくまで、これは私のフィルターを通した感覚であり、予想であるに過ぎません。私より音感のいい人ならば、どんな再生音を聞いても、ピッチの揺らぎやその人の個性を聞き分けられるはずでしょうし、人によって感じ方はさまざまだなのだと思います。
個人的には宮崎さんのおっしゃられたSUMOのゴールド(パワーアンプ)とGASのテドラで聞かれた音の話や、「いま、空気が無形のピアノを……(その4)」での、思わず振り返ってしまうような気配という言葉がしっくりきます。
また、それとは違う鮮度、たとえば噴水を間近で観察してその水の勢いを感じるのと、遠くから眺めその水景の形を楽しむのとでは、鮮度の意味はそれぞれ異なるものと思います。後者の場合、いうなれば形の鮮度と言えましょうか。
また、音の姿や形ということを見ても、B&Wをはじめとするバッフルをラウンドさせたスピーカーの奏でる音のプレゼンスと、ボザークのムーリッシュや、シーメンスのコアキシャルのようなバッフルの大きなスピーカーの示すプレゼンスとでは、その姿形はまったく異なります。その二つのプレゼンスの提示方法について、それぞれに音の姿のくずれのないことを物語るうえで、共通のひとつの概念として鮮度という言葉で論じはじめると、これはまた、かなりおかしな話になってしまうと思うのです。
同じブランドにおいてでも、異なった鮮度へのアプローチが存在しています。たとえば非常に音の鮮度にこだわるメーカーにJBLというメーカーがありますが、このJBLのスピーカーシステムにおいてさえ、ホーン・ドライバーを使ったシステムの考える鮮度と、ダイレクト・ラジエターで揃えたシステムの鮮度とでは、かなり違った見解をもって作られたものであることがわかります。
このように鮮度という言葉は装置によって観点も異なれば、また、聞く人の感性、聴覚の性質によっても、かなり違ってくると思うのです。
前回の、客観的に鮮度の高い音はあるのか?ということについては、それは、我思うゆえに我ありというよりほかになく、文化には多様性と相対性があるために、賛成の人が多いからといっても、それを真理とは呼べず、したがって、誰かの意見に頼ることはできませんし、「自分が石だと思って近づいたら貝殻だったとか、絶対に目の前にあなたが存在すると思っていたら、それが夢だった」ということもあるわけです。「一番信憑性が高いと思っていた数学も間違っているときがある・・・、最終的に確かなものは自分が今ここにいるという認知だけである」と言ったのは、かのデカルトです。しかし、まったくそれはその通りで、先ほど私が言ったピッチの揺らぎにしても、あるいは音の形や立体感にしても、それは、それを感じている私を認知するにすぎない―、というより他にないのです。
音は空気の疎密派であり現象ですから、実のところ音の形が見えるのはおかしいという意見もあります。むろん、私にはそれが形として存在しているという確かな感覚を持っています。絶対音感の人ならば、音階にあわせてスピーカーとスピーカーの間に移ろう色が見える―、という人は多いかと思います。これらは共感覚であり、やかんは絶対赤いと言っているようなもので、物理学的、あるいは心理学的に言えば「勘違い」に違いありません。けれども、円周率を延々記憶する人が、数字の羅列を色の物語として記憶していくように、「勘違い」が活きる上での何らかの有益な手立てになったりする場合もあるわけです。何を持って自然と見なすかは、物事を見る角度によって異なると言えそうです。
まったくこれは、実に複雑な話なのですが、私としては真相も大事だと思うのですが、考えたり、自問したり、遊び心を持ったり、なにかに興味を持ったりする・・・ということが、そもそも人として、かむながらに自然に生きることであるものと思っております。考えるそれ自体が充実であり、豊かさであると思うわけです。
ここで、ひとつ質問させていただきたいことがあるのですが、よろしいでしょうか。宮崎さん個人としては、段数や変数の少なさからくる鮮度、いわゆる今の人たちが言う鮮度ですね。スルーレイトというのでしょうか。たとえばパワーアンプダイレクトとか、プリはRIAAイコライザーのみを使うとか・・・、そういった経路を短絡する場合の音質的な面におけるメリット―、というものはどんなものをまず想像されるでしょうか?あくまで主観としてで結構です。宮崎さんが、どのように音を聞かれているのかを知ることができたら、またひとつ音の勉強になるのではないかと思い伺った次第です。また、その場合に感じるデメリットというのも、教えていただけたら嬉しいです。