ジュリーニのバッハ(その5)
自分自身の神性の創造とは、どういうことなのか。
澄み切った内面性を確立させていく、構築していくことなのかもしれない。
自分自身の神性の創造とは、どういうことなのか。
澄み切った内面性を確立させていく、構築していくことなのかもしれない。
(その3)で、見ている世界、聴いている世界と書いたが、思うに、見えている世界、聴こえている世界なのかもしれない、と公開した後に思った。
世の中は、そういうものだ。そういう世の中で、この音はいいとか、この演奏はいいとか悪いとか、各々が語る。
そういう世の中だからこそ、私と同じようにジュリーニのバッハを「美しい」と感じる人と出会えたのなら、その関係は大切にしていきたいし、
反対にジュリーニのバッハなんて退屈でしかないと感じている人との出会いは、私にとって、どうでもいいことでしかない。
ジュリーニのバッハは、私にとって大切な録音なのだが、クラシックを聴く全ての人が、ジュリーニのバッハを素晴らしいと感じているわけではないことは、承知している。
私にとっては、バッハのロ短調ミサだけでなく、ジュリーニが残してくれた録音の多くが大切な存在であるけれど、これとて全くどうでもいい存在とうけとめているクラシック音楽の聴き手もいる。
反対のことだっていえることもわかっている。誰かにとって、私にとってのジュリーニのように大切な存在が、私にはどうでもいい存在だったりする。
昔は、若かったころは、どうして、この人は、この演奏(録音)の素晴らしさがわからないのか。ならば説得しようとおもったことは、結構ある。
私だけではないはず。自分にとって大切な音楽(録音)の良さを知ってほしい、わかってほしい、と思う人はいる。
そういう人たちは、どうしているんだろうか。若いころは私同様、良さを理解してもらおうと言葉を尽くしたもしれない。
いまも続けている人もいるだろうし、わからない人に対して、どれだけ情熱と時間を費やしても、無駄と諦めてしまった人もいる──と私は思っている。
同じように音楽を長いこと聴いてきたとしても、聴いてきた世界が全く違うのではないのか──、そんなことを一度も感じたことがない人はいない、と思っている。
人は見ている世界、聴いている世界の全てを受け止めているわけではない。勝手に取捨選択している。これは想像以上に人によって違っている、と二十年ほど前から思うようになってきた。
その感はますます強くなってきている。
(その1)を読まれた方(Fさん)から、「バッハに何を求めますか」というメールが届いた。
こうやってあらためて問われて、すぐに出てきた答は「美しい」かどうかだった。
薄っぺらな「美しい」では、もちろんない。昨晩書いたことと重なるが、こちらの齢とともに美しくなっていく「美しい」である。
ジュリーニのロ短調ミサも、私にとってはヨッフムのマタイ受難曲も、そうだ。
そうそう頻繁に聴くわけではない。一年に一度だったり、時にはもっとあいたりするが、聴くたびに「美しい」と思える。より「美しい」と思える。
結局、それは何かと考えると、何度も引用している五味先生の「神を視ている」につながっていくことであり、
二年前に別項で書いている《自分自身の神性の創造》となる。
カルロ・マリア・ジュリーニのバッハは、ロ短調ミサだ。
1994年の録音だから、CDの発売は1995年ごろか。
発売されてすぐに買っているから、聴いたのは三十年ほど前となる。
三十代前半のころ聴いているわけだが、最初から強い感動があったわけではない。
ジュリーニらしい演奏だと思ったし、素晴らしい演奏とは思いつつも、愛聴盤となったわけではなかった。
それでも聴くのをやめたわけではなかったが、頻繁に聴いてきたわけでもなかった。
何年かに一度聴く感じで三十年が過ぎた。
聴くたびに、ジュリーニの、このバッハが素晴らしく感じられるようになってきている。
ジュリーニのロ短調ミサの評価はどうだったのか。あまり知らないが、話題になることもなかったような気がする。
バッハのロ短調ミサならばリヒター盤だろう、という声が一般的なのはわかっているし、リヒター盤とジュリーニ盤のどちらが素晴らしいかは私にはどうでもいいことで、
ジュリーニ盤が私にとっては、聴くたびに愛聴盤になりつつあるということが大事なことだ。
そのジュリーニのロ短調ミサは、なぜかTIDALにもQobuzでも配信されていなかった。
ようやく昨日(5月25日)に、Qobuzで配信されるようになった。
美しいバッハだ。
聴くたびに美しく感じられるようになってきた。
だからといって、頻繁に聴くようになるわけではない。
あと何回聴く(聴ける)だろうか。
指折り数えるほどかもしれないが、ジュリーニ盤は私にとって、すでに愛聴盤となっている。
今日、一冊の本をいただいた。
「蓄音機100年」というムックで、レコード芸術/ステレオ別冊と、表紙タイトル下にある。
「蓄音機100年」からわかるように1977年に出ている。
私は蓄音器とするが、この本では蓄音機。
このことについて編集後記(この本では、蓄音記となっている)で触れられている。
*
蓄音機か蓄音器か、表題を決めるときからひともんちゃく。
『動く機械だから機でなくちゃあ…』
『いや、昔はメカとソースといった概念でなく、レコードを含めて、音を入れる器、つまり録音システムとして捉えられていたので、器が正しいんだよ。』
*
安易に決めずに、蓄音機か蓄音器かを考えている。
この本を手にとりながら、来年(2027年)は、エジソンのレコード発明(誕生)から150年になる。
たぶん、どこからも「蓄音機100年」のような本は出ないだろう。
今日も、あるところに行って、アルテックのA4のセッティングをしていた。
まだまだ、いろいろやりたいことはあるけれど、とりあえず、今日の段階での音を聴いてもらったし、聴いていた。
毎回聴くのは、レナータ・テバルディのボエーム。その後に、“LOVE! MISORA HIBARI JAZZ & STANDARD COMPLETE COLLECTION 1955-1966”を聴いた。
一曲目の“LOVE”を聴く。
ここのA4で、美空ひばりを聴くのは初めてではないが、今回の美空ひばりは、初めて聴くかのような印象があった。
ステレオサウンド 60号で、瀬川先生がA4について語られている。
*
たまたま中2階の売場に、輸入クラシック・レコードを買いにいってたところですから、ギョッとしたわけですが、しかし、ギョッとしながらも、いまだに耳のなかにあのとき店内いっぱいにひびきわたった、このA4の音というのは、忘れがたく、焼きついているんですよ。
ぼくの耳のなかでは、やっぱり、突如、鳴った美空ひばりの声が、印象的にのこっているわけですよ。時とともに非常に美化されてのこっている。あれだけリッチな朗々とした、なんとも言えないひびきのいい音というのは、ぼくはあとにも先にも聴いたことがなかった。
*
60号は1980年秋に出ている。
その日から、瀬川先生が体験された美空ひばりを聴きたい、と思っていても、それが無理なことはわかっていた。
ただ単にA4で美空ひばりを聴きたいわけではない。瀬川先生の体験を、それに近いレベルで私も体験したい──。
瀬川先生が体験されたころのA4と、私がセッティングしているA4とでは時代が違うため、搭載ユニットは基本的に同じでも、全く同じわけではない。
いくつかの細かな違いはある。それでもA4はA4であり、他のスピーカーシステムと比較すれば、そんな細かな違いは、どうでもいいかな、と思えてくる。
今日のA4で聴けた美空ひばりは、よかった。瀬川先生の体験にはまだまだであっても、これからもある。
いつかは体験できた、と思えるかもしれない。
ベートーヴェンの交響曲第六番。私にとって頻繁に聴く曲ではなかった。
若い頃はめったに聴かなかった。一度も聴かなかった年があるくらいだった。
その頃と比べると、十年ほど前からわりと聴くようになった。これといったきっかけや理由があったわけではなく、
なんとなく六番のディスクに手が伸びることが増えていった。
なのでディスクもそれほど持っていない。いまではTIDAL、Qobuzで、いろんな指揮者の六番が聴ける。
それでも聴いてこなかった演奏がある。よく知られている、名盤と世評も高い録音であっても聴いていなかった。
きちんと聴いたのは、昨年8月のaudio wednesdayだった。
さそうあきら氏にDJをお願いした。
ベームウィーンフィルハーモニーの「田園」は、音楽を聴き始めたころのさそうあきら氏を虜にした音楽(演奏)と聞いていた。
MQAで出ていたのは知ってはいたが、六番もだがベームの演奏も、あまり聴かない私は買っていなかった。
できればMQA-CDで鳴らしたいと探したけれど、8月の回までには見つけられなかった。
その後も時々検索していたけれど、やっと手に入れることができた。
クリスチャン・マクブライドの“conversations with christian”。
このCDも知らないしクリスチャン・マクブライドも知らなかった。
昨晩のaudio wednesdayに初めて来られたKさんが持ってこられたCD。
一曲目を希望された。
ジャケットを見れば、ジャズなんだろうな、と思いながらボリュウムは、やや大きめにセット。
最初に鳴ってきたベースの音。そして女性ヴォーカル。聴き覚えのある声。アンジェリーク・キジョーだった。
2019年のOTOTENでブースにはいったとき、ちょうどかかっていたのが、アンジェリーク・キジョーの“Summer Time”だった。
それからだ、アンジェリーク・キジョーを聴くようになったのは。
アンジェリーク・キジョーが、“conversations with christian”に参加していることを全く知らなかっただけに、これだけでも驚きだったけれど、
このアルバム自体が、驚きだった。
2011年に発売のディスクだが、昨晩来られた人は、Kさん以外、初めて聴くディスクだった。みんなにとって驚きだったようだ。
一曲目だけでなく個人的関心から二曲目、三曲目、十三曲目も聴いた。
ビリンバウというブラジルの民族楽器が聴ける十三曲目。
ここで、また別の驚きがあったけれど、ここでは省く。
とにかく昨晩のaudio wednesdayでの最大の収穫は、この“conversations with christian”だった。
TIDAL、Qobuzでは96kHz、24ビットで聴ける。
(その1)で書いているように、私が初めて聴いた「ニュルンベルクのマイスタージンガー」は、カラヤン/ドレスデン・シュターツカペレによるEMI盤だった。
カラヤンが数多く残した録音、そのすべてを聴いているわけではないが、この「ニュルンベルクのマイスタージンガー」は、
カラヤン名盤の中に含まれるはずだ。
私は「五味オーディオ教室」からオーディオをスタートしていることもあって、カラヤンに対して否定的なところもけっこう持っている。
五味先生ほどのアンチ・カラヤンではないものの、五味先生が言われることに納得することも多い。
そんな私でもカラヤンのワーグナーは無視できないと思っている。
五味先生は、カラヤンのワーグナーはまったく認めておられないことを書かれていた。
そのことを知った上で、先入観をかなり持って聴いたにも関わらず、私はカラヤン/ドレスデン・シュターツカペレの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」は素晴らしいと、その時感じたし、いまもそう思っている。
この「ニュルンベルクのマイスタージンガー」が、ベルリン・フィルハーモニーとだったら、そしてドイツ・グラモフォン録音だったら、どうだっただろうか。
このカラヤンの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」は、なぜだかTIDALでもQobuzでも配信されていなかった。
三日前の2月19日に配信がされるようになった。
やっと来た、ここまで待たしたのだから、ハイレゾリューションでの配信を期待してしまうけれど、そうではなかった。
それでも配信されたのは、嬉しい。
そういえば早瀬文雄(舘 一男)さんは、熱心なカラヤンのファンだった。でも面白いことにカラヤンのワーグナーは聴かれなかったことを思い出す。
“A MUSICAL JOURNEY WITH ALICE ADER”、
34枚組CDが、2026年1月に発売になる。
アリス・アデールの録音全集といえる内容。
スタジオ録音、ライヴ録音だけでなく自宅録音まで、という徹底したもの。
TIDAL、Qobuzで聴くようになってからCDの購入枚数は大きく減った。
映画を映画館に観に行かない月はほとんどないけれど、CDを買わない月は増えていっている。
来年、最初に購入するCDは、間違いなく、このアリス・アデールの録音全集だ。
Die Meistersinger von Nürnberg(ニュルンベルクのマイスタージンガー)を初めて聴いたのは、
ワーグナーの前奏曲集だった。いきなり全曲盤を聴いたわけではなかった。
何人かの指揮者で、前奏曲を聴いてからの全曲盤は、EMI録音のカラヤン/ドレスデン・シュターツカペレによる演奏だった。
全曲盤を聴いて、とにかく驚いたのは前奏曲が、前奏曲集で聴いた終り方でなく、
続けて第一幕の冒頭のコラールへと続いていること、そしてそれがたまらなく美しかったことに、驚いた。
だから、その後、いくつかの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を聴いているけど、
ここのところ、前奏曲から第一幕へと繋いでいく美しさが、どうなのか。
初めての全曲盤のカラヤン/ドレスデン・シュターツカペレの美しさが基準となってしまったから、どうしても比較してしまう。
このこともあって、できればステレオ録音で聴きたい。
「ニュルンベルクのマイスタージンガー」全曲盤も全てを聴いているわけではない。
聴いていない録音もある。ショルティ盤は旧録音も新録音も聴いていない。
先日、ショルティ盤を初めて聴いた。旧・新録音、どちらも聴いた。
旧録音(ウィーン・フィルハーモニー)に惹かれた。
オリビア・ニュートン=ジョンの“Warm And Tender”は、三十五年ほど前のアルバム。
ステレオサウンド 94号掲載の黒田先生の「ぼくのディスク日記」でとりあげられていたので、知ってはいた。
いたけれど、聴いていたわけではなかった。
機会があれば──、いつか、聴くこともあるだろう、という気持だったから、
いつのまにか、その存在すら忘れかけようとしていた。
昨晩、「ぼくのディスク日記」を読み返した。
*
〝美しい星と子供たちに〟と副題のついた「ウォーム・アンド・テンダー/オリビア・ニュートン・ジョン」(日本フォノグラム/マーキュリー・PPD9001)は、自然破壊阻止を願ってさまざまな活動をしているオリビア・ニュートン・ジョンが、その思いをこめてつくったディスクである。ここで、オリビア・ニュートン・ジョンは、モーツァルトやブラームスの子守歌、それに「星に願いを」や「虹のかなたに」、あるいは「きらきら星」といったような、まさに「ウォーム・アンド・テンダー」な歌を「ウォーム・アンド・テンダー」にうたっている。オリビア・ニュートン・ジョンも、すでに3歳半のお子さんのお母さんであるが、声はあいかわらず少女のように可愛らしい。
このようなアルバムは、ともすると歌い手の側の思いがなまなかたちで示されがちで、考えには賛成なんだけれど、と逃げ腰にならなくもない。しかし、このオリビア・ニュートン・ジョンの「ウォーム・アンド・テンダー」には、そういう臭みがない。おそらく、オリビア・ニュートン・ジョンの人柄によるのであろうし、自然保護を願うオリビア・ニュートン・ジョンの気持がまっすぐなためであろう。
*
いまの時代、ストリーミングがある。
黒田先生の文章を読んで、聴きたいと思ってすぐに聴ける。
“Warm And Tender”が発売された時、私は29歳だった。その時、聴いていたら、どう感じただろうか、とそんなことも考えていた。
いいアルバムだ。
ジャクリーヌ・デュ=プレとカスリーン・フェリアーを生涯の「友」として聴いてきたのであれば、その人の人生は幸福だったはず。
人生にはいろんなことが起こる。苦労ばかりだった──、そんなことをつぶやきたくなる人生でも、
デュ=プレとフェリアーの音楽とともに歩んでこれたのならば、やはり幸せなはずだ。
もっとも、どんな音で聴いてきたか。
このことを無視して、生涯の「友」として聴いてきたとは語れない。
11月5日のaudio wednesdayで、ヴァイタヴォックスのCN191を鳴らすわけだが、
うまく鳴ってくれれば、二人の演奏をかける。
グルダの1993年のモンペリエ・サマー・フェスティヴァルでのライヴ録音(CD二枚組)は、
グルダの数多いアルバムの中でも素敵な一枚といえるけれど、
残念なことに廃盤のまま、けっこうな月日が経っているし、
それだけでなくTIDALでもQobuzでも配信されていない。
11月半ばにドイツ・グラモフォンからグルダのCDボックスが発売になる。
ドイツ・グラモフォン、アマデオ、デッカ、フィリップス、アコールなどへの録音をおさめたもので、
CD84枚プラスDVDという内容。
今回初めてCD化された録音もある。そしてモンペリエでのライヴ録音も含まれている。