Archive for category ディスク/ブック

Date: 1月 22nd, 2019
Cate: ディスク/ブック

CALLAS IN CONCERT THE HOLOGRAM TOUR(その2)

音楽の理解(オーディオマニアとして・その4)」を書いていて、ふと思った。

マリア・カラスのホログラムコンサートでの、
ステージ上のマリア・カラスは、どちらなのだろうか、と。

再現されたマリア・カラスなのか、
出現するマリア・カラスなのか。

そのステージを観て、どう感じるのだろうか。

Date: 1月 14th, 2019
Cate: ディスク/ブック

ブラームス 弦楽六重奏曲第一番 第二番(その2)

ラルキブデッリの録音は、ヴィヴァルテというレーベルから出ている。
このレーベルは、ソニークラシカルのオリジナル楽器専門のレーベルである。
ゆえに中世から古典派あたりまでをおもに録音している。

ヴィヴァルテの、すべての録音のプロデューサーは、ヴォルフ・エリクソンである。

クラシック音楽好きで、録音にも関心が高い人ならば、
ヴォルフ・エリクソンの名前はどこかで見たり聞いてたりしていよう。

ヴォルフ・エリクソンは、テルデック、セオン、そしてヴィヴァルテと、
つねにオリジナル楽器による演奏を録音しつづけてきている。

ラルキブデッリのCDを買ってみようかな、と思ったのも、
それがヴィヴァルテの録音であり、ヴォルフ・エリクソンによる録音だからである。
ただ、(その1)でも書いたように、
ヴィヴァルテからは、ラルキブデッリ以外の録音も当然出ている。

でも、ラルキブデッリを選んだ理由は、いまでははっきりと思い出せないし、
なんとなく選んだのだろうか。

そんな、どこか不純な好奇心から手にしたのが、ラルキブデッリのディスクであり、
モーツァルト、シューベルト、それにブラームスだった。

モーツァルトのディスクから聴いた。
次にシューベルトを聴いた。
日をおいて、ブラームスを聴いた。

ブラームスの弦楽六重奏曲ということだけでなく、
そのジャケットも好みではなかったこともあって、あとにしていた。
どんなジャケットなのかは、検索してみてほしい。

こういうジャケットが嫌い、というより、苦手である。
若いころはそうでもなかったのだが、十数年ほど前から新緑の季節になると、
植物の、その勢いにたじろぐおもいをするようになった。

濃い、というよりも、こちらが歳をとったせいなのであろう、
あまりにも青々しくて(緑が濃すぎて)、なにか植物に侵略されるのではないか、
そんな気分にすらなるし、
ラルキブデッリのブラームスのジャケットも、それに近い。

でも、聴けば、なぜ、このジャケットなのか、も理解できる。
好きにはなれないけれど。

Date: 1月 7th, 2019
Cate: ディスク/ブック

CALLAS IN CONCERT THE HOLOGRAM TOUR(その1)

CALLAS IN CONCERT THE HOLOGRAM TOUR
昨年秋に出たCDであり、
タイトルからわかるように、マリア・カラスのホログラムコンサートのCDである。

BASE HOLOGRAM社の技術によるマリア・カラスのホログラムコンサート。
昨年秋から全世界ツアーが始まっている。

日本でも予定されているそうで、2019年初頭という話だったが、
検索してみても、具体的な日程はどこにもない。

BASE HOLOGRAM社のウェブサイトには、マリア・カラスのページがある。
2月と3月の予定が公開されているが、現時点で日本公演は含まれていない。

日本でほんとうにやるのかどうかも、すこしばかりあやしい気もするけれど、
それにホログラムコンサートでのカラスの歌声は、
EMIに残した録音からカラスの声のみを抽出して、オーケストラとの協演である。

そういうものを観に行く価値はあるのか、と思わないでもないが、
行きたいという気持も、けっこう強い。

Date: 1月 6th, 2019
Cate: ディスク/ブック

ベートーヴェン

リヒャルト・ワーグナーの「ベートーヴェン」が、法政大学出版から出ている。
昨年夏に出ていたようなのだが、今日まで気がつかなかった。

五味先生が「日本のベートーヴェン」で、
《けっしてベートーヴェン論を説こうというのではないし、私にそんな資格があるわけもない。作品論ならワグナーの『ベートーヴェン』(高木卓氏訳)などを読んだ方が早い》
と書かれていた。

その時から読もう読もうと思いながらも、
私の探し方がまずかったのか、縁がなかったのか、
いままで出逢うことがなかった。

実は一度神保町の古書店で見かけたことはあるが、
けっこうな値がついていて、ふところが寂しかったころもあって、手が出せなかった。

それからでも、けっこうな月日が過ぎている。
もう読む機会はないのかも……、と思いはじめてもいた。

今回出た「ベートーヴェン」は、高木卓氏の翻訳ではないが、
とにもかくにもワーグナーの「ベートーヴェン」が日本語で読める。

Date: 12月 25th, 2018
Cate: ディスク/ブック

ブラームス 弦楽六重奏曲第一番 第二番(その1)

ブラームスの弦楽六重奏曲は、20代前半頃に聴いてから、
ほとんど聴くことがなかった。

曲が嫌いとか、つまらないとか、そんなはっきりした理由があったわけではなく、
ただなんとなく遠ざけていただけ。

十数年前だったか、
なんなとくブラームスの弦楽六重奏曲のディスクに手が伸びた。
正確には、ラルキブデッリのディスクだったから、である。
ブラームスの弦楽六重奏曲を特に聴きたかったわけではなく、
ラルキブデッリの他のディスクとまとめ買いしただけである。

そのまとめ買いも、輸入盤三枚以上だとインターネット通販だと、
さらに値引きしてくれるからである。

実をいうと、ラルキブデッリの演奏を聴いたのは、この時が初めてだった。
それまで関心のなかったラルキブデッリをなぜ買ったのかは、
その理由は思い出せない。

アンナー・ビルスマの熱心な聴き手ではなかったし、
むしろほとんど聴いていなかった。
なのにラルキブデッリなのである。

ブラームスの弦楽六重奏曲のディスクは後回しにしていた。
他のラルキブデッリのディスクを聴いて、
もっと早く聴いておけば──、と思った。

それでもブラームスの、というより弦楽六重奏曲という形式そのものを、
なんとなく遠ざけていただけに、ブラームスのディスクも、
なかなか聴こう、という気にはなれなかった。

この時買ったラルキブデッリの数枚のディスクで、
思わず声をあげたくなるほどの驚きがあったのが、ブラームスだった。

Date: 12月 24th, 2018
Cate: ディスク/ブック

ブラームス ヴァイオリン協奏曲二長調 Op.77

ブラームスのヴァイオリン協奏曲はそれほど聴いているわけではない。
これまで聴いてきた録音は、それほど多いとはいえない。

一応、名演といわれる録音(1990年ぐらいまでは)は、ある程度は聴いている。
ムターのヴァイオリン、カラヤン指揮ベルリン:フィルハーモニーによる演奏(録音)は、
この曲をまだ聴いたことがないという人には薦めやすいのかもしれない。

全体に優美だし、ヴァイオリンの音色の魅力ということでも、ムター盤はいい。
ミルシテインのヴァイオリン、ヨッフム指揮ウィーンフィルハーモニーもいい。

ヴァイオリンの音色ということではムターとミルシテインとでは大きく違う。
違うことで、この曲の大事なところが浮び上ってくるような感じがする。

そんなふうに感じるのは、
ジャネット・ヌヴーのヴァイオリン、
シュミット=イッセルシュテット指揮北西ドイツ放送交響楽団による1948年録音のライヴ盤の、
強烈な印象がいまなお残っているからだ。

ムター/カラヤン盤にはない強さがあり、
ミルシテイン/ヨッフム盤にある鋭さがより直進力を増している。

ブラームスのヴァイオリン協奏曲は、こういう表情を求めるのか、と思うほどだった。
最初に聴いたのは日本フォノグラムによるLPだった。

録音はいいとはいえないが、オーディオファイル向けとして登場したように記憶している。
それからCDが出た。
フランスのレーベルSTILからも数年後に出た。
いまもいくつかのマイナーレーベルのCDで聴くことができる。

STILまでは聴いている。
そのあとに登場した盤は聴いていない。

どれがいいのかはいえないけれど、
同じ演奏が収められている以上、一瞬にして惹きこまれる人もいれば、
拒絶したくなる人がいても不思議ではない。

私は、ブラームスのヴァイオリン協奏曲といえば、
ヌヴー盤が記憶のなかで響いてくる。
消し去ることができないほど刻み込まれている。

Date: 12月 7th, 2018
Cate: ディスク/ブック

Pulse/Quartet by Steve Reich

ノンサッチから出ている“Pulse/Quartet by Steve Reich”。
ジャケットのどにもMQAとはない。
MQAのマークもない。

けれどMQA-CDである。
こういう隠れMQA-CDは、意外にあるのかもしれない。

Date: 12月 6th, 2018
Cate: ディスク/ブック

JUSTICE LEAGUE (with ULTRA DAC)

JUSTICE LEAGUE(ジャスティス・リーグ)のサウンドトラックを、
今回もかけた。

9月、ULTRA DACをはじめて聴いたときにもかけた。
今回も、基本的にシステムは同じだ。

トランスポートがスチューダーのD731になったぐらいの変更である。
こまかなところはいくつか変更している。

別項で書いているように、アンプの脚を交換したし、
前回のaudio wednesdayから、アルテックのホーンにバッフルをつけている。
他にもこまかな変更点はいくつかある。

それにしても、昨晩はよく鳴ってくれた。
1曲目の“EVERYBODY KNOWS”もよかった。
それ以上に23曲目の“COME TOGETHER”はよかった。

やや大きめの音量での“COME TOGETHER”。
ビートルズではなく、歌っているのは、Gary Clark Jr. and Junkie XL。

これが、ほんとうにかっこいい。
いままでいろんな音を聴いてきた。

その他にもいろんな感想をもってきた。

けれど、昨晩初めて「かっこいい」と口に出してしまった。
私だけがそう感じていたのではなく、聴いていた人も「かっこいい」と感じていた。

ほんとうに、音がかっこいい、のだ。

Date: 11月 5th, 2018
Cate: Kate Bush, ディスク/ブック

Kate Bush – Remastered

ケイト・ブッシュのリマスターの告知は知っていた。
LPとCDの予約が始まっているのも、もちろん知っている。

今日、Kate Bush – Remastered – Adという動画を見た。
最後に、LP – CD – Digitalとある。

Digitalが意味するのは、配信なのだろう。

Date: 10月 25th, 2018
Cate: ディスク/ブック

現代日本歌曲選集 日本の心を唄う

菅野先生の「音楽と確実に結びつくオーディオの喜び」の全文である。
     *
「レコード芸術の原点からの発言」と題されたこの欄には必ずしも適当ではないかもしれぬが、私が制作したレコードで、あまりにも印象強く感動的であった録音について書かせていただきたいと思う。それは、この三月に録音した歌のレコードである。私が今までに制作してきたレコードは全て器楽曲ばかりであって、歌のレコードは皆無といってよい。昔、会社務めをしていた頃は、仕事の選り好みができず、歌を録音する機会もあったが、自分で独立してレコード制作を始めてからは、一枚も歌のレコードをつくった事がないのである。決して歌が嫌いだというのではない。ただ、私の身近に録音したいという意欲の起きる声楽家がいないというだけの事かもしれぬ。それにもう一つ、私は制作するならば日本の歌曲のレコードをつくりたかったという気持も強い。器楽とちがって、歌はあまりにも直接的に人間的でありすぎる。だから、私はどうしても、日本人が外国語で歌う歌に心底から聴き入ることができないのである。
 それやこれやで、今まで、歌のレコードを制作する機会がないままに過ぎてしまったのだが、この三月に録音したレコードというのは、日本の声楽界の大家、柳兼子先生の日本の歌曲集である。幸いにも私は、今から七〜八年前に、柳先生の演奏会を聴かせていただいたことがあり、そのとき、既に七十歳をはるかに越えた先生の歌の表現の深さに大きな感動をおぼえた記憶がある。先生は今年五月で八十三歳になられるが、高齢の先生の歌をお弟子さんたちが集まってレコードとして残したいというお話があり、その録音のご依頼を受けたのが、このレコード制作のきっかけとなった。
 私は、即座に、過去の先生の演奏会での感激を思い出し、録音のご依頼をお受けするだけではなく、このレコードを、プライベート・レコードとしてではなく、広く一般の方々にも聴いていただくべく、オーディオ・ラボから発売する形にしたいと考えた。先生のLPが一枚もないことは不思議と思えるほどだが、一八九二年生まれの先生のことを知る若いレコード制作者もそういないのかもしれないし、たいへん失礼ながら八十三歳というご高齢からして、業界ではレコード録音ということは夢にも考えられなかったのかもしれぬ。かくいう私とて、もし、あの時、先生のリサイタルを聴いていなかったら、進んでレコードを制作発売しようという気にはなれなかったろうと思う。ふとした偶然に、先生のリサイタルに足を運んだ幸運に感謝したものである。
 当初、録音は二月に予定されたのだが、冬の風邪を召され、一ヶ月録音予定を遅らせたが、先生は全快とまでいかないが、歌いましょうということになった。録音当日までの私の不安と期待は大変複雑なものであったが、朝の十時半頃、録音を開始した途端、私は期待の満たされた喜びに大きく胸をふくらませたのであった。LP一枚分、実に二十八曲もの歌を、先生は一回で録音されてしまった。それも、勿論、立ちっぱなしで……。伴奏ピアノは私が最も敬愛する小林道夫氏にお願いしたが、先生にはもっと日頃馴れたパートナーがおられただろうけれど、私としては、どうしても小林氏に弾いていただきたかったのであった。信時潔の歌曲集「沙羅」、「古歌二十五首」より五曲、「静夜思」、高田三郎の啄木短歌集八曲、弘田龍太郎の四部曲「春声」、そして、杉山長谷夫の、「苗や苗」と「金魚や」という曲目であったが、こんなにまで深い音楽を録音したことはかつてないといってもよいものであった。
 先生にしてみれば、八十三歳というご高齢を我々が口にすることはきっとご迷惑にちがいないと思うけれど、人間の生命の常識からして、これは驚異的なことで奇蹟といってよいほどのことであるし、それにもまして、その年輪ゆえに蓄えられた表現の味わい深さと、その肉体的条件にいささかも影響を受けないほどに鍛え込まれた技と、その努力のもたらした芸術の重味を思うとき、やはり、八十三歳の先生が歌われたという事実は忘れられるべきではない重要なことに思えるのである。先生の偉大な人格を思うとき、私は、ただただ頭が下がるのみであるが、レコードが出来上がるまでのテスト盤を技術的な立場から何度も聴くうちに、その音楽の魅力は私の中でますます大きく深いものになったことにも驚きを禁じ得ない。ジャケットに収まってレコードが市場へ出ていくまでに、私たち制作者は、音楽的内容の立場を離れ、テープ録音とレコード製造技術の見地から何回音を聴くかわからないが、正直なところ、多くの場合、製品が出来上がる頃には中味の音楽に飽きているという経験をよくする。それほど何回もオーディオ的な耳でチェックを重ねるものである。ところが、この先生のレコードの場合、その度毎に音楽の魅力が高まって、ふと気がつくと、自分は音のチェックをしていたはずなのに、いつしかそれを忘れ、深々と音楽に聴き入り、肝心のチェック事項を忘れてしまっているという有様なのであった。
 レコードをつくっている我々がそんなことをいってはいけないのだが、素晴らしいレコードというものは、音そのものの不満や、雑音などはどうでもよくなってしまうものであることを、これほど強く認識させられたこともないのであった。そして、意を強くしたことは、オーディオの仕事をしている私の講演会などに集まって下さる方々のほとんどが、ダイナミック・レンジやひずみ率や周波数特性に関心を持つマニアが多いのに、そうした機会にこのレコードのテスト盤をお聴かせしてみて、多くの方々が感動して下さったことである。オーディオ的なプログラム・ソースとしては決してデモンストレーション効果を持ったものではないし、ここにあるのは音楽そのものの魅力だけであるはずなのだ。やはりオーディオは音楽と確実に結びついているという喜びを味わったのであった。ひたすら、先生の歌の世界を、伴奏ピアノのソノリティで生かし、歪めることなくスピーカーから伝えたいと心がけて録音したのだが、人によっては、ピアノが大き過ぎるといわれたし、歌もピアノも距離感が遠過ぎるともいわれた。しかし、私としては、それらの意見には全く動かされることはない。先生の発声には、これ以上、マイクが近くても遠くても、その真価を伝えることはできないと思うし、ピアノのバランスやニュアンスの再現も、これらの歌曲のピアノ・パートの重要性からして、決して近すぎることも、大き過ぎることもないと信じている。つまり、私としては、かなり自分が満足のいく録音になったと思っているわけだ。LP両面で二十八曲の名唱、とりわけ「沙羅」の〝鴉〟〝占ふと〟〝静夜思〟に聴かれる感動の深さに酔いしれているのである。
 それにしても、レコードと再生装置の関係は重要だ。私の部屋にある数種の装置で聴いてみると、そのニュアンスの何と異なることか……。ある装置は、もうたまらないほど艶っぽく歌ってくれるのだ。〝占ふと、云ふにあらねど、梳(くしけづ)るわが黒髪の、常(いつ)になうときわけがたく、なにがなし、心みだるる……〟そして、別の装置は無残に、その冷たく無機的でヒステリックな性格が、その心のひだをおおいかくしてしまう。〝不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて、空に吸はれし十五の心〟。装置の音は、この人声の、心の微妙なニュアンスを伝えるべく、血の通った音でなければならぬのだ。この啄木の詩のように端々しく、やさしくなくてはならないし、「沙羅」の〝鴉〟のように凄みを持ち、柳兼子先生のその歌のごとく毅然としていなければならぬものだと思う。
     *
菅野先生による柳兼子氏の録音は、オーディオ・ラボから三枚出ていた。
現在、オクタヴィア・レコードからCDとして発売されている。

11月7日のaudio wednesdayで、かける。

1975年の録音で、それほど売れるディスクとは思えない。
けれど、いまも入手できるのは、それだけでありがたい、とおもう。
それでも、欲深いもので、オーディオ・ラボの菅野録音の多くがSACDで出ているのに、
これは通常のCDだけなのか、と、やはり思ってしまう。

SACDで出してくれ、とまではいわないが、DSDで配信してほしい。

Date: 10月 18th, 2018
Cate: ディスク/ブック

AXIS THE COVER STORIES──interviews with 115 designers

11月1日に、AXIS THE COVER STORIES──interviews with 115 designersが出る。

デザイン誌AXISの表紙を飾ったデザイナーのインタヴュー記事を、
20年分まとめたものである。

2002年7月1日に発売になったAXISの表紙は、川崎先生だった。
三日後が、菅野先生と川崎先生の対談だった。

AXIS THE COVER STORIES──interviews with 115 designersにも、
川崎先生のインタヴュー記事は載っている。

川崎先生が表紙のAXISは、発売日に買った。
そして対談の場にもっていき、川崎先生にサインしてもらった。

AXISには、その十年くらい前、
MY VIEW OF DESIGNというインタヴュー記事に菅野先生が登場されている。

こんなことを語られている。
     *
菅野 各国の状況はまちまちでしょうが、音楽の楽しみというのは非常に個人的なものですし、個々によってかなり複雑な要素が影響してくるものです。ジェネレーションによっても異なる上に地方性もありますし、傾向の差異として一つの言葉にまとめてしまうことはかなり危険なことだと思いますね。ですからここでは音楽との接し万についてを話しましょう。私は音楽を聴くということは演奏者や作曲家と対話するということになるのではないかと思っています。つまりその人間とお喋りをする、その人聞から様々なことを教わるということです。演奏ということはその人物のしぐさの微妙な部分やちょっとした癖のかたまりとして存在するわけですから、個性的な演奏であるほど人間的なものであり、そうした人間性の強く表われている演奏はやはりいいものです。最近は電子回路にデータをインプットして正確無比な演奏を行なうという音楽も開発されていますね。私も仕事でテクノロジカルな楽器やコンピュータ・ミュージックに関する取材を受けることもあります。「正確な電子音楽にはあまり興味がない」と言うと皆さんに驚かれてしまうのですが、やはり音楽は人間が介在している部分がおもしろさではないでしょうか。私は音楽とは元来、神や自然などのギフトとして存在しているものだと思っています。それらの神技を、神の子である人間が今、行なっているわけですよね。さらに人の知恵によつて録音したり再生しようとすることがオーディオによる試みであるわけですから、人間の知恵が神技にどこまで迫れるかというところは興味深いものではありますけれど。
     *
だからこその肉体のある音、肉体の感じられる音なのだろう。

Date: 10月 10th, 2018
Cate: ディスク/ブック

Cinema Songs

ステレオサウンド 80号の「ぼくのディスク日記」に、こう書かれている。
     *
 薬師丸ひろ子の「花図鑑」というコンパクトディスクを買ってきた(イースト・ワールド CA32・1260)。やはり、堂々と買う,というわけにはいかず、なんとなくモジモジしながら買った。なぜモジモジしたのか、自分でよくわからない。自分が、レコード会社の想定したこのコンパクトディスクの購買層から完璧にはずれたところにいることを意識しての、買うときのモジモジであったかしれなかった。
 いずれにしろ、たとえモジモジしながらでも、どうしてもこのコンパクトディスクが、ぼくはききたかった。ひとつは、なにを隠そう、ぼくは薬師丸ひろ子のファンだからである。特に彼女の、どことなく危なっかしい、それでいて若い女の人ならではの輝きの感じられる声が、ぼくは大好きである。それに、もうひとつ、この「花図鑑」をどうしてもきいてみたい理由があった。中田喜直と井上陽水が、ここで作品を提供しているのをしったからである。あの中田喜直とあの井上陽水が、薬師丸ひろ子のために、どんな曲を書いたのか、それをきいてみたかった。
 よせばいいのに、ついうっかり安心して、ある友人に、この薬師丸ひろ子のコンパクトディスクを買ったことをはなしてしまった。その男は、頭ごなしに、いかにも無神経な口調で、こういった、お前は、もともとロリコンの気味があるからな。
 音楽は、いつでも、思い込みだけであれこれいわれすぎる。いい歳をした男が薬師丸ひろ子の歌をきけば、それだけでもう、ロリータ・コンプレックスになってしまうのか。馬鹿馬鹿しすぎる。
 薬師丸ひろ子の歌のききてをロリコンというのであれば、あのシューベルトが十七歳のときの作品である、恋する少女の心のときめきをうたった「糸を紡ぐグレートヒェン」をきいて感動するききてもまた、ロリコンなのではないか。むろん、これは、八つ当たり気味にいっている言葉でしかないが、薬師丸ひろ子の決して押しつけがましくもならない、楚々とした声と楚々としたうたいぶりによってしかあきらかにできない世界も、あることはあるのである。人それぞれで好き好きがあるから、きいた後にどういおうと、それはかまわないが、ろくにききもしないで、思いこみだけで、あれこれ半可通の言葉のはかれることが、とりわけこの音楽の周辺では、多すぎる。
 決めつければ、そこで終わり、である。ロリコンと決めつけようと、クサーイと決めつけようと、決めつけたところからは、芽がでない。かわいそうなのは、実は、決めつけられた方ではなく、決めつけた方だということを、きかせてもらう謙虚さを忘れた鈍感なききては、気づかない。
 しかし、それは、どうでもいい。中田喜直と井上陽水が薬師丸ひろ子のために書いた歌は、それぞれの作曲者の音楽的特徴をあきらかにしながら、しかも薬師丸ひろ子の持味もいかしていて、素晴らしかった。モジモジしながらでも、このコンパクトディスクを買ってよかった、と思った。
     *
黒田先生は1938年生れだから、私より25上である。
黒田先生は「花図鑑」を《なんとなくモジモジしながら》買われた。

80号は1986年に出ている。
黒田先生は48歳、私は23。

薬師丸ひろ子は1964年生れ。
私は《レコード会社の想定したこのコンパクトディスクの購買層》に含まれていた、だろう。
それでも黒田先生の《なんとなくモジモジしながら》という気持は、わかる。

いまはamazonを筆頭に、インターネットで簡単に注文でき自宅に届く。
《なんとなくモジモジしながら》ということを味わうことは、もうない時代でもある。

いわば、こっそり買える時代だ。
でも、薬師丸ひろ子のCinema Songsは、それでは買わなかった。
レコード店で買った。

《なんとなくモジモジしながら》ということはなかったけれど、
それでも堂々と買う、ともいいきれなかった。

Date: 10月 6th, 2018
Cate: ディスク/ブック

Yamaha, One Passion ヤマハデザインのDNA、そして未来

AXIS増刊として10月12日に「Yamaha, One Passion ヤマハデザインのDNA、そして未来」が出る。

ヤマハのオーディオのことが乗っているのかどうかは、いまのところわからない。
別項「プリメインアンプとしてのデザイン、コントロールアンプとしてのデザイン」で、
ヤマハの新しいコントロールアンプのC5000のデザインが、
プリメインのデザインにしか見えない、と書いているところに、
「Yamaha, One Passion ヤマハデザインのDNA、そして未来」の発売。

おもしろいタイミングで出てくる、と思っている。

それとは関係なく、私が面白そうと期待しているのが、
AXISに掲載されたヤマハのシリーズ広告の記事である。

そこには「これは単なる広告ではない。われわれの表現の実験場」とある。
以前ステレオサウンドは、広告の人気投票を行っていた。
巻末の記事で、ベスト3が発表されていた。

ヤマハ(当時は日本楽器製造)は、ベスト3内にほぼ毎回入っていた。
それ以前から、ヤマハのオーディオの広告は、表現の実験場だったのかもしれない。

Date: 9月 24th, 2018
Cate: ディスク/ブック

A CAPELLA(とMojo・その9)

一年ほど前に、CHORDからPolyが登場した。
Mojoとドッキングするオプションアクセサリーで、
マイクロSDカードからの再生を可能にする機能と、
ワイヤレスのネットワーク機能をMojoに追加する。

Mojoでのシンガーズ・アンリミテッドの“A CAPELLA”を聴いてから、
真剣にMojoをどう使うかを考えはじめている。

野上さんと同じようにパソコンとUSBで接続して、というのが、
Mojoの入力端子がUSB優先ということからして、一般的である。

それでもパソコン本体が、Mojoに較べてあまりにも大きすぎる。
できればコンパクトにまとめたい。
ノート型にする、という手もあるし、MacならばMac miniもあるな、と思う。

もっとコンパクトに、ということならば、Raspberry Piを使うという手もある。
そんなことを考えていたら、そういえばPolyというオプションがあったな、と思い出した。

一年前は、Polyにさほど興味はわかなかった。
いまは違う。
CHORDというメーカーは、Mojoの使い手のことをわかっているな、と思ったし、
彼らが欲しいモノをつくっているのだな、とも感じた。

PolyはMojoと同じくらいの価格である。
Raspberry Piならもっと安価にできる。
けれど、自分で勉強しなくてはならないところもあるし、
Polyほどスマートにまとめるのは、もっと難しい。

MojoとPolyはドッキングしてひとつのプレーヤーとなるし、
専用のケースも用意されている。
うまいところをついてくるな、と感心もする。

Poly+Mojo、そしてマイクロSDカードでの再生。
これでシンガーズ・アンリミテッドの“A CAPELLA”を、また聴きたい。

それほどMojoと“A CAPELLA”、
このふたつはがっしりと結びついて、強く印象に残っている。

Date: 9月 24th, 2018
Cate: ディスク/ブック

A CAPELLA(とMojo・その8)

(その7)で終りにしようと思っていたが、もう少し書きたいことが残っている。

CHORDのMojoは輸入品である。
これが日本製であったなら、もう少し安価にできるはずなのだが、
日本のメーカーからは、Mojoがなぜ登場してこないのか。

いま発売中のトランジスタ技術10月号に、1ページだが、Mojoの記事が載っている。
内部写真がカラーで載っている。

Mojoを製造することは日本のメーカーでもできるはずだ。
けれど、なぜ開発できないのか、とおもう。

Mojoには三つのデジタル入力端子があるが、入力セレクターはない。
三つの入力には優先順位があって、USBが最優先されている。
日本のメーカーだったら、間違いなく入力セレクターをつける。

Mojoの電源スイッチの色が、入力信号のサンプリング周波数を示す。
ここに関しても日本のメーカーだったら、どうするだろうか。
ディスプレイをつけるメーカーもあろう。

出力端子はどうしただろうか。
そんなふうに細部を検討していくと、
中身は同じだとしても、外観はずいぶんと違ってくると予想できる。

それでも同じ中身を、同等のクォリティの中身を、日本のオーディオメーカーは開発できただろうか。

このくらいモノ、できますよ、というメーカーの人がいるかもしれない。
ならば、つくってくれ、といいたい。

同じことは昔もあった。
ステレオサウンド 55号には書かれている。
     *
いくらローコストでも、たとえばKEFの303のように、クラシックのまともに鳴るスピーカーが作れるという実例がある。あの徹底したローコスト設計を日本のメーカーがやれば、おそろしく安く、しかしまともな音のスピーカーが作れるはずだと思う。
     *
瀬川先生が書かれている。
KEFのModel 303については別項で何度も書いているから、ここではもう書かない。

Model 303も、日本のメーカーは製造はできただろう。
もっと安価にできたはずだ。
けれど開発はできなかった。

日本のメーカーがやったのは、598戦争といわれるスピーカーの開発だった。

そのころから日本のメーカーはスピーカー開発においてはまだしもの感はあっても、
アンプ、チューナーなどの電子機器においては、優秀なモノをつくる、といわれていた。

D/Aコンバーターは、アンプと同じ電子機器であるにも関らず、
日本のオーディオメーカーからMojoに匹敵するモノは出てきていない。

弱体化している、とも感じている。