Archive for category ディスク/ブック

Date: 6月 17th, 2017
Cate: ディスク/ブック

THE DIALOGUE(その2)

別項で書いているように30年ぶりに「THE DIALOGUE」を聴いた。
それほど長くない時間で、しつこいくらいくり返し聴いた。
そのことを『30年ぶりの「THE DIALOGUE」』で書いた。
その8)まで書いて気づいた。

「THE DIALOGUE」はまさしく対話だ、と。
その1)で、あるジャズ好きの人から、
「音はいいけど、音楽的(ジャズ的)にはつまらない……」といわれた、と書いた。
そこには、ジャズではないというニュアンスも含まれていた。

30年前は、それに対して何もいえなかった。

30年ぶりに聴いて、楽器による対話だということを、実感した。
「THE DIALOGUE」というタイトルを忘れていたわけでもないし、
対話という意味があるのも知ってはいたが、それはあくまでも知識としてでしかなかった。

30年のあいだに、いくつもの「対話」をきいてきた。
それらがあったからこその、実感かもしれない。

「THE DIALOGUE」はまさしく対話だ、
だからこそジャズだ、といまならそういえる。

Date: 5月 17th, 2017
Cate: ディスク/ブック

ドン・ジョヴァンニ(カラヤン・その3)

浅里公三氏の「待った甲斐があった」の理由も、
まちがいなく黒田先生と同じ理由のはず。

ステレオサウンド 30号のモーツァルトの三大オペラのディスコグラフィをつくられたのは、
浅里公三氏なのだから。

評論家の書くものなど、読み価値がない、という意見もある。
評論家といってもさまざまだから、
そういいたくなる人がいるのは否定しない。

それでも真摯に評論という仕事を考えている人がいる。
そういう人が書くものは、何かに気づかせてくれる。

レコード(録音)の聴き手としての歴史を積み重ねてきた人と、
そうでない者との聴き方の差があるのは当然だ。

黒田先生、浅里公三氏が、
そういわれた理由に気づいたからといって──理由でもあり想いでもある──、
カラヤンのドン・ジョヴァンニを聴いての、私の中での評価が大きく違ってくるということはない。
そうなのだが、それでもその理由を知る前と後とでは、
カラヤンのドン・ジョヴァンニに対する聴き方だけでなく、
レコード(録音)された音楽に対する聴き方に変化が生じる。

このことは大事にしたい。
自分の耳への問いかけを忘れた聴き方はしないためにも。

Date: 5月 17th, 2017
Cate: ディスク/ブック

ドン・ジョヴァンニ(カラヤン・その2)

ステレオサウンドで働くということは、
仕事のあいまにステレオサウンドのバックナンバーを読める、ということでもある。
あくまでもあいまにだから、興味のある号から手にとることになる。

30号の特集は「最新プレーヤーシステム41機種のテストリポート」。
割りと早く読んだほうだが、記事のすべてをその時に読んでいたわけではなかった。
音楽ページは目を通しただけのところもあった。

しばらく見逃していた記事が、「ディスコグラフィへの招待」である。
30号ではモーツァルトの三大オペラで、
ここで黒田先生は「ディスコグラフィからみた三大オペラ」を担当されている。

そこに
《この曲に関して興味ぶかいのは、あのディスクエンサイクロペディストともいうべきカラヤンが、いまだにこの曲をレコードにしていないことだ》
とある。

モノーラル時代にフィガロの結婚、魔笛、コシ・ファン・トゥッテをEMIに録音している。
なのにドン・ジョヴァンニは録音していない。
黒田先生は、ベームも同じようなことがいえる、と書かれ、
ベームはフィガロの結婚、魔笛、コシ・ファン・トゥッテは二度ずつ録音している(1974年時点)のに、
ドン・ジョヴァンニは一回だけである、とも。

デッカがモーツァルト生誕二百年を記念しての全曲盤録音にしても、
フィガロの結婚はクライバー、コシ・ファン・トゥッテと魔笛はベーム、
ドン・ジョヴァンニはクリップスの起用に、《考えてみれば、おかしい》とされている。

確かにクリップスは、グレン・グールドはモーツァルト振りとして評価しているが、
世間一般には、クライバー、ベームと肩を並べる指揮者とはいえない。

なぜなのか。
黒田先生は、ドン・ジョヴァンニのレコード(録音)が少ないことの理由で、
ひとつだけわかっているのは、《歌い手をそろえにくいこと》と指摘されている。

詳しいことはステレオサウンド 30号を読んでいただくとして、
ここだけ引用しておこう。
     *
 大指揮者たちが、とかく「ドン・ジョヴァンニ」を敬遠しがちなのは、そういうことがあるからと思う。いかにカラヤンだろうと(いや、カラヤンだからこそ、といいなおすべきだろう)「ドン・ジョヴァンニ」に人をえなくては、「ドン・ジョヴァンニ」の全曲盤はつくらないだろうし、その理想的なドン・ジョヴァンニをえるのが、ひどくむずかしいとなれば、カラヤンとわずとも、二の足をふまざるをえないのかもしれぬ。
     *
ステレオサウンド 30号の黒田先生の文章を読んで、
カラヤンのドン・ジョヴァンニに、満を持して、と書かれた理由がやっとわかった。

Date: 5月 17th, 2017
Cate: ディスク/ブック

ドン・ジョヴァンニ(カラヤン・その1)

ステレオサウンド 75号から黒田先生の「ぼくのディスク日記」が始まった。
80号の「ぼくのディスク日記」は、それまでとは少し違う、と感じられる一文があった。
     *
 ディスク日記にカセットテープを登場させるのもどうかと思い、一瞬ためらったが、ディスクがないのであるから、やむをえない。しかも、このカセットテープは、「ノット・フォー・セール」である。これもまた、ハンブルクのポリドール・インターナショナルにいる友だちからの、もらいものである。なんだか、今回の「ディスク日記」はもらいものばかりでまかなっているようで、いささか気がひける。
 これは、「プレゼンテイション86」という、ドイツ・グラモフォンが宣伝用につくったカセットテープである(ドイツ・グラモフォン 419548・4)。ここには、近々ドイツ・グラモフォンやアルヒーフで発売になるはずのディスクに収録されている演奏の抜粋が、おさめられている。どのようなものがそこに入っているかというと、カラヤンの最初のレコーディング(!)である「ドン・ジョヴァンニ」の一部とか、バーンスタインの、ニューヨーク・フィルハーモニーを指揮してのマーラーの第七交響曲や、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団を指揮しての同じマーラーの第九交響曲の一部などである。
 書いておきたいのは、カラヤンの「ドン・ジョヴァンニ」についてである。そこでは、序曲と、「カタログの歌」の後の合唱のナンバー、それにドン・ジョヴァンニのセレナーデだけしかきけないが、期待をかりたてられずにいられないような演奏である。ようやくのことでカラヤンによって録音された「ドン・ジョヴァンニ」を、一刻も早くきいてみたいと、首を長くしている。
     *
カラヤンのドン・ジョヴァンニは1985年に録音され、
1986年に発売になった。

黒田先生は別のところで、「満を持して録音」といった表現を使われていた、と記憶している。
それまで黒田先生の書かれるものを読んできた者は、
黒田先生をが昂奮を抑えきれずにいられることを感じとれたはずだ。

1986年は私は23。
ドン・ジョヴァンニをそれほど聴いていたとはいえない。
持っていたのはフルトヴェングラーのだけだった。
ジュリーニ、クリップス、ベームは、部分的には聴いたことがあっても持っていなかった。

そんなところにいた聴き手だったから、
黒田先生のなぜそこまで昂奮されているのかを、よく理解できていたとはいえなかった。

浅里公三氏も、待った甲斐があった、といったことを書かれていた。
もちろん買った。聴いた。

でも黒田先生、浅里公三氏のようにいくつものドン・ジョヴァンニを聴いてきたわけではない。
そんな未熟な聴き手は、カラヤンのドン・ジョヴァンニのすごさを、
その時点でどこまで感じとれていたかははなはたあやしい。

だから「それにしても……」というところがかすかに残った。
それが消え去ったのは、もう少し先だった。

Date: 5月 16th, 2017
Cate: ディスク/ブック

フィガロの結婚(クライバー)

いまではクライバーと書けば、カルロス・クライバーを指す、といってもいい。
私も世代としてはカルロス・クライバーの方である。

カルロス・クライバーは、コンサートで聴くことができたが、
エーリッヒ・クライバーは1956年に亡くなっているから、
エーリッヒ・クライバーを聴く(聴いた)ということは、
1963年生れの私にとっては、残された録音と聴くということになる。

エーリッヒ・クライバーのレコードよりも、カルロス・クライバーのレコードを先に聴いていた。
ベートーヴェンの五番、七番、ブラームスの四番、
魔弾の射手、椿姫、こうもりなどは、
エーリッヒ・クライバーの演奏を聴く前にカルロス・クライバーの演奏(レコード)で聴いている。

それでも私のなかでは、エーリッヒ・クライバーの存在は大きい。

黒田先生が「音楽への礼状」で書かれている。
     *
 つい先頃、はじめて指揮をなさったメトロポリタン歌劇場でも、あなたは、ボエームをとりあげましたね。そしてこの秋の日本でも、「ボエーム」です。そのことについて、不満のあるはずもありません。あなたの「ボエーム」は絶品です。何度でもききたい。しかし、ききてのききたがる作品だけをくりかえし演奏していることによって、あなたは、あなたの意識しないところで、ブランド化している。その結果、あなたは、阿呆のグルーピーを育てています。
 あなたは、あなたのお父上、エーリッヒ・クライバーが、今から六十年以上も前の一九二五年に、ベルリン国立歌劇場で、ベルクのオペラ「ヴォツェック」を上演するために百二十八回ものリリハーサルをおこなったことを、どのようにお考えでしょうか? 一九二五年のききてにとって、あのベルクの「ヴォツェック」の音楽がどのようにきこえたか、これは想像にあまりあります。しかし、あなたのお父上は、聴衆の熱狂が期待できるはずもないことを、やってのけた。
     *
エーリッヒ・クライバーは、ブランド化することはなかった。
時代が違う、といえばそれまでだが、
たとえ時代が同じであったとしても、ブランド化したとは思えない。

そういうエーリッヒ・クライバーの残したフィガロの結婚が、
タワーレコードからSACDで出ている。

エーリッヒ・クライバーのフィガロの結婚は、1955年の録音にも関わらず、
ステレオで残っている。
ワンポイントマイクで録られている。

最初はモノーラルLPで登場した、と聴いている。
ステレオディスクの規格が45/45方式に正式に一本化され、
ステレオLPとして登場した。

再生機器の進歩が、この録音を色褪ない。
録音だけではない。
     *
 クライバーの演奏も軽みや弾みのあるものではないが、クレンペラーの演奏にきかれるような重みからは、遠い。これは世間でよくいわれるウィーン風な演奏の典型といってもいいものだ。音楽の流れは、大変にしなやかで、ソロをとる楽器のねいろはいとも芳しい。情緒ゆたかな演奏だが、クライバーはそれにおし流される一歩手前でふみとどまっている。そのクライバーの節度が、この決して新しいとはいえないレコードをふけこませないでいるようだ。
(ステレオサウンド 30号「ディスコグラフィからみた三大オペラ」より)
     *
録音もそうだ、節度あるからこそ、色褪ないでいられる。

Date: 5月 6th, 2017
Cate: ディスク/ブック

THE DIALOGUE(その1)

「THE DIALOGUE」は、オーディオラボからでていた菅野録音の中で、
最も多く聴いたLPである。

1978年に出ている。
録音は1977年、もう40年経っている。

当時のステレオサウンドの試聴レコードとしても、よく登場していた。
熊本のオーディオ店の招待で定期的に来られていた瀬川先生も、
「THE DIALOGUE」を試聴レコードとして持参されていた。

一度、その熊本のオーディオ店に菅野先生が来られた時も、
JBLの4350Aで「THE DIALOGUE」を鳴らされた。

私にとって「THE DIALOGUE」はJBLの4343と4350Aで聴いた音が、
ひとつのリファレンスとなっているともいえる。

スピーカーから、こういうドラムスの音が聴けるのか、とおそれいった。
同時期のチャック・マンジョーネの「サンチェスの子供たち」におけるドラムスの音にも、
4343で聴いて驚いたけれど、「THE DIALOGUE」はより生々しかった。

LPをすぐさま買った。
33 1/3回転盤だけでなく、UHQR仕様の78回転盤も、
アナログプレーヤーをトーレンスの101 Limitedにした機会に見つけて買った。

菅野録音のオーディオラボのレコードは、他にも何枚か買っていた。
買わなくとも、ステレオサウンドで働いていると、他のレコードを聴く機会はあった。

「THE DIALOGUE」を、あるジャズ好きの人は、
「音はいいけど、音楽的(ジャズ的)にはつまらない……」といっていた。

反論したかったけれど、当時はジャズをほとんど聴いていなかった私にはできなかった。
それに、「THE DIALOGUE」を音楽として聴いていたかどうかに自信ももてなかったこともある。
そのくらい、「THE DIALOGUE」のディスクから聴くことのできる音は、
オーディオマニアにとって、ひとつの快感でもあったのではないだろうか。

少なくとも、10代の終りからハタチごろの私にとっては、そういう面を否定できない。
そのためだろうか、ある時期からパタッと聴かなくなった。

CDが登場してからも聴くことはなかった。
SACDとして2001年に登場した時も、見送っていた。

オーディオラボのSACDは、他のディスクは聴く機会があった。
菅野先生のリスニングルームでも聴かせていただいた。
けれど「THE DIALOGUE」はずっと聴いていない。
もう30年ほど聴いていないのに、ここにきて無性に聴きたくなっている。

Date: 5月 4th, 2017
Cate: ディスク/ブック

ESSENCE

一週間ほど前に書いているように、
audio wednesdayをやっていると、喫茶茶会記へのお客さんが覗きに来られることがある。

昨晩もそうだった。
和田明さんという方が入って来られた。

いまの時代のジャズに関心をもっている人ならば、
和田明という名前に反応されることだろう。

ジャズにうとい私は、ちぐさ賞のことはなんとなく知っていても、
どんな人が受賞していたのかまでは知らない。
和田明さんは、昨年、第四回ちぐさ賞 最高賞を受賞されている。

喫茶茶会記の店主、福地さんが、その時手にしていたのは、「ESSENCE」。
和田明さんのCDである。

つまり和田明さん本人を前にして、「ESSENCE」を鳴らすことになった。
(今回はセッティングを手抜きしてなくてよかった)

和田明さんは、写真で見るより、がっしりとした体格。
日本人に多い薄い体つきではなく、前後に厚い。
「ESSENCE」で聴ける和田明さんの歌は、体格の良さをきちんと捉えている。

楽しい体験だった。

和田明さんのディスクは、ちぐさレコードから発売されている。
CDだけでなく限定ではあるがLPもある。

Date: 4月 24th, 2017
Cate: ディスク/ブック

The Unknown Kurt Weill

発売になったばかりのレコード芸術の5月号は創刊800号とある。
1952年3月号に創刊号であるから、65年である。

私が買うようになったときにはすでにレコード芸術だったが、
ずっとは以前はレコード藝術だった。

私が熱心に読んでいたのは1980年代の10年間だった。
オーディオ雑誌よりも発売日を楽しみにしていた時期でもあった。

1990年の半ばごろから、どこか惰性で読んでいる気がしてきた。
それでも毎号買っていたけれど、いつごろだったか、それもやめてしまった。

いまでは新譜情報はインターネットのほうが早いし便利でもある。
レコード芸術を書店でみかけても、手にとることすらしなくなっていた。

それでも「創刊800号」と表紙にあれば、手にとる。
「わたしと『レコード芸術』——思いでの1枚」という記事がある。

30人の筆者が、それぞれの一枚について書かれている。
増田良介氏が、
テレサ・ストラータスの「知られざるクルト・ワイル(The Unknown Kurt Weill)」を挙げられていた。

1983年に発売になっている。
CD登場後一年ということもあってだろうか、
録音レベルはかなり抑えめであった。

岡先生はワイル好きでもあった。
ステレオサウンド連載のクラシック・ペスト・レコードで取り上げられていた。
試聴ディスクとしても使われていた。

そうやって知った一枚だ。

ワイル好きの岡先生でも知らない曲が多い、ということだった。
それまでクルト・ワイルの曲をきちんとしたかたちで聴いてこなかった私にとっては、
ほとんど初めてのクルト・ワイルといえた。

それだけによけいに新鮮に感じた。
よく聴いた。
八曲目の「ユーカリ(Youkali: Tango Habanera)」は、口ずさむこともあった。

歌詞を憶えていたわけではない。
サビの部分だけを口ずさんでいた。
いまも思い出して、口ずさむことがある。

Date: 4月 19th, 2017
Cate: ディスク/ブック

チャイコフスキー ピアノ協奏曲(アルゲリッチ/コンドラシン)

チャイコフスキーのピアノ協奏曲は、よく知られている曲だが、俗曲である──、
そんなイメージを中学生のころから持っていた。

だからというわけではないが、チャイコフスキーのディスクはあまり持っていない。
そんな私でも、アルゲリッチがコンドラシンと協演したディスクは、
発売後まもなくして買った。

ライヴ録音ということもあって、話題になっていた。
火を噴く演奏だ、という評判だった。
当時はまだCDは登場していなかったから、LPだった。
白いジャケットだったはずだ。

実は、これが最初に買ったチャイコフスキーのレコードだった。
それから30数年経っても、チャイコフスキーのディスクは、あまり増えてない。

このLPもずっと以前、手離してしまっている。
それから聴くことはなかった。
なのに、急に聴きたい、と思うようになった。

きっかけは特に思いあたらないのだが、
アルゲリッチとコンドラシンのチャイコフスキーが聴きたい、と強く思うようになっていった。

廉価盤のCDで出ている。
LPではチャイコフスキーだけだったが、
CDではシャイーとのラフマニノフの三番もカップリングされている。

チャイコフスキーのピアノ協奏曲は、多くの録音がある。
有名な曲だけに、そして売れる曲だけに名演も少なくないのだろう。

グレン・グールドも、チャイコフスキーを録音する予定があった。
CBSソニーの小冊子に、そのいきさつが書いてあった。
流れてしまった企画だが、もしグールドが録音していたら、
そうとう売れたことだろう。グールドのレコードで一番の売行きになったかもしれない。

アルゲリッチとコンドラシンの演奏は、もう二十年以上聴いていない。
ひさしぶりに聴いて、当時の印象が、ほぼそのままよみがえってきた。

この演奏に厳しい評価を下す人もいるようだが、
私には、チャイコフスキーのピアノ協奏曲はこ演奏だけでいい。
あれこれ聴き比べをしたいとは思わない。

次回のaudio wednesdayでは、このディスクをかけようか。

Date: 4月 19th, 2017
Cate: ディスク/ブック

A DAY IN THE LIFE

「A DAY IN THE LIFE」

ステレオサウンド 16号にディレクター論の二回目が載っている。
菅野先生と岩崎先生による「クリード・テイラーを語る」である。

この中に「A DAY IN THE LIFE」のことが出てくる。
     *
岩崎 ちょっと恥ずかしいんですが、ぼくは少し前までは「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」を聴かないと一日が終わったという気がしなかったものです。それくらいこの人のレコードは好きなんですね。あのレコードを毎日毎日聴いていた。まるで麻薬、音楽の麻薬みたいなものですよ。あの企画は、時代の感覚を鮮明に盛りこんだ音というのは、まちがいなくクリード・テイラーの音だと思うのです。
     *
「クリード・テイラーを語る」の記事の前半を読めば、
「A DAY IN THE LIFE」が、
クリード・テイラーがA&Mにスカウトされて最初に出したアルバムということが、
ジャズに明るくない私にもわかる。
ウェス・モンゴメリーのアルバムだ、ともわかる。

16号を読んだ時から、いつか買おう、と思っていたけれど、
クラシックばかり聴いていると、つい後回しにしてしまう。
後回しにしているうちに、買おうという気持とともに、
「A DAY IN THE LIFE」のことも記憶の片隅に追い払っていたようだ。

でも、なにかの表紙に、突然思い出す。
そうだそうだ、「A DAY IN THE LIFE」を買わなくては、と気づく。

気づくまでにけっこうな月日が経っている。
悠長な買い方をしているわけだ。

聴いていて、曲の展開に少し驚いた。
こういう曲だったのか、と思うとともに、
16号で、岩崎先生が「ちょっと恥ずかしい」といわれている理由が。わかったような気もした。

「A DAY IN THE LIFE」を1960年代のおわりごろに、
岩崎先生は毎日聴かれていた。

Date: 4月 10th, 2017
Cate: ディスク/ブック

「ガラスの靴」

安岡章太郎氏の小説は、なにひとつ読んでいない。
いまごろ気づいたわけではない。
小説以外のものはいくつか読んでいるし、
インタヴューもいくつか読んでいる。

けれど小説は読むこと(手にとること)はなかった。

世の中には多くの小説家がいて、
どれか一冊でも読んだことのある小説家よりも、
一冊も読んだことのない小説家の方が多いという人はかなりいると思う。

なぜ、いまになって……、と自分でも不思議に思う。
けれど、急に読みたくなった。

何を読むか。
出世作といわれ、三つある処女作のひとつである「ガラスの靴」を選んだ。
「ガラスの靴」という小説があることだけは知っていた。

でも、「ガラスの靴」ということばのもつ響きが、
なんともある種の古くささを、いまでは感じさせていて、手にとることはなかった。

今日買ってきたばかりで、これから読むところだ。
少なからぬ人がそうであるように、私もあとがきを最初に読む。

「ガラスの靴」(講談社文芸文庫)の巻末には、
「作者から読者へ」という、いわばあとがきといえるものがある。
     *
 この発見、というか自己認識は、私としては初めて知った面白いあそびであった。それまでの私は、小説といえば出来るだけ現実から遠い世界を描くべきであり、現実の事故からは隔離した架空の〝自己〟を設定して、彼によって架空の自己主張を展開すべきものだと考えていた。なぜこんな奇妙な小説理論(?)を作り上げたか、それについて説明している余裕はいまはない。ただ、反現実主義の思考は、戦時下に育った青年にとってはそんなに奇異なものではなく、かなり一般的に認められる傾向ではなかったろうか。ところで、この自己認識というあそびを覚えると私は、それまでの反現実主義の小説論は馬鹿ばかしいものに思われてきた。実際、小説を書くためにわざわざ架空の自己など設定しなくとも、自己というのはそれ自体が〝架空〟と見えるほど奥深いものであって、それを探ることは生じっかな小説を書くことよりも、もっとずっと小説的な作業ではないか。
     *
安岡章太郎氏をオーディオマニアといっていいのかどうかはよくわからない。
けれど、レコード(録音物)で音楽を聴くことに無関心だったわけではない。
強い関心をもたれていた、と思っている。

どういうシステムだったのかは知っている。
そのこととつながっていく気がしている。

それに、このことは別項「評論家は何も生み出さないのか」とも関係してくるだろう。

Date: 3月 29th, 2017
Cate: ディスク/ブック

ヨッフムのベートーヴェン「第九」

日本語版はなくなった月刊PLAYBOYだが、
創刊号からしばらくはオーディオを取り上げていた。
瀬川先生も執筆されていた。

1981年1月号では、『第九』ベスト・レコード研究というタイトルの記事があり、
瀬川先生はオーディオ的な見地から、での選択である。
     *
 数多くの〝名盤〟の中から、まず第1に推したいのは
■ヨッフム指揮/ロンドン交響楽団
 録音は1978年3月。そのせいもあってか、音が実にみずみずしい。各楽器の音色の微妙な色あいが十分に美しくとらえられ、しかもそれらが互いによく溶けあい、奥行きの深さをともなって聴こえてくる。まさに『第九』かくあるべしとでもいいたいレコーディングであり、しかも演奏もまた最上級だ。イギリスEMIの録音は、昔から美しい艶のある音に定評があったが、反面、録音の時期によっては、ややひ弱な音に感じられるときもあった。しかし、このヨッフム盤は、音に充実感とコクがあって、重厚だが決して重く粘ったりしない。それはもちろん、ヨッフムの演奏の、円熟の中にある意外な若々しさに負うところが大きい。
 ヨッフムは以前にもフィリップス・レーベルで同曲を入れている。演奏は69年の録音で、EMI録音とのあいだに約10年のへだたりがあるにしても、録音はむろんのこと演奏自体の出来栄えも、問題なく新盤の方が良い。試聴盤を返却したあと、即日レコード屋に飛んで行って買ってきた。
 録音の良さ、という面からは、次に、
■カラヤン指揮/ベルリン・フィルハーモニー・オーケストラ
 録音は1977年。ヨッフムより少し早い。カラヤン盤は『第九』だけでも数種類出ているが、録音も演奏も、この77年盤が最高といえる。ドイツ・グラモフォンの録音は、本質的に響きがやや硬い。そのことは、EMIやフィリップスの音と比較してみるとよくわかる。しかし、このカラヤン盤に関する限り、音の硬さは最小限にとどめられて、各パートの繊細な動きとその表情の精妙さを、十分によくとらえている。数あるベートーヴェンの交響曲の録音の中でも、やはり上位に置かれるべき録音であろう。ただ、それはオーケストラ・パートに限っての話、であって、第4楽章に入り、テノールの〝おお友よ〟のレシタチーフが始まったとたんに、オーケストラ・パートの音量に比較して、声の音量が、いささかバランスをくずして大きすぎる点に、奇異な感じを抱かされる。
 このレコードは、発売直後に入手して、何度か聴いているにもかかわらず、いまだにこの部分にくると、どうにもなじめない。なぜか4人の独唱者の声をクローズアップしすぎていて、とても不自然だ。合唱に入ってからのコーラスの音量とオーケストラの音量のバランスは、そんなにおかしくないものだから、よけいに独唱パートの音の不自然な拡大が耳につく。その点を除きさえすれば、という条件つき、というのも妙なものだが、やはり録音という面では注目盤、ということになる。
 ところで、これ以外には、中途半端に「新しい」録音よりも、3枚の、少々古い、しかしすばらしいレコードをあげておきたい。それは、
■セル指揮/クリーヴランド交響楽団
■クリュイタンス指揮/ベルリン・フィルハーモニー・オーケストラ
■S=イッセルシュテット指揮/ウィーン・フィルハーモニー・オーケストラ
 いずれも、今日的な繊細、鮮明かつダイナミックなという録音ではなく、少々古めかしく聴こえるが、しかし音楽的なバランスがすばらしく、それぞれに、つい聴きほれさせる。むろん、それは演奏自体のすばらしさでもある。
 これらのレコードを聴いていると、録音の良さとは、必ずしも新しさがすべてでないことが、よくわかる。
 ただ、セル盤とクリュイタンス盤は、一枚におさめてあるため、どちらも、あの陶酔的な第3楽章が、A面とB面に分割されている。
 とくにセル盤の跡切れかたが、やや唐突で、感興をそがれるのは残念である。
 ただし、セル盤もクリュイタンス盤も1300円と格安だ。
     *
オイゲン・ヨッフムの「第九」のことは、ステレオサウンド 57号、
プリメインアンプの総テストでの試聴レコードのところでも書かれている。
     *
ベートーヴェン/交響曲第九番「合唱」──たまたま、某誌でのベートーヴェンの第九聴き比べという企画で発見した名録音レコード。個人的には第九の録音のベスト1としてあげたい素晴らしい録音。音のひろがりと奥行き、そして特に第4楽章のテノールのソロから合唱、そしてオーケストラの盛り上がりにかけての部分は、音のバランスのチェックに最適。しかも、このレコード独特の奥行きの深い、しかもひろがりの豊かなニュアンスというのは、なかなか再生しにくい。
     *
このヨッフムのベートーヴェンがSACで復刻される。
タワーレコードから発売予定である。

「いい音」について考えていくうえでも、聴いておきたい一枚だ。

Date: 3月 29th, 2017
Cate: ディスク/ブック

「楷書の絶唱 柳兼子伝」

品切れで重版未定の本だけど、紹介しておきたいのが「楷書の絶唱 柳兼子伝」。

長らく絶版だったのだか2009年に新装復刊されている。
楷書の絶唱、いいことばだ。

Date: 3月 6th, 2017
Cate: ディスク/ブック, 老い

「トリスタンとイゾルデ」(バーンスタイン盤)

本は書店で買うようにしているのに、
CDはなぜかインターネット通販で買うことが圧倒的に多い。

今日ひさしぶりに新宿にあるタワーレコードに行った。
タワーレコードは独自に、廃盤になってしまった録音を復刻しているのはご存知のとおり。

バーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」のその中に入っていたことを、
店舗に行って気づいた。

「この曲の新境地を示したバーンスタイン唯一のワーグナーのオペラ全曲盤が、国内盤で約23年振りに復活!」
と帯にある。

なぜか、ずっと廃盤のままだった。
ハイライト盤はあったけれど。

数ある「トリスタンとイゾルデ」のディスクで、屈指の名演かといえば、そうとは思っていないけれど、
このバーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」は執拗さという点で、
異質といえるのかもしれない。

この執拗さは、老いからくるものだろうか。
そうだろうと思う。
だからだろう、40をすぎたあたりから、無性に聴きたくなった。

けれど廃盤のままでかなわなかった。
発売になってすぐに買って聴いていたバーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」だったが、
当時私は20代、最後まで聴き通すことがしんどく感じられた。

二、三回にわけて全曲を聴いたが、一回で最後まで聴き通したことはなかった。
そんなこともあって、他の事情もあって、手離していた。

いまなら、最後まで聴き通せるはずである。

Date: 3月 2nd, 2017
Cate: ディスク/ブック, 岩崎千明

Leroy Walks!(二度目の「20年」)

締めの一曲としてかけた「Leroy Walks!」を聴いていた喫茶茶会記の店主・福地さんがいった。
「(この音なら)岩崎千明さんも喜ぶはず」と。

福地さんは私よりも和解から、岩崎先生の文章にリアルタイムで触れてきたわけではない。
喫茶茶会記をジャズ喫茶だと思っていない人の方が多くとも、
喫茶茶会記はジャズ喫茶である。

私が鳴らした「Leroy Walks!」を、どういわれるか。
わからない、というのが本音だ。

私だって、岩崎先生の文章をリアルタイムで読んだのは、わずか数ヵ月。
岩崎先生に、私は会えなかった。

岩崎先生も「Leroy Walks!」も聴かれていたであろう。
どんなふうに鳴らされただろうか。

岩崎先生はLPで聴かれていた(はず)。
私はCDで「Leroy Walks!」を聴いた。
それだけ月日が経っている。
ずいぶんと経っている。

1977年3月に亡くなられた。
昨晩から3月である。

二度目の「20年」が、ここにもある。