Archive for category ディスク/ブック

Date: 7月 21st, 2024
Cate: ディスク/ブック

THE DREAMING(青春の一枚・その3)

ケイト・ブッシュの四枚目のアルバム、
「THE DREAMING」を、7月のaudio wednesdayでかけた。

かけるつもりは、最初はなかった。
それでもメリディアンのDSP3200にエラックのリボン型トゥイーターを足した音は、
「THE DREAMING」をかけることを、私に促した。

聴き終って、
「THE DREAMING」は私の青春の一枚であることを噛み締めていた。

「THE DREAMING」の中からどの曲を選んだのか。
どうして、その曲なのか。
その理由は書かないけれど、やはりこういうふうに鳴ってくれるのか、
その手ごたえが、私にとって最大の収穫だった。

Date: 6月 27th, 2024
Cate: ディスク/ブック

“盤鬼”西条卓夫随想録(届く)

2月に届く予定だった「「“盤鬼”西条卓夫随想録」が、
ようやく届いた。
遅れた、といえばそうなのだが、
隔月刊となったラジオ技術が、
ほとんど不定期刊行になってしまっているのだから、
6月に届いたのだから、
予想よりも早かったぐらいに受け止めている。

「随想録」と「私の終着LP」は、
ラジオ技術掲載時に読んでいる。
それでも、こうやってまとめて、そしてあらためて読めるのは、
やはりありがたいことである。

昨年、休刊になったレコード芸術が、
今年、オンラインで復活する。

時代が違う、
レコード芸術とラジオ技術という掲載誌の性格の違い、そんなことよりも感じるのは、書き手の覚悟の有無である。

Date: 6月 24th, 2024
Cate: ディスク/ブック

ブラームス 弦楽六重奏曲第一番 第二番(その14)

十一年ぶりの引越しだった。
一つのところに十年以上住んだのは、
東京で暮らすようになってからでは、ここだけだった。

十一年前の引越しはさほど大変ではなかった。
でも今回は大変だったのは、
少しずつ、いろんなモノがたまって、増えていっていたからなのは、
最初からわかっていたけれど、それでも多かった。

とにかく今日は部屋に収めただけという状況で、
これもiPhoneで書いている。
なので、まだスピーカーから音は鳴っていない。

ラルキブデッリによるブラームスの弦楽六重奏曲が聴けるようになるのは、
もう少し先になる。

Date: 6月 21st, 2024
Cate: ディスク/ブック

ブラームス 弦楽六重奏曲第一番 第二番(その13)

今度の月曜日(6月24日)に引っ越す。
新しい部屋で最初に鳴らすのは、
ラルキブデッリによるブラームスの弦楽六重奏曲かな、とおもっている。

それに7月3日のaudio wednesdayでも、かけようとおもっている。

Date: 6月 14th, 2024
Cate: audio wednesday, ディスク/ブック

フィガロの結婚(クライバー・その5)

7月3日のaudio wednesdayで、メリディアンのDSP3200をふたたび鳴らす理由のひとつが、
このエーリッヒ・クライバーによる「フィガロの結婚」を、
MQAで一人でも多くの人に聴いてもらいたいから、である。

ワンポイント録音だといわれる、この「フィガロの結婚」は、
「フィガロの結婚」という作品の美しさを、演奏(録音)された時代を背景に、
見事に聴き手に提示(展開)してくれる。

すでに書いているように、MQAで聴くといっそう、その感を強くする。
とはいえ、TIDALにエーリッヒ・クライバーの「フィガロの結婚」はあるが、
残念なことにMQAではないし、e-onkyoでもすでにMQAでの購入はできない。

もしかするとHDtracksで今年後半には聴けるようになる可能性はあるが、
それもはっきりといえるわけではない。

とにかくいまエーリッヒ・クライバーの「フィガロの結婚」をMQAで聴く機会は、
ひじょうに限られている。

だからこそDSP3200での「フィガロの結婚」である。

Date: 6月 6th, 2024
Cate: audio wednesday, ディスク/ブック

二年ぶりに聴くBrahmus: Symphony No.1(Last Movement, Berlin 23.01.1945)

二年前の9月に、フルトヴェングラーのブラームスの交響曲第一番のことを書いた。

五味先生の「レコードと指揮者」からの引用をもう一度しておく。
     *
 もっとも、こういうことはあるのだ、ベルリンが日夜、空襲され、それでも人々は、生きるために欠くことのできぬ「力の源泉」としてフルトヴェングラーの音楽を切望していた時代──くわしくは一九四五年一月二十三日に、それは起った。カルラ・ヘッカーのその日を偲ぶ回想文を薗田宗人氏の名訳のままに引用してみる──
「フルトヴェングラーの幾多の演奏会の中でも、最後の演奏会くらい強烈に、恐ろしいほど強烈に、記憶に焼きついているものはない。それは一九四五年一月二十三日──かつての豪華劇場で、赤いビロードを敷きつめたアドミラル館で行なわれた。毎晩空襲があったので、演奏会は午後三時に始まった。始まってまもなく、モーツァルトの変ホ長調交響曲の第二楽章の最中、はっと息をのむようなことが起った。突如明りが消えたのである。ただ数個の非常ランプだけが、弱い青っぽい光を音楽家たちと静かに指揮しつづけるフルトヴェングラーの上に投げていた。音楽家たちは弾き続けた。二小節、四小節、六小節、そして響はしだいに抜けていった。ただ第一ヴァイオリンだけが、なお少し先まで弾けた。痛ましげに、先をさぐりながら、とうとう優しいヴァイオリンの旋律も絶え果てた。フルトヴェングラーは振り向いた。彼のまなざしは聴衆と沈黙したオーケストラの上を迷った。そしてゆっくりと指揮棒をおろした。戦争、この血なまぐさい現実が、今やはっきりと精神的なものを打ち負かしたのだ。団員がためらいながらステージを降りた。フルトヴェングラーが続いた。しばらくしてからやっと案内があって、不慮の停電が起りいつまで続くか不明とのことであった。ところが、この曖昧な見込みのない通知を聞いても、聴衆はただの一人も帰ろうとはしなかった。凍えながら人びとは、薄暗い廊下や、やりきれない陰気な中庭に立って、タバコを吸ったり、小声で話し合ったりしていた。舞台の裏では、団員たちが控えていた。彼らも、いつものようにはちりぢりにならず、奇妙な形の舞台道具のあいだに固まっていた。まるでこうしていっしょにいることが、彼らに何か安全さか保護か、あるいは少なくとも慰めを与えてくれるかのように。フルトヴェングラーは、毅然と彼らのあいだに立っていた。顔には深い憂慮が現われていた。これが最後の演奏会であることは、もうはっきりしていた。こんな事態の行きつく先は明瞭だった。もうこれ以上演奏会がないとすれば、いったいオーケストラはどうなるというのだ。」
 このあと一時間ほどで、待ちかねた演奏会は再開される。ふつう演奏が中断されると、その曲の最初からくりかえし始められるのがしきたりだが、フルトヴェングラーはプログラムの最後に予定されたブラームスの交響曲から始めた、それを誰ひとり不思議とは思わなかった。あのモーツァルトの「清らかな喜びに満ちて」優美な音楽は、もうこの都市では無縁のものになったから、とカルラ・ヘッカーは書きついでいるが、何と感動的な光景だろうか。おそらく百年に一度、かぎられた人だけが立会えた感動場面だったと思う。こればかりはレコードでは味わえぬものである。脱帽だ。
     *
この日のブラームスの交響曲第一番の最終楽章のみ録音が残っている。
CDで初めて聴いたのは、三十年以上前。

そうそう頻繁に聴く演奏ではない。
2022年にひさびさに聴いた時、二十年近く経っていた。

今回、昨晩のaudio wednesdayで、このフルトヴェングラーのブラームスをかけた。
ウェスターン・エレクトリックの757Aでかけた。
TIDALでメリディアンのULTRA DACを通して、アンプはマッキントッシュのMC275。

このラインナップでどういう音を想像されるか。
想像できないという人もいるだろうし、
757Aはそんな組合せで鳴らすスピーカーではない、という人がいてもいい。

人の想像力なんて、かぎられたものだ。
そんなことを実感した。

昨日は、まだ明るいうちから757Aを鳴らしていた。
いろんな曲をかけていた。
だから、このぐらいの音で鳴るであろう、という予測はついていた。
誰かが鳴らしているわけじゃない。
ほかならぬ自分で鳴らしているのだから、それが大きく外れることはないのだが、
このフルトヴェングラーのブラームスは大きく違った。

五味先生は
《何と感動的な光景だろうか。おそらく百年に一度、かぎられた人だけが立会えた感動場面だったと思う》
と書かれている。

そうだと私だって思っていた。
けれど昨晩の音は、《レコードでは味わえぬ》領域に一歩踏み出していた。

Date: 5月 21st, 2024
Cate: ディスク/ブック

フィガロの結婚(クライバー・その4)

モーツァルトが天才なことを疑う人は、まずいないだろう。
そのモーツァルトの天才性がもっともつよく感じられるのは、
やっぱりオペラだろうと、
エーリッヒ・クライバーによる「フィガロの結婚」を聴き終って、そうおもっていた。

Date: 5月 19th, 2024
Cate: ディスク/ブック

フィガロの結婚(クライバー・その3)

エーリッヒ・クライバーの「フィガロの結婚」を聴くたびに感じていることがある。
この録音、序曲はあまり冴えないような感じを受ける。

特に悪いというわけではないが、曲がすすむにつれて、
音の冴えが増してくるように感じるものだから、相対的に序曲が冴えないと感じてしまう。

エーリッヒ・クライバーの「フィガロの結婚」の録音時、
デッカの録音スタッフもステレオ録音について、まだ手さぐりの段階だったのかもしれない。
だからこそ、序曲よりも第一幕、第二幕……、と音が良くなっていっているのではないのか。

ここでいう音のよさとは、音の美しさでもあるし、
モーツァルトの音楽としての美しさともいいたくなる。

とにかく曲の進行とともに、なんて美しい音楽だ、とおもう気持が強くなっていく。
特にMQAで聴いていると、そのことをより強く感じる。

Date: 5月 15th, 2024
Cate: ディスク/ブック

“盤鬼”西条卓夫随想録(達成後……けれど)

「“盤鬼”西条卓夫随想録」のクラウドファンディングは達成して、
2月には手元に届くはずだったが、結局届かず──、と二ヵ月前に書いた。

4月にも届かなかった。5月、あと半分あるけれど無理であろう。
かなりぐちゃぐちゃになっている模様だからだ。

ラジオ技術の進行具合からみても、
年内に出ればいいかな、ぐらいの気持でいるしかないようだ。

Date: 5月 2nd, 2024
Cate: ディスク/ブック

夜と朝のあいだに

TIDALで日本人の歌手を検索するひとつの方法として使っているのが、
“golden best”である。

ベスト盤はいろんな国でだされているけれど、
“golden best”とつけるのは日本と韓国ぐらいのようで、
“golden best”の検索結果には、かなりの日本人の歌手が表示される。

そうやって一週間ほど前に見つけたのが、
ピーターの「夜と朝のあいだに」だった。

小学生だったころにテレビやラジオから流れてくる「夜と朝のあいだに」は、
けっこうな回数きいた記憶がある。
歌詞も半分ほどは憶えていた。

それでも今回改めて聴くと、ピーターの歌唱に少しばかり驚き。
ジャケットの写真は、かなり若い。
けれど歌の印象と写真とが一致しない。

「夜と朝のあいだに」はいつごろのヒット曲で、
その当時ピーターがきくつだったのか調べてみると、まだ十代である。
ジャケットの写真が若いのは、当然だ。

TIDALではMQAで聴ける。
昨晩のaudio wednesdayでは、トゥイーターの位置を含めての調整に、
「夜と朝のあいだに」を何度もかけた。

Date: 4月 23rd, 2024
Cate: ディスク/ブック

Codex Glúteo

Codex Glúteo。
日本盤には、
「臀上の音楽 〜 スペイン・ルネッサンス時代のシリアスな尻作春歌集」というタイトルがつけられていた。
帯には、黒田先生の「このスペインの音楽家たちの悪戯は女の人にはきかせられない。」
というコピーがあった。

これだけで、おおよその想像がつくと思う。

1978年ごろのアルバムである。
ちょっと聴いてみたい、と思っても、高校生にとって、
ちょっと聴いてみたいアルバムにこづかいを使えはしなかった。

他にも聴きたい(買いたい)レコードが数多くあったからだ。
いつか聴ける日が来るだろう──、と思いつつも、
この手のレコードは積極的に聴こうとしない限り、
いつかそうなるということはほとんどない、といまでは思っている。

どこかで偶然耳にすることはあったとしても、
それが「臀上の音楽」とは知らずに通りすぎてしまうだけだ。

「臀上の音楽」のことはすっかり忘れていた。
それをたまたまTIDALで見つけた。
MQAで聴ける。

TIDALがなかったら、おそらく一生聴く機会はなかっただろう。

Date: 4月 7th, 2024
Cate: ディスク/ブック

マーラーの交響曲第一番(一楽章のみ・その2)

4月3日にかけた音楽で、どの曲がいちばん心に響いたかは、
人によって違って当然である。

この日、アバドとシカゴ交響楽団によるマーラーの交響曲第一番をかけた。
1981年の録音。

私が、このマーラーの一番を聴いたのは、ステレオサウンドの試聴室だったことは、
その1)で書いている。

試聴では冒頭の三分くらいを聴く。
だから、音量の設定は低くない。

けれど4月3日は、一楽章を最後まで鳴らすつもりだったので、
鳴り始めた音を聴いて、あれっ、音量が低め、と思われただろう。

アバド/シカゴ交響楽団による第一番の第一楽章を最後まで聴いている人ならば、
クライマックスでどれほど音量が増すのかはわかっているはずだ。

このくらいの音量でも、後半はかなりの音量となる。
といってクライマックスで音量をあわせてしまうと、出だしはかなり小さくなってしまう。

当日の音量ぐらいがぴったりだと思っている。
それゆえに出だしのピーンとはりつめた弦の音は、よりいっそう緊張感を増していた。

マーラーの一番の一楽章を聴いて、何をおもい浮べるか。
私はヨーロッパの森、それも夜明け少し前の風景が浮ぶ。

その朝の空気がどんな感じなのか。
カラカラに乾いた空気なのか、澱んでいるのか、
曇っているのか、晴れているのか、雨なのか、
その森は人里離れたところに位置するのか、まわりに人がいるのかいないのか、
気温はどうなのか、暖かいのか、すこしひんやりしているのか、などなど。

そんなことが再生する装置によっても、鳴らし方によっても、違ってくる。
どれが正解なのかは、人それぞれなのかもしれない。

アバド/シカゴ交響楽団による演奏(録音)をどれだけ聴いてきたか、
どんな音で聴いてきたかによっても影響を受け、違うことだろう。

Date: 3月 28th, 2024
Cate: ディスク/ブック

宿題としての一枚(その14・補足)

ステレオサウンド 84号に
「シェフィールドの生みの親 ダグラス・サックスと語る」が載っている。
岡先生による記事だ。
     *
 時間がのこりすくなくなったので、最後に「ステレオサウンド」の読者代表として、レコードとオーディオソフトウェアのありかたについてきいてみた。以下は彼の意見の要約である。
サックス レコードのすべてをきくことは不可能ですが、それぞれのレコード会社には音楽媒体としてのフィロソフィをもっています。DGGは、ダイナミックレンジがせまい傾向があり、私の好みではない。デッカ/ロンドンはイギリス人らしい大胆さが見られ、幅の広いレンジをもっているが、出来不出来がある。フィリップスはホールのえらび方から音楽の暖かさの表現、マイクをあまり数多くつかわず、一番好ましくきけます。
     *
ステレオサウンド 84号は1987年秋に出ている。
その14)で引用している瀬川先生が書かれていることもいっしょに読んでほしい。

Date: 3月 25th, 2024
Cate: ディスク/ブック

宿題としての一枚(その14)

(その12)と(その13)で触れた二枚。
キリル・コンドラシンの「シェエラザード」とコリン・デイヴィスのストラヴィンスキー。
どちらもフィリップス・レーベルで、コンセルトヘボウ管弦楽団である。

このころのフィリップスの録音は、瀬川先生が書かれていたように、音が良かった。
     *
 けれど、ここ一〜二年来、その状況が少しばかり変化しかけていた。その原因はレコードの録音の変化である。独グラモフォンの録音が、妙に固いクセのある、レンジの狭い音に堕落しはじめてから、もう数年あまり。ひと頃はグラモフォンばかりがテストレコードだったのに、いつのまにかオランダ・フィリップス盤が主力の座を占めはじめて、最近では、私がテストに使うレコードの大半がフィリップスで占められている。フィリップスの録音が急速に良くなりはじめて、はっきりしてきたことは、周波数レンジおよびダイナミックレンジが素晴らしく拡大されたこと、耳に感じる歪がきわめて少なくなったこと、そしてS/N比の極度の向上、であった。とくにコリン・デイヴィスの「春の祭典」あたりからあとのフィリップス録音。
     *
ステレオサウンド 56号のトーレンスのリファレンスの紹介記事で、そう書かれていたのを、
また引用しておく。
この文章を読んでからというもの、フィリップスの録音こそ、と思い込もうとしていた。
熊本のオーディオ店にも、もちろんフィリップスのレコードをもってこられていた。

4月3日のaudio wednesdayでは、どちらかをかけるつもりでいる。
宿題としての、私にとって一枚。
それがどう響くのか。

私にとっては宿題としての一枚であっても、
他の人にとっては、そんなことは関係ない。
それでも、聴いた人の裡にどう響くのか。

Date: 3月 15th, 2024
Cate: ディスク/ブック

“盤鬼”西条卓夫随想録(達成後……)

「“盤鬼”西条卓夫随想録」のクラウドファンディングは達成して、
2月には手元に届くはずだったが、結局届かず。
なんでもCDのプレスの予定がずれ込んでいるのが理由とのメールが、少し前に届いた。

いつになるのか。3月中に届くとは思えなくなってきた。
X(旧twitter)に、ラジオ技術(組版担当のS)というアカウントがある。

この方の投稿を読むと、ラジオ技術誌の進行もストップしているようだ。
この方は「“盤鬼”西条卓夫随想録」には携われていない。
なので、この方の投稿からは「“盤鬼”西条卓夫随想録」についての情報は得られないが、
なんとなくではあってもラジオ技術編集部の事情は伝わってくる。

のんびり待つしかなさそうである。