Alice Ader(その7)
2026年2月に二度目の来日をするアリス・アデール。
2月10日の王子ホールに続いて、
14日、横浜のフィリアホールでも演奏する。
14日のプログラムは、バッハとシューベルト。
10日、14日、どちらも楽しみだが、シューベルトはとても楽しみ。
2026年2月に二度目の来日をするアリス・アデール。
2月10日の王子ホールに続いて、
14日、横浜のフィリアホールでも演奏する。
14日のプログラムは、バッハとシューベルト。
10日、14日、どちらも楽しみだが、シューベルトはとても楽しみ。
アリス・アデールが、2026年、再び日本で演奏会を開く。
2月10日、王子ホールで、ショパンとモンポウのプログラム。
2024年2月の初来日。招聘元のブログを読んで、また来てくれそうな予感はあった。
なので驚きこそないが、嬉しさは、やっぱり大きい。
今回の来日は、王子ホールでの一日だけなのか、それとも他のホールでも行うのか。
いまのところはっきりとしないが、一日だけでも、再びアリス・アデールが聴ける。
2023年1月からaudio wednesdayを再開し、今月6日の会で、二十回。
7月、8月は野口晴哉氏のスピーカー、ウェストレックス・ロンドンを鳴らした。
audio wednesdayで野口晴哉氏のスピーカーを鳴らしたのは、これが初めてではない。
昨年はウェストレックスの757Aと、そのレプリカを鳴らしているし、
audio wednesday以外でも、シーメンスのオイロダイン、
ウェスターン・エレクトリックの594Aを中心としたシステムも鳴らしている。
鳴らす度に、野口晴哉氏からの「宿題の一枚」は、なんなのか、と思う。
野口晴哉氏が、どういうレコードを所有されていたのかは、
レコード棚をけっこう見ているので、なんとなくは把握できている。
それでも「宿題としての一枚」となると、漠然とし過ぎている。
カザルスの無伴奏は、最初から、そうと意識していた。
けれどこれ以外は、なんだろうか。
いつか、これだ、と気づく日が訪れるのか。
リヒテルの平均律クラヴィーア曲集が、2012年にSACDで限定発売されていたことは、すでに書いている。
私は中古で手に入れたけど、再販されないのか、と思っていた。
今年4月に、出ている。今日、気づいた。
2012年版はハイブリッド盤だったが、今回のはSACDのシングルレイヤーである。
今回も限定なので、手に入れたい方はお早めに。まだ入手可能である。
マスターは2012年版と同じと思われる。
ただしハイブリッド盤とシングルレイヤー盤との音の違いはあるし、
ディスクの寿命という点でもシングルレイヤー盤を買っておこうかな、とも思う人はいるだろう。
ジャケットも2012年版とは違う。
同じジャケットで、Qobuzでも配信されている。
これまでのリヒテルの平均律クラヴィーア曲集は、RCAからとなっていたのが、
今回のはオイロディスクとなっている。
44.1kHz、16ビットなのは少し残念だが、それでもSACD再生環境を持たない人にとっては、
嬉しい配信であるはずだ。
2012年版は、オリジナルのマスターテープからは96kHz、24ビットでデジタルに変換されている。
もしかすると近いうちに96kHz、24ビットで配信されるかもしれない。
SACDは持っていても、その音は聴いてみたいだけに、密かに期待している。
先日の投稿で紹介した「池成子伽琴独奏のための南道民謡・雑歌 ソリの道をさがして」のCD、
購入できるところがうまく見つからない、という声があった。
発売元のページをリンクしておく。
8月6日のaudio wednesdayで、さそうあきら氏の選曲リスト。
ベートーヴェン:交響曲第六番「田園」 第一楽章
カール・ベーム/ウィーンフィルハーモニー
クープラン:「葦」、「オリーブ搾汁器」
クリストフ・ルセ(チェンバロ)
ラモー:「めんどり」、「野蛮人たち」
オリヴィエ・ボーモン(チェンバロ)
ラヴェル:「水の戯れ」
マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)
ドビュッシー:「水の反映」、「雪が踊っている」
アルトゥール・ベネデッティ・ミケランジェリ(ピアノ)
ディーリアス:「春初めてのカッコウの声を聴いて」
アンドリュー・デイヴィス/BBC交響楽団
バルトーク:弦楽四重奏曲第四番 第三楽章
アルバン・ベルク弦楽四重奏団
バルトーク:組曲「戸外にて」より「夜の音楽」
ゾルターン・コチシュ(ピアノ)
メシアン:「クロウタドリ」
エマニュエル・パユ(フルート)、エリック・ル・サージュ(ピアノ)
メシアン:「キガシラコウライウグイス」
アナトール・ウゴルスキ(ピアノ)
マーラー:交響曲第九番 第一楽章
サー・サイモン・ラトル/ベルリンフィルハーモニー
当日は、さそうあきら氏の解説付き、そして絵付きだった。
ベームの「田園」は、音楽を聴き始めたころのさそうあきら氏を虜にした音楽(演奏)。
昨晩のaudio wednesdayの休憩時間に、さそうあきら氏の奥さまのリクエストでかけたCDが、
「池成子伽琴独奏のための南道民謡・雑歌 ソリの道をさがして」である。
伽耶琴(かやぐむ)の録音。
このCDが、とても新鮮だった。
ジャケットを見れば、韓国の琴なんだろうな、と、そのくらいのことはわかっても、
鳴ってきた音は、生々しくすごかった。
リアリティがとてもある。
ウェストレックス・ロンドンで聴いたのも良かったのかもしれない。
2008年ごろの録音だそうだが、かなりの優秀録音として話題になっていてもおかしくないほどなのに、
まったくそうでないのは、レコード店では扱っていないためだろう。
ディスク番号は、TOPCD-122。
私は先ほどヤフオク!で見つけて落札した。
「ソリの道をさがして」で検索すれば、販売しているところはすぐに見つかる。
会が終って、途中まで帰りが同じだった方(たぶん同世代だろう、女性の方)が、
「音楽は詳しくないんですけど、あのレコードの響きが、他のレコードとはまったく違っていて、驚きました」、
そんなことを話された。
シャルランのレコードを鳴らした後で、ワンポイント録音だ、説明した。
オーディオマニア相手ならば、シャルランのレコードといえば、それで済むが、
ワンポイント録音がどういうものなのかも、簡単に説明した。
この時の会に参加されていた人たちの反応は、
オーディオマニアの反応よりも素直だったような気がする。
スピーカーが、こんな感じで鳴ってくれるのか──、
そんな印象を持たれたようでもある。
シャルラン レコードは、数年前に、新たにCD復刻がなされている。以前のCDよりもずっと好ましい仕上がりのようだ。
来られた方の反応を見ていて、それに上記の方の話を聞いて、
近いうちにワンポイント録音ばかりかける会をやろうと考えている。
古くはエーリッヒ・クライバーの「フィガロの結婚」もそうだし、
オーディオマニアの間でよく知られる「カンターテ・ドミノ」もそうだ。
デジタル録音になってからでは、
デンオンから発売されていたインバルのマーラーの四番がある。
マイクロフォンは三本使用だが、テラークもワンポイント録音と言える。
そのシャルラン レコードのLPを、昨日(7月26日)、やっと聴くことができた。
野口晴哉氏のリスニングルームで、聴いていた。
野口晴哉氏のレコードコレクションの中に、シャルラン レコードは、きっとあるはず、と確信していたけれど、
かなりの数のコレクションゆえ見つけるのは大変かも……と思うだけだった。
昨日は、オーディオの会とは関係ない少人数の集まりで、
私はマッキントッシュのMC275用のKT88が届いたとのことで、
MC275のチェックとセッティングの用事だった。
シャルラン レコードは、やっぱりあった。数枚あった。おそらく丹念に見ていけばもっとあるだろう。
野口晴哉氏のコレクションにあったシャルラン
レコードは、トリオレコードが取り扱っていたもので、
フランス直輸入盤である。
この盤がシャルラン レコードの初期盤なのかは私は知らないが、
とにかくフランス盤で聴ける──、そのことで充分だ。
聴いたのは、ティッセン・ヴァランターン(ピアノ)とRTF弦楽四重奏団によるフォーレ。
一緒に聴いていた数人の方たちは、オーディオに関心のある人たちではないのだが、
シャルラン レコードから鳴ってきた音というより響きに、
驚かれていたようだった。
シャルラン レコードがどういうモノなのかを知らない人たちだったからこその反応だったのだろう。
シャルラン レコードについて、何度か書いている。アンドレ・シャルランについても書いているけれど、
シャルラン レコードの音を聴いた、とははっきり言えないのは、
アナログディスクで聴いていないからだった。
CDでは聴いている。
けれどシャルラン レコードのマスターテープはもう存在しないのだから、
復刻CDの音だけを聴いてアンドレ・シャルランの意図するところを聴いたとは言えないのはことはないが、
それでも……である。
私がオーディオに興味を持ち始めたころは、まだトリオレコードが取り扱っていたから、
手に入れようと思えば買えたわけだが、
中学生にとって、買いたいレコードは山ほどあって、
シャルラン レコードは後まわししていた。そうやって手に入れる機会を逃す。
当時は、アンドレ・シャルランについての情報は乏しかった。
いまでもそれほど多くあるわけではないが、インターネットのおかげで、知ることができたことはいくつかある。
そうなると、よけいに聴きたくなる。
今朝、facebookを眺めていたら、アルフレッド・ブレンデルが亡くなったことを知った。
若いころ、ブレンデルは好きなピアニストではなかった。才能、実力はすごいと思っていたし、
コンサートにも行ったことはある。
でもブレンデルの新譜が出れば必ず買うわけではなかった。
どうしても好きなピアニスト、演奏家のディスクを買うほうを優先する。ブレンデルでは、後回しになってしまう存在だった。
ブレンデルを、そんな頃よりも少し好きになったのは、フィリップスから出た「エリーゼのために」を聴いたからだった。
このアルバムには「エロイカ変奏曲」も収められている。
こちらの方がメインだろう。
でも私の耳を捉えたのは、「エリーゼのために」だった。
「ムーミンのテーマ」を聴いたことがある人で、
テレビの音声以外で聴いたことがあるという人は、どのくらいいるのだろうか。
私は、子供の頃、テレビから流れてくる「ムーミンのテーマ」しか記憶にない。
今回聴いて感じたのは、丁寧に録音されている、ということ。
ムーミンはテレビアニメで、子供向けの作品だから──、といった甘えが感じられない。
むしろ子供たちが耳にして、口ずさむであろうから、きちんと作らなければ、というふうにも受け止めることができるほど、
そこには手抜きが一切感じられなかったからこそ、
きちんと再生することで、驚くことになったのかもしれない。
メリディアンのUltra DACの三種のフィルターで聴いていて、最も良かったLongフィルターの音は、
MQAです、と言われれば素直に信じてしまうほどの良さと好ましさだった。
Shortの音がひどかったのではない。
Shortの音だけ聴いても、きちんとした仕事による録音と感じることはできる。
それがMedium、そしてLongへと変えることで良くなり、
声の生々しさが増していき、同時に歌の表現の幅が広くなり、深みを増す。
あえてくり返すが、Longフィルターの音はMQAといってもいいほどだった。
テレビを通じてではあったものの、幼い頃に、
「ムーミンのテーマ」を毎週聴いていたことは、ふり返ると、
贅沢なことだったと思う。
昨晩のaudio wednesdayは、リクエストの会だった。
四谷三丁目の喫茶茶会記でやっていた時、何度か来られた大阪のMさん。
今年になって毎月来られている。
Mさんが待ってこられたCDの一枚が、“One Girl Best”だった。
堀江美都子のベスト盤。
堀江美都子の名を見て、反応する人もいれば、無反応な人もいるけれど、
この二枚組のCDに収録されている曲のいくつかは、
私と同世代か近い世代の人であれば、どこかで、いつの時代かに耳にしているはず。
昨晩はメリディアンの、Ultra DACを使っていたので、
リクエストされたすべてのCDで、
Ultra DACならではの三種のフィルターを切り替えて聴いてもらった。
Mさんリクエストの曲の後に、個人的聴きたい曲があったので、かけた。
昨晩は、Short、Medium、Longの順で、冒頭一分弱を聴いてもらい、
どのフィルターにするかを決めてもらうようにしていた。
“One Girl Best”でも、私が聴きたい曲でもこの順番で聴く。
「ムーミンのテーマ」、私が聴きたい、この曲では、
音の変化がはっきりとしていた。
Short、Medium、Longの順に音が良くなる。
変化すると書いた方が誤解は少ないとはわかっているが、
昨晩の音の変化は、誰の耳にもはっきりと良くなっていった。
ディスクによっては、フィルターによる音の違いがわかりにくかったり、
違いは聴き取れても、どのフィルターにしようか、迷うこともないわけではない。
「ムーミンのテーマ」は、Ultra DACのフィルターの試聴にぴったりの曲でもあったし、
「ムーミンのテーマ」は、子供のころ、毎週テレビから流れてくるのを聴いていたわけだが、
こんなにもいい曲、魅力ある歌唱だったことを、今回初めて知った。
《音楽は、いつでも、思い込みだけであれこれいわれすぎる》
黒田先生が、ずっと以前に書かれていたことだ。
ポール・モーリアの音楽も、たぶんにそうだ。
私にも、そういうところが全くないと言わない。
それでも私は黒田先生のことばに、23歳のころに出合っている。
そうでなかったなら、もしくはずっと後だったりしたら──、
音楽への接し方はずいぶん、いまとは違っていたはずだ。
ここでポール・モーリアについて書いてたりはしなかっただろう。
くり返そう。
《音楽は、いつでも、思い込みだけであれこれいわれすぎる》
音楽だけではない、オーディオも、またそうである。
イージーリスニングとかムード音楽、そんなふうにポール・モーリアの音楽は受け止められ、聴かれていた。
ポール・モーリアは、ポピュラー音楽とクラシック音楽の中間に位置すると、
自身の曲について、そう語っていたそうであるにも関わらず、
世間の受け止め方は、他の音楽よりも低き位置にあるものだったと感じる。
BGM、聞き流しのための音楽、邪魔にならない音楽──、
そんな感じだろう。
それでも一度きちんと向かい合って聴いてみれば、
そんな音楽ではないことは、ほとんどの人の耳に明らかなはず。
聴かずにいてもいいし、それじゃ一度聴いてみるか、となるのも、どちらでもいい。
聴いた方がいいとは言わないが、
ポール・モーリアの曲をかけて楽しめないシステム(音)は、
どこか未熟なところや不具合がある、と言っていいだろうぐらいに、
いまは、思っている。
そして今年はポール・モーリア生誕百年。
だからといってレコード会社が、何かやるわけでもないし、
音楽雑誌が特集を企画するわけでもない。
ひっそりと過ぎていくだけだろう。
私も、今年が生誕百年とは気づいていなかった。
今年のaudio wednesdayから、よく来られる、私よりもひと世代上の女性の方から教えてもらった。
ポール・モーリアの曲をかけたから、知ることができた。