Archive for 2月, 2016

Date: 2月 29th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その21)

ステレオサウンド 45号の特集(44号から続くスピーカーの総テスト)には、
気になるモデルがほぼすべて載っていた。

KEFのModel 105、スペンドールのBCII、タンノイのArden、アルテックのModel 19、ヤマハのFX1、
そしてJBLの4343。
44号と45号、比較するようなものではないのだけれど、
オーディオに興味を持って一年ちょっとの私には、45号に登場するスピーカーの方が興味深かった。

「フロアー型中心の最新スピーカーシステム」のタイトル通りだな、と思いながら読んでいた。
しかも嬉しいことに、フロアー型、ブックシェルフ型だけでなく小型スピーカーも取り上げられていた。
ヤマハのNS10M、JRのJR149、スペンドールSA1、そしてロジャースのLS3/5Aの四機種が載っていた。

何度も読み返した。
記憶するほどに読んでいた。
カバンの中に教科書とともにステレオサウンドをつねに一冊以上入れていた。
すこしでも読む時間があれば、ページをめくっていた。

ステレオサウンドは次号(46号)でもスピーカーを特集している。
モニタースピーカーについて、だ。
三号続けてのスピーカー特集をくり返し読むことで、
スピーカーとはどういうモノなのか、
どういう存在として認識すべきなのかを学ぶきっかけとなった、といえる。

試聴記を、ただ単にどれがいいのか──、
そんな読み方ではないところでのスピーカー独特の面白さを味わえた。
いまのステレオサウンドは、こういう読み方ができるだろうか、とだから思ってしまう。
もしかすると、そういう読み方を拒否しようとしているのだろうか……。

45号の特集の最後に載っていたのはLS3/5Aだった。
LS3/5Aは、42号のアンケートはがき(ベストバイコンポーネントの投票はがき)のスピーカー欄に、
キャバスのBrigantinとどちらを記入しようかと迷いに迷ったスピーカーだ。
これは別冊「コンポーネントステレオの世界 ’77」での井上先生の組合せの影響からだ。

Brigantinは44号にも45号にも載っておらずがっかりしたけれど、46号に登場している。
読み手の勝手な期待を裏切らないところがあった。

そんなLS3/5Aのページを読み終えて数ページの広告をめくる。
すると、そこにはJBLのHarknessがあらわれる。
田中一光氏のリスニングルームに見事におさめられているHarknessは、
特集よりも印象に残っている記事である。

こういう部屋で音楽を聴ける大人になりたいと、ぎりぎり14歳だった私に思わせた。

Date: 2月 29th, 2016
Cate: audio wednesday

第62回audio sharing例会のお知らせ(マッスルオーディオで聴くモノーラルCD)

3月のaudio sharing例会は、2日(水曜日)です。

昨夜、2397に2328を介して装着している2441を取り外し、
2328のかわりに2329を介して、2441を二発、一本の2397に取りつけていた。

今週の水曜日に行う「マッスルオーディオで聴くモノーラルCD」に備えてである。

以前、別項「趣味のオーディオとしてのカタチ(その1)」でも書いているが、
2397にはカタチとしては2441よりも2421サイズのコンプレッションドライバーの方が、サイズ的にしっくりくる。

音はともかくとして、2397に2441は大きいと感じるからだ。
にもかかわらず2397に、そんな2441をダブルで取りつけると、
オーディオが男の趣味として、オーディオ機器が存在していると、強く感じさせる。

2397+2329+2441×2は、マッスルオーディオといえるカタチをしている。
音は……、水曜日に聴ける。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 2月 28th, 2016
Cate: ステレオサウンド,

賞からの離脱(賞がもたらしたもの)

最初のベストバイの号は35号。1975年6月にでている。
二回目の43号は1977年6月。
つまりベストバイは夏号の企画だった。

49号でState of the Art賞が始まる。
1978年12月に出ている。
State of the Artは途中でComponents of the yearと名称が変更になったが、
冬号掲載の特集ということは変らなかった。

73号(1984年12月発売)で、
ベストバイとComponents of the yearが同じ号にまとめられるようになった。
Components of the yearはいまではStereo Sound Grand Prixと変ったが、
ベストバイといっしょに冬号に掲載されることは30年以上続いている。

そうなったことがステレオサウンドに与えたことのひとつに、
年度の区切りがあると、私は思っている。

一年の締括りとしてComponents of the year賞とベストバイが行われる。
そのことがいいのか悪いのかはあえて語らないが、
ベストバイ、Components of the yearが定着する以前のステレオサウンドには、
一年の締括りというものがなかった、といえる。

それが73号以降、12月発売の冬号で一年を締括る。
そして3月発売の春号から新しい一年が始まる──。

もうじき春号(198号)が発売になる。
ステレオサウンドのウェブサイトに、どういう内容なのか告知されている。

一年前の春号(194号)のときにも気になっていた。
194号の特集は「黄金の組合せ2015 ベストバイスピーカーを鳴らす最良のアンプを選りすぐる」、
198号の特集は「タイプ別徹底比較! ベストバイスピーカー 19モデルの魅力」。
どちらにもベストバイスピーカーの文字がある。

つまりは前号(冬号)の特集であるベストバイの結果を受けての企画である。
198号はまだ発売されていないから内容については触れないが、
ここで冬号が一年の締括りだったことが、崩されようとしていることを感じる。

それが意識的なのか、それともそうでないのかはなんともいえないが、
これから先も春号でベストバイスピーカーを特集にもってくるのであれば、
一年を通じてのステレオサウンドの構成に微妙な変化をもたらすはずだ。

だから、意識的なのかそうでないのかによって、
そこで生じる微妙な変化に対する編集部の対応は違ってくる、ともいえるはずだ。

それから……、この件について書きたいことはまだあるけれど、今回はこのへんにしておく。

Date: 2月 27th, 2016
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(映画性というだろうか・その8)

映画は映画館で観ることを前提としている。
映画館のスクリーンは、テレビのサイズよりも大きい。
それもかなり大きい。
いまでこそテレビの大型化は当り前になっているが、
昔のテレビはいまよりもずっと小さなサイズで、映画館のスクリーンはずっと大きかった。

映画館は暗かった。暗い中での大きなスクリーン。
これだけでも茶の間で見るテレビと映画は違う。

さらに音が違う。
昔のテレビのスピーカーは小口径のフルレンジが一発だけだった。

このスピーカー(音)の違いは、テレビとスクリーンのサイズの違い以上の違いともいえる。

これらの違いが生み出すものを、観客は映画と認識するのだろうか。
これだったら映画にする必要を感じない、とか、テレビで充分の作品だ、といったことが言われる。

どの作品とはいわないが、映画館で観ていて、これだったらテレビでもいいかも……、と思うし、
映画館で見損ねた作品をテレビでみて、やはり映画館で観たかった、と思うことは、誰しも経験していることのはず。

いったいどういうところで、そう判断しているのか。
大作だから、ということは関係ない。
スケールの大きさもそうではない。
そうでない作品であっても、映画だ、と感じる作品は多い。
大作であっても、テレビで充分、というものも少なくないから。

結局、精度だと思う。
精度の高いものを、映画だ、と感じるし、
精度の低い、十分でないものはテレビ的と感じるのではないか。

そのことにスクリーンの大きさ、映画館という暗い場所、
テレビとは圧倒的に違う音が密接に関係している、と考えている。

Date: 2月 26th, 2016
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(主従の契り)

ステレオサウンドについて(その20)」で書いたことを読み返して思ったのは、
瀬川先生がステレオサウンド 44号、Lo-DのHS350の試聴記の冒頭に書かれたこと、
こういうことを書く人はいなくなっている、ということだ。

私は《編集部によって削られることなく》と書いたが、
いまステレオサウンドに書いている人のほとんどは、
ステレオサウンド編集部によって削られる可能性のあることは書かない──、
といっていいだろう。

筆者が編集部の意向をくんで……、ということなのだろうか。
編集部からすれば、そういう文章を書いてくる人のほうが原稿を依頼しやすい、ということになる。

そんなことを思っていたら、
いまのステレオサウンドにおいて、編集部と筆者の関係は、どちらが主で従なのか、と考える。
昔はどうだったのだろうか、とも考える。

なぜ編集部は削るのか。
編集部が削ってしまうのは、クライアントが主であり、編集部が従であるから、といえなくもない。
そうだとしよう。
これは正しいありかたと、削る側の人たちは思っているのか……、ということも考える。

ここで忘れてはならないのは、読者の存在だ。
読者は主なのか、従なのか。

Date: 2月 25th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その20)

ステレオサウンド 44号について、ひとつ書き忘れていたことがある。
特集の「フロアー型中心の最新スピーカーシステム」のテスト機種として、
Lo-Dのブックシェルフ型のHS530が登場している。

この機種の試聴記の冒頭に瀬川先生が、こんなことを書かれている。
     *
 このメーカーの製品は、置き方(台や壁面)にこまかな注意が必要で、へたな置き方をして評価すると、このメーカーから編集部を通じてキツーイお叱りがくるので、それがコワいから、できるかぎり慎重に時間をかけてセッティングした……というのは冗談で、どのスピーカーも差別することなく、入念にセッティングを調整していることは、ほかのところをお読み下さればわかっていただけるはず。
     *
試聴記の1/3ほど、このことに割かれている。
41号から読みはじめた私には、このことがどういうことなのか、その詳細は当時はわからなかった。
なにかあったんだろうな、ということはわかっても、それ以上のことはわからない。

このころ瀬川先生は、私にとってもっとも信頼できるオーディオ評論家だった。
その瀬川先生が、あえて、こういうことを書かれている。
しかも、それが編集部によって削られることなく活字になっている。

いまのステレオサウンド編集部では絶対にありえないことだ。

Date: 2月 25th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その19)

ステレオサウンドを読みはじめて一年もすれば、次号の表紙はなんだろうな、と想像する。
このころはことごとく外れてしまっていた。

45号の表紙もKEFのModel 105だとは思わなかった。
何を予想していたのかはもう憶えていないが、
Model 105が表紙で嬉しかったのは憶えている。

いまはたいてい予想が当る。
毎号当るわけではないが、簡単に予想がつく号が、昔よりも増えてきている。

約40年前の予想といまの予想とでは違っていて当然であるが、
そればかりが表紙になる機種を当てられる理由ではないといっておきたい。

あのころは表紙の予想を含めて、ステレオサウンドを楽しんでいたし、楽しめた。

Date: 2月 25th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その18)

ステレオサウンド 45号の表紙はKEFのModel 105だった。

Model 105は44号の新製品紹介のページに登場していた。
山中先生と井上先生が評価されている。

Model 105のスタイルは、当時テクニクスがさかんに謳っていたリニアフェイズと同様だった。
マルチウェイの各ユニットの駆動中心を揃えている。

KEFがリファレンスシリーズと呼びはじめたModel 103、Model 104とは、
スタイルにおいてもサイズにおいても大きく違っている。
Model 105もリファレンスシリーズのモデルである。

44号の新製品紹介において、井上先生が語られている。
     *
井上 その一つの例をあげると、このシステムの振動板にはベクストレンという合成樹脂系のものが使われていますが、今までの合成樹脂系の振動板の音には一種の固有音めいたものがあったのですね。たとえばヴァイオリンではガット弦であるべきところがナイロン弦になったように聴こえてしまうところといった感じがつきまとっていたのですが、このシステムの場合それが感じられないといっていいと思います。これは大変な技術的進歩だといえますね。
     *
さらに井上先生は、こうもいわれている。
     *
井上 スピーカーを開発する場合、一方には「スピーカーは楽器なり」の考え方──開発・設計する側の一つの主張として感覚的なものを加えて独得な音色をつくり出す──もあるのですが、その痕跡はまったくといっていいほどこのシステムにはないですね。
     *
Model 105は、予価195000円(一本)とあった。
中学生には、これでも買えない金額だが、JBLの4343からすれば、1/3以下の価格だ。

山中先生がいわれているように《非常に理知的なスピーカー》という印象が、
外観からも、ステレオサウンドの記事からも充分伝わってきていた。

KEFのModel 105は、44号を読んで、私がいちばん注目していたスピーカーだった。
それが45号の表紙になっていた。

Date: 2月 25th, 2016
Cate: audio wednesday

第62回audio sharing例会のお知らせ(マッスルオーディオで聴くモノーラルCD)

3月のaudio sharing例会は、2日(水曜日)です。

今回の音出しは、どういう音が鳴ってくるのか、予想できるところとそうでないところがあると思っている。
事前にJBLのドライバーとホーンを搬入して、
音を出せれば、その音に応じて当日までに対策することもできるが、
今回は当日に搬入しての音出し。

ウーファーが同じJBLならば予想できるところは大きくなるが、
アルテックのウーファーであり、アルテックとJBLの混成システムの経験は私にはない。

なので当日ぶっつけ本番で音を出す。
どんな音が出てくるのか。
ひどい音にはならないはずだが、
現代的なオーディオ機器の音とはずいぶん違う音は鳴ってくるはずだ。

アルテックの416-8Cはそれほど低域が延びているわけではないし、
高域もエッジが改良されレンジが延びているとはいえ、4インチ・ダイアフラムの2441であるから、
どんなにがんばっても15kHzくらいが限度だ。

ナロウレンジの高能率のシステムを、管球式プリメインアンプでバイアンプ駆動する。
それは手本のような音とは大きくかけはなれているであろう。
そういう意味では、まったく参考にならない音と判断される方も出てくると思う。

そういう音を出そうとはまったく考えていない。
とにかく仲間内での、ひとつの実験的な音出しにしたいと思っているからだ。

こんな音の世界もあるのか、と楽しめればいい。
今回、私自身は試聴CDはもっていかない。
当日参加された方が持参されたモノーラルCDをかける。

システムからすればジャズが中心になるであろう。
でもジャンルは問わない。
クラシックのモノーラルCDも、ロック・ポップスのモノーラルCDで、
私が勝手にマッスルオーディオと呼ぶシステムで聴いてみたいと思われたディスクを持ってきてほしい。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 2月 24th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その17)

ステレオサウンド 44号が発売になったのは1977年9月。
41号、42号、43号と続けて買っていたけれど、44号はすぐには買えなかった。

当時中学三年だった私に1600円は、そうたやすく出せる金額ではなかった。
買いたい、すぐに買って帰って家でじっくりと読みたい……、
そう思いながら小遣いがたまるのを待っていた。

もうはっきりとは憶えていないが、一ヵ月以上経って、やっと買えた。
44号のスピーカーシステムの総テストには、JBLの4343は登場していない。
タンノイもBakeleyが載っていて、Ardenは載っていなかった。
スペンドールはBCIUIIで、BCIIではなかった。
アルテックもModel 15で、Model 19ではなかった。

当然これらのモデルが、スピーカーシステムの総テストから外れるわけがない。
注目のスピカーシステムなのだから、次号(45号)に載ることは、はっきりしていた。

44号を買ったのは10月にはいってからだった。
だから45号までは二ヵ月ほどしかなかったわけだが、
4343、Arden、BCIIが載るはずの45号だけに、その二ヵ月は、それまでの三ヵ月よりも長く感じたものだった。

できれば、その二ヵ月のあいだに、瀬川先生が試聴に使われたレコード、
黒田先生が使われた10枚のレコードのうちの数枚は買っておきたかった。

買って聴いていれば45号が、より濃密に読めるはず、と思いながらも、
一枚も買えずに12月になったものだった。

Date: 2月 23rd, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その16)

ステレオサウンド 44号、45号のスピーカーシステム総テストにおいて、
瀬川先生が使われた試聴レコードは、八城一夫の“SIDE by SIDE Vol.3”の他に、
カラヤン/ベルリンフィルハーモニーによるベートーヴェン序曲集、
ギレリスのピアノ、ヨッフム/ベルリンフィルハーモニーによるブラームスのピアノ協奏曲、
ウィーンフィル室内アンサンブルによるベートーヴェンの七重奏曲Op.20、
フィッシャー=ディスカウによるシューマンのリーダークライス、
これらはすべてグラモフォンである。

あとはバルバラの「孤独のスケッチ」(フィリップス)、
テルマ・ヒューストンの「アイヴ・ゴッド・ザ・ミュージック・イン・ミー」、
このディスクはシェフィールドのダイレクトカッティング盤である。

さらに、その他、数枚適宜使用、とも記してある。

これらすべてのレコードについても、“SIDE by SIDE Vol.3”についてと同じように書かれていたら……、思っていた。
いまも思う。

《クラシックから歌謡曲まで、一枚一枚のレコードについて言い出せば、ゆうに本誌一冊分も書かなくてはならない》、
そう書かれているぐらいだから、
定期刊行物であるステレオサウンドにそれを求めるのは無理としても、
別冊というかたちで出版してくれていたら……、と思っていたし、いまも思っている。

オーディオは趣味だから……、という発言をこれまでに何度も耳にしてきた。
これから先も何度も聞くはずだす、目にするはずだ。

「オーディオは趣味だから……」の「……」のところ。
これを口にする人は「……」のところをどう考えているのだろうか。

中には趣味なのだから、好き勝手に聴けばいい、という。
この手のことを聞くたびに(目にするたびに)、
瀬川先生が《一枚一枚のレコードについて》、ステレオサウンド一冊分を書いてくれていたら……、とやはり思う。

瀬川先生だけではない、他の方々も書かれていたら、どうなっていただろうか。
ステレオサウンド 44号、45号での黒田先生の試みも、ここだけで終ってしまった。

黒田先生の試みは、そこに登場するレコードを持っていなかった(聴いていなかった)者にとっては、
わかりにくい、もしくは音をイメージしにくい面もあったし、
いま読んでも、このままでは試みとしては未熟な面があるといえるけれど、
なぜ、このような試みをあえてされたのかは、よくわかる。

「オーディオは趣味だから……」と簡単に口にするような人には伝わらないことだと思っている。

Date: 2月 22nd, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その15)

ステレオサウンド 43号について書き始めたら、
どうしてもベストバイのことについて書きたいことが、とにかくあって、
書き続けていたわけだが、ベストバイの号は47号、51号、55号、59号……ずっと続いていく。

それぞれの号のところで書いていけるので、
ここらで43号(ベストバイ)からはなれて、次の号にうつっていきたい。

44号の表紙はゲイルのスピーカーシステムGS401Aだった。
ゲイルのスピーカーシステムの手前には、ブランデーグラスがぼんやりと写っている。

44号は秋号である。
秋の夜長に……、というわけでもないのだろうが、そんなことを思わせる表紙だ。

ゲイルのGS401Aは、両サイドをクロームメッキ処理したスピーカーで、
ステレオサウンドを読み始めてやっと一年の私にとって、初めて見る意匠でもあった。

特集は「フロアー型中心の最新のスピーカーシステム総テスト(上)」。
(上)とあることから、45号もスピーカーシステムの総テストだとわかる。

42号のプリメインアンプの総テストのスピーカーシステム版かというと、そうとはいえない。
44号、45号のスピーカーシステムの総テストは、42号と同様のスタイルの試聴記と測定ではなかった。

黒田先生の「スピーカー泣かせのレコード10枚の50のチェックポイントグラフ」、
それから特集冒頭の「最新スピーカーシステムの傾向をさぐる」(瀬川先生が書かれている)の最後、
どのレコードの、どういうところをどう聴いているのかが、ある程度具体的に示されている。

瀬川先生の、そのところを引用しておく。
     *
 あまり抽象論が続いても意味がないと思うので、ここで仮にただ一枚のレコードをあげて、その一枚でさえいかに再生が難しいかを考えてみる。クラシックからロックまでの幅広いジャンルのほぼ中ほどから、ジャズを一枚。それも、あまり古い録音や入手しにくい海外盤を避けて、オーディオラボの菅野沖彦録音から、“SIDE by SIDE Vol.3”をとりあげてみよう。今回の私のテストの中にも加えてあるが、私のその中で SIDE A/BAND 2の“After you’ve gone”をよく使う。
 SIDE by SIDEは、ベーゼンドルファーとスタインウェイという対照的なピアノを八城一夫が弾き分けながら、ベースとギター、またはベースとドラムスのトリオで楽しいプレイを展開する。第一面をベーゼンドルファー、第二面をスタインウェイと分けあって、それにひっかけてSIDE by SIDEのタイトルがついている。
 After you’ve goneは、まず八城のピアノと原田政長のベースのデュオで始まる。潮先郁男のギターはしばらくのあいだ、全くサイドメンとして軽いコードでリズムを刻んでいる。ところがこのサイドのギターに注意して聴くと、スピーカーによってはその存在が、耳をよく澄まさなくては聴き分けにくいような鳴り方をするものが少なくない。またギターそのものの存在が聴き分けられても、それが左のベース、中央のピアノに対して、右側のギターという関係が、適度に立体的な奥行きをもって聴こえなくてはおかしい。それが、まるでスクリーンに投影された平面像のように、ベタ一面の一列横隊で並ぶだけのスピーカーはけっこう多い。音像の定位とは、平面だけのそれでなく前後方向に奥行きを感じさせなくては本当でない。適度に張り出すとともに奥に引く。奥行き方向の定位感が再現されてこそ、はじめてそこにピアノ、ギター、ベースという発音体の大きさの異なる楽器の違いが聴き分けられ、楽器の大きさの比が聴きとれて、つまり音像は立体的に聴こえてくる。
 次に注意しなくてはならないのは、ベーゼンドルファーというピアノに固有の一種脂こい豊麗な音色がどれだけよく聴きとれるかということ。味の濃い、豊かに丸味を帯びて重量感のあるタッチのひとつひとつが、しっとりとしかもクリアーに聴こえるのがほんとうだ。ことに、左手側の巻線の音と、右手側の高音域との音色のちがい。ペダルを使った余韻の響きの豊かさと高音域のいかにも打鍵音という感じの、柔らかさの中に芯のしっかりと硬質な艶。それらベーゼンドルファーの音色の特色を、八城の演奏がいかにも情感を漂わせてあますところなく唄わせる。この上質な音色が抽き出せなくては、このレコードの楽しさは半減いや四半減してしまう。
 ところで原田のベースだが、この音は菅野録音のもうひとつの特長だ。低音の豊かさこそ音楽を支える最も重要な部分……彼(菅野氏)があるところで語っているように、菅野録音のベースは、他の多くのレコードにくらべてかなりバランス上強く録音されている。言いかえれば、菅野録音のベースを本来の(彼の意図した)バランスで再生できれば、それまで他のレコードを聴き馴れた耳には、低音がややオーバーかと感じられるほど、ベースの音がたっぷりした響きで入っているのだ。
 ところがこのレコードを鳴らしてみて、むしろベースの音をふつうのバランスに聴かせてしまうスピーカーが意外に多い。むろん、同じ一つのスピーカーで、菅野録音とそれ以外のレコードを聴きくらべてみれば、相対的にその差はすぐわかる。だが、このレコードのベースの音は、ふつう考えられているよりもずっとオーバーなのだ。それがそう聴こえなければ、そのスピーカー(またはその装置あるいはリスニングルーム)は、低音の豊かさが欠如していると言ってよい。
 お断りしておくが、私はこのレコードのベースのバランスが正しいか正しくないかを言おうとしているのではない。あくまても、レコード自体に盛られた音が、好むと好まざると、そのまま再生されているかいないか、を問題にしているので、その意味でもこのレコードは、テストに向いている。
 ところで最後に、テストに向いているというのはあくまでもこのレコードのほんの一面であって、ここで展開される八城トリオの温かく心のこもったプレイは、そのまま、音楽そのものが聴き手をくつろがせ、楽しませる。良いスピーカーでは右の大別して三つの要素が正しく再現されるということは良いスピーカーの最低限度の条件にすぎないので、その条件を満たした上で、何よりもこの録音が最も大切にしているアトモスフィアが、聴き手の心に豊かに伝わってくることが、実は最大に重要なポイントなのだ。面倒な言い方をやめてたったひと言、このレコードが楽しく聴けるかどうか、と言ってしまってもよい。ところがこのレコードの「音」そのものは一応鳴らしながら、プレイヤーたちの心の弾みや高揚の少しも聴きとれないスピーカーがいかに多いことか。

 たった一枚のレコードをあげてでも、そしてその中のたかだか3分間あまりの溝の中からでも、ここに書いたよりさらに多くの音を聴きとる。スピーカーテストとはそういうことだ。そういうレコードを十枚近く用意すれば、そのスピーカーが、「音楽」を聴き手に確かに伝えるか否かが、自ずから明らかになってくる。クラシックから歌謡曲まで、一枚一枚のレコードについて言い出せば、ゆうに本誌一冊分も書かなくてはならないが、逆にいえばどんなレコードでもいい。聴き手にとってより知り尽くした一枚のレコードに、いかに豊かな音楽が盛られているかを教えてくれるスピーカーなら、おそらくそれは優れたスピーカーだ。
     *
オーディオラボの“SIDE by SIDE Vol.3”は、まだ持っていなかった。
歩いて行けるところにあるレコード店ではオーディオラボのレコードは扱ってなかった。

バスで約一時間、LPほぼ一枚分の乗車賃を払って熊本市内のレコード店に行かなければならなかった。
しかも、そこで“SIDE by SIDE Vol.3”をみかけたことはなかった。

それでも瀬川先生の書かれたものを読み返しては、
いつか“SIDE by SIDE Vol.3”を買ったら、そこに書かれている聴き方をするんだ、と思い続けていた。
14歳のときの話だ。

Date: 2月 21st, 2016
Cate: 素材

羽二重(HUBTAE)とオーディオ(その12)

KK塾、三回目、
講師の石黒浩氏がモダリティの数について話された。

人間の認識において重要なことは、モダリティの数であり、
少なくても多すぎてもいけないということだった。

その数は二つだ。
二つのモダリティが満たされていると、人の認識は本物と錯覚するとのこと。
実例として、ある人の声を後方からスピーカーで鳴らす。
声の再生だけではモダリティは一でしかない。

ここにもう一つ、別のモダリティを足す。
例えば、その声の主がつけている香水の匂いを、声といっしょにかがせる。
声と匂い、モダリティが二つになる。

すると本人が真後ろにいて話しかけていると錯覚する。
ではもうひとつモダリティを加えると「不気味の谷」の問題が発生するため、逆効果になるそうだ。

二つのモダリティが、足りない情報を人間の脳が勝手に想像(補充)するから、らしい。
この話を聞いていて、以前川崎先生が話されていたことを思い出していた。

この項の(その4)と(その5)に書いたことだ。

五感ではなく二感だ、ということ。
人間には視覚と触覚の、ふたつの感覚しかない、ということである。

まったく同じことをゲーテも語っている。
     *
視覚は最も高尚な感覚である。他の四つの感覚は接触の器官を通じてのみわれわれに教える。即ちわれわれは接触によって聞き、味わい、かぎ、触れるのである。視覚はしかし無限に高い位置にあり、物質以上に純化され、精神の能力に近づいている。
(ゲーテ格言集より)
     *
石黒浩氏の実験における二つのモダリティ(声と匂い)は、
どちらも触覚・接触の器官を通じての感覚である。

Date: 2月 20th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その14)

出している、と変換したいのに、ときおり「堕している」と出る。
このまま「堕している」にしておこうかと、その度に思う。

AppleのPowerBook G4と親指シフトキーボードで、このブログを書いている。
最近PowerBook G4の液晶ディスプレイの具合が悪いことが頻繁で、
iMacでローマ字入力で書くことも増えてきたが、
このブログのほとんどはPowerBook G4と親指シフトキーボードの組合せで書いてきた。

つきあいの長いPowerBook G4と親指シフトキーボードの組合せだから、
私がステレオサウンドを、どう思っているのか、わかっていて「堕している」と変換候補を出しているような気さえする。

私は、ステレオサウンドがおもしろくない、と感じているわけでも、考えているわけでもない。
「堕している」があらわしているように、ダメになってしまった、と感じているし考えている。
オーディスト」のことに関しても、そうである。

そういう私に、いまのステレオサウンドはおもしろいという人(一人ではない)がいる。
もうそういう問題ではなくなっている、と感じている。

そういう人たちから感じられるのは、自分こそがステレオサウンドの良き理解者だ、という、
安っぽい正義感とでも言おうか、なんとも表現しにくい気持悪さである。

Date: 2月 19th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その13)

ステレオサウンドに対して批判的、否定的なことばかり書くやつだと思われているようで、
数度、いまのステレオサウンドはおもしろい、といったことをいわれたことがある。

そういってくる人が、ステレオサウンドを読みはじめて二年くらいの、
そして10代の若者であれば、そう思ってしまうのは当然だと思うし、
私だって、いま10代で、ステレオサウンドを読みはじめて二年くらいであれば、そう思うだろう。

けれど、私に、いまのステレオサウンドはおもしろい、おもしろくなってきている、
といってきた人は、いずれも私よりも年輩の、
私よりも古くからステレオサウンドを読んできている人であった。

えっ、と思う。
ほんとうに、この人は、いまのステレオサウンドをおもしろいと思っているのか。
だから理由をきく。
返ってくることをきいていてると、
いまのステレオサウンドがおもしろい、とはいったいどういうことなのか、と考えてしまう。

少なくとも私は、そういう人たちが返してくる「ステレオサウンドがおもしろい」理由に納得できなかった。
納得できないから、もういいや、と思うときもあるし、さらにつっこんでききかえすこともある。
そういうときにも「時代が違うから……」が出てくる。

私に対して、「時代が違うから……」という人は、
いまのステレオサウンドの理解者である、と私にいいたいのだろうか。

私に対して、おまえはいまのステレオサウンドを理解していない──、
そういいたいのだろうか。

こういう時、私が思っているのは、理解と同情は違う、ということである。