ステレオサウンドについて(その13)
ステレオサウンドに対して批判的、否定的なことばかり書くやつだと思われているようで、
数度、いまのステレオサウンドはおもしろい、といったことをいわれたことがある。
そういってくる人が、ステレオサウンドを読みはじめて二年くらいの、
そして10代の若者であれば、そう思ってしまうのは当然だと思うし、
私だって、いま10代で、ステレオサウンドを読みはじめて二年くらいであれば、そう思うだろう。
けれど、私に、いまのステレオサウンドはおもしろい、おもしろくなってきている、
といってきた人は、いずれも私よりも年輩の、
私よりも古くからステレオサウンドを読んできている人であった。
えっ、と思う。
ほんとうに、この人は、いまのステレオサウンドをおもしろいと思っているのか。
だから理由をきく。
返ってくることをきいていてると、
いまのステレオサウンドがおもしろい、とはいったいどういうことなのか、と考えてしまう。
少なくとも私は、そういう人たちが返してくる「ステレオサウンドがおもしろい」理由に納得できなかった。
納得できないから、もういいや、と思うときもあるし、さらにつっこんでききかえすこともある。
そういうときにも「時代が違うから……」が出てくる。
私に対して、「時代が違うから……」という人は、
いまのステレオサウンドの理解者である、と私にいいたいのだろうか。
私に対して、おまえはいまのステレオサウンドを理解していない──、
そういいたいのだろうか。
こういう時、私が思っているのは、理解と同情は違う、ということである。