Archive for 11月, 2016

Date: 11月 30th, 2016
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その15)

(その9)で引用した五味先生の文章を、もう一度読んでほしい。
     *
ベートーヴェンのやさしさは、再生音を優美にしないと断じてわからぬ性質のものだと今は言える。以前にも多少そんな感じは抱いたが、更めて知った。ベートーヴェンに飽きが来るならそれは再生装置が至らぬからだ。ベートーヴェンはシューベルトなんかよりずっと、かなしい位やさしい人である。後期の作品はそうである。ゲーテの言う、粗暴で荒々しいベートーヴェンしか聴こえて来ないなら、断言する、演奏か、装置がわるい。
(「エリートのための音楽」より)
     *
ソニーのポーダブルCDの音は、決して優美な音ではなかった。
安っぽい音といってはいいすぎだが、価格相当の音でしかなかった。

それでもジュリーニの「第九」に涙した。
ソニーのポータブルCDの音は、優美な再生音ではなかったけれど、
それまでの私は、優美な再生音を出そう、優美な再生音でベートーヴェンを聴きたい、
その一心でオーディオをやってきた。

優美な再生音が出せていたのかよりも、
出そうとつとめてきた日々があったからこそ、といえる。

だから音楽を聴いてきてよかった、
ベートーヴェンを聴いてきてよかった、とともに、
オーディオをやってきてよかった、ともおもっていた。

Date: 11月 29th, 2016
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その14)

ベートーヴェンの前に出ていた、ウィーンフィルハーモニーとのブラームスも素晴らしかった。
だからベルリンフィルハーモニーとのベートーヴェンも期待していた。
期待していたからこそ、無理をしてでもCDと聴くためのポータブルCDを購った。

ソニーのポータブルCDだった。
質屋にあったくらいだから最新機種でもなく、普及クラスの型落ちモデルである。
どんな音なのかはまったく期待していなかったし、その通りの音しかしてこなかった。
それでも、聴いていて涙がとまらなかった。

男は成人したら、涙を流していいのは感動したときだけだ、と決めていた。
つらかろうが、くやしかろうが、涙は流さないのが大人の男だと思っていた。

こんなにも涙は出るものか、と思うほどだった。
一楽章がおわり、二楽章、三楽章と聴いて、四楽章。
バリトンの独唱がはじまると、もっと涙が出た。

大切なもの、大事にしてきたものがほとんどなくなってしまった狭い部屋で、
ひとりでいた。ひとりできいていた。

音楽を聴いてきてよかった、と思った。
ベートーヴェンを聴いてきてよかった、とも思っていた。

Date: 11月 29th, 2016
Cate: 黒田恭一

「MILES AHEAD マイルス・デイヴィス 空白の5年間」

12月23日公開の映画「MILES AHEAD マイルス・デイヴィス 空白の5年間」は、
邦題が示しているように1970年代後半の五年間を描いている、とのこと。

ステレオサウンド 59号の黒田先生の連載「さらに聴きとるものとの対話を」は、
マイルス・デイヴィスのことだった。
「プレスティッジのマイルス・デイヴィスのプレスティジ」だった。
     *
 みんながいまのマイルス・デイヴィスをききたがっていることを、マイルス・デイヴィス自身が誰にもまして認識しているのかもしれない。にもかかわらず、いまなお、マイルス・デイヴィスは、新作を発表できないでいる。そして、その過去を整理するかのように、プレスティッジでのレコードがアルバムにまとめられ、さらにCBSでのレコードも似たようなかたちでまとめられた。マイルス・デイヴィスは、一九二六年生れであるから、一九八一年のいま五十五才である。過去を整理してはやすぎるとは思えない。
 それにしても、なにゆえに、マイルス・デイヴィスは、新作が発表できないでいるのであろうか。さしずめこのところしばらくのマイルス・デイヴィスは、ウタヲワスレタカナリヤである。ウタヲワスレタわけではないかもしれぬが、なぜかウタヲうたえないようである。マイルス・デイヴィスは、きっとつらいにちがいない。そのつらさが、漠然とではあるが、わかるような気がする。
     *
と書かれ、マイルスとの対比でデイジィ・ガレスピーについて触れられている。
マイルスのことを考えると暗示的に思い出されるひとりとしてのガレスピーである。

マイルスとガレスピーの音を、テノールにたとえられてもいる。
     *
 ガレスピーの音は、いつだって、とびきりいい音である。ああ、トランペットっていいな、とききてに思わせずにおかない音である。そこでのガレスピーの音もそうである。そういうガレスピーの音に較べれば、マイルス・デイヴィスの音は、きわだった魅力に欠ける。ガレスピーの音をイタリアのテノールの声にたとえれば、マイルス・デイヴィスの音は、さしずめドイツのテノールの声である。マイルス・デイヴィスの音は、「オ・ソレ・ミオ」をうたうためのものというより、「マタイ受難曲」のエヴァンゲリストのためのものといえるのではないか。ひとことでいえば、暗く、感覚的なよろこびに不足している。
     *
そのあとにもっとストレートな対比をされている。
1981年当時のマイルス・デイヴィスは《直立しない男根》、
《おのれの単婚が直立していることを意識さえしていないかのような》ガレスピー、と。

そして、マイルスは《不直立男根は不直立男根なりに意味をもってしまう不幸》を背負っているようであり、
マイルスはいまつらいのであろう、
《それゆえにまた、マイルス・デイヴィスの新作をききたいのである》と。

映画は、この時期のマイルスを描いているはずだ。
「プレスティッジのマイルス・デイヴィスのプレスティジ」を書かれた黒田先生は、
「MILES AHEAD マイルス・デイヴィス 空白の5年間」をど鑑賞され、何を書かれるだろうか、
かなわぬこととはいえ、読み手はそれを読みたい、と思ってしまう。

Date: 11月 28th, 2016
Cate: マルチアンプ

マルチアンプのすすめ(その36)

前回(その35)の時点では、
LCネットワークの直列型の音を、自分で試してはいなかった。
それから約一年のあいだに、
喫茶茶会記で毎月第一水曜日に行っているaudio sharing例会で試している。

6cBのスロープで、2ウェイのシステムに限っていえば、
直列型ネットワークのメリットは、確かにある。

3ウェイ、4ウェイとなっていくと、そのへんどうなのかはこれから試してみたいことであるし、
高次のスロープではどうなっていくのか。
システムとしてスピーカーをどうまとめていくのか、
その方向性によってもネットワークを並列型か直列型かは変ってくるとはいえ、
直列型ネットワークの音を、自分で出してみて得られたものはけっこうあった。

それで思ったのは、マルチアンプにおける直列型はあり得るのか、だ。

トゥイーターとウーファーを直列に接続して、
それぞれのユニットにアンプをあてがうという接続は、まず無理である。
ならばパワーアンプの手前、
つまりデヴァイディングネットワーク(いわゆるチャンネルデヴァイダー)を、
並列型ではなく直列型にできないものだろうか。

ここを直列型にすることで、LCネットワークにおける直列型とイコールになるわけではないにしても、
共通する良さがあるのではないだろうか。

具体的にどうやるのか。
スピーカーユニットのところをトランスに置き換えればいい、とすぐに気づいた。

2ウェイならばライントランスをふたつ直列接続にする。
それぞれのトランスに対してコイル、コンデンサーを並列接続する。

直列型LCネットワークの回路図のスピーカーユニットを、
そのままトランスに置き換えただけの回路である。

Date: 11月 28th, 2016
Cate: audio wednesday

第71回audio sharing例会のお知らせ(忘年会としての音出し)

12月のaudio sharing例会は、7日(水曜日)です。

今回は12月、忘年会のシーズンなので、
あえてテーマを決めずに、忘年会的な音出しをしていきたいと考えている。

今年聴いたCDの中で、
誰かに聴いてもらいたいと思っているディスクを持参していただき、
あれこれ語ろうという趣旨の音出しである。

なにも今年の新譜でなくていい、旧譜であっても、今年初めて聴いて感動し、
誰かに聴いてもらいたいと思う一枚があれば、それをもってきてほしい。

喫茶茶会記でのアンプは、マッキントッシュの管球式プリメインアンプMA2275である。
夏に行ったマークレビンソンLNP2の比較試聴のときも、MA2275を使った。

MA2275はコントロール機能をすべてパスできるパワーアンプ入力を備えている。
LNP2の比較試聴の際には、この入力で、パワーアンプ部のちを使った。

そうやって聴くと、MA2275のパワーアンプ部の素姓はいい、と感じた。
それにくらべるとコントロールアンプ部の出来は、やや劣るような印象がある。

今回は実験的な意味を含めて、パワーアンプ部のみの使用で、
コントロールアンプ部も別のコントロールアンプも用意せずの音出しを考えている。
もちろんポテンショメーターを使うわけだが、配線に少し実験的要素を加えての音出しである。

12月なので、最後にはベートーヴェンの「第九」をかけたい。
四楽章のみになると思う。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 11月 27th, 2016
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その13)

1990年8月に左膝を骨折した。
一ヵ月半ほど入院していた。

真夏に入院して、退院するころは秋だった。
退院したからといって病院と縁が切れるわけではなく、
リハビリテーションがあるから毎日通院していた。

骨折して脚が一時的ではあるが不自由になると、
健康なころには気づかないことが多々在ることを知らされる。

普段何気なく歩いているのはどこにも故障がないからである。
片膝が曲らないだけで、歩き難さを感じる。

道の断面が平らではないから、端を歩くのが大変だし、
歩道に電柱があったりする。
そういう歩道に限って狭いのだから、電柱をよけるのもいやになる。

階段もそうだ。
昇るのが大変だと思われがちだが、昇りはゆっくり進めばいいだけで、
怖いのは降りである。

昇りのエスカレーターはあっても、降りのエスカレーターはない駅が大半だった。
なぜ? と思う。

リハビリに通い始めのころは歩くのも遅かった。
高齢の方に追い越されもした。

そんな日々が一ヵ月以上続いた。
リハビリから戻ってきても、部屋には何もなかった。
音楽を鳴らすシステムが何もなかった。

それでもリハビリからの帰り道、ジュリーニ/ベルリンフィルハーモニーの「第九」の新譜をみかけた。
聴きたい、と思った。
といっても聴くシステムがないから、
当時住んでいた西荻窪駅近くの質屋でポータブルCDがあったのを買った。

(その6)で書いたことを、また書いているのは、
この時のジュリーニの「第九」は不意打ちだったからだ。

ジュリーニの「第九」だから買った。
期待して聴いた。
それでも不意打ちのような感動におそわれた。

そのときの私は、仕事をしていなかった。
ひとりでいた。
リハビリだけの日々。

日常生活を送っていた、
とはいえ、みじめな生活といえばそうである。
どことなく社会から取り残され隔離されているように感じていたのかもしれない。

ポータブルCDだから付属のイヤフォンで聴いた。
少し大きめの音で聴いた。

Date: 11月 26th, 2016
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアの覚悟(その5)

死の間際、「悔いのない人生だった」といえるような生き方はしていない。
実際に、その瞬間を迎えないことにはなんともいえないが、
さまざまな悔いを思い出すかもしれない。
忘れてしまっているような悔いまで思い出すかもしれない。

これから悔いのない人生を送ったとしても、
すでに53年間生きているのだから、悔いはある。

だからオーディオマニアとしての悔いだけは残さないようにしている。
それが覚悟だと思っている。

悔いとは、あることから逃げたり避けたり、ズルしたりの記憶でもあるはずだ。
他にも悔いといえることはあろうが、
とにかくオーディオマニアとして、
オーディオに関することから逃げたり、ズルしたりの記憶を持つようなことはしないようにすることが、
オーディオマニアとしての悔いを残さない道であるし、
オーディオと対決する、ということのはずだ。

Date: 11月 25th, 2016
Cate: 原器

オーディオ「原器」考(続々続・マイクロフォンこそが……)

昔のソニーの広告にあったように、
マイクロフォンがオーディオの出発点とすれば、
スピーカー、ヘッドフォン、イヤフォンが終着点ということになる。

出発点と終着点の対称性ということでは、
マイクロフォンとスピーカーシステムよりも、
マイクロフォンとヘッドフォン(イヤフォン)が、はるかに対称性を保っている。

たとえばゼンハイザーのマイクロフォンでの録音を、
ゼンハイザーのヘッドフォンもしくはイヤフォンで聴く。

マイクロフォンとヘッドフォンを同じメーカーで揃えることで、
出発点と終着点の対称性は、さらに高くなる──、といえるのだろうか。

Date: 11月 25th, 2016
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その9)

オーディオの想像力の欠如が生むのものひとつに、「物分りのいい人」がいる。
「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」である。

Date: 11月 25th, 2016
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その8)

オーディオの想像力の欠如が、音を所有できると錯覚させるのだろう。

Date: 11月 25th, 2016
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その7)

オーディオの想像力の欠如が生れるのは、飽和点に達してしまうからかもしれない。
その飽和点に直ちに達してしまうほど、夢、そして理想(ロマン)をみる能力が低いのかもしれない。

Date: 11月 25th, 2016
Cate: 原器

オーディオ「原器」考(続々・マイクロフォンこそが……)

アメリカの三大スピーカーメーカーとして、
1970年代まではJBL、アルテック、エレクトロボイスを挙げることができた。

アルテックとエレクトロボイスはスピーカーとともにマイクロフォンも手がけていた、
JBLは違っていたことは、前回書いた。

JBL、アルテック、エレクトロボイスの音はそれぞれ個性があり違う。
それでもマイクロフォンを手がけてきたアルテックとエレクトロボイスは、
JBLとはあきらかに違う、といえる。

もちろんアルテックとエレクトロボイスの音は違う。
それでもJBLの音と比較した場合、
アルテックとエレクトロボイスの音には共通するところがあるともいえる。

その理由はいくつかあるのだろうが、意外にもマイクロフォンを手がけてきたメーカーと、
そうでないメーカーの違いが、音として顕れているのかもしれない。
偶然の一致なのだろうが、そうだろうか、とも思えてしまう。

いまスピーカーとマイクロフォン、
どちらも手がけているメーカーはいくつあるのか──、とすぐには思い浮ばないが、
これがヘッドフォンとマイクロフォンということになると、海外にはいまもいくつかある。
AKG、ベイヤー、ゼンハイザー、シュアー、などがある。

ヘッドフォンでも、マイクロフォンと手がけているメーカーとそうでないメーカー、
何か共通することがあるのだろうか。

Date: 11月 25th, 2016
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その6)

オーディオの想像力の欠如が生むのは、「耳」の想像力の欠如であろう。
「耳の」の想像力の欠如が生むものは……。

Date: 11月 24th, 2016
Cate: 型番

ヤマハの型番(続・Cの意味)

ヤマハの型番について、facebookでコメントがあったし、メールもいただいた。

CA、CT、CRのCはコンポーネント(component)を意味しているのではないか、とあった。
コンポーネント説は私もそう思ったことがある。
そうだとしたら、スピーカーやアナログプレーヤーもコンポーネントのひとつであるわけだから、
スピーカーならばCS、アナログプレーヤーならばCPとつくはずだから、違うようにも思いながらも、
メールにあったように、CAの型番を使うようになった当時は、
まだまだセパレートステレオが主流だった。
ゆえにコンポーネントを強調していたのかもしれない。

正確なところはわからない。

スピーカーユニットのJAに関しては、ほんとうに?である。
ヤマハはもとは日本楽器だった。
直訳すれば、Japan Instrument、
その流れで日本音響の直訳でJapan Audioだとして略すればJAという可能性、
もしくは部品番号が、そのまま製品の型番に使われたのではないか、という指摘があった。

スピーカーユニットは、ある意味、部品といえなくもない。
部品番号から来ているのだろうか。

型番の意味がわかったところで、
何か得るものがあるかといえば、何もない。
型番の意味を知らなくても、特に困ることはない。

それでも型番には、なんらかの意味がある。

私が中学生だったころ、
マーク・レヴィンソンが目標だった。
LNP2をこえるアンプをつくる、と思っていた。

回路の勉強をする前に、パネルデザインのスケッチ(落書きレベルだった)とともに、
型番もあれこれ考えていた。

かっこいい型番とそうでもない型番がある。
かっこいいアンプをつくりかった。
デザインだけでなく、型番も、である。

なので、型番について知りたいと思う気持は、人よりも強いのかもしれない。

Date: 11月 24th, 2016
Cate: 楽しみ方

オーディオの楽しみ方(つくる・その11)

カートリッジの取りつけネジに関係することで思い出したことがある。
十年くらい前になるか、
ある個人サイトの掲示板にあった書き込みを思い出していた。

その掲示板はにぎわっていた。
当時もっともアクセスの多かったオーディオの個人サイトだったのではないだろうか。
サイト名をいえば、多くの人が知っているはずだ。

それだけ有名になるといろんな人が書き込みにくるんだな、と思って眺めていた。
サイトを公開している人も、管理が大変だろうな、と思っていた。

ある人が、ヴィシェイの抵抗はバラツキがけっこうある、
そんなことを書き込みされていた。

ヴィシェイの抵抗にもいろいあるが、その人が指摘していた抵抗は、
ヴィシェイのラインナップのなかで最高精度のモノである。
価格もかなり高価である。

ヴィシェイの抵抗の音に関してはあえて書かないけれど、
少なくとも信頼性の高さを誇っている抵抗であり、
バラツキもおそらく最も少ない抵抗のひとつのはずだ。

そのヴィシェイの抵抗に、けっこうバラツキがある──、
ということは、非常に耳のいい人とともに、
わずかなバラツキを音の差として鳴らし分けるだけのシステムをもっているということでもあるし、
それだけのチューニングがしっかりとなされている、ということでもある。

どんな人なのかはすぐにはわからなかったが、
何度目かの書き込みの際に、
ヴィシェイの抵抗を使った自作アッテネーターの写真が公開されていた。

驚いた。
あまりにおそまつなつくりに驚いた。
ハンダ付けもお世辞にも上手とはいえない。
その他にも気づいたことはある。

ヴィシェイの高価な抵抗を、これだけの本数購入する前に、
ハンダ付けの練習を徹底的にやるべき、といいたくなるレベルだった。

これでは音の違いが出るであろう。
つくりのおそまつさが音として出て、
ハンダ付けの未熟さを自覚していないご本人は、
ヴィシェイの抵抗がバラついている、と思ってしまったのだろう。

こんな例は、他にもあるはずだ。
オーディオ雑誌に掲載されている真空管アンプの内部写真をみると、
この人はアンプ自作歴数十年のはずなのに、みっともない配線をしている。

そういうアンプにかぎって、高価な、そして貴重な部品が使われている。
あれだけの自作歴があれば、アンプづくりの腕は上達しよう。
人によって上達の度合に差はあっても、だ。