オーディオの想像力の欠如が生むもの(その60)
オーディオの想像力の欠如した耳は、認識の純化ができないようだ。
オーディオの想像力の欠如した耳は、認識の純化ができないようだ。
映画の予告編と本編は、
ここにきて、以前とは様相が変ってきた。
もう予告編で、映画本編のすごさをきちんと感じとることが無理になりつつある。
映画館での予告編ならばまだしも、
インターネットのおかげで、いまでは家庭で、映画館での予告編よりも早く見ることができる。
映画を観るのも好きだが、それと同じくらい、
もしかするとそれ以上に予告編を見るのが好きな私にとって、いい時代である。
ここでも書いてきているように、
いくつかの映画の予告編を見て、あまり期待できないかも……、と思っていたのが、
IMAXで観て、まったく逆であったことを体験してきている。
今日観てきた「ジェミニマン」の予告編もそうだった。
ジェミニマンというタイトルが、なんとなく古くさく感じられたし、
予告編を観ても、わさわざ映画館で観よう、とはそれほど思わなかった。
なのに、ハイフレームレートでの上映という、この謳い文句だけで観にいきたいに変った。
きっとIMAXで衝撃を受けた映画と同じであるに違いない、と思ったからだ。
映画の歴史は長い。
その長い歴史のなかで、いくつかのエポックメーキングなことがあって、
ここまで来ている。
いままたエポックメーキングなことが起っているのではないのか。
映画の技術的なことに詳しいわけではないが、
なんとなくそんなふうに感じている。
それゆえに家庭で見る予告編の印象と、
上映館を選んでの映画本編の印象は、大きく隔たりはじめている。
映画館の料金は、都内だと1,900円のところがある。
これは通常料金で、3Dやドルビーアトモス、IMAXだと追加料金が発生する。
一本の料金が3,000円前後になることもある。
私はauユーザーなので、TOHOシネマズは月曜日は安く観られるから、
月曜日は映画の日のようになってきている。
高いよ、という声もあるようだが、行けば納得できる。
一時期、映画館から遠ざかっていたのが、
映画館に行くのが楽しくなってきている。
いま、節目の時代なのかもしれない。
ほんとうに節目の時代なのかどうかは、しばらく経ってみないとなんともいえないが、
それにしても上映館を選ばなければならない時代になりつつあるのは確かなようだ。
ホームシアターを趣味としている人のなかには、
映画館よりも、わが家のホームシアターのほうがずっとクォリティが高い、
そういう人が少なからずいるようだ。
最新のホームシアターを体験したことはないが、
そういえるレベルにあるのだろうな、ぐらいには私だって思っている。
それでも「ジェミニマン」は、
しばらくはホームシアターでの再現は無理ではないか──、
そう思わせるほどに、120fpsのハイフレームレートでの上映は、
オーディオでのハイレゾとは一線を画している、といいたくなるし、
ハイフレームレートにあたる再生での条件とはなんだろうか、と考えさせられる。
単純に考えれば、サンプリング周波数が高くなれば、
ハイフレームレートと同じこと、となりそうではある。
けれどハイフレームレートの「ジェミニマン」を観ると、
そうとはいえない気持が強くなってくる。
なぜ、そんなふうに感じたのかは、うまく説明できないし、
理由もはっきりとはわからない。
それでも、サンプリング周波数がどんどん高くなることが、
映画における1秒間のコマ数が増えていくことと同じとは思えないのは、
聴覚と視覚の違いによるものだけとは考えていない。
なにか別の要素というか条件が、ハイフレームレートに相当する予感がしている。
映画「ジェミニマン」を観に、さいたま新都心駅近くにあるMOVIXさいたまに行ってきた。
わざわざ埼玉にある映画館にまで足をはこんだのは、
関東では、ここでしか120fpsのハイフレームレートの上映は行っていないからだ。
TOHOシネマズ日比谷もハイフレームレートで「ジェミニマン」を上映しているが、
60fpsである。
それでも通常の映画が24fpsなのだから、十分にハイフレームレートとはいえるけど、
それでもその二倍の120fpsで上映しているところがあれば、やはりそこで観たい。
これから先、120fpsでの上映が一般的になるのであれば、
それまで待つのも考えるが、そうすぐにはなりそうにない。
監督のアン・リーにいわせると、
「ジェミニマン」の理想の上映は、
4K/3D/HFR(High Frame Rate)であり、
これを満たす映画館はアメリカにもない、とのこと。
日本では埼玉県のMOVIXさいたまの他に、
大阪府の梅田ブルク7、福岡県のT・ジョイ博多が120fpsでの上映である。
アン・リー監督によれば、
4K/3D/HFRは、人間の目で見る感覚の再現だ、そうだ。
観れば、それが実感できる。
映画は内容だ、といって、
この手の映画を敬遠する人がいるのはわかっているが、
それでも映画を映画館で観るのが好きな人ならば、
120fpsのハイフレームレートでの上映を体験してほしい、
というよりも、体験すべきだ、といいたい。
一週間後の水曜日は、audio wednesdayであるにも関らず、
まだ何をやるか、ほとんど決めていない。
やりたいことは常にいくつかあっても、
それらがやれるとはかぎらないわけで、
いまやれることとなると……、が現実である。
今回はテーマも決めていない状態なので、
何の準備もしていない。
ひとつ考えているのは、メリディアンの218を使っての比較試聴である。
何を比較試聴するのかは書かない。
あまり変らない、と思われるかもしれないし、
比較試聴するモノ自体の違いよりも、音は大きく違って鳴るのかもしれない。
詳細を何を明かさない比較試聴である。
場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
ステレオサウンド 54号の特集の座談会のなかで、
ブリランテという固有名詞が出てくる。
*
瀬川 黒田さんの言葉にのっていえば、良いスピーカーは耳を尾骶骨より前にして聴きたくなると同時に、尾骶骨より後ろにして聴いても聴き手を楽しませてくれる。それが良いスピーカーの一つの条件ではないかと思います。現実の製品には非常に少ないですけれど……。
そのことで思い出すのは、日本のスピーカーエンジニアで、本当に能力のある人が二人も死んでしまっているのです。三菱電機の藤木一さんとブリランテをつくった坂本節登さんで、昭和20年代の終わりには素晴らしいスピーカーをつくっていました。しかし藤木さんは交通事故、坂本さんは原爆症で亡くなってしまった。あの二人が生きていて下さったら、日本のスピーカーはもっと変っていたのではないかという気がします。
菅野 そういう偉大な人の能力が受け継がれていないということが、非常に残念ですね。
瀬川 日本では、スピーカーをつくっているエンジニアが過去の伝統を受け継いでいないですね。今の若いエンジニアに「ブリランテのスピーカーは」などといっても、キョトンとする人が多い。古い文献を読んでいないのでしょうね。製品を開発する現場の人は、文献で知っているだけでなく、現物を草の根分けても探してきて、実際に音を聴いてほしい。その上で、より以上のものをつくってほしいと思うのです。
故事を本当に生きた形で自分の血となり肉として、そこから自分が発展していくから伝統が生まれてくるので、今は伝統がとぎれてしまっていると思います。
黒田 たとえば、シルヴィア・シャシュが、コベントガーデンで「トスカ」を歌うとすると、おそらく客席にはカラスの「トスカ」も聴いている人がいるわけで、シャシュもそれを知っていると思うのです。聴く方はカラスと比べるぞという顔をしているだろうし、シャシュもカラスに負けるかと歌うでしょう。その結果、シャシュは大きく成長すると思うのです。
そういったことさえなく、次から次へ新製品では、伝統も生まれてこないでしょう。
*
これを読んでから、ずっとブリランテが気になっていたし、
ブリランテのことを少しでも知りたい、と思っていた。
1997年にインターネットをやるようになってから、
これまでに何度か「ブリランテ」で検索したことがある。
けれど何もヒットしなかった。
ブリランテのスピーカーが、いったいどういうモノだったのか、
ユニットの口径以外は、ほとんど知りようがなかった。
「スピーカー技術の100年II 広帯域再生への挑戦」には、ブリランテのことが載っている。
初めて写真を見た。しかもカラー写真である。
「スピーカー技術の100年II 広帯域再生への挑戦」も売れてほしい。
「スピーカー技術の100年III」が出てほしいからである。
テレビが登場したばかりのころを描いたドラマでは、
テレビの箱の中に小さな人がいて、演じていると思っていた、というシーンがあったりする。
笑い話なのだが、
実際にあったことなのだろうか、とも思うことがある。
すでに映画はあったのだから、そんなことを思う人がいるのか、と、
その時代を知らない私などは、そんなふうに思ってしまう。
このことは二年以上前にも書いている。
その時は考えもしなかったことなのだが、
映画はスクリーンに映される。
つまり、当時の人たちは、
映画を連続した写真がスクリーンに映し出されるものとして捉えていたのではないか、
そんなことを考えているし、
そんなふうに考えていると、映画にとって重要というか、
映画っぽさをつくり出している要素の一つとして、コマ数があるようにも思えてくる。
無声映画のころは、16fpsだった。
トーキーになってしばらくして24fpsになっている。
いまも24fpsのままである。
「静寂から音楽が生まれる」は、
アンドラーシュ・シフのインタヴューとエッセー集である。
アンドラーシュ・シフは、素晴らしいピアニストだと想っている。
デッカ時代に録音したバッハを聴いて、そう思った。
20代のある時期、シフのディスクをよく聴いていた。
なのにある時からスパッと聴かなくなってしまった。
1990年代は、まったく聴かなくなっていた。
シフを再び聴くようになったのは、
ある人から、誕生日プレゼントといわれ、
シフのゴールドベルグ変奏曲のCDをもらったからだ。
レーベルはECMになっていた。ジャケットもデッカ時代とはまるで違う。
十数年ぶりに聴いたシフは、やはり素晴らしいピアニストだった。
それからしばらくはシフの、ECMでのライヴ録音のディスクが出るのが楽しみだった。
パルティータもよかった。
ベートーヴェンのピアノソナタがはじまった。
後期のソナタが出るのが、ほんとうに待ち遠しかった。
「静寂から音楽が生まれる」。
ECMの録音で聴けるアンドラーシュ・シフの演奏は、
まさにそういいたくなる。
そうなのだが、シフのディスクをパタッと聴かなくなってしまっている。
また20代のころと同じことになっている。
なぜなのか、自分でもよくわからない。
「静寂から音楽が生れる」を読めば、なにかつかめるのだろうか。
喫茶茶会記のスピーカーシステムは、ホーン型2ウェイである。
中高域を受け持つホーンは、アルテックの811B。
ウーファーはコーン型の416-8Cだから、
ウーファーのボイスコイルの位置とドライバーのボイスコイルの位置は、
かなりズレている。
ホーン型の中高域の場合、どうしても避けられない問題である。
A7、A5のようにウーファーにフロントショートホーンをつけるという手もある。
UREIの813のように、
ウーファー側のネットワークにベッセル型フィルターを採用するという手もある。
デジタル式のデヴァイダーで、ディレイ機能をそなえていれば、
マルチアンプドライヴすることで、
ウーファーとドライバーのボイスコイルの位置のズレで生じる時間差を補整できる。補整できる。
一度は補整した音を鳴らしてみたい、と考えている。
ふと思いついたのが、メリディアンの218がもつリップシンク機能である。
最大85msecまで可能なDSP処理による遅延機能を持っている。
つまり218が二台あれば、そしてマルチアンプシステムにすれば、
デジタル式のデヴァイダーに頼ることなく、時間差の補整が可能になる。
喫茶茶会記で使っているプリメインアンプのMA7900は、
プリ・パワーが分離でき、プリ出力は二系統ある。
それぞれの出力に二台の218を接続する。
その際にコンデンサーと抵抗で作ったパッシヴ(-6dBスロープ)のフィルターを、
218のアナログ入力端子に外付けする。
その上でウーファー用に使う218のリップシンク機能で、ウーファーへの信号を遅延させる。
ウーファーとドライバーの能率の差は、
218の可変出力を利用すればバランスはとれる。
それに218のトーンコントロールも使えるわけだから、
けっこうこまかな調整も可能になる。
218を通すことで、A/D変換とD/A変換が加わることになる。
そのことによる音質への影響を気にする人もいよう。
もちろんゼロなわけではないが、
時間差の補整のメリットとそのことによる影響は、
天秤にかけて判断すればいいことである。
強化ダンボールとはいえ、スピーカーユニットを支えるだけの強度はない。
10cm口径程度のフルレンジユニットであれば、支えられるだろうが、
38cm口径の同軸型ユニットを想定しているだけに、
それだけの重量をバッフル板で支えようとは、最初から考えていない。
アルテックの755E+ダンボール平面バッフルの時もそうだったが、
ユニットはダンボール・バッフルには取り付けていない。
ユニットの後を友人に支えてもらって、
さらにダンボール・バッフル板も持ってもらっての音出しだった。
つまり左右スピーカーに一人ずつ、
聴く人一人、最低でも三人は必要となる音出しである。
そこでは精緻な音場感とは期待しないでほしい。
けれど気持のいい音がした。
鳴りっぷりのいい音、響きであった。
楽しい音がしていた。
だからこそ、いまでもたまには聴きたい、と思うことがある。
強化ダンボールを複数枚使っての大型平面バッフルは、
だからユニットは角材三本を使っての支持方法をとる。
あくまでもダンボール・バッフルは、
ユニットの前後の音を遮るための役割だけで、
ユニットフレームとは接触するかしないかぐらいにする。
同軸型ユニットは、通常のユニットよりも、奥行きがあるし、
その分後方に重心が移動することにある。
そういうユニットを、これまではフロントバッフルだけで支えていたわけだ。
自作マニアの中には、ユニットの磁気回路を何かで支えていたりするだろうが、
多くは、あれだけの重量をもつ構造体が、いわば片持ち状態となっている。
本格的な平面バッフルの実現には、それだけの広さのリスニングルームが必要となる。
なので実用的なサイズの平面バッフルというのを、
以前から考えてきているのだが、
それでも一度は2m×2mの平面バッフルの音を聴いてみたい。
きいたことがないわけではない。
聴いている。
いい音だった。
だから、なんとか実現したい、という気持はずっと持っている。
audio wednesdayで、平面バッフルをやりたい、と考えているのもそういうことからである。
喫茶茶会記のスペースがあれば、2m×2mの平面バッフルを、
なんとかすれば設置できなくもない。
バッフルを分割式にして、部屋で組み立てる。
そうすればなんとか実現できる(金銭的なことは抜きにして)。
問題は、その後である。
2m×2mの平面バッフルを、どうするか。
そのまま喫茶茶会記に置いておけるのならば、
やる気は急に出てくるものだが、そういうわけにはいかない。
結局処分するしかない。
処分するのにも費用は発生する。
このあたりが、平面バッフルをaudio wednesdayでやる上でのいちばんのネックとなる。
先日、東急ハンズに行ったら、強化ダンボールが売っていた。
いままでなかった商品である。
これを見て触っていて、
これで平面バッフルを作ろうかな、と思いはじめている。
別項「素朴な音、素朴な組合せ(その8)」で書いているように、
ずっと以前にアルテックの755Eをダンボール製平面バッフルで鳴らしたことがある。
気持ちのいい、その時の音はいまも、機会があればまた聴きたい、と思うほどだ。
この経験があるから、強化ダンボールによる平面バッフルを考えている。
私が高校生のころ使っていたダイレクトドライヴ型は、
国産の普及クラスの製品で、私にとって、初めてのダイレクトドライヴ型でもあった。
ある日、ターンテーブルプラッターを外して、モーターを廻してみたら、
センタースピンドルが、カクカクした感じで回転している。
いわゆるコギングである。
スムーズに回転しているものだとばかり思っていたから、
このコギングは、かなり衝撃的だった。
ターンテーブルプラッターの慣性を利用して、
結果としてはスムーズに回転している、という説明をその後すぐに知ったけれど、
肝心の回転が、こんなにカクカクしていて、ほんとうに問題ないのか。
それになぜ、センタースピンドルでターンテーブルプラッターに回転を伝えているのかも、
これまで書いてきているように、非効率のように思えた。
この普及クラスのダイレクトドライヴ型プレーヤーのせいで、
私のダイレクトドライヴ型に対する不信感は、一拠に大きくなった。
パイオニアのPL30、50、70、
それにExclusive P3が登場する前のことだ。
パイオニアが、このころ採用したSHR(Stable Hanging Rotor)方式の解説図、
これを見てダイレクトドライヴ型のすべてがセンタードライヴでないことに気づいた。
SHR方式を理解しようとして、まずつまずいたのが、
ダイレクトドライヴ・イコール・センタードライヴという思い込みだった。
それでどうやってSHR方式を実現できるのだろうか、とけっこう考えたものだった。
カタログに載っていた図を見て、なんだぁ、と気づいたわけだが、
おかげでセンタードライヴではないダイレクトドライヴ型に気づけた。
「音で遊ぶ」オーディオマニアなのか、
「音と遊ぶ」オーディオマニアなのか。
少し前に、自己模倣という純化の沼ということを書いた。
このことも、「音で遊ぶ」なのか「音と遊ぶ」なのかについて関係しているように感じている。
いまのところ、
「音で遊ぶ」人は、どうも自己模倣に陥りがちなのではないのか。
(その2)で、デコレートされた(よく)と書いた。
このデコレートされた(よく)こそが、自己模倣によって生じた純化という沼なのか。
そして、その沼で「音で遊ぶ」。
この項の(その1)でやったことは、
そうとうにオカルトと批判する人はけっこういるように思う。
音は、audio wednesdayに来ていた人全員の耳で確認してもらった。
明らかに音は変化する。
これで変化するのか、
しかもここまで変化するのか、と試してみた本人の私が、
少々驚くほどだ。
(その3)で常連のHさんが自宅のシステムで試されたことも書いている。
ここでも、音の変化ははっきりとあらわれただけでなく、
奥さまの耳にも、その変化は聴きとれた、とのこと。
パリ管弦楽団の副コンサートマスターの千々岩英一氏のツイートを、
Hさんが教えてくれた。
そこには、私がaudio wednesdayでやったことと同じと思われることを、
ヴァイオリンで試されている。
千々岩氏のツイートには、
《仕組みはよくわかりませんが、音が少し輝かしくなったような気がしなくもないです》
とある。
夏がようやく終って、富士山が見える日が増えてきた。
今日は神奈川県の寒川町のあたりに夕方いた。
クルマの中から見えた富士山が、
いままでに見たことのない富士山だった。
夕方は曇り空だった。
富士山の中腹ほどには雲も多かった。
風の強い晴天の日に見ることの出来る富士山とは、
正反対の趣の富士山であった。
おそらく東京からでは見なかったであろう。
なんといったらいいのだろうか、
藍色を主とした水墨画のようでもあったし、
使う色を極力抑えた日本画のようでもあった。
高解像度の写真のようにディテールがはっきりしているわけではない。
むしろぼやけている。
それは写真のようではなく、絵画的だった。
こういう富士山の表情があったのか、と思った。
初めて見た(感じた)富士山の美しさがあった。
今日の富士山はもう二度と見れないかもしれない。
それにしても、富士山は見飽きないのか。