Archive for 1月, 2010

Date: 1月 31st, 2010
Cate: サイズ

サイズ考(その63)

ならばパワーアンプの入力にトランスをいれて、トランス出し・トランス受けとする方法がある。
ただこの場合でも、パワーアンプの入力にいれたトランスの2次側をどう処理するかが問題になる。

600Ω:600Ω(1対1)のトランスを使うのであれば、インピーダンス整合の問題に関しては、
同じことのくり返しになるし、2次側のインピーダンスが10kΩ程度のものを使うという手もあるが、
これですっきり解決というわけではない。

それにトランス・トランスと重なると、互いの巻線同士の共振を抑えるために、
レベルコントロール機能が他にあっても、数dB程度のアッテネーターを挿入してダンプする必要がある。

そんなふうに考えていくと、結局、トランスを受けるには、反転アンプが、
いまのところ、もっとも望ましい方法である。
さらに反転アンプの入力抵抗を取り払い、
いわゆるI/V変換回路にして、トランスの600Ω出力を受けるという手もある。

トランスを、I/V変換アンプで受けている市販のアンプは存在しないと思っていたが、
去年入手したスチューダーの回路図のいくつかを見ていっていたら、
40Wという、ラックマウント型のパワーアンプの入力部が、そうなっていたのに気がついた。
さすがスチューダー、である。

Date: 1月 31st, 2010
Cate: サイズ

サイズ考(その62)

トランスをかませたコントロールアンプの出力を、どう受けるのがいいのか。

一般的にライントランスの2次側のインピーダンスは600Ω。
アンバランスのローインピーダンス出力、ハイインピーダンス入力とは異り、
トランス出力の信号はインピーダンス整合は、とうぜんのルールとなっている。

600Ωであれば、パワーアンプの入力インピーダンスを600Ωに下げるために、
入力に600Ωよりもすこし高めの抵抗を並列に取りつければ、ほぼ600Ωとなる。

パワーアンプの入力インピーダンスが10kΩ(この場合も、入力に並列に10kΩの抵抗がとりつけてある)だとして、
合成値が600Ωになるには、640Ωの抵抗が必要になる。
640Ωの抵抗と10kΩの抵抗は、約15:1。つまりラインケーブルを流れてきた電流の大半は、
640Ωの抵抗を通ることになる。
10kΩの抵抗を通る電流は、その1/15と少ない。

パワーアンプの入力に必要なのは電圧であって、電力ではないから、
電流の多くが、640Ωの抵抗を通ったところで問題はない、といえば、理屈の上では、実際にそうだ。

とはいえ、精神衛生上はなんとなくすっきりしないし、
単に抵抗でターミネイトしただけでは、音もかんばしくないことが多い。

Date: 1月 30th, 2010
Cate: よもやま

夢の中で……

ステレオサウンドに勤めていたとき、通勤に使っていた電車は丸ノ内線と日比谷線だった。

1月11日、その日比谷線に乗っている夢をみた。当時のように、霞が関駅で、日比谷線に乗り換えている。
なぜか車内はがらがらに空いていて、ふっととなりをみたら、長島先生が坐っておられた。
一言「こんなところにいていいのか!」

「こんなところ」がどこを指しているのかは、夢の中だけにすぐにわかった。
そこだけにとどまるな、という意味だったと、夢の中で感じていた。

強烈だった、ハッとして目が覚め、たしかにそうだ、と思った。
だから、この1年は「とどまらず」、である。

Date: 1月 29th, 2010
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(その25)

優れたオーディオ機器ほど、誤った使いこなしを積み重ねていくと、
泥濘は広く深くなり、ひどい音で鳴るだけでなく、音楽を変質させてしまう。

2007年のA社の音は、まさにそうだったのではないか。
誰が調整したのかははっきりとしない。
だが、少なくとも責任者であるB氏は、その音にOKを出したことは間違いないだろう。
自社のブースの音を、開場前に確認しない責任者はいないはずだし、
もし、満足できるだけの音がでていなければ、B氏が調整される(された)はずだ。

少なくともC氏の話では、使いこなしに関しては、B氏は積極的に取り組まれている人なのだから。
私は2007年の音は、B氏が調整されたのだと思っている。

昨年、B氏が調整された音(本人の装置ではなく、別の人の装置ではあるが)を、
耳の信用できる人(C氏ではない)が聴いて、その感想をきかせてくれた。
その音の印象が、2007年のときの印象に通じるものがあるから、そう判断したわけだ。

Date: 1月 28th, 2010
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その5)

「有機的な体系化」には、理性、感性、知性といったものが必要だろう。
それ以上に求められているのが「聴く耳」の確かさであることはいうまでもない。

Date: 1月 27th, 2010
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その4)

科学を騙るオーディオ関係のウェブサイトに掲載されている文章や、
掲示板で、ケーブルや置き方で音は変化しない、と決めつけている人たちの根拠のひとつに、
あるひとつの要素だけを取りあげて、
その要素が音に与える影響は人間の検知領域よりも下のレベルだから、音の違いはわからない、というものがある。

人間の検知領域は、人によってそうとうに異っていても不思議ではない。
まず、そのことを無視して、平均的なレベルの話をもってきて、決めつける滑稽さがある。

そして、科学的に捉えようとしている人でも、
ひとつの要素単独の影響にしか触れようとしない不十分さがある。つまり徹底していない。

私と同年代、上の世代にとって有吉佐和子氏の「複合汚染」は衝撃的だった。
複数の毒性物質が、相加・相乗作用によって、単独の場合に人間に与える影響の質、
そしてその量が著しく変化するということを、この本によって知らされた。

それぞれの物質の安全基準は、あくまでも単独の場合であって、他の物質と結びつくことで、
ほんのわずかな量でも、思わぬ被害を及ぼす可能性があるわけだ。

オーディオも、複合要素、相加・相乗作用を考慮して当然であるべきなのに、
上述したように、単独の要素のみで語られる(騙られる)ことが多い。

これが「科学」だろうか。もし「科学」としたら、前時代の科学でしかない。

Date: 1月 26th, 2010
Cate: オーディオ評論
5 msgs

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その3)

「オーディオの科学」というウェブサイトがある。
志賀氏の個人サイトで、オーディオの技術的な事柄について、多岐にわたって解説されている、このサイトを、
もちろん否定はしないけれども、だからといって、誰かにすすめるようなことはしない。

「オーディオの科学」に書かれていることをすべて暗記しても、
それだけでは、いつまでたっても「オーディオの知識」は身につかない。

「オーディオの科学」に書かれていることは、志賀氏にとっての事実、であるからだ。

なにも「オーディオの科学」だけではない。
オーディオの技術書をどれだけ読んで、頭に叩き込んでも同じことだ。

オーディオについて詳細にあらゆることを知っているだけでは、ダメだということに気がついてほしい。
「オーディオの知識」として成立させるためには、「有機的な体系化」を自分自身で行なう必要がある。

これができなければ、いつまでたっても、知っている事柄がただ増えるだけで、
「オーディオの知識」は欠如したままだ。

そして「知識」がなければ、見識はもちようがない。

Date: 1月 26th, 2010
Cate: オーディオ評論
3 msgs

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(番外)

仕事で、老人ホームに行ってきた。
ほとんどのところで、居室のテレビは液晶タイプになり、
食堂やホールの広いところに置いてあるテレビも、薄型のものに替えられている。

そういうところに行くたびに感じるのは、薄型テレビの音の悪さと、
入居者の人たちのテレビを見ているときの表情がなくなりつつあることの関係性である。

数年前まではほとんどのところで、ブラウン管タイプのテレビで、音は良くはないものの、
音声は、まあはっきりと聴きとれていた。

いまの薄型テレビは音量だけは出ていても、もう何を話しているのか、少し離れると、
とくに広い空間のところでは聴き取り難い。

こんな不明瞭な音で、高齢の入居者の人たちは、テレビの音声が聴きとれているのか。
だからだろう、テレビを見ている、というよりも、ただ眺めているだけ、という印象を受けてしまう。

以前は、テレビの内容に対して、もっと反応があったはず、と私は記憶している。
何を話しているのかわからなければ、テレビを見ていてもつまらない。

その音の悪い薄型テレビは、日本の大手企業がつくっているモノだ。
はじめて聞くようなブランドのものではない。

おそらく、それらの製品は、ホームシアター関係の雑誌では、そこそこの評価を得ているであろう、
そういうランクのものである。
ホームシアター関係の評論家は、そこそこ褒めているのだろう……。

施設を管理している側は、いいテレビを導入した、と思っているはず。
なのに……、である。

入居者の人たちに必要なのは、評判の薄型のものではなく、人の声がはっきりと聴きとれるテレビのはずだ。

Date: 1月 25th, 2010
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その2)

そう、ごくごく一部のひとを除いて、オーディオ評論家の大半は、
メーカー、輸入代理店の代弁者(広報マン)でもなく、劣化した復唱者でしかないのではないか。

なぜ、そうなってしまったのか。

断言する、「オーディオの知識」の欠如だ。

Date: 1月 24th, 2010
Cate: the Reviewの入力

the Review (in the past) を入力していて……(その39)

アンプ専業メーカーであったクレルが、スピーカーシステムを手がけたように、
パス・ラボも、またスピーカーシステムを手がけている。

パス・ラボの主宰者、ネルソン・パスは、自身の最初の会社スレッショルドを創立するまでは、
アメリカ・サクラメントにあったスピーカーメーカー、ESSにつとめている。

ESSは、オスカー・ハイル開発のハイルドライバーを搭載したモデルをつくっていた会社で、
パスは、ESSの後援を受けて大学に通っていた、とインタビューで答えている。
パスのESSでの仕事は、ネットワークの設計をやっていたとのことだが、
会社にとっては、トラブルメーカーと思われていた、と語っている。

パスは新しいことをやりたくて、製品を改良しようとしていたことが、会社の経営陣からは、
よけいなことだと思われていたらしい。
だから、大学卒業と同時に、辞めてくれ、といわれ、ESSを離れている。

このESS時代に同僚だったのが、一緒にスレッショルドを創立したメンバーの一人、
グラフィック・デザイナーのルネ・ベズネである。
スレッショルドの社名は、ベズネが、ESSで働いていたときに、思いついたものだそうだ。

Date: 1月 23rd, 2010
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(その24)

スピーカーのセッティングをいいかげんにしたままでは、幸運がいくつも重ならないかぎりは、
そうそういい響きを、そのスピーカーから抽き出すことはできない。

けれど、聴き馴染んでいるベートーヴェンの音楽が、誰の曲なのか、一瞬わからなくなるほど、
音楽を歪めてしまうような鳴り方には、ならない。

いいかげんなセッティングによるひどい音は、そういう類の音ではない。
2007年に聴いた、あのひどい音は、あきらかに「調整後」の音であったはずだ。

Date: 1月 23rd, 2010
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(その23)

この項の(その7)に書いたことに、話を戻そう。

じつは、このブースの音は、2007年だけではない、他の年も、ひどい音を出していた。
その6)や(その7)を書いてしばらくして、「A社って、○○でしょ」と、友人から言われた。
その通りだったから、隠しもしなかったが、
私だけでなく、A社のブースの音をひどいと感じていた人はいたわけで、それはなにも彼一人だけでなく、
私のまわりには、少なからず、同じように感じている人がいる。

それが、2009年では、それまでのひどすぎる音が嘘のようになくなり、
細かいことを言えば、もちろん不満点はあるものの、音楽が歪められることなく、まともな音が鳴っていた。

ある人からの情報によれば、昨年は、スピーカーの位置出しに、かなり時間をかけて行なっていた、ときいた。
ということは、一昨年までとは、かなり適当に、こんなところでいいよ、という感じでやっていたことになる。

ふざけた話だ、と怒る前に、もう一度、2007年の、
コリン・デイヴィスの「コリオラン序曲」の鳴りかたの変質ぶりを思い出してみると、
あの音のひどさは、スピーカーのセッティングのいいかげんさが原因ではないはずだ。

Date: 1月 22nd, 2010
Cate: よもやま

「つぶやき」しています。

見知らぬ方からのフォローがあったら、ここに書こうと決めていましたので、
お知らせしておきます。今年から「つぶやき」しています。

いちおう毎日つぶやいています。
といっても、このブログと同じように、帰宅後につぶやいていますので、
一言ブログみたいな感じになりつつあります。

Date: 1月 22nd, 2010
Cate: 現代スピーカー

現代スピーカー考(その20・続々続々補足)

瀬川先生に足りなかったものがもうひとつあるとすれば、
「インターナショナル・サウンド」の前に、
岡先生の発言にあるように「アメリカ製の」、もしくはアメリカ西海岸製の」、または「JBL製の」と、
ひとこと、つけ加えられることであろう。

グローバルとインターナショナルの違いは、
「故郷は?」ときかれたときに、
「日本・東京」とか「カナダ・トロント」とこたえるのがインターナショナルであって、
「お母さんのお腹の中」とこたえるのがグローバルだ、と私は思っている。

Date: 1月 22nd, 2010
Cate: 瀬川冬樹, 現代スピーカー

現代スピーカー考(その20・続々続補足)

仮に欠席裁判だとしよう。
29年経ったいま、「グローバル」という言葉が頻繁に使われるようになったいま、
「インターナショナル・サウンド」という表現は、瀬川先生も「不用意に使った」とされているが、
むしろ正しい使われ方だ、と私は受けとめている。

もし「グローバル・サウンド」と言われていたら、いまの私は、反論しているだろう。

瀬川先生は、他の方々よりも、音と風土、音と世代、音と技術について、深く考えられていた。
だから、あの場面で「インターナショナル・サウンド」という言葉を、思わず使われたのだろう。
瀬川先生に足りなかったのは、「インターナショナル・サウンド」の言葉の定義をする時間だったのだ。
思慮深さ、では、決してない。