Archive for category 情景

Date: 9月 23rd, 2026
Cate: 再生音, 情景

AKG K1000がやって来る(その4)

管球式OTLアンプにとって、スピーカーのインピーダンスは高い方が有利となる。

トランジスターアンプでは、スピーカーのインピーダンスが低くなれば出力は増す。理論では8Ωで100Wの出力ならば4Ωでは倍の200Wに、2Ωならばさらに倍の400Wとなる。

現実には、電源の容量や出力段の余裕などから、全てのパワーアンプが倍倍になっていくわけでないが、スピーカーのインピーダンスが低くなれば出力は増し、反対に16Ωでは半分の50W、32Ωでは25Wと小さくてなっていくが、管球式OTLアンプでは、たいていの機種で8Ωよりも16Ωの方が出力が増す。

管球式OTLアンプの自作熱が高かったです時代は、ボイスコイルを巻き直して、インピーダンスを高くする人といたと聞いているし、オーディオ雑誌の記事でも読んでいる。

管球式OTLアンプの負荷として、どのあたりが最適なのかは、アンプの設計、構成によっても違ってくるからはっきりした数字はいえないけれど、8Ωよりも16Ωが有利といえる。

ではAKG K1000の120Ωは、どうなのか。トランジスターアンプほど出力は低下しないと思っている。少なくともフッターマンのOTL2にとって、K1000は負荷としては軽くなることは確かだ。

ということは、私が感じていたOTL2の良さは、より活きてくるはずだ。
もっともヘッドフォンアンプとしては大きいし、発熱もかなりとなるけれど、K1000とOTL2の組合せの音は、当たり前すぎることだが、どちらも持っているからこそ聴ける。

私にとってだけの壺中の天地となってくれるのだろうか。

Date: 9月 22nd, 2026
Cate: 再生音, 情景

真珠の耳飾りの少女(その3)

フェルメール展の翌日(9月17日)は京都の東寺を訪ねていた。十九年前は入らなかった観智院にも行った。

恥ずかしながら、観智院に宮本武蔵の襖画があることを知らなかった。鷲の図と竹林の図がある。
宮本武蔵が22の時に描いた水墨画だから、1606年ごろなのか。

フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」は、1665年ごろといわれている。六十年違うとはいえ、どちらも17世紀の絵である。

鷲の図、竹林の図ともに剥落がある。鷲の図の方がひどい。
いろんな条件が違うのだから、そのことをあれこれいうつもりはないのだが、ここでも「鮮度」について考えさせられる。

Date: 9月 21st, 2026
Cate: 再生音, 情景

真珠の耳飾りの少女(その2)

その混雑ぶりがニュースにもなったフェルメール展だが、私が行った16日の18時30分の回は、それほどひどくはなかった。

一時間ほど前に中之島美術館に着くと、予約時間ごとに列に並ぶ。ここで、かなり待つのかと思っていたら、時間前から列が動き、五階の入り口に着いたのは18時15分くらいだった。

いくつかのブースになっていて、当然だけれども、「真珠の耳飾りの少女」は最後のところに飾ってある。そこには、「真珠の耳飾りの少女」だけがある。

ニュースでご覧になった方も多いだろうが、ここには長いスロープが設けられていて、徐々に、そこへと近づくようになっている。

最前列で正面から鑑賞できる時間は短いが、少しずつ近づいて観ているわけだから、そう短いわけでもない。

正面での「真珠の耳飾りの少女」の印象よりも、私には、その後の印象の方が強かった。

最前列まで行くと、「真珠の耳飾りの少女」に向かって右側から左側への出口へ向かう。出口へと数歩あるいてから、ふとふり返った。

「真珠の耳飾りの少女」は正面を向いているわけではなく、左斜めだから、ふり返った時に、目が合った、そう感じてしまった。どきっ、とする。

「真珠の耳飾りの少女」の目、唇、耳飾りが、正面で最前列での時よりも、色鮮やかに感じられた。

このことがあったから、よけいに「鮮度」を感じたともいえるのかもしれない。

Date: 9月 17th, 2026
Cate: 再生音, 情景

真珠の耳飾りの少女(その1)

大阪中之島美術館で、フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」を観てきた。
昭和のころは、「青いターバンの少女」と呼ばれていた。いつの頃からか、「真珠の耳飾りの少女」が一般的となっていった。

私は「青いターバンの少女」で、この絵を想い浮かべるわけだが、今回本物を観ると、青いターバンとともに、真珠の耳飾りが、強く印象に残ることに気づく。

三百年以上前に描かれているのに、鮮度ということも考えていた。
音の鮮度ということに関しては、言いたいこと山ほどある。それを鮮度が高いというのか──、という例は少なくない。

録音されたものを再生しての音の鮮度とは、違うものではないのかという疑問は、常に持っていた。

「真珠の耳飾りの少女」を間近で観て、本当の音(録音され再生される音)の鮮度とは、こういうことなのだ、と心の中でくり返していた。

何を言っているんだろう……、と思われても、別にいい。

Date: 4月 22nd, 2025
Cate: 情景

情景(その15)

ステレオサウンド 130号、勝見洋一氏の連載「硝子の視た音」の最後に、こうある。
     *
 そしてフェリーニ氏は最後に言った。
「記憶のような物語、記憶のような光景、記憶のような音しか映画は必要としていないんだよ。本当だぜ、信じろよ」
     *
これまでに三度引用している。

また引用したのは、心に近い音、耳に近い音についてこれまで書いてきているが、
このフェリーニのことばも、心に近い音をあらわしていると思ったからだ。

耳に近い音は、記録のような音、
心に近い音は、記憶のような音。

Date: 11月 25th, 2022
Cate: 情景

情報・情景・情操(音場→おんじょう→音情・その9)

ジャーマン・フィジックスのDDD型スピーカーが、
なぜ私にとっての終のスピーカーなのかは、ここでのテーマとも深く関わっている。

Date: 10月 18th, 2022
Cate: 五味康祐, 情景

情景(その14)

ステレオサウンド 49号、
「体験的に話そう──録音と再生のあいだ」という対談で、
菅野先生が語られている。
     *
菅野 一つ難しい問題として考えているのはですね、機械の性能が数十年の間に、たいへん変ってきた。数十年前の機械では、物理的な意味で、いい音を出し得なかったわけです。ですがね、美的な意味では、充分いい音を出してきたわけです。要するに、自動ピアノでですよ、現実によく調整されたピアノを今の技術で録音して、プレイバックして、すばらしいということに対して、非常に大きな抵抗を感ずるということてす。
 ある時、アメリカの金持ちの家に行って、ゴドウスキイや、バハマン、それにコルトーの演奏を自動ピアノで、ベーゼンドルファー・インペリアルで、目の前で、間違いなくすばらしい名器が奏でるのを聴かしてもらいました。
 彼が、「どうですか」と、得意そうにいうので、私は、ゴドウスキイやバハマン、コルトーのSPレコードの方が、はるかによろしい、私には楽しめるといったわけです。
 すると、お前はオーディオ屋だろう、あんな物理特性の悪いレコードをいいというのはおかしい、というんですね。そこで、あなた、それは間違いだと、果てしない議論が始まったわけです。つまり、いい音という意味は、非常に単純に捉えられがちであって……。
     *
ベーゼンドルファー・インペリアルの自動ピアノでのパハマンやコルトーの演奏、
SP盤を再生してのパハマンやコルトーの演奏。

どちらがリアルな音なのかといえば、いうまでもなく自動ピアノの音である。
けれど、リアリティのある音となると、どうか。

この点は、人によって違ってくるのかもしれない。
リアルとリアリティの違いなんてどうでもいい、という人もいるし、
そうでない人もいる。

この菅野先生の発言をどう解釈するのかも、人によって違ってくることだろう。

Date: 10月 6th, 2022
Cate: 五味康祐, 情景

情景(その13)

少し前に、心に近い音、耳に近い音について書いている。
結局のところ、ここで語っていることと、
心に近い音、耳に近い音について語っていることは、
私にとって同じことを、別の側面から語っていただけ、である。

リアルな音は、私にとって耳に近い音、
リアリティな音こそ、私にとっては心に近い音。

Date: 9月 22nd, 2022
Cate: 情景

情報・情景・情操(音場→おんじょう→音情・その8)

ここにきて、ようやく私にとっての(音場ではなく)音情は、
リアリティに深く結びついていることに気づいた。
同時に、音触が大事だ、ということも。

Date: 9月 17th, 2022
Cate: 五味康祐, 情景

情景(その12)

リアルとリアリティについて考えていると、
別項「新月に出逢う」で書いているEn氏の人形に、
なぜこれまほどまでに惹かれるのか、その理由の輪郭がはっきりしてきそうである。

つまり、私はリアリティのある人形に惹かれているのであり、
リアリティを感じさせる人形を欲しい、と思っているのだろう。

En氏のつくる人形よりも、ずっとリアルな人形は世の中にたくさんあるだろう。
そういう人形を欲しい、と思わない。
欲しいのは、リアリティのある人形であり、
そのことは私にとっては、いまのところEn氏の人形であるが、
このことは、あくまでも私にとって、である。

私以外の人は、En氏の人形にリアリティを感じないのかもしれないし、
私と同じように強くリアリティを感じて惹かれる人もいることだろう。

この項の(その2)、(その3)で書いているように、
「五味オーディオ教室」を読みながら、中学二年だった私は、
ハイ・フィデリティよりもハイ・リアリティを、と思うようになっていた。

とはいっても、その時点では、あくまでも言葉の上だけでしかなかった。
それから四十年以上が経ち、ようやくハイ・リアリティとは──、
ということが摑めてきている。

Date: 7月 18th, 2022
Cate: 五味康祐, 情景

情景(その11)

「キングダム2 遥かなる大地へ」が公開されている。
一作目の「キングダム」は、プライムビデオで途中まで見てやめてしまった。

同じ理由で、「キングダム2 遥かなる大地へ」は観るつもりはない。
予告編を見ていて、そう思った。

「キングダム」が大作なのかは知っている。
つまらない映画とはいわない。
最後まで見ていないのだから。

途中で見るのをやめてしまったのは、些細なことだ。
その些細なことは「キングダム2 遥かなる大地へ」でも同じだ。

「キングダム」の時代設定、主人公の役どころ(当時の身分)からして、
あの歯の白さはないだろう、と思ってしまう。

二十数年前に「芸能人は歯が命」というキャッチコピーのコマーシャルが、
やたらとテレビから流れていた。
アパガードという歯磨き粉のコマーシャルだった。

映画に出演する役者も芸能人だから、「歯が命」、
歯の白さが命なのは理解しているつもりだけれど、
映画のなかでのあの白さは輝くばかりで、
主役級の役者の歯が見えるたびに、なんともいえない気持になってしまう。

映画だから──、そういわれそうなのだが、
ここで私が感じたのはリアルとリアリティの違いである。

「キングダム」での現代的な歯の白さは、映画からリアリティを消し去ってしまう。

Date: 3月 12th, 2022
Cate: 五味康祐, 情景
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情景(その10)

グラシェラ・スサーナの歌が、私に情景を見せてくれる。
だからといって、他の人もそうだとは思っていない。

人それぞれだから、グラシェラ・スサーナではなくて、別の歌手だったりするし、
その歌で描かれている情景なんて浮ばない──、という人もいて当然だし、
情景が浮ぶことが音楽の聴き手として優れているとも思っていない。

ただ私にはグラシェラ・スサーナは、そういう存在であった、
そしてメリディアンのULTRA DACでMQA再生によって、
いまもそういう存在である、といえる──、それだけのことだ。

私は昨年から、心に近い音についてしばしば書いているのは、
このことがあってのことだ。

音を追求してきて、グラシェラ・スサーナの歌から情景を失ってしまった。
そのことに気づき、ULTRA DACとMQAとの出逢いがあった。

他の人はどうだか、私はわからないが、
すくなくとも私に限っては、耳に近い音を追求した結果、
情景を失ってしまった、といえる。

心に近い音といっても、なかなかに理解しがたいかもしれないが、
私にとってのグラシェラ・スサーナのように、
その歌が描いている情景を見せてくれる歌手をもつ聴き手ならば、
心に近い音がどういう音なのか、いつかわかると思う。

Date: 3月 12th, 2022
Cate: 五味康祐, 情景

情景(その9)

グラシェラ・スサーナの歌が、
ハイ・フィデリティ再生になるほど──、といったことを書いているが、
ここでのハイ・フィデリティ再生とは、情感たっぷりに歌ってくれることでもある。

私の目の前でグラシェラ・スサーナ本人が歌っているかのような、
しかも情感豊かな歌を聴かせてくれようとも、
情景が浮んでこない、という状況をどう受けとったらいいのだろうか。

結局、ラジカセでミュージッテープを聴いていたときの情景は、
私が勝手につくりあげた妄想、もしくは錯覚だったのか。

そのことを確認したい、という気持があって、
ヤフオク!でグラシェラ・スサーナのミュージックテープ、
それも中学生のころ聴いていたミュージックテープが安価で出品されていたら、
入札しては手に入れていた。

五本ほど集まった。
でもラジカセを買うまでにはいたらなかった。
買おうかな、と思って、量販店のラジカセのコーナーを何度か見てまわったことはある。

まったく食指が動かなかった。
だからといって昔のラジカセを探し出してまで買おう、という気もなかったのは、
もしかすると情景が浮ばなくなったのは、こちら側のせいなのか。
ようするに老化してしまったからなのか……。

けれどそうでないことを確認できた。
2018年9月8日、audio wednesdayで、
グラシェラ・スサーナのMQA-CDを.メリディアンのULTRA DACで聴いて、
そうでないことを確認できた。

情景がふたたび浮んできた。

Date: 3月 11th, 2022
Cate: 五味康祐, 情景

情景(その8)

ラジカセからコンポーネントになり、
モノーラルからステレオになり、音はよくなっていく。

唇の動きが、舌の動きまでわかるようだ、という表現がある。
音がよくなっていくと、そういう感じが現出してくるようになる。

歌っている表情すら目に浮かぶような感じにもなっていく。
これらは音がよくなっていっていることの確かな手応えである。

けれど、これらはすべてグラシェラ・スサーナがスタジオで歌っているシーンを、
できるだけハイ・フィデリティに再生(再現)しようとする方向である。

間違っているわけではない。
グラシェラ・スサーナはライヴ録音以外はスタジオで録音しているのだから、
それらの録音がそういうふうに鳴ってくれるということに、
何の文句をいうことがあろうか。

けれど、そんなふうにグラシェラ・スサーナの歌がなってしまうとともに、
いまふり返ると、聴く時間が減ってきた。

ハイ・フィデリティ再生になればなるほど、
情景が浮ばなくなってくる。

このことは音に関係しているのか。
ラジカセので聴いてきた時に、そう感じていたのは、
聴き手である私の勝手な妄想にすぎない──、そうともいえることはわかっている。

けれど確かに、あのころは情景が浮んでいた。

Date: 3月 9th, 2022
Cate: 五味康祐, 情景

情景(その7)

いわゆるコンポーネントステレオで、LPで、
グラシェラ・スサーナを聴くようになって、
確かにステレオになったし、ラジカセとは比較にならない音で聴けるようになった。

さらにカートリッジを買い替えたり、ケーブルを交換したり、
スピーカーのセッティングをあれこれ試してみたりしながら、
音は少しずつ良くなってくる。

それにともないグラシェラ・スサーナの歌(声)もよく聴こえるようになる。
そのことが嬉しかった。

ステレオサウンドで働くようになってからは、
使えるお金も学生時代とは比較ならぬほど増えるわけで、
システムも高校生のころとは、まったく違う。

音は良くなってきた。
スタジオで歌っている感じの再現は、ラジカセ時代では無理だった。
つまりラジカセよりも、ハイ・フィデリティになってきているわけだ。

なのにグラシェラ・スサーナを聴くことが減っていった。
聴く音楽の範囲が拡がっていくのにともない、聴く時間は限りがあるわけだから、
それも自然なことと、当時は思っていた。

けれどステレオサウンドをやめて、それからいろいろあってシステムをすべて手離した。
そのあたりから気づいたことがある。

グラシェラ・スサーナの歌から、情景が消えていたことに気づいた。
ラジカセで聴いていたころに、あれだけ浮んでいた情景を、
どこかでなくしてしまったようである。