情報・情景・情操(音場→おんじょう→音情・その9)
ジャーマン・フィジックスのDDD型スピーカーが、
なぜ私にとっての終のスピーカーなのかは、ここでのテーマとも深く関わっている。
ジャーマン・フィジックスのDDD型スピーカーが、
なぜ私にとっての終のスピーカーなのかは、ここでのテーマとも深く関わっている。
ステレオサウンド 49号、
「体験的に話そう──録音と再生のあいだ」という対談で、
菅野先生が語られている。
*
菅野 一つ難しい問題として考えているのはですね、機械の性能が数十年の間に、たいへん変ってきた。数十年前の機械では、物理的な意味で、いい音を出し得なかったわけです。ですがね、美的な意味では、充分いい音を出してきたわけです。要するに、自動ピアノでですよ、現実によく調整されたピアノを今の技術で録音して、プレイバックして、すばらしいということに対して、非常に大きな抵抗を感ずるということてす。
ある時、アメリカの金持ちの家に行って、ゴドウスキイや、バハマン、それにコルトーの演奏を自動ピアノで、ベーゼンドルファー・インペリアルで、目の前で、間違いなくすばらしい名器が奏でるのを聴かしてもらいました。
彼が、「どうですか」と、得意そうにいうので、私は、ゴドウスキイやバハマン、コルトーのSPレコードの方が、はるかによろしい、私には楽しめるといったわけです。
すると、お前はオーディオ屋だろう、あんな物理特性の悪いレコードをいいというのはおかしい、というんですね。そこで、あなた、それは間違いだと、果てしない議論が始まったわけです。つまり、いい音という意味は、非常に単純に捉えられがちであって……。
*
ベーゼンドルファー・インペリアルの自動ピアノでのパハマンやコルトーの演奏、
SP盤を再生してのパハマンやコルトーの演奏。
どちらがリアルな音なのかといえば、いうまでもなく自動ピアノの音である。
けれど、リアリティのある音となると、どうか。
この点は、人によって違ってくるのかもしれない。
リアルとリアリティの違いなんてどうでもいい、という人もいるし、
そうでない人もいる。
この菅野先生の発言をどう解釈するのかも、人によって違ってくることだろう。
少し前に、心に近い音、耳に近い音について書いている。
結局のところ、ここで語っていることと、
心に近い音、耳に近い音について語っていることは、
私にとって同じことを、別の側面から語っていただけ、である。
リアルな音は、私にとって耳に近い音、
リアリティな音こそ、私にとっては心に近い音。
ここにきて、ようやく私にとっての(音場ではなく)音情は、
リアリティに深く結びついていることに気づいた。
同時に、音触が大事だ、ということも。
リアルとリアリティについて考えていると、
別項「新月に出逢う」で書いているEn氏の人形に、
なぜこれまほどまでに惹かれるのか、その理由の輪郭がはっきりしてきそうである。
つまり、私はリアリティのある人形に惹かれているのであり、
リアリティを感じさせる人形を欲しい、と思っているのだろう。
En氏のつくる人形よりも、ずっとリアルな人形は世の中にたくさんあるだろう。
そういう人形を欲しい、と思わない。
欲しいのは、リアリティのある人形であり、
そのことは私にとっては、いまのところEn氏の人形であるが、
このことは、あくまでも私にとって、である。
私以外の人は、En氏の人形にリアリティを感じないのかもしれないし、
私と同じように強くリアリティを感じて惹かれる人もいることだろう。
この項の(その2)、(その3)で書いているように、
「五味オーディオ教室」を読みながら、中学二年だった私は、
ハイ・フィデリティよりもハイ・リアリティを、と思うようになっていた。
とはいっても、その時点では、あくまでも言葉の上だけでしかなかった。
それから四十年以上が経ち、ようやくハイ・リアリティとは──、
ということが摑めてきている。
「キングダム2 遥かなる大地へ」が公開されている。
一作目の「キングダム」は、プライムビデオで途中まで見てやめてしまった。
同じ理由で、「キングダム2 遥かなる大地へ」は観るつもりはない。
予告編を見ていて、そう思った。
「キングダム」が大作なのかは知っている。
つまらない映画とはいわない。
最後まで見ていないのだから。
途中で見るのをやめてしまったのは、些細なことだ。
その些細なことは「キングダム2 遥かなる大地へ」でも同じだ。
「キングダム」の時代設定、主人公の役どころ(当時の身分)からして、
あの歯の白さはないだろう、と思ってしまう。
二十数年前に「芸能人は歯が命」というキャッチコピーのコマーシャルが、
やたらとテレビから流れていた。
アパガードという歯磨き粉のコマーシャルだった。
映画に出演する役者も芸能人だから、「歯が命」、
歯の白さが命なのは理解しているつもりだけれど、
映画のなかでのあの白さは輝くばかりで、
主役級の役者の歯が見えるたびに、なんともいえない気持になってしまう。
映画だから──、そういわれそうなのだが、
ここで私が感じたのはリアルとリアリティの違いである。
「キングダム」での現代的な歯の白さは、映画からリアリティを消し去ってしまう。
グラシェラ・スサーナの歌が、私に情景を見せてくれる。
だからといって、他の人もそうだとは思っていない。
人それぞれだから、グラシェラ・スサーナではなくて、別の歌手だったりするし、
その歌で描かれている情景なんて浮ばない──、という人もいて当然だし、
情景が浮ぶことが音楽の聴き手として優れているとも思っていない。
ただ私にはグラシェラ・スサーナは、そういう存在であった、
そしてメリディアンのULTRA DACでMQA再生によって、
いまもそういう存在である、といえる──、それだけのことだ。
私は昨年から、心に近い音についてしばしば書いているのは、
このことがあってのことだ。
音を追求してきて、グラシェラ・スサーナの歌から情景を失ってしまった。
そのことに気づき、ULTRA DACとMQAとの出逢いがあった。
他の人はどうだか、私はわからないが、
すくなくとも私に限っては、耳に近い音を追求した結果、
情景を失ってしまった、といえる。
心に近い音といっても、なかなかに理解しがたいかもしれないが、
私にとってのグラシェラ・スサーナのように、
その歌が描いている情景を見せてくれる歌手をもつ聴き手ならば、
心に近い音がどういう音なのか、いつかわかると思う。
グラシェラ・スサーナの歌が、
ハイ・フィデリティ再生になるほど──、といったことを書いているが、
ここでのハイ・フィデリティ再生とは、情感たっぷりに歌ってくれることでもある。
私の目の前でグラシェラ・スサーナ本人が歌っているかのような、
しかも情感豊かな歌を聴かせてくれようとも、
情景が浮んでこない、という状況をどう受けとったらいいのだろうか。
結局、ラジカセでミュージッテープを聴いていたときの情景は、
私が勝手につくりあげた妄想、もしくは錯覚だったのか。
そのことを確認したい、という気持があって、
ヤフオク!でグラシェラ・スサーナのミュージックテープ、
それも中学生のころ聴いていたミュージックテープが安価で出品されていたら、
入札しては手に入れていた。
五本ほど集まった。
でもラジカセを買うまでにはいたらなかった。
買おうかな、と思って、量販店のラジカセのコーナーを何度か見てまわったことはある。
まったく食指が動かなかった。
だからといって昔のラジカセを探し出してまで買おう、という気もなかったのは、
もしかすると情景が浮ばなくなったのは、こちら側のせいなのか。
ようするに老化してしまったからなのか……。
けれどそうでないことを確認できた。
2018年9月8日、audio wednesdayで、
グラシェラ・スサーナのMQA-CDを.メリディアンのULTRA DACで聴いて、
そうでないことを確認できた。
情景がふたたび浮んできた。
ラジカセからコンポーネントになり、
モノーラルからステレオになり、音はよくなっていく。
唇の動きが、舌の動きまでわかるようだ、という表現がある。
音がよくなっていくと、そういう感じが現出してくるようになる。
歌っている表情すら目に浮かぶような感じにもなっていく。
これらは音がよくなっていっていることの確かな手応えである。
けれど、これらはすべてグラシェラ・スサーナがスタジオで歌っているシーンを、
できるだけハイ・フィデリティに再生(再現)しようとする方向である。
間違っているわけではない。
グラシェラ・スサーナはライヴ録音以外はスタジオで録音しているのだから、
それらの録音がそういうふうに鳴ってくれるということに、
何の文句をいうことがあろうか。
けれど、そんなふうにグラシェラ・スサーナの歌がなってしまうとともに、
いまふり返ると、聴く時間が減ってきた。
ハイ・フィデリティ再生になればなるほど、
情景が浮ばなくなってくる。
このことは音に関係しているのか。
ラジカセので聴いてきた時に、そう感じていたのは、
聴き手である私の勝手な妄想にすぎない──、そうともいえることはわかっている。
けれど確かに、あのころは情景が浮んでいた。
いわゆるコンポーネントステレオで、LPで、
グラシェラ・スサーナを聴くようになって、
確かにステレオになったし、ラジカセとは比較にならない音で聴けるようになった。
さらにカートリッジを買い替えたり、ケーブルを交換したり、
スピーカーのセッティングをあれこれ試してみたりしながら、
音は少しずつ良くなってくる。
それにともないグラシェラ・スサーナの歌(声)もよく聴こえるようになる。
そのことが嬉しかった。
ステレオサウンドで働くようになってからは、
使えるお金も学生時代とは比較ならぬほど増えるわけで、
システムも高校生のころとは、まったく違う。
音は良くなってきた。
スタジオで歌っている感じの再現は、ラジカセ時代では無理だった。
つまりラジカセよりも、ハイ・フィデリティになってきているわけだ。
なのにグラシェラ・スサーナを聴くことが減っていった。
聴く音楽の範囲が拡がっていくのにともない、聴く時間は限りがあるわけだから、
それも自然なことと、当時は思っていた。
けれどステレオサウンドをやめて、それからいろいろあってシステムをすべて手離した。
そのあたりから気づいたことがある。
グラシェラ・スサーナの歌から、情景が消えていたことに気づいた。
ラジカセで聴いていたころに、あれだけ浮んでいた情景を、
どこかでなくしてしまったようである。
(その1)でも書いているように、
私が、ことさら情景、それも日本語の歌に関して情景を求めたくなるのは、
中学生のときにグラシェラ・スサーナの歌を聴きすぎたためかもしれない。
ラジカセで、スサーナのミュージックテープを聴いていた。
私が中学生のころ、ステレオのラジカセは珍しかったはずだ。
ラジカセ・イコール・モノーラルの時代だった。
私が小遣いを貯めて買ったラジカセも、だからモノーラルだった。
スピーカーユニットもフルレンジだけだった。
トゥイーターを加えた2ウェイ仕様のラジカセが出たのは、もう少しあとのことだ。
そんな環境で、ほぼ毎日、グラシェラ・スサーナの歌を聴いていた。
日本語の歌である。
そこまでグラシェラ・スサーナの歌にのめり込んでいたのは、
スサーナの歌を聴いていると、その情景が浮んでくることが多かったからである。
中学生が買えるラジカセで、カセットテープが音源なのだから、
出てくる音はたかが知れている。
これがステレオになったら──、
カセットテープではなくLPだったら──、
そんなことを思わなかったわけではない。
もっと情景がリアルに浮ぶものだと、中学生の私は思っていた(信じていた)。
実演に接して、その音を「鮮度が高い」という人は、まずいない。
少なくとも、私の周りにはそういう人はいないし、
いままでそう言った人もいない。
なのに再生音に関しては、鮮度の高い(低い)という。
音の鮮度をことさら気にする人、主張する人は、
このことに気づいていないのだろうか。
気づいていないということはないと思うのだけれども、
なのにすっぽり抜け落ちているかのように、鮮度の高さを気にしているようでもある。
昨晩、「再生音に存在しないもの(その2)」を書いたのは、
そのためである。
(その1)は、2008年9月に書いている。
フェルメールの「窓辺で手紙を読む女」をみてきたから、ということもあるのだが、
同じくらいに、鮮度の高い(低い)について書いてきていることもあって、だ。
再生音に存在しないものがあるからこそ、
鮮度を気にするのではないのか。
では、いったい再生音には何がないのか。
鮮度の高い音。
もっともらしくて、わかりやすく思える。
しかも鮮度の高い音は、ある意味たやすく聴ける、ともいえる。
昔のプリメインアンプにはトーンコントロールがついていた。
このトーンコントロールをバイパスするスイッチもけっこうついていた。
トーンコントロール回路を経由しないわけだから、
余分な回路を信号が通らない、その音は鮮度が高い、といえなくもない。
CDプレーヤーが登場して、パッシヴ型フェーダーを使うことで、
コントロールアンプを経由せずにパワーアンプにダイレクトに接続する。
その音を、鮮度が高い、といえなくもない。
でも、これらの音は、本当の意味で客観的に鮮度の高い音なのだろうか。
*
オーディオの再生の究極の理想とは、原音の再生だと、いまでも固く信じ込んでいる人が多い。そして、そのためのパーツは工業製品であり電子工学や音響学の、つまり科学の産物なのだから、そこには主観とか好みを入れるべきではない。仮に好みが入るとしても、それ以前に、客観的な良否の基準というものははっきりとあるはずだ……。こういうような考え方は、一見なるほどと思わせ、たいそう説得力に満ちている。
けれど、オーディオ装置を通じてレコードを(音楽を)楽しむということは、畢竟、現実の製品の中からパーツを選び組合わせて、自分自身が想い描いた原音のイメージにいかに近づくかというひとつの創造行為だと、私は思う。いや、永いオーディオ歴の中でそう思うようになってきた。客観的な原音というものなどしょせん存在しない。原音などという怪しげなしかしもっともらしい言葉にまどわされると、かえって目標を見失う。
(ステレオサウンド別冊「続コンポーネントステレオのすすめ」まえがき より)
*
瀬川先生が書かれている。
1979年においても、「いまでも」と書かれている。
ここからすでに四十三年が経っているが、この「いまでも」はそのままといえる。
《客観的な原音というものなどしょせん存在しない》とある。
そうである。
あるのは、主観的な原音である。
鮮度の高い音も、じつのところそうではないのか。
客観的な鮮度の高い音がある──、
ほんとうにそういえるのか。
ハイ・リアリティな音ということは、
「五味オーディオ教室」を読んだ時から私の頭にずっとある。
ハイ・フィデリティよりもハイ・リアリティを、と思っていた時期もある。
では、ハイ・リアリティな音とは、どういう音なのか。
鮮度の高い音ならば、その結果として、ハイ・リアリティな音となるのか。
プログラムソースに含まれている音(信号)を、
できるかぎりそのままに増幅して、音に変化する。
そうすることで、究極の鮮度の高い音を実現したとしよう。
私には、それがハイ・リアリティな音とは、どうしても思えない。
鮮度の高い音──、
一時期の私にとって、これは魅力的な表現でもあった。
鮮度を損う要素を、オーディオの再生系から徹底して排除していく。
鮮度の高い音の実現とは、鮮度を損う要素を排除することでもある。
けれど、そういう音が、
別項「いま、空気が無形のピアノを……(その4)」で書いている音を聴かせてくれるのか。
そこで聴いた音は、いわゆる鮮度の高い音ではない。
けれど、サックスのソロになった瞬間に、
スピーカーに背を向けながら写真撮影の助手をやっていた私は、
サックス奏者が背後にいる、という気配を感じとってしまい、
そこに誰もいないのはわかっても振り返ってしまった。
これは確かにリアリティのある音だった。
生々しいサックスの音でもあった。
フルトヴェングラーは、
「感動とは人間の中にではなく、人と人の間にあるものだ」と語っている。
真理だ、と私は思っている。
でも、そうではないと思っている人もいることも知っている。
どちらが正しいのかは、私にはどうでもいいことだ。
先日、別項「何を欲しているのか(サンダーバード秘密基地・その5)」で、
余韻について書いた。
この余韻もまたフルトヴェングラーのいうところの感動と同じように、
人と人との間にあるもの、もしくは人と人との間に生じるもののはずだ。
一ヵ月ほど前に、ある人と出逢ったのがきっかけで、
余韻についておもう日が続いている。
この、私が感じている「余韻」は、いったいなんなんだろうか、
通常、余韻はデクレッシェンドしていくのに、この「余韻」はクレッシェンドしていっている。
とまどいも感じているわけなのだが、
ここで述べている音情も、人と音との間にあるものであって、
私が音情と感じていても、別の人はまったく感じていないということがあっても、おかしくない。