情景(その10)
グラシェラ・スサーナの歌が、私に情景を見せてくれる。
だからといって、他の人もそうだとは思っていない。
人それぞれだから、グラシェラ・スサーナではなくて、別の歌手だったりするし、
その歌で描かれている情景なんて浮ばない──、という人もいて当然だし、
情景が浮ぶことが音楽の聴き手として優れているとも思っていない。
ただ私にはグラシェラ・スサーナは、そういう存在であった、
そしてメリディアンのULTRA DACでMQA再生によって、
いまもそういう存在である、といえる──、それだけのことだ。
私は昨年から、心に近い音についてしばしば書いているのは、
このことがあってのことだ。
音を追求してきて、グラシェラ・スサーナの歌から情景を失ってしまった。
そのことに気づき、ULTRA DACとMQAとの出逢いがあった。
他の人はどうだか、私はわからないが、
すくなくとも私に限っては、耳に近い音を追求した結果、
情景を失ってしまった、といえる。
心に近い音といっても、なかなかに理解しがたいかもしれないが、
私にとってのグラシェラ・スサーナのように、
その歌が描いている情景を見せてくれる歌手をもつ聴き手ならば、
心に近い音がどういう音なのか、いつかわかると思う。
REPLY))
「情景」の回、とくに興味深く読んでおります。
「ハイ・フィディリティ再生になればなるほど、情景は浮かばなくなる」
これはオーディオにとって、あるいは音楽にとって、最も重要な議題のひとつだと思います。
私はエビが好きでエビを飼っているのですが、その水槽のランドスケープ(水景)をいかに構築するかということは、エビを飼う上での醍醐味の一つでもあります。ところが我々は愚者であり、時として人間がひとりよがりに作った水景が、エビにとって生きづらい水質となってしまうこともあります。盆栽にしてもアクアリウムにしても、命をあずかる趣味は時として恐ろしい結末を迎えるものです。
我々オーディオ・ファイルにとっても、ランド・スケープ(風景)を構築することは、このうえない醍醐味のひとつです。しかし、それを追求するあまり、音楽に寄り添っていないと感じてしまう再生音を作り出してしまっていたとしたら、それはいかがな事だろうかと思うわけです。
まず、ミュージシャンは、ジャズ・クラブの雰囲気やコンサートホールの荘厳さを聴衆に分かってもらいたくて音楽を奏でているわけではない・・・ということが、ひとつあると思うのです。むしろ、リスナーを今見ている風景から情景へとトリップさせることがミュージシャンの仕事なのであって、その仕事量こそがミュージシャンの力量でもあるとも考えられているわけです。
そのために、歌手は普通人間がしないであろう不自然な声質を作り出したり、自然界では普段聞けないような音を楽器を使って生成したりもするわけです。
英語で風景はランドスケープ、情景はシーンですが、音楽は映画と違って背景を目で見ることができません。
能では、ゆっくり3歩進めばそれは3里歩いたと解釈するルールがあります。能には風景をあらわすセットはありませんが、セットが見えないからこそ頭で情景がセットされるというわけですね。
たとえば、ライブ放送で伝わってくるジャズの現場の雰囲気とか、コンサートホールの響きをランドスケープという言葉で仮に分類するとしましょう。心に見える風景、つまり情景は、シーンという言葉で仮定することにします。
ジャズの名盤でハービー・ハンコックの「処女航海」というアルバムがあるのですが、こちらはランドスケープではなく、はっきりとシーンを意識して作られたものといえます。
冒頭曲の、夜明けの蒼い海に出航する情景から、嵐の情景、楽園の海・・・など、そこで描かれていることは自然の美しさであり、自然の猛威に対する恐ろしさであり、大海原に浮かぶ己のちっぽけさであり、生き伸びることのスリルです。その音楽は、およそタバコの煙けむるジャズ・クラブの雰囲気とはかけ離れたものです。このアルバムを楽しむためには、音という抽象的な現象から、具体的な景色を思い描くという、ある種の抽象能力が求められます。
逆に、チャーリー・パーカーという人の音楽は、抽象を抽象の中で理解することが求められます。チャーリー・パーカーの音楽を本気で愛している人が、ジャズ・クラブの雰囲気を猛烈に欲っしているか・・・というと、けっしてそんなことはないと思うわけです。
ランド・スケープの描写が重要なアルバムに、クリス・コナーの「クリス・イン・パーソン」というライブ・アルバムがあります。このアルバムは非常に都会的なジャズのボーカル作品です。その音楽は、ジャズ・クラブの人いきれのざわめきの中で進んでいき、リスナーはいつの間にかクリスの描き出すシーンに飲み込まれていきます。あたかも自分とクリスだけの世界がそこにあり、そのイリュージョンに引きずり込まれていくわけです。そして、歌が終わると、今度は観客と歌手という現実に引き戻してくれます。クリスもしきりに「オー、サンキュー、サンキュー」と聴衆に話しかけ、それが虚構であることをメタ認知しようとしているかのように振舞います。
「おっと、そうだったな。クリスに恋しちゃうところだったよ、アハハ」と言う声が聞こえてくるような、暖かな拍手が沸きおこるのです。そして、小さなMCがあり、また歌の世界に入っていく―。そうやって作り出された虚構と、ドライな現実の世界とを往還することのスリルがそこには存在しています。
これらはまさしくジャズの持つ特徴で、現世の中で見つけることができる悟りと救いの境地に結び付けうるものです。それは運命と欲望に対する解決法であり、遊びであり、ライフスタイルの提示でもあります。
音場の再現性を高めていくと、音楽がスタジオの雰囲気に飲まれてしまうことがあります。どうにも没頭できない再生音というものは、確かに存在します。
共感覚を持つ人は、目をつぶると音を判断できなくなるところがあります。私は白昼夢を見る体質ですが、白昼夢というのは目を開けて見るものです。したがって、リスニングルームのインテリアや照明というものにこだわらざるをえません。これは現実的な問題で、自分自身の没頭力とも関係のある話です。
普通、子供は人形劇を喜びますが、大人になるとしらけて見なくなってしまいます。そして、子供の頃に遊んだバービーやGIジョーを握っても、もう、自分たちが人形をつかってストーリーを思い浮かべることができなくなっていることに気がつくのです。それは、自分の心に、遊び心が消えてしまったせいでもあるし、ある種の抽象性が失われたせいでもあるわけです。
情景・・・、それは、心を通じて見ている風景であるために、今まで論じ得なかった内容だと思います。情景を論ずるということは、心のインナーを見せるということにも繋がります。そこでは恋愛観や官能を論ずることになってしまうわけですから、これらは猥談にも近く、多くの人はそこに立ち入ることが厳しいでしょう。
それを論ずるということは、自分のインナーを見せるということだし、人間のインナーを論ずるということでもあります。
歌手や俳優の中にはそれを論ずる文化というのが昔からありますけれど、普通、人間というものは個性を殺し、何かの役割の中で生きているものです。ですから、それを論ずるということ自体が難しくなってしまうわけです。
産業革命を経て、ウィンザー公の時代にはお尻を燕尾服で隠さなくても良くなりました。ケーリー・グラントの時代にはインナーであるシャツを見せる時代になり、ジェームズ・ディーンの時代にはTシャツをアウターとして見せても良いということになりました。IT革命があり、大衆の意見が可視化され、その後BBSが終焉してSNSの時代になると、レギンスやスポーツブラで公園を歩く人を日常でも見るようになりました。西海岸やカナダではボディー・スーツ姿の歩行者すら少なくはありません。
この物理的にインナーを見せるということと同時に、人々は心のインナーも見せていくようになりました。舞踏会で踊っていた貴婦人は手袋を脱いでミルク・ホールへ行き、道端ではチャールストンを踊るようになりました。それから享楽のジャズエイジが生まれ、産業化による殺戮の時代を経て、核の恐怖の中でロック&ロールは生まれます。そのようにして人々は、音の上でもどんどんと心のインナーを発信したり、受信したりするようになっていったわけです。
そもそもこれは、芸術家や音楽家が先立って推し進めたムーブメントでもあるでしょうし、もっと遡れば文人文化人が心のうちを文章にしてきたことが始まりかもしれません。
音楽が情景と結びついているかぎり、再生音においても情景を軽んずることはできません。ところが、歪み率やS/N比(ノイズの量)のように、情景は数値化することができません。
すると、科学の産物であるオーディオと情景のそれとが、どうにも折り合いが付かない。そういうことも出てくるわけです。だからといって科学と情景は結びついていないわけではなく、歪みが多ければ表現に制約が生じ、その結果、情景感が減ずるということも、我々は体験しているわけです。そこで、ますます分からなくなっていくのだけれど、情を論ずるにあたり自分の心のうちや官能を口にするのも憚れる。これはそもそも全ての芸術芸能において言えることでもあります。むしろ、憚れることがあるために芸術が必要であるという別の見方もできるわけです。
女性にオーディオ・ファイルが少ないのは、我々メカ好きの男たちが、シーンをすっとばしてランドスケープを追求したためではないかと思っています。
一般の芸能ファンの女性に「このステレオで聴けば、君の大好きな西条クンの塗れた唇が、すぐそこに現れてくるよ。」「ほらほらほら見てごらん。わー、すごい・・・、光る汗が見えるようだね。」「あー、すごい!ツイーターとツイーターを結ぶこの中央の位置で聞いてごらん、あふれ出す煮汁のように西条クンの汗が噴き出して見えるよ」などとそそのかして聞かせたとしても、それはそれは煙たがられるわけです(笑)。
私のパートナーに言わせると「菅野沖彦くらい色男が言うのならば許されるが、クリープなマニアたちに言われたらぞっとする」のだそうです。彼女はZ世代のまったく新しいオーディオ・ファイルですが、21世紀のオーディオ・ファイルに一番言いたいことは「たのむからカッコつけて」ということでした。また、こうも言います。「ライダーマンのマシンが何キロ出るとか、どのジェダイが一番強いのかと論じている男の子は確かにかわいい。だけど、私たち(女性)はそこに着目しない。そうではなく、なぜライダーマンは半分人間なのか、ルークはどんな悲しみを背負っているのかという話が聞きたい。」
私の知るところ、風景から情景へとトリップさせることの難しさについては、実は女性のほうが良く知っているように思えます。たとえば連れ込み旅館を秘密の花園と比喩したり、そうやって物事を美化する、あるいはフィルターをかけて見る―、そういった遊びは、むしろ女性のほうが長けていると思うのですね。ソングライターの歌の歌詞など眺めていると、男性より女性のほうが性的な表現が多いと思うほどなのですが、それらは比喩によって美しく包まれているものです。それは、彼女らのほうが性に対する理想が高いためでしょうし、元をたどれば、人間の赤ん坊が未熟児で生まれるというということが、これらの発想の出発点であると思うわけです。
女性にオーディオを説明するためには、ランド・スケープではなくシーンの追求と説明が必要です。濡れたような唇がそこにあって・・・ということは実は再生の面において重要なのだけれど、その歌手や作曲家がどんな心情で歌っているかが分かるようになったとか、ならないとか・・・、そういった説明のほうがはるかに重要になってくるわけですね。むしろ、濡れた唇がそこにあってという話を女性にしたら、ああオーディオ・マニアはまたそんなことで頭がいっぱいなのか、汚らわしい・・・と言われてしまうわけです。
音楽を作るうえで情景を伝えるために私は、心のインナーに対する探究心を高め、それと再生音とを結びつけ、きちんと構築された文章によって体系化し論じなければなりませんでした。それは、恋愛映画を論ずるようなことで、我々オーディオファイルよりも、婦人公論の記者のほうがよく知っていることでしょう。
今日のサイバー・スペースにおいては、悲しいかな、男性諸兄は恋愛映画を論ずるよりも、ピンク映画を論ずる人のほうが多いことは今のところ事実です(笑)。これは極端な例ですが、かれらは情景をすっ飛ばして風景を描写をしているわけです。そういったところが女性から見ると癇に障る。それが最も女性をオーディオから遠ざけている要因ではないかと思うのです。
よく「オーディオをやってるとモテるのか?」と聞く人がいます。私はこう答えるようにしています。「モテるやつがオーディオをやれば、よりモテる。モテないやつがオーディオをやれば、それが原因でよりモテなくなる。お前はモテるからオーディオをやったら大変なことになるぞ。」これを言うと友人は皆笑ってくれます。しかし、私はこれが半ば真理ではないかと思ってきているのです。
まず大体において、現代の趣味人というのは友達ができにくい人が多いわけです。昔だったら階級というものが趣味をする上での大きな障壁になりうるものでしたし、学歴というものが趣味における大きな断層を作ってもいたでしょう。ノブレスオブリージュ(民衆はやらなくてもいい貴族の義務)に属する趣味というのも多く存在していました。そこに音楽も属していたはずです。ところが、民主化が進み、イデオロギーが一括化されると、しだいに大衆化が進み、音楽に対する様相は変わっていくわけですね。すると、趣味というものはハードルが低くなっていくわけです。これにはメリットもデメリットもあったと思います。
話を戻しますと、友達がいないことが原因で趣味をはじめているということが旧来よりも多くなってきているという現状があるわけです。返して言えばそれは、友達が作れないという原因が、クリープなマニアを作り出しているとも言えるわけです。こういったことが、現代における趣味の世界全般の臥さる深刻な問題となっているわけです。
中でもとくに、電車やミリタリーなど、戦争やメカニックに関する話は生物学的に男性が好きな分野に違いはありませんから、これは道具を作って狩猟をする能力を競っていた時代の名残りだと思うのですが、男をこじらせた人はみんなそこへ行ってしまうわけですね。そうするとそこは男の掃き溜めになる。男の掃き溜めになるから女性が寄り付かなくなる・・・、そこに半ば類するのが現在のオーディオ趣味の立ち位置であると思うのです。
本来、趣味趣向に熱中することは、けっしてクリープなことではありません。それどころか、音楽というものは、そもそもそういったクリープな部分をそぎ落としていったところにあるものです。ミュージックという言葉の語源が神さまから来ているように、音楽には美化と浄化が関係しているわけです。
まさにこれは風景と情景を語ることと似ていると思うのです。しかも、それらは本当は対義していなくて、相関さえしている。官能なき恋愛はないように、風景と情景は、本当は深い部分で結びついているわけです。簡単に言ってしまえば、猥談ばかりしている男は白い目で見られるし、それがまったくできない男もつまらないというわけですね。
ただ、今ここにきて人類に一つの展開が訪れています。それは、女性自身も心のインナーを露わにするようになったということです。そして、よりランドスケープな、つまり、より肉体的なセクシャリティーに対しての耐性ができてきているということです。それだけ男女の役割の二分化が解けて行っているというわけですね。
とはいえそこには、現代文明の持つ、ある種のニヒリズムから発生した、ある種偽悪者的な露悪性も含まれているわけで、単純に女性にその耐性ができたとは言い切れない。しかしながらそもそも、セクシュアリティーへの自由度や柔軟性というのは、むしろ女性のほうが高かったということは言い添える必要があることです。たとえば、マイノリティーに対する考え方のそれです。
哺乳類を見てみると、同性愛というのは当たり前に色々な動物に見られるわけです。これは種の保存に有益に働きますから。とくに人間以外の霊長類では同性愛はむしろ当たり前で、発生率も非常に高いわけです。それを人間は、文化的役割という観点から拒絶してきた歴史を持ちます。それは、自分とは違う感覚を持った人間を理解するという心のキャパシティーが、我々ホモ・サピエンスには不足しているからでもありましょう。これは文明のもつ悲しみの一つです。
かつてより男性と比較して女性は、その生物学的な理由と弱者としての社会的な立場から、マイノリティーに対する理解が進んでいたものと推測できます。ハリウッド初のセックスシンボルはアジア人である早川雪舟でしたし、2019年にビートルズ以来の大ヒット(総合チャート19週間連続1位)を飛ばしたリル・ナズ・Xは同性愛者です。彼らのファンである彼女らには情景の探求があるはずでしょうし、そこには、生きる意義や社会的役割を超えたところにある個人的な欲求の追及というものも、存在しているはずです。
オーディオが科学の産物であるかぎり、科学的な根拠を抜きしにしての会話は成り立ちません。しかしながら、情を説明しなければ文化の形成は阻害されてしまいますし、性差も埋まることがなく、敷居はますます高くなっていくばかりです。知に働けば角が立ち、情に棹差せば流される。とかく人の世は難しいということですね。
今、オーディオという文化が直面しているのは、すべてを十全に過不足無く語ることのむつかしさ、バランスさせることのむつかしさではないかと思います。
生物多様性が失われパンデミックが頻発する中で、ヘッドホン文化は加速していくでしょう。そのなかで、ヘッドホンを外しスピーカーの音を聞くという文化は、見方によっては近代化の否定とも言えるわけです。Z世代の中でカセット・テープやラジカセが流行していることは、彼らの心の中に近代文明を否定したいという、いうなれば浪漫派的な合理主義への反抗があるようなのです。
我々がスクリーンやスピーカーの存在意義を未来人に、どう定義するかによって未来人のライフスタイルは異なります。2050年の人間はアップルグラスをかけて外出します。その帰宅した人間がアップル・グラスを外して、旧式のスクリーンを見ながらスピーカーの音楽を聞くということができるようになるためには、その効果と意義を語らねばなりません。そして、今がその時なのだと思います。