Archive for category カタチ

Date: 8月 21st, 2020
Cate: カタチ

趣味のオーディオとしてのカタチ(その13)

スマートフォンからなのだろうか、
その分野の先端のモノに、スマート(smart)がつくようになったのは。

スマートフォンの次には、スマートスピーカーが登場した。
その次は、何が来るのだろうか。

スマートアンプ、スマートプレーヤーが登場してくるのかもしれない。
そしてスマートオーディオということになっていくのだろうか。

スマートオーディオとは、どういうものになっていくのかよりも、
スマートのかわりにつけるとしたら、何があるのか、だ。

スマートの反対語をつけたいわけではない。
オーディオというもの、スピーカーというもの、アンプというもの、
それらについて考えていくうえで、まずつけたいのは純粋である。

純粋オーディオ、純粋スピーカー、純粋アンプ、純粋プレーヤー。
純粋は英語ではpureだから、
オーディオ・ヴィジュアルが登場したころ、
区別するためにピュアオーディオといわれるようになった。

私は、あまりピュアオーディオといういいかたは好きではない。
オーディオですむことだから。

それでも、純粋オーディオとしてみるのは、
ピュアオーディオと同じことじゃないか、という指摘があるのはわかっていても、
ピュアオーディオといったときと、純粋オーディオといったとき、
さらに純粋スピーカー、純粋アンプといったときに、
あらためて純粋スピーカーとは、いったいどういうモノなのか、と考えるからだ。

言葉遊びではない。少なくとも私にとっては、そうではない。
純粋スピーカー、純粋アンプからイメージするスピーカー、アンプは、
どういうカタチをしているのか。

Date: 11月 13th, 2017
Cate: カタチ

537-500におけるVery Near Field(その2)

以前、オーディオクラフトの試作スピーカーシステムAP320について書いた。

BBCモニターの音に惹かれていて、
ロジャースのPM510が欲しくて欲しくてたまらなかった当時の私には、
非常に気になるスピーカーシステムだった。

結局試作品だけで終ってしまった。
このAP320のことはステレオサウンド 65号掲載のオーディオクラフトの広告ぐらいしか情報がない。

AP320は、ソフトドーム型のトゥイーターを二基搭載している。
縦に一列、横に一列といった配置ではなく、前後に一列という、
おそらくそれまで例のない使用法である。

パッと見た目は手前のトゥイーターだけが目に入り、
後に配置されているトゥイーターにはすぐには気がつかないかもしれない。

手前のトゥイーターの周囲は、いわゆるバッフル板ではなく、
孔がいくつも開けられている。
パンチングメタルか、パンチングメタルのようなものである。

つまり後方のトゥイーターが発する音は、この孔を通して放射されるわけである。

二基のトゥイーターがどれだけ離されているのかはわからない。
10cm程度だとしても、それだけの時間のズレ、位相のズレは生じる。

ただ単に二基のトゥイーターを前後に配しただけでは、デメリットのほうが多いように思う。
けれど、そこに一工夫、いくつもの小孔を通して後方のトゥイーターの音は、
小孔の位置が仮想音源ともなる。

つまり実音源が前後にひとつずつあり、
手前の実音源の周囲に仮想音源がある。

たとえば小孔が開けられているものが、
537-500のようなパンチングメタルを何枚も重ねたものであったら、
そこにVery Near Fieldができるのではないのか。

Date: 11月 12th, 2017
Cate: カタチ

537-500におけるVery Near Field(その1)

537-500にしてもLE175DLHにしても、
パンチングメタルを複数枚重ねた音響レンズのところに仮想音源ができる。

昔の175は音響レンズが外せたそうだ。
外した音は、指向特性が鋭くなるばかりか、ホーンの奥に音像が定位するため、
ウーファーとの距離的ズレか気になってくる、といわれている。

175では試したことはないが、
スラントプレートの音響レンズも外した音を聴くと、同じ傾向を示す。

音響レンズは形状の違いはあっても、その位置に仮想音源ができる。
ということは、音響レンズの位置は、Very Near Fieldなのか、と思う。

スラントプレートの音響レンズよりも、
蜂の巣と呼ばれるパーフォレイテッド型は、Very Near Fieldがそこにできている──、
そう思えてならない。

もちろんダイアフラムのところにもVery Near Fieldもある。
実音源のところにVery Near Fieldがあり、仮想音源のところにもVery Near Fieldがある。

そう考えられるとしたら、537-500への考え方は修正の必要が出てくる。
いまでは音響関係のシミュレーションソフトがある。

ほとんどが研究開発用であり、個人が使うには高価すぎるものばかりだが、
これらのシミュレーションソフトを使って537-500を徹底的に解析していったら、
音響レンズ新たな発展を遂げるのだろうか。

Date: 9月 22nd, 2017
Cate: カタチ

趣味のオーディオとしてのカタチ(その12)

車の運転自慢の男がいる、としよう。
彼にとって理想に近い車はポルシェだ、としておこう。

彼はポルシェの運転に自信をもっている。
たいへんな自信をもっている。
それだけでなく、他の車の運転も自慢する。

ポルシェ以外の車、
たとえばランボルギーニ、フェラーリ、アストンマーチン、ジャガー、
メルセデス・ベンツ、マクラーレンといった車だけでなく、
国産車でも、スポーツカー以外の車であっても、
彼はポルシェを運転する時と同じに運転し、
ポルシェと同じ走りを、他の車に要求する。

それぞれの車にそれぞれのよさがあり、
それを活かしてこその運転のはずだろうが、彼は違う。

彼はオーディオマニアでもある。
車の運転と同じに、スピーカーを鳴らす。
どんなスピーカーも、自宅で鳴らしているスピーカーと同じに鳴らす。

その音を自慢するし、
オーディオマニアのリスニングルームを訪ねていっては、
そういう鳴らし方を披露して、自慢する。

スピーカー鳴らしの達人とか、名人とか、自分のことを恥ずかしげもなく、そういう。

それを「自分の音」と、彼はいう。
たしかに、彼自身の音ではある。
どんなスピーカーをもってきても、その「自分の音」でしか鳴らせないのだから。

その「自分の音」とスピーカーとが、たまたまマッチすれば、
それはそれでいいのだが、そうそううまくいくものではない。
だから、自慢するのかもしれない。
言葉で相手を説得させるためにも必要となるからだ。

まるめた紙をアートだといい、デザインだ、といっている人となんら変らない。

Date: 8月 15th, 2017
Cate: カタチ

カタチの違いと音の違い

マッキントッシュのパワーアンプには、
ブルーアイズと呼ばれる大型のパワーメーターが特徴として付いている。

けれど以前(1970年代後半くらいまで)は、メーターなしのモデルもあった。
MC50、MC250、MC2100、MC2120、MC2200などである。

MC2120とMC2200は、
それぞれMC2125、MC2205からパワーメーターを取りさり、
フロントパネルもガラスパネルではなく、割りと素っ気ないアルミパネルにしたもので、
価格も十万円以上廉くなっていた。

MC2120、MC2200は、フロントパネルとメーターの違いだけで、
コンストラクションはMC2125、MC2205は同じである。

MC2120とMC2125、MC2200とMC2205を比較試聴すれば、
メーターの有無、フロントパネルの違いによって生ずる音の違いはあるはずだが、
それほど大きな違いではない、と思う。

私が、いまごろ1970年代後半のマッキントッシュのパワーアンプについて書いているのは、
MC250、MC2100の存在を思い出したからである。

真空管アンプ時代のマッキントッシュのパワーアンプは、
MC275、MC240を思い出してほしいが、
入出力端子類が取り付けられているパネル部が傾斜してシャーシーを採用していた。

そのシャーシーをトランジスターアンプ時代に、
マッキントッシュはMC50、MC250、MC2100に採用していた。

MC50は50W出力のモノーラルアンプ、
MC250は出力50W×2のステレオアンプで、MC2505からフロントパネルとメーターを除き、
シャーシーは、MC275と同じ形状となっている。
MC2100も同様で、MC2125をベースにしたモデル。

写真でみるかぎり基本的なコンストラクションに変化はない。
けれどメーターとフロントパネルがなく、シャーシーの形状まで違うと、
比較試聴すれば、音の違いは微妙とは言い難いのではないだろうか。

アンプにおける筐体構造が音に与える影響は、いまでは常識になっているが、
そのはじまり(というか気づき)は、もしかするとこのあたりにあったのかもしれない。

Date: 10月 29th, 2014
Cate: カタチ

趣味のオーディオとしてのカタチ(その11)

目の前に紙が一枚ある。
手に取り、ぐしゃっとまるめる。

どんなに細心の注意をはらっても、まるめた紙と同じように別の紙をまるめることはできない。
まるめた紙は似ているまるめた紙はあっても、まったく同一のまるめ方の紙はおそらく存在しない。

だからといって、まるめた紙を「芸術(アート)だ」といえるわけがない。
だが、現実にはこれと同じことをして、「芸術(アート)だ」という人がいる。

まるめた紙がアートとなるのか。
まるめた本人がそういうのであれば、少なくともまるめた本人にとってはアートということになる。
本人だけでなく、一人以上の人が賛同してくれればどうなるか。
アートなのだろう。

ときとして、この程度であってもアートであるけれど、
これでは絶対にデザインにはならない。

その9)に書いた「4343よりも4333がデザインがいい」という人は、
まるめた紙をアートだといい、デザインだ、といっている人である。

Date: 3月 15th, 2014
Cate: カタチ

趣味のオーディオとしてのカタチ(その10)

「4343よりも4333の方が……」、
こんなことをいう人のスピーカーの鳴らし方はたいてい幅が狭い、とでもいおうか。

4343や4333のところをほかのスピーカーに置き換えてもいい。
とにかくこんな言い方をする人は多くはないけれど、少ないとはいえない。
しかもそういう人に限って、自分はスピーカーの鳴らし手として優れている、と思い込んでいる節がある。

けれど、私に言わせれば、こういう人のスピーカーの鳴らし方は、
少し極端な表現をすれば、ワンパターンである。
だから、幅が狭い、と書いた。

オーディオとは自分の好きな音を出すこと、だと、この手の人はいう。
自分の音を持っていなければ、いい音は出せない、と力説される。

このことを完全否定はしないけれど、はたしてそうだろうか。
彼は「自分の音」という幅の狭い鳴らし方に嵌っているだけのような気がしてならない。

ほんとうに優れたスピーカーの鳴らし手は、決してワンパターンな鳴らし方をしない。
瀬川先生がそうだったし、井上先生もそうだった。

あくまでもそのスピーカーシステムの個性・特性を活かしながら、うまいこと鳴らす。
もちろん、そこには瀬川先生ならではの音があり、井上先生ならではの音があるから、
そのスピーカーらしい、うまい鳴らし方であっても、決して瀬川先生が鳴らした音と井上先生が鳴らした音が、
同じになることはありえない。

私は車の運転はしないけれど、これは車の運転と同じなのではないか、と思う。

Date: 2月 9th, 2014
Cate: カタチ

趣味のオーディオとしてのカタチ(その9)

こんな人がいた。
「4343よりも4333がデザインがいい」

同意はできないけれど、これだけなら「あぁ、この人は4343よりも4333が好きなんだな」と理解できる。
デザインの良し悪しを好き嫌いだけで判断している人だと理解できる。

けれど、彼は続けてこういった。
「4343よりも4333の方が、いい音で鳴るからデザインがいいんだ」と。

彼がデザインについてあれこれいうのは、音がいいか悪いかでの判断であって、
音が悪ければ、どんなに優れたデザインであっても、それはひどいデザインということになる。

彼はいかにも自信をもって、そういった。
彼にとって、これは絶対に揺るがない正論であって、これ以外にデザインを評価することはできない。

彼の、この主張に納得したり同意する人がいるのか。

彼は「4343よりも4333の方が……」といった時点で、
彼自身がオーディオにおいて未熟であることを告白していることに気づいていない。
気づいていないからこそ、自分は正しいことをいっているんだ、からこその彼の虚勢である。

こういう人は少なからずいる。

不思議なのは、4343がいい音で鳴らない、といった時点で、
4343をうまく鳴らすことができなかった、と白状していることに気づいていない点である。

Date: 2月 8th, 2014
Cate: カタチ

趣味のオーディオとしてのカタチ(その8)

数年前にステレオサウンドの連載記事として、4343を現代に甦らせる、というものがあった。
エンクロージュア、ネットワークを新たなものにつくり変えて、という企画だった。

一回目から、いやな予感があった。
それでもステレオサウンドというオーディオ雑誌を、どこかで信じていた。
だから最終的にはいい企画になるんだろうな、という期待をもって、
二回目、三回目……と読んでいった。

4343はパーフェクトなスピーカーシステムとはいえない。
パーフェクトなスピーカーシステムなど、この世に一台も存在したことがないのだから、
4343がパーフェクトでないから、
といって、他の優秀な最新のスピーカーシステムよりもひどく劣っているわけではない。

4343が登場したのは1976年だから、
ステレオサウンドの4343改造(改良とはとうてい書けない)記事が出た時点でも、
古い時代のスピーカーシステムという括り方をされるようになっていた。

30年ほど経っていれば、気になるところがないわけではない。
技術も進歩している。
だからもう一度、現代の視点で4343を徹底的に見直していけば、
文字通り「4343を現代に甦らせる」ことは充分に可能である。

だがステレオサウンドの4343改造記事は、
4343というスピーカーシステムが、どういうモノなのかを徹底的に検証することなく、
改造に取りかかってしまっていた。

これ以上こまかいことはここでは書かないけれど、
結局のところ、あの記事は4343改造記事であり、
4343を、ではなく、4343に搭載されているスピーカーユニットを、というところで終ってしまっている。

話をもとに戻そう。

Date: 2月 8th, 2014
Cate: カタチ

趣味のオーディオとしてのカタチ(その7)

JBLには、特徴あるデザインのスピーカーシステムは、4343の他にもいくつもある。
パラゴンがそうだし、ハーツフィールドもあるし、ハークネスもある。

これらコンシューマー用のJBLのスピーカーシステムと、
4343が違うところはプロフェッショナル用というところではなく、
スピーカーユニットを見せた状態でのデザインの美しさである。

4ウェイだから、4343には4つのユニットがついている。
それだけのユニットがフロントバッフルについていながらも、
洗練されているのは、最初にステレオサウンド 41号の表紙で見た時も、
そして知人のリスニングルームで4348のあとにそこにおさまった4343を見た数年前でも、
その印象はまったく変ることがない。

4343のスピーカーユニットは、前身の4341と同じである。
4341もいいスピーカーシステムだとは思う。
音に関しては4343よりも4341のほうをとる人がいるのも知っている。

でも4341は、どこか間延した印象が拭いきれていない。
4343には、そういうところがない。

4343について書き始めると、書きたいことはいくらでもあってとまらなくなる。
ここでもすでに少し脱線しはじめていることはわかっているが、
あと少しだけ脱線したまま書いていく。

Date: 2月 7th, 2014
Cate: カタチ

趣味のオーディオとしてのカタチ(その6)

1970年代後半のJBLのスタジオモニターは、ひとつのピークを迎えていた。
ラインナップも豊富だった。

ラインナップが豊富なだけのメーカーはほかのメーカーでもあるけれど、
この時代のJBLのスタジオモニター(4300シリーズ)は、
もっともローコストの4301にしても、トップモデルの4343、4350にいたるまで充実していた。
2ウェイの4331があり、3ウェイの4333、それにブックシェルフ型の4311が揃っていた。

なかでも4343は、もっとも洗練されたモデルだった。
それは音だけでなく、デザインにおいても、
4343はJBLというスピーカーメーカーの体質のもっともよいところを凝縮したような、そういう存在だった。

いまもJBLには4300シリーズはある。
これらのスピーカーシステムの音が評判がいいのは知っている。
いいんだろうな、とは思っている。
それでも、デザインに関しては、ほとんど魅力を感じない。

そういえば数年前、知人のところで4348を聴いたことがある。
4348は15インチ・ウーファー、10インチ・ミッドバス、ホーン型のミッドハイとトゥイーター。
つまり4341から始まった4ウェイの最終形態でもある。

4つのユニットをすべてインライン配置している4348は、4343の後継機といえる。
4343のあとに4344が登場しているけれど、
4344は4345の弟分であり、4343のエッセンスを継承しているといえるのは、4348のほうである。

4348の知人は、しばらくして4343の中古を手に入れた。
知人のリスニングルームで、短期間のうちに4348と4343がおさまっているのを見たわけだ。

4343はやはり洗練されたスピーカーだ、と強く実感できた。

Date: 2月 3rd, 2014
Cate: カタチ

趣味のオーディオとしてのカタチ(その5)

アルテックの同軸型ユニット604シリーズは、
中高域のホーンがウーファーの前面に配置されている。
604-8Gまではマルチセルラホーン、604-8H以降はマンタレーホーンという変更はあるものの、
ホーンがユニットのセンターに、このユニットが同軸型であることを誰の目にも明らかなように、
存在感たっぷりに、そこにある。

これだけの大きさのモノがウーファーの中心、その前面にあるということは、
音響的には不利といえる。

タンノイの同軸型ユニットは、
アルテックのストレートコーンに対しカーヴドコーンを採用し、
ウーファーのコーンをホーンの延長として利用するという設計であるために、
604のようにホーンが前面に張り出してはいない。

タンノイの古いカタログが、インターネットで見ることができる。
それらの中には、アルテックの同軸型との比較で、
ホーンが前面にないため、タンノイの同軸型が音質的に有利であることを示す図が載っている。

アルテックと同じアメリカの、もうひとつの代表的な同軸型ユニット、
ジェンセンのG610もタンノイと同じようにウーファーの前面にホーンを設けていない。

タンノイの指摘に頼らなくとも、
604シリーズのホーンそのものが音質に影響を与えることぐらいは、容易に想像できる。

そんなことはわかったうえで、それでも604シリーズの外貌(カタチ)は、いいと感じてしまう。

Date: 2月 2nd, 2014
Cate: カタチ

趣味のオーディオとしてのカタチ(その4)

アルテックの604の開発にはランシングも携わっていることを知っていれば、
ランシングが自殺しなければ、JBLという会社の経営がうまくいっていれば、
JBLからも同軸型ユニットが登場したかもしれない、と夢想してしまう人は私の他にもきっといるはず。

どんな同軸型ユニットになったであろうか。
ベースとなるウーファーはD130であり、中高域は175DLHであってほしい、とおもう。

いま目の前にHarknessがあって、そのバッフル板にはD130と175DLHがついている。
だからこそ、そんな同軸型ユニットの姿を想像してしまう。

604とD130とどちらも15インチだが、コーンの頂角が大きく違う。
だからD130+175DLHから構成される同軸型ユニットの姿は、604とはずいぶん違うものになる。

D130+175DLHの場合、どれだけホーンレンズを張り出させるかによって、
ユニットの印象は変ってくる。
あまり前に張り出させずに、
D130のセンターのアルミキャップがそのまま175DLHのホーンレンズに置き換えられたのであれば、
なかなかスマートな外観で、同軸型ユニットとはすぐにはわからない人も出てくるかもしれない。

音も見た目も、604とは異る同軸型ユニットに仕上っていたはずだし、
私が思い描いているとおりの同軸型ユニットままで登場していたら、
604よりも、デザインに関しては高く評価することになった、とおもう。

それにくらべるとマルチセルラホーンの604シリーズは、いわば武骨なところがある。
洗練された、とは言い難い。
なのに、604を正面からみると、いいカタチしてるな、とおもうのは、私が男だからなのか……、
そうも思ってしまう。

Date: 1月 15th, 2014
Cate: カタチ

趣味のオーディオとしてのカタチ(その3)

私が初めて買ったステレオサウンドは41号と、
同時期に発売になった「コンポーネントステレオの世界 ’77」の二冊。

41号の表紙はJBLの4343、「コンポーネントステレオの世界 ’77」の表紙はアルテックの601だった。
どちらも正面から撮った写真だった。
正直に書けば、最初は604だと勘違いしていた。
けれど、ホーンの感じがなんとなく違うことに気づいて、
あれこれ調べて601-8Eだと気づいた。

表紙の4343を見て、かっこいいと感じた。
表紙の601を見て、4343に感じたかっこいいとは違う意味で、いいカタチだ、と思っていた。

そのころまでのホーンは指向性の改善のためにマルチセルラホーンだったり、
ホーン内部にフィンが設けられてたり、開口部に音響レンズが取りつけられたしていた。

理論上ではホーン内部や開口部に何かがあるのはマイナスとなる。
604のマルチセルラホーンにしても、指向性の改善であっても、
高い周波数では指向性がヤツデ状になるという面もある。

604をベースにしたUREIのシステムでは、
マルチセルラホーンを独自のホーンにつけ替えている。
604も604-8H以降はマンタレーホーンに変更されている。

伝聞ではあるが、ハーマンインターナショナルでは、
JBLに対して4343の後継機をつくってほしい、と希望した、と。
それもスタイルは4343と同じ。つまり音響レンズ付で、ということだったらしい。

JBLは、音響レンズつきのホーンはホーンの理論から外れている。
だから音響レンズつきのホーンを採用したシステムはつくらない、ということだった。

10年近く前にきいた話で、どこまでほんとうなのかはわからないけれど、
JBLが音響レンズつきのホーンをつくらない理由は、納得できる。

音響レンズつきのホーン、マルチセルラホーンは、もう旧い時代(理論)のホーン、
2397ですら、おそらくそういうことになっているはず。

そんなことはわかっている。
それでもアルテックの604を正面からみれば、いいカタチだと思うのだ。

Date: 1月 11th, 2014
Cate: カタチ

趣味のオーディオとしてのカタチ(その2)

もともと能率の高いドライバーとホーンの組合せ。
その中でも2441は能率の高いドライバーのひとつであり、
さらにダブルで使うことで能率はさらに増す。

いったいそこまでの能率が家庭で、しかもそう広くない空間で鳴らすのに必要なのか。

それだけではないどんなに精密につくられていようと、
シリアルナンバーが連番であろうと、
スピーカーというメカニズムはまったく同じモノを作ることの難しさは、
実際に同じ製品をいくつか集めて比較試聴してみるとよくわかる。

連番だから、という期待はしないほうがいい。

そういうモノだからふたつのドライバーを同時に鳴らすことは、
メリットもあるけれどデメリットもある。

広いコンサート会場で使うのであれば、デメリットよりもメリットの方が大きくても、
家庭で常識的な音量で鳴らすのであれば、メリットよりもデメリットのほうが大きいのかもしれない。

そんなことは指摘されなくてもわかっている。

でも目の前に2441を二発取り付けた2397とのカタチをみていると、
いつからオーディオは、コマゴマとした理屈をいうようになってきたのだろうか、と思う。

(理屈なんて)どうでもいいじゃないか、このカタチ(姿)を見てみろよ、
と2441(二発)と2397と言っているような気がしてくる。