Archive for category 映画

Date: 10月 18th, 2020
Cate: 映画

JUDY(その7)

2013年のNHKの連続テレビ小説「あまちゃん」。
薬師丸ひろ子演じる鈴鹿ひろ美が、最終回に近い回で、歌うシーンがある。

鈴鹿ひろ美はひどい音痴という設定だった。
鈴鹿ひろ美が若いころ、レコードデビューをしようとしたが、
あまりにもヘタなため、小泉今日子演じる天野春子が代りにレコーディングしている。
ゴーストライターならぬゴーストシンガーとして。

その鈴鹿ひろ美が、天野春子が当時歌った曲を歌う。
天野春子が鈴鹿ひろ美に歌の特訓をする。
けれど途中で投げ出してしまう。

歌う当日、天野春子が裏で、ふたたびゴーストシンガーと歌う手はずだったが、
マイクロフォンのトラブルで、鈴鹿ひろ美が歌う。

鈴鹿ひろ美が音痴であることを知る周囲は、どうなるのかはらはらしていたが、
見事な歌唱だった。

そういうシーンがあった。
これをどう解釈するのか。

鈴鹿ひろ美は音痴ではなかったのか。
なぜ、こんなにも見事に歌えたのか。
実力を隠していたのか。

鈴鹿ひろ美は、一流の女優という設定である。
だからこそ、ここでの歌唱は、女優・鈴鹿ひろ美が、歌手を見事に演じたからこそだと思う。

歌手・鈴鹿ひろ美として舞台に立っていたら、ここまで歌えなかっただろう。
私は、そう解釈して、そのシーンを見ていたから、
映画「JUDY」でのレネー・ゼルウィガーの歌唱は素晴らしさは、
レネー・ゼルウィガーが女優として一流だからこそ、なのではないのか、と思ってしまう。

Date: 10月 5th, 2020
Cate: 映画

TENET

今日は、映画「テネット(TENET)」を観てきた。
ストーリーについては、話題になっているし、
あれこれ語りたがる人はいるだろうが、
ここで書きたいのはストーリーとか映画の出来、感想ではなく、音である。

冒頭のキエフのオペラ劇場のシーンからそうなのだが、
いつもと音がずいぶん違うことに、すぐに気づく。

私はIMAXで観た。
東京ミッドタウン日比谷にあるTOHOシネマズで観た。

IMAXで観る時は、大半がここである。
だから、どんな音なのかはわかっているはずなのに、
「テネット」は最初の音が鳴ってきてすぐに、
スピーカーが変ったのだろうか、と思いたくなるほど、
いつもの音とはそうとうに違っていた。

とにかく、全体に硬質な音である。
ゴツゴツしている感触がある、といってもいいくらいである。
しかも音量も、他の映画の同じようなシーンよりも大きめのようにも感じた。

背景音、効果音、音楽、すべて硬質な感じが一貫している。
それに背景音も、かなり大きく、字幕があるからいいけれど、
日本語の字幕が読めない外国の人だと、
セリフの聴き取りもけっこう大変な感じもしたシーンもあった。

どうも、あえて、そんな音づくりをしているようである。
日比谷のTOHOシネマズのスピーカーが変っていないことは、
映画本編が始まる前の告知や予告編での音でわかる。

「テネット」の音は、オーディオマニアの私にとっては、
興味深くもあり、オーディオ的快感も感じたりするのだが、不快に感じる人もいよう。

ホームシアターを趣味としている人ならば、
ソフト化が待ち遠しいのではないだろうか。

私はテレビも持っていないので、
サウンドトラックが、どんな仕上がりなのかに興味がある。
11月に発売になる。

Date: 9月 11th, 2020
Cate: 映画

メイド・イン・ヘブン

「メイド・イン・ヘブン」(原題:Made in Heaven)は、
1987年の映画で、ティモシー・ハットン、ケリー・マクギリスらが出ている。

好きな映画であり、もう一度観たい、と思っていても、
アメリカではDVDで出ているが、日本ではDVDになっていない。

Netflix、Amazon Prime Videoにもない。

「メイド・イン・ヘブン」は、天国で出逢った男女が生れ変るストーリーである。
こういう内容を鼻からバカにする人もいるようだが、
そういう人に無理にすすめる気はまったくない。

大ヒット作でもないし、ものすごい名作ともいえない。
そんな映画なのに、このごろもう一度みたい、と思うことが多くなった。

みたい、と思うから、ここでも書いてしまっている。

ティモシー・ハットン演ずる主人公が、
終盤で老夫婦と食事を共にするシーンがある。

主人公は、食事をする金にも事欠いている。
だから、あるいいわけをする。

老夫婦は、それがお金がないことのいいわけだと、わかっている。
主人公と同じいいわけを、私も若いころ、何度使っている。

お金がない、と素直にいえなかったからだ。
同じいいわけをしたことがある、という人は、私だけではない、とおもう。

五味先生は、オーディオ愛好家の五条件として、
金のない口惜しさを痛感していることを、その一つにあげられている。

「メイド・イン・ヘブン」を観た時はそうではなかったけれど、
観ていて、お金のない切なさを思い出していた。

このシーンをみても、何も感じない人がいるかもしれない。
それはシアワセなことであろう。
けれどオーディオマニアとしては、しあわせだろうか。

Date: 9月 7th, 2020
Cate: 映画

パヴァロッティ 太陽のテノール

映画「パヴァロッティ 太陽のテノール」を観てきた。
6月公開予定だったのが、コロナ禍の影響で約三ヵ月延び、先週末からようやく公開。

ドキュメンタリー映画なのだが、ドルビー・アトモスでも公開されている。
通常の上映もあるが、ドルビー・アトモスでの上映を観てきた。

冒頭のシーンは、
アンドレア・グリミネッリ(フルート奏者)によホームビデオでの撮影で、
アマゾンの熱帯雨林の中心部にあるオペラハウス、テアトロ・アマゾナスへ向うところである。

目的は、百年前にカルーソーが歌ったテアトロ・アマゾナスで歌いたい、ということだった。
いまならスマートフォンでも、十分きれいな画質で撮れるけれど、
この時は1990年代であって、いい画質ではない。

音も当然のことながら、そのくらいである。
なのに、テアトロ・アマゾナスに着き、舞台で歌うパヴァロッティの歌のシーンだけは、
意外にもいい音である。

ホームビデオのモノーラル音声を、この映画のために、
アビーロードスタジオでスピーカーから再生した音を、12本のマイクロフォンで収録。

録音したものを再生し、もう一度録音している。
こうすることで、モノーラル音源に再生・録音する場の音響が加わり、
ある種の臨場感が生れているようだ。

ドルビー・アトモスの上映だったから、よけいにそう感じたのか。
通常の上映では観ていないので、比較はできないが、
通常の上映とドルビー・アトモス上映は、200円の料金の違いだから、
ドルビー・アトモスのほうがいいように思う。

Date: 5月 8th, 2020
Cate: 映画

JUDY(その6)

「JUDY」のサウンドトラックから、
最後の曲“Over The Rainbow”を、5月6日のaudio wednesdayでもかけた。

MQAで鳴らした。
レネー・ゼルウィガーの歌唱は素晴らしい。
「JUDY」の撮影のためにトレーニングをしたのだろうが、
それにしても見事である。

この見事さはトレーニングと才能のたまものといってしまえば、そうなのだろうが、
ここでのレネー・ゼルウィガーの歌唱の見事さは、
レネー・ゼルウィガーが才能ある女優であるからではないのか、という疑問もわいてくる。

映画とまったく関係ないところでレネー・ゼルウィガーが、歌を歌ったとしよう。
もちろんトレーニングを積んで、であっても、「JUDY」のような見事な歌唱となるだろうか。

ならないのではないか、という気がするのだ。
そこが本職の歌手と、本職の女優の歌唱の違いのような気さえする。

つまりレネー・ゼルウィガーは歌うということを演じている。

Date: 4月 6th, 2020
Cate: 映画

The Terminator

明日(4月7日)に、緊急事態宣言が出される。
期間は一ヵ月程度のようだから、5月6日までか。

5月6日に、audio wednesdayをやるつもりだったから、
もしかすると4月に続いて5月も延期することになるのかもしれない。

その時になってみないとなんともいえないのだが、
新型コロナのニュースを見ていると、
映画「ターミネーター」シリーズのことを思い出す。

昨年、「ターミネーター:ニュー・フェイト」が公開された。
「ターミネーター」シリーズは一作目から映画館で観ている。
「ニュー・フェイト」も、だから映画館で観た。

「ターミネーター」シリーズのあらすじについては省くが、
この映画は、人工知能スカイネットと人類との戦いなわけたが、
無機物と人類との戦いを描いている、ともいえる。

人はさまざまな技術を進歩させてきた。
それはなんのためなのか。

無機物を進化させるためだったのではないのか。
「ターミネーター」シリーズは、
人間が無機物を進化させてきたことによって、
無機物が、人の手を借りずに無機物を生み出せる時代、
それを迎えてしまったから起きてしまった戦いを描いている──、
という見方もできる。

新型コロナウイルスの変位のニュースを読んで、
「ターミネーター」シリーズのことを思ったのは、そこである。

ウイルスを進化させるために、人は存在しているのかもしれない。
そういう見方もできる。

「ターミネーター」は映画だから、絶望的な未来ではない。
けれど現実はどうなるのかは、わからない。

遠い時代には、無機物とウイルスとが融合していくのかもしれない。

Date: 3月 22nd, 2020
Cate: 映画

JUDY(その5)

越後獅子だけではない、
映画「JUDY」を観て思い出したセリフがある。

別項「毅然として……(その1)」で書いていることである。
優れた才能ゆえに諦めなければならない夢がある──、
そういうことを思い出していた。

ジュディ・ガーランドのほんとうの夢とは、いったい何だったのか。

私にとって、この一点においてのみ、
ジュディ・ガーランドと美空ひばりが重なる。

Date: 3月 18th, 2020
Cate: 映画

JUDY(その4)

越後獅子、
五味先生の「モーツァルトの《顔》」に出てくる「越後獅子」は、
映画の序盤で浮んできていた。

中盤以降は、ロンドン公演がおもに描かれている。
「JUDY」は、実話をベースとしたフィクションということになっている。
とはいえ、ほぼ実話なのだろう、とおもって観ていた。

ジュディ・ガーランドは、ロンドン公演が終って半年後に亡くなっている。
自殺ともいわれている、そうだ。

そういう状態のジュディ・ガーランドがみせるロンドン公演でのパフォーマンス、
それが成しえるのは、やはり越後獅子ゆえなのだと、どうしても思ってしまう。

もちろん才能があってのことなのは重々わかっている。
それでも映画が描かれるシーンは、越後獅子としての時代がなければ……、とおもってしまう。

映画を観る前に、レネー・ゼルウィガーの歌唱によるサウンドトラックを聴いていた。
このサウンドトラックの最後に、“Over The Rainbow”である。

映画を観ていると、“Over The Rainbow”が劇中で歌われるのは、
最後のシーンだな、と誰もが気づくだろう。

最後のシーンでうたわれる。
そして映画「JUDY」も終る。

映画で使われた“Over The Rainbow”と、
サウンドトラックの“Over The Rainbow”は、
どちらもレネー・ゼルウィガーが歌っているが、同じなわけではない。

なぜなのかは、ここで書いてしまうと、
これから観る人を怒らせてしまうことにもなるだろうから省く。

そごでどういうことが起るのかも、
映画をこれまで観続けてきた人ならば、想像の範囲のことだ。
それでも、このシーンは胸に響く。

しかも、このことは実際に起ったことだ、ときいている。

これをもって、ジュディ・ガーランドは、最後の最後で幸せだった、とはいわない。
越後獅子の最期のようにも、私の目には映った。

Date: 3月 12th, 2020
Cate: 映画

JUDY(その3)

映画の最初には、制作に携わった会社のロゴがいくつも、
スクリーンに映し出される。
「JUDY」では、BBC Films、Pathéなどの映し出された。

ああ、そうだ、この映画はハリウッドの映画ではないんだ、思いながら眺めていた。
制作会社には20世紀フォックスを関っているから、
イギリスだけの映画ではないわけだが、
本編が始まると、イギリスの映画だ、と思う。

何も知らずに観ても楽しめる、といえば、そうかもしれないが、
ジュディ・ガーランドについては、ある程度のことは知っておいた方が、いい。

何もかも説明してくれる映画ではない。
ジュディ・ガーランドの最後の公演となったのは、ロンドンである。
ここはカーネギーホール(アメリカ・ニューヨーク)でないことを、
映像が淡々と伝えてくれる。

観ていて、越後獅子ということばが浮んできた。
ここでの「越後獅子」は、五味先生の「モーツァルトの《顔》」に出てくるそれである。
     *
少年モーツァルトはこういう父親に引き回されて、姉のナンネルと各地を演奏して回ったわけだ。むろん少年とは到底おもえぬハープシコードやヴァイオリンの演奏技巧をマスターしていたからなのは分っている。モーツァルトは神童だ、でも実利に聡い父の実像をおもうと、昔のたとえば越後獅子の姉弟が親方に連れられて旅から旅を稼いだのと実質どれほどの違いがあろうか。
 伝記に即して今少し丹念に生い立ちをなぞってみよう——。
 モーツァルトはこんな両親の間に生れ、父親はアウグスブルクの製本屋の出で、母はヴォルフガング湖畔の田舎娘だった。父は大司教(聖職者というよりは土地の領主ともいうべき存在)の宮廷管弦楽団の一員であるかたわら、作曲とヴァイオリンの個人教授をし、そのヴァイオリン教則本は数ヵ国語に翻訳され、非常な好評を博した。しかし息子が生れてからは、個人教授をやめ、宮廷の仕事以外はすべての時間を自ら二人の子の音楽教育に当てた。おかけで姉のナンネル(マリーア・アンナ)も、その後の演奏旅行で弟の才能が捲き起す称賛をともに分つ程になれた。この演奏旅行というのは、父親が、息子の才能は神には栄光を、わが家には利益をもたらすものであるという判断によって、思いつかれたものだとスタンリー・サディは書いている。
 少年モーツァルトが六歳のとき、バイエルン選帝侯の前で演奏するため父に伴われて姉ともどもミュンヘンへ出発した。つまり最初の演奏旅行である。ついで同じ年の九月、今度は皇帝の御前で演奏するためウインへ赴き、シェーブルン宮殿で姉弟は演奏し、皇帝・皇妃に深い感銘を与えて、燦然たる宮廷着(もっとも王室の人たちが成人して不要になった)を姉弟は贈られた。父レオポルドには金銭が授けられた。この首都ウイン滞在中、二人の天才児出現に熱狂した貴族の音楽愛好家たちの家を訪問するのに姉弟は寧日なかったが、サディによれば、こんなお祭り騒ぎめく演奏旅行が、感受性のつよい少年にどんな影響を及ぼすかは当然勘考すべきことで、
「だからというわけではないが、モーツァルトの態度のうちには、単に抑制がきかぬというよりは増長した行動がいくつかあった。たとえば、皇妃の膝の上にとびあがって接吻したり、転んだ自分を助け起してくれたマリー・アントワネット王女に求婚したり、王女にくらべてやや見劣りのする妹姫を軽蔑したりした。」(小林利之氏訳より)
 これは、子供っぽい『やんちゃ』で片付けられることだろう。しかし、立入って考えるなら、家庭の躾の問題になる。少なくとも父親レオポルドがヴォルフガング少年に注入したものは一にも二にもハープシコードやヴァイオリンの奏法であって、日常生活のマナーではなかった。母親もまたそういうマナーを我が子に躾けるような礼儀深さ、たしなみを、彼女自身の生い立ちに持っていなかった。そんな夫婦で(主としてむろん父親が)今様にいう天才教育をヴォルフガングにほどこした。事実ほどこすに足る彼は神童ではあった。しかし——従来の伝記作者は誰もこの点には触れていないが——モーツァルトが時に卑猥なことを平気で口走り、父とちがって経済的観念はまるで無く、行動に計画性が無く、およそ処世術といったものに無頓着で(あの大司教のもとを辞職して、パリへ職捜しに行くとき、モーツァルト——すでに二十一歳になっている——は、多分パリで役立つであろう多くの紹介状をすっかり家に置き忘れている)そのくせヴェルサイユ宮殿のオルガン奏者という「永続性のある地位」を世話されても、フランス音楽全体への嫌悪感もあったろうが、自分には宮廷のカペルマイスター(楽長)の地位こそふさわしいとの理由で断わっている。このときのモーツァルトは二十二歳だが、そんな若さで楽長の地位に就ける道理もないことさえ気がつかなかった——そういうモーツァルトを、いかにも〝天才肌〟という観点からのみ人は見すぎている。だがそこに、あまり身分のない夫婦がやった天才教育の〝歪み〟を看取するのは別にモーツァルトの天分を誹ることにはなるまい。かえって、この〝歪み〟を見過ごしては実生活で彼の味わわねばならなかった惨めさを見落しはしないか。
 こんな話がある。
 一七七一年の暮、当時十五歳のモーツァルトは父とともに二度目のイタリア旅行からザルツブルクに戻った。その日に父子のよき庇護者であったジギスムント大司教は他界し、後任としてかねて厳格な人物と噂のあるコロレード伯爵が任命されたが、新任のこの大司教は小心で俗物の父親と、おませで口やかましい息子への嫌悪の情を示しはじめたので、父親は、息子の才能が正当に評価されそうもない惧れから、ヴォルフガングのための永住の地をさがしはじめる。そこでフィレンツェのトスカーナ大公に斡旋を依頼するが、何ヵ月か待たされて届いた返事は悲観的なものだった。おそらくこれは、大公が母親マリア・テレジアに相談したら、次のような忠告を得たからだろうとスタンリー・サディは記している。
 忠告はこうだ——「乞食みたいに方々をうろつきまわる、役にも立たぬ者に悩まされないように」(同右)
 なんという冷酷さか。でもこれが処々を確かにうろつきまわる越後獅子親子への、上流人のもっとも至当な評言ではなかったのか? 彼女は女帝なのである。その後、父子がウインへ来て御前に伺候したときには、いかにも慈悲深げに振舞っているが、女帝なら、「慈悲深げな態度」、怪しむに当らない。レオポルドがこの時ウインへ来たのは矢張り息子のためなのだが、結局、なんの契約も得られぬままに空しくザルツブルクに帰っている。
     *
だからだろう、モーツァルトと重なってしまうところが私にはあった。

Date: 3月 11th, 2020
Cate: 映画

ポップスター

「JUDY」の本編が始まる前の予告編の時間帯。
ポップスター」(原題:VOX LUX)の予告編があった。

主演はナタリー・ポートマン。
4月3日公開予定である。

この「ポップスター」も「JUDY」同様、
アメリカよりもかなり遅れて公開である。
アメリカでは2018年12月である。

一年以上経ってようやくの公開だ。
シネマコンプレックスが少なくとも東京では主流になり、
映画館の数というより、スクリーンの数は増えているはずだ。

にも関らず、こんなにも遅れての公開が、まだある。
観にいく予定でいるが、
4月だと、ガラガラなような気がする。

Date: 3月 10th, 2020
Cate: 映画

JUDY(その2)

昨晩、映画「JUDY」(邦題:ジュディ 虹の彼方に)を観てきた。
スマートフォンのアプリからの予約の段階でわかっていたとはいえ、
実際に映画館に行ってみれば、ガラガラだった。

「JUDY」はアメリカでは昨年9月に、イギリスでは10月に公開されている。
日本での公開は約半年遅れである。

これだけ遅れたのは、
アカデミー賞の発表を待って、という配給会社の思惑があってのことなのか。

主演のレネー・ゼルウィガーは、主演女優賞に輝いている。
派手な映画ではないのだから、受賞してから、というのもわかる。
けれど時期が悪かった。

新型コロナが流行っている。
電車に乗っていても、人が少ないように感じている。

月に二回ほど、東京駅から電車に乗る。
たいていは夜である。
エスカレーターで中央線のホームにあがると、人でいっぱいである。
それがいつもの光景であるのに、いまは人が少ない。

いつもなら、一本もしくは二本電車を待って乗るのに、
いまはそんなことしなくとも座って帰れるほどに空いている。

昨晩の映画館もそうだった。ロビーで待っている人が少ない。
人気のない映画を観てきているような感じでもあった。

3月7日、8日の映画ランキングで、「JUDY」は八位だそうだ。
私が観たのは9日だから、前日、前々日はそこそこ入っていたのか。

そんなガラガラの劇場で「JUDY」を観ていた。

Date: 11月 8th, 2019
Cate: 映画

JUDY(その1)

6月のaudio wednesdayは、“Over The Rainbow”のCDを持ち寄って、だった。
映画「JUDY」の予告編をみたのが理由だった。

カナダで9月、アメリカは10月に公開されていた。
日本では? と思い出しては検索していたけれど、来春公開とあるだけだった。

昨日やっと日本での公開日が発表になった。
2020年3月6日からである。

邦題は「ジュディ 虹の彼方に」である。
ジュディ・ガーランドを演ずるのはレネー・ゼルウィガーである。

「JUDY」のサウンドトラック盤はすでに発売になっている。
レネー・ゼルウィガーの歌唱で、“Over The Rainbow”が聴ける。

映画の公開日が待ち遠しいとともに、
“Over The Rainbow”のCDの持ち寄りを、
もう一度audio wednesdayでやろうかな、とも考えている。

Date: 10月 31st, 2019
Cate: 映画

Alita: Battle Angel(その6)

映画の予告編と本編は、
ここにきて、以前とは様相が変ってきた。

もう予告編で、映画本編のすごさをきちんと感じとることが無理になりつつある。
映画館での予告編ならばまだしも、
インターネットのおかげで、いまでは家庭で、映画館での予告編よりも早く見ることができる。

映画を観るのも好きだが、それと同じくらい、
もしかするとそれ以上に予告編を見るのが好きな私にとって、いい時代である。

ここでも書いてきているように、
いくつかの映画の予告編を見て、あまり期待できないかも……、と思っていたのが、
IMAXで観て、まったく逆であったことを体験してきている。

今日観てきた「ジェミニマン」の予告編もそうだった。
ジェミニマンというタイトルが、なんとなく古くさく感じられたし、
予告編を観ても、わさわざ映画館で観よう、とはそれほど思わなかった。

なのに、ハイフレームレートでの上映という、この謳い文句だけで観にいきたいに変った。
きっとIMAXで衝撃を受けた映画と同じであるに違いない、と思ったからだ。

映画の歴史は長い。
その長い歴史のなかで、いくつかのエポックメーキングなことがあって、
ここまで来ている。

いままたエポックメーキングなことが起っているのではないのか。
映画の技術的なことに詳しいわけではないが、
なんとなくそんなふうに感じている。

それゆえに家庭で見る予告編の印象と、
上映館を選んでの映画本編の印象は、大きく隔たりはじめている。

映画館の料金は、都内だと1,900円のところがある。
これは通常料金で、3Dやドルビーアトモス、IMAXだと追加料金が発生する。
一本の料金が3,000円前後になることもある。

私はauユーザーなので、TOHOシネマズは月曜日は安く観られるから、
月曜日は映画の日のようになってきている。

高いよ、という声もあるようだが、行けば納得できる。
一時期、映画館から遠ざかっていたのが、
映画館に行くのが楽しくなってきている。

いま、節目の時代なのかもしれない。
ほんとうに節目の時代なのかどうかは、しばらく経ってみないとなんともいえないが、
それにしても上映館を選ばなければならない時代になりつつあるのは確かなようだ。

Date: 10月 31st, 2019
Cate: 映画

ジェミニマン(その2)

ホームシアターを趣味としている人のなかには、
映画館よりも、わが家のホームシアターのほうがずっとクォリティが高い、
そういう人が少なからずいるようだ。

最新のホームシアターを体験したことはないが、
そういえるレベルにあるのだろうな、ぐらいには私だって思っている。

それでも「ジェミニマン」は、
しばらくはホームシアターでの再現は無理ではないか──、
そう思わせるほどに、120fpsのハイフレームレートでの上映は、
オーディオでのハイレゾとは一線を画している、といいたくなるし、
ハイフレームレートにあたる再生での条件とはなんだろうか、と考えさせられる。

単純に考えれば、サンプリング周波数が高くなれば、
ハイフレームレートと同じこと、となりそうではある。

けれどハイフレームレートの「ジェミニマン」を観ると、
そうとはいえない気持が強くなってくる。

なぜ、そんなふうに感じたのかは、うまく説明できないし、
理由もはっきりとはわからない。

それでも、サンプリング周波数がどんどん高くなることが、
映画における1秒間のコマ数が増えていくことと同じとは思えないのは、
聴覚と視覚の違いによるものだけとは考えていない。

なにか別の要素というか条件が、ハイフレームレートに相当する予感がしている。

Date: 10月 31st, 2019
Cate: 映画

ジェミニマン(その1)

映画「ジェミニマン」を観に、さいたま新都心駅近くにあるMOVIXさいたまに行ってきた。

わざわざ埼玉にある映画館にまで足をはこんだのは、
関東では、ここでしか120fpsのハイフレームレートの上映は行っていないからだ。

TOHOシネマズ日比谷もハイフレームレートで「ジェミニマン」を上映しているが、
60fpsである。
それでも通常の映画が24fpsなのだから、十分にハイフレームレートとはいえるけど、
それでもその二倍の120fpsで上映しているところがあれば、やはりそこで観たい。

これから先、120fpsでの上映が一般的になるのであれば、
それまで待つのも考えるが、そうすぐにはなりそうにない。

監督のアン・リーにいわせると、
「ジェミニマン」の理想の上映は、
4K/3D/HFR(High Frame Rate)であり、
これを満たす映画館はアメリカにもない、とのこと。

日本では埼玉県のMOVIXさいたまの他に、
大阪府の梅田ブルク7、福岡県のT・ジョイ博多が120fpsでの上映である。

アン・リー監督によれば、
4K/3D/HFRは、人間の目で見る感覚の再現だ、そうだ。

観れば、それが実感できる。
映画は内容だ、といって、
この手の映画を敬遠する人がいるのはわかっているが、
それでも映画を映画館で観るのが好きな人ならば、
120fpsのハイフレームレートでの上映を体験してほしい、
というよりも、体験すべきだ、といいたい。