Date: 2月 2nd, 2023
Cate: 映画
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モリコーネ 映画が恋した音楽家(その2)

映画「モリコーネ 映画が恋した音楽家」を観た。

エンニオ・モリコーネの熱心な聴き手ではないのは自覚しているけれど、
モリコーネの音楽をまったく聴いていないわけでもない。
時にはモリコーネの音楽とは知らずに耳にしていることがある。

映画「モリコーネ 映画が恋した音楽家」を観れば、
モリコーネについて書かれた文章を読むよりも、こんなにも多作なのか、と驚く。

黒田先生は「音楽への礼状」で、モリコーネについて書かれている。
     *
 この時代は、大食漢より美食家がもてはやされ、四の五のいわずにいい仕事をする職人よりまことしやかな能書きをたれるもったいぶった手合いのほうが尊重されるという、困った時代です。そのような時代ですからなおのこと、映画のために仕事をする作曲家には微妙なところがあります。映画では、音楽がのさばりすぎてはいけないし、しかしながら、同時に、そこでも音楽は音楽としてなにかを語ることが求められています。靴職人に求められている最低の条件は、客の足にあう靴をつくることです。デザインがいいのわるいのといったようなことは、その後のことです。客の足にマメをつくっても恥じないどころか、足を靴にあわせようとさえする靴屋のいる本末転倒が、大手をふってまかりとおる時代というのは、やはりどこかおかしい。
 あなたが、イタリアで、作曲家としてどのような地位においでなのかは知りません。しかし、イタリアの、ちょっとした音楽事典でも、ルチアーノ・ベリオについての記述は半頁以上にもおよんでいるにもかかわらず、あなたについての記述はほんの十行ほどしかないことから推測しますと、たとえ、イタリアに日本の文化勲章のようなものがあったとしても、あなたは、きっと、その類のものをもらえないのであろうな、と悲しくなります。通俗におもねりもせず、芸術至上をふりかざしもせず、テレビのルーヴル美術館を紹介する番組のためであろうと、パゾリーニのような映画作家のためであろうと、その時、その場で求められる靴を、他のいかなる靴職人もなしえないような方法でつくってしまうあなたの才能、というより、あなたの仕事のしかた、ひいては、あなたの生き方に、ぼくはとてもひかれます。
 一九二八年十一月十日生まれのあなたは、つい先頃、還暦をむかえられたわけですが、どうぞ、これからも、わたしはほんとうはシンフォニーを書きたかったんだ、などとおっしゃることなく、これまでどおり無節操で無頓着な仕事ぶりをつづけて下さい。意識過剰なひとの仕事などというものはいずれにしても考えすぎた恋文のようなもので、相手を刺せるはずもなく、面白くも可笑しくもありません。モーツァルトやシューベルトの音楽がいつまでたっても凄いのは、彼らの作品のことごとくが書きなぐりの恋文であったからだと思います。
     *
黒田先生の文章は1988年のものだ。
いまは2023年。
時代は、どう変化しているのだろうか、変化していないのだろうか。

《四の五のいわずにいい仕事をする職人よりまことしやかな能書きをたれるもったいぶった手合いのほうが尊重されるという、困った時代》、
そこから変化しているのだろうか。

《モーツァルトやシューベルトの音楽がいつまでたっても凄いのは、彼らの作品のことごとくが書きなぐりの恋文であったからだと思います》、
映画を観れば、このことを実感できるはずだ。

「モリコーネ 映画が恋した音楽家」を観た後は、当然ながら、
モリコーネの音楽を聴きたくなる。たっぷりと聴きたくなっていた。

ここでもTIDALのありがたさを感じていた。

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