Archive for 3月, 2013

Date: 3月 31st, 2013
Cate: 表現する

夜の質感(桜の季節)

まだ咲いていない地域もあるけれど、
私が住む地域ではすでに桜は満開をすぎて花弁が舞い始めている。

駅までの道のり、桜並木を歩いていく。
朝、明るい時間にも歩き、帰りは日によって、まだ夕方の明るい時間のときもあれば、
暗くなって、それでもまだ人通りが多い時間のときもあるし、
もう深夜になって、人通りもほとんどなくなった時間に、桜並木を歩く。

夜おそい時間ともなれば、この道も暗くなる。
その暗さの中に、桜の淡い色が目に入ってくるけれど、
それよりも強い印象を与えてくれるのは、幹・枝である。

暗いから、明るい時間では幹・枝の表皮の質感がはっきりとわかるのが、
この時間ともなれば幹はそういうところまではもちろん見えず、
だからこそ幹の形(枝ぶり)が明るいとき見ているよりも、
そのシルエットが花明りによってはっきりと浮び上っている。

同じ桜の木を、朝と夜とでは反対方向から眺めているわけだが、同じ桜の木を見ていることには変りはない。
なのに明るい時間と深夜遅い、ほんとうに暗くなってからとでは、
桜の木のシルエットの印象がまるで違ってくる。

ひとりで歩いていると、それも誰も歩いていなかったりすると、
桜の木のシルエットに、どきっとする。
明るい時間では感じられなかった、異形さを感じとっているからだ。

というより、異形として私が感じとっている、と書くべきだろう。
明るい時間ではまったく感じなかった怖さがあり、
これもまた「夜の質感」なのだとおもう。

Date: 3月 31st, 2013
Cate: スピーカーとのつきあい
1 msg

複数のスピーカーシステムを鳴らすということ(その2)

JBLとタンノイの、ふたつのフラッグシップモデルを手に入れて鳴らす、ということは、
時代によってパラゴンがスタジオモニター・シリーズの4350(もしくは4343)に変化していく。

タンノイもそれにともない変化していく──、と書きたいところだが、
オートグラフはイギリス本国での生産をやめ輸入元ティアックによるライセンス生産に切り替り、
アーデン、バークレイなどの、いわゆるABCシリーズが主力機種としてラインナップされていた時期があるため、
4350(4343)と同居するタンノイは、やはりオートグラフ(もしくはGRF)だった、ともいえよう。

こんなことを書きながら、ふと思ってしまったのは、
アルテックとJBLを同居させる人も、少なからずいたような気がしている。
ジャズの好きな人が、アメリカの西海岸の、ルーツを辿れば同じところに辿り着くふたつのブランド、
アルテックとJBLのスピーカーシステムを手に入れて鳴らす──、
そんな写真(記事)を読んだような記憶が、私のどこかにある。

もしかすると私の記憶違いなのかもしれない。
でもたしかに見た(読んだ)記憶もある。
(ステレオサウンド 38号の岩崎先生のリスニングルームの記事を除いて、である)

記憶違いだとしても、アルテックとJBLの同居はあってもおかしくはないし、
このふたつのブランドの同居は、JBLとタンノイの同居とはまた違う領域の広がりを見せてくれる。

でもアルテックとタンノイを同居させていた人は、いたんだろうか、と思ってしまう。
JBLとタンノイ、JBLとアルテックがあれば、
アルテックとタンノイの同居があっても不思議ではない。

アルテックでジャズを聴き、タンノイでクラシックを聴く。
アルテックの中から604を搭載したモデルを選択すれば、
アメリカ、イギリスの同軸型ユニットによるスピーカーシステムを同居させることになり、
これはこれで非常に面白い試みとも思えるのだが、
なぜか、アルテックとタンノイの同居という写真を見た記憶がほとんどない。
(こちらは瀬川先生が一時期やられていたことはあるけれど……)。

このへんになるとすこし記憶に自信がもてない。
どこか、都合のよいように記憶違いを自ら起している──、
そんなふうに思いながらも、複数のスピーカーを同居させている例の多くには、
JBLが片方の主役であることが多かったのではなかろうか。

Date: 3月 31st, 2013
Cate: 手がかり

手がかり(その9)

人の声といっても、
これもまたオーディオ機器によって、少なからず変化を受ける。

この項の(その4)でふれているローズマリー・クルーニーのレコード。
個人的にはローズマリー・クルーニーは、とくに好きな歌手というわけではない。
とはいえステレオサウンドの試聴室でくり返し聴いていると、
スピーカーやアンプなどによって、ローズマリー・クルーニーの年齢が変ったようになることがあるのに気づく。

そのレコードを録音したときの年齢にふさわしい鳴り方のときもあれば、
妙に若返って鳴ることもある。
その若返り方も、いろんな若返り方があり、
いかにもローズマリー・クルーニーの若いときは、こんな感じなんだろうな、と納得できる鳴り方もあれば、
この鳴り方はローズマリー・クルーニーではなくて、どこか別の歌手のように若返ってしまった、ということもある。

反対に老け込む鳴り方もある。
声に艶がなくなり、潤いもなくなってしまう。
そういえば、瀬川先生が「ふりかえってみると、ぼくは輸入盤ばかり買ってきた」のなかで、
アン・バートンの日本盤と輸入盤(オランダ盤)の音に違いについて書かれている。
     *
 そうしてアン・バートンにのめり込んでいるのを知って友人が、オランダCBSのオリジナル盤を探してきてくれた。クラシックではマメにカタログをめくったり注文したりする私が、ポピュラーのレコードになると途端に無精になる。友人がオリジナル盤を探してくれなかったら、私はアン・バートンのほんとうの良さを聴けずに過ごしたかもしれない。
 この違いを何と書いたらいいんだろうか。オランダ盤に針を下ろして、聴き馴れたはずの彼女の声が流れ始めた一瞬、これが同じレコード? と耳を疑った。これがアン・バートンなら、いままで聴いていたのはアン婆ァトンじゃないか――。われながらくだらない駄洒落を思いついたものだが、本気でそう言いたいくらい、声の張りと艶が違う。片方はいかにも老け込んだような、疲れて乾いた声に聴こえる。バックのヴァン・ダイク・トリオの演奏も、ベースはウッドでなくゆるんだゴム・タイヤを殴っている感じだし、ピアノやドラムスも変に薄っぺらで線が細く、キャラキャラいう。そのくせどこか古ぼけたような、それとも、演奏者と聴き手のあいだに幕が一枚下りているかのような、鮮度の落ちた音がする。
     *
アン・バートンがアン婆ァトンになってしまうのと同じように、
ローズマリー・クルーニーも、そんなふうに老け込んでしまうことがある。

Date: 3月 30th, 2013
Cate: スピーカーとのつきあい

複数のスピーカーシステムを鳴らすということ(その1)

以前はスピーカーシステムを二組以上所有・鳴らされている人は割と多かった印象がある。

ひとつのパターンとしてはジャズはJBLのスピーカーシステムで、クラシックはタンノイのスピーカーシステムで、
というスピーカーシステムの使い分けがあり、
これはひとつのスタンダードのようにもなりつつあったように思っている。

一口にJBLとタンノイといってもラインナップはどちらも豊富なほうだから、
いくつかの組合せがある。
JBLのほうはパラゴンやオリンパスといったコンシューマー用モデル、
タンノイはオートグラフやGRFといったモデル。
パラゴンとオートグラフ、この大型スピーカーシステムの両方を所有されている方は、
ある時期の日本では珍しくはなかった、といえた。

オートグラフはコーナー型だから左右の両脇に設置され、
そのあいだにパラゴンが置かれているリスニングルームの写真は、何度か見たことがある。

1970年代、クラシック向きのスピーカー、ジャズ向きのスピーカーという言い方がなされてきた。
JBLのスピーカーはジャズ向きであり、タンノイはクラシック向き、
このふたつのスピーカーメーカーのフラッグシップモデルの両方を手に入れるのは、
それだけで大変なことであり、ひとつの部屋に収めることができるのも、また大変なことである。

その意味では、ひとつの憧れの象徴として、
パラゴンとオートグラフの同居があったのかもしれない。

Date: 3月 29th, 2013
Cate: D130, JBL

D130とアンプのこと(その38)

HIGH-TECHNIC SERIESにも長島先生が書かれているように、
出力電圧と負荷インピーダンスはカタログに発表されているわけだから、
それぞれのカートリッジの出力電力を計算して、
どのくらいの電磁変換効率持っているのかを、知っておくのは、
カートリッジの特性を見ていく場合、比較していく場合に必要なことでもある。

スタントン、ピカリングによるローインピーダンスのMM型カートリッジの出力電力はどのくらいになるのか。
0.3mVはシュアー V15/IIIの出力電圧の約1/10以下、
負荷インピーダンスは100Ωだから47kΩよりもずっと小さな値。
出力電圧の二乗を負荷インピーダンスで割ってみると、0.9nWとなる。
V15/IIIの約3.4倍となる。

SPUの41.66nWにはまだまだ及ばないものの、
一般的なMM型カートリッジよりも高い電磁変換効率ということになる。

ならば、これだけでも通常の47kΩ負荷のMM型カートリッジよりも、
ローインピーダンスのMM型カートリッジは技術的にも有利になるかとなると、微妙なところがある。

出力電圧ではなく出力電力の高さをいかすには、
一般的なヘッドアンプやハイゲインのフォノイコライザーでは技術的に無理といえる。

ヘッドアンプ、ハイゲインのフォノイコライザーを使っているかぎり、
優位となるのは出力電圧の高さであり、
出力電力の高さをいかすには昇圧トランスか、
入力抵抗を省いた反転型のヘッドアンプ(つまりI/V変換アンプ)ということになる。

Date: 3月 29th, 2013
Cate: D130, JBL

D130とアンプのこと(その37)

ステレオサウンド別冊HIGH-TECHNIC SERIESの2号目は長島先生によるMC型カートリッジの研究だった。
この本の60ページに、MC型カートリッジの特性の見方という章がある。
そこではオルトフォンのSPUとMM型カートリッジの代表としてシュアーのV15/IIIとの比較がなされている。

V15/IIIの出力電圧は3.5mV、SPUは0.25mV。
これだけを比較すれば圧倒的にV15/III(つまりMM型カートリッジ)のほうが、
発電効率が高い、と受け取れる。

HIGH-TECHNIC SERIESが出たのは1978年、
このころは私もそう思っていた。
インピーダンスのことは知ってはいても、出力電圧のことしか考えていなかったし、
出力電力については考えが及ばなかった。

だから長島先生によるSPUとV15/IIIの出力電力の比較は新鮮だった。

出力電力には負荷インピーダンスが関わってくる。
SPUは1.5Ω、V15/IIIは47kΩ。
そして出力電力の求め方は出力電圧の二乗を負荷インピーダンスで割った値であり、
オルトフォンSPUの出力電力は41.66nW、V15/IIIの出力電力は0.2606nWと、
出力電圧とは逆転してSPUのほうが大きい値となり、
その差も出力電圧の比較以上に大きなものとなっている。

つまりMC型カートリッジは電磁変換効率がMM型カートリッジよりも高い、といえる。
コイルの巻枠に磁性体を採用したSPUは、空芯MC型カートリッジよりもさらに高効率となる。

長島先生は、この電磁変換効率を
「針先変位に対してどのような反応を示すかのバロメーターとなる」と書かれている。

Date: 3月 28th, 2013
Cate: D130, JBL

D130とアンプのこと(その36)

ピカリングのローインピーダンスのMM型カートリッジXLZ7500Sは、
ステレオサウンドの試聴室で新製品の取材の時に聴いている。

技術的なメリットは何もないのでは? と思いつつも、
出てきた音は、ローインピーダンス化したことで得られた音なのか、
それとも各部の改良によって得られたものなのか、そのあたりははっきりしないけれども、
たしかにいままで数多く聴いてきたMM型カートリッジとはなにか違う質の良さはあったように記憶している。

でも、その記憶もここまでであって、もっと細かなことを思い出そうとしても思い出せない。
いい音だとは思って聴いていても、その音そのものの印象は強くなかった。
だからなのか確かな記憶として残っていない──、としか思えない。

スタントンにしてもピカリングにしても、ローインピーダンスのMM型カートリッジは、
いわば特殊な製品であって、ならば、ほかの一般的な仕様の製品以上に、
それならではの魅力を私は感じたい、と思うほうなので、よけいに印象が薄い。

通常のMM型カートリッジでも、印象に強く残っているカートリッジはいくつかある。
それらと比較したときに、あえてヘッドアンプやハイゲインのフォノイコライザーアンプを用意してまで、
これらローインピーダンスのMM型カートリッジを使う意味を、私は見出せなかった。

私はそんな受け取り方をしてしまったわけだが、
ピカリングもスタントンもカートリッジの老舗メーカーである。
ただ通常のMM型カートリッジとは違うためだけの製品という理由だけで、
ローインピーダンス仕様を開発したわけではないはず。

ハイゲインのフォノイコライザーアンプならば信号が通過するアンプの数は、
通常仕様のMM型カートリッジと同じとなるが、
ヘッドアンプ使用となると、アンプを1ブロック多く通ることになる。
それによるデメリットが発生してもローインピーダンス化することのメリットを、
スタントン、ピカリングの老舗カートリッジのメーカーは選択したわけである。

Date: 3月 27th, 2013
Cate: 「オーディオ」考

「音は変らない」を考えてみる(その6)

どのスピーカーシステムでもかまわない。
たとえばある人がJBLのフラッグシップモデルであるDD67000を手に入れたとしよう。

その人にとって、DD67000とイメージできる音がある。
それが、その人にとっての、そのスピーカー(ここではJBLのDD67000)の「顔」ということになる。

このDD67000の「顔」は、人が変れば、共通するところもあるにしても、
違ってくるところもまたある。

そのことは、ここではあまり問題にはならない。
とにかく、ある人にとって、DD67000の「顔」といえる音がある、ということが、
結局のところ「音は変らない」にかかってくることになっている。

そのDD67000の「顔」は、鳴らす人が変らないかぎり、
ずっと同じである、ともいえよう。
アンプを、それまで使っていたモノと正反対の性格のモノに交換したとしても、
その人にとってDD67000の「顔」が、
タンノイのKingdom Royalの「顔」になったり、B&Wの800 Diamondの「顔」になったりはしない。

鳴らす人が変れば、同じスピーカーシステムであっても、
また違う「顔」を見せることもあるにしても、
人が同じであるかぎり、しかもアンプやケーブルで「音は変らない」人が鳴らすのであれば、
よけいに「顔」は変らない、ともいえるのではないか。

だからといって、アンプやケーブルを替えても「音は変らない」──、
そういう音の聴き方をしていて、音楽を聴いていることになるのだろうか、と私はおもってしまう。

アンプやケーブルを替えても「音は変らない」と宣言した時点で、
どこか「仏つくって魂入れず」に近いことを、自分は行っている、と言っていることになるのではないだろうか。

私はスピーカーは役者だと、いまは捉えている。
だから、よけいにそんなふうにおもえてしまう。

Date: 3月 27th, 2013
Cate: audio wednesday

第27回audio sharing例会のお知らせ

次回のaudio sharing例会は、4月3日(水曜日)です。

時間はこれまでと同じ、夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目の喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 3月 26th, 2013
Cate: 「オーディオ」考

「音は変らない」を考えてみる(その5)

スピーカーが音の「顔」だとすれば、
スピーカー以外では「音は変らない」も理解できないわけではない。

人の顔は、どんな表情をしていようと、その人の顔であり、
整形手術でもしないがぎり、決して別人の顔になることはない。
その意味で顔は変らない。
つまりスピーカーを替えないかぎり、「音は変らない」ということになる。

けれど人の顔には表情がある。
朝起きたばかり寝ぼけ眼の顔、すっきりと目覚めたときの顔、夜更けて睡魔に襲われている顔、
これだけでも同じ人の顔でもずいぶん印象は違う。

そして人には感情がある。
その感情がつくりだす表情も、またある。
喜怒哀楽──、
これだけでも同じ人の顔はずいぶん変って見えることがある。

笑っている顔でも、ほほ笑んでいるときの顔、大笑いしているときの顔、苦笑いの顔、つくり笑いのときの顔、
いろいろある。
同じような表情はあっても、ひとつとして同じといえる表情はない、ともいえよう。

顔は変る。変っていく。
けれど、あくまでもその人の顔であるという意味では、変りはない、ともいえる。

このことと同じ意味で、
アンプやケーブルによって「音は変る」という人と、
アンプやケーブルで「音は変らない」という人に分れるのではないのだろうか。

Date: 3月 26th, 2013
Cate: 「オーディオ」考

「音は変らない」を考えてみる(その4)

スピーカーの変更によってのみ変る要素とは、
スピーカーの支配する領域のことである。

こんな当り前すぎることを、今回改めて考えることになったわけである。
そしてこのことと同時に思いだしたことがある。

瀬川先生が熊本のオーディオ店で定期的にやられていた「オーディオ・ティーチイン」で、
アンプの比較試聴を行われた。
そのとき、こんなことをいわれた。

「アンプの音のち害がよくわからない、といわれる方がいらっしゃる。
スピーカーの音の違いというのは、人でいえば外観の違いであり、
アンプの違いは内面の違いともいえる。」

スピーカーの音が人に喩えれば外観であり、
アンプの音がその人の内面、という表現はわかりやすいと思ったし、
もちろん、この喩えには瀬川先生もこまかいことをつけ加えたいと思われていたであろうが、
オーディオ・コンポーネントの中におけるスピーカーとアンプの音のどういうところを支配、関係してくるのか、
そのことを的確に表現されている。

アンプやケーブルを替えても「音は変らない」と頑なに主張する人の音の聴き方が、
私なりに掴めた、とやっと思えた。

スピーカーが、いわば音の外観に深く関係しているということは、
そのシステムの音の「顔」といえる領域は、スピーカーの領域ともいえよう。

Date: 3月 25th, 2013
Cate: 「オーディオ」考

「音は変らない」を考えてみる(その3)

ほかにもいくつか理由となりそうなことを考えてみた。
自分でもこじつけとしか思えないものをふくめて、あれこれ理由となりそうなことを考えても、
私自身を納得させることは見つけられなかった。

なぜ「音は変らない」となるのか。
音は確かに変っている、にも関わらず。

だから、すこし考え方を変えてみた。
「音は変らない」と主張する人たちですら、
スピーカーを替えれば音は変る、と認めている。

ということはスピーカーによって変る要素とはなんであるのか、
またスピーカー以外で変らない要素(変らないといえる要素)とは、いったいあるのか、
あるとすればそれはなんであるのか。

そう考えたときに、やっと納得できる答(もの)が見つかった。

Date: 3月 24th, 2013
Cate: 「オーディオ」考

「音は変らない」を考えてみる(その2)

井上先生がよくいわれていたことのひとつに「頭で聴くな」がある。

音は耳で聴くものである。
だがオーディオに関心のある人、それも関心が強くなればなるほど、
時として耳ではなく頭で音を聴いてしまうことがないわけではない。

つまり、このスピーカーはこういう技術内容を持った製品だから、とか、
このアンプは真空管式だから、とか、
このケーブルの銅線の純度はきわめて高いから、とか、
このブライドの製品なのだから、
……この手のことは、際限なく書いていけるわけだが書いていってもあまり意味のないことだから、
このへんにしておくが、オーディオの知識が増えていくことで、
その知識が音の判断を時として誤らせてしまう、歪めてしまうことがある。

井上先生は、頭で聴くタイプの人は、音で騙すことができる、誘導することも簡単だともいわれていた。
だまされないタイプの人は、オーディオに関心のない、音楽好きの人でもある、と。

いい音を出していく為に身につけてきた知識や経験によって、
自分で自分を騙してしまうことが、まったくなかった、という人が果しているだろうか。

ケーブルやアンプで「音は変らない」という人たちこそが、頭で聴くタイプである、とはいえない。
頭で聴く人は、「音は変らない」と主張する人たちの中にもいるし、
「音は変る」という人たちの中にもいる。

スピーカー以外で「音は変らない」──、
そう主張する人たちがいる理由は、だから他にある、と考えるべきである。

Date: 3月 24th, 2013
Cate: 「オーディオ」考

「音は変らない」を考えてみる(コメントを読んで)

昨夜書いた記事についてのkadhirさんのコメントを読んでいて思うことがあった。

こう書かれている。
「なにをしても音が変わる、というのはつらいと感じる人がいると思います。
つらいというか苦しいというか。際限のない地獄(金銭面でも)のような。」

確かに、音がささいなことで変化することには、そういう面がある。

ステレオサウンドにいたころ(20代前半だった)、
おもに井上先生の使いこなしによって、
こんなことで音は変っていくのか、と驚き、喜んでもいた。

そして井上先生の使いこなしによる音の変化に触発されて、
自分でも、こういうところでも音が変化することを見つけていくことに没頭していた。
自分で発見できたときは、また嬉しかった。

音はほんとうによく変る。
何かやれば、大なり小なり音は変化していて、
それに気がつくかどうかであることがわかる。

使いこなしの技能を身につけ磨いていくには、
こういう時期も必要である。
けれどオーディオの楽しみは、こういうことを発見するばかりでもない。

こんなことでも音は変ってしまう。
その現実に対して、意識的に拒否してしまいたくなる人もいて不思議ではない。
オーディオの目的は、音を変える要素を見つけていくことではないのだから。

だから、いまでは、こんなことで音は変ってほしくない、という気持の方が強い。
「際限のない地獄」と表現されている、その気持はわかるといえばわかる。
(私は地獄とは思っていないだけの話で、際限のないのは、そのとおりである)

けれど拒否しようとしても現実には拒否なんてできない。
さまざまな変動要素により音は変ってしまう。
だから私は、無数にあると思える要素をでひとつでも多くコントロールできるようにしたいと思っている。

いま別項で「plus」というタイトルで書こうとしていることの一部は、
このことへとつなげていく予定である。

オーディオ機器の性能を向上させるために、
いくつもの「新」技術がオーディオ機器にプラスされてきた。
それらはあらたな変動要素ともなっている。

Date: 3月 23rd, 2013
Cate: 「オーディオ」考
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「音は変らない」を考えてみる(その1)

何度か書いているように、世の中にはオーディオに関心を持ちながらも、
スピーカーを替えれば音は変ることは認めるけれど、
アンプやケーブルを替えても音は変らない、と頑なに主張する人がいる。

こういう人たちの耳が悪い、
この一言で片づけることはできる。
けれど、それだけで終らせてしまっていいものだろうか、とも思う。

音、オーディオに関心のない人が、音なんて変らない、というのとは違う。
関心を持っていながらも、それにオーディオ歴もそこそこ長いにも関わらず、
スピーカー以外では「音は変らない」となるのは、なぜなのか。

まず考えたのは、音の記憶力に関することだった。
たとえば写真や絵であれば、二枚のよく似た写真や絵を並べて比較することができる。
雑誌や新聞に片隅に載ることがある間違い探しである。
しかも写真も絵も時間によって変化することはないから、違いをゆっくり時間を気にせず探し出すことはできる。

音楽(音)は、たえず変化している。
そして比較試聴するアンプやケーブルの音を同時には出して聴くことはできない。
聴けるのは一組のアンプ、一組のケーブルである。
だから音を記憶していなければ、ふたつのアンプの音、ふたつのケーブルの音を比較はできない。

この記憶力は、人によって違いがある。
だからアンプやケーブルでは「音は変らない」という人たちは、
音の記憶力に欠けているのだと、最初は考えた。

けれど、それではスピーカーの違いによる音の違いも聴き分けられないことになる。
そうなると音の記憶力に関することではないのではないか。