「音は変らない」を考えてみる(その6)
どのスピーカーシステムでもかまわない。
たとえばある人がJBLのフラッグシップモデルであるDD67000を手に入れたとしよう。
その人にとって、DD67000とイメージできる音がある。
それが、その人にとっての、そのスピーカー(ここではJBLのDD67000)の「顔」ということになる。
このDD67000の「顔」は、人が変れば、共通するところもあるにしても、
違ってくるところもまたある。
そのことは、ここではあまり問題にはならない。
とにかく、ある人にとって、DD67000の「顔」といえる音がある、ということが、
結局のところ「音は変らない」にかかってくることになっている。
そのDD67000の「顔」は、鳴らす人が変らないかぎり、
ずっと同じである、ともいえよう。
アンプを、それまで使っていたモノと正反対の性格のモノに交換したとしても、
その人にとってDD67000の「顔」が、
タンノイのKingdom Royalの「顔」になったり、B&Wの800 Diamondの「顔」になったりはしない。
鳴らす人が変れば、同じスピーカーシステムであっても、
また違う「顔」を見せることもあるにしても、
人が同じであるかぎり、しかもアンプやケーブルで「音は変らない」人が鳴らすのであれば、
よけいに「顔」は変らない、ともいえるのではないか。
だからといって、アンプやケーブルを替えても「音は変らない」──、
そういう音の聴き方をしていて、音楽を聴いていることになるのだろうか、と私はおもってしまう。
アンプやケーブルを替えても「音は変らない」と宣言した時点で、
どこか「仏つくって魂入れず」に近いことを、自分は行っている、と言っていることになるのではないだろうか。
私はスピーカーは役者だと、いまは捉えている。
だから、よけいにそんなふうにおもえてしまう。