つきあいの長い音(その41)
つきあいの長い音は、くされ縁の音ではない。
つきあいの長い音は、くされ縁の音ではない。
たくましくあるからこそ、細心なのであって、
たくましさを喪失してしまっては、細心ではなく小心でしかない。
小心で、どれだけ楽しめるのか。
(その3)で、
自分のシステムの音を一度録音して、そのシステムで再生すると、
音の癖が二倍に強調される、というコメントがあったことを書いている。
なぜ、そうなるのか。
何を聴いているのか、ということにつきる。
つまり、そこで鳴っている音とそこで聴いている音の違いである。
自分のシステムで音楽を聴く、音を聴く。
それは、そこで聴いている音である。
自分のシステムの音をマイクロフォンで拾って録音し、
それをまた再生して聴くのは、そこで鳴っている音である。
マイクロフォンが捉えているのは、あくまでもそこで鳴っている音である。
もちろん、そこで鳴っている音すべてをマイクロフォンが捉えているわけではないが、
それでも、そこで鳴っている音をマイクロフォンは捉えている。
マイクロフォンが、そこで聴いた音を、われわれはオーディオを介して聴いているわけではない。
では、自分のシステムの音を、
誰か録音のプロフェッショナルに録ってもらったら、どうなるのか。
これは考えていくと、なかなかおもしろいことである。
スレッショルドのコントロールアンプSL10は、
その外観だけで、いまも欲しいと思い続けている。
スレッショルドのデビュー作、パワーアンプの800Aに衝撃を受けた。
日本にはあまり輸入されなかったようなのだが、
地元・熊本のオーディオ店には、800Aがあった。
スレッショルドには、そのころコントロールアンプはなかった。
なので800Aと組み合わせるコントロールアンプといえば、
私にとっては、ここでせマークレビンソンのLNP2だった。
SL10はスレッショルドの最初のコントロールアンプではない。
最初に出たのはNS10だった。
NS10を聴く機会はなかった。
あまり聴きたいとも思っていなかった。
理由は、800Aに似合うデザインではなかったからだ。
どこかヤボったさを感じるNS10、
そのころ瀬川先生は、アンプメーカーには、
コントロールアンプを得意とするところ、
パワーアンプを得意とするところがある、と書かれていたし、
スレッショルドは、パワーアンプを得意とするメーカーのように思えた。
スレッショルドに、コントロールアンプはあまり期待できないのかも──、
そんなふうに思っていたところに、SL10が登場した。
広告でカラー写真でSL10を見て、色っぽいな、と感じた。
実機を見て、さらにそう感じた。
NS10からSL10。
このあいだに何があったのだろうか。
特に大きな出来事がデザイナーにあったのではないのかもしれないが、
そんなことをつい想像してしまうほどに、
NS10とSL10のデザインは違う。
最近の略称は……、こんなことを書くと、
お前のセンスが古すぎるだけだよ、といわれようが、
それでもいまの略称には、センスもないけれど、愛もない。
今日、ソーシャルメディアで「竜そば」という略称をみかけた。
立ち食いそばの何かなのか、と思う人がいてもおかしくない。
映画「竜とそばかすの姫」のことである。
「竜とそばかすの姫」は、先週火曜日に観てきた。
だから「竜そば」が、「竜とそばかすの姫」のことだとすぐにわかったけれど、
この映画に何の関心もない人だと、すぐには映画のタイトルだと結びつかない。
「竜そば」は、「モツレク」、「サキコロ」と同じである。
もとを知らない人にとっては、別のことをイメージさせてしまう。
モツレク──、
これを最初に知った時は、センス悪すぎだろう、と思った。
モーツァルトのレクィエムが、モツレクになってしまうのが、
日本の現状をあらわしている、といえるのかもしれない。
でも、こんな略称は、以前も書いているがひどすぎるし、
愛がまったくない、と私は感じている。
けれど、こんな略称を使う人にかぎって、
親しみをこめてなんですよ、とはほざく。
そんな親しみが愛なワケがない。
先日、寄った先のテレビで、オリンピックがやっていた。
女子の重量挙げだった。
選手が試技する。
その足下には、オリンピックのエンブレムがある。
それを見ながら、つくづく、このエンブレムでよかった、
盗作騒動の、あのエンブレムだったら──、
頭のなかでイメージを置き換えて、そうおもっていた。
野上眞宏さんの写真展では、音楽がつねにある。
今回の「ゆでめん」の写真展でもそのはずだし、
はっぴいえんどの音楽がかけられるはずである。
今回、会場に持ち込まれるのはKEFのLS50 Wireless IIとのこと。
あくまでも私のなかだけのことなのだが、
私にとってセレッションのUL6はセカンドスピーカーという印象が強い。
その点、LS3/5Aはメインスピーカーとしても鳴らせる、という印象があるから、
UL6とLS3/5Aの組合せを、あれこれ考えていくうえでも、
このことは最後まで私のこころのどこかにひっかかっている。
それは私だけなのか。
瀬川先生の組合せで、LS3/5Aは、かなりのグレードの組合せをつくられている。
アナログプレーヤーにEMTの928、パワーアンプにルボックスのA740、
これでLS3/5Aを鳴らす組合せをつくられているし、
それだけでなく、LS3/5Aにサブウーファーを足す組合せもある。
UL6がどんなにいいスピーカーであっても、
このスピーカーにサブウーファーを足そうという人はいるだろうか。
このサブウーファーのことだけでも、UL6とLS3/5Aの性格の違いがはっきりとしてくる。
LS3/5Aの組合せは、時として大がかりになってしまいがちだ。
実際にかなりのアンプで鳴らされている人もいる。
でもUL6はどうだろうか。
私のまわりに、UL6を鳴らしている人はいないし、
オーディオ雑誌や個人サイト、ブログ、ソーシャルメディアなどで、
UL6をそんなふうに鳴らしている人を見た記憶はない。
(その6)に書いている無線と実験の記事は、
facebookでフォローしている方による情報によれば、1980年10月号に載っている。
タイトルは「音質の最前線訪問」で、九回目で菱三電機(現・リョーサン)がとりあげられている。
リョーサンは数年前にヒートシンク事業から徹底している。
写真家・野上眞宏さんによるはっぴいえんどの写真集「ゆでめん」、
その発売にあわせて野上眞宏写真展「ゆでめん」が、8月3日から15日まで開催される。
9日は、ギャラリー休廊日。
場所は、ギャラリールデコ 東京都渋谷区渋谷3-16-3 高桑ビル 5F、
12時から19時までで、最終日15日は17時まで。
「ゆでめん」の発売は8月5日ですが、
3日、4日は先行発売される、とのこと。
入場料は1000円、入場制限あり。
野上さんは、基本的に毎日夕方ギャラリールデコにおられる予定なので、
野上さんのサインが欲しい方は、その時間帯にどうぞ。
2020年6月は、タンノイのコーネッタ、
2021年6月は、SAEのMark 2500を手に入れた。
ならば2022年6月はコントロールアンプの番だな、と妄想している。
Mark 2500と組み合わせたいコントロールアンプの筆頭は、
やはりマークレビンソンのLNP2である。
それもバッファー搭載のLNP2を使いたい。
とはいえ、LNP2の相場はかなり高い。
来年の6月、どういう状況におかれているのか。
買えるようになっているかもしれないし、まったく手が届かないのかもしれない。
LNP2こそ──、と思いながらも、
LNP2以外ならば、どのコントロールアンプをもってこよう、と違う妄想もしている。
Mark 2500と同時代のコントロールアンプなのか、
それとも少し新しい時代のコントロールアンプなのか。
Mark 2500の基本設計は、ジェームズ・ボンジョルノなのだから、
ボンジョルノ設計のコントロールアンプとして、GASのThaedraがある。
いい音が、きっと出てくるであろう。
でもThaedraは以前使っていた。
The Goldと組み合わせていた。
なんとなくなのだが、違うコントロールアンプを使ってみたい、
組み合わせてみたい、という気持がある。
そう思う理由のひとつとして、フロントパネルの質感の、両者の違いがある。
次に候補として浮ぶのは、スレッショルドのSL10である。
オーディオマニアを自認するのであれば、圧倒的であれ──、
というのは、私の本音だけれど、
人によっては、「圧倒的であれ」を変な方向へ誤解する人がいるようにも感じている。
オーディオマニアのなかには、自分を特別扱いしろ、といわんばかりの人がいる。
友人と電話で話していて、共通の知人のことが話題にのぼった。
共通の知人といっても、私は三十年ほど会っていないし、
連絡もとることはない。
特に親しかったわけでもないが、一度、その人の音は聴いている。
その程度の知り合いでしかない。
それでも、この人はほぼ無意識に自分を特別扱いしてほしがっている──、
そんなふうに感じることが何度かあった。
三十年以上前のことだから、若気の至りだったのかもしれない。
けれど、いまもそのようである。
友人の話をきいていると、なんにも変っていないんだなぁ、と思っていた。
特別扱いしてほしいんですか、と訊けば、そんなことはない、というはずだ。
本人は、まったく意識していないのかもしれない。
なのに、その人の言動は、特別扱いを暗に要求している。
圧倒的であれ、とは、そんなことではない。
ヒートシンクだけを比較するならば、
SAEのMark 2500とラックスのM6000の出力がどちらも300W+300Wとは思わない。
Mark 2500はファンつきの強制空冷であっても、
ここまでヒートシンクの物量が違うものなのか。
ずっと以前、無線と実験で、柴崎 功氏が、
オーディオ機器に欠かせない部品に関して、
国内のメーカーの技術者にインタヴューした連載があった。
ずいぶん前、1980年ごろだったと記憶している。
その連載でヒートシンクのメーカー(どこだったのかは忘れてしまった)の回があった。
いくつか記憶に残っていることがある。
よく出力が同じでも、A級動作とAB動作とではヒートシンクの規模が違う。
とうぜんA級動作のアンプのほうが大きなヒートシンクを必要とする──、
そんなふうに言われているし、そう思い込んでいる。
けれど、ヒートシンク・メーカーの技術者によれば、
アンプの動作(A級、B級)に関係なく、最大出力で決る、ということだった。
たっぷりのアイドリング電流のA級100Wのアンプ、
純B級といいたくなるほどアイドリング電流を流していない100Wのアンプ、
発熱量は一般的な使い方であればA級100Wのアンプのほうが多い。
だからこそ、A級アンプには大きなヒートシンクということになるし、
実際の製品も、ほとんどの場合がそうである。
ところが最大まで出力を出すことを前提とするならば、
アンプの動作方式はヒートシンクの大きさには関係なくなり、
最大出力の値こそが重要である、ということだった。
四十年ほど前の記憶だが、おおよそ、そんなことだったはずだ。
ちょうど、いまオリンピックの開会式をやっているところだな、
と思いながら書いている。
テレビのない生活をずっとしているから、
オリンピックも見る機会は、まったくといっていいほどない。
最後に、リアルタイムでオリンピックをテレビで見た記憶は、
1988年の男子100m走の決勝だった。
そのころはステレオサウンドに勤めていたから、
みなで仕事中にもかかわらずテレビを囲んで見ていた。
そんな私でも実家に住んでいたころは、オリンピックは大きな楽しみだった。
コマネチが登場した時は、学校に行けば、コマネチの話題で持ち切りだった。
みな昂奮していた。
そのオリンピックが終る。
昂奮も薄れてきたころに、アサヒグラフ、毎日グラフといった写真誌が、
オリンピックの特集号を出す。
ここで、また昂奮がよみがえってくる。
しかもテレビでは見れなかった競技の写真も、そこにはあるから、
オリンピックの余韻は、ここまで持続するだけでなく、少しだけといえ新たな昂奮もある。
それがいまはねぇ……、と書くわけではない。
二十年以上、見ていないのだから、書こうとは思っていない。
ただ、四年ほど前にも書いたことのくり返しなのだが、
そういった余韻が、いまの時代はほんとうに短い。
開幕までにこれだけごたごたのあった東京オリンピックでも、
閉会式を迎えてしまえば、さっと余韻も霧散してしまうことだろう。
こんなことを書いているからといって、
いまの私は余韻を充分に味わっているのかというと、
TIDALで音楽を聴く時間が長くなるにつれて、
あのころとは音楽の余韻の味わい方も、
知らず知らずのうちに変っていったことを感じている。
オリンピックを熱心に見ていたころは、聴きたいレコードをほいほい買えたわけではない。
聴きたくとも買えなかったレコードのほうが、多い。
一枚のレコードを、くり返し聴いた。
そうやって得られた余韻と、TIDALで聴いての余韻は、同じとはいえない。
TIDALで聴こうが、レコードで聴こうが、ようするにこちらの聴き方の問題であって、
TIDALに問題があるわけではないことはわかっている。
TIDALでは、どちらかといえは、まだ聴いたことのない人の演奏を聴く。
そうやって聴き続けたあとに、ふと往年の演奏家を聴く。
フルトヴェングラーでもいい、カザルスでもいい、グールドでもいい。
そういった人たちの演奏を聴くと、たしかに余韻があるのに気づく。
その余韻を聴き終って、楽しんでいることに気づく。