Archive for category 「介在」

Date: 6月 21st, 2013
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(その11)

オーディオは複合体・複合系であり、
そのことがオーディオをやっかいな存在にしていることへつながっているとともに、
だからこそ音楽と聴き手の間に介在することで、
オーディオは聴き手に、そこにあたかも「意思」が存在しているかのように受け取るのかもしれない。

Date: 6月 16th, 2013
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(その10)

オーディオが「介在」する人間関係なんて……、
と、なにかいびつな人間関係なのではないか、もろいのも当り前じゃないか、
そう思うのが、ごく自然なことなのかもしれない。

はたして、そうとばかりいえるのだろうか。

オーディオが「介在」していたから、長いつきあいだった、といえなくもないところがある。
オーディオがなかったら、もともと知り合うことすらなかったであろうし、
長いつきあいののなかで、一度も不愉快な感情を抱かないことがあるとも思えない。
いやなところ、みにくいところ、そういったところを感じたことは何度となくあった。

ということは知人にもあった、とみるべきだろう。
それでも、けっこう長い時間をつきあってこれたのは、オーディオがやはり「介在」してきたおかげである。

そうおもうと、オーディオが「介在」していからこそ、
音楽と、これだけ長い時間をつきあってこれたし、これからもつきあっていくのだろう。

オーディオの「介在」は、多くの人には邪魔なことでしかない。
音楽との間に介在するものが少なければ少ないほどいいのだとしたら、
大型で複雑なシステムを揃えるよりも、
iPodとヘッドフォン(イヤフォン)の組合せの方が、ずっと介在するものとしては小さい、といえる。
また少ない、ともいえよう。

もっとも、これもオーディオが音楽と聴き手のあいだに「介在」するという考え方である。

オーディオは邪魔モノなのか。
そう感じたことも、以前はあった。
けれど、いまは違う。

Date: 5月 30th, 2012
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(その9)

昨夜(その8)を書き終わった後、
眠りにつくまでのわずかのあいだに、
その知人と私のあいだにも、実はオーディオが「介在」していたのかも……、と、
そんなことを、ただぼんやりとおもっていたわけだが、
だとしたら、そこに介在していたオーディオとはなんだったんだろう、とも考えていた。

そこに答らしきものを見つけたいわけでもないから、
考えはじめたら眠りにつくのをさまたげるだけだから、それ以上深く考えることはしなかった。

Date: 5月 29th, 2012
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(その8)

私は、音楽と聴き手の間にオーディオをおいたわけだが、
だからといって音楽と聴き手のあいだの距離をオーディオが絶対的に支配していると考えているわけではなく、
この距離は、ほとんど聴き手の音楽に対する姿勢によって決ってくる。

そうやって決った距離を、途中に介在するオーディオがより引きつける(惹きつける)方向に作用するのか、
それとも文字通り介在することで距離が開いていくのか──、
実はこれも聴き手次第である。

私は音楽と聴き手を結ぶ線上にオーディオを置くから、
介在ということをことさら意識するのかもしれないし、
知人のように三角形の位置関係に配置するのであれば、オーディオは介在とは意識しないのかもしれない。

この話を知人としたときには、そこまで突っ込んだところまで話が発展しなかったから、
彼がどうオーディオの存在を捉えているのかははっきりしないが、
少なくとも「介在」というふうには捉えていない、とはいえるだろう。

それが知人のオーディオへの取組みであって、
介在とすることが私のオーディオへの取組みであるだけの話で、
それは、知人と私が、あるオーディオ機器を高く評価していた場合にも、
同じ価値観からの評価の一致とはいえないことにも連なっていく。

共通して、高く評価するオーディオ機器の数がどれだけ多かろうと、
その良さをふたりで話し合って共通するところがいくつあろうと、
それはオーディオ機器としての能力の高さ──、
つまりアンプならばアンプとしての、スピーカーならばスピーカーとしての能力、
性能の高さを確認しただけのことかもしれないし、これが客観的評価なのかもと思う。

その一方で、なぜ、このオーディオ機器を高く評価するのだろうか、とお互いに思っているところは、
知人にもきっとあるはず。
つきあいが長ければ、なんとなくその理由は頭では理解できたとしても、
あくまでもそれは頭での理解でしかなく、心からの共感ではない。

心からの共感なくして、どんなにつきあいが長かろうと、
結局どこかはかない、もろいだけのつきあいだったのかもしれない。

Date: 5月 28th, 2012
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(その7)

家庭で好きなときに好きな音楽を聴くためにはオーディオ機器が必要になり、
オーディオ機器が音楽と聴き手のあいだに介在することになる。
これは、これからさきどんなに技術が進歩していっても、オーディオ機器の「介在」がなくなることは、まずない。

音楽と聴き手の間に介在しているのはオーディオ機器だけではない。
そこには録音・再生のプロセスにともなうすべてのものが介在しているわけで、
ここで考えたいのは再生系におけるオーディオの介在であり、
再生系での音楽があり、聴き手がいて、オーディオ機器があるわけだが、
この3つの関係をどう並べるのか、以前、知人と話したことがある。

その知人はこの3つは三角形を形成する関係にある、という。
私は、というと、音楽と聴き手を結ぶ線の上にオーディオ機器が介在している──、
そういう位置関係にある、と話した。

どちらの考えが正しいのか間違っているのかではなく、これはその人のオーディオに対する考え方の違い、
オーディオを介して聴く音楽への考え方、というよりも接し方だろうか、その違いが表れてきただけのことだ。

ひとりは三角形(つまりは平面)を描き、ひとりは一本の線を描く。

私はオーディオ機器を、音楽と聴き手の間に介在すると位置づけてはいるが、
これはあくまでも「現状においては」ということであって、
望むのは、オーディオ機器は音楽の後に位置してほしい。

これも直線の関係である。

オーディオ機器は音楽の後にいて、音楽という風を聴き手に向けて興してほしい。
だが、実際には音楽と聴き手の間に、オーディオ機器はいる。

Date: 7月 13th, 2011
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(ヘッドフォンで聴くこと・続々続々余談)

恵比寿の店に、若い人が大勢集まるということは、
「若い人にオーディオが売れない」理由のひとつとして、
若い人たちはいい音でアナログディスクやCDを聴こうとは思っていない──、というのがあるはずだが、
これは当然のことながら、理由として使えない。

いい音で聴きたいと思っている若い人たちは、
どのくらいの数なのかははっきりしないが、やはりいる、ということだ。
ただ、その人たちが、「いい音」を自分のものとしたいと思っていないところに、
若い人たちにオーディオが売れない理由の核のようなものがあるのではないだろうか。

少なくとも私の世代までは、いい音で聴きたいという欲求と、いい音を自分のものにしたいという欲求は、
同じ意味のことだった。

それが若い世代の、機能的な音楽の聴き方をする人たちは、
いい音で聴きたい、と、いい音を持ちたい、出したい、とは必ずしもイコールでないどころか、
おそらく別のこととして受けとめているのかもしれない。

昔もいまも、レコードを聴かせてくれるところはあった。
ジャズ喫茶や名曲喫茶は、レコードそのものの価格が、相対的に他の物価よりも高かった時代、
当然それを鳴らすオーディオ機器も高価だったころのほうが、
いまよりも人は集まっていただろうし、時代に求められてもいたはずだ。
そして、そこでレコードを聴いた人の何割かが、自分でも、いい音を出したい、いい音を持ちたい、と思い、
オーディオの世界にはいっていった、と思う。

いまもそういう人は、若い世代にもいるのだろうが、絶対数が圧倒的に少ないのだろう。
だから、「若い人にオーディオが売れない」というふうに多くの人が思うようになった……。

ここまで書いてきたことが、どれだけ現状を正確に捉えているのかどうかは正直わからない。
まったく的外れなことを書いているのかもしれないが、それでも、ここまで書いてきたから浮んできたものがある。
ここから先、考えていきたいのは、主観的な聴き方と機能的な聴き方について、と、慾と欲、についてである。

Date: 7月 7th, 2011
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(ヘッドフォンで聴くこと・続々続余談)

「若い人にオーディオが売れない」は、この数年、耳にすることが多くなった。
どのくれい売れなくなったのか、正確なデータはおそらくないのだろうが、
オーディオに関わっている人たちに共通する印象として、
「若い人にオーディオが売れない」が広がりつつあるから、私の耳にもそのことが届いてきているのだろうか。

そういえば数年前に菅野先生から、
20代の若いオーディオマニアの方が、オーディオに関心のない友人・知人に、
「オーディオが趣味だ」ということを言えない、
そんなことを言ってしまうと、奇異な目でみられてしまうかもしれない──、
という話を聞いたことがある。

これはひとつの実例にすぎないけれど、
若い人の趣味として、関心事として、オーディオはそこに含まれていないのかもしれない。

これらのことを聞いていたから、喫茶茶会記の常連の方から聞いた、
恵比寿の店に若い人が大勢来ることと結びつかなかった。
「若い人にオーディオが売れない」のに、なぜ、この店には若い人が集まるのか。
そのことについて考えていたところに目にしたのが、大和田氏の記事だったわけだ。

機能的な理由で音楽を聴く、のであれば、
躍りたいからクラブで聴く音楽とも、ひとりで泣きたいからヘッドフォンで聴く音楽とも異り、
いい音で聴きたいから、と思ったときに、自分でいい音を出せるオーディオ機器を購入し調整して鳴らすよりも、
自分ではなかなか購入できそうにない高額なオーディオ機器で鳴らしている店に行き聴くことが、
機能的な音楽の聴き方、といえなくもない。

Date: 7月 5th, 2011
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(ヘッドフォンで聴くこと・続々余談)

教えてもらったは、恵比寿にもう1店舗、新宿に3店舗をもち、
そのいずれもがタンノイのレクタンギュラー・ヨークやB&Wのスピーカーシステム、
ガラードの301、マッキントッシュのアンプなど置いている。
どんな人がやっているのかはまったく知らない。
どんな雰囲気の店なのかも、ウェブサイトを見たぐらいで、それ以上のことは知らない。
どういう音が鳴っているのかも知らない。

他の店舗がどうなのかは知らないが、喫茶茶会記の常連の人に教えてもらった恵比寿の1店舗は、
若い人でにぎわっている、ときいた。
恵比寿、新宿、あわせて5店舗経営しているということは、どの店も繁盛していると思っていいだろう。

他の店舗がどうなのかは聞かなかったけれど、恵比寿の店は、音楽を聴くことを楽しむための店だ、と聞いている。
酒を飲んで騒ぐ店ではなく、私語が他の客の迷惑になるようだと注意を受けることもあるらしい。

こんな店があることは、うれしい。
でもどうにも理解できないのは、
昨日も書いたようにときには行列ができ、入店するのは待つこともある、ということ。
30代の若い人が、
いい音楽をいい装置(いい音、と書きたいところだが、行ったことがないので、あえて、装置と書く)で聴くことに、
そのために足を運び、そのためにお金を使う──、
そういう人がそんなに大勢いることに驚いた。

いま若い人に、オーディオが売れない、という話をよく聞いていたからだ。

Date: 7月 4th, 2011
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(ヘッドフォンで聴くこと・続余談)

誕生日を迎えてひとつ歳をとれば、友人・知人も同じように毎年ひとつずつ歳をとっていく。
いちばん若い友人も今年40歳になったということで、20代・30代の友人・知人がいなくなったから、
大和田氏の指摘を読むまで、そんなことになっていようとは思いもしなかった。

もちろん20代・30代でも年配世代よりもマニアックな聴き方をしている人もいるだろうから、
大和田氏の指摘は、大まかにみて、ということだろうが、
野々村氏からのツイートにも、「けっこうそういうところ、あります」と書いてある。
野々村氏は大学で教える方だから、同じようなことを実感として感じておられたのだろう。

野々村氏からもう1通ツイートをもらっており、
そちらには携帯電話の着うた、iPod、iPhone向けの配信によって、
アルバム単位ではなく曲単位で楽曲を聴くことができるようになったことが大きい」とあった。

川崎先生の「機能性・性能性・効能性」に刺戟をうけて、
オーディオにおける「機能性・性能性・効能性」について考えはいるし、
オーディオ機器を紹介するにあたっても、
この「機能性・性能性・効能性」をベースにしていくべきと考えはいたけれど、
機能「的」な音楽の聴き方、ということにはまったく考えが至らなかった。

大和田氏、野々村氏の指摘を読んでいて、思い出したことがある。
先月の公開対談で、四谷三丁目の喫茶茶会記にいったときのことである。
すこし早めに着き、何度か会ったことのある常連の方と話していた。

その彼が最近気になっている店が、恵比寿にあり、そこにはタンノイのオートグラフがあり、
マッキントッシュの古いアンプで鳴らしていて、壁には一面アナログディスク、
さらにステレオサウンドのバックナンバーもある、という話。

その店の客層は30代が中心で、ときには入りきれず並んで待っている、という。

Date: 7月 3rd, 2011
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(ヘッドフォンで聴くこと・余談)

週刊文春は毎号買っている。1ヵ月分たまったところでまとめて資源回収日に出すことにしている。
で、その前にパラパラとページをめくり、読み落としているところがないか、軽くチェックする。

6月2日号の書評(文春図書館)のページ「筆者は語る」に、
「アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップポップまで」の大和田俊之氏が登場されている。

そこには、世界的にみて珍しいこととして、
日本の年配世代はマニアックに自分の好きなジャンルの音楽を聴いてきた人が多く、
一方で、今の学生は、「泣きたいから」「躍りたいから」といった機能的な理由で、音楽を聴いている、とあった。

年配世代ははっきりと好きな音楽のジャンルがあり、今の学生はジャンルにとらわれず、
音楽を楽しんでいるということ、だそうだ。

大和田氏は1970年生れ、とあるから、年配世代と今の学生のあいだにいる世代ということになるのか。

「アメリカ音楽史」は、今日知ったばかりだから未読だが、
今の学生の機能的な音楽の聴き方、という指摘には、あれこれ考えさせられる。

私の周りに、「今の学生」はいないから自分で確かめようはないが、
大和田氏の指摘通りと仮定すれば、今の学生は機能的な理由で音楽を聴くわけだから、
聴く手段も機能的で、選択しているのかに、興味がわいてくる。

「躍りたいから」躍れる音楽を、躍れる場所(クラブ)で聴く、
「泣きたいから」泣ける音楽を、ひとりでひっそりとヘッドフォン(イヤフォン)・オーディオで聴く、
ということになるのだろうか。

こんなことを、今日Twitterに書いたら、野々村文宏氏からのツイートがあった。

Date: 3月 23rd, 2011
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(その6)

その1)で、疾走することによって、風が興る、と書いた。

そのモーツァルトの音楽を再生するスピーカーも、また風を興すものだと思う。
スピーカーから流れてくる音楽によっても、その音質によっても、
風の性質が変化してくる。

風量の違いがある。すーっと吹いてくる隙間風もあれば、台風のようなひじょうにつよい風もある。
湿り気の違いもある。からからに乾いた風もあれば、湿り気のある風にも、じとっと湿り気のある風、
うるおいのある風がある。
温度感も違う。肌につき刺さる風もあれば、暖かくつつみ込んでくれる風もある。

そう思うと、オーディオこそ、エアーコンディショナーではないだろうか。
部屋に澱んでいる「なにか」を吹き飛ばしてくれるものではあるように思う。

そんなふうに捉えたとき、バックグラウンドミュージックに対しての考えも変ってくる。

Date: 2月 4th, 2011
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(ヘッドフォンで聴くこと・その7)

この項の(その3)で、音楽を聴く、という行為は本来孤独なものである、と書いた。
言うまでもないことだが、孤立と孤独は同じではない。

孤立した聴き手と孤独な聴き手の音楽への接し方は、
そのままオーディオへの接し方の違いとなって反映されよう。

Date: 2月 4th, 2011
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(ヘッドフォンで聴くこと・その6)

日本で、東京で暮していると、建物のすぐ隣に別の建物があり密集している。
住宅地でも一戸建ての家のとなりにはマンションが建ってたりする。
都心に行けば、さらに高層マンション、高層ビルが建っている。

足もとはたいていアスファルトかコンクリート、といった固い地面。
それらに囲まれながら、の、あらゆる音にとり囲まれている。

こういう環境もあれば、360度見渡すかぎり地平線という広大なところに住んでいる人とでは、
日常の雑多な音は、まったく異っている。

それに同じような環境下でも、気候、とくに湿度が大きく違うところでは、やはり違ってくる。
たとえばカリフォルニアの湿度の低さは、日本に住んでいる者には想像できないほどで、
静電気によってスピーカーのボイスコイルが焼き切れることもめずらしいことではない、と聞いている。

そこまでカラカラに乾いた空気のもとでは、反射してくる音も直接伝わってくる音も、
高温多湿の日本とでは、どれだけ違ってくるのだろうか。

そういうふうに、われわれの周りにある音は、
まざり合っているというよりも、絡み合って存在しているように思える。

スピーカーから出てくる音も、そういう音と絡み合うことになる。
だから、スピーカーの音は、環境と切り離すことのできない性質のもの、といえ、
音と風土の関連性が生れてくるのかもしれない。

結局のところ、音も人の営みによって生れ出てくるものだけに、
スピーカーから、ヘッドフォンから出てくる音だけを、
人の営みによって生み出されてくる音と隔絶してしまうことは、もっとも不自然なことであり、
それは音楽を「孤立」させてしまうことになる、そんな気がする。

音楽を孤立させてしまい、その孤立した音楽を聴いている者も、また孤立してしまう。
それは、自分が住んでいる世界に対して、耳を閉ざしている行為に見えてしまう。

Date: 2月 3rd, 2011
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(ヘッドフォンで聴くこと・その5)

ノイズキャンセリング付のヘッドフォンで音楽を聴くということ、
ヘッドフォンから鳴ってくる音楽以外のすべての音を消し去って聴きたいということであり、
このことは、音楽以外には耳を閉ざしてしまっている──、そういう聴き方だと思う。

周囲の音いっさいに煩わされずに、音楽のみに耳を傾けることができるノイズキャンセリング付のヘッドフォンこそ、
もっとも純粋な音楽の聴き方、といも言える、──とは思えない。

去年の週刊文春に載っていた、たしか市毛良枝さんの記事だったと記憶しているが、
高齢のお母様のためによかれと思ってバリアフリーのマンションにいっしょに住むことにしたら、
なぜだが元気を失われていった。
で、ある時、以前住んでいた一戸建ての家に市毛さんが戻った時に、
ご近所の方々に「お母様はどうなされています?」と訊ねられた。

結局、市毛さんのお母様が元気をなくされていったのは、
高層マンションで周りの雑多な音がまったく聞こえてこない。
そういう環境によって、だということだった。
マンションから出られて、一戸建ての家に戻られて元気になられた、とあった(そう記憶している)。

一戸建てだと、ご近時の音も聞こえている、それ以外にも人が営むことによって生じる雑多な音が聞こえてくる。
そういう音を騒音だと捉えて、まったく拒否してしまうことは、どこか不自然な行為ように感じる。

われわれはありとあらゆる音に囲まれてて生きている。
たとえば50年前、100年前に比べると、われわれの周りにある音の種類は増えているはず。
そのわれわれをとり囲んでいる音こそが、いちばん時代を反映している音だと思う。

なにも不快なほど大きな雑多音の中で、音楽を聴け、といいたいわけではない。
ただ、周りにある音をすべて拒否した中で音楽を聴くことは、ほんとうに音楽を聴くことといえるのだろうか、
そしてほんとうに純粋な音楽の聴き方といえるだろうか。
そういう疑問がわいてくる。

Date: 1月 25th, 2011
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(ヘッドフォンで聴くこと・その4)

人間にとっての音の入口となる耳の穴は、真正面からは見えない。
斜め後ろからでない、見えてこない。

外耳がある、というものの、耳は目と違い、前面に対してのみ感知器官ではない。
人間の視野はそれほど広いものではない。
横にあるものを見たいときには、横を向く必要がある。

耳は360度、どの方向からでも、どちらを向いていても感知できる。

人間の得る情報量の大半は視覚から、ということになっているが、
その視覚が対応できる範囲は広くない。
それに目は閉じられる。

耳にはまぶたはない。寝ているときも、音を感知している。
つねに広い範囲の音を感知しているからこそ、人は察知することができるのではないだろうか。

そうやって生きてきている、その中で音楽を聴いてきている。

ところがノイズキャンセリング付のヘッドフォンばかりでの音楽の聴き方は、
その意味でまったく別もののではないかと思うわけだ。

スピーカーを通して聴くのと、ノイズキャンセリング付のヘッドフォンで聴くのと、
もしかすると、後者のほうが純粋に音楽を聴いていることになる、といえるのかもしれない。
どちらが優れた聴き方、という区別はつけるものではないのかもしれない。

それでも、前者と後者では、マーラーが作品に書きこんだ景色は、同じに観得るのか、という疑問は残る。

そして、マルチチャンネルと、これまでの2チャンネルとの違いも、
ここに書いたことと近いものがあるのではないだろうか。

2つのスピーカーのあいだにある「窓」は、マルチチャンネルではなくなってしまうのか、
それとも360度すべて窓になってしまうのか(そうなったら、それは窓ではなくなってしまう気もする)。