Archive for category 「介在」

Date: 10月 19th, 2019
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(その13)

音楽と聴き手のあいだに介在するガラスの例えが、
私のなかではしばらくして、瀬川先生が書かれていたことと結びついてきた。
     *
 二ヶ月ほど前から、都内のある高層マンションの10階に部屋を借りて住んでいる。すぐ下には公園があって、テニスコートやプールがある。いまはまだ水の季節ではないが、桜の花が満開の暖い日には、テニスコートは若い人たちでいっぱいになる。10階から見下したのでは、人の顔はマッチ棒の頭よりも小さくみえて、表情などはとてもわからないが、思い思いのテニスウェアに身を包んだ若い女性が集まったりしていると、つい、覗き趣味が頭をもたげて、ニコンの8×24の双眼鏡を持出して、美人かな? などと眺めてみたりする。
 公園の向うの河の水は澱んでいて、暖かさの急に増したこのところ、そばを歩くとぷうんと溝泥の匂いが鼻をつくが、10階まではさすがに上ってこない。河の向うはビル街になり、車の往来の音は四六時中にぎやかだ。
 そうした街のあちこちに、双眼鏡を向けていると、そのたびに、あんな建物があったのだろうか。見馴れたビルのあんなところに、あんな看板がついていたのだっけ……。仕事の手を休めた折に、何となく街を眺め、眺めるたびに何か発見して、私は少しも飽きない。
 高いところから街を眺めるのは昔から好きだった。そして私は都会のゴミゴミした街並みを眺めるのが好きだ。ビルとビルの谷間を歩いてくる人の姿。立話をしている人と人。あんなところを犬が歩いてゆく。とんかつ屋の看板を双眼鏡で拡大してみると電話番号が読める。あの電話にかけたら、出前をしてくれるのだろうか、などと考える。考えながら、このゴミゴミした街が、それを全体としてみればどことなくやはりこの街自体のひとつの色に統一されて、いわば不協和音で作られた交響曲のような魅力をさえ感じる。そうした全体を感じながら、再び私の双眼鏡は、目についた何かを拡大し、ディテールを発見しにゆく。
 高いところから風景を眺望する楽しさは、なにも私ひとりの趣味ではないと思うが、しかし、全体を見通しながらそれと同じ比重で、あるいはときとして全体以上に、部分の、ディテールの一層細かく鮮明に見えることを求めるのは、もしかすると私個人の特性のひとつであるかもしれない。
 そこに思い当ったとき、記憶は一度に遡って、私の耳には突然、JBL・SA600の初めて鳴ったあの音が聴こえてくる。それまでにも決して短いとはいえなかったオーディオ遍歴の中でも、真の意味で自分の探し求めていた音の方向に、はっきりした針路を発見させてくれた、あの記念すべきアンプの音が──。
     *
ステレオサウンド別冊「81世界の最新セパレートアンプ総テスト」の巻頭、
「いま、いい音のアンプがほしい」の書き出しである。

双眼鏡にはレンズが不可欠であり、
このレンズは、元はガラスであり、ガラスの形状を板から変えていくことで、
単なるガラス板では無理だったことを可能にする。
さらにレンズ同士を組み合わせることで、その性能を増していく。

レンズがあるからこそ、拡大してみることができるようになる。
《再び私の双眼鏡は、目についた何かを拡大し、ディテールを発見しにゆく》ことができる。

Date: 10月 18th, 2019
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(その12)

外部クロックが話題になりはじめたころだから、
もう十数年以上の前のことになる。

クロックの精度が上るほどに音の透明度が良くなる──、
どのオーディオ雑誌でも、どのオーディオ評論家でも、概ねそのようなことをいっていた。

音の透明度とは、音楽と聴き手のあいだにあるガラスに例えられてもいた。
クロックの精度が上っていくと、ガラスの透明度が増していく。

もうガラスの存在はなくなったかのように感じても、
さらに高精度のクロックを接続すると、
それまで、これ以上はないと思っていた透明度、
つまりガラスの存在を意識させなかった音が、
実はまだまだガラスの透明度は完全ではなかったことが感じとれるようになる。

理想は、もちろんガラスの存在を意識しないのではなく、
ガラスの存在がなくなること、のはずである。

それはスピーカーの存在が完全になくなってしまうこと、
アンプやCDプレーヤーの存在も完全になくなってしまうことを意味するのだとしたら、
私は、そこに一言いいたくなる何かを感じていた。

別項「続・再生音とは……(その29)」で書いていることが、ずっと頭にあるからだ。

瀬川先生が、熊本のオーディオ店で話されたことだ。

美味しいものを食べれば、舌の存在を意識する。
美味しいものを食べて、ほどよく満腹になれば、胃の存在を意識する。

空腹だったり食べ過ぎてしまっても胃の存在は意識するわけだが、
これは、悪い音を意識するのと同じことである。

人間の身体は不具合があっても存在を意識するが、
快感を感じても意識するようになっている。

瀬川先生はさらに、臍下三寸にあるものもそうだと話された。
臍下三寸にあるもの、つまりは性器である。

快感を感じている部位の存在を意識しない、という人がいるだろうか。

ならば、ほんとうに「いい音」とは、おもにスピーカーの存在、
さらにオーディオ全体の存在を意識することではないだろうか。
もちろん悪い音で意識するのとは反対の意味での意識である。

だから存在を感じさせない音は、
健康であるという意味であって、その先がまだあると考えられる──、
ということだった。

そのことがずっとあったからこそ、
ガラスの例えは、瀬川先生のいうところの健康な状態であって、
その先があるはずだ、
なぜ、誰もそこの領域に行こうとしないのか、と思っていた。

Date: 6月 21st, 2013
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(その11)

オーディオは複合体・複合系であり、
そのことがオーディオをやっかいな存在にしていることへつながっているとともに、
だからこそ音楽と聴き手の間に介在することで、
オーディオは聴き手に、そこにあたかも「意思」が存在しているかのように受け取るのかもしれない。

Date: 6月 16th, 2013
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(その10)

オーディオが「介在」する人間関係なんて……、
と、なにかいびつな人間関係なのではないか、もろいのも当り前じゃないか、
そう思うのが、ごく自然なことなのかもしれない。

はたして、そうとばかりいえるのだろうか。

オーディオが「介在」していたから、長いつきあいだった、といえなくもないところがある。
オーディオがなかったら、もともと知り合うことすらなかったであろうし、
長いつきあいで、一度も不愉快な感情を抱かないことがあるとも思えない。
いやなところ、みにくいところ、そういったところを感じたことは何度となくあった。

ということは知人にもあった、とみるべきだろう。
それでも、けっこう長い時間をつきあってこれたのは、オーディオがやはり「介在」してきたおかげである。

そうおもうと、オーディオが「介在」していからこそ、
音楽と、これだけ長い時間をつきあってこれたし、これからもつきあっていくのだろう。

オーディオの「介在」は、多くの人には邪魔なことでしかない。
音楽との間に介在するものが少なければ少ないほどいいのだとしたら、
大型で複雑なシステムを揃えるよりも、
iPodとヘッドフォン(イヤフォン)の組合せの方が、ずっと介在するものとしては小さい、といえる。
また少ない、ともいえよう。

もっとも、これもオーディオが音楽と聴き手のあいだに「介在」するという考え方である。

オーディオは邪魔モノなのか。
そう感じたことも、以前はあった。
けれど、いまは違う。

Date: 5月 30th, 2012
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(その9)

昨夜(その8)を書き終わった後、
眠りにつくまでのわずかのあいだに、
その知人と私のあいだにも、実はオーディオが「介在」していたのかも……、と、
そんなことを、ただぼんやりとおもっていたわけだが、
だとしたら、そこに介在していたオーディオとはなんだったんだろう、とも考えていた。

そこに答らしきものを見つけたいわけでもないから、
考えはじめたら眠りにつくのをさまたげるだけだから、それ以上深く考えることはしなかった。

Date: 5月 29th, 2012
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(その8)

私は、音楽と聴き手の間にオーディオをおいたわけだが、
だからといって音楽と聴き手のあいだの距離をオーディオが絶対的に支配していると考えているわけではなく、
この距離は、ほとんど聴き手の音楽に対する姿勢によって決ってくる。

そうやって決った距離を、途中に介在するオーディオがより引きつける(惹きつける)方向に作用するのか、
それとも文字通り介在することで距離が開いていくのか──、
実はこれも聴き手次第である。

私は音楽と聴き手を結ぶ線上にオーディオを置くから、
介在ということをことさら意識するのかもしれないし、
知人のように三角形の位置関係に配置するのであれば、オーディオは介在とは意識しないのかもしれない。

この話を知人としたときには、そこまで突っ込んだところまで話が発展しなかったから、
彼がどうオーディオの存在を捉えているのかははっきりしないが、
少なくとも「介在」というふうには捉えていない、とはいえるだろう。

それが知人のオーディオへの取組みであって、
介在とすることが私のオーディオへの取組みであるだけの話で、
それは、知人と私が、あるオーディオ機器を高く評価していた場合にも、
同じ価値観からの評価の一致とはいえないことにも連なっていく。

共通して、高く評価するオーディオ機器の数がどれだけ多かろうと、
その良さをふたりで話し合って共通するところがいくつあろうと、
それはオーディオ機器としての能力の高さ──、
つまりアンプならばアンプとしての、スピーカーならばスピーカーとしての能力、
性能の高さを確認しただけのことかもしれないし、これが客観的評価なのかもと思う。

その一方で、なぜ、このオーディオ機器を高く評価するのだろうか、とお互いに思っているところは、
知人にもきっとあるはず。
つきあいが長ければ、なんとなくその理由は頭では理解できたとしても、
あくまでもそれは頭での理解でしかなく、心からの共感ではない。

心からの共感なくして、どんなにつきあいが長かろうと、
結局どこかはかない、もろいだけのつきあいだったのかもしれない。

Date: 5月 28th, 2012
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(その7)

家庭で好きなときに好きな音楽を聴くためにはオーディオ機器が必要になり、
オーディオ機器が音楽と聴き手のあいだに介在することになる。
これは、これからさきどんなに技術が進歩していっても、オーディオ機器の「介在」がなくなることは、まずない。

音楽と聴き手の間に介在しているのはオーディオ機器だけではない。
そこには録音・再生のプロセスにともなうすべてのものが介在しているわけで、
ここで考えたいのは再生系におけるオーディオの介在であり、
再生系での音楽があり、聴き手がいて、オーディオ機器があるわけだが、
この3つの関係をどう並べるのか、以前、知人と話したことがある。

その知人はこの3つは三角形を形成する関係にある、という。
私は、というと、音楽と聴き手を結ぶ線の上にオーディオ機器が介在している──、
そういう位置関係にある、と話した。

どちらの考えが正しいのか間違っているのかではなく、これはその人のオーディオに対する考え方の違い、
オーディオを介して聴く音楽への考え方、というよりも接し方だろうか、その違いが表れてきただけのことだ。

ひとりは三角形(つまりは平面)を描き、ひとりは一本の線を描く。

私はオーディオ機器を、音楽と聴き手の間に介在すると位置づけてはいるが、
これはあくまでも「現状においては」ということであって、
望むのは、オーディオ機器は音楽の後に位置してほしい。

これも直線の関係である。

オーディオ機器は音楽の後にいて、音楽という風を聴き手に向けて興してほしい。
だが、実際には音楽と聴き手の間に、オーディオ機器はいる。

Date: 7月 13th, 2011
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(ヘッドフォンで聴くこと・続々続々余談)

恵比寿の店に、若い人が大勢集まるということは、
「若い人にオーディオが売れない」理由のひとつとして、
若い人たちはいい音でアナログディスクやCDを聴こうとは思っていない──、というのがあるはずだが、
これは当然のことながら、理由として使えない。

いい音で聴きたいと思っている若い人たちは、
どのくらいの数なのかははっきりしないが、やはりいる、ということだ。
ただ、その人たちが、「いい音」を自分のものとしたいと思っていないところに、
若い人たちにオーディオが売れない理由の核のようなものがあるのではないだろうか。

少なくとも私の世代までは、いい音で聴きたいという欲求と、いい音を自分のものにしたいという欲求は、
同じ意味のことだった。

それが若い世代の、機能的な音楽の聴き方をする人たちは、
いい音で聴きたい、と、いい音を持ちたい、出したい、とは必ずしもイコールでないどころか、
おそらく別のこととして受けとめているのかもしれない。

昔もいまも、レコードを聴かせてくれるところはあった。
ジャズ喫茶や名曲喫茶は、レコードそのものの価格が、相対的に他の物価よりも高かった時代、
当然それを鳴らすオーディオ機器も高価だったころのほうが、
いまよりも人は集まっていただろうし、時代に求められてもいたはずだ。
そして、そこでレコードを聴いた人の何割かが、自分でも、いい音を出したい、いい音を持ちたい、と思い、
オーディオの世界にはいっていった、と思う。

いまもそういう人は、若い世代にもいるのだろうが、絶対数が圧倒的に少ないのだろう。
だから、「若い人にオーディオが売れない」というふうに多くの人が思うようになった……。

ここまで書いてきたことが、どれだけ現状を正確に捉えているのかどうかは正直わからない。
まったく的外れなことを書いているのかもしれないが、それでも、ここまで書いてきたから浮んできたものがある。
ここから先、考えていきたいのは、主観的な聴き方と機能的な聴き方について、と、慾と欲、についてである。

Date: 7月 7th, 2011
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(ヘッドフォンで聴くこと・続々続余談)

「若い人にオーディオが売れない」は、この数年、耳にすることが多くなった。
どのくれい売れなくなったのか、正確なデータはおそらくないのだろうが、
オーディオに関わっている人たちに共通する印象として、
「若い人にオーディオが売れない」が広がりつつあるから、私の耳にもそのことが届いてきているのだろうか。

そういえば数年前に菅野先生から、
20代の若いオーディオマニアの方が、オーディオに関心のない友人・知人に、
「オーディオが趣味だ」ということを言えない、
そんなことを言ってしまうと、奇異な目でみられてしまうかもしれない──、
という話を聞いたことがある。

これはひとつの実例にすぎないけれど、
若い人の趣味として、関心事として、オーディオはそこに含まれていないのかもしれない。

これらのことを聞いていたから、喫茶茶会記の常連の方から聞いた、
恵比寿の店に若い人が大勢来ることと結びつかなかった。
「若い人にオーディオが売れない」のに、なぜ、この店には若い人が集まるのか。
そのことについて考えていたところに目にしたのが、大和田氏の記事だったわけだ。

機能的な理由で音楽を聴く、のであれば、
躍りたいからクラブで聴く音楽とも、ひとりで泣きたいからヘッドフォンで聴く音楽とも異り、
いい音で聴きたいから、と思ったときに、自分でいい音を出せるオーディオ機器を購入し調整して鳴らすよりも、
自分ではなかなか購入できそうにない高額なオーディオ機器で鳴らしている店に行き聴くことが、
機能的な音楽の聴き方、といえなくもない。

Date: 7月 5th, 2011
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(ヘッドフォンで聴くこと・続々余談)

教えてもらったは、恵比寿にもう1店舗、新宿に3店舗をもち、
そのいずれもがタンノイのレクタンギュラー・ヨークやB&Wのスピーカーシステム、
ガラードの301、マッキントッシュのアンプなど置いている。
どんな人がやっているのかはまったく知らない。
どんな雰囲気の店なのかも、ウェブサイトを見たぐらいで、それ以上のことは知らない。
どういう音が鳴っているのかも知らない。

他の店舗がどうなのかは知らないが、喫茶茶会記の常連の人に教えてもらった恵比寿の1店舗は、
若い人でにぎわっている、ときいた。
恵比寿、新宿、あわせて5店舗経営しているということは、どの店も繁盛していると思っていいだろう。

他の店舗がどうなのかは聞かなかったけれど、恵比寿の店は、音楽を聴くことを楽しむための店だ、と聞いている。
酒を飲んで騒ぐ店ではなく、私語が他の客の迷惑になるようだと注意を受けることもあるらしい。

こんな店があることは、うれしい。
でもどうにも理解できないのは、
昨日も書いたようにときには行列ができ、入店するのは待つこともある、ということ。
30代の若い人が、
いい音楽をいい装置(いい音、と書きたいところだが、行ったことがないので、あえて、装置と書く)で聴くことに、
そのために足を運び、そのためにお金を使う──、
そういう人がそんなに大勢いることに驚いた。

いま若い人に、オーディオが売れない、という話をよく聞いていたからだ。

Date: 7月 4th, 2011
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(ヘッドフォンで聴くこと・続余談)

誕生日を迎えてひとつ歳をとれば、友人・知人も同じように毎年ひとつずつ歳をとっていく。
いちばん若い友人も今年40歳になったということで、20代・30代の友人・知人がいなくなったから、
大和田氏の指摘を読むまで、そんなことになっていようとは思いもしなかった。

もちろん20代・30代でも年配世代よりもマニアックな聴き方をしている人もいるだろうから、
大和田氏の指摘は、大まかにみて、ということだろうが、
野々村氏からのツイートにも、「けっこうそういうところ、あります」と書いてある。
野々村氏は大学で教える方だから、同じようなことを実感として感じておられたのだろう。

野々村氏からもう1通ツイートをもらっており、
そちらには携帯電話の着うた、iPod、iPhone向けの配信によって、
アルバム単位ではなく曲単位で楽曲を聴くことができるようになったことが大きい」とあった。

川崎先生の「機能性・性能性・効能性」に刺戟をうけて、
オーディオにおける「機能性・性能性・効能性」について考えはいるし、
オーディオ機器を紹介するにあたっても、
この「機能性・性能性・効能性」をベースにしていくべきと考えはいたけれど、
機能「的」な音楽の聴き方、ということにはまったく考えが至らなかった。

大和田氏、野々村氏の指摘を読んでいて、思い出したことがある。
先月の公開対談で、四谷三丁目の喫茶茶会記にいったときのことである。
すこし早めに着き、何度か会ったことのある常連の方と話していた。

その彼が最近気になっている店が、恵比寿にあり、そこにはタンノイのオートグラフがあり、
マッキントッシュの古いアンプで鳴らしていて、壁には一面アナログディスク、
さらにステレオサウンドのバックナンバーもある、という話。

その店の客層は30代が中心で、ときには入りきれず並んで待っている、という。

Date: 7月 3rd, 2011
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(ヘッドフォンで聴くこと・余談)

週刊文春は毎号買っている。1ヵ月分たまったところでまとめて資源回収日に出すことにしている。
で、その前にパラパラとページをめくり、読み落としているところがないか、軽くチェックする。

6月2日号の書評(文春図書館)のページ「筆者は語る」に、
「アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップポップまで」の大和田俊之氏が登場されている。

そこには、世界的にみて珍しいこととして、
日本の年配世代はマニアックに自分の好きなジャンルの音楽を聴いてきた人が多く、
一方で、今の学生は、「泣きたいから」「躍りたいから」といった機能的な理由で、音楽を聴いている、とあった。

年配世代ははっきりと好きな音楽のジャンルがあり、今の学生はジャンルにとらわれず、
音楽を楽しんでいるということ、だそうだ。

大和田氏は1970年生れ、とあるから、年配世代と今の学生のあいだにいる世代ということになるのか。

「アメリカ音楽史」は、今日知ったばかりだから未読だが、
今の学生の機能的な音楽の聴き方、という指摘には、あれこれ考えさせられる。

私の周りに、「今の学生」はいないから自分で確かめようはないが、
大和田氏の指摘通りと仮定すれば、今の学生は機能的な理由で音楽を聴くわけだから、
聴く手段も機能的で、選択しているのかに、興味がわいてくる。

「躍りたいから」躍れる音楽を、躍れる場所(クラブ)で聴く、
「泣きたいから」泣ける音楽を、ひとりでひっそりとヘッドフォン(イヤフォン)・オーディオで聴く、
ということになるのだろうか。

こんなことを、今日Twitterに書いたら、野々村文宏氏からのツイートがあった。

Date: 3月 23rd, 2011
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(その6)

その1)で、疾走することによって、風が興る、と書いた。

そのモーツァルトの音楽を再生するスピーカーも、また風を興すものだと思う。
スピーカーから流れてくる音楽によっても、その音質によっても、
風の性質が変化してくる。

風量の違いがある。すーっと吹いてくる隙間風もあれば、台風のようなひじょうにつよい風もある。
湿り気の違いもある。からからに乾いた風もあれば、湿り気のある風にも、じとっと湿り気のある風、
うるおいのある風がある。
温度感も違う。肌につき刺さる風もあれば、暖かくつつみ込んでくれる風もある。

そう思うと、オーディオこそ、エアーコンディショナーではないだろうか。
部屋に澱んでいる「なにか」を吹き飛ばしてくれるものではあるように思う。

そんなふうに捉えたとき、バックグラウンドミュージックに対しての考えも変ってくる。

Date: 2月 4th, 2011
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(ヘッドフォンで聴くこと・その7)

この項の(その3)で、音楽を聴く、という行為は本来孤独なものである、と書いた。
言うまでもないことだが、孤立と孤独は同じではない。

孤立した聴き手と孤独な聴き手の音楽への接し方は、
そのままオーディオへの接し方の違いとなって反映されよう。

Date: 2月 4th, 2011
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(ヘッドフォンで聴くこと・その6)

日本で、東京で暮していると、建物のすぐ隣に別の建物があり密集している。
住宅地でも一戸建ての家のとなりにはマンションが建ってたりする。
都心に行けば、さらに高層マンション、高層ビルが建っている。

足もとはたいていアスファルトかコンクリート、といった固い地面。
それらに囲まれながら、の、あらゆる音にとり囲まれている。

こういう環境もあれば、360度見渡すかぎり地平線という広大なところに住んでいる人とでは、
日常の雑多な音は、まったく異っている。

それに同じような環境下でも、気候、とくに湿度が大きく違うところでは、やはり違ってくる。
たとえばカリフォルニアの湿度の低さは、日本に住んでいる者には想像できないほどで、
静電気によってスピーカーのボイスコイルが焼き切れることもめずらしいことではない、と聞いている。

そこまでカラカラに乾いた空気のもとでは、反射してくる音も直接伝わってくる音も、
高温多湿の日本とでは、どれだけ違ってくるのだろうか。

そういうふうに、われわれの周りにある音は、
まざり合っているというよりも、絡み合って存在しているように思える。

スピーカーから出てくる音も、そういう音と絡み合うことになる。
だから、スピーカーの音は、環境と切り離すことのできない性質のもの、といえ、
音と風土の関連性が生れてくるのかもしれない。

結局のところ、音も人の営みによって生れ出てくるものだけに、
スピーカーから、ヘッドフォンから出てくる音だけを、
人の営みによって生み出されてくる音と隔絶してしまうことは、もっとも不自然なことであり、
それは音楽を「孤立」させてしまうことになる、そんな気がする。

音楽を孤立させてしまい、その孤立した音楽を聴いている者も、また孤立してしまう。
それは、自分が住んでいる世界に対して、耳を閉ざしている行為に見えてしまう。